『ナイスシュート!』
そんな掛け声が、何度も聞かれる体育館。目の前で繰り広げられている、上級生VS新入生のバスケットの試合。そのコートのかたわらで、真実はその試合に見入っていた。
新入生の練習参加、その初日に実技テストを兼ねた上級生VS新入生の試合を行うのが、毎年の恒例なのだという。この男子の試合の前には、真実や有紀子も参加しての女子部の試合も行なわれたのだが、15分だけのそのミニゲームでミスを連発し、すっかりしょげていた真実に、そのことを忘れさせるだけのインパクトのあるこの男子の試合。
もともと有紀子よりも実力的には劣る真実だが、その劣る実力すらも満足に発揮できずにおわった自分に比べ、あの浅香中の2人、特に背番号14のレギュラー選手だった工藤達也のプレイはすごかった。先輩にひけをとらないどころか、充分にそれを超えているのである。きっと受験やなんだで、しばらくバスケットから遠ざかっていたはずなのに、いきなり、あそこまでできるものなのか。
素直にスゴイと思った。そして、この場にスケッチブックがないことを、とても残念に思うのであった。ならば家に帰って印象的なシーンを思い出しながら描きとめるしかない。そのためにも、すべてをしっかりと目に焼きつけておくのだと、なおも一生懸命に試合を見つめる真実。
その日からしばらくは、授業と練習に明け暮れる毎日が続いた。あの上級生との練習試合の結果が反映してか、そこそこ活躍した有紀子はともかくとして、真実のバスケット部内での存在感は、中学時代と比べても、かなりとぼしいものと言わざるを得なかった。そのうえ、男女の別があるとはいえ同じバスケット部でありながらも、達也たちと会話らしい会話はできずじまい。せいぜい軽く挨拶する程度で、自分の存在が達也たちに認識されているのかどうかさえも疑わしいという、そんなもどかしい日々が続いたある日のことであった。
ガラッと音を立て、A組の教室のドアが開き、そこから達也が顔をのぞかせたのである。思わず緊張して身を硬くする真実であったが、もちろん真実を訪ねてきたわけではなく、『河上いるかぁ』という達也の声が耳に届いた。
河上とは、A組でのただ1人の真実の友だち、河上和美のことである。
「なによ、大きな声で。恥ずかしいじゃない」
「実は教科書忘れちゃってさ。数学持ってたら貸してくんないか」
「いいわよ、ちょっと待ってね」
「おう、悪いな」
ごく自然に会話を交わしている2人。どうして、あんなふうに話しができるんだろう・・ いくら同じ中学だったとはいえ、男の子と。しかもあの達也と気軽に会話をしている和美を、ちょっぴりうらやましく思う真実であった。ちょうどいい機会なのだし、自分も何か話しかければいいのだろうが、声がでない。達也は和美に教科書を借り、すぐに戻っていくに違いないのだからと、それを言い訳にして、じっと自分の席にすわったままだ。だが、事は真実の予想どおりには運ばなかった。和美も数学の教科書を忘れていたのである。
「へぇー、河上でも忘れ物をすることがあるんだな」
「そ、そりゃあ私だって人間だもん。でもおかしいなぁ。昨日、ちゃんと時間割たしかめたのに・・」
「しかたねぇ。他を探すよ」
「あ、ちょっと待って」
そう言って帰ろうとする達也を和美が呼び止める。そして真実のほうに顔を向けたのである。
「ねぇ真実ちゃん、良かったら貸してくれない?」
「あ、うん。いいよ」
和美にそう言われ、真実はあわてて数学の教科書を取り出したものの、その教科書を誰に渡すべきだろうかと、そこで、一瞬考えてしまう。借りに来たのは達也なのだから、達也に直接手渡しても、ちっともおかしくはない。というよりも、そのほうが自然である。そのついでになにか一言付け加えれば、達也に自分という存在を印象付けるきっかけになるかもしれない、とそこまで考えていながらも、真実は、教科書を和美に渡してしまうのである。頭でわかっていても、そのまま行動に移すことの難しさとでもいおうか。自分の気弱さから和美に渡してしまったのだが、もちろん、その教科書は次の瞬間には、達也の手にわたることになる。
和美は、そんな真実の性格を理解しているのかいないのか、達也に一言付け加えるのを忘れない。
「5時間目はうちのクラスが数学だからね。それまでにちゃんと彼女に返してあげてよ」
「わかってるよ。それじゃ借りてく。どうもありがと」
それでも真実は、教室を出ていく達也の後姿を見ながら、初めて達也と話をしたんだと、内心とても喜んでいた。だが、次の時間の授業が始まった頃になって、ようやく直接言葉を交わしたわけではないことに、それらはすべて和美という存在を介してのものだったことに気づく。しかも、直接話しをするチャンスがあったというのに、この結果である。
そのことに気づき沈んだ気持ちになったものの、今度こそ本当に達也と会話をする機会が、思いのほか早く訪れた。その日の昼休みのことである。真実の数学の教科書を達也が返しに来たのだ。そのとき和美がいなかったので、真実が直接受け取ったのである。
「助かったよ。あの先生、こういうことにはけっこううるさいからな」
「ほんとだよね」
「きみ、バスケ部だろ」
「あ、うん。ヘタクソの補欠だけど」
「そんなことないさ。いいコーチがいればすぐにうまくなるぜ。つまり、素質はバッチリとみたけどな」
「まさか」
と、そういって笑う。表面的には自然に笑えていると思うのだが、内心はドキドキのしどおしであった。今、話をしている相手は、男の子。男の子なのだ。そばに有紀子もいないのに、そんなことができるなんて、思ってもいなかった。しかも相手は、中学の頃からあこがれていた工藤達也。その彼を相手にして、まがりなりにもこうして会話ができているなんて、誰が信じてくれるだろう。奇跡以外の何物でもないような気がした。まさか夢、ということはないのだろうか。
「ほんとだぜ。きみには、いくつか欠点が目につくんだよ。それを直せばグンとよくなるし、あとは、走り込みだな」
「走り込み?」
「ああ、そうすりゃ身体がしっかり安定してくるだろ。体幹ってやつだよ。すべての基本はそこにある」
天地神明に誓って、達也とちゃんと話をするのは今日が初めてである。なのに、達也はこんなにも自分のことを見てくれていたのだと思うと、思わず顔が赤くなるのを感じる。だめ、赤くなっちゃだめ・・ それに、何か返事をしなくちゃ、会話が終わっちゃう。
「走ればいいの?」
「え? ああ、そうだな、練習の前にでも校庭10周くらい走ってみたらどうだい? 俺も毎日、走ってるんだぜ」
「そうなんだ。でも、10周ってどれくらいの距離?」
「うーん、あの広さだと、ざっと5キロ、いや4キロくらいか」
「そんなにあるの」
「まあ、急には無理さ。まずは2、3周くらいからはじめてみたらどう?」
「う、うん。どうしよ。やってみようかな」
それなりに会話ははずんでいるのだが、残念なことに真実の目線は、達也のそれと同じ高さまでいってはいなかった。少しうつむき加減のその視線は、せいぜい達也の胸のあたりをうろうろしているだけ。気持ちとしては、ちゃんと達也の目を見て話をしたいと思うものの、なかなか顔をあげることができない真実であった。達也のほうはそんなことは気にしていないのか、なおも話を続ける。
「じゃあ、さっそく今日から走るといいよ。思い立ったが吉日って言うだろ」
「う、うん」
「それがちゃんとできるようになれば、俺がコーチしてやってもいいぜ」
「ホントに」
「ああ、ただし、ちゃんと10周走れるようになったら、だぜ」
どうしよう、お願いしてみようかな・・ 気持ちは動く。そうすれば、わずかなりとも達也に近づけるじゃないか、とそう思ったときだった。思い切って顔をあげた真実の視線のなかに、有紀子の顔が映ったのである。まさか、話を聞かれていた?? その有紀子が、ゆっくりと2人のほうへ近づいてくる。達也も、そのことに気づいたようだ。
「俺、教室に戻るわ。じゃな」
「あ、うん。どうもありがと」
達也が帰ってしまうと、今度は、有紀子との会話である。こちらの会話のほうは、達也とのそれとは違い、これまで数限りなく繰り返されてきただけに、気持ち的には楽であった。しかし、その内容は・・
「こらぁ真実、いつのまに彼とあんな仲になったのよ」
「ち、違うってば。ただ、教科書貸してあげただけ。それを返しに来てくれたのよ」
「なんで彼が、真実に教科書借りにくるのよ」
「ホントはね、和美ちゃんに借りに来たの。でも、和美ちゃんもあいにく忘れてて」
「それで、あんたが貸してあげたわけね。うまいことやったじゃないの」
「だから、そんなんじゃないってば」
「けっこういい雰囲気だったじゃない。こりゃ、今日からランニングしないといけないよね」
その言葉に、ポン、と音でも聞こえてきそうなほどに、一気に顔が赤くなる真実であった。まさに、真っ赤と言ってよい。やはり、有紀子に会話を聞かれていたのだ。
そして、その日の放課後。真実は、なかば強制的に有紀子にグラウンドを走らされていた。もっとも、真実も走ってみようと思っていたので、とくにもめることもなく素直に走りだしていた。そういえば達也も毎日走っていると言っていたが、だとすれば、いま、同じグラウンドにいるのかもしれない・・ ふと、そんな気がして走りながら周りを見回してみるが、野球部員たちがいるだけ。野球部の女子マネージャーらしき人と目が合ったが、それだけだ。どこにも達也の姿はない。どこか、違うところを走っているのかもしれない
たとえ達也の姿がないとはいえ、このランニングだけはキチンとやらなければと、真実は真面目に走っていた。運動は苦手には違いないが、さすがに中学からバスケット部にいたこともあり、1周目でダウンということはなく、2周、3周とその距離は伸びて行く。だが、さすがに5周目ともなると途中で苦しくなり、ついに足を止めてしまう。ハアハアと荒い息のなか、ふと、グランドの右端にあるスタンドの一番上に達也がいるのに気づいた。まさか、ずっと見ていたのだろうか。
よし、ならばこの5周目だけでも最後まで、とばかりに、真実は再び走り出した。いったん止めた足はなかなか前に動いてはくれないが、それでもなんとか体育館の前まで。これでちょうど5周走ったことになる。ここまでとみたのか、有紀子も拍手で迎えてくれる。息は荒く苦しいが、なぜか、とても気持ちがよかった。そして、グランド右端のスタンドに目をむけたのだが、そこに達也の姿はなかった。
※
帰り道。通称サクラ公園の、その中ほどにあるお気に入りの散歩道を、真実は歩いていた。6月も下旬とあって、部活の帰りでもまだ明るさは残っていたし、街灯にも明かりがともっており、暗さなどは感じなかった。そのためか、ちらほらと、遊んでいる子どもたちの姿もある。
その並木道のまんなかあたりに置かれたベンチに、真実は腰掛けた。背もたれに身体を預け、少し上を見上げる。ちょうどそこからみえるひときわ大きなサクラの木が、このところの真実の話し相手であった。もちろん、相手がサクラの木であるから、返事を期待してのことではない。ただ、人に対しては言えない自分の気持ちというものを、独り言として語りかけるだけなのである。
今日の真実のサクラの木への報告は、あこがれの達也との会話、そしてグランドを5周も走れたこと、この2点であった。
いつもは、ゆっくり目に歩きながら、あるいはちょっとだけ立ち止まっての、サクラの木への報告なのだが、今日は、とりわけ長くなりそうなので、ベンチに座ってみたのである。それからおおよそ20分ほどかけて、真実の独り言は終わった。そして立ち上がり、帰ろうとする真実の背後から、声が。あわてて振り返るがそこに人影はなく、さっきまで遊んでいた子どもたちの姿も、いつのまにかなくなっている。ならば、気のせいか。だが真実は、たしかに声を聞いたと思っていた。“よかったね”と告げたその声を。
次の日も、部活がはじまる前に真実はグランドを走っていた。有紀子も一緒に走ろうかと言ってくれたが、それはご遠慮申し上げ、1人で走り出していた。このランニングだけは、なんとしても自分の力でやり遂げようと、そう思ってのことだったが、そのためハリキリすぎたのか、1周目はかなり早いペースとなっていた。しかも、それに気づかぬままに2周目へ。そして3周目となると、オーバーペースの影響が出始め、その日は4周でリタイアとなった。
次の日は、ペースに気を配ったせいか、初日と同じく5周を走ることが出来た。同じ5周ではあるが、初日に比べればずいぶんと楽に走れたような気がした。この分なら、明日はもう少し距離を伸ばせるかもしれない・・ と、そんな調子で、増えたり減ったり。このランニングがきっかけとなり、達也や、その親友である進藤栄作とも少しずつではあるが、話をする機会もでき始めていた。
そして7月3日。その日、真実ははじめて10周をクリアできたのである。あとは、これを持続せねばならない。達也にこのことを報告するのは、コンスタントに10周走れるようになってからにしたほうがいいに決まっているではないか。ということで、次の日も、その次の日も、真実は10周のランニングを続けた。そんなある日。
「ねぇ真実。そろそろいい頃だと思わない?」
「何が」
その日も10周を走り終え、息を整えている真実に、有紀子が近づいてきたのである。
「楽に10周走れるようになったみたいじゃない。ということは、だよ」
「だから、何がよ」
「おやおや、おとぼけですかぁ。らしくないわね、真実」
べつにとぼけているわけではない。有紀子の言っている意味がわからないだけである。いや、まったくわからないわけではなく、心当たりはある。10周走れるようになったらコーチしてやるといった、達也のあの言葉のことかもしれない、と内心ではそう思っているのだが、気恥ずかしさもあって、それを口に出すことをためらってしまったのだ。
「工藤達也、この名前を出せばわかるでしょ」
「あ!」
「真実の大好きな彼に、告白したらいいのよ。今なら、絶好のネタがあるんだし、言い出しやすいでしょう?」
「ちょ、ちょっと有紀子。何言い出すのよ、こんなところで。私は、べつにそんなこと」
「考えてないっていうの? だめだよ真実、彼のことが好きなんでしょう?」
「で、でも・・」
好き? やはりそうなのだろうか・・ そのとき、真実はそんなことを考えていた。たしかに気になって仕方のない男の子ではあるが、中学時代、レギュラー選手としてチームを力強く引っ張っていた達也にあこがれを抱いただけだったのではないか、などと考えてみる。彼の背番号は、補欠だった自分と同じ14だった。なのに、彼はレギュラー選手。そんなところに興味を抱いただけだったのではなかったのか。
「好きなんでしょう、彼が。だったら、ちゃんと言葉にすべきだよ」
なおも、有紀子はそう言うのである。たしかに自分の心のなかで達也は、中学の頃よりも何倍も大きなスペースを占めている。このところずっと彼のことばかり考えているし、話をしたいと思う。なにより、そばにいたいとも思っている。有紀子の言うように、あこがれがより強くなり、そして恋へ・・ となったのかどうか。ともかく、もう少し間をおいて、自分の気持ちを確かめてみたかった。
「どうなのよ、私はいい機会だと思うよ。きっと彼だって真実のことを・・」
「やめてよ。私はべつに、そんなことは思ってないんだから」
「え? 何言ってるの真実」
「だから、今のままでいいんだってば」
「真実、いいかげんにしなさいよ」
「有紀子・・」
表情はさほどではないが、有紀子の目は怒っているようだ。有紀子が怒ることなどめずらしい。たしか、小学校の頃に1度見て以来になるのではないか、と真実は思う。
「何年、あんたと付き合ってると思ってンのよ。真実が今、誰のことを思っているのかくらいわかるわよ。それとも、中学のときのあこがれは、まだあこがれのままで、恋になってはいないわけ?」
「そ、そうよ。そのとおりだわ」
「うそよ!」
有紀子の表情にそれまでわずかに残っていた笑みが、消えた。
「どうしてよ? 自分の思いを相手に伝えることは悪いことじゃないんだよ。たとえフラれたとしても、それも青春時代のいい思い出になるんじゃないの」
「いやよ。そんなことできないよ」
「どうして? なぜ? 私にはわからないわ。キライな人にムリヤリに告白しろって言ってるんじゃないのよ。相手は、真実が好きで好きでたまらない男の子なんだよ」
「だって、だって和美が・・」
「和美? それって河上さんでしょ。河上さんがどうしたのよ?」
ふと、口をついて出た和美の名。思い出されるのは、入学式の日“達也に手をだしちゃだめだ”とクギをさされた、あの言葉。真実は、まだあの言葉を鮮明に覚えていたのだ。
「まさか、河上さんも工藤くんのことが好きなの? それで遠慮しているわけ?」
「ち、違うよ。ただ、工藤くんには手を出すなっていわれてて・・」
「はぁ? なにそれ。そんなこと気にしてるわけ。それで、告白できないと」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、怖くて告白なんかできない」
「怖いって、何が。まさか、河上さんが?」
有紀子のなかでの河上和美の印象は、面倒見のよい、明るい女の子というイメージだ。だからこそ、あの真実が友だちに選んだのだろう。たしかに達也や栄作などと仲良さそうにしているところも何度か見てはいるのだが、でもそれは、どうみても友だちとしての関係にしか見えない。彼女の視線は、真実のそれとは明らかに違うのだ。好きな人を見る目ではなく、仲の良い友だちへと向ける視線。つまり、真実が気にするようなことではないはずだと、有紀子はそう思っている。
「彼女のことなら、気にしなくてもいいんじゃないの。私はそう思うよ」
「ダメだよ。和美を怒らせたらどうなると思う? 私には友だちがいなくなるんだよ。そんなのイヤだ。そのうえ告白して断られちゃったら、どうなると思う? 私はそれが怖いの」
「ちょっと真実、今のはどういう意味?」
「だから、工藤くんに告白してフラれたら・・」
「そのことじゃないよ。友だちがいなくなるってどういうことなのかって聞いてるの」
なんとも、話の方向がおかしな方へと向き始めたものである。真実としては、相手が有紀子であるから、自分の思ったことをそのまま素直に言えているほうなのである。これが、いま話題に出ていた和美を相手にしていたとするならば、この半分ほども言えなかったに違いない。なのにこのことが、結果的に悪い方向へと話が向かうことになろうとは、なんとも皮肉なことであった。
学校にもすっかり慣れた7月。達也に勧められたグランド10周も、ようやくコンスタントに走れるようになった。ならば、これを機会に達也に告白したらどうか、という有紀子。だが、真実は首をヨコに振った形となった。なによりも大きかったのは、告白して断られたときのことである。気弱な真実にとって、その影響は計り知れないものとなる。学校にくることすら、できなくなるかもしれない。それが怖くて告白などできないというわけだ。
加えて、和美の存在がある。入学当初に、達也に手をだしちゃだめだとクギをさされたあの言葉を、真実はいまだに覚えていた。そんな真実を有紀子はあれこれと励まし、告白させようとする。そんななか口をついて出た真実の“和美に嫌われれば友だちがいなくなる”との言葉には、もちろん『A組のなかで』と付け加えられるべきなのだが、ほんの一言足りなかったがために、有紀子の気持ちのなかから、いつもの冷静さ、落ち着きといったものを奪い取っていた。
「私はなんなの? 真実の友だちじゃないの? 真実は、友だちだと思ってくれてないの?」
「ゆ、有紀子、そういう意味じゃないってば」
「幼稚園の入園式の次の日からだよね。ハンカチ忘れて手がびしょぬれのままの私に、ハンカチ貸してくれたよね。一緒に遊ぼうって言ってくれたあの日から、私はずっと親友だと思ってきたんだよ。それなのに」
「私だってそうだよ、有紀子。だから、それとこれとは意味が違うんだってぱ」
「ううん、違わない!」
キッパリと有紀子は、そう言い切っていた。いつもの有紀子であれば、ちゃんと真実の話を聞いたのだろうが、このときはかなり頭に血がのぼってしまっていたらしく、真実の言葉を待とうとはしなかった。
「真実は、私なんかより河上さんのほうがいいのよね。なにせ同じクラスだもんね。違うクラスの私なんか、もう必要ないんだよね」
「違う、違うよ有紀子。誤解だってば。私はそんなこと思ってない」
「だったら、あんな言葉が出てくるはずない。ついさっき真実は、はっきりとそう言ったんだよ。彼女以外に友だちはいないって言ったんだよ。それならそれでいいよ。好きにしたらいいわ」
「有紀子・・」
「真実は私の言うことなんか聞こうともしない。だったら、私も真実の言うことはきかない。河上さんに聞いてもらったらいいのよ。じゃあ、私、練習に行くから」
「あ、待って」
「さよならっ!」
あっという間であった。クルリと向きを変えて走り出した有紀子の姿が、真実の視界から消えるまで、ほんのわずか。思いがけず口論となったあげくのこの結果に、真実は、どうしていいのかわからず、その場にしばらく立ち尽くしていた。
どうしてこんなことになっちゃんだろう・・ 次第に真実は、心細さを感じていた。小学校に入学して間もない頃、男の子に靴を隠され、下校できずに涙ぐんでいた自分をなぐさめ、一緒に探してくれた有紀子。どんなときでも、いつもそばにいてくれた有紀子。中学になったときも、一緒にバスケットやろうと誘ってくれた有紀子。その有紀子が・・
それからどれほど時間が経ったのか。部室へ戻った真実は、これから練習があるというのに、制服に着替え、学校をあとにした。有紀子と顔を合わせるのが辛かったのだ。
もちろん、これまでにも有紀子とケンカというか、いさかいは何度かあった。でも翌日になれば、有紀子はいつも、何事もなかったかのように自分に微笑みかけ、仲直りのきっかけをつくってくれた。だから、自分はそのときを待っていればよかった。そのときに、ごめんねと言えばいいのだと、そう言い聞かせるようにしながら、とぼとぼと家路をたどる。
まだ時間も早く、人通りや遊んでいる子どもたちの姿も多い、サクラ公園。その並木道の中ほどあたりで、真実は立ち止まる。
でも、あの有紀子の怒り方。なにか、いつもと違うような気がする。すべてとは言わないが、真実は有紀子の性格や言動など、そのパターンは理解しているつもりである。しかし今日の有紀子は、自分が知っているどのパターンとも違うような気がして、困惑するとともに、言い知れぬ寂しさに包まれていた。まさか、まさか、本当に有紀子は・・
“じゃあ、今度はあなたから”
え?
“先に”
私から? そうだ、今度は私のほうから・・ そうすれば、有紀子もきっと・・
よし、明日の朝一番で有紀子の教室に行こう。そして、ごめんねと、言うんだ。そうすれば、有紀子はわかってくれる。すぐに仲直りできるのだと、そう心に決めて歩き出す。だが、その足取りも、すぐに重いものに変わっていく。有紀子の最後の言葉が思い出されたのだ。“真実の言うことはきかない”と言ったあの言葉。はたして、有紀子は自分の話を聞いてくれるのだろうか。
・・どうしよう・・
まずは有紀子の薦めのままに、達也に告白するべきたろうか。そうすれば、有紀子とは仲直りできるかもしれないが、しかし、告白がうまくいくとは限らない。達也にはフラれ、和美には嫌われるという結果が待っているかもしれないのである。それでも、有紀子を失うことに比べれば、いや、そもそもこんなことは比べられるものではないはず。
いろいろなことが頭をよぎり、決められないままに翌日を迎える。こんなとき、有紀子と別のクラスでよかった、と思う真実である。少なくとも、気持ちがまとまらないうちに顔を合せなくてすむではないか。
だが、そのことからくる寂しさだけは否定することはできなかった。和美がいるとはいえ、もちろん、有紀子の穴をうめてくれるわけではない。和美には、他にもたくさん友だちがいる。和美がその人たちと話しているとき、自分は、何もすることがない。もちろん有紀子にだってたくさん友だちはいるが、有紀子は、どんなときでもいつも自分のことを見てくれていた。気にかけてくれていた。
そして放課後。
真実は、グランド脇の斜面に作られたスタンドに腰かけ、スケッチブックを広げていた。なんとなく、バスケット部にも顔を出しづらく、かといって、帰宅するには時間も早いので、風景でもスケッチしようかと、ここに来ていたのだ。
ここからは、野球部がグランドで練習している様子がよく見えたこともあり、3日もたつと、同じ風景のスケッチに飽きたのか、真実は、野球部の様子をスケッチするようになっていた。そんな真実の後ろ姿を、少し離れたところからじっと見ている人影。
有紀子である。ああして怒ってはみたものの、彼女もまた、真実のことが気になって仕方がなかった。陽気で友だちも多く人気者の彼女であったが、それでもやっぱり一番の友は、真実なのであった。真実と話もできないことが、これほど辛いだなんて思ってもいなかった。
スタンドに座って、たった1人で絵を描いている真実。いま、彼女が何を考えているのか、どんな気持ちでいるのかぐらい、付き合いの長い有紀子には、手に取るようにわかる。寂しいのである。そしてもちろん、有紀子も。
一声かければ、仲直りできる・・ これまではそうだった。でもいま、有紀子のなかにその自信はない。真実の言った“友だちがいなくなる”という言葉が、有紀子からその自信を奪ってしまったからである。真実は、自分のことを友だちだと思ってはいない。だったら、仲直りなどしてくれないかもしれないと、そんなことを考えてしまうのである。
でもあの後ろ姿は、どうだろう。本当に、真実があの言葉を言ったのだろうか。なぜ真実は、あんなことを言ったのだろう。その日有紀子は、そんなことを考えながら、バスケット部の練習のために体育館へとむかった。
そして、翌日。
またもや有紀子が、グランド脇のスタンドへと歩いて行く。そこには、やはりスケッチブックを広げた真実の姿がある。この日、有紀子は決めていた。たとえ結果がどうなろうとも、とにかく声をかけてみようと。そうしなければ、いつまでもこのままだ。こんな状態のままでいるのはイヤだった。きっと真実も、そう思っているはず。
そう決意した有紀子であったが、いざ真実に近づこうとしたとき、あの寂しげな後ろ姿に近づいていくもう1人に気づいた。達也だ。達也が真実のところへ。
そのとき、有紀子の足は止まっていた。それどころか、達也に気づかれないようにと少しずつ引き返し始めたのである。有紀子は、この場を達也に譲ろうと、そう考えたのだ。あの2人が話をするのなら、そのほうがいいと思ったから、そうしたのである。
達也が、真実のもとへ。
「よう」
「あ、工藤くん」
「最近、練習に来てないみたいだな。どうしたんだ?」
「そ、それは・・」
「それに、走ってないだろ。せっかく10周走れるようになったっていうのに」
何も言えない真実である。だが、達也はちゃんと自分が毎日走っていたこと、10周走れるようになったことを知ってくれている。それはそれで、嬉しいことであった。
「野球部に興味あるのか」
そのとき、真実はスケッチブックを広げたままであった。まだ描きかけではあったが、そこに描かれているのが野球部員たちであることは、明らか。特に誰かをモデルとしていたわけではないのだが、真実はあわててスケッチブックを閉じた。
「何も言ってくれないんだな」
「そ、そんなわけじゃないけど」
「じゃあ、その絵、見せてくれよ」
「だ、だめ」
そう、ダメに決まっている。真実のスケッチブックは、その気持ちを描きあらわしたものだと言うことができるのだ。だから真実は、普段から誰にも見せないようにしている。しかもこのスケッチブックの最初のページから数枚は、中学のときのあの試合での達也をモデルにしたスケッチがあるし、バスケット部入部直後に行われた新入生と先輩たちとの歓迎試合の絵だってあるのだ。野球部のスケッチはともかく、それらを見られるわけにはいかないのだ。そのためにも、何か言い訳をしないと・・
「い、今さ。甲子園の予選とかやってるでしょ」
「甲子園?」
「う、うん。私ね、甲子園にあこがれてるの。この絵はね、誰がモデルってことじゃなくて、高校野球そのものがモデルなのよ」
「ふーん、野球がねぇ」
「いいと思わない? 真夏の陽射しの中、グランドで母校の選手たちが一生懸命に闘うの。それをね、私たちはスタンドから必死に応援するのよ。それぞれ立ってる場所は違うけど、気持ちはつながってる。そんな一瞬を絵にしたいなあって思ってるの」
われながら、うまい言い訳。とっさに考えたにしては、説得力があるなと、自分でもそう思う真実であった。おそらくは達也も、納得したであろう。
「なるほどね。しかし、うちの学校、甲子園に行けるほど強いのかな?」
「そ、それは、わからないけど」
「なあ、甲子園じゃなくてさ、バスケの全国大会じゃダメなのか。体育館だし、真夏の陽射しの下でってことにはならないけど、野球部より実現性は高いと思うぜ」
それには、真実は何も答えなかった。なにしろ、甲子園の話は言い訳のために即興でこしらえた作り話、いわばウソである。野球部よりも、達也の活躍によってバスケット部が全国大会に出場するほうが何倍も嬉しいに決まっているのである。
だが、いまさら、本当のことは言えなくなっていた。言えば、何日も練習をサボっていることの原因である、有紀子とのケンカから話を始めなければ、きっと真実には説明なんかできないであろう。もちろんそのケンカの理由を達也に告げるわけにはいかないのだし、バスケット部に顔を出しにくいから単に時間つぶしをしてただけです、とも言えない。だから、返事ができなかったのだ。
「よし。それなら俺が甲子園に連れてってやる」
返事をしない真実にじれたのか、突然、こんなことを言い出す達也である。
「こ、甲子園球場くらい、私だっていけるよ」
「違うって。俺が野球部に入って、甲子園に出場させてみせると言ってるんだ。そして西崎を甲子園に連れてってやる。絵を描かせてやるよ。さっきチラッと見たけど、その絵、なかなかよかったぜ」
「く、工藤くん。それってバスケット辞めるってこと・・」
「あ、そうかぁ。いや、それは・・ いくらなんでも掛け持ちってわけにはいかないよなあ」
まさか、本気なのだろうか。1年生にして、早くもレギュラーポジションを獲得している達也である。もうすぐ始まる夏の予選では、大活躍が期待されているのだ。なのに、野球部に入るなんて・・
「だ、だめだよ。工藤くん、あんなにバスケットの才能あるのに」
「でも、そのバスケットじゃ西崎の絵の役にはたたないんだろ? それじゃ、仕方ないじゃないか」
「え?」
「とにかく俺、野球部に入る。そして甲子園に行けたら、そのときは、絵、みせてくれよな」
と言い残し、そのままスタンドを駆け下りていく達也。その降りた先では、野球部が練習をしているのだ。まさかその足で、野球部に入部しに行ったのだろうか。達也を止めなければいけないのではないか。絵くらい、見せればいいじゃないか。だが、真実が躊躇しているうちに、達也は野球部員たちのなかへと入っていき、そこに、部員たちが集まっていく。
どうしよう、どうしたらいいのだろう・・ ふと、有紀子の顔が頭に浮かぶ。だが、有紀子とは今、気まずい状態のままなのだ。だめ、相談なんてできない。ならば、自分でなんとかしないといけない。
だが、真実はどうしても、そのスタンドを降りていくことができなかった。ただ、時間だけが過ぎていき、気がついたときには、あのサクラ公園の真ん中ほどにある、ひときわ大きなサクラの木の下に立っていた。
※
「ウワサなんだけどさ」
その翌日、真実のところへ和美がやってくる。2時間目の授業が終わったばかりの休み時間とあって、教室内は、少々ザワついていた。
「工藤達也が野球部に入ったっていうウワサなんだけど、知ってる?」
「え!」
やはりそうなのか、と真実は思っていた。昨日は確かめることはできなかったのだが、そんなウワサがあるということが、いわば証拠であろう。
「なんでわざわざ野球部なのかなぁ。ま、私としては、ほっとした面もあるんだけど、でも、もったいないって思わない? バスケなら絶対に全国大会行けるのにさ」
「あ、あのさ和美。どうして和美がほっとするの?」
「え? ああ、それは・・ と、とにかく、昨日、バスケ部は大もめだったらしいよ。とくに、進藤くんなんか激怒してたって」
それはそうだろう。男子バスケット部の期待の新人であった達也である。それが、あろうことか夏の全国大会の県予選を前にしたこの時期に、野球部に入ったのだ。その達也と浅香中時代から名コンビとして活躍してきた進藤栄作としては、怒りたくもなるだろう。それらのことの発端は、あのウソにある。言い訳をつくろった結果なのだ。このままにしてはおけないと、真実は思った。和美の話が続く。
「野球部のマネージャーはね、槙村千春って言うの。2年生でね、私や工藤くんと同じ、浅香中の出身なのよ」
「へ、へぇそうなんだ」
「その千春がね、嬉しそうに言ってるらしいのよ。達也が戻ってきてくれたって」
「戻ってきた?」
「うん。それで私、本当かどうか確かめようと思って、1時間目の休み時間にD組とF組に行ってきたのよ」
そういえば、その休み時間中、和美は教室にいなかったことが思い出される。きっと、そのために出歩いていたからだろう。それはともかく、達也が戻ってきた、とはどういうことなのだろう。
「本人たちには会えなかったんだけど、工藤くんが野球部に入ったのは、どうやら本当らしいよ」
「あ、でもさ。途中入部って、生徒会の許可とかいるんじゃなかったっけ。だから・・」
「それは、千春がクリアしてると思うよ。そういうことには、よく気のつく人だったし、おそらくは昨日のうちにね」
「ね、和美」
「ん?」
やはり、これはちゃんと言わないといけない。思い切って、言ってみるしかないのだと、真実は大きく息を吸い込む。
「きっかけはたぶん、私だと思うの」
「え? どういうこと」
「あのね、昨日のことなんだけど」
昨日、グランド脇のスタンドでスケッチしていたこと、そこに達也が来たこと、そして甲子園の話・・ 真実としては、思い切って告白したつもりであったが、そこに至る理由、すなわち、どうしてそんなところでスケッチしていたのかという理由までは、話せなかった。それに、甲子園でスケッチをしたいという話が作り話であることも。
「ふぅん。そんな訳があったのか」
「でも、このままじゃダメだよね。なんとかしないといけないよね」
なんとかしたいが、どうすればいいのかわからない。それが、今の真実の正直な気持ちであった。思いがけず、このことを和美に相談できた形にはなったのだが。
「私たちには、なんにもできないよ。たぶん、真実ちゃんも気にしなくていいと思うよ」
「だって」
「あのね、中学のときの話なんだけどさ」
と、そこであいにくの3時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。と同時に、先生が教室に入ってくる。まさか、チャイムが鳴るのを入り口の前で待っていたわけではないのだろうが、見事なくらいに、同時であった。ということで、和美の話は中断ということになったのだが、その授業が3分の2ほど終わった頃になって、和美からノートが回ってきたのである。しおりが挟まれたページを読め、というメモ付きである。真実は、そのページを開く。
そこに書かれていたことによれば、野球部のマネージャーである槙村千春と達也とは、中学時代につきあっていたのだという。しかも彼女は、バスケット部のマネージャーだった。もっとも2人は、千春が中学を卒業する少し前に別れている。それから今日までは、まったくつきあいはなかったはずだと。
そんな状況のなかで達也が野球部に入部したものだから、千春は、達也が戻ってきたと表現したのだろう。その想像はあたっているはずだと真実は思った。そして、そんなことを言うのなら、千春はまだ達也に好意を持っているのだと考える。
ところで、中学時代に達也と千春が別れた原因は、どうも和美にあるらしい。もちろんそれが全てではないのだろうが、達也と和美との仲を一方的に誤解した千春の勇み足、と言ってしまえるような出来事があったのだとか。その内容については触れられていなかったが、変に誤解をさせたことは間違いなく、しかもその誤解をちゃんと解けなかったのだから、責任は自分にあるのだと。そして、今回のことをきっかけとして2人の仲が修復されるのなら、そんな自分の罪も、その何分の一かは許されるのじゃないか、と書かれていた。
真実は、それらの文章の中に、和美が入学式直後に言った“達也に手をだすな”という言葉の、その意味するところをみたような気がした。あのとき、そう言った和美の気持ちは理解できると、そう思ったのである。
ノートの最後には、そんなきっかけを作ってくれたかもしれない真実に感謝はするが、しかし、達也からバスケットボールを取り上げたことだけは許せない、と付け加えられていた。
和美の文章を読み終え、真実は、あのスタンドで達也にちゃんと本当のことをいわなかった自分を後悔していた。内気な自分をなさけなく思うのであった。しんじつと書いて真実・・ これは、自分が自己紹介をするときの常套句として使っている言葉である。でもそれは、肝心なときに本当のことが言えない真実であり、ウソばかりの真実・・ 自己嫌悪であった。こんなときこそ、有紀子に話を聞いて欲しかった。彼女の声が聞きたかった。でも、今の状況ではそんなことはとても望めそうにはない。
その日の放課後も、真実はここ数日とまったく同じにグランド脇のスタンドに姿をみせた。でも、心の中は違っていた。見下ろせば、達也が野球部に混じって練習をしている。その姿を見ながら、いま決心しなければいけないのだと、何度も何度も、そのことを考える。自分に言い聞かせる。
あと1週間ほどで夏休みになる。そうなれば、誰とも顔をあわせずに済むようになるし、1カ月半ほどの長い休みの間に事態は落ち着きを見せるに違いない。だが、そんなことでいいはずがないのだ。それでは、いままでの真実だ。しんじつと書けないウソツキ真実のままではないか。
いま、やらなければダメなのだ。夏休みまでになんとかしなければいけないのだと、真実は、グランドから真実に気づいて手をふってくれている達也に背を向けた。そして、ゆっくりと歩いて行く。その歩む先は、体育館である。
体育館では、もちろんバスケット部が練習をしている。有紀子もいるであろう。何日も無断で練習をさぼったこともあり、女子部員たちと合わせる顔はないのだが、そんなことを言ってはいられなかった。当然のように向けられる女子部員たちの冷たい視線を感じながらも、真実は、その前を通り過ぎ、男子部のところへいく。そして。
「すみません。お話があります」
それは、思いのほか大きな声であった。真実をしてこんな大声が出るのかと、その場にいた有紀子は、驚きの目で彼女を見る。幼稚園の頃から知っている真実であるが、彼女がこんな大声を、しかも男子生徒の前でだすなんて、異例中の異例である。なにかあったのに違いないと、あわてて真実のそばへ駆け寄る。
男子部の部員たちも、何事かと練習をストップし、真実を中心に輪を作りはじめている。それらの人々を前に、真実は大きく深呼吸すると、堰を切ったようにしゃべり始めたのである。
自分が何日も練習をサボってしまったこと、その間、スタンドでスケッチをしていたこと。そんな自分を心配して、達也が様子を見に来てくれたこと。そのとき自分がスケッチブックの絵を見られたくないためにウソをついてしまったこと・・ それらのことを、達也への告白の部分については触れなかったものの、それ以外はありのままに、正直にしゃべっていた。
甲子園のスタンドで、母校の野球部員たちの活躍を見ながら、青春の1ページを絵にしてみたいとの自分のウソ。そのウソを達也が本気にし、野球部に入って甲子園出場を勝ち取ってやるといってくれたことも、その途中からは涙声となりながらも懸命に訴えていた。気がつけば、女子部員たちもみな、その輪の外側にいる。
それらの事情をようやく話し終えた真実の前に、進藤栄作が立つ。そして、ゆっくりと手を差し出した。その手の意味がわからず、長身の栄作を見上げるかのように涙でくしゃくしゃになった顔をあげる真実。
「事情はわかった。あとは俺に任せろ。悪いようにはしない」
そう言ってくれたのだ。口数のすくない、ちょっとぶっきらぼうな口調ではあったものの、栄作の気持ちは充分に真実に伝わった。
なにも具体的なことは言っていないのだが、真実はその言葉をきいて、張り詰めていた気持ちがふっと緩んでいくのがわかった。この人なら大丈夫だ。本当なら、これからグランドへ行って野球部の人たちにも同じ話をするべきなのだろうが、そうせずともこの人に任せれば大丈夫なんだと、素直にそう思えたのだ。そして、ペタンと体育館の床に女の子座りして、それこそ思いっきり声をあげて泣きはじめたのである。
その真実を、有紀子がゆっくりと抱きしめる。
「真実。真実にこんな勇気があったなんて知らなかったよ」
「ゆ、有紀子・・」
「バカだよ、あんたは。そんなに勇気があるんなら、もっとべつのところで使ってればさ、きっとこんなことにならなかったんだよ」
べつのところ、それはつまり達也への告白のことを言ってるのだろう。真実もそのことには気づいたのだろうが、それができたかどうかなんて、わからない。かわりに真実は、彼女の名前を、何度も何度も呼んだ。
「有紀子、有紀子、だって有紀子、私は・・ 有紀子、私はね」
「もう、いいよ真実。私も、勇気が足りなかったんだ。ごめんね」
スタンドで絵を描いていた真実。その真実に、もっと早く声をかけてあげるべきだったのだ。そんな後悔が、有紀子の中にあった。
「違うよ、有紀子。有紀子は悪くない。悪いのは私だもん。私がウソつきだから悪いんだよ」
「真実・・」
「ね、有紀子。私、有紀子の友だちだよね? ずっと友だちだよね? 私は有紀子の友だちだよね? ね、そうだよね?」
涙に濡れた目が、有紀子を見つめる。その、答えを求めて。有紀子がゆっくりとうなずいた。
「真実、やっぱりあんたが1番だよ。最高の友だちだよ。ごめんね、真実。許せ、親友」
またもわっと泣く真実。この涙は、この半月近く、有紀子と話もできなかったさびしさが一気にこみあげてきたものであろう。有紀子もまた、うっすらと涙を浮かべていた。そして真実を立たせ、その日はそのまま帰宅したのである。