新学期が始まっていました。でも、その始業式の日、早紀は学校を休んでいました。だって、あんな寒い日に、びしょぬれだったのです。いったい何時間、あの電話ボックスの中にいたのでしょうか。
熱を出し、寝込んでしまったのもムリはないと思うのです。紀子さんは、つきっきりで看病していましたし、翔子ももちろん、毎日お見舞いに行きました。今日だって、始業式が終わってすぐに、早紀の家に駆けつけてきたのです。
「紀子さん、早紀の具合、どうですか」
あいさつもせず、いきなり上がり込んで、翔子は紀子さんにそう尋ねていました。その翔子に、紀子さんは、ちょっとだけ笑顔を浮かべました。そして、今、早紀は寝ているからと、翔子をリビングへと案内してくれたのです。
「大丈夫よ、熱はだいたい下がったから。それにね、」
「え?」
「あの子、少しずつだけど、話をしてくれるようになったのよ」
なんだか、嬉しそうな紀子さんでした。
あの夜、翔子が紀子さんを公園に連れて来たのは、早紀を見つけてからおよそ10分ほどでしたが、電話ボックスのドアを開けるまでには、たぶん1時間くらいはかかっていたんじゃないかと、そう思うのです。
というのも、そっとしておいて欲しいという早紀の気持ちを考え、翔子が紀子さんを引き止めたからです。それでも、夜中の公園に一人だけにするわけにはいきませんから、そばで見守っていたのでした。その甲斐あってか、しばらくして翔子がそっと電話ボックスのドアを開けたとき、早紀の涙は止まっていましたし、彼女も素直にそこから出てきたのです。
それからすぐに家に帰り、熱いシャワーで冷えた体をあたため、温かいスープを飲み、ベッドに入りました。その間、早紀は一言もしゃべろうとはしませんでした。熱が出たのは、朝になってから。
「もう大丈夫だからって、言うのよ。あの子」
「大丈夫って、何がですか」
「そこまでは、まだ。でも、気持ちの整理はついたからって。何か、とても悲しいことがあったみたいね」
そのとき、ピンと来たのが、水野くんのことでした。まさか、あんなに好きになった彼と別れたのでしょうか。それだったら、あの早紀の悲しみは理解できるような気がします。考えにくいことですが、彼にフラれたのかもしれません。
「あの、初詣に行ったときの男の子なんですけど」
「え? ああ、水野直樹くんのことね」
「はい。これは想像なんですけど、彼に失恋したんじゃないでしょうか。早紀、彼のことが好きだったみたいだから・・」
「かもしれないわね。でもね、もし失恋だったとしても、私はそれでいいと思うの」
ふっと、遠くを見るような紀子さんの視線。きっと、そのときの紀子さんの気持ちが表現されているのでしょうが、まだ翔子には、その意味を読みとることはできませんでした。
「女の子だもんね、失恋しながら成長していくのよ。流した涙の分だけ、キレイになれるんだと、私は思うの」
「そう、でしょうか」
「そうよ。翔子ちゃんには、好きな人っていないの?」
「わ、私は・・」
好きな人、このとき翔子には、いませんでした。水野くんにあこがれていた時期はあったものの、今では、水野くんは早紀の彼氏なのだという、印象しか持ってはいないのです。
「いないの?」
「ええ」
と、そこまでで、話は終わりでした。紀子さんは、仕事がたまっているからと、仕事部屋に行ってしまったからです。早紀が寝ているうちに、少しでも片づけておきたいからと。ならばと翔子も、それを機に、家に帰ったのでした。
その翌々日。ようやく早紀が登校してきました。でもまだ、どことなく元気がなさそうな雰囲気。案の定、1時間目の授業が終わると、まだ体がだるいから、2時間目は部室でサボってくると言い出したのです。ならば、部室よりも保健室に行った方がいいという翔子に連れられ、早紀は保健室へ。保健室にはベッドがありますから、そこに寝かせ、翔子はベッドの横にイスを持ってきて座りました。
そのとき、保健室の先生はいませんでしたから、翔子も、付き合うことにしたのです。
「いいの?」
「うん。早紀は、少し寝たほうがいいよ」
「そうだね。ね、翔子」
「なに?」
「せっかくだからさ、私の寝言に付き合ってよ」
「寝言に?」
「うん。寝言だよ、寝言」
そう言って、早紀は目を閉じました。そして寝返りをうち、翔子とは反対側の、壁に顔を向けました。それからしばらくして。
「お風呂にね、入ってたんだ」
早紀の声。でもこれは、寝言なのです。その寝言に返事を返すのはおかしいのかもしれませんが、翔子は、すぐさま言葉を返していました。
「お風呂?」
「うん。そしたらさ、シャンプーが切れてるんだ。それで取りに行こうと思ったんだ・・」
きっと、早紀だって話しにくかったんだと思うんです。だから、寝言なんてことにしたんでしょう。もちろん翔子も、それが分かっていますから、静かに話を聞いていました。
早紀の家では、買い置きのシャンプーや石けんなどは、浴室と玄関との間の収納スペースに置いてあります。だから早紀は、手早く体を拭き、バスタオルを体に巻き付けただけで浴室を出ました。
そのとき、母が電話している声が聞こえてきたんだそうです。もちろん、立ち聞きするつもりなどなかったのでしょうが、ちらっと聞こえたその内容に、足が止まってしまったのだと。
「誰? いったい誰と話をしているのって、そう思ったんだよ。大きくなったって誰のことなのって」
もう、翔子は何も言えませんでした。ただ、その話を聞くだけしかできませんでした。これが寝言だとするならば、それが正しい対応なのでしょうけれど。
「娘の友だちとして突然訪ねてきて驚いた、なんて言うんだよ、電話の相手にさ。それってさ、いくら考えてもさ、直樹くんしかいないじゃない」
早紀の声が、少し涙声になっているような気がしました。でも、相変わらず顔は向こうを向いたままですから、本当に泣いているのかどうかまではわかりません。
「電話が終わりそうになったから、あわててお風呂に戻って、そして・・」
湯船につかり、少し冷えてしまった体をあたためながら考えたこと。それが、水野くんが話してくれた転校理由だったそうです。早紀に言われるまでもなく、翔子もそのことが、頭の中に浮かんでいました。
水野くんの転校理由は、人捜し。彼には、幼い頃に両親の離婚のために別々となってしまった妹さんがいるのです。紀子さんの電話の話が本当だとするならば、水野くんの捜している妹さんは、すなわち・・
あまり考えたくは、ありませんでした。だって、早紀は、早紀と水野くんは・・
もちろん、はっきりと口に出して、水野くんのことが好きだと言ったことはありません。でも、その気持ちは明らかだと、翔子は思うのです。だって、彼といるときの早紀の嬉しそうな顔をみれば・・ 一緒に初詣にいくことになったんだと、はしゃいでいたあの早紀を見れば、誰だってすぐにわかると思うんです。
行くところまで行きついてしまった、その想い。それを、いまさら兄妹だと言われて、はいそうですかと、納得できるものなのでしょうか。
でも、冷静になって考えてみると、水野くんと早紀は、あまりにも親しくなるのが早かったとも思うのです。素直に引かれ合ったお互いの気持ち、それは、兄妹だったから。お互いの心が、すぐ近くにあったからなのかもしれません。
あれ? そういえば、早紀の声が聞こえてきません。
そーっと、早紀の顔を覗くと・・ どうやら早紀は本当に眠ってしまったようです。閉じられたその目は、やはり、少しだけ濡れているようです。
翔子は、早紀を起こさないように、そーっと保健室を出ていきました。
※
結局、早紀はお昼まで、保健室で寝ていました。休み時間ごとに様子を見に来ていた翔子は、ようやくお昼休みになって、早紀と顔を合わせたのです。このときの早紀は、あまりの寝坊に、照れたような笑みをみせてくれました。
なんにせよ、笑っている早紀を見るのは久し振りでした。その場にいた、保健室の先生が、翔子に言いました。
「もう大丈夫よ、ぐっすり寝たみたいだからね。きっと、睡眠不足がたまっていたのね」
「え? で、でも早紀は・・」
早紀は、ここ数日、熱にうなされていたとはいえ、ずっと寝ていたはずです。昨日だって、翔子がお見舞いに行ったとき、早紀は寝ていたのです。げげんな表情を浮かべている翔子に、保健室の先生は、なおも。
「だから、睡眠不足だったのよ。ね、岸本さん」
あれれ? 早紀とその先生は、何か話をしていたのでしょうか。なんとなくそんな気がしたものの、早紀が少し元気になったような気がして、翔子はほっとしていました。そして、一緒に部室へ。途中、売店で買ってきた菓子パンが、今日のお昼となりました。
「翔子にも、ずいぶん心配かけちゃったね。ごめんね」
「そんなことは、いいんだよ。でもさ、早紀」
翔子が見ていたのは、早紀の左手でした。その手首には、銀のブレスレット。クリソベリルの輝きが、早紀を悪魔の眼から守ってくれる・・ いまは、その輝きに全てを託すしかないのでしょう。翔子は、言おうとしていた言葉を飲み込み、別のことを口に出していました。
「なにか『せいじょう』の企画を考えようよ。早紀のイラストと私のエッセイだけじゃ、内容ウスイしさ」
『せいじょう』とは、文芸部が年4回発行している、部員たちの作品集です。次は、4月の入学式にあわせて発行する予定でしたから、まだ日にちはあったのですが、他に言う言葉が見つからなかったのです。
「そうだね。あ、私、小説書こうかな」
「え!? 小説を」
「うん。考えてみたらさ、国語の成績って、私のほうが翔子より上なんだよね」
小説を書くことと国語の成績に、やはり因果関係はあるのでしょうか。翔子には、そうは思えなかったのですが、早紀がどんなことを書くのか、興味はありました。
「どんな小説書くの?」
「まだ、わかんないよ。ふっと、そう思っただけだから」
どうやら、まだ具体的ではないようです。でも、まだまだ余裕はあるとはいえ、日にちの経つのは早いもの。すぐに締め切りなどがやってくるはずです。でも、そんな日数の経過とともに、早紀も元気になってくれるはず・・
そういえば、水野くんのことを忘れていました。早紀がこれだけショックを受けたことを、彼は知っているのでしょうか。早紀が妹であることに気づいたのでしょうか。知っているとすれば、彼も彼なりにショックを受けているはずです。翔子は、体育館に行ってみようと思い立ちました。昼休み、彼はいつもそこでシュート練習をしているはずなのです。
「そうだ、忘れてた!」
「どうしたの、翔子?」
「うん、あのね・・」
早紀を誘って体育館に行くわけにはいきませんから、なにか別の理由を付けようとした翔子だったのですが、そのとき、部室のドアがノックされたのです。誰か、来たようです。
返事を待たず、ガチャリと音を立て、ドアが開けられました。
「今、ちょっといいかな」
そこに立っているは誰でしょうか。早紀も翔子も、見覚えはありませんでした。
「あの、どうぞ、こちらへ」
「ありがとう。でもこのままでいいよ、生徒会長からの伝言を伝えに来ただけなんだ」
翔子がイスを進めたのですが、彼は、そう言って、1枚の紙を差し出しました。どうやら生徒会の人だったようです。
「今週末の土曜日、時間は13時で、場所は第2会議室。当日は、制服着用のこと。これが、伝言内容です。詳細はこの紙にも書いてあるんで確認しておいて下さい。それじゃ」
「あ、あの」
「なんです?」
「あの、これって・・」
「書いてあるとおりです。それじゃよろしく」
なんだか、愛想のない人でした。言うことだけ言うと、さっさと帰っていったのですが、考えてみれば、そのほうが有難かったのかも。
生徒会から連絡してきたのは、もう2カ月ほども延び延びになっていた、あの、城南からの入部希望者、青木佐智子さんとの話し合いの期日が決まったということでした。正直、そんな人がいたことはすっかり忘れていました。同じ学校だった水野くんに、彼女のことを聞いてみることすらも忘れてままになっていました。それは、早紀も同じだったようです。
「こんどの土曜か」
ぽつりと、早紀がそう言いました。
「都合、悪いの?」
「ううん、そんなことないけど、藤崎先生に、ちょっとね」
藤崎先生とは、保健室の先生のことです。いわゆる校医さんなのですが、やっぱり保健室で、早紀と何か話をしていたようです。そのとき、何か約束したんだと思います。
「じゃ、どうする、これ? 私が行ってこようか?」
「いいの? そうしてくれると助かるんだけど」
「オッケーだよ。たまには私も、部員らしいことしないとね」
部長は早紀でしたから、なにごとも、まずは早紀のところへと持ち込まれます。生徒会の用事もそうです。この会議は、基本的に文芸部は受け身の立場、つまり青木さんと生徒会との話し合いの場に立ち会い、その結果を見届けるだけなので、気が楽でした。だからこそ、早紀も、藤崎先生との約束を優先したんだろうと思うのです。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴りはじめ、早紀と翔子は、教室へと向かいました。
※
金曜日になっていました。早紀は、普段の彼女に戻っていました。よく笑うし、鼻歌交じりで絵を描いたりもするのですが、でも、それは表面上だけ。少なくとも、翔子はそう思うのです。きっと、紀子さんだってそう思っているはずです。
そのことを口には出せませんでしたが、でも、1日ごとに、あの夜のショックを乗り越えつつあるんだなと、そんな感じはしていました。
そうそう、その後の水野くんのことです。
実は水野くんは、冬休み以降、ずっと学校を休んでいるのです。だから、彼の様子はわからないのです。電話をかけてみてもいいのですが、なんなとくかけにくかったので、そのままになっていました。
でも、早紀の様子も含めて考えると、やはり水野くんは、妹さんの件を知っていると思うのです。気づいたんだと思うんです。彼も、いろいろ思うことはあったはずです。
放課後、早紀と翔子は、いつものように部室にいました。その部室に来客があったのは、たぶん5時ごろでした。
城南大付属高等学校の村野光一さん。彼が、その来客でした。
「悪いな、突然来たりして」
「ううん、平気ですよ。でも、どうしたんですか?」
受け答えをしているのは、早紀です。村野さんは、なんとなく話しにくそうな様子でした。
「最近聞いたんだけど、サチが・・ あ、いやあの、青木佐智子ってやつが、なんか、星城の文芸部に入りたいって入部届けを出したらしいんだけど、本当なのかな?」
「あ、それだったら・・」
チラと、早紀が翔子のほうに顔を向けました。その青木さんとの話し合いは、明日行なわれることになっています。
「それってさ、許可されるのかな。あいつ、星城の文芸部に入ることになるのかな」
「あの、そのことだったら、青木さんと話し合いをすることになってて、その結果待ちになっていますけど」
「話し合い?」
「ええ、こちらの生徒会と青木さんとで、入部の件を話し合うんです。明日、その会議があるんですよ」
「そうですか、それで見通しは?」
「たぶん、不許可になると思いますけど」
そのときの村野さんの表情は、複雑でした。がっかりしたようにも見えるし、喜んだようにも思えました。
「そうですか。まぁ、普通に考えたら、他校の部活に入れるはずないよね」
ふーっと、ため息。肩からも、力が抜けたようでした。訳のわからない早紀たちは、声をかけることもできず、ただ困惑しているだけでした。
「直樹がね、ここ数日、おかしいんですよ。あいつ、学校休んでるんじゃないですか?」
「あ、はい。新学期からずっと、お休みしてるみたいですけど」
これは、翔子が返事をしました。翔子は、水野くんの様子が気になり、体育館や彼の教室に、何度も足を運んでいましたから、彼が休んでいるのは知っていました。早紀は、そのことは知らなかったようですけど。
「やっぱりね」
「あの、そのことと青木さんのことは、なにか関係があるんですか」
「いや、それは・・」
なんだか、話しにくそうな村野さんでした。でも、彼が少しずつですけど話してくれたことをまとめると、おおよそ、次のようなことでした。
村野さんは、水野くんの実家からわりあい近いところに住んでいるそうで、冬休み、何度か彼に会い、話もしたんだそうです。それがある日、自分の部屋に閉じこもってしまい、村野さんが来てもドアを開けないときがあったんだそうです。
そのとき翔子が思ったのは、あの雨の夜のこと。早紀は電話ボックスのなかにいました。早紀がずぶぬれだったので、雨宿りのためにそこに入ったのだろうと思っていましたが、実は、水野くんに電話をかけていたのではないでしょうか。そして、その電話で、お互いが兄妹であったことを、確認しあった。そうは考えられないでしょうか。この仮定が間違っていたにせよ、少なくとも同じ時期、水野くんも早紀が妹であることに気づき、そして、かなりのショックを受けたことだけは間違いないようです。
「あいつには、好きな人がいたんだよ。好きな人ができたんだよ。嬉しそうに話してたよ。それでさ、正月にはその人の家におじゃましたらしいんだ・・」
早紀の顔色が変わりました。そして、眼を伏せたのを、翔子は、はっきりと見ていました。本当なら、良かったねと、そう言ってやれるのでしょうけど、言えるわけがありません。
「あいつの転校理由って知ってるかな?」
「え、ええ。聞きました」
早紀は黙ったままでしたから、返事をしたのは、翔子です。その答えにうなずいた村野さん。
「その人捜しの相手、つまり妹さんが見つかったらしいんだけど、その人がなんと、あいつが好きになった女の子だったんだ」
ガタッと音がしました。早紀が立ち上がったとき、イスが動いた音でした。そしてそのまま部室を飛び出していってしまったのです。あ然とする村野さんと、頭を抱える翔子を残して。
たぶん、これ以上聞いていられなかったんだと思います。涙を我慢する限界に来ていたんだろうと、そう思うのです。
村野さんは、驚いたような顔を、残った翔子に向けて言いました。
「あの人、どうしたんだろう?」
村野さんは、何も知らないのです。知っていれば、たぶん、早紀の前で話すようなことはしなかったろうと思います。早紀が、どのように気持ちに整理を付けて、以前と変わらぬ振る舞いができるようになったのかは、わかりません。でも、彼女の気持ちは、想像できるのです。
「たぶん、今頃、泣いてると思います」
「泣いてる!? どうして?」
どうしてって、それしか考えられないじゃないですか。きっと早紀は、水野くんに告白なんかしていないのです。水野くんだって、その気持ちを早紀に伝えたりしていないはずなんです。おそらく、あの初詣の日に、告白するつもりでいたのではないでしょうか。
そのチャンスは失われ、まだ、2人は思いを告げてはいない。まだ、恋人どうしじゃなかった。だから、早紀はこんなに早く笑顔に戻れたんだと思うのです。
でもいま、水野くんが早紀のことを好きなのだと知らされてしまえば、どうでしょうか。水野くんとはあの壁新聞を通して親しくなっただけなんだと、そう自分に言い聞かせ、無理矢理に納得していたんだとすれば・・
もう一度、気持ちの整理をやり直しに行ったんだと思います。たぶん、藤崎先生のところに。
「だってあの子が、早紀が、今、村野さんが言っていた女の子だからです」
「ええっ!」
よかった、彼が驚いてくれて・・
正直、翔子は、そう思ったといいます。驚いたということは、つまり、そのことを知らなかったということですから、知っていて、わざわざ言いに来るような、イジワルな人じゃないということになるじゃないですか。
「そうだったのか、悪いことしたな。でも、追いかけなくていいのかい? 大丈夫なのかい?」
「それは・・」
もちろん、不安がないと言えばウソになります。でも、藤崎先生だったらと、翔子は思ったのです。たぶん、保健室で寝ていた早紀を立ち直らせてくれたのは、藤崎先生・・ 悔しいけれど、自分ではありません。あのあとくらいから、早紀は笑うようになっていました。
あの日、翔子が休み時間ごとに様子を見に行ったときには、たぶん寝たふりをしていたのでしょう。そして、授業時間のあいだずっと藤崎先生と話しをしていたんだと思います。土曜日の約束だって、そのときにしたのでしょうから。
でもどうして、その相手が自分じゃなく、藤崎先生なんだろう・・ それが、ちょっぴり悔しかったとは、翔子の本音でしょう。
「少し、私の話も聞いてくれますか?」
翔子の言葉に、村野さんは、ゆっくりとうなづきました。それから30分ほどでしょうか。2人は部室で話を続けていましたが、とうとう早紀は戻ってはきませんでした。
やがて村野さんも帰り、翔子は、早紀のカバンなどを持ち、部室にカギをかけました。そして、保健室へ。まだ、明かりがついていましたから、たぶん、早紀はそこにいるはずなのです。
だからと、そのドアを軽くノックしてみました。それに応え、戸があきました。
「あの、倉田翔子ですけど」
「どうかしたの? 気分でも悪いのかな?」
「いえ、あの、早紀を迎えにきたんですけど」
「早紀って、もしかして岸本早紀さん?」
「はい」
なんとなく、話が通じていない気がしました。藤崎先生の表情も含めて。もしかして、早紀はここにはいないのかなと、チラッとそんなことが頭をよぎりました。
「岸本さん、今日は来てないわよ」
「そ、そうですか」
「ね、彼女、その後元気?」
「あ、はい。やっと笑うようになってくれたんですけど」
「けど? どういうこと・・」
早紀は、いない。では、どこに行ったのでしょう。やはり、あのとき追いかけていたほうがよかったのでしょうか。てっきり、藤崎先生のところにいると思ったのに、予想はハズレていました。
「いいえ、なんでもありません。それじゃ、失礼します」
「あ、倉田さん、ちょっと・・」
その藤崎先生の言葉は聞こえなかったのだと、そういうことにして、翔子は校門へと急ぎました。先生には申し訳なかったけれど、早紀のことが気になったのです。あと、早紀がいるかもしれないところといえば・・ 翔子は、そのまままっすぐに、あの公園へと向かいました。あの雨の日、早紀が電話ボックスのなかでひざを抱えて泣いていた、あの公園です。きっとそこにいるに違いないと思ったのです。
あわてて駆けつけた公園では、キィキィと小さな音を立て、ブランコが揺れていました。今度こそ、翔子の予想は当たっていたのです。
「早紀」
翔子は、そう声をかけ、早紀の乗ったブランコの隣に座りました。早紀から返事はありませんが、ブランコをこぐのはやめたようで、その振り幅がだんだんと小さくなっていきます。翔子はもう一度“早紀”と声をかけました。
「情けないよね、ちゃんと気持ちの整理もしたつもりだったのに・・ ダメだね、私って」
「そんなことないよ、早紀」
「ねえ、翔子。聞いてくれる?」
「うん」
ようやく、ブランコは止まっていました。話を聞けとは言うものの、早紀のその顔は、翔子とは逆の方向を向いていました。でも、声は聞こえてきます。
「私、好きな人がいたんだ」
「うん、知ってるよ」
「その人はね、とってもやさしくて、カッコよくて、親切で、かしこくて、明るくて・・ ちょっぴりトジなところもあるけど、いい人なんだ。私の話も聞いてくれるし、甘えさせてもくれる。ちゃんと怒ったりもしてくれるんだよ」
「そうだね」
「私ね、彼と会うたびに、話をするたびに好きになっていくのがわかるんだ。それこそ、1日たてば1日分、1時間たてば1時間分、好きになっていくのがわかるくらいにね。でもさ、この気持ちは、兄妹のそれとは違うものだと思うんだ。だったらさ、こんな気持ちを彼に対して持っちゃいけないんだよね」
翔子には、返事のしようがありませんでした。何を言ったらいいのか・・ ふと思い出したのが藤崎先生でした。あの人ならこんなとき、なんと返事をするのでしょう。
「あの雨の日も、こうしてブランコに乗ってたんだよ」
「そうなんだ」
「うん。そして、ずーっと考えてた。そしてあの電話ボックスをみたとき、気がついたんだ」
「何を?」
「まだ、彼に確かめてないってこと。もしかしたら、自分だけの思いこみで、ぜんぶ仮定の話で、本当は違うかもしれないんだってこと。だから、彼に電話したの」
やっぱりそうなのでした。あの日早紀は、雨を避けるために電話ボックスの中に入ったのではなかったのです。いま早紀の表情は見えませんが、きっと、悲しい顔をしているんだろうと思います。
「彼、私の話を聞いて、やっぱりそうだったのかって言ったのよ」
早紀の声は低く、小さな声でした。でも、周囲が静かな公園だったせいか、しっかりと翔子の耳に届いていました。
「彼、お母さんの顔はぼんやりと覚えてたみたいなの。でね、うちでお母さんに会ったとき、もしかしたらって思ったんだって。その最後の決め手が、私が立ち聞きしたあの電話だよ。ちょうど彼も実家に戻ってるときでさ。あの電話、彼も実家で偶然聞いてるのよ」
「そ、それじゃ」
お母さんに会ったときとは、つまり、あの大晦日の夜のことでしょう。初詣に行くため、早紀を誘いに来た、水野くん。あのとき紀子さんは、早紀が不機嫌になるほどにいろいろと水野くんに質問をしていましたが、それはきっと、水野くんのことを思い出し、確かめようとしていたのだと思います。
「つまり、電話していたのは、私のお母さんと彼のお父さん。もう間違いないんだと思う。私と彼は・・」
そのあとの言葉は、聞こえてきませんでした。早紀はうつむいたまま。そして、ゆっくりとブランコをこぎ始めたのです。それは、だんだんと勢いを増し、振り幅も大きくなっていきます。
静かな夜の公園に、キィキィと、ブランコのきしむ音だけが響いていました。
※
「すると、キミが代理ってわけだね」
「はい。ダメですか?」
「いや、かまわないよ。岸本さんが了解済みだというのなら、何も問題はないさ」
ここは、第2会議室。今日この場所で、生徒会と、城南から文芸部への入部申し込みをしてきた青木佐智子さんとが、その取り扱いについて話し合うことになっているのです。文芸部からは早紀が出席するはずだったのですが、藤崎先生と約束があるということで、今回は翔子が来ていました。時間は、約束の午後1時を迎えていたのですが、青木さんは、まだ来ていませんでした。
「城南の青木さんだけど、10分ほど遅れるそうだ。さっき、連絡があった」
なるほど、それでいないのかと、翔子は納得。でも、ずいぶんと忙しい人なんだと、思ったんだそうです。だって、この会議にしても、彼女の都合がとれないからと、もう2カ月ほども延び延びになっていたのですから。
翔子は、会議用に置かれたテーブルの、その端っこの席に座りました。早紀ならば、この会議は、あくまでオブザーバー的な立場であまり口を挟めないのだからと、遠慮して端にすわるのでしょうが、翔子がそうしたのには、別の意味もありました。
翔子は昨日、城南の村野光一さんと、話をしています。もちろん、青木佐智子さんに関する話題もありました。いま、翔子が端っこの席を選んだのは、その話を踏まえての判断なのでした。青木さんと、どのように関わっていけばいいのか。それが見えないうちは、あまり近づくのはやめようと、そういうことでした。
会議室の外から、声が聞こえてきます。どうやら、青木さんが来たようです。
「遅れてしまって、すみませんでした」
それが、青木さんの第一声でした。もちろん、城南大付属の制服をきた、その女生徒。身長は、早紀と同じくらいでしょうか。いや、ちょっと高いかも。手も足も、首やウエストも、全体的にほっそりとした感じを受けますが、スタイルの良さは感じられました。きっと華奢な体型なのでしょう。肩の位置まで延びた髪の毛は、クセのないストレート。大きな瞳にととのった顔立ちと明るい笑顔は、きっと城南では人気者なんだろうなと、そう思わせてくれました。
「どうぞ、こちらへ」
生徒会の人たちに案内され、彼女は、席に座りました。それは、生徒会の人たちの居並ぶ対面の真ん中。そこから1つイスを置いて右に翔子が座っています。青木さんを含め、そこにいる人たちの紹介が終わった後、会議は始まりました。
「それでは、始めます。えー、今回の件については、星城高校生徒会としては、すでに1つの方針を打ち出しています。まずは、それに納得していただけるかどうか、意見をお聞きしたいと思います。それで、生徒会の考えなのですが・・」
それは『他校の生徒の部活への入部は認めない』というものでした。これが正論というか、当然なんだろうなとは思います。また、早紀が提案していた『作品の投稿などによる相互の交流』についても、外部の部員的立場になるようなものは認めないとされました。もちろん、学校への出入りについても、同じです。
「なにか意見があれば、どうぞ」
それだけ言い終えてほっとしたのか、説明を終えた生徒会長は、椅子の背もたれにどっと体を預けていました。翔子は、青木さんがどのように返事をするのだろうと、チラと視線を向けたのですが、ちょうど、翔子の方を見ていた青木さんと眼が合ってしまいました。翔子の視線に気づいた青木さんは、微笑むと、すぐに生徒会長のほうに顔を向けたのです。そして。
「それじゃ、私から一言、いいですか?」
「どうぞ」
「正直言って、他校の部活動に入れるなんて考えてはいませんでした。ただ、星城高校は自主的な生徒会、自由な校風が有名ですし、もしかしたら可能性はあるかもしれないと、そう思って入部を申し込んでみたんですが、今のお返事をきき、今回のことはあきらめようと思います」
「そうですか。ご期待に添えなくて申し訳ないとは思いますが、納得していただいて、ほっとしました」
「あの、私も一言、いいですか?」
「どうぞ」
なぜか、翔子が手を挙げていました。何も言わないつもりで、ただ、この場に立ち会うだけのつもりだったはずなのに。その翔子に、皆の視線が集まります。
「青木さんがあきらめると言うのなら、私は何もいうことはないんですけど、でも1つだけ、青木さんにお聞きしたいことがあります」
「なんでしょう」
生徒会長は、何も言いませんでした。翔子に返事をしたのは、青木さんです。翔子は、青木さんに顔を向けました。
「ごめんなさい、1つって言いましたけど、やっぱり2つにしてもいいですか?」
「ええ、いいですよ。なんでしょうか」
「あきらめちゃって、いいんですか?」
「え?」
「そんな簡単にあきらめていいんですか。あなたの気持ちって、そんな簡単なものだったんですか」
「あの、どうしてそんなことを」
「だって、だって岸本早紀がここにいたら、きっとそう言うと思うから。だから、聞いておきたいんです」
早紀はいま、この場にはいません。翔子は、その早紀の代理なのです。だから、早紀なら必ず聞くであろうことを、まず彼女に尋ねたのでした。
昨日、文芸部の部室を訪ねてきた村野さんの話しを、早紀は聞いていません。だから早紀は、青木さんの文芸部入部についての事情は知りません。つまり、早紀がこの質問をするのは、翔子のそれとは違う意味からだろうと思います。その翔子にしても、昨日、村野さんが思うところを聞かされただけに過ぎませんから、彼女の本当の気持ちはわからないのですが、でも、この質問の答えによっては、何か分かるかもしれないと、そう考えていました。だから、自分が最初に聞こうと思ったことは後回しにし、まずこの質問をしたのです。
青木さんは、驚いたような顔をしていましたが、すぐに笑顔に戻っていました。
「あの、ひょっとしてあなた、村野くんに会った?」
「え? ええ、昨日少しだけ」
「やっぱり。彼、そんなこと言ってから・・ そうね、簡単じゃないです。少しでも可能性があるのなら、あきらめたりはしないほうがいいんですよね。あきらめればその時点で可能性はゼロになる・・」
「お、おいおい、ちょっと待ってくれよ」
これは、生徒会長です。青木さんがあきらめると言ったことで決着がついたはずの入部の件が、また話が戻ってしまうのではないかと心配してのことでしょう。チラと青木さんは生徒会長のほうを見ましたが、生徒会長がそれ以上何も言わないので、すぐに翔子へと視線を戻しました。
「私だって、ずっと悩んでたんですよ。せめて、つながりだけでも欲しかった・・ そんなとき見かけたのが、壁新聞。あ、これだって・・ だから、こちらの文芸部に入ろうと思ったんです」
「青木さん」
「でも、決めました。ありがとう、あなたのおかげだわ」
「私の?」
「うん。あなたがそう言ってくれたから、もう少しだけ、頑張ってみる気になれました。今後こそ、ほんとに最後。最後の最後の賭けのようなつもりで・・ 私、別の方法を考えてみます」
「別の方法?」
青木さんが話を続けたからなのか、生徒会長は黙ったままでした。どうやら翔子との話が終わるのを待つ気になったようです。
「きっと、最初からそうするべきだったんです。私の優柔不断のせいで、いろいろと迷惑かけてしまって・・ ごめんなさい。でも、もう決めました。うじうじと悩んでいるなんて、やっぱり私らしくないんです。ムリなのかもしれないけど、やるだけはやらないと、きっと後悔すると思うから」
「青木さん・・」
「もう一つ、質問があるんでしたよね。なんでしょうか?」
もう一つの質問。それは、翔子自身が青木さんに聞いてみたかったこと。でもその答えを、翔子は、すでに得たような気になっていました。『文芸部に入って何をするつもりなのか』というその質問は、翔子のなかでは『水野くんとのことをどうしたいのか』に置き換えることができます。というのも、昨日の村野さんとの話のなかで、青木さんが水野くんに思いを寄せていることを聞いているからです。
村野さんが“サチ”という愛称で呼んでいた、青木さん。たぶん彼女の思いも、早紀のそれに勝るとも劣らないはず。
その彼女が文芸部に入り、星城高校にも出入りするようになって、どんどんと水野くんに近づいていけば、早紀の気持ちはどうなるのでしょう。いや2人が兄妹だったことを考えるとそのほうがいいのかもしれないのですが、翔子には、まだ結論は出ていませんでした。
「それはもういいです。もう、返事はもらえたような気がするから」
「そうですか。それじゃ私、用事がありますのでこれで帰ります。いいですよね?」
たぶん、この話の内容は、生徒会の人たちには見えていなかったと思います。でも、今日の議題は、城南大付属高校の青木佐智子さんとの話し合いです。文芸部の入部に関して、生徒会の方針どおりの結論となったのですから、異論が出ようはずはありませんでした。
「それじゃ、これで終わりにしよう。どうも、おつかれさん」
ガタガタとイスを引く音とともに、皆が立ち上がりました。そして、会議室を出たのです。生徒会の人たちは、そのまま生徒会室へと向かったようですが、青木さんは、まっすぐに廊下を歩いていきます。すぐに帰るのでしょう。翔子も帰るつもりだったので、自然、青木さんのあとを歩いていくことになります。そして、校舎の外へ。
校門の外には、黒塗りの大きな車が止まっていました。よく、有名人なんかが、マスコミの前から去っていくときに使うような、そんな感じの車でした。少し距離をあけていたので、翔子が校門にたどり着く頃には、車は走り出していました。青木さんの姿も見えなくなっていましたから、たぶん、その車に乗ったのだと思います。
いったい、あの人はどういう人なのでしょうか。いつも忙しく、なかなか時間もとれないようです。今日だって、車を待たせ急いで帰ったみたいです。
そこまでのことは、村野さんから聞いてはいませんでした。ただ、彼女は水野くんのことが好きで、おそらくは彼に近づきたいがために、文芸部に入ろうとしているのだと。でも村野さんは、そのことを応援したい気持ちもあるのだそうです。
好きになった女の子が、なんと妹だった。ならば、その思いは兄妹としてのそれの範囲に収めておくしかない。力を落としたように見える水野くんを元気づけるための、新しい恋・・ 彼は、そう言うのです。でも、そんなことを考えていいのだろうか、青木さんを応援していいものだろうかと、翔子に聞くのです。悩んでいるのだそうです。
翔子にだって、そんなことはわかりません。返事のしようがありませんでした。でも、自分も同じ立場にいるのだと、そのことだけは実感していました。
とぼとぼとした重い足取りは、自宅ではなく、早紀の家に行く途中にある公園に向かっていしました。