――あの日。
私の「あの人」に、全てを壊された。
あの人は、私にとって目標だった。
追いかけるべき存在だった。
私がどれだけ努力しても届かない。
完成された美貌。
優れた頭脳。
常人を遥かに超えた身体能力。
そして、多くの人々を惹きつけて離さない魅力。
何を取っても、私より上。
どれだけ努力しても、決して追いつくことができない。
だから――私は諦めた。
あの人の背中を追いかけることを。
あの人を見ることを。
そして――同じ「更識」という名前を背負うことさえ、苦痛に感じるようになった。
そんな私に、声を掛けてくれた人がいた。
『なら、私の所に来る?』
あれは、私の専用機の開発が、とある事情によって大幅に後回しにされた時だった。
結局、自分で組み上げるしかなくなった私は、研究所で一人、黙々と作業を続けていた。
そんな私の背後に――。
いつの間にか、一人の女性が立っていた。
黒く長い髪。
白いドレス。
そして、どこか現実離れした雰囲気。
最初は、どこかの大企業のお偉いさんの娘か何かだと思っていた。
けれど――。
研究所員が、その人の名前を口にした。
『蒼き鋼の創立者……天羽琴乃』
その名前を聞いた瞬間、私は驚いた。
たった数ヶ月。
それだけの時間で、あらゆる業界の頂点へと駆け上がった怪物。
霧の襲撃によって世界中との海上交通が断たれ、日本もまた絶滅の危機に瀕していた。
そんな中で――蒼き鋼は霧に立ち向かった。
そして。
勝った。
誰一人として傷を付けることすらできなかった霧を相手に、蒼き鋼は勝利した。
それだけではない。
霧の技術すら手に入れ、蒼き鋼は圧倒的な存在へと成長していった。
そんな人物を前にして、私は思った。
『……天才には勝てない』
どれだけ努力したところで、天才には勝てない。
それは、既に決められていること。
覆すことのできない、残酷な真実。
――そう思っていた。
『そんなことは、ないですよ』
『……え?』
返ってきた答えに、私は驚いた。
何十年努力しても勝てなかった私に。
最初から全てを持っているように見えた天羽琴乃が――。
希望をくれた。
『この世に、完全というものはないのですよ』
『でも……』
『それは、貴女がまだ知らないだけです』
『…………』
『もし、力が欲しいのでしたら――』
天羽琴乃は、私へ手を差し出した。
『ついて来て下さい』
私は、その手を取った。
そして――手に入れた。
姉さんに勝つための力を。
◇
「久し振りだね……簪ちゃん」
「……っ」
その声を聞いた瞬間。
簪の身体が、びくりと震えた。
心臓が大きく跳ねる。
呼吸が浅くなる。
目の前にいるのは――姉。
更識楯無。
自分が追い続け、そして自分から全てを奪ったと思っている存在。
なのに。
どうして。
「……」
楯無は、まるで何事もなかったかのように笑っている。
どうして……?
どうして普通に話しかけてくるの?
貴女のせいで――。
私は、たくさんのものを失った。
自分自身すら、見失った。
なのに。
どうして貴女は、そんな普通の顔をしていられるの?
(分からない……)
頭の中が真っ白になる。
(分からない……分からない……)
呼吸が苦しくなる。
(どうして……?)
視界が揺れる。
(分からない……)
何度も、何度も同じ言葉が頭の中を回り続ける。
『落ち着きなさい』
その時。
打鉄弐式改の内部から、タカオの声が響いた。
『簪』
『……タカオ……』
『貴女のバイタルが急激に乱れているわ』
タカオは冷静に状況を分析していた。
だが――。
目の前に現れた「姉」という存在が、簪にとってどれほど大きなトラウマになっているのか。
それは、タカオの予想を遥かに超えていた。
『落ち着きなさい。今は私がいるわ』
『……ゴメン』
『謝る必要なんてないわ』
タカオの声が、簪の意識を繋ぎ止める。
『今は、目の前のことに集中しなさい』
『……うん』
簪はゆっくりと息を吐いた。
震える身体を抑える。
そして――目の前にいる姉を見据えた。
私は、何のために力を手に入れた?
何のために――霧の力を受け入れた?
「ねぇ……簪ちゃん」
楯無が口を開く。
「教えて」
その声には、困惑が滲んでいた。
「どうして……あなたが、あそこに所属しているの?」
「…………」
蒼き鋼。
その名前を口にするだけで、楯無の表情が曇る。
昔は、いつも自分の後ろを付いてきた妹だった。
もちろん、自分自身にも原因があることは理解している。
それでも――。
どうしても分からなかった。
なぜ、妹が蒼き鋼にいるのか。
「あそこは、あなたがいてはいけない場所なんだよ?」
楯無は必死に言葉を選ぶ。
「お願い……今すぐ、手を切って」
更識家の情報網を使っても、蒼き鋼の情報はほとんど掴めなかった。
そんなことは、今まで一度もなかった。
調べれば何かしらの情報が出てくる。
企業であれば、経営者、資金源、取引先、施設、関係者――何かしらの痕跡が残る。
なのに。
蒼き鋼には、それがない。
まるで――最初から、この世界に存在していないかのように。
だからこそ、楯無は危険視していた。
「そんな危ない場所に、あなたを置いておきたくない」
それは――姉としての、純粋な心配だった。
けれど。
「……それは無理」
「っ!」
楯無の表情が固まる。
簪は、まっすぐに姉を見つめていた。
「あなたは、何も分かっていない」
声は震えている。
それでも、言葉は止まらない。
「私が……どんな思いで、今まで過ごしてきたのか」
「簪ちゃん……」
「毎日、押し潰されそうだった」
拳を握る。
「何をしても姉さんには届かない」
「…………」
「頑張っても、頑張っても……ずっと比べられる」
そして。
「そんな私を――蒼き鋼の皆は受け入れてくれた」
簪の声に、僅かな温かさが混じる。
「何もなかった私に……たくさんのものをくれた」
自分の居場所。
仲間。
力。
そして――自分自身を肯定する理由。
「だから……私は、戻らない」
簪は言い切った。
もう、恐れる必要なんてない。
姉の背中を追い続ける必要もない。
誰かと比べられる必要もない。
私は――私だ。
「そう……」
楯無は俯いた。
その表情から、笑みが消える。
簪は気付かなかった。
その瞳の奥で――何かが壊れたことに。
自分の大切な妹。
その妹を、蒼き鋼が奪った。
天羽琴乃が奪った。
ならば――。
取り戻せばいい。
いや。
邪魔をするものを――全部、消してしまえばいい。
「だったら……」
楯無が顔を上げる。
そこに、先ほどまでの困惑はなかった。
「私が、全てを終わらせてあげる」
「……!?」
簪の身体が、びくりと震えた。
楯無は静かに構える。
「来なさい」
その声は、姉のものではなかった。
「貴女が手に入れたと言う力が――」
一歩。
「全て、まやかしだったということを」
さらに一歩。
「私が証明してあげる」
「…………」
簪は黙って、打鉄弐式改を展開する。
タカオもまた、戦闘態勢へ移行した。
姉妹が――互いに武器を向ける。
この時。
二人はまだ知らなかった。
この戦いが、ただの姉妹喧嘩では終わらないことを。
蒼き鋼と更識家。
霧と人類。
そして――世界そのものを巻き込むことになる。
後に人々が「開戦」と呼ぶことになる戦いが。
今――静かに始まろうとしていた。