彼女にとって、死は隣人である。
それは那由多へと亘る闇を裂き、現世へとあまねく光を落とす天道の下であっても覆りようの無い事実であった。さりとて病弱な彼女にとって澄み渡る青天ですら病室の窓にて日替わりに掛けられる絵画の一枚に過ぎず、それほどまでに凄惨な運命は彼女をここに縛り付けては離さない。窓から差し込む早春の陽のあかりさえ、彼女の下へと辿り着くのはほんの一筋のみであり、その居住空間のほとんどは常に隣人が支配する部分であった。
生と死の交差点。彼女がここに腰を落ち着けて後、既に三年の月日が経過しようとしていた。このセカイに人の子として生を受け賜ってこちら、彼女の体はなかなか、産声を上げたこの地を離れようとはせず、十八年と言う彼女が歩んだ人生のなかで積み重なった数多の記憶を紐解いてみようとも、大半はここで、こうして去り行く時節の後姿を窓の内側からただ諦観するだけであった。
それは変わり映えのしない、退屈な日常である。だがいまだけは、この季節だけは、そんな遷移の希薄な彼女の生きる道に、可憐な薄桃色の彩が現れる。
桜は彼女の十八年の人生の中で一、二を競うほどに愛すべきものであることは彼女自身の所感であった。それを初めて見た彼女の、灰色が背景の常であった日々に突如として舞い散る褪紅がとても眩しく映ったことは部外者が想像するに何難いことはなく、故に彼女が桜の虜となるまでにかかった時間と言うのも極僅かであった。彼女を魅了してやまない桜、そしてその麗しくも儚げな花弁で一面を埋め尽くす春と言う季節もまた、彼女にとってのお気に入りである。寒く暗い冬を越え、目に映るもの全てを暖色に染め上げる様子に多大な羨望を覚えることは、彼女の人生を彼女が生きてきたからこその感情だと言えるのだろう。裏を返せば、それは羨望に多かれ少なかれ付随する諦念の感情が、彼女の場合思考の大半を占めているということでもある。
自分の体調は自分が一番良くわかっているはずだ、と彼女は思う。『三年、持てば御の字』と言う非常な宣告を受け、この春で三年を迎えた彼女の身体が、もう心も含めて限界であることを彼女自身よく理解しているつもりだ。熱に魘され長い夜を過ごすことも、前触れも無く咳き込み苦しい思いをすることも、ここ最近で頻繁に起こるようになった。それらと彼女の付き合いは長く、既に馴染みきった間柄も同然であったはずなのに、しかしながら慣れたはずの苦痛に彼女は顔を顰め続けた。徐々に衰弱していく彼女の体に、馴染みの二物は情け容赦がない。されども彼女は頑として、人前で一切の弱音を口にすることはしなかった。
彼女は彼女の病気を詳しくは知らない。彼女の両親もまた、彼女に真実を告げることを拒んだ。彼女は常に、見えない病魔がいつ襲いくるやも知れぬ不安と隣り合わせの状態で孤独な戦いを強いられた。
でも、別にいい。と彼女はそう思う。それがどんな病気であれ、自分がどこで何をしていようとも、
――結局、私は死ぬのだから
それは生への否定ではなく現状の肯定だ、そう彼女は思っている。
遅かれ早かれ、ヒトにはこの世を去る瞬間が訪れる。それが今日か、明日か、一年後か十年後か。言葉に表せばたったそれだけの違いでしかないのだ。自らにとってのその瞬間が今日か明日か、と言う瀬戸際なのだとすれば、悲観などもう今更の話でしかない。そんなことをするだけ時間と体力の無駄遣いである、と。
そう、言い聞かせてきたのに。
――あれ
いつの間にやら、彼女の頬に雫が一滴通った跡が出来ていた。自分の意図しない部分で溢れこぼれてしまったそれに際し、彼女はわずかに動揺を見せる。微かに生まれた衝撃は、しかし彼女が示した根底を覆してしまうには十分過ぎるほどの破壊力を兼ね備え、気がつけば止め処無く流れ続ける悲哀の象徴は、彼女の思いがただの強がりであったことの証左でしかなくなっていた。当然であろう。この世の中を、幾重にもなる非常な理を達観するのに、十八年と言う歳月はあまりにも短いではないか。その齢にして自身に課せられた人生の終末の全てを受け入れられる人間など幾人も存在し得るはずもなく、それは彼女とて例外ではなかったのである。
再び、彼女の視線は窓の外に向けられた。彼女がこの病室に居続けるのには、実のところ彼女自身の意思による部分も捨てきれずにあった。それは壁とガラスを隔てた向こう側にある桜の大木が、この部屋から最も綺麗に見えるからである。冬木に芽生え始めた幾多の蕾は、春を思わす陽気に晒されものの数週間後には彼女の愛した可憐な薄桃色の彩をその身にまとうことであろう。さりとて彼女に残された時間が『ものの』と表した数週間とあるのかどうかは定かではない。恐らくは、無いであろう。それは彼女も、彼女の周辺にいる人間も皆一様に理解していることである。来るべき終焉を目前に控え、そのはなむけにと薄桃色の巨大な花束が彼女に届けられるには、まだいましばらくの期間を要するのは自明の理であり、それもまた彼女の悲観材料のひとつとなっていた。余命いくばくとなればこそ、愛したものを徐々に失い行く辛さは身にしみるものである。と同時に、自らの心にも満開の桜を咲かすことが出来そうにもないことに哀憐の情を向けられずにはいられなかった。
それは彼女に限らず、年頃の女の子なればこその想い。恋の花である。
彼女の人生を遡ればその大半を占拠するのが清廉潔白を主張し続けるこの病室であるのだが、あくまでそれは『大方半分』であって彼女の人生の全てではない。体調が落ち着いていた頃は学校に通う日常も送っていたし、人並みに出会いもあった。その出会いの中に、決して忘れることの出来ないだろう邂逅も存在した。いまでも彼女は思う。あの人はいまどこで何をしているのだろうか、自分のことをまだおぼえていてくれているのだろうか、と。最後に「またね」の挨拶を交わしてから、おおよそ三年。その人物と彼女は一度も会ってはいない。
「会いたい」
思わず口元から漏れてしまったそれは、ずっと彼女が思っていたことだ。三年の間に、一体どれだけ同じことを考えただろうか。思いの丈は、恐らくこの三年でずっとずっと大きくなったことだろう。それは彼女が望み、求めた、桜の花なのである。
「会えばいいじゃない」
声がした。長らく外に向けられていた彼女の視線が屋内へと戻れば、そこにはひとつの人影があった。
「いたんですね」
特に驚きもせずに彼女は言った。見知った人物であったためだ。
「物憂げに外を眺めていたから、声を掛けられなかったのよ」
その人物は彼女に近づき、利き手の人差し指でそっと彼女の頬を撫ぜた。
「あなたに涙は似合わない。私はずっと、あなたの笑ってる顔が好きだったわ。だから」
笑って? と言う。彼女は少しはにかんだような笑顔を作る。
「ありがとう」
「そう、その顔。あなたにはやっぱり笑顔が似合うわ」
彼女の何倍も嬉しそうな表情をその人物はして見せた。
「あなたには人を幸せにするチカラがある。私もそれに何度も救われたのよ」
「そんな、大げさな」
彼女にとってそれは初耳であることだった。故に驚いたような表情を浮かべるが、対照的に柔らかな顔つきが向こう側に存在した。
「ほんと」
柔らかな中に見え隠れする凛々しさ。そこに、彼女は傍で佇む人物のそれが真実であることを知る。
「だから、私が連絡してあげる。その人に、あなたの一番会いたい人に」
心の底から、自分の笑顔を望んでくれているのだろうと、彼女は思う。思うからこそ、その申し出が涙が出てしまうくらい嬉しく感じていた。
「もう、泣かなくでもいいのに」
違う――と彼女は言わなかった。頬を伝うそれが悲哀の象徴ではないと言うまでも無かったからだ。
「わたし……」
会ってもいいんだよね――と、彼女が皆まで言う前に。
「悪いこと考えちゃだめ。あなたは幸せにならなきゃいけないんだから。そのために出来ることなら、何でもするわ。だから私が傍にいるんだから」
一抹の不安さえ、傍にいる人に拭い去られてしまう。彼女が彼女の人生を生きる中で、凄惨な運命の中に一筋の希望があるするとするならば、それはこの人の存在だろうと彼女はそう思う。
「会えるまで、頑張らなくちゃね」
ぽつりと呟いた彼女のそれに、傍の人はかすかに笑って見せた。
会いたい人に会うまで、そして、自分がこの部屋に居続ける理由――大好きな薄桃色をこの目にするまで、この命を絶やすわけにはいかない――そう、彼女は強く思った。
三度、彼女は窓の外を眺めた。
春を待ち続ける数多の蕾の中で一輪、薄桃の姿が垣間見えた。