学生の本分とは何か。勿論のこと、それは勉強である。それでは大半の学生が忌み嫌うこととは何か。言うまでもなく、それも勉強である。
難解な数式やら万葉の時代の古文やら、そんなものが現代の我が国のどこでどのように使われて、それが自分の人生にどう影響してくると言うのか。一年間受けてきた高等学校教育にその意味を見い出せなかった俺は、学習指導要領なんてけったいな物を定めなさる御上の皆々様方相手に小一時間ばかりの討論会を申し込むなどという敗戦確定の一本勝負をしてみたい衝動にかられてしまっていた。まあそれはそれで、ひと時の現実逃避と教養に繋がって良いのかもしれないが、何の変哲の無い只の一高校生が相手にされるわけもなければ、敗戦確定である以上それは蛮勇でしかない。そんなものは俺の役割でも立ち位置でもないし、どうせならばどこかの勇猛果敢な女子高生にでもやってもらいたいところである。もちろんのこと俺はノータッチの上で、だ。
だが結局、俺達学生を学生と言わしめているその最たる理由が勉強することなのであり、つまるところ毎日真面目に、馬鹿正直に登山を続け、その頂に在する我らが北高に通って勉学に励むからこそ、俺達は学生と言う身分を名乗っていられるのだ。そしてこの身分を維持するためにはそれ相応の結果を残さなくてはいけない。
『定期考査』
学生の約九十パーセントがこの単語を聞くなり現実から離れて浮世とは異なる異世界を彷徨いたくなること間違い無しの、魔の四文字にして最凶の行事と言えよう。
しかしまあ此度の試験、俺には優秀な家庭教師がついてくれたおかげもあって、赤点のラインギリギリを低空飛行するような事態は避けられただろうとは思う。何しろそいつは県立北高第一学年有数の頭脳の持ち主なのだ。受け賜った試験対策が例え山勘頼りであっても、振れば当たるのは折り紙付きである。
そんなこんなでハルヒに手伝ってもらいながら、期末テストは何とか終了。土日の休みが明けて月曜日、早速数教科の答案が返ってきた。端から見れば決して高いとは言えない数字でも、平均点と言う非常に人間味溢れるラインの周辺を漂っているのだから、俺は学内でもこのクラスでもちょうど真ん中辺りに位置しているわけであり、個人的には上出来だと思っている。可もなく不可もなくだが、悪いと言われるよりは断然ましだ。
「ま、悪くないわね」
しかし専属家庭教師様は口先ではそう仰りながらも、その瞳の奥では「もうちょっと高得点取りなさいよ」などと訴えかけてくる。だがこればかりは致し方無いだろうよ、お前のような理解力が初めから俺に備わっていたのならば、教えを乞う必要などはなから無いのだから。
ともあれ一難は去った。しばらくは続くであろうこの穏やかな放課後のひと時位はゆっくりと過ごしたいものだな――などと思いながら、少々上機嫌で俺は旧館の文芸部室もといSOS団のアジトと化したその部屋の前まで来ては、目の前のドアをノックした。すると二秒遅れで「はぁい」なんて言う麗しき美声が中から聞こえてきて、それが入室許可の合図だなと思いドアを開けて中に入ると、珍しくも今日は宇宙人と未来人と超能力者が既に在室していて、各々の時間を過ごしていた。
「こんにちは、キョンくん」
可愛らしい笑顔で挨拶をすると、いつものメイド服姿の朝比奈さんはお茶汲みのために席を立った。さすがに一年近くも同じことを続けているのだから、その手捌きや立ち振舞いも板についている。もしも本職のメイドさんが朝比奈さんを見たら、さてどう思うのだろうか? そんなことに若干の興味がわいた。
「おや、今日は涼宮さんはご一緒ではないのですか?」
続いて話しかけてきたのはニヤケ顔がデフォルトの超能力者だった。俺が定位置であるこいつの目の前の椅子に腰かけるや否や、そんなことを尋ねてくる。
「さあな。俺の方が先に教室を出たから知らん。……ああ、そう言えば。もうすぐ先に球技大会が控えていたはずだから、そのメンバー振り分けに引き込まれでもしたんじゃないか?」
「ふむ、なるほど」
ハルヒの身体能力の高さは、その奇っ怪な性格と共にクラスどころが学内公認だ。春先に全ての部活動に仮入部してはそのポテンシャルをいかんなく発揮したようなヤツだから、球技大会や体育祭等ではハルヒのようなどんなスポーツをもそつなくこなす万能選手は大層魅力的だろう。
「よかったですよ」
何がだ?
「涼宮さんがクラスに溶け込めているようで」
古泉は我が娘を見る父親のような目付きでそんなことを呟いた。
「成長したんだろ」
実際、そうだろう。ハルヒだっていつまでも入学式当時のあいつじゃない。
「しかし中学三年間で全くと言って良い程変化の無かった涼宮さんが、たった一年でこのように様変わりするとは、少々興味深くもあります」
何が言いたい?
「あなたが涼宮さんに与える影響について、機関としてももう少し調べる必要があるかもしれませんね」
くだらんな。だが、どうせ調べるなら俺だけじゃなくSOS団が及ぼす影響についても調べたらどうだ? 俺個人なんかより遥かに興味深いかもしれんぞ。
「そうですね。提言してみましょう」
そんな古泉との会話が終わる頃、朝比奈さんがお盆に湯飲みを乗せて傍へと現れた。
「はいキョンくん。テストお疲れ様でした。今日は玉露を淹れてみましたので、味わって飲んで下さいね」
ありがとうございます、と湯飲みを受け取って一口含む。少々温めの緑茶からは、確かに普段とは違うような深みを感じた。茶も奥が深いな。
もう一口含む。静かな部室内に、長門が本のページをめくる音と俺が玉露を啜る音のふたつだけが、これまた静かに響いた。
平和だ、と心の底からそう思った。
思えば最近は機関誌作成やら期末テスト前やらで何かと忙しく、こんなにゆったりとした放課後を過ごしているのはだいぶ久し振りのような気がする。それ故に『至福の時』なんて表現がぴったり過ぎるほど当てはまるな。緑茶を啜りながら、俺はそんな呑気な思考に耽っていた。
しかし、だ。ここは言わずと知れたSOS団であり、こんな放課後のワンシーンなんて所詮は絵に描いた餅に過ぎないわけである。何せうちには至上最強のトラブルメーカーがいるもんでね。
『バンッ』
部室内の静寂が破られる瞬間が、ついにやってきてしまった。突然、勢い良く扉が開いたかと思えば、
「いやー、ごめん。遅くなったわ!」
ひとりの女生徒が手土産を持って登場した。
ハルヒは室内に入ると勢い良く開けたドアをこれまた勢い良く閉めて、ずかずかと歩いては自らの定位置である団長デスクへと腰を落ち着かせた。朝比奈さんはハルヒのそれら一連の動作のうちに、またパタパタと動きだしハルヒ用の玉露を淹れ始めている。
俺は俺で「もっと校舎を大事に扱いなさい」とでも進言してやろうかとも思ったが、ハルヒが左手に握る花を見つけてからは、学校には悪いがそんなことなどどうでも良くなっていた。
「桜、か?」
「そ。綺麗よねー」
てっきり球技大会のメンバー振り分けに巻き込まれたのかと思ったんだが、桜の採取に行っていたのか、お前は。
「メンバー振り分けもやったわ。まあ女子はどこと当たっても確実に勝利を狙える布陣を敷いたけど、男子はダメダメでしょうね。パッとしたのがいないもの」
五組の男子を代表して言おう。余計なお世話だ。
「最初から期待なんてしてないから、まあ程々に頑張んなさいよ」
ハルヒは俺の方を見てはニヤニヤと笑いながらそう言った。ちくしょう、見返してやりたい。
「はい、涼宮さん。今日は玉露を淹れました」
「ありがと」
朝比奈さんが俺の時同様にお盆に乗せた湯飲みをハルヒに手渡す。ハルヒはそれを受け取って一口飲むと、珍しくも「はあ、やっぱ緑茶が一番よねー」なんて年甲斐の無いことを言い放つ。いつも熱湯の朝比奈茶をものの数秒で飲み干す奴が、今日はどういう風の吹き回しだ。
「失礼ね、あたしだってたまには味わって飲みたいわよ」
なるほど納得。ハルヒにもそのような気分になる時があったらしい。
「それより、この部屋って花瓶か何か無かったっけ?」
湯飲みを持つ手とは反対の手に、いまもなお握られた桜の枝を見ながらハルヒが尋ねる。いや、花瓶なんて見たこと無いぞ。
「無いの? しょうがないわね……みくるちゃん、この枝ちょっと持ってて」
そう言うとハルヒは桜の枝を朝比奈さんに渡して、自身はと言うといま来たばかりの部室を抜け出してはどこかへと去っていった。桜を携えた朝比奈さん。正直、これ程いい絵はありません。手元にデジカメがあれば間違いなくみくるフォルダ行き確定である。
そこから五分ほどが過ぎた後、ハルヒがその手に、今度は花瓶を携えて帰ってきた。で、どこから強奪してきた?
「人聞きが悪いわね、強奪なんてしてないわよ。ちょっと華道部に行って花を飾りたいから花瓶を借りていいか聞いただけ。そしたら貸してくれたの」
ああ、そうかい。
ハルヒは団長デスクに再び座ると花瓶をパソコンの横に起き、朝比奈さんに持たせた桜を受け取ってその花瓶に差した。控えめな薄桃色の花びらでも、そこにあるだけでなんだか部屋全体が柔らかく、そして明るい雰囲気になった気がする。
……ん、でもちょっと待て。
「ハルヒ、お前この枝どこから持ってきた?」
「え? ああ、学校近くにあった桜の樹からポキッと一本拝借しただけよ」
待て待て待て、笹の葉に続いてまた知らん所から勝手に持ってきたのか?
「いいじゃないの、この桜だって一背景として風靡も情緒も知らない一般人になんとなぁく眺められるよりも、SOS団の部室に飾られてこのあたしの傍で華やぐ生き様を求めているに違いないわ!」
決めつけるなよ、全く……。
俺はチラッと古泉の方を見たが、こいつは何事も無かったかのように普段通りのニヤケ顔を持続していた。知らん、もう知らん。何かあっても俺は知らない。
――と、それはさておき。
SOS団一の問題児が登場して早くも二十分が経過していた。だが何かが起きる気配などまるでなくて、そのため俺は数週間前のだらだらした団活が再来するだろうと思い始めていて、ハルヒの退屈しのぎのために次は目の前の超能力者に何をさせられる羽目になるんだろうな、なんてことをうっすらと考え始めていた。
されど言ってしまうなのなら、非日常の襲来を告げる警鐘はもうとうに鳴り出していた。
「……ねえ、キョン」
パソコンの電源を入れたハルヒは、ディスプレイに映し出された『それ』があたかも夢か幻か、それに付随する何かであるとでも言いたげに、両目を頻りに擦っては丸い瞳をいつもの三倍ほどに見開き目の前を見つめている。何事かと席を立ち、ハルヒの傍まで行ってパソコンの画面を覗き込めば、そこにはこんな文字が表示されていたのだった。
『新着メール、一件』