準備よし
兼一が東京武偵校に入学してから一年が経った。入学した当初こそ27歳という年齢に見合わない若々しい見た目で驚かれていたが、持ち前の人当たりの良さで溶け込むことができた。同じクラスの生徒達は、年上とは思えない童顔からか気兼ねすることなく話しかけるなど、概ね良好な関係を築いていた。
また、兼一も10年近く前の高校時代を思い出しながら、この武偵校での生活を楽しんでいる。裏の世界ではその名を知らない者はいないほどに有名ではあるため、武偵を目指す生徒たちの中――特に上級生――でも当然『白浜兼一』の名前は有名であるが、兼一本人の姿を見るとただの同姓同名の人物だと断じてしまった。兼一も自分からすすんで達人であることを告げるつもりはないため、今現在教師陣を含めて気が付いている人間は皆無に等しい。
現在時刻午前6時50分。兼一は日課となっている走り込みをしている。ただし、その走り込みというのは普通ではない。
まず、兼一よりも一回り以上大きい地蔵を背負っている。両腕にも小さい地蔵がしがみついている。
次に、その尋常ではないスピード。時速にすると30キロ以上はあるだろうその速度で走っていたのだ。人間の出せる速さとは考えられない。しかも、まだ速度を上げることが可能であるのだ。つまり、マラソンの世界記録を大きく更新することができるのだ。
更にはその走行距離。午前4時から始めているこの走り込みはペースを落とすことなく行われているため90キロを優に超え、100キロに及ぼうとしている。
加えて走っている場所もふざけているとしか言えない。なぜなら『学園島』を囲う海の上を走っているのだ。ちなみに、水の上を走るには水を蹴った際の反発力が、自分の体重よりも大きくなることが必須条件だ。そんなこと並の人間にできるわけがないのだが、彼は並の人間ではなく達人という人外生物だ。
(うーん、やっぱり組手とか実践がないとなまるよね)
一般人からすればありえないことを成しているにもかかわらず、本人にしてみれば満足のいく出来ではないようだった。けれど、彼が高校時代から10年余り過ごしてきた梁山泊では、この程度軽く体をほぐすくらいのものなのだ。
「っと、そろそろ帰らないと」
時間を見て海上の走り込みを終え、陸地に上がり寮に戻るために再び走り出す。その速さは先程の比ではなく、5分と経たずに寮に戻った。
「あれ、白雪ちゃん。おはよう」
自室の前に武偵校のセーラー服を着た大和撫子――星伽白雪――が前髪を直しながら立っていた。急に声を掛けられたために一瞬肩を揺らしたが、声の主が兼一だと気が付くと柔らかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、兼一さん」
挨拶を返しお辞儀をする。その様は香るように洗練された物であった。
「ちょっと待っててね、今開けるから」
そう言って兼一が鍵を取り出し開けようとすると、内から部屋の扉が開かれた。
「お帰りなさい、兼一さん。白雪もおはよう」
兼一の同居人である遠山キンジが顔を出した。
「キンちゃん!」
花が咲いたような笑顔で、キンジを呼ぶ白雪。
「いや、白雪。前も言ったけど、その呼び方やめてくれないか」
幼少期の頃のあだ名で呼ばれたため、キンジは頬を僅かに朱色に染めながらそう答える。
「あっ……ごっ、ごめんね。でも、キンちゃんのこと考えてて、キンちゃんの顔を見たらつい、あっ、私また……ごめんね」
すると白雪は顔を青色に染めながらしどろもどろに謝罪する。
「キンジくん照れない照れない。いいじゃないかその呼び方。僕なんか『フヌケン』って呼ばれてたんだから」
腑抜けの兼一略してフヌケンとは兼一が高校一年生の一時期、宇宙人の皮を着た悪魔こと新白連合総督新島春男から呼ばれていた呼び名である。そんな過去を苦笑いを浮かべながら告げる兼一。
白雪の様子と相まってこれ以上何かを続ける気にはなれなくなり、キンジは扉の前を空ける。兼一は白雪に先を進める。部屋に入りながらキンジと白雪は、談笑のような言い争いをしている。
この二人は兼一が達人であることを知っている数少ないこの学園の人間だ。けれどその人の良さや、付き合いの長さから変に警戒や怯えたりすることなく年の離れた友人としていい関係を築けている。
「ただいま」
そんな様子をまぶしく見ながら、兼一は静かに部屋に入る。
「汗流してくるから先にどうぞ」
兼一はそう告げると風呂場に向かう。体の火照りを鎮めるように冷水を浴び、その後ぬるま湯につかりながら入念に時間をかけて体をほぐしていく。それが終わると瞑想を始める。
兼一の鋭敏すぎる聴覚に届く二人のやり取りが徐々に消えていく。
そうして20分程度の時間が経つと瞑想を止める。
「兼一さん、お邪魔しました。あと、迷惑かもしれないけど、冷蔵庫の中を見て朝ごはん作っておきました」
「いいよいいよ、ありがとうね。あと、気を使わせちゃってごめんね。それじゃ、また学校で」
白雪の声に答え、扉が閉まる音を聞くと湯船から上がる。着替えを済ませ脱衣所から出ると、キンジがPCに向かっていた。その様子を見ながら、兼一は白雪の用意してくれた朝食を食べる。
「いやー白雪ちゃんは良いお嫁さんになるね。キンジくんが羨ましいよ」
兼一のからかいの言葉にキンジがズッコケる。
「兼一さん、前にも言いましたけど白雪とはそんなんじゃないですよ。そもそも俺は――」
「はいはい、分かってるって。でもさ、いい加減受け入れた方がいいと思うよ、それ」
沈黙するキンジを余所に、兼一はテキパキと後片付けを済ませる。
「思うところが色々あるみたいだけど……もう時間ないよ」
時計は8時を告げようとしていた。
原作の章ごとに投稿していく予定です。
長いのはわけますけど。