日本という国の中央辺り。
周囲を山々に囲まれた盆地、チェス盤のような区画に分かれた人間の里。
その里から少し山間部に入った、人間が訪れるとは思えない場所に建つ、忘れられ廃墟になりかけている寺にアイギスの姿があった。
異国の衣服を身に纏い、異国の靴でコツコツと歩き、この地を回り始めて数ヶ月程が経った今、どうにか仮の住まいを見つけたようだ。
初めて足を踏み入れた出島からは随分前に離れていて、今はこの国のほぼ中央、とある山中の寺で屋根や壁の修繕をしながら居候として厄介になり、修繕の報酬として何かを教わり文字に起こしては首を傾げているらしい。
朽ちかけた縁側に腰を下ろして墨を麿っては筆を執り、ノタノタとぎこちない手つきで漢字を書いていく異邦人。教わった簡単な漢字を書き認めながら少し掠れている書物に目を通しているようだ、右腕で形の崩れた漢字を書いて左手で書物を開くアイギス。
寺らしく写経でもすれば上達も早いのだろうが、経典や経文、神や仏の教えといった生前から死後の事を考えたりする物には興味のない棺桶職人。
真剣な眼差しで目にする書物の中を覗いてみると、どうやら過去にこの寺で弔われていった者達の戒名が書かれているように見える。
「精が出ますね、少し休憩されてはいかがでしょう?」
アイギスの背後、本堂の奥から聞こえてきた柔らかな物腰だと感じられる声。
影が差す本堂の奥から日の当たる縁側へと歩みながら、真剣に書物を睨み、簡単な文字を起こしている異国の悪魔に向かい声をかける寺の御本尊様 寅丸星。
背負っている円を描いた衣とゆったりとした袖口をヒラヒラとさせながら歩み寄り、アイギスの隣で静かに立ち止まった。
書物から星へと視線を流すと丁度腰の辺り、虎柄の腰巻き部分が視界に入ってなんとなくだが親しい気分を覚えてしまう、捕食される側の黒羊。
羊も虎もこの国には本来いないはず、それなのに感じる親近感は干支に名を連ねている者同士だからだろうか?
アイギスが干支を知っているとは思えないが、星の方は知っているだろうし、以外とこんなどうでもいい理由で親近感が湧くのかもしれない。
「短期間で覚えようと頑張りたくなるのはわかりますが、根を詰め過ぎては身に付きませんよ?」
虎の妖獣から成り上がり、お付の物である鼠の妖かしとともにこの寺を二人で守り続けている元人食いの御本尊様。
背後からアイギスの手元を覗くくらいの、ほんの少しの体重移動だけでもギィギィと床が鳴り、星以上の体躯の者であれば踏み抜いてしまいそうな床から、修繕された縁側の上へとソロソロと歩き近づいてきた。
「お気遣いなく。新しい楽しみを知ったせいか、疲労感というものがあまりないので」
隣に立ち、両手を下腹の辺りで緩く組む姿勢でアイギスの手元を覗いている、この国の読み書きの先生。
書物の先生から教わった簡単な漢字を書いてみては、少し首を傾げて、どこか納得出来ないような顔で己の書いた漢字を見つめているアイギス。
東西南北や右左、上や下という、説明などでよく使いそうでこれから何処かへ行った場合に役立ちそうな漢字から教わっているようだ。
方角や方向、場所や地名なども同時に教えてもらいながら、自身の興味を惹いて離さない戒名の読み方や意味合いも聞いていて、珍しく真剣な表情をしているように思える。
大概は笑み、もしくは無表情というのが彼女の普段なのだが、聞く度に詳しく話して説明してくれる星の事は気に入ったらしく、真剣に話を聞いていた。
「今の書き方、筆順を間違えましたよ、先に『口』から書くのは違います」
「そのヒツジュンというのがどうにも、先に囲ってはいけない理由があるのでしょうか?」
『国』という簡単な漢字を教わり『口』を書いてから中に『玉』を書いたアイギスに対して、違うと述べる星。
アイギスの住まう地域ではあまり聞かない筆順・書き順という物、あちらの国では書いた人によって順序もバラつき、筆下手な者が書き留めるとミミズがのたくったような文字になる事も多い。商売柄文字を彫ることが多いアイギスはまだ綺麗な文字をかける方ではあるが、あちらの住人、例えとして出すと紅魔館の新しい住人となったパチュリーはあまり綺麗な文字を書くとは言えない。
汚い、雑、といった意味合いではなく、単純に彼女の文字は癖が強くて他者には読めないというだけだ…お陰で書き認めた魔導書も彼女以外では読み取れず、今までに一度も盗まれたりせずに済んでいるらしい。
「順序よりもそれに伴うモノ、美しさや書きやすさが大事なんですよ」
ふむ、と小さな声がアイギスの唇から発せられる。
言われた通りの筆順で『国』と書いてみると確かに少しだけ綺麗に見えるような、筆を走らせやすいような気がして、真剣な表情が少し綻ぶ。
「なるほど、確かに書きやすい気がします」
「因みに同じ棒線でも少し変わります、ハネや払いといいましてですね」
同じ縦三本の線を書いてこれだけでも漢字になりますと述べる星。
左だけを払いながら書いて『川』と読み、左右の線を短く真ん中の線を長く最後にハネさせて『小』と書いて読み上げている。
星の筆使いを目を細めて見つめては、それを真似るように動かしていくアイギスだが、綺麗に払ったりハネたり出来ず気に入らないと訝しんでいるようだ。
怪訝そうに眉根を寄せているアイギスを小さく笑って眺める星、寂れている寺にしては穏やかな空気が流れていた…が、使いに出ていた者が戻るとその空気が少し重くなる。
「ご主人、今戻ったよ。シーカー殿も毎回留守を預かってもらって済まないね、お陰で助かったよ」
胸元からペンデュラムを下げて大きなダウジングロッドを携える者。
そんな者から声を掛けられた星が、おかえりなさいナズーリンと返答を返している。
同じく声を掛けられたアイギスもおかえりなさいませと声を返していた。
「探しものは見つかりましたか? ダウザー殿」
「目的のモノ達は見つからなかったよ、それでも手がかりは見つけたんだ」
アイギスがこの寺に住みだしてから頻繁に失せ物探しに出て行く、ダウザーの小さな大将。
今回も数日ほど前から失せ物探しに出ていて、その度に星のうっかりに気をつけてくれと言い含めていくナズーリン。
2,3日ほど留守にしては、帰ってくる度に今日も見つからなかったと嘆いていた…のだが、今日はちょっとだけ明るい表情を見せて、手がかりとなるものは見つけたと主人である星に述べていた。
ナズーリンからの吉報を聞いて星も笑みを明るいものにさせていく。
二人とも何を見つけて嬉しそうな表情をするのか、少し気になり、筆を置いたアイギスがナズーリンに問掛けた。
「手がかりだけでも嬉しいとは、余程の事なのでしょうね」
「今まで何処を探しても見つからなかったのですが、今になって手がかりが見つかったのですよ、今日は良い日ですね」
アイギスの言葉を受けて答えてくれたのは、ナズーリンではなく明るい笑みでいる星。
星の返答を受けて、何か、長く探し求めていた物。
それの手がかりとなる何かをやっと見つけ出して、嬉しさを隠し切れないという表情を見せる星と。そんな嬉しそうな主を少し疲労感の見える顔で眺めているナズーリン。
嬉しそうな二人を見比べて、なんとなく話の流れを理解しその場の雰囲気に合わせてアイギスも幾分頬を緩ませる、小さく笑む口から宝の地図が見つかりなによりですと、それらしい例えを交えた言葉を二人に述べるアイギス。
星とナズーリン、二人の持つ力の名称だけを聞いていたアイギスからすれば間違えた祝辞でもなかったのだが、はっきりと物だろうと言い切ったその言いっぷりが星のナニカに触れたようだ。
財宝が集まる力を持つ星が宝の地図という言葉に引っかかるとは思えず、少しだけ困り顔になるアイギス。
「気に障ったなら大変失礼致しました。お二方のお力とこの国の別称から、てっきり金脈の地図でもお探しだったのかと」
「宝の地図とは少し違います、言うなればモノ違いですね。宝物ではなく、大事な者達の手がかりが見つかりました」
アイギスの住まう欧州では黄金の国などと呼ばれているこの国。
多大な金鉱山や鉱脈に恵まれて、貴族の住まう宮殿から果ては一農民の住まう農家まで、その全てが黄金で出来ていると言われていたはずの国。
小さな島国でありながら他国との関わりを絶ち文化を隠匿する国。
訪れてすぐに思い出した、以前に紅魔館で読んだ書物『東方見聞録』に記述されていたこの国に対する説明文。
その記述のほとんどが嘘まみれで、農家どころか宮殿すら黄金で造られてはいない、それどころか宮殿も農家も同じく木造で、貴族も平民も住まいのサイズが違うだけで然程変わらない。
この寺を訪れる以前に見てきた家々や町並みから、アイギスもその辺りの事はそれなりに理解し、少しのジョークのつもりで言ってみたが上手く噛み合わなかったらしい…
慣れない事を言うものではないなと、浅黒い頬を再度緩めて小さく苦笑していた。
「そう熱くなるなご主人、シーカー殿も謝らないでいいんだ」
大事な者達を物扱いされほんの少し熱くなった星を諌めて、アイギスにも謝る必要はないと、二人をとりなすナズーリン。
アイギスとは心安い間柄、とまではいかないが、少しの冗談を交えた世間話を言い合うくらいの仲にはなっており、今の会話も皮肉も嫌味も含まないアイギスらしい物言いだっただけとわかっているようだ。
逆に言えば、そんな感情が全く乗らない言葉が星からすれば嫌味っぽく聞こえたようだ。
「それに宝というのもあながち間違いじゃない、良縁は何よりの宝だよ、ご主人。この寺の皆に言うならそう悪くないじゃないか」
すっかり寂れた寺の本堂内を携えたロッドで指しているナズーリン。
指される先にはなにもなく、その周囲を見渡してみても、穴開きの屋根を修繕した跡や柱につく古い刀傷くらいしか見つけられないアイギス。
屋根の方はアイギスが少し手直しした物で、特に気になるような事はない。
気になるのは、時偶に星が振るっている槍の傷にしてはらしくない、斜めに奔るような、まるで誰かを袈裟斬りにするように奔る刀傷を見ていると、その傷を見ているアイギスに向かい星が少しだけ説明し始めた。
「その刀傷は昔の物です、以前に荒れた事がありまして…探している皆もその時に」
「ご主人、それは…」
「いいのですよ、変に誤解されるよりはずっといい。この寺には妖怪を匿う住職がいたのです、私も含めて皆慕っていたのですがある時にですね…」
途中まで話して言葉を詰まらせる星。
先ほどまでの明るい表情は沈んでしまい、浮かばない顔を見せる星に対して、話したくないのであれば、と中断し忘れてもいいという態度を見せるアイギス。
一気に沈んだ表情と、言い難い事を口にしているとわかる声色。
その大事な者達と何かがあって今は別れる事になった、そして悔やんでいる、なんてものがアリアリと分かりそうな態度を見せる星。
余程の鈍さでなければ容易に察する事が出来て、聞き出す気もないアイギスが話を逸そうと自分の方へと話題をずらした。
「穢れる者を嫌い憎み、力尽くで排除する、こういった事は何処にでもあるのですね」
「なにか思うところでもあるのかい?」
「私の国にも魔女狩りなるものがありまして、悪魔を崇拝する異端者が狩られては裁かれておりました。国が変わっても人間がやる事は変わらない、呆れる事しか出来ませんね」
会話していた星とナズーリンの二人から視線を逸らして、空を見上げるアイギス。
同じ様に少し見上げ、住まい兼店舗の窓から見上げていた黒煙、それと共に追われてきた、あどけない魔女を思い出し、感慨深いといった物言いをする崇拝される側の者。
そういえば木に吊るした者達や拷問器具を使った彼らはどうしただろうか、今頃は店舗の前に鎖に繋がれた白骨が下がっているのだろうかと、地元と呼びたい国の事を思い出していた。
「シーカー殿の親しい方も?」
「顧客が狙われ、夫婦で焼かれたようです。幸いにも御息女は保護出来たのですが、ご両親の亡骸は灰となり消えてしまっておりまして…旧知でありながら最後に弔う事も出来ず、少し申し訳なかった気もしています」
問いかけてきた星に返答し、空を拝むアイギス。
立ち入った事を聞いている、といった少し遠慮の伺える表情の星に対して淡々と話し空を眺めている。
アイギスの営む店舗内でパチュリーに言った、亡骸があるのなら弔うという言葉。
それを思い出して、弔う事も出来ずに申し訳なかったと伝えたようだが、星とナズーリンには別の意味合いとして伝わったようだ。
仕事柄他者を弔うというだけで、パチュリーの両親に対して何かの思いがあるわけではなかったのだが、両親や娘を思っての言葉だと捉えられたようだ。
「私の事は兎も角として、見つかると良いですね。人手が欲しいと仰るのなら私もお手伝い致しますので、その際にはいつでもお誘い下さいまし」
「客人に頼む事じゃないさ、気持ちだけ受け取っておくよ。それに仕入れた情報通りなら、今のシーカー殿では行けないような所のはずさ」
流水を渡れない吸血鬼でもなし、特に行動制限といった物がない悪魔に向けて、今のアイギスでは行けない所にいるのだと話す天部の使い。
毘沙門天代理、言うなれば神代理の星に使えるナズーリンが行けないという所などと言うのだから、天界や死んだ先の地といった事だろうか?
そうであるなら確かに行けない、というよりも行きたくはないと考えるアイギス。
「私では行けないとは? 天国や、この国で言うあの世といった所でしょうか?」
「忘れられた者達だけが行ける楽園、そんな呼ばれ方をされている地があるらしくてね。未だ崇められる君では行けそうにないだろう?」
なるほど、淑やかに笑んで頷くアイギス。
出身地から遠く離れた日本にいながらも、アイギスに向けて発せられる畏怖や恐怖といったモノが、未だ忘れられてはいないと示していた。
入国したその日に多数の目撃者の前で人を殺め顔色一つ変えなかった黒羊。
止めようとしてきた役人もスコップで断ち、出島から外へと向かい赤い水溜りを転々と残していった畏怖される者。
悪魔からすれば人を殺める等よくある事で気にしておらず、自身の行いから『忘れられる』とは真逆に向かう事になっている、そう考えてはいないようだ。
「ですが、寅丸様もダウザー殿も忘れさられるのは難しいのでは? 代理とはいえ神とその御使いなのでしょう?」
「この寺の惨状を見てもそう言ってくれるのですね、ありがたい事ですが現状を考えればそう遠くないうちに行けるようになる…そう思います」
「貴女方が忘れられるという事は…いえ、今は神でしたね、であれば完全に消える事もないのでしょう。そういったお話を聞いては厄介になっているのも気が引ける、今晩には出立するとします」
腰掛けていた縁側から立ち上がり、星とナズーリンにお世話になりましたと、生やすアモン角を深々と下げるアイギス。
会いたい者達の居所がわかったのだから早く行きたいと考えて当たり前、行くには忘却の彼方へと向かわねばならず、そうするには自分は邪魔だと結論づけたアイギス。
面を上げて内君的な笑みを浮かべると、お気遣い感謝と二人から謝辞を述べられていた。
短い間ではあったが、この国の事や語学を教えてくれて寝床まで用意してくれた二人。
その二人に対して返せる事が足早に去る事だけというのが歯痒いようだが、恩人が進みたい先へ行くには致し方なしと、この場での親切心の売り買いは諦めたようだ。
儲け心のある者らしく引き際はいい黒羊。
もしも後々で再会することがあり、その時に出来る事があるのなら、その時には誠心誠意返そうと、己と約束したアイギス。
忘却の楽園へと向かう者達に向けた約束など簡単に違えてしまいそうだが、折角結ばれた良縁という宝、富や名声といったものには関心を持たない黒羊が、誼を結んだ二人。
異国で出会った毘沙門天から縁という宝を授かりながら、無事に探し人と会えて仲も修繕出来れば良い。
修繕した縁側から離れたアイギスはそんな事を考えていた。