棗は仰向けに寝転がっていた。己の部屋である。授業が終わって、特に寝るわけでも読書をするわけでも宿題をするわけでもなかった。彼らしくもなく、どこか気の抜けた表情で、天井を見つめ続けている。
不意に、視界が暗くなった。何かが落ちてくる――棗へ向かって。
あ、と思う間もない。高い悲鳴とともにそれが腹あたりに激突した。痛い、というよりも胃がひっくり返ったような感覚だった。一体何が落ちてきたんだ。
見えたのは、栗色の髪の少女だった。
「――蜜柑?」
不機嫌な目が、一瞬にして驚愕にとって代わる。忽然と消えてしまった少女。今はとらわれの身のはずの。
いたた、とうめいていた蜜柑が顔をあげる。棗を見て、にかりと笑った。
「ひさしゅうな、棗。いろいろ話したいけど、時間があらへんのや」
「なんでここに」
不意にばたばたと物々しい音がした。蜜柑が固まる。棗は窓の外を見やり眉をひそめた。黒服共が駆け回っている。かなりの数だ。本部の中から出てきて、ばらばらの方向へ散らばっていく。何かを探しているようだ。
「佐倉蜜柑が脱走した! 探せ!」
・・・・・・沈黙が、重い。
蜜柑が誤魔化し笑いをした。それで棗の追求を逃れられるわけがなかったけれど。
「し、しかたあらへんやないか。やることがあって」
「やること?」
「うん、やること」
蜜柑は詳細を語る気がないらしい。急激に膨れあがった不安が、棗を襲った。彼女の隠し事は、重大なことではないのか。それを自分たちに言わず、一人でやろうとしているのではないのか。
棗はそれに触れなかった。できなかった。代わりに、問うた。
「ここへ来た理由はなんだ。今井や流架じゃなくて、俺のところに来たのは」
「あんたを連れて行くためや」
言うなり蜜柑が棗の腕を掴む。一瞬の浮遊感を経て、2人は違うところへと瞬間移動していた。目の前にそびえ立つ建物を棗は見上げた。
「花姫殿・・・・・・?」
中等部校長の居所だった。男子禁制、校長が選んだ女子生徒――花姫達しか入れない場所に、なぜ?
疑問に答えず蜜柑は棗を連れてぐいぐいと進む。気が急いているのか一言の説明もなく腕を痛いほどに引っ張る。許可はもらっとるから、と遠慮なく足を踏み入れる。棗は初めて、花姫殿に入ったのだった。日本式の廊下へと出たかと思えば、ぐんぐんと進んでいく。それは地下へと向かっているようだった。傾斜のあるところや階段を幾つも経て、灯りの乏しい場所に出ていた。点々と壁に取り付けられた灯りが、前方の影を揺らした。仮面が白く、照らし出される。
「ペルソナ――? どうしてここに」
棗が敵意露わに一歩踏み出すのを、蜜柑が押しとどめた。
「ペルは味方やよ。ウチが脱出するのを手伝ってくれたし」
「こいつが?」疑わしげな声だった。「初校長のそばにいたんじゃあなかったのか。どうして急に味方になるんだよ」
「私は、蜜柑に対してわびねばならなかった。わびても足りない。これは償いの本の一部にすぎない」
淡々と言った後、ペルソナが蜜柑を見る。
「瞬間移動を使ってきただろう。こっちに来るのも時間の問題だ」
「平気平気。狙いはウチだけやろ。すぐここいなくなるんやし、棗達はここに保護してもらえれば」
「分かった。何かあっても心配いらない、私がここにいよう」
「よろしく。――ぱっぱと終わらせてくるから。それよりペルソナ、あの子はどこに?」
ペルソナがすっと身体をずらした。彼に隠れるように、もう一つ影があることに棗は気づく。着物を着た少女。目を会わせた途端、棗の身体が震えた。信じられない、とばかりに目を見開く。葵、と微かに動いた口が妹の名を呼んだ。
それに反応したのだろう、少女が首を彷徨わせた。おぼつかない足取りで一歩、二歩と歩く。三歩めでバランスが崩れた。
「葵!」
前のめりに倒れ込みそうなった身体を、棗が駆け寄って支えた。ほとんど反射的だった。少女の顔をのぞき込んだとき、自分と同じ瞳に光がないことに気づいた。濁った紅蓮の虹彩。
「あの時の火事か」
虚ろなそれで、葵は声を上げた人物を捜そうとする。
「そこにいるのは誰? 仮面の君、どこに・・・・・・」
ゆらゆらと動く彼女の手を、棗が掴んだ。両手で優しく、力強く包み込む。葵、と再三口にされたその響きは、懇願にも近かった。ずっとずっと探していた。あの火事の時以降、面会も許されず、居場所を教えられなかった。無事かどうかも分からなかった妹が、どんな容態であれ目の前にいた。
「――おにい、ちゃん?」
棗の手の中で、葵の手に力がこもった。
「彼女は記憶を無くしていた。お前と会ったことで、僅かに思い出してようだな」
そう言ったペルソナを棗は複雑そうに見上げた。彼こそが学園に来るきっかけを起こした本人だった。ある意味で初校長よりも憎い存在だった。その彼が、蜜柑に協力しようとしている。
「ほな、ウチ行ってくるわ」
その場に満ちた沈黙を蜜柑が破った。棗へと笑いかける顔は、何かが吹っ切れたように清々しかった。
「あんたに葵ちゃんを会わせることできたし。前言った手前、放りっぱなしは落ち着かんかってん」
「・・・・・・お前、何をするつもりなんだよ」
今引き留めなければ、蜜柑がどこかへ言ってしまう気がした。そんな棗の不安など知るよしもなく、彼女は笑顔のままだった。
「蛍たちに心配書けてすまへんって言っといてや」
「そんなの自分で言えばいい。――俺も行く。どうせまた一人であぶねぇことをする危難だろ」
「あんたは、葵ちゃんのそばにいてやらんと。兄ちゃんにいなくなられたら不安にさせてまうやんか。――それに、これはひとりでやらなあかんことや」
最後にぼそりとつぶやいたことは、棗やペルソナに届かない。ただ一人葵だけが身じろぎした。
「ほな、次会えたらな」
止める間もなかった。一瞬後には、彼女の姿は消えている。
揺らめく彼女の髪のみが、棗の脳裏に焼き付けられた。