夏休みの初日は、男女バスケット部の試合の日でもあった。夏の大会予選の、2回戦である。補欠の真実に出場機会はなかったものの、試合のほうは快勝であった。男子のほうも、この日は野球部をお休みした達也と栄作の浅香中時代から続くコンピネーションがうまくかみあい、手堅く勝ち星をあげていた。
この間、補欠選手の真実は女子部の試合の合間を縫って、男子部の試合も応援する。その点は気楽なもの、といえるのかもしれない。ときにはスケッチもしてみるのである。
その帰り道のこと。
真実は、いつものとおりに、サクラ公園の散歩道を通る。だが、その日、真実は泣きたくなることもなく、その道で立ち止まることもなく、通りすぎていた。そのことに気がついたのは、家に帰り、自分の部屋に戻ってひといきついてからだった。
そういえば、今日は泣きたくなってはいない。なぜだろう、と真実は考える。
野球部の試合にはあって、バスケット部のそれにはないもの。おそらくはそれが原因なのではないかと、真実は思う。では、それらの差分とは何だろう。
思いつくのは、野球部の女子マネージャー、槙村千春である。彼女は、野球部の試合には当然顔をみせるものの、バスケット部の試合には1度も来たことがないのである。では、バスケット部の試合のときにだけ達也の応援に現われ、野球部は見向きもしないあのお嬢様、倉田麻衣子はどうなのか。いつも、一方的に文句を言われるだけで、満足に話もしたことのない麻衣子であるが、その麻衣子のことを思い出すとき、どうしても、彼女に向かって達也が言ったあの言葉、「西崎は関係ない」と言ったあの言葉が思い出されるのである。とすれば、麻衣子の存在こそが涙の原因なのだろうか。
きっと、そう考えるほうが自然なのだろう。だが、実際に涙が流れるのは、麻衣子のいない、野球部の試合の帰り道なのであった。今日だって、バスケットボールの試合会場に、ちゃんと麻衣子はいたのである。では、千春なのか。自分の心の中でありながら、よくわからない。それが、真実にはもどかしかった。いったい、“しんじつ”はどこにあるのだろう。
※
「真実、大変だよ」
「え?」
練習前の日課になっている、グランド10周。その10周をちょうど走り終えた真実のところへ、有紀子が持ってきた“大変”な情報とは。もちろん気になることだが、有紀子のことである。もったいぶってすぐには言わないであろうと想像し、ゆっくりと深呼吸などして息を整えようとする真実である。だが。
「とうとう、野球部と試合がかさなったちゃったのよ」
「うそ!?」
野球部とバスケット部、その双方が勝ち進めば、当然ありうるべき事態であった。日程が重なったのは、野球部の準決勝とバスケット部の4回戦(準々決勝)だった。
「昨日、雨で試合が中止になったでしょ。その関係で試合時間とかが変わったんだって」
「じゃ、じゃあどうなるの?」
屋外で行われる野球部の試合は、天候の影響で試合日程が変更されることがある。そのためにこの事態となったのだが、さて、野球部とバスケット部のかけもちをしている達也は、そのどちらの試合に出場するのか。真実たちにとっても大きな問題である。そうなった場合、いったいどうするのか。誰もがその可能性を感じていながらも、これまでちゃんと考えてはこなかった、無意識に答えをさけていた難題。はたして、達也はどちらを選ぶのだろう。
「私、ちょっと千春さんのところに行ってくる」
「あ、真実。ちょっと待ってよ」
「なに?」
「行ってどうするつもりなの? ちゃんと答えは持ってるの?」
答え? そうか、行けば当然聞かれることになる。真実は、どっちの試合に行って欲しいのかと。有紀子の言うのは、そのことであろう。だが、真実の足を止めたのは、むしろその質問を、千春にしてしまうかもしれない、という思いであった。その答え、その返事が、千春の心の中にはあるのだろうか。
「わたしたちには、なんにもできないんだよ、真実」
「う、うん。そうだよね」
達也にどうしろ、なんて言えない。出来るのは、ただ、応援するだけ。有紀子はそう言うのである。真実は、そんな有紀子の言葉に納得したふりをし、ともかく体育館に戻ることにしたのである。いま、グランドには、明日に試合を控えた野球部が、練習をしている。そこに千春がいるし、達也もいる。話をしたい気分であったが、野球部も練習中なのだし、どちらにしろ、いまはムリであろう。
明日は、女子バスケット部もベスト8が激突する試合が行われる。その同じ試合会場で、男子バスケット部も4回戦(準々決勝)が行われる。野球部は、明日勝てば、いよいよ甲子園出場をかけた決勝戦にコマをすすめることになる。試合の日程こそうまくズレていてくれさえすれば、万事順調であったのに。
どういうことになるのかはわからないが、明日はきっと長い一日になるだろうと、その日の帰り道、真実は思うのであった。
夕暮れ時の、サクラ公園の散歩道。建物の影でよくはみえないのだが、西の空はどうやら夕焼けの様子。雨でも降れば野球部の試合は中止となってくれるのだろうが、その気配はない。いつものベンチに腰掛けた真実は、ゆっくりと空を見上げた。
実をいえば、真実の気持ちのなかには、有紀子との話のなかにでてきた、あの質問の答えは、ちゃんとあったのである。すなわちそれは、いまも校舎の掲示板に貼られているはずの、あの壁新聞にある。千春であるならば、おそらくはその意味もわかってくれているはずなのだ。
真実は、その壁新聞の前にずっとたたずんでいた千春のことを思い出していた。その千春に声をかけ、球場のスタンドで絵を描きたいといった自分の望みは、これでかなったのだと、そう告げてある。千春は、何も答えてくれなかったが、真実の意図はわかってくれただろう。だが、この夏の大会が終わってから、とも言ってしまったのである。
まだ、大会は終わってはいない。さて、どうすることが一番いいのか。真実は、陽が落ち、あたりが暗くなるまで、そのベンチに座っていた。
※
「よう、西崎。どうしたんだこんなところで」
「あ、進藤くん」
こんなところ・・ 普通ならば、真実がいるはずのないその場所は、工藤達也の家のすぐそばであった。
野球部の試合とバスケット部の試合日程が重なった、工藤達也、究極の選択のその日。真実は、達也の家の前にまで来ていたのだ。だが、玄関のチャイムを押すことなどできず、近くの曲がり角に身を隠しながら、達也が家を出てくるのを待っていたのである。そんな真実を肩をポンと叩いたのが、進藤栄作であった。
「心配して様子を見に来たんだろ」
「う、うん。まあね」
「俺も同じだ。なぁ西崎、おまえはどっちの試合に行って欲しい?」
「そ、それは・・」
その質問の答えは、すでに真実のなかにある。だが、栄作には言えなかった。そんな真実に、栄作は大きくうなずいてみせる。
「べつに言わなくていいぞ。わかってるつもりだしな」
「え?」
「それに、あいつがどちらを選んでも、それを責めることなんかできない。ただ、俺たちはその決定を受け入れるだけ。そうだろ?」
「う、うん。そうだよね」
「決めることができるのはあいつだけだ。だがな、西崎。俺は言ってやったぞ、バスケットの試合に来いってな」
「ほんとに」
それには、真実は驚いていた。自分には、とてもそんなことは言えないだろう。だからこそ、こうして達也の家のチャイムを押すこともできず、物陰に身を隠しているのではなかったか。
「ああ、ビシッとな。じゃないと、また、西崎を泣かせることになるだろ」
「あ、えっと・・ その」
栄作の言葉に、思わず顔が赤くなる真実だった。どうして栄作はそんなことを言うのだろう。栄作の前で涙を見せたのは、1年前の体育館での大泣き事件のときだけのはずである。それ以外で、実際に涙を見せることといえば、あのサクラ公園の散歩道以外にはない。まさか、あの公園に栄作もくるのだろうか。泣いているところを、栄作に見られていたとでもいうのだろうか??
「だけどな。西崎がどう思うかはわからないんだけど、おそらくあいつは野球部の試合に行くと思うぜ」
「どうして?」
「簡単さ。あいつがいなきゃ、野球部は準決勝で勝てない。だがバスケット部は、達也がいなくても、4回戦は勝ち抜ける。つまり次があるってことだ」
その栄作の言葉に、真実はすぐには答えなかった。時間にすればわずかの間だったかもしれないが、真実が何事か考え込んでいたのは確かだし、それは栄作にもわかった。
「・・そうだよね」
「なんだよ、いまいち納得できてないって感じだな」
「だって・・」
そこまで言って、真実は言葉を切った。ちょうどそのとき、達也の家のドアが開いたこともあり、不自然な感じはしなかったはずだと真実は思っていた。そして、その続きである『勝てる保証がどこにあるのか』という言葉を、ぐっと飲み込んだのである。
その達也の手には、星城高校野球部と文字の入ったスポーツバッグ。そして、バットケースがあった。青地にオレンジのストライプの入った、バスケット部のスポーツバッグではなかったのである。
「これでいいのさ」
栄作が真実を見る。真実もゆっくりとうなずく。達也は、真実や栄作に気づくこともなく、足早に駅の方へと向かっていく。その達也の姿が見えなくなってから、ようやく真実と栄作も、駅への道を歩き始めた。その歩調は、達也のそれとは違い、ゆっくりとしたものであった。
「なあ、西崎」
「え? なに」
「さっき、言いかけたこと、聞かせてもらってもいいか」
「言いかけたこと?」
栄作が無言でうなずく。それは、ついさっき、達也が家から出てきたときに、真実が言葉にできなかったそれ。ぐっと飲み込んでしまったその言葉を、彼は聞きたいというのだ。だが、試合を前にした栄作に、むろん言えるはずはない。言えば、栄作にプレッシャーを与えることになるかもしれないし、それに失礼なことではあるまいか。終わったら、試合が終わってから、こんなことを考えたことを話し、謝ろうと思う真実であった。
「言いにくそうだな。でも、はっきり言ってくれてもいいんだぞ。だいたい、予想はできてるんだ」
「でも。ううん、そうじゃないの。ただ、まとまらないだけ。ちゃんと考えをまとめてから話すよ」
「そうか」
「うん。試合が終わったら、話す。だから、待ってて」
「おっけー」
ゆっくりと歩いていたせいであろう、すでに電車に乗ってしまったらしく、駅に達也の姿はなかった。真実と栄作も、試合会場に向かう電車に乗らねばならないので、ホームの人の列に並ぶ。
「そういえば、おまえ、美術部に入るんだってな」
「あ、うん。でも、2学期になってからだよ。それも、バスケット部とかけもちでね」
「ふーん。でも、大変じゃないのか」
「そうかもしれない。でも、今でもしょっちゅうスケッチとかしてるし、そんなにかわんないと思うよ」
「かもな」
電車がやってくる。この電車に乗らねば、バスケット部の集合時間には間に合わない。予定では、野球部の試合は11時から。バスケット部の試合は男子が11時、女子は10時となっていた。男女ともバスケット部は、この日の試合に勝てば1日おいて準決勝、決勝となる。ちなみに、野球部の試合が行われる球場とは、電車を使っても1時間近くの距離があるため、両方の試合を掛け持ちするには、無理があった。
定刻より少し遅れて開始された、女子バスケット部の試合。その試合開始のホイッスルが鳴ったとき、真実は、いつもの試合とおなじくベンチに座っていた。だが、普段と違うのは、その真実の隣に有紀子もいたことである。有紀子がスターティングメンバーのなかにいないのは、めずらしいことであった。そのことを変だなと思いつつも、その有紀子とベンチで話したのは、もちろん達也のことである。
「ほんとは、野球部の応援に行きたかったんじゃないの?」
「でも、私だってバスケット部員だからね。たとえ補欠でもさ」
「けど、壁新聞はどうするのよ」
「あれは・・ どうしようかな」
と、そう答えたきり、真実はじっとコートの上を見つめていた。実際、壁新聞のほうはもう作らなくても、真実にとってとくに問題はない。すでに目的は達しているからである。それよりも、今日の相手は、かなりの強豪チーム。本来のレギュラーである有紀子抜きでは、まともに戦えないはず。なのに、その有紀子がベンチにいる。そっちのほうが問題である。次第に真実は、そのことが気になりはじめていた。
「ね、有紀子。さっきから思ってたんだけど、どうしてベンチなの?」
「私? さぁ、どうしてかしらね」
と、そう言いながらも、有紀子はしきりと試合の残り時間を気にしている様子である。まだまだ試合の序盤とはいえ、点差もなく、ほぼ互角と思われた。
「でも達也くん、ほんとはこっちに来たかったんだと思うよ」
「どうかな。わかんないよ、私には」
「へぇ、真実がそういうとは思わなかったな」
「なんで?」
「だって、昨日、千春のところに行こうとしてたじゃない」
グランド10周を走り終わった頃に、有紀子から試合日程が重なったことを聞かされた。あのとき、植村千春のところに行こうとした自分。有紀子に止められて、結局、千春と話をするには至らなかった。そのことを言っているのだろうが、それと達也自身の気持ちとは無関係である。
「私もね、達也くんがどんな気持ちでいるんだろうって、考えてみたの。どうするのが一番いいのなかってさ。でも、いくら考えたって所詮は想像だからね。だったら、自分が体験してみるしかないって思った」
「あ、じゃあ有紀子がベンチにいるのは」
「うん。いまだったら私、達也くんの気持ち、わかるかも」
その有紀子の視線は、もちろんコート上。最初は互角に見えた試合も、時間の経過とともに、少しずつ相手のペースとなりつつあった。点差もそろそろ2ケタが近づいてくる。
「試合ってね、絶対なんてものはないんだよ」
「そうだね、わかる気がする」
「勝てるって保証なんて、どこにもない。まして、レギュラーポジションにいる自分が出場しなかったとしたら・・ とても、平気じゃいられないよ」
補欠の真実に、レギュラー選手のそんな気持ち、その細かい部分まではわからないのかもしれない。だが、勝てる保証付きの試合などないとした、有紀子の言葉には納得できた。その通りだと、思った。だからこそ、栄作と話をしたあのとき、今の有紀子と同じようなことを言おうとしたのだ。
「だったら、試合に出たらいいじゃない。まだ前半だし」
「うん。でもさ、達也くんは出たくても出られないんだよね。ましてや、試合の経過すらもわからない。たまんないよね」
「う、うん」
出たくても試合に出られないという経験ならば、真実はこれまでたくさんしてきている。その裏返しで、常に試合に出ているレギュラー選手の立場になったことはない。だから、レギュラー選手としての気持ち、その細かい部分についてはわからない部分が多いと思う。であるにしても、試合に出ているほうが気持ち的には楽なのではないかと、真実は思っていた。
「こんな気持ちを抱えて、野球部の試合に出てるのか。私、尊敬しちゃうなぁ、あの男。好きになりそうだよ」
「有紀子!」
有紀子が、ぺろっと舌を出して笑う。冗談だよ、とでも言いたかったのか。そして。
「もう限界」
その言葉が合図だったかのごとくに、有紀子はベンチから勢い良く立ち上がった。そして、コートの中にいるキャプテンに声をかける。
「麻川先輩!」
そのとき、ちょうどキャプテンの麻川が、相手のボールをインターセプトしたところだった。攻守の入れ替わり。ほんのわずか、選手の動きがゆっくりとなったとき。
麻川が、ボールをもったまま有紀子の方を見た。そして、なぜかVサイン。たぶん、このことは有紀子との間で話しが出来ていたに違いない。でもなければ、レギュラーの有紀子がベンチスタートになるはずがないのである。
試合の動きは止まらないが、有紀子はそのままオフィシャル席に行き、選手の交代を申し入れた。ハーフタイムまであと7分ほど。点差はいつのまにか11点。逆転できるかどうかは、ギリギリの線であろう。そして、有紀子がコートに入る。その姿を目で追いかける真実。
そのとき、『試合に絶対なんてないんだよ』という有紀子の言葉が、真実の頭の中でリフレーンしていた。わかる気がする、と思った。現に栄作と話をしていたときも、同じ事を考えた。その言葉の意味するところは、すなわち、男子バスケット部が負けるかもしれないということ。そしてその原因は、達也が野球部の試合に出ていたことにつながる。もしそうなったとしたら、その責任はいったいどこに? 誰に?
真実は、ただ、負けないことを祈るしかなかった。コートのなかを駆け回る有紀子をはじめとしたチームメイトを、見守るしかない真実だった。有紀子も真実も、負けられないという思いは同じ。そこに、レギュラーと補欠の差などは、どこにもなかった。
時計の針が11時を指す。同じ体育館内の、Aコートと名づけられたコートでは、予定どおりに男子部の試合が開始される。その男子部の試合を、真実たちは応援するはずであった。だが、普通であれば試合は終わっているはずのその時刻、女子部は大接戦のすえの延長戦を戦っていたのである。
その延長戦も、残り3分弱。真実たちのCコートに、審判のホイッスルの音が響く。ファールを取られたのだ。誰が? 真実の視線のその先に、思わず顔を手のひらでおおった有紀子がいた。
この日、有紀子が犯した通算5つ目のファールであった。普段の有紀子であれば、ファールなどせいぜい2つくらいのものなのだが、この試合、前半の失点を挽回しようと少し強引なプレーが目立っていた。もちろんこの時点で、有紀子は退場となってしまうのである。
「有紀子・・」
ベンチに戻ってきた有紀子に、真実はかける言葉が見つからなかった。その有紀子は、すこしだけ真実に笑顔をみせたものの、ベンチのいすに座り、下を向いてしまう。だが、この時点で3点リードしていたのが幸いした形となり、かろうじてリードを保ったまま、試合終了を告げるピストルの音を聞くことが出来た。わずか1点差の、まさに薄氷を踏む思いの勝利。
「勝った。勝ったんだよ、有紀子!」
試合終了の瞬間、真実は、そう叫んでいた。下を向いたままだった有紀子が顔をあげる。そこに、キャプテンの麻川や、チームメイトたちが集まってくる。
ひとまずほっとした有紀子であったが、この苦戦は自分のせいなのだと、そう思わないではいられなかった。自分のわがままさえなければ、いや、退場にさえなっていなければ、もう少し楽に戦えた。
自分を責めていた有紀子であったが、それでも勝ったことで、救われた気持ちになったことは確かであった。そんな有紀子たちのもとに、前半終了時点で7点負けている、という男子部の状況が知らされたのだ。
「うそ、そんなばかなこと」
まさか、まさか男子部が負ける?? もし、そんなことになったら・・
そうなったらどういうことになるのか、真実も有紀子も、そんなことは考えたくもなかった。あわててAコートに駆けつけ、栄作に声をかける。その栄作は、思いのほか落ち着いているようだった。
「心配すんな。余裕だよ」
ハーフタイムのとき、栄作はそう言って笑った。だが、現実はあまりも厳しかった。試合終了後、誰もが肩を落とし、元気なく歩く駅への道のり。この時間だと、野球部の試合も終わっているはずなのだが、その結果は、まだ知らされてはいなかった。
真実が、栄作のそばへ近づいてく。
「進藤くん、ちょっといい?」
「なんだ」
「今朝のことなんだけどね」
「今朝のこと?」
うつむきかげんで歩いていた栄作が、ようやく顔をあげた。
「うん。試合が終わったら話すって言ってたでしょ」
「ああ、あのことか。へえー、教えてくれるのかよ?」
「そのつもりだったんだけど、いろいろ考えてみても、わからなかったから・・ ごめんなさい」
「なあ、西崎」
「え?」
「いいんだぞ、正直に言ってくれて」
「だ、だから」
「おまえはあのとき、このことを心配したんだろ。相手のあること、勝てる保証がどこにあるのかってさ」
「さ、さあ、どうだったかな」
「ウソがへただな。あのとき、俺に気をつかって言わなかったんだろ。わかってたさ」
「ご、ごめんなさい」
「4回戦は必ず勝てると、俺はそう言った。なのに負けた。さて、達也にはなんて言うかな」
その栄作の言葉に、返事を返すことができない真実であった。真実にしても、今度、達也と会ったとき、なんと声をかければいいのかわからない。きっとそれは、有紀子や達也にしても、同じにちがいない。ならばいっそ、誰もそのことに触れなければいい。みんな忘れてしまえばいいのに・・
だが、この日の敗戦は、誰の頭の中にもしっかりと刻み込まれていた。今日は、これから部室で試合後のミーティングを行い、解散する予定となっていたから、みな一緒に電車に乗る。そして、学校へと戻るのである。
その校門前に、倉田麻衣子がいた。麻衣子は、真実の姿を認めるや否や、すぐさま駆け寄ってきた。そして、こう言ったのだ。
「野球部が負けたそうよ」
誰もがその瞬間、足を止め、その言葉を受け止めた。そして、また部室へ向けて歩き始める。だが、栄作、有紀子、真実の3人は、その言葉のあまりの大きさに強い衝撃を受け、その場に立ち止まっていた。
「しかも、男子バスケット部も負けたそうじゃないの」
重ねての麻衣子の言葉。その麻衣子の鋭い視線は、真実、ただ一人に向けられていた。真実になんらかの返事を求めているのだ。だが、なんと返事をすればいいのか、真実にはわからない。だから、立ち尽くしたままである。
「この責任は、どうとってくださるのかしら?」
「それを、キミには言われたくはないね」
「あら、どうしてかしら?」
麻衣子にそう言ったのは、栄作であった。栄作もまた、つらい気持ちを抱えていたに違いないのに。
「キミは部外者、それだけのことだ。簡単だろ。さあ行こうぜ」
そして、歩き始めたのだが、それを麻衣子が止める。
「待ちなさいよ。私が部外者ですって?」
「ああ。バスケ部員じゃないだろ」
その言葉は、麻衣子の表情にいらだちを誘い、そこに怒りの色も混じる。が、かろうじてその気持ちは押さえ込んだらしい。
「ま、まあ、いいですわ。ではどうぞ」
と、栄作の前から、数歩、右による。開いたところを栄作が、そして有紀子が通り、最後に真実が。
「西崎さん」
「え?」
「あなたは、簡単には通れないはずよね」
「だ、だって・・」
困った顔でそう言う真実を、麻衣子は、いつもの斜めに構えた腕組みポーズで見下ろしていた。
「それとも、あなたも私が『部外者』だっていう言い訳するつもり?」
「倉田さん」
「あなたの場合は、そういうわけにはいかないわね。だって、この結果を招いた張本人ですもの」
栄作と有紀子も、足を止めていた。その2人をチラと見た麻衣子が、微笑む。
「ちょうどいいわ、立会人になってくださいね」
「何のよ」
これは、有紀子である。その声には、少し怒りがこもっているようであった。
「この西崎真実さんへの、私のライバル宣言。その証人になって欲しいの」
「ライバル宣言?」
栄作、有紀子、そして真実の3人が同時に発した、その言葉。麻衣子の顔には、満足そうな余裕の笑みが浮かんでいる。
「ええ。悔しいけれど、現段階では真実さんが優位にいるのは認めるわ。でもね。私は、真実さんから達也を奪ってみせる。達也の恋人になるのはこの私よ」
誰もが、言葉を忘れた静寂のとき。だか、それは長くは続かなかった。
「では、そういうことで」
麻衣子が帰ろうとしたのだ。その麻衣子を、真実があわてた様子で呼び止める。
「倉田さん、待ってよ」
「なに?」
待ってましたとばかりに、振り返る麻衣子。その様子から、真実が声をかけるであろうことは予測済みであったことがわかるし、仮に何も言わなかったとしても、そのまま帰ったりはしていないだろう。
「私はね。その、私と工藤くんは、恋人とかじゃないんだよ」
「あら、そうだったの。それじゃ、私が達也の恋人になっても、あなたには、文句を言う資格はないと、そういうわけね」
「そ、それは・・」
「どうなの、はっきりしなさいよ」
「ちょっと待ってよ、倉田さん」
口を挟んだのは有紀子であった。
「桜井さん、あなたには口出しできないはずよ。だって、このことについては、部外者、ですものね」
「その部外者に立会人を頼んだのはあなたでしょ。立会人なら、少しくらい口出しくらいしてもいいと思わない?」
「おあいにくね。あなたに頼んだのは、ライバル宣言の証人なのであって、その宣言はとっくに終わってるじゃない」
「そんな理屈は通らないわよ。だいたい、あなたはねぇ」
常日頃からのうっぷんというものがあったのか、有紀子の怒りは、今にも爆発しそうであった。
「やめて、やめてよ有紀子」
「なぜ? どうして止めるの? あなたも怒ったらいいじゃない」
「でも、工藤くんとは恋人同士とかじゃないもん。それはほんとだもん、しかたないよ」
「ちょっとおふたりさん。ケンカなら後にしてよ。私は返事を待ってるのよ、西崎さん」
「だからもういいって言ってるでしょう。あなたの好きにしたらいいじゃない」
なぜか、いらだちにまかせ、真実はそう叫んでいた。その真実の言葉に、麻衣子は満足そうにうなずついた。
「じゃあ、そうさせてもらいます。あなたから達也は貰ったからね。あなたがそう認めたということで、立会人の桜井さん、そういうことでよろしくね」
マンガなどによくあるような、いかにも高飛車なお嬢様といった笑い声を残して、麻衣子が去っていったその後で。
「どうやら、うまくあの女にハメられたようだな」
「どういうこと」
「いや、なんだか、わざと西崎を怒らせようとしてたみたいな気がしてさ。あいつ、西崎に言わせたいことはちゃんと言わせたんだろう。そう思わないか」
「そういえばそうね」
真実は、何のことだかわからず、有紀子と栄作の話を聞いていた。
結局、その日のミーティングはごく簡単に終わり、男子部は明日からは部活動もしばらく休みとなった。女子部のほうは、まだ試合が残っているため、明日はいつもどおりの練習し、あさっての準決勝に備える、ということで解散となった。
その帰り道。有紀子は、真実を誘った。
「ね、少し寄り道していかない?」
「いいけど、どこに行く?」
「へへ、そりゃ決まってるでしょ」
有紀子の選んだ行き先は、学校とは通りを挟んだ向かい側にあるショッピングモールである。その中に、ちょっとおしゃれな雰囲気の、有紀子お気に入りの喫茶店がある。いや、有紀子のみならず、星城高校の生徒がよく利用する店でもある。もちろん、真実も、なんどか利用したことはあるのだが、その回数は、おそらくは有紀子の半分にも満たないであろう。
「前にね、栄作くんを誘ってきたことがあるのよ。そのとき座ったのも、ここだったのよね」
2人が座っているのは、窓際のテーブル席である。
「へえー、そうなんだ」
「うん。で、注文はなんにする?」
有紀子から、栄作を誘ったとの話は、聞いたことがあった。そのとき色々と話をしていて、中学時代の有紀子のことを栄作が覚えていてくれたことがわかったのだと、嬉しそうに話していた有紀子であった。栄作のことが好きになったとも言っていたのだが、そういえば、あれからどうなったのだろう。真実のみるところ、2人の仲が進展した様子はなかった。
「わたしは、ストロベリーパフェにする。真実は?」
「私も、同じ物を」
ウエイトレスのお姉さんにそう告げ、数分後には、2つのストロベリーパフェがテーブルに並んだ。それを、無言のまま食べる2人。ようやく半分ほど食べ終えた頃。
「ねえ、真実。あなた、やっぱり工藤くんが好きなんでしょ」
「え?」
「そろそろ認めなさいよ。正直に言ったら、そのパフェ、私のおごりにしてあげるよ」
と、ニッコリと微笑む有紀子。だが、真実はすぐには答えなかった。代わりに、こんな質問をしてみる。
「有紀子こそ、進藤くんのことはどうなったの? 好きになったとかいってたじゃない」
「うん、いろいろ努力はしてるんだけどね。それなりに雰囲気は伝わってると思うんだけど、鈍感というか、気づかないふりしてるだけなのか。他に好きな人がいるのかもしれないね、彼」
「そ、そうなの」
「こうなったら、直接、愛の告白するしかないかなって思ってる。真実はどうする?」
「え? 私・・」
「そうだよ。早くしたほうがいいと思う。倉田麻衣子がいるからね。あの女はヤバイと思うよ」
「倉田さんが?」
「そ。進藤くんも言ってたでしょ。あの女にハメられたんじゃないかってさ。ぬけめなく、真実の性格を利用しようとしてる気がする」
そのとおりであった。校門近くで麻衣子が帰ってしまったあと、ぽつりといった栄作のその言葉。だが、真実にはいまひとつピンときていないらしい。だから、こんなことを言い出すのだ。
「それって、どういう意味?」
そんな真実に、有紀子はいったんパフェを食べる手を止め、背もたれに身体をあずけると、ふーっとため息をつくのである。
「あなたね、工藤達也を倉田さんにゆずると、そう約束させられたようなものなのよ。そのこと、わかってる?」
「え? だって私・・」
「自分じゃそんなつもりはないってか。あまいあまい、このパフェよりずーっと甘いわよ」
「で、でも・・」
「でも、か。でも、を言うならさ・・」
そこまで有紀子がいいかけたとき、2人のいる席の横のガラス窓が、コンコンと叩かれた。その音に気づいた2人が顔をむけると、そこに達也と栄作の姿があった。2人が手招きしている。店の外に出てこい、ということだろう。
顔を見合わせた有紀子と真実は、そろってうなづいた。パフェはまだ3分の1ほどは残っていたものの、惜しむほどの量でもなかったので、そのままにして店を出る。ちなみに、代金は割り勘である。
「悪いな、食べてる途中だったのに」
「ううん、いいのよ。ほとんど食べちゃってたし」
達也の言葉に返事をしたのは、有紀子であった。真実は、少し離れて達也と栄作の2人をみていた。試合に負けたことが、この2人の仲にどんな影響を及ぼすのか。2人がどんな話をしたのか。それが心配であった。が、みたところ、これまでとなにも変わってはいないようだった。
「西崎、どうかしたのか?」
「あ、ううんなんでもないよ」
数歩分離れたところにいる真実に声をかけたのは栄作であった。
「なあ、噴水のところにいかないか。夏休みの予定を相談しようぜ」
「うん、いいね」
噴水のところ、とは、このショッピングモールの2階にある広場のことで、そこにはベンチなどもあり、座って話しをすることができる。どこかお店に入ってもよかったのだろうが、その場所のほうがお金もかからず気楽に話せるので、4人は、連れ立ってその場所へ出向いた。ちょうど噴水の横にある、4人が向かい合わせに座れるベンチが開いていた。そこには、テーブルもついているのだ。
その席に、先に達也と栄作が向かい合わせで座る。あとは、女の子2人のどちらがどちらの隣に座るのか。ここで、有紀子はわざと座るのを遅らせた。先に真実に選ばせようというのだが、そんな意図がわかったのかどうか、真実はちらと有紀子のほうに、困った顔を向けた。
「じゃあ、私、こっちね」
真実の肩をポンと叩くと、有紀子はさっさと栄作の隣に座った。続いて、真実が達也の隣へ。
「工藤くん。試合、残念だったね」
座りながら、そう声をかける真実。真実には、それ以外に言う言葉がみつからなかったのである。
「気にしてないさ。だいたい、野球初めて1年の奴が甲子園に行ったら、何年も練習してきたやつらに申し訳ないだろ」
「そうかな。努力したのは誰にも負けないと思うよ」
これは、有紀子の声。
「ま、その話はいいじゃないか。な、栄作」
「おう。実はさっきまで、2人でさんざんやりあったばかりなんだ。もう、うんざりだよ」
「やりあったって、まさか?」
「なんだよ、西崎。俺たちがケンカでもしたと思ってるのか」
もちろん、真実は2人がそんなことをするとは思ってもいなかった。だからこそ、驚いたのである。栄作の話によれば、それはいつもの口論なのだという。それこそ遠慮なく、思うことのすべてをぶつけあった。言いたいことを言うだけ言うと、すっきりとしたのだという。
「いいな、そういうのって」
ぽつりと言った真実の言葉。思ったことをそのまま相手に言えるなんて、うらやましくて仕方がないのである。真実には、とうていそんなことはできない。さっき達也に言った“試合、残念だったね”との言葉も、いろいろと考えたうえで、ようやく見つけた言葉なのだ。もし、自分にそれができるとしたら、その相手は?
それは真実にとっての本音であったろうが、誰もその言葉に反応は見せず、話は夏休みの予定へと移っていくのである。だが、まだ女子バスケット部が勝ち残っていることもあって、すぐさま遊びの予定を立てるのは無理であった。それならばと、これからカラオケにでも行こうか、ということになる。楽しい時間はまたたくまにすぎていくのであった。
その日の帰り道。
真実は、笑顔であのサクラ公園の散歩道を歩いていた。野球部と男子バスケット部がそろって試合に負けたとはいうものの、思いがけず楽しい時間も過ごせた。麻衣子にイヤな思いはさせられたけれど、カラオケでもやもやした気分も発散できた気がするのである。
そして翌日。県大会の準決勝を明日に控えての練習が行われる。そんな重要な試合に自分が出場できるはずがないとはいえ、真実も、練習には参加する。その日は朝10時から昼食を挟んで夕方5時まで。といっても、練習密度は濃くはなく、フォーメーションの確認や、調整といったことが主体となっていた。真実は、有紀子の練習を手伝っていた。その日は、なにごともなく、おだやかに過ぎていった。
そして、準決勝当日がやってくる。
もし星城が勝てば“番狂わせ”と称されるであろう、今大会の優勝候補ナンバーワンとの試合。達也に栄作も含めた男子バスケ部のメンバー数名が応援に駆けつけてくれたなかで行われたその試合、リードオフマン役の有紀子は絶好調であった。なんと前半を3点リードで終えたのである。
この調子なら勝てると、そう思った人は多かったに違いない。だが、後半開始早々にして、執拗なマークに合いはじめた有紀子が相手選手と接触、右手首をねんざしたのである。それでも片手で頑張ると言い張る有紀子であったが、残ったのが利き腕ならまだしも、左手一本では、満足なプレーができるはずもなかった。次第にミスが目立ちはじめる。そして、試合時間も残り7分ほどとなった作戦タイムのとき。
「桜井さん、やっぱりムリよ。もう交代しなさい」
「そうよ、ここまでよくやったわ」
先輩たちのそんな声に、有紀子はようやくうなづいたのである。得点のほうは、すでに逆転されており、有紀子が前半の調子ならばともかく、追いつくのは難しい点差がついていた。
「わかりました。じゃあ、真実。あとは頼む」
そのとき有紀子が交代に指名したのは、真実であった。真実は一瞬、わけのわからないといった表情をみせたものの、次の瞬間には、大きくクビを振った。
「だ、だめだよ私なんか。有紀子の変わりができるはずないでしょう」
「そんなことない、そんなことないんだよ真実。あんたなら、やれる。それだけの実力はあるよ。あれだけ、練習してきたんじゃない」
「そうだよ、西崎さん。やってみたら」
口々に周りの皆からも勧められ、ついに真実は、高校生となって初めての公式戦のコートに立った。有紀子の言うように、達也と栄作のコーチで真実の実力はアップしている。地道に毎日グラント10周を続け、体力的にもひけはとらないであろう。だが、試合経験の不足だけは、どうしようもなかった。緊張感が取れず、コートに立ちすくむ真実。簡単なパスもはじいてしまう真実。そこに、達也の声援が飛ぶ。
「西崎、リラックスだ。力を抜いて」
その声にようやく相手コートに走り込んでいく真実。その真実にボールが。
「いまだ。打てぇ!」
達也の声に押されるようにして、右45度の位置からのミドルシュート。位置的にはスリーポイントである。ゆっくりと放物線を描いて宙を飛ぶボールは、リングにあたり、二度三度とその上でバウンドしたのち、ゆっくりとなかにはいった。中学時代を含めても、真実が始めて公式戦で得点を挙げた瞬間であった。
そのわずかののち、試合終了を告げるピストルの音が鳴り響き、星城高等学校女子バスケットボール部の夏の大会は、終わったのである。