星城高校の物語   作:Syuka

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第4話  壁新聞

 高校生活、2度目の夏が近づいていた。

 達也は、相変わらず2つの部活のかけもちを続けており、そんな達也を、かたわらで見つめるしかできない真実であった。また、栄作に思いを寄せ始めた有紀子であるが、いまだその思いを栄作に伝えるまでには至っていない。彼女のなかで、その思いがはっきりと恋にまで昇華されていないというところか。

 それはともかく、この間、真実の周辺では、ちょっとした異変が起こっていた。野球部のマネージャー、槙村千春の存在である。真実が1年生のときは、まったくといっていいほどに、彼女に会うことはなかった。というよりも、ただ彼女に気づかなかっただけなのだろうが、2年に進級したばかりのサクラの頃に彼女と話をして以来、それこそ頻繁に千春と顔をあわせるようになっていたのである。

 廊下を歩いていれば『あ、真実がいた!』『元気?』『ちゃんと顔をあげて歩きなさい』だのと声が飛んでくる。驚いて振り向くと、そこにはいつも千春の笑顔があった。

 教室にお弁当を持って『一緒に食べよう』とやってきたり、お菓子のおすそわけを持ったきたり、野球部での達也の状況を報告しにきてくれたり、体育館に真実の練習ぶりを見に来てくれたり・・ いつしか、千春に大きな声にびっくりしている真実の姿は、校内でも有名となっていた。また、2人が何かやってるというようなものである。が、他人の目にはそうでも、真実にとって、だんだんと心の負担となりつつあるのは確かなのである。

 悪意など、微塵もない。すべては好意なのである。だが、千春とはあまり仲が良くないのか、クラス内でただ1人の友人である和美は、千春が真実のところへ来るたびに、真実のそばから離れていく。少しずつ真実から遠ざかっていくのだ。このままでは、和美という友人を失うかもしれないと、そんな不安にさえ襲われる。もう少し控えめにしてくれれば真実としても助かるのだろうが、もちろん、そのことを口に出して千春に告げる勇気は、ないのである。

 あの散歩道を歩きながら、愚痴をこぼしたり、悩みを打ち明けたり、ときには涙をうかべたりしながらの日々をすごしていた。そんなある日のこと。

 

「ねぇ知ってる? 転校生がくるらしいよ」

 

 いったいどこから、そんな情報を仕入れてくるのだろう。こういった情報を、真っ先に真実の耳に入れてくれるのは、いつも有紀子であった。

 

「なんでも、編入試験で全科目満点をとったらしいわよ。天才っていうのかしら」

「満点!? いくらなんでもそんなこと」

「ムリだよねぇ、私もそうは思うんだけどさぁ」

 

 一応、星城高校もそこそこ有名な進学校なのである。であるからには、編入試験の問題が特にやさしい、ということはないはずで、全科目満点なんてよほどのことがない限り取れるはずがないと思う。だが、そんなウワサが立つからには、少なくともそれに近い成績であったことは想像に難くない。いったい、どんな人なのだろう。

 

「でも、夏休みまであと1カ月もないのに、こんなときに転校なんてするものかしら」

「どういうこと?」

「普通、夏休みに編入試験とかやって、休みがあけてから登校っていうのがパターンじゃないのかな」

「うーん、どうかな。転校する側にも事情はあるだろうし、2学期まで待ってられなかったんじゃない?」

「あ、そうか」

 

 有紀子にそう言われると、そんな気がしてくる真実である。だが、編入試験ってそんなに頻繁に行われているのだろうか。それとも、随時の実施なのだろうか。どちらにしろ、星城高校の近くに住み、この高校にあこがれて入った真実には、転校など無関係なのであった。

 それから2日後。有紀子から聞いたそのウワサは、真実のクラスへの倉田麻衣子という女生徒の転校によって、はっきりした形となってあらわれる。ただ、その紹介のときに彼女を見ただけでは、全科目満点というウワサが本当なのかどうかは、もちろんわからなかった。

 真実も含め、事前にウワサを聞いていた生徒たちは、誰もが全科目満点なんて取れるはずがないと思いつつも、しかし、数学の授業であざやかに難問を解いてみせたり、英語ではすばらしい発音を披露するなど見ているうちに、ウワサを納得させうるだけの才女であることは、誰もが認めたのであった。

 倉田麻衣子の出身校である敬愛学院は、大阪にある学校である。文武両道をモットーに、運動部もなかなか強いし有名大学への進学率も高い。とはいえ、全国的に有名な進学校、というわけではなかった。その点でいけば、星城高校と同等であるのかもしれない。

 また、かなりの美形でもあり、全科目満点というウワサの相乗効果も加わって、彼女をひと目みようと真実のクラスをのぞいていく生徒は多かった。そんななかで彼女は、明るく笑い、愛嬌のあるしぐさをしてみせるのである。

 真実とは違い、社交的で会話もうまく、とくに男子生徒や先生方に対して愛想をふりまく彼女は、たちまちのうちに人気者となっていった。ただ、その愛想のよい顔のほどんどは男子生徒や先生方にだけ向けられるものであり、女子生徒の間では、いい評判とはならなかった。むしろ、派手好きで高飛車の性格との評価がされていくのである。

 そんな麻衣子が転校してきて4日目。7月を迎えたばかりのその日、何故か彼女は体育館へ。練習中のバスケットコートの中に平気で入り込み、真実の前に立ったのである。

 

「どういうことなの」

「え? なにが。いったい、どうしたの?」

 

 麻衣子の目は、明らかに怒っていた。その顔に、笑みはない。真実は、なにがどうなったのかと、さすがに不安げな様子であった。

 

「正直に言いなさい。あなたいったい、何をしたの?」

「だから、何が? わからないよ」

 

 自然、練習は中断となり、真実のところへ有紀子が駆け寄ってくる。そして、真実と麻衣子の間に割り込んだ。

 

「ちょっと、どういうつもり。いま、練習中なのよ」

「そんな些細なことはどうでもいいでしょ。私は、彼女に用があるのよ」

「だから、なんなのよ。いくらなんでも怒るわよ」

 

 イライラした様子の有紀子。真実も、訳がわからずにいる。そのとき、男子バスケット部は、長距離のロードワークから戻ったばかりで、体育館の脇で準備体操などしているところだった。その男子部員たちも、麻衣子がコートのなかにいることに気づいた様子で、数人が寄ってくる。その中には、栄作の姿もあった。

 

「どうして、私の工藤達也が野球なんかやっているのか、ということよ。聞いたところによれば、その原因は、西崎真実さん、あなたにあるそうね」

「そ、それは・・」

「まさか、違うとは言わないわよね」

「おい、ちょっと待てよ」

 

 この声は栄作であった。チラと、麻衣子の視線が栄作のほうへ動いた。

 

「あら、進藤くんじゃない」

「倉田、こっちに戻ってきたのは聞いてたよ」

「ということでもないんだけど・・ でも、のんびりあいさつなどしている場合じゃないわ。ねぇ、あなたがいて、どうして達也に野球なんかやらせているの。わたくしには、そんなこと理解できないわ」

 

 この会話を、眼を丸くして聞いている真実と有紀子であった。どうやら、栄作と麻衣子は知り合いであるらしい。ということは、達也もそうなのか。

 

「まあ落ち着けよ。いろいろと理由があるんだよ」

「聞きましょうか、その理由を。わたくしは、それを聞くために来たのですからね」

「でもさ、倉田。だいたいのことは知ってるんだろ。だから、西崎のところに来たんじゃないのか」

「ええ。でもね、妙なウワサに振り回されるよりは、こういうことは直接本人に聞いて確かめるのが本当でしょう」

「そうかもな。でも、もう済んだ話なんだ。これはオレたちバスケット部も、もちろん野球部も納得していることなんだ。いまさら蒸し返したくはない。なにしろ、ずっとそのことを気にしているやつもいることだしな」

 

 真実のことであろうか。有紀子も同じことを思ったのか、その目が真実へと向けられたが、すぐに麻衣子や栄作のほうと戻っていく。だが、栄作はなぜそんなことを言ったのだろう。少なくとも真実は、あの大泣き事件が落ち着いてからは、このことを口にしたことはないのだ。

 

「わたしくには関係ないことだわ。ただ本当の理由を知りたいだけなの、だからこうして聞きにきたんですものね」

「倉田、おまえ変わったな」

「はい? なんですって」

「いや、いいんだけどよ。今、練習中だ。少し待っててくれないか。あとで、俺がちゃんと説明するから」

「あーら、何度もいうようだけど、私が聞きたいのは、本人から、なのよ」

 

 少し斜に構え、腕組みをした麻衣子の、斜めに見下ろすような視線。その視線は、もちろん真実に向けられている。

 

「も、もういいよ進藤くん。私が話すから」

「西崎・・」

「倉田さん。ここでは練習の邪魔になるから、こっちで」

「最初からそう言ってほしかったわね」

 

 真実にうながされ、ようやくコートの外に出た麻衣子。有紀子が何か言いたそうにしているが、真実はそれを目で制すると、麻衣子を連れて体育館を出る。別に立ち話でもよかったのだろうが、真実はそのまま、麻衣子を女子バスケット部の部室に連れて行った。そこで腰を落ち着け、事の顛末を話し始める。

 

「私を甲子園に連れてって! か。笑っちゃうわね」

 

 終始、ニコリともせず、無言のまま真実の話を聞いていた麻衣子だったが、真実の話がおわったとみるや、ひとことそう言って、椅子から立ち上がった。

 

「倉田さん・・」

「だいたい私が聞いた話と同じね。正直に話してくれて嬉しいわ」

 

 やはり、麻衣子は大方の事情を知っていたのである。知っていて、真実に喋らせたのだ。もしここで、多少の脚色などしていたら、いったい、麻衣子はどうするつもりだったのか。

 

「でもね、西崎さん。彼がそんなことをしてくれたからといって、勘違いしてはダメよ」

「勘違い?」

「ええ。つまり、彼があなたに好意を寄せている。だから、あなたの望みを叶えようと野球部に入った・・ そんな勘違いなんだけど」

「そ、それは」

 

 そんなことを思ったことが全然ないか、と問われれば、さすがに否定は難しい。有紀子や和美、千春との話のなかでも、それらしいことを考えたことも、何度かあるのだ。だが、そこまでうぬぼれてはいないつもりだった。

 

「教えてあげましょうか、私が転校してきた理由」

「え?」

「知ってるかなあ、倉田電器産業って」

「え、ええ。たしかうちのテレビが倉田電器の製品だったと思うけど」

「あのね、わたくしの名前も、倉田っていうの。つまりわたくしは、倉田電器産業の社長の娘なのよね」

 

 それがどうしたというのだ。たしかに倉田電器は一流の家電メーカーかもしれないが、それは実家の家業なのであって、自分たちにはあまり関係ないのではないか、と真実は思うのである。そういえば、有紀子の家だってかなりの資産家だとは思うのだが、有紀子は、そんなことを自慢したりはしない。そのほうが自然だと思うのだが、麻衣子はそうではないらしい。

 

「それにね、わたくしと達也は、幼なじみだったのよ」

「幼なじみ・・」

「ええ、つまりね、」

 

 麻衣子の話は、こうだ。いまや日本有数の家電メーカーとなった倉田電器産業だが、麻衣子の幼い頃は、まだ中小企業といったところだったらしい。その工場の近くに達也の家があり、麻衣子は、達也ともよく一緒に遊んだものだというのである。

 その倉田電器が、麻衣子が小学校にあがる頃からヒット商品に恵まれはじめ、それが次々と大当たり、またたくまに大きく飛躍していった。そして麻衣子が小学校4年生のとき、一家で引越しをすることになる。もちろん達也とはそれきりになっていたのだが、今、達也との幼い頃の約束を果たすため、この星城高校に転校してきたのだという。

 

「約束って、なんだかわかる?」

「い、いいえ」

「もちろん、あなたになんか、教えるつもりはないわ。だって、私と達也の2人だけの秘密なんですからね」

 

 べつに聞きたくないわよ、と言ってやりたかった。たぶん、テレビドラマなんかにあるような、幼い頃にした結婚の約束だとか、そんな類のことに違いないと真実は予想していた。はたして達也がその約束を覚えているのかどうかは多いに疑問だし、そんな約束が今も有効といえるかどうかについても、おおいに議論の余地はある。だが、少なくともこの人は、その約束を信じて転校までしたのだと思うと、心おだやかというわけにもいかなくなるのであった。

 

「とにかく、わたくしは、達也にふたたびバスケットボールをやらせるつもりだから、邪魔しないでほしいの。そういうことでよろしくね」

「あ、でも、工藤くんはバスケットボールも続けてるんですよ・・」

 

 と、そう言った真実の言葉を聞いたのかどうか、麻衣子は言いたいことだけ言うと、さっさと部室を出て行った。正直、ほっと一息つく真実であった。それからわずかののち、麻衣子と入れ代わるかのように、部室に有紀子が入ってくる。

 

「やっぱり、ここにいた」

「どうしたの、そんなにあわてて。彼女なら、ついさっき帰ったよ」

「そんなの、どうでもいいの。大変なのよ真実、ちょっと来て」

 

 あまりの有紀子のあわてぶりに、何事があったのかと、身を乗り出す真実。その真実の手をぎゅっと握り、引っ張る有紀子。

 

「工藤くんが、ケガしたんだって。今、保健室にいるみたい。槙村千春が、真実にすぐ来いって言ってるらしいのよ。さぁ早く」

「ケガ、工藤くんが・・」

「あ、ケガそのものはたいしたことないらしいんだけど、千春がパニック気味みたいでね。早く行ったほういいよ」

「わかった。すぐに行く。保健室でいいんだよね」

「うん。あ、待って。私も行くから」

「平気だってば、私ひとりでも」

「違うわよ。私だって、工藤くんのことが心配なだけ。進藤くんも、一足先に保健室に行ったわよ」

 

 ともあれ、真実は保健室へと急ぐ。たいしたことないとは言うものの、ケガの程度はどうなのか。やはり、心配である。その保健室では、達也は思いのほか、元気そうであった。野球部員たちや、栄作の姿もある。その彼らに向かって、達也は、少し照れているようにもみえた。

 

「おまえら、おおげさなんだよ」

 

 そんな達也の声。その原因などはわからないのだが、どうやらケガした場所は額だけのようだ。その様子に、ほっとする真実だったが、そこに、千春が近づいてくる。

 

「真実、ちょっときてよ」

「は?」

「話があるの。ここじゃできないから、来てくれる」

 

 そこへ、有紀子が口を出す。

 

「そういうことなら、私も一緒に行きますよ」

「あなたには、べつに話はないんだけど」

「でも、真実1人で行かせるわけにはいきませんから」

「そう。なら、勝手にすれば」

 

 スタスタと歩き出す千春。つづいて、真実、有紀子と、その後に続いていく。歩きながら真実は、千春の話がなんであるかを考えていた。いや、改めて考えなくとも、だいたいの予想はつくのだ。すなわち、達也のケガの原因について、と考えて間違いないであろう。

 達也は、野球部とバスケット部の両方をかけもちしている。片方が文化部であれば、その両立も比較的容易なのかもしれないが、それぞれに運動量の多いスポーツなのである。その疲れから集中力を欠き、ケガをしたということにでもなれば、2つの部活かけもちのきっかけを作った真実に、すべてではないにしろ責任はあるに違いない。

 千春は、そのことを言いたいのかもしれない。

 普段は、真実に対してやさしく接してくれている千春ではあるが、達也の負傷という事態を招いた今、はたして千春の態度は変わるのかどうか。真実は、それが心配であった。いや、そのことよりも、いまはケガをした達也のそばにいたいという思いが強い。だが、ここはガマンするしかないのだろう。

 その千春は、一言も喋らぬまま、そして後ろを振り返ることもなく歩いていく。ちらと、このまま引き返しても気づかないのではないか、と思ったが、有紀子もいることであるし、真実はそのままついていった。千春が立ち止まったのは、グランドを見下ろせるスタンドの上。いつも、真実がスケッチブックを広げているその場所であった。

 

「ねえ、もうやめましょうよ」

「え?」

「あなただって、わかってるんでしょう」

「な、なにがですか」

「あなたが一言、甲子園はあきらめたと、そう言えばいいんだと思う」

「ち、千春さん」

 

 このところ、ようやく千春のことを名前で呼べるようになっていた真実であった。その真実に対して、千春の口から出てきた、その言葉。真実は、前にも一度、千春から聞いたことがあった。

 

「あなたと、こうして話をするようになったばかりの頃、今と同じことを話したわよね」

「は、はい」

「あのとき、私がなんて言ったか、真実は、覚えてる?」

「ええと、その」

 

 もちろん、真実は覚えていた。だが、それを口に出していいものかどうかで迷ったのである。言えば、その続きとして千春の非難へとつながってしまうのではないか、彼女を責めることになりはしないか、それが気になったからである。

 

「あのとき真実は、ちゃんと達也に話をすると言ってくれた。でも、それを止めたのは私だった。だから、責任は私にあるんだよね」

 

 真実は何も言わずに、ただうつむいているだけだった。その真実と千春を、交互に見ている有紀子もまた、言う言葉がみつからないのか、無言であった。ただ、千春の言葉だけが続く。

 

「今更勝手なこと言うなって、怒られても仕方ないのはわかってるんだけどね。でも、なんと非難されてもいいからさ。あと1回、もう1回だけ真実に同じことをいわせてもらってもいいかな」

「はい、もちろんです」

 

 真実が即答する。もちろん千春が何を言おうとしてるのか、それはわかっていた。

 

「両方やっていくなんて、やっぱり無理だった。うまくいってるようには見えても、本人にはすごく負担だった。真実だってそう思うでしょう?」

「え、ええ。それは、そう思います」

「だったら、達也にそう言って。いますぐ言ってきてよ」

 

 と、強い調子でそう言った千春。だが、その表情は、その目は、自身の言葉のとおりに強いものではない。むしろ、泣き出しそうなほどである。

 

「せ、先輩・・」

「私は、3年生だからね。今度が甲子園の最後のチャンス。しかも、最大のチャンスだと思う。うまくいけば実現できそうな気さえしてるわ。それもすべて、達也のおかげだと思う。彼の影響で野球部はとても強くなった。でもね、くやしいけど、それは私のためじゃなくてあなたのため、なんだよね」

「そんなことは・・」

 

 それは違うだろうと、真実は思っていた。もしそうであればこんなに嬉しいことはない。達也の野球部入部のきっかけを考えれば、千春がそう思うのも無理はないのかもしれないし、少しうぬぼれるのを許してもらえるならば、野球部に入部した当初は、間違いなくそうであったはず。だが、近頃の達也をみていると、誰かのためというよりも自分のために続けている、そんな気持ちになってくるのである。

 だが、千春はそうではないようだ。それに、彼女は“くやしい”という言葉を使ったのである。いったいどういう意味がそこにあるのか。何がくやしいのか・・

 

「あなたがこのスタンドに姿を見せたとき、絵を描いてるとき、彼がどんなに嬉しそうな顔をするか、知ってる? もっとも、ここからじゃ彼の表情までは見えないんだろうけど」

「あの、私思うんですけど・・」

 

 これは、有紀子である。真実の後ろにいたのだが、一歩前に出る。

 

「もはや、これは先輩や真実とは関係のないことだと思うんです」

「なんですって」

 

 有紀子の言葉に、真実も驚きの顔を向けるが、なおも有紀子は、言葉を続ける。

 

「最初のきっかけがどうだったかなんて、もう超えちゃってるんです、きっと。今では工藤くんも真剣に、自分自身のために甲子園を目指していると思うんです。チームメイトの人と力をあわせて。でないと、あんなに頑張れないと思います」

 

 有紀子のその言葉は、この頃、自分がぼんやりとではあるが感じていたこと、そのものであった。だが、同じ野球部でいつもそばにいる千春は、明確に否定する。

 

「それは違うわね」

「え?」

「私だって、バカじゃない。達也が野球部に入ったときから今日まで、いろいろと考えてきたうえでのことなのよ」

「先輩。でも・・」

「とにかく、」

 

 強い調子で、有紀子の言葉をさえぎる。

 

「このままじゃいけないのよ。このまま行けば、2つを追いかけてどっちも取り逃がすことになりかねない。どちらかを選ばなきゃいけない。どちらかをあきらめないといけない。じゃあ、どっちにするか。そんなこと、ずっと前から明らかなのよ。だったらいっそのこと・・」

「ちょっと待てよ」

 

 その声に、皆が振り向く。そこには、まるで鉢巻きのごとくに包帯を、額にぐるぐると巻きつけた達也がいた。

 

「3人揃ってどこかに行ったっていうから、様子を見に来たんだけど、好きなこと言ってくれるよな」

 

 真実や有紀子、そして千春の驚きの視線のなか、達也がゆっくりと歩いてくる。そして、千春のすぐ前で止まる。真実と有紀子は、その右横に立っていた。

 

「槙村先輩。俺ね、後悔したくないんですよ。せっかくここまでやったんだから、せめて、この夏が終わるまで、野球部は続けさせてください。お願いします」

「で、でもね達也。この西崎真実さんが納得すれば、それでよかったはずでしょう? バスケの全国大会でも、今ならきっと、彼女は納得するんじゃないの?」

 

 その言葉に驚いたのは、真実である。達也が野球部に入ることになったきっかけ、すなわち、甲子園のスタンドで絵を描きたいという真実の作り話、そのウソが、真実の泣きながらの告白があったにも関わらず、今もってこの2人の間では本当のこととされているようである。だとするならば、この問いかけに達也がなんと答えるのか、その意味するところは、真実にとってあまりにも大きい。それは、達也の心のなかに占める自分のポジションというものを推し量る、いわばバロメーターになるではないか。

 

「先輩、たしかに最初はそうでした。でも、甲子園は今では俺の夢でもあるんです。俺自身が行きたいと思ってるんですよ」

「なるほど、そう来たか。優等生的な返事だよね。でも、私や真実が聞きたいのは、そんな答えじゃないんだってことは、あなただってわかってるんでしょう?」

「あの、先輩・・」

「私はいいのよ、中学のときに終わったことだからね。あれからずっと背番号14で通してたんでしょ。今も先輩としか呼んでくれないし」

 

 そのとき、千春はくるっと体を回転させ、達也に背中を向けた。

 

「今のままじゃダメよ。これじゃどっちも、なんにも得ることはできない。それもわかっているんでしょう?」

「先輩・・」

 

 そしてまた、体を回転させる。

 

「ごめん、よけいなことだったね。もう言わないから」

「あ、あのですね先輩」

「それからね、これは野球部マネージャーとして言うんだけど、」

「は、はい」

「今日は、練習もういいわ。それと明日は休みなさい。バスケット部もだめよ。いいわね、これは命令だからね」

「命令?」

「そうよ。予選は土曜日から始まるんだし、それ以上は休ませない。それにバスケの予選が始まるのは1週間遅れでしょ。いいじゃないの」

 

 それだけ言うと、軽くウインクして走っていく千春。その千春を見送りながらも、真実は整理しきれない心の中に、少々、動揺を感じていた。きっとそれは、有紀子や達也も同じであったに違いない。真実のなかで、これで何度目になるのかはわからないが、もはや千春が達也を好きであるという確信にも似た印象付けが、より一層強く行われていた。もはやこれは、疑いようのない事実なのである。だが、千春もいうように、それは決して実ることのない思い。そこに、あの背番号14がどのように関係しているのかはいまひとつわからないのだが、中学時代に別れた2人が、もう元に戻ることはない・・

 真実は、明日以降、いままでのように千春の顔を見ることができるのかどうか、不安であった。野球部の練習で、常に顔をあわせねばならない2人。達也はともかく、千春にとって、それはとてもつらいことではないのか。そのきっかけを作ってしまった自分の罪は、あまりに重い。

 それぞれが、様々な思いを抱え、たたずんでいたその場所へ。

 

「どういうことなの!」

 

 あの、倉田電器産業の社長令嬢、倉田麻衣子の登場である。

 

「西崎真実、あなた、達也のことなんだと思ってるの?」

「おいおい、なんだよいきなり」

 

 真実にとびかからんばかりの勢いの麻衣子の前に、達也があわてて割って入る。

 

「だって、西崎さんが達也にケガをさせたっていうじゃないの。まったく、なんて人なのかしら」

「それは違うぞ」

「え? でも、そんな噂になってるわよ。それを聞いていてもたってもいられなくて、来たんですもの。だいたい、野球なんてものをやっているからこうなるのよ。やらせた方の西崎さんもそうとうなものよね。しかも、私の達也にちょっかいをかけようなんて、」

「おい、麻衣子」

「え?」

 

 達也が声をかけなければ、まだまだ麻衣子はしゃべりつづけていたであろうし、おそらくは真実への痛烈な悪口へとつながっていったはずである。いいタイミングであった。

 

「噂なんて信用するな。目の前の事実だけを見ろよ」

「どういうこと」

「俺は甲子園に行きたい、だから野球をやっている。おまえには、俺が誰かに強制されて、イヤイヤやっているように見えるのか」

「それを外見だけで判断しろと言われても、無理というものだわ。確かに強制じゃないかもしれない。けど原因を作ったのはその女でしょう」

「とにかく、俺は自分の意思でやっている。西崎は関係ない」

「その言葉、信用していいのね」

「ああ」

 

 そこで、麻衣子はこれ以上はないといった嬉しそうな顔で、真実をみる。

 

「聞いたでしょ、あなたは、かんけいないんだって」

 

 終わりのほうは、一文字一文字を強調するように、真実に対し、しっかりと発音する。そして。

 

「じゃあ、私はこれで」

 

 と、去っていく麻衣子。まさに、言いたいことだけ言ってさっさと引き上げていくといった格好である。だいたい、達也のケガを気遣う言葉など、一言もなかったではないか。そのことが心配で来たのではなかったのか、と真実は思うのである。それとも、真実に文句を言いたかっただけなのか。

 それはともかく、達也は、ケガのこともあるしこのまま帰宅するという。ということで、その場には、有紀子と真実が残された。

 

「私たちも帰ろうか。それとも、練習に戻る?」

「有紀子は戻ったほうがいいよ。私は・・」

「真実は?」

「私は今、思いっきり絵を描きたい気分なんだ。そのへんでスケッチしてから帰る」

「ね、真実」

「ん?」

 

 千春のこと、麻衣子のこと、そして何より達也のこと。これだけのことが重なれば、真実にとってかなり負担であるはずなのに、有紀子の見たところ、真実の顔はいつもとかわらぬ穏やかなものだった。少なくとも、有紀子にはそう見えた。これなら大丈夫かな、と判断した有紀子は、その場で真実とわかれ、練習に戻ることにしたのである。

 

「じゃ私は体育館に行くからけど。あとで、描いた絵はちゃんと見せてよ」

「うん」

 

 しかし、このとき真実が何の絵を描いたのか、有紀子が知ることはなかった。その日、あのサクラ公園の散歩道の中ほどにあるベンチに座り、あたりがすっかり暗くなるまでスケッチブックを広げていた真実ではあったが、そのときに描いた2枚の絵は、有紀子が何と言おうが、決して見せなかったのである。

 その週末から、いよいよ甲子園大会の予選が始まった。センターのポジションを獲得し、レギュラーとして定着した達也の攻守にわたる活躍。真実は、バスケット部の練習もそこそこに、時間の許す限り球場へ出かけ、試合の様子を丹念にスケッチしていったのである。真夏の陽射しの下、日よけを兼ねた帽子をかぶり、スタンドに陣取って応援しながら絵を描く。この球場が阪神甲子園球場でないことが、残念といえば残念であったが、それなりに雰囲気はあった。

 このとき描いた絵のいくつかを、真実は特大の画用紙に壁新聞風に仕上げてみたりもしたのである。その壁新聞を見た有紀子は、これを学校の掲示板に貼ろうと言い出す。そんな掲示物を生徒会や学校側が認めないはずだからと、真実は遠慮したのであるが、結局それは、有紀子によって半ば強引な形で掲示されるのである。ところが、生徒たちの間で思いのほか好評だったためか、咎める立場にある生徒会や先生方が黙認してくれたのは、真実の予想外のことであった。

 その壁新聞の第2号の掲示のときのこと。掲示板のまえにできた人だかりがようやく一段落したころになって、1人の女生徒がその前に立った。野球部マネージャーの植村千春である。

 千春はその壁新聞の前で、長い間じっとたたずんでいた。そんなとき彼女が何を考えているのか。もちろん、それは彼女にしかわからないことなのだが、その千春の様子を離れたところから見つめている真実であれば、あるいは想像がついたのかもしれない。

 だからというわけでもないのだろうが、真実は、ゆっくりと千春のところへと近づいていった。そして声をかける。

 

「千春さん」

 

 突然の真実の声に、千春はかなり驚いた様子ではあったものの、その口調は、いつもと同じであった。

 

「あぁ、真実か。この絵描いたの、あんたなんでしょ」

「はい。ほんとはこんなところに貼り出すつもりはなかったんですけど、有紀子がムリヤリに」

「いいんじゃないの。よく出来てるよ」

「ほんとですか」

 

 ほめられたのである。ならばもっと喜びを表わしてもよかったのだろうが、真実は、あまり嬉しそうな感じにはみえなかった。

 

「真実がスケッチしているところはしょっちゅう見てるけど、こうして、出来上がった絵をみるのは、はじめてだよ。すごい上手じゃない」

「ありがとうございます」

「どうしたの、もっと喜びなよ。私は、本当に感心してるんだよ」

 

 やはり、真実の声に元気がないのが千春にもわかったようである。うつむきかげんの真実が、顔をあげる。

 

「千春さん、私、ちゃんと言います。この大会が終わったら、はっきりと言いますから」

「どうしたのよ、真実。誰に何を言うって?」

「工藤くんに、です。野球部を応援しながら、スタンドで絵を書きたいっていう私の夢、それは、ちゃんとかないました。ありがとうございましたって」

「ま、真実。あんたやっぱり・・」

 

 そこで、千春の言葉はとぎれた。いや、千春だけでなく、真実も。かなりの時間、2人は無言のまま向かい合っていた。

 

 

  ※

 

 

「あのう、西崎真実さん、います?」

 

 突然、真実の教室を尋ねてきたのは、2人の女生徒。いずれも、3年生であった。壁新聞の絵が意外に好評で、あちこちで声をかけられていた真実だったので、今度もそれだろうと思い、気がすすまないものの、2人の前へと歩いていく。

 

「あなたが、西崎さん?」

「はい、そうですけど」

「お願いがあってきたんだけど、少しだけ時間いい?」

「あの、どういうことですか?」

 

 その女生徒は、北村亜由美といい、美術部の部長をしていると名乗った。もう1人は、生徒会の副会長、茂野涼子であった。

 

「ズバリというわ。あなた、美術部に入らない? その勧誘に来たんだけど」

「え? で、でも私は・・」

「知ってるわ。バスケット部だっていうんでしょう。もちろん、かけもちでいいのよ。週に何度か顔を出してくれるだけでもいいんだけどな」

 

 意外な申し出であった。真実自身、美術部に興味がないわけではない。むしろ、自分にとっては、よりふさわしいかもしれないとさえ思っているのである。

 

「あなたの絵を見たわ。うちの部の誰よりも、スゴイと思った。そんな人がどうして、バスケット部なのかって、とても不思議に思ったのよ」

「それは・・ あの、私、中学のときからバスケットやってましたから」

「そうらしいわね。でも、練習の合間にいつもスケッチしているそうじゃない。その時間を美術部にくれればって、そう思うんだけど」

 

 どうやら、真実のことをあらかじめ調査したうえで、ここに来ているらしい。となれば、簡単には引き下がってくれないかもしれない。

 

「でも、私のスケッチは趣味ですから」

 

 そう、趣味なのだ・・ 真実は、改めてそう思うのであった。悲しいときやつらいとき、嬉しいときや落ち込んだとき、みじめなとき、なさけない自分になりそうなとき、つらいけど涙はみせたくない・・ そんなときにこそ、絵を描きたいのである。なにか心に動きがあったとき、その気持ちを整理し落ち着けるためにこそ、これまで絵を描いてきた気がするのだ。

 

「けど、あの絵は良かったわよ。あんな画用紙じゃなく、ちゃんとしたキャンバスに描いてみたことはないの?」

「え、ええ。いつもスケッチブックに書いてますから」

「正直に言わせてもらうとね、この秋の作品展にあなたの絵が欲しいのよ。それに向けて絵を描いて欲しいの。お願いできないかな」

「でも・・」

 

 美術部に魅力は感じている真実である。その誘惑にひきつけられていくのが自分でもわかるのだが、入部するわけにはいかないのであった。いま絵を描けば、きっと泣いてしまうと、そう思っているからである。美術部に入れば、部員たちの前で絵を描くことになるだろう。その前で、涙などみせたくないではないか。

 見た目、元気そうに見える真実。だが、彼女の頭の中には、いくつかの切ない想いや、消すことのできない言葉が渦巻いていた。心の中では泣いていたのである。

 悲しくて切なくて仕方がない。野球部の応援に出向いた球場のスタンドでは、涙を見せることもなく、ちゃんと絵を描いてはいるのだが、その手にスケッチブックを抱え、あのサクラ公園の散歩道を通る帰り道では、いつも、真実は泣いていた。

 達也が、麻衣子を前にして言ったあの言葉。『西崎真実は関係ない』のだと言った、あの言葉が、深く心に刺さっていた。また、壁新聞の貼られた掲示板の前で、ずっとたたずんでいた千春の、その想い・・ そのどれもが、何度も何度も真実の頭の中でリフレーンを繰り返す。

 

「そうだ、入部手続きのこことか心配してるんだったら、平気だよ。そのために、こうして生徒会の副会長さんを連れてきてるんだから。個人に、直接入部の勧誘をするのが禁止されてることも知ってる。でも、生徒会にお願いして、なんとか許しをもらったの。副会長さん立ち会いのもとでならってことで許してもらったんだから」

 

 そんな校則があることは、もちろん真実も知っている。むしろ、星城の生徒であれば、知っていなければならないことであった。

 

「生徒会にも、バスケ部にも話はしてあるの。植村千春からも推薦もらってるし、あとは、あなたさえOKしてくれたら、それですべてうまくいくのよ」

「あの、千春さんが何を?」

「千春と私は、同じクラスなの。その千春がね、カベ新聞のこと教えてくれた。あなたの絵がもっと見たいから、美術部に入れてぜひとも描かせてくれって頼まれてるのよ。あ、そうだ。あなたがいつも持ってるっていうスケッチブックは、みせてくれないよね・・」

 

 恐る恐るといった感じで、そう言う亜由美であった。少し前であれば、部分的にはみせてもよかったのだが、今となっては、とうていムリなことであった。

 

「すみません、それだけは見せるわけにはいきません」

「だと思ったけどね。とにかく、考えておいてよ。また明日くるから」

「は、はい」

 

 2人は帰っていったが、真実にとっては、新たな問題の出現であった。美術部に魅力はある。こうして誘われれば、その想いがさらに強まっていく。だが、バスケット部も夏の大会の予選が始まっているのである。有紀子とは違って補欠ではあるが、だからといっておいそれと乗り換えるわけにはいかないし、達也のようにうまくかけもちができるとも、思えなかったのである。

 

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