「…………」
一夏は、旅館の縁側に座っていた。
目の前に広がるのは、夜の海。
先ほどまで激しい戦闘が行われていたとは思えないほど、ほとんどの海域は静かだった。
ただ――。
一部だけは、未だに異常な姿を晒している。
海面が大きく波打ち、ところどころで光が揺らめいている。
《ミラー・リング》によって生じた異常。
それ以外は、いつもの海と変わらない。
「調子はどう?」
「ん?」
声に振り返る。
そこに立っていたのは――ヒュウガだった。
「……あぁ。問題ないよ」
一夏は笑って答える。
作戦開始前。
天羽は、ヒュウガを一夏のもとへ向かわせていた。
理由は単純。
今回の作戦で、一夏が白式改のリミッターを解除する可能性が高いと読んでいたからだ。
そして、その予想は――完全に的中した。
「……あんまり無茶はしない方がいいわよ」
「そうだね」
「…………」
ヒュウガが黙り込む。
「はぁ……」
やがて、大きなため息を吐いた。
一夏の表情には――反省している様子がまるでない。
「何よ、その顔」
「え?」
「『無茶したけど仕方なかった』って顔してるわよ」
「……まあ、実際そうだったし」
「開き直らないの!」
ヒュウガが呆れたように言う。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「貴女のコアが完成するまでは、無茶は止めておきなさい」
「……その口ぶりだと」
一夏がヒュウガを見る。
「もう少しで完成するってことかな?」
「……そういうところだけは鋭いのね」
ヒュウガは肩をすくめた。
「えぇ。そうよ」
一夏の表情が少しだけ変わる。
「そっか……」
霧。
それぞれの艦艇には、一つの《コア》が存在する。
その用途や容量は艦艇によって異なる。
そして――。
一定以上の性能を持つコアは、メンタルモデルを形成することができる。
重巡洋艦クラスともなれば、その条件を満たす。
一夏と簪に与えられたコアも、その領域に達していた。
だが。
二人が進めているのは、それだけではない。
「ユニオンコアの作成……」
ヒュウガが呟く。
「本当にいいの?」
「……」
「それはつまり――」
「もう決めたことよ」
一夏は海を見る。
夜の海。
その向こうには、霧の艦隊がいる。
自分がこれまで歩んできた場所。
そして――これから歩んでいく場所。
「私は――」
一夏は、自分の胸元へ手を当てた。
「霧の一人になる」
その言葉に、迷いはなかった。
「人間として生きることを捨てるってことよ?」
「分かってる」
「今までの身体も、全部……」
「分かってるよ」
それでも。
一夏は笑った。
「それでも、私は決めたの」
その笑顔を見て――。
ヒュウガは何も言えなくなった。
止めることなどできない。
彼女自身が選んだ道なのだから。
ただ――。
ヒュウガは、一夏を見つめ続けることしかできなかった。
◇
「…………」
薄暗い部屋。
窓から差し込む月明かりだけが、室内を照らしている。
二人の少女が、向かい合うように座っていた。
片方はグラスを傾ける。
もう片方も、静かに口を付ける。
「……そろそろ、白状したらどうだ?」
「さて、何のことでしょうか?」
月光が二人の姿を浮かび上がらせる。
織斑千冬。
そして――天羽琴乃。
千冬はグラスを置くと、窓の外を指差した。
「あれだよ」
その先にあるのは――。
未だ荒れ続けている海。
「…………」
天羽は小さく息を吐いた。
「一応、企業秘密だったのですが……」
「そういう問題じゃないだろう」
千冬の目が鋭くなる。
「《ミラー・リングシステム》」
「……それですか」
「ミラー・リングシステム?」
千冬が聞き返す。
天羽は静かに頷いた。
「えぇ」
そして、説明を続ける。
「霧の艦艇の中でも、超戦艦級だけが持つ特殊兵装です」
「……待て」
千冬が眉をひそめる。
「あそこにいたのは――」
「織斑先生の言う通りです」
天羽は苦笑する。
「本来であれば、あの海域にいる艦艇が使えるはずのない装備です」
「なら、なぜ……」
「実際に作動した」
天羽の声が低くなる。
「それが答えです」
千冬はしばらく黙った。
「……ミラー・リングシステムとは、一体なんだ?」
「対超重砲防御兵装です」
天羽はグラスを置く。
「そして――超重力砲を防ぐことができる、数少ない手段の一つ」
「超重力砲を?」
「はい」
天羽は窓の外を見る。
「原理は単純です」
「単純?」
「ワームホールを生成する」
千冬の眉が動く。
「ワームホール……?」
「えぇ」
天羽は淡々と説明する。
「超重力砲のエネルギーを別次元へ転移させることで、砲撃そのものをこの世界から消す」
「…………」
「ただし」
天羽は続ける。
「ワームホールを閉じる際、膨大なエネルギーが周囲へ放出されます」
「だから――」
「現在の海域です」
千冬は改めて海を見る。
荒れ狂う海。
そこには、普通では説明できない異常が残っている。
「ある場所では一次元」
「…………」
「別の場所では七次元」
千冬は絶句した。
「異なる次元空間が、まだら状に残っています」
「……そんなものが、現実に?」
「えぇ」
天羽は苦笑する。
「正常な状態へ戻るまで――数年単位で考えた方がいいでしょうね」
「…………」
千冬は黙り込んだ。
霧の技術力が、束を遥かに上回っていることは知っている。
だが――。
「ワームホールまで、兵器として扱うのか……」
「私ですら、実物を見るのは初めてでした」
天羽は静かに答えた。
◇
太平洋。
その海域を、一隻の巨大戦艦が航行していた。
超戦艦――ムサシ。
福音事件を終えた第一艦隊を率い、この海域から離脱していた。
もちろん。
撃沈されたアシガラも回収済みである。
その甲板。
一人の少女が、海を眺めていた。
織斑マドカ。
天羽によって亡国機業から連れ出された少女。
「…………」
夜風が吹く。
マドカは静かに海を見つめていた。
「お身体の具合はいかがですか?」
背後から声がする。
振り返る。
そこにいたのは――。
ムサシのメンタルモデル。
「問題ない」
マドカは立ち上がる。
「むしろ……凄く気分がいい」
そして。
マドカの身体を覆っていたISスーツが、光の粒子へと変わっていく。
「…………」
装甲が消える。
その代わり。
私服が構成されていく。
それは着替えではない。
ナノマテリアルによる――新たな構成。
「メンタルモデルっていうのは……凄いな」
マドカは自分の手を見る。
人間だった頃と変わらない。
指も。
腕も。
顔も。
何も変わっていない。
それなのに――。
もう、以前の自分とは違う。
「今なら……」
マドカは拳を握る。
「姉さんに勝てる気がする」
その言葉に、ムサシは何も答えなかった。
ただ、静かにマドカを見つめる。
マドカはもう――。
人間ではない。
肉体そのものを捨てた。
人間としての身体を情報へ変換し、《ユニオンコア》へと書き込んだ。
肉体ではなく。
情報として存在する生命。
霧のメンタルモデル。
その中でも――。
彼女は特別だった。
「人間から霧になった存在……」
ムサシが小さく呟く。
マドカは海を見つめる。
その瞳には、もう迷いはない。
「……そうだ」
織斑マドカ。
彼女は――。
世界でただ一人。
自らの意思で、人間という存在を捨て、霧となった少女だった。