星城高校の物語   作:Syuka

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第3話  槙村千春

 体育館で、涙ながらに達也の野球部入部にまつわるいきさつを告白した翌日から3日間、真実は学校を休んでいた。

 とはいっても、みんなの前でハデに泣いてしまったことが恥ずかしくて学校に行きづらかった、ということではない。たまたま偶然に体調を崩したことによるものなのだが、はたして、真実が休んでいる3日の間に、事態はどうなったのか、どのような変化をみせるのか。

 真実はそのことを気にかけつつも、ベッドに横になったまま、天井を見つめる日々をすごしたのであった。その初日、有紀子が見舞いに来てくれたものの、真実が気になっていたことの答えは、得られなかった。これはもちろん、有紀子の情報不足ということではない。めだった動きがあったのは、1つだけだったからだ。

 それは、達也や栄作を含めた男子バスケット部と、そして野球部との間で話し合いの場がもたれることになったということ。その場で、なんらかの結論が出されることになるだろうと、有紀子は真実にそう告げたのである。

 その話し合いで、今回のことがどういう扱いになるのか。真実にとって、とても気になることには違いなかったが、今は、体調を整えることが先。

 そして、3日間を自室のベッドの上で過ごした真実がようやく学校に登校した日の昼休み。真実のクラスに、達也と栄作が揃って顔を見せたのである。

 

「よお、元気になったか」

「はい。迷惑かけてごめんなさい。ほんとうに、すみませんでした」

 

 少し言葉が丁寧すぎたかな、と思う。でも、自分がかけた迷惑を思えばこれくらいは当然かもしれない。その真実の前に、達也が頭をかきながらやってくる。

 

「でさ、俺、野球部は続けることにしたんだ。出たり入ったりじゃ、やっぱ失礼になると思うし、それに野球の面白さもわかってきたところでさ」

「そ、そうなんだ・・」

 

 それが達也の出した結論であるのなら、自分には、何も言う資格はないのである。でも、もう達也がバスケットボールをする姿を見ることができなくなるのかと思うと、残念でならない。自分の蒔いた種とはいえ、あまりにも大きすぎる結果に、真実は、いまにも泣き出しそうであった。そんな真実に気がついたのかどうか、栄作が声をかけた。

 

「心配するな、西崎。達也は、バスケットはやめない」

「え?」

「まったく、言い方がヘタクソというか、言葉が足りないっていうか、困ったやつでね」

「おいこら、栄作。そんな言い方はないだろ」

「なら、ちゃんと言ってやればいいだろ」

「わかってるよ。つまりさ、オレ、これから1年間野球をやる。その間は両方かけもちってことになるけど、いずれはバスケに戻るつもりなんだよ」

 

 なんと、そういうことなのか。でも、それってあまりに大変なことではないのか。二兎を追うものはなんとやら、ということわざをあるくらいで、ヘタをすれば、どちらも中途半端に終わってしまう可能性もあるのではないか。ふと、そんな思いが真実の頭をよぎる。

 その疑問は、達也たちとも顔見知りであり、真実の隣で話を聞いていた和美も当然のごとく思ったようで、横から口をはさむ。

 だが達也は、そんなことは承知の上。そうならないためにも、しばらくはその主体を野球部におくのだというのだ。頻繁に体育館へはこれないだろうし、この夏の予選もバスケット部の試合は欠場と、それはバスケット部にとってかなりキツイ内容だとも思われたが、将来的にはバスケットボールに戻るということで、双方から了承は得ているらしい。

 真実は、ほっと胸をなでおろしていた。これは和美からも指摘されていたことだが、達也からバスケットボールを取り上げる結果にだけは、とりあえずいたらずに済んだのだから。なのになぜか、和美が、頬をぷっと膨らませている。

 

「どうして、真実にはそんなにやさしいのよ。私にも、もっとやさしくしてよ」

 

 そんな和美の言葉を、達也と栄作は軽く受け流し、ジョークと笑いのなか、帰っていった。和美も2人を笑って見送っていたから、べつに怒ってはいないのだろう。そのことに真実が安堵のは言うまでもない。

 そして、放課後。この日から真実は、バスケット部に顔を出すことにした。達也たちは、ちゃんと今回の問題に答えを出し、これから真剣に取り組もうとしている。今度は、真実がずっとサボっていた自分にけじめをつける番である。ならばと、有紀子に付き添われてはいるものの、緊張して部室のドアをあける真実。その真実を出迎えたのは・・

 

「あ、きたきたぁ!」

「もう体調はいいの?」

「泣き疲れて寝てたって本当?」

 

 そんな、先輩たちの口々の声。ちょっぴり辛口の言葉もあるものの、誰も皆、笑顔である。部員たちは、真実を好意的に迎えたのであった。退部の処分すら覚悟していた真実にとっては、思いがけないことであったろうが、それはそれである。キチンと謝らねばならない。

 

「みなさん、何日も練習さぼったりして、すみませんでした」

 

 誰も何も言わない。そのかわりに、拍手が沸き起こった。その拍手の意味がわからずに戸惑う真実を、有紀子が部室の奥のほうへと押し込み、ドアを閉める。真実のところにキャプテンが近づいてくる。

 

「そのことはもう忘れましょ。でもね西崎さん、練習さぼったバツは当然あるからね」

「は、はい」

 

 それは当然だろう。思わず緊張して、身を硬くする真実であった。だが、そのキャプテンはもとより、真実の視線のなかにいる部員たちがみな、なにかニヤリと笑ったようにみえたのはどうしてだろう。それはともかくとして、なにごともなく許されるよりは、こうしてペナルティを与えられたほうが、気が楽というものだと、そのとき、真実はそんなことを考えていた。

 

「さて、西崎さん。あなたには、バツとして・・」

「はい」

「毎日、練習前にグランドを10周走ってもらいます。いい、必ず毎日走るのよ。これは、バツなんだからね」

「・・・」

 

 一瞬、言葉を忘れる真実であった。グランド10周? それがバツ?? いったいどういうことかとばかりに有紀子を見れば、彼女も驚いた様子であった。つまり、このバツについて彼女は何も知らなかったということか。

 

「さぁ早く着替えて走ってきなさい。もうすぐ練習始まるわよ」

「は、はい」

 

 ということで、あわただしく着替えを済ませ、グランドに出る。バスケット部の練習をさぼるようになってからというもの、ぜんぜん走ってなかったので、いきなり10周も走れるのかどうか不安であったが、これはバツなのだ。途中でやめるわけにはいかないと、覚悟を決めて走り出す。そして、走りながら思ったのである。こんなに嬉しいバツを受けたのは初めてだと。

 とっくに真実は気づいていた。体育館で大泣きしたあの日、達也とのグランド10周の約束についても、皆の前で話していた。だから、だから先輩たちは・・ ちょっぴりその眼に涙がにじんだ。

 この出来事があって以来、達也と栄作、有紀子、そして真実の4人は、よく話をするようになった。そこに和美が加わることもあったが、基本的にはその4人で、もっぱらグランド10周走れるようになった真実への、コーチに名を借りての体育館でのにぎやかなひとときを過ごしたり、学校帰りに寄り道をしたり・・

 夏休み。

 達也はグランドで野球のボールを追いかける。体育館にはバスケットボールの音が響き、真実は練習の合間に、スタンドで野球部の様子をスケッチするといった日々が続いた。ちなみに甲子園大会の予選のほうは、野球部は2戦めで敗退。残念ながら達也は、試合には出られなかった。バスケット部のほうはといえば、栄作の活躍があったものの、そのパートナーがいないためか、県大会まで勝ち進みはしたものの、ベスト16という結果で終わった。そのことに責任を感じる真実であったが、誰もみな、笑顔であった。

 

 

  ※

 

 

 お気に入りのサクラ公園の散歩道に秋風が吹き、粉雪が舞う。そしてまた、春がやってくる。真実は2年生となった。

 花びらの舞う、通学路。サクラが散っていくのは悲しいことなのだが、真実は、そのなかを歩くのが好きになっていた。この時季、サクラの花が散っていくのを止めることはできないものかと、いつもそんなことばかり考えていたはずなのに、散っていく花びらのなかを歩くことを心地よく思う自分が、そこにいた。

 相反する2つの感情が、自分のなかに。いったいどういうことなのだろう。ふと、真実は立ち止まった。

 そこは、サクラの並木道のほぼ真ん中あたり。いつも、真実が独り言の相手をしてもらっている大きなサクラの木の前であった。

 ゆっくりと、そのサクラの木を見上げていく。その木も、他の木と同様にいっぱいに咲かせた花びらを少しずつ散らせている。その散っていく花びらを見ていると、ふと、サクラの木が泣いているような気がした。さしずめ、花びらはその涙・・

 

“違うよ”

「え?」

“こうして、成長していくんだよ”

「そうなの?」

“その数だけ強くなれるのさ”

「それじゃ・・」

“もうお行き。友だちが待ってるよ”

 

 ふと、横を見る。たしかに並木道の反対側から誰かが近づいてきていた。誰だろう? その姿に見覚えはなかったが、着ているのは星城高校の制服だし、わざわざ学校とは反対方向に歩いてくるのだから、真実に用事があるかもしれなかった。真実も、そちらへ歩き出していた。

 

「おはよう、西崎真実さんでしょう?」

「は、はい。そうですけど、私に何か用ですか?」

 

 やはり、その人とは初対面であろう。相手の言葉からもそれがうかがえたし、何より、その顔にまったく見覚えがなかったのである。敬語を使ったのは、制服の襟についているバッチが3年生のものだったからだ。

 

「ちょっとね。あなたがいつもこの道を通学路にしてるって聞いたから、待ってたの。歩きながら話そうか」

「そうですね」

 

 真実は、いつも時間には余裕をもって通学している。だから、少々立ち話をしても遅刻する心配はないのだが、2人は並んでゆっくりと、サクラの道を歩いていく。

 

「あの、あなたは?」

 

 最初に口を開いたのは真実だった。内気な真実にしてはめずらしいことであった。

 

「あ、ごめんなさい。私が誰かわからないんだよね」

「ええ。たぶん初めて会うと思うんですけど」

「でも、私のほうはよくあなたを見てるわよ。グランドを走る姿、それにスタンドでスケッチブックをひろげているあなた・・」

「そうですか」

「まだわからない?」

 

 その問いかけに、真実は返事のかわりにくびをひねっていた。相手はヒントを与えてくれているのだろうが、それでも真実には、ピンとこなかったのである。

 

「私は、槙村千春。野球部のマネージャーって言えばわかるかな?」

「あ!」

 

 と、そう言ったきりであった。達也と同じ浅香中学の出身で、しかも、中学時代に達也と付き合っていたというウワサも和美から聞かされていたし、別れた今でも、彼のことが好きなのかもしれない人。それが槙村千春であった。

 

「一度ね、あなたと話をしたいとずーっと思ってたの。グランドでは何回もあなたとすれ違ったりしてるんだけど、声はかけられなかった。だからここで待ち伏せしちゃったの。ごめんなさいね」

「い、いいえ」

 

 相手が槙村千春とわかり、一段と緊張してしまう真実であった。やはり達也との関係が気になるし、予定では、夏前にも達也が野球部を辞めることになっていたから、そのことかもしれないと身構えてしまうのはムリもないことか。

 

「私のこと、どれくらい知ってるのかな?」

「あ、あの、その・・」

 

 ただでさえ、初対面の人と話をするのは苦手な真実である。こうなると、満足に言葉がでてくるはずがない。本人はそれがもどかしくて仕方がないのだが、さて、何を話せばいいのか。

 

「工藤達也くんと私が、中学時代に付き合っていたって話は、聞いてる?」

「え、ええ。友だちから少しだけ」

「誰? その友だちって」

「ええと、」

 

 言ってもいいのだろうかと、ふとそう思ったものの、そのこと自体たいした問題ではないはずだと、真実は思った。それに、当然槙村さんは、和美のことも知っているはずなのだし。

 

「あの、河上和美さんです。私と同じクラスなんです」

「やっぱり和美ちゃんかぁ。じゃあ、私の悪口も言ってたんじゃないの?」

「いいえ、そんなことはありません」

「ほんとに」

「は、はい。ほんとうです」

 

 そのとき、真実はどんな顔をしていたのか。強くそう言い切った真実の顔をみているうち、千春の顔に笑みが浮かんだ。

 

「いい人みたいだね、あなたは」

「は?」

 

 と、そう言われても、なんのことだかピンとこない真実である。その真実に、千春はなおもこう言った。

 

「あなたにだったら許せる気がする。真実さん、達也のことお願いね」

「あの、どういうことでしょう」

「ま、それはともかく。スタンドで絵ばっかり描いてないで、野球部にも顔を出したらいいのよ。あそこから降りてくるだけでいいんだし」

「でも、いいんですか?」

「もちろん。私もあなたと話がしたいし。あ、そうだ。達也のこといろいろと教えてあげようか。あなたの知らないことも知ってるかもしれないよ」

 

 千春はそう言うのだが、だからといって、はいそうですかと達也のことを教えてもらうのも、少し違うような気がする真実であった。誰かに聞くよりも、自分で見つけたい。彼のことを、彼の良さを自分自身で1つずつみつけていきたいと考えていたからである。とはいうものの、1点だけ、どうしてもこの1つだけは誰かに教えてもらわないといけないというものがあった。このことは、そうしなければ決して知ることができないことであるはずで、この千春の申し出は、いい機会のように思えた。

 2人の歩くスピードはかなり遅めだったのだが、それでも学校の門が近づいてきている。あの校門をくぐるまえに、ぜひとも。にしても、千春は何を思って自分のところへ来たのだろう。その目的は何だったのか? そのことも聞いてみたい気がするが、このさい、それはさておき、である。

 

「あの、1つだけ聞いてもいいですか?」

「ええ、いいわよ」

「彼、中学のとき背番号が14でしたよね」

「背番号? ああバスケット部のときのね」

「ええ。普通、2ケタの数字なんて補欠の人とかがつける番号だと思うんですけど」

「え? まさか達也は、3年生のときにも14つけてたの?」

「はい。どうみてもチームの中心選手なのに、なぜだろうってとても不思議だったんです」

「なるほどね。で、その訳を知りたいと」

 

 そう、どうしても知りたいのである。中学時代、このことが気になって達也に注目し始めたのである。彼を見つめ始めたのである。有紀子に言わせれば、それがとっくに恋心へと変化しているらしいし、最近では自分でもそう思うようになってきている。

 達也への恋心、その想いのすべての始まりが、あの背番号14なのである。だが、千春はなぜかすぐに答えてはくれなかった。そして、ちょうど校門をくぐった頃。

 

「真実さん、昼休みにスタンドに来て。あなたがいつも絵を描いているところで待ってる。続きはそのときに」

「あ、はい」

「じゃあね」

 

 真実たち2年生の校舎と千春の3年生の校舎は棟がわかれているから、ここで別れても不自然でもなんでもないのだが、真実には、少しだけ違和感が残った。というのも、以前、和美にこのことを聞いたときも、うやむやのままに答えは得られずに終わっていたからである。そのことが思い出されたのだが、今回は昼休みにその話の続きをしようと言ってくれているのである。いまは、そのときを待っていればいいのだと自分を納得させ、真実は教室へ向かった。もうそろそろ始業のチャイムが鳴るころである。

 

 

  ※

 

 

 そして、昼休み。そのときまでに有紀子や和美たちから仕入れた情報によると、達也の野球部とバスケット部の掛け持ちは、もうしばらく、少なくともあと半年ほどは続くことになるらしい。というのも、練習時間の調整もうまくいくようになり、それぞれの部に不都合がなくなっていたこととあわせ、もともと運動神経の良さでは定評のあった達也が、なんと野球部でレギュラーポジションを獲得できそうだというのである。

 野球の名門校などであれば、本格的に野球を始めて1年にも満たない選手がポジションを取れるものなのかどうか疑わしい。いや、そもそも2つの部のかけもちなど、認められなかったに違いないが、まがりなりにも、外野の一角にポジションを得つつある今、徐々にチームにとって欠かせない存在となってきていたのだ。

 ちなみにバスケット部では、中学のときと同様、リードガードとしての地位は不動のものである。あとは、2つの部をいかに両立させるのか、体力的にかなりハードな状況をこれからも続けることができるのか、問題はそのあたりにこそあったのである。

 もちろん真実も、そのことが気になっていた。だから、野球部のマネージャーである槙村千春に、そのことを相談してみるいい機会だとも考えていた。

 いつも、真実がスケッチをしている場所。真実がそこに着いたときには、すでに千春が来ていた。

 

「先輩、遅くなりました」

「あらぁ、私のことも先輩と呼んでくれるのね」

「あ、すみません。勝手に」

「いいのよ。上級生には違いないんだし。でも、あなたとはタメ口でいきたいんだけどな」

「タメ口、ですか」

 

 その意味がわからないわけではない。つまりが、対等な立場でモノを言い合うことなのだろうが、千春相手にそれができるかと聞かれれば、真実は、やはり首を横に振るしかない。

 

「うん。タメ口の呼び捨て。これは絶対に譲れないところかな」

「そんな」

「あ、将来的にはってことでいいよ。1つ下のあなたには、いまはしんどいことかもしれないしね」

「は、はぁ」

「で、今朝の続きなんだけどさ」

 

 いよいよだ、いよいよ、ずっとずっと疑問に思っていたあのことの、その答えがわかるのだと思うと、やはり、緊張してしまう真実である。

 

「もったいぶってるみたいでごめんなさいね。このことを話すまえに、少しだけ気持ちの整理が必要だったのよ」

 

 気持ちの整理? どういうことだろう。あの背番号14には、なにか深い意味があるということなのだろうか。千春が言葉を続ける。

 

「答えはね、すごく簡単なことなの。つまり、私が中学3年のとき彼の背番号は14だって決めた。そして彼は、そのとおりにしていた。それだけのことなんだけどね」

「で、でも・・」

 

 そうだとしても、達也が中3のときまで、すなわち千春が卒業したあともずっと14で通していたのは少し不自然な気がするし、千春がわざわざ“気持ちの整理”という言葉を使ったこととも合わないような気がする。達也と千春がその後もずっと付き合っていたという仮定のうえであれば、千春が決めた背番号だから変えなかったのだと理解できないこともないが、和美の話では、千春が中学を卒業するとき、すでに2人は別れてしまっているのだ。それとも、達也は今でも彼女のことを好きなのだろうか。そもそも、どうして14番にしたのだろう。

 

「でも、なに?」

「あ、いえ。べつに・・」

「誤解しないでね。彼が私のいう通りにしていたからって、別に、彼が私のことを好きだとか、そういうことじゃないのよ。むしろ逆でね、あのとき私たちは完全に別れたんだし、元に戻ることもないわ。14はそのシンボルみたいなものなんだ。だから安心して」

 

 2人は、スタンドに並んで腰掛けて話をしていたのだが、いつも真実がスケッチをしているときに座っている定位置の場所には、今は、千春がすわっていた。

 

「あの背番号14にはね、特別な意味があるの。だから、当然つけるべきだった4番じゃなく、達也は14をつけた。私がそうさせたの。それ以来、達也はずっと14番だった・・」

「そうだったんですか」

「あら、14番の特別な意味が何なのかって聞かないのね」

 

 そのとき、下を向いていた真実が、顔をあげる。当然聞くべきことなのだろうが、なぜか真実は、そのことは聞かないほうがいいのだと、そんな気持ちになっていた。そのとき、千春の顔は笑っていた。

 

「はい、聞きません」

「そう・・ でも、たいした意味はないの。それこそ笑い話みたいなものなのよ、今ならそう思える」

「そうですか」

 

 千春の顔から笑みは消えてはいないのだが、どこか寂しげな笑顔であった。少なくとも、真実にはそう思えた。千春は、たいした意味などないという。笑い話だともいうのだが、真実は違うと思っていた。それはおそらく、2人が別れることになった原因に関係しているに違いない。だからこそ、その中にまで踏み込むのは遠慮したほうがいいのだろう。重ねて聞けば、おそらく千春は教えてくれるのだろうが、今は、この話には触れないほうがいいだろうと判断。いずれ、千春が教えてくれるその日までは・・

 

「それよりもさ、私のみたところ、いま達也が好きなのは、あなたよ。元彼女の私が言うんだもの、こんな確かなことはないわね」

「ま、まさか」

「ほんとよ。ただね、気になるのはあなたの友だち。いつも一緒にいるあの子、なんて名前だっけ?」

「有紀子です。桜井有紀子・・」

 

 いつも一緒にいる友だちといえば、真実の場合は、有紀子の名前が即座にあがる。というか、有紀子以外にはいないのが、少々悔しい気もする。

 

「他に気になるのは、あの子。達也は、あの子も気にしてるみたいなんだよね」

 

 ドキッとした。達也が有紀子を・・ あ、でも好きなのは自分だと千春は言ってくれたのだから・・

 

「ね、いいこと教えてあげようか。達也はね、帽子の似合う子に弱いところがあるのよ。だから、あなたも帽子をかぶってみたらどう?」

「帽子を、」

「そう。あの子はよくかぶっているじゃない。あなたも負けていられないわよ」

 

 仮にそうだったとしても、いまさら、帽子のことで有紀子と競って勝てるはずはない。有紀子の帽子好きは、昨日今日に始まったことではなく、有紀子いわく、それは幼稚園時代にまでさかのぼらねばならないのである。星城高校の制服には帽子というものはないのだが、それでも有紀子は、しょっちゅう帽子をかぶって通学しているほどだ。

 対する真実はといえば、正直、帽子は好きなほうでなくて、手持ちの数も数個といったところ。きっと有紀子は何十個も、ひょっとすると3ケタに手が届いているかもしれないし、そのどれもが有紀子には、とてもよく似合うのだ。

 

「がんばりなさいよ。応援してるからね」

 

 それは、いったい何に対してか。達也と付き合えるようにというのであれば、元彼女の千春公認ということになるのだから、そう言われて悪い気はしない。だが、有紀子と競いあえということであれば、気が重い。というのも、有紀子にはとうてい勝ち目はないと思っているからだ。どちらが美人か、どちらがカワイイのか。スタイルの良さやおしゃれのセンスに、性格や学校の成績、スポーツなどの考えつくあらゆるすべてのものが、そのどれもが有紀子にかないそうにはないのである。ただ1つ勝てるとすれば、絵くらいのもの。

 

「ということで、今朝の続きはおしまい。それでいい?」

「はい」

「じゃあ、これから私とあなたは対等っていうか、タメ口呼び捨ての友だちってことで、それでいいわね」

「あ、それはちょっと困ります」

「なによ、私と友だちになるのはイヤだっていうの?」

「いいえ、そうじゃなくてタメ口の呼び捨てなんて、できません」

「だからそれは、ゆっくりとでいいって言ってるじゃない。将来的にはってことで、OKしてよ。ね」

「で、でも」

「あなたとの付き合いを、この星城高校だけで終わりにはしたくないの。高校の間はムリとしても、卒業したら1年くらいの年の差なんて関係ないでしょう」

「は、はぁ」

 

 もうこれ以上拒否してもムリであろう。だいたい、千春がどうして自分と友だちになりたいのかすらもわからないし、なにゆえのタメ口呼び捨てなのだろう。千春は将来的にはというが、きっと何年経ってもムリだと、真実はそう思うのであった。

 

「そろそろ、午後の授業が始まるわね。教室に戻ろうか」

 

 千春が立ち上がった。続いて真実も立ち上がったのだが、そのときになって真実は、達也の野球部とバスケット部の両立の難しさについて相談したかったことを思い出した。が、千春も言うように、午後の授業まであまり時間は残っていなかった。となれば仕方がない。真実は、そのまま千春と別れ、教室に戻る。

 放課後になると、日課のグランド10周が待っている。今では、15周くらいであろうとも走れるのではないかと思ってはいるのだが、これは、バスケット部より課せられたバツであるという思いから、律儀にキッチリと10周だけ走って終わりにしていた。にしても、このバツはいつまで続くのだろう。去年の夏、そして秋、冬・・ 今は春であった。

 こんなにも長い間グランドを走っていたというのに、その同じグランドに千春がいることに気づいたのは、いや、意識したのは今日が始めてであった。それも、千春に声をかけられて、である。いつも野球部の人たちの脇を走り抜けているのだし、そこに千春がいることに気づかなかったほうがおかしいのかもしれない。これまでも真実が走っているとき、彼女はいつもそこにいたはずなのだから。でも彼女は、それまで声をかけてはくれなかった。それはなぜだろう。

 その千春のそばを通る。

 

「こらぁ真実、よそみするなぁ!」

「は、はぁい」

 

 千春の存在が気になり、どうしてもそちらの方をみてしまう真実。その真実に、千春の叱咤の声。その顔はわらっているので、励ましの意味なのだろう。しかし、いきなり掛け声をかけられた真実は驚いていた。その後も横を通るたび、なにがしかの声をかけてくる千春。

 

「よぉし、ラスト1周はダッシュだよ!」

「わかりましたぁ」

 

 その声にスピードをあげていく真実。正確には1周半ほどをハイピッチで走り終え、体育館の前で足を止めた。なんだか、いつもより息が荒い気がする。有紀子が近づいてくる。

 

「真実、誰よ、あの人?」

「あ、あの人はねぇ」

 

 ふーっと、大きく息を吐く。そして吸う。それをなんどか繰り返しようやく息が落ち着いてきたところで。

 

「槙村千春さん。今朝、登校の途中にサクラ公園で会ったの」

「ふーん。で、槙村千春ってナニモノ? 野球部の関係者?」

「マネージャーだよ。今日まで槙村さんがあそこにいることに気づかなくってさ」

「あ、それは私も同じ。でも、そのマネージャーさんがなんでまた、真実に」

「それがね、私もよくわからないんだけど」

 

 と、真実は今朝からのいきさつを有紀子に話す。もっとも、帽子の件は有紀子には絶対に秘密だ。それに背番号14のことも。

 

「ふーん、じゃあ私も、千春って呼び捨てにしていいわけだ」

「だ、だめだよ有紀子」

「どうして? 相手はそれを望んでいるんでしょ。だったらそうしてあげればいいじゃない。それが礼儀ってもんだよ、真実」

「そうかな。相手は先輩なんだよ」

「真実は、気にしすぎるのよ。でもいい人みたいでよかったね。工藤達也の元恋人とくれば、真実に辛く当たってきても不思議じゃないのにさ」

 

 そんなものなのか、と真実は思う。確かに恋のライバルともなれば、そうなっても不思議ではない気はするが・・ あ、そうか。ということは、千春はやはり、達也とのことにキチンとけじめをつけているのだ。そう考えていいのではないか。なんとなく嬉しくなってくる真実である。

 

「ところでさぁ、体育館で工藤くん待ってるよ。今日はジャンプシュートの練習だってさ」

「うわぁ、苦手だな。私ってジャンプ力ないのよね」

「こらこら、今からそんなことでどうするのよ」

「う、うん」

「でもさ、真実。あんた、ほんとに上手になったよ。このまま行けば、そのうちレギュラー取れるよ」

「まさか。もしそうだとしても、それはあの人たちの教え方がうまいからだよ」

「ていうより、恋する相手のいうことだと素直に聞けるからじゃないの」

 

 有紀子のそんな言葉を、いまでは笑って聞けるようになった真実であった。去年の夏、有紀子に達也に告白しろと勧められ、もめたことがあった。あのときは、本当に自分が達也のことが好きなのか、そして達也が自分のことを思っていてくれるのか、いまひとつ自信がなかった真実であったが、それから1年近くが経った今、達也の気持ちは相変わらず不明とはいえ、すくなくとも自分が達也を好きであるということは、はっきりと自覚しているのである。もし今、あのときのように有紀子が薦めてくれれば、達也に告白できるかもしれないとさえも思っているのだが、しかし、有紀子はあのとき以来、自分にそれを薦めようとはしなかった。

 

「ねぇ真実」

「ん?」

 

 体育館へと戻りながらの、有紀子との会話である。その有紀子の顔が、ほんのりと赤いような気がする。

 

「私、進藤くんのことが好きになったかもしれない」

「えぇっ! 進藤くんのことが! ほんとなの有紀子」

「こら、大きな声を出すんじゃない。恥ずかしいじゃない」

「ご、ごめん。それで、」

「それでって言われても、困るんだけどさ」

 

 ちょっぴりはにかみ、恥じらいの表情を見せる有紀子。どうしてだ、どうしてそんなにカワイイ仕草ができるのだ・・ 有紀子のことだから、意識してそんな表情を作ったりしているわけではなく、ごく自然のふるまいであろう。つまりが、カワイイやつは何をやってもカワイイということか。だとすれば、神様はあまりにも不公平・・ このところ感じている、有紀子への軽いジェラシーというやつであった。

 それというのも、近頃の有紀子が、どんどんとかわいらしくキレイになっていってるからで、どうしても差を感じてしまうのだ。おそらくそれは、進藤栄作への恋というやつが、キレイにさせているに違いない。だって、よく言うではないか。恋する女はキレイだ、と。

 ならば、自分はどうなのだろう。達也を好きな私は、キレイになっているのか、いないのか。あいにくとそれは、自分ではよくわからなかった。

 それはともかく、有紀子の話によれば、先日の日曜日、偶然に栄作に会ったのだという。それは、真実や達也もよくいく、学校近くのショッピングモールでのことで、ばったり会った2人は、星城高校の生徒にはおなじみになっている店に寄ったのだという。その店は、真実も何度か利用したことがあった。お店の方も心得たもので、星城高校の生徒には割引サービスを設けるなど、真実たちにとっては入りやすい店であった。

 

「その店でね、30分くらいかな、彼と話をしたの」

「ほうほう、それでどんなお話を?」

 

 と、有紀子に話を向けてみる。きっと、有紀子は話したくてしかたがないに違いない。ならば、それを聞いてやろうと思ってのことだ。有紀子が栄作に想いを寄せているということであれば、真実は大歓迎なのである。仮に有紀子が達也のことを好きになったとした場合、その有紀子と競い合ってまで達也への想いを貫けるかどうかは大いに疑問で、おそらくは、その気持ちを心の中に閉じ込め、あきらめてしまうに違いない。

 自分と有紀子を較べてみたとき、自分が優位にあるとはとても思えない。有紀子は、明るい性格だし、成績もいいし、背も自分より高くてスタイルも良い。長い髪はサラサラのストレートだし、カワイイし、話し上手で聞き上手、話題も豊富で人付き合いもいい。そしてなにより、美人で人気者・・ どれもが自分より勝っていると思う。その有紀子が、栄作に好意を持ったというのだから、こんな結構なことはなかった。

 だが、栄作のほうはどうなのだろう、有紀子のことをどう思っているのだろう。いや、それよりも今、達也の心の中に大きなスペースを占めているのはいったい誰? どんな女性なのだろう。

 考えてみれば、その点こそが一番重要なことであった。

 

「私たちってさ、彼たちのこと、中学時代から知ってるじゃない」

「あ、うん。試合だって、何度も見てるしね」

「そうそう。でさ、彼と話をしてて重要な事実が判明したわけよ」

「なによ、いったい」

 

 こんなとき、有紀子はもったいぶった言い方をし、なかなか核心を言わないクセがある。ほとんどすべての面で見習うことの多い有紀子なのであったが、この点だけは、なんとかしてほしいと、真実は思っている。だが、それを口に出して言ったことはない。

 

「浅香中の女子と試合したこともあったわよね」

「うん、3年のときの夏は、男女とも揃って浅香に負けたんだよね」

「そうよ、そうなのよ。それが悔しくってさ。急にそのこと思い出して、彼にその話をしたのよ。そしたらさ」

「そしたら?」

 

 なんとなくだけど、話の論点がズレてきてないか? そうは思うが、ともかく有紀子の話に耳を傾ける真実である。ちょうど体育館に着き、シューズを履き替えようとしているところである。

 

「新藤くんたちも、その試合を見てたっていうんだよ」

「え、ほんとう」

「うん。まぁ、自分たちの学校の試合だから、見てるのが当たり前といえば当たり前なんだろうけどさ」

 

 言われてみれば、有紀子の言うとおりである。かくいう自分たちも、男子部の試合を見ていたではないか。ようは、それと同じことであろう。

 

「聞いて驚け、真実。なんと、進藤くんは、わが明星中との、その試合を覚えてるっていうのよ」

「え! じゃあ、まさか有紀子のことも」

「そう、私のことも、ちゃんと覚えてたって。印象に残ってたっていうのよ。でさ」

「うん、うん」

「高校で会ったときも、すぐにわかったんだって。いやぁ、私もまんざら捨てたもんじゃないわよねぇ」

 

 そりゃそうだよ、有紀子・・ 心の中でそう思う真実であった。でも、それを口に出すことはせず、バスケットシューズに履き替えて体育館のなかへ向かう。そこでは、工藤達也と進藤栄作の2人が、真実たちを待っていた。練習開始前の、この4人の中では一番技量の劣る真実へのコーチを兼ねた、おしゃべりなどのひととき。真実へのコーチが始まったばかりの頃は厳しい指導が主体だったのだが、その真実が上達してくると、することも少なくなり、自然、おしゃべりに花が咲くようになっていたのだ。

 野球部のユニフォーム姿の達也は、やはり体育館の中では、少し違和感があるのだが、真実は、その達也をまぶしげに見つめていた。

 有紀子は、中学時代の自分が栄作の記憶の中にあったことを、喜んでいた。では、そのとき一緒にいたはずの自分は、栄作や達也の目にはとまらなかったのだろうか。その記憶の中にとどまることはなかったのだろうか。

 いや、そんなことは考えるまでもないことだと、真実は、そう思うのであった。おそらくは、有紀子だけなのだ。あのころ、名星中の選手のなかにあって、ひときわ眼を引く美少女といったら、有紀子がその代表だったんだから・・

 

「とりあえずさ、西崎。ジャンプシュートやってみ」

「あ、うん。でも、苦手なんだよなぁ」

 

 達也のコーチが始まる。その真実の横で、ニコニコ笑顔の有紀子もまた、真実と同様に、達也や栄作のコーチを受けているのである。もちろんメインは自分なのだと、そう思っている真実であるが、このごろは、練習というよりは、それぞれにクラスの違う4人のコミュニケーションの場の意味合いが強くなっていた。もちろん真実は、それでもいいのである。達也のそばで過ごせれば。その場に有紀子もいるが、その有紀子は栄作が好きで、栄作もたぶん有紀子を意識している。ならば、なんの問題もない。

 シュッと、その手を離れたバスケットボールは、キレイな弧を描いて、見事にバスケットリングにすいこまれていく。振り返れば、達也の笑顔。真実は満足であった。

 

 

  ※

 

 

「そうかぁ、やっぱり真実も気になってたか」

「はい。やっぱりハードすぎると思うんです。かけもちなんて」

「うん。でもさ、それをやめさせるのは、難しいことだよ」

 

 今朝も真実は、登校途中の千春のまちぶせにあっていた。サクラの花びらがひらひらと舞う公園。その並木道を、2人はゆっくりと歩いていく。花びらの舞うこの道が気に入ったからと、千春は、サクラが散ってしまうまでは、毎朝来るつもりだという。

 それは、真実にとってはあまり歓迎できるものではないのだが、サクラの花も、おそらくはあと2~3日。それくらいなら仕方ないかと、納得する。

 

「やっぱり、難しいんでしょうか」

「そりゃあね。もう野球部としても、手放したくない選手になっちゃったからね。ま、バスケット部でも同じなんだろうけど」

「はい」

「結局は、あなた次第なんじゃない?」

「え? 私、ですか・・」

 

 いまひとつピンとこない表情の真実に、千春はおおきくうなづいてみせた。

 

「私はね、あなたが一言、甲子園はあきらめたと、そう言えばいいんだと思う」

「あ、あの」

「達也ってね、あれで意外と律儀なところがあるから、あなたを甲子園に連れて行くんだっていう思いが、今でも心のどこかにあるんだと思うよ」

「ですけど、私は・・」

「もちろん聞いてるわよ。達也が野球部に入ったきっかけと、あなたの体育館での大泣き事件のことは」

 

 一瞬のうちに、真実は恥ずかしさで真っ赤になってしまう。だが、いったい誰が千春にしゃべったのか、と気にする必要などはない。それは、当事者であるバスケット部と野球部に所属するものならば誰でも知っていることであり、千春は、その野球部のマネージャーなのだから。

 

「甲子園の話は作り話だっていうんでしょ。そのことをみんなに告白したんだし、当然、達也もそのことは知っているはず。でも、達也はそのことを、あなたから直接ではなく、間接的ににしか聞いていない。たぶんまだ、本気にしてるところがあるのよ」

「そうでしょうか」

 

 スケッチブックの中を見られたくなくてついたウソ・・ そのことから、大変なことになってしまった。その責任を痛いほどに感じ、あの日、体育館で泣きながら皆に謝ったのである。そのことが、まだ尾を引いているのだとしたら、もちろん、このままにしておくわけにはいかない。

 

「それじゃ、ちゃんと私が彼に言えば・・」

「おそらくはね。でも、もう少しだけ待っててくれる? いま達也に野球部抜けられると、本当に困るのよ」

「でも、先輩はさっき」

「わかってる。勝手だよね。これでもさんざん考えたのよ。達也はバスケットに専念したほうがいいのは確かだし、実は私も、何度かそうしろって彼には言ってきたの。でもね、その度に彼は、本気で甲子園に行きたいんだって、そう言うのよ。野球の面白さも分かってきたし、もう少しやらせてくれってね。それが本音かどうかはわからないわ。でも、そういわれたら何も言えなくなるじゃない」

 

 では、いったいどうすればいいのか。千春の言葉のなかにある矛盾は、そのまま彼女の迷いの現われと見ることができそうであるが、それでは解決にはならない。

 

「あなたなら、この気持ち分かるでしょ。分かると思った。だから、話をしてみたいと思ったの。私にとって、甲子園は簡単にはあきらめられない夢。その夢の実現のために達也が手伝ってくれてるんだと思うと・・ たとえそれが、甲子園のスタンドであなたに絵を描かせたいという目的のためだとしても、私は、何も言えなくなるのよ」

「せ、先輩・・」

 

 ああ、この人はきっと今でも達也のことが好きなのだと、真実は、今度こそそう確信した。これまでは半信半疑というところがあったが、もはや間違いないだろうと思う。千春がなぜ甲子園という夢を抱いたのかは知らないが、その夢のために、達也が頑張っている。努力してくれているということは、千春にとって、とても嬉しいことに違いないだろう。だから、そんな達也をずっと見ていたのだ。だが同時に、達也が野球を始めた動機が自分とは関係のない部分にあり、違う方向を向いているのだという寂しさも味わっているはずなのである。

 

「たしかに難しいですね」

 

 ぽつりと言った真実の言葉に、千春は、おどろいたような顔で真実をみた。そして、にこりと微笑んだ。

 

「ほんと、難しいんだよね」

 

 真実も、千春に笑みを返した。ちょうど、学校に着いたところでもあり、その日は、そのままわかれたのである。何がそんなに難しいのか。それをお互い言葉にはしなかったものの、どうやら2人には、わかったようである。

 

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