いつ眠りに入っていったのかを思い出せない。と言うよりは、俺には昨日眠った記憶が無い。もっと言うならば、睡眠を摂るためにベッドへと潜り込んだ記憶や、それに至るまでの入浴や食事、さらには家に帰った記憶すら無かった。記憶が無いと言うことは思い出せるのにな。しかし思いだそうとすると、頭が痛くなるのは何故だろうか。
ところで、ここは何処だろう?
とある座敷の間に、俺は寝かされていたようだ。まだ意識が朦朧として場所を特定するには至らない。それと、俺は直感的に一晩が明けていると感じたのだが、果たしていまは何時なのだろう? 順当に行けば今日は三月九日だが、ひょっとするとまだ三月八日かもしれないし三月十日かもしれない。タイムリープは出来ないから三月七日だと言うことは無いだろうが……とりとめのない疑問ばかりが浮かんできて、しかし何も解決しない。
それでも時間は過ぎて次第に頭が冴え始めてきた頃、俺はこの部屋を見たことがあると言う確信を得た。それは確か一年も経たないうちの話で、その時も俺は眠る為にこの部屋に入った。そしてこの部屋を提供してくれたのが……
ふすまを開けた先に座っていた。
「おはよう」
長門有希。
「説明する。座って」
俺が尋ねるよりも早く長門が言う。その言葉に促されて、俺はいつかのようにコタツを挟んで長門の反対側に腰を下ろした。すると長門は反対に立ち上がりキッチンの方へと向かう。しばらくするとその手にお盆を携え、上には湯呑みをふたつ乗せて戻ってきた。
コトン、コトンと湯呑みをコタツの上に起いて長門は、
「菊花茶。頭痛に良いとされる」
そんな事を言う。
……頭痛? 何故それが。
「それを今から説明する」
長門が胸にお盆を抱えたまま、正座した。
「まず、あなたは昨日依頼者の元へ行き、その帰り道に倒れた」
昨日、と言うことは、今日はどうやら三月九日らしい。しかし、倒れただと? 当の俺には気絶する予兆の記憶等は無いぞ。何かにぶつかって、もしくはぶつけられて気を失ったとか言うならばその衝突した際の痛みが身体に残るだろうが、それが無いのだからこの線は消える。
「昨日は古泉一樹とのやり取りがあったはず。だが、その会話の途中で突然あなたの声が途切れ、その後何か鈍い衝撃音が聞こえた、と古泉一樹は話している。その衝撃音とはあなたの身体が地面に倒れこんだ音」
ならば俺は、何の理由も無しに突発的に気絶したと?
「結果だけを見るなら、そう言うことになる」
おいおい……冗談じゃないぞ。
「あなたが倒れた時、古泉一樹はすかさず私に連絡を入れた。私があなたが倒れた場所をあなたの生命反応から解析した結果、そこは通行人がおらず非常に見つかりにくい場所であることが判明。しかし古泉一樹にはあなたを救出にいけない事情が発生したため、私にあなたの救出と介抱を依頼。そして今に至る」
俺を助けに来れない事情だと? まさか、ハルヒに何かあったのか?
「そこは彼に直接聞いて欲しい。時間が無いため、説明を続ける。許可を」
長門はあくまで話の脱線を嫌っていた。わかった、続けてくれ。
「私はあなたを連れ帰り、今回の不可解な事象の解明に乗り出した。その結果、大脳内、特に海馬周辺の神経が強制かつ複雑に入り組んでいる事が判明した。通常では到底あり得ないレベル。加えて端網様体から後頭葉にかけて現れるPGO波が組み換えられた海馬を刺激して、あなたが見るはずのない夢を見せていた」
長門にしては、いつもよりわかりやすい説明だったと思う。まあそれは、最後の最後に長門らしからぬ単語を発したからでもあるのだが。
「夢、だと?」
「そう」
悪いが長門、俺は昨晩夢を見た記憶は無いぞ。
「複雑に入り組んだ中枢神経の連結を解除する際、PGOの波が止まった。記憶に無いのなら、それは単にあなたが昨晩見た夢を忘れている、それだけのこと」
長門は、なおも淡々と話す。
「神経回路の組み換え及び作為的な夢見のメカニズムについては間違いなく他者の介入によるもの。組み換えられた中枢神経に無理やりPGO波が当てられる事で、本来起こるはずのない頭痛が副産物として発生する模様。今回のあなたの場合は私が正常に作動するように初期段階で直接修正した。痛みは少ないはず」
……そうか。ありがとうな、長門。
「いい」
言い終えて長門は茶を一口すする。つられて俺も、湯呑みを持って茶を口に含んだ。
「ところで、他者の介入だと? 言っている意味がわからないんだが。宇宙か何かに存在している、俺達人間にとって不利益な物質が作用したとか言うんじゃ無いだろうな?」
「その可能性は皆無。今回の事象は、極めて人為的」
人為的?
「そう」
ならこれは誰かヒトが起こしたってのか? そんな悪趣味なパワーを持つ奴なんて、悪いがひとりくらいしか思い当たらないぞ。
「涼宮ハルヒは今回の件に関しては無関係。むしろ、被害者」
長門の言葉に、俺は耳を疑った。被害者? どういうことだよ、それ?
「詳細は古泉一樹に聞いて欲しい。加えて言うと、あなたが昨晩帰宅しなかった件や本日学校を欠席する件の連絡についても全て古泉一樹に一任してある」
欠席? ……ちょっと待て長門、いま何時だ?
「午前十時二十八分三十七秒」
お前、学校は?
「私も、本日は欠席する」
それはあれか、俺の看病なんかをしてしまった為か?
「突き詰めていけばそうなる。しかしながら根本的理由としては、本日午前十時三十分より私が情報統合思念体による二十四時間の行動制限を受ける為。これは然るべき処置」
然るべき処置だと?
「そう」
長門がそれ以上の説明を俺にするようには思えなかった。どうあがこうとそれが覆りようのない決定事項だからか、はたまた親玉の命令には絶対服従だからか。俺のせいで長門が懲罰を受けることになるのなら申し訳ないことこの上ないが、さりとて俺一人ではどうすることもできない。対してできることと言えば。
「ありがとうな、長門」
長門に頭を下げ、看病してくれたことを感謝することだけだ。命の恩人と言っちゃ大袈裟かもしれないが、奇しくも病院なんかに入院したいと思わない、なんて考えていた折だ。故にこういう形になったことが、とてもありがたかった。
「気にする必要はない」
長門はそう言うと、口許を三ミリ程度上に動かした。
◇
「何度も言うが詳細は後程古泉一樹に尋ねて欲しい。後残り十八秒で活動停止時刻に達するが、私の機能が停止しても、あなたがそれに構う必要は皆無。あなたには今日一日の余暇が与えられているため、その中で体調の回復に努めてもらえればいい。好きな時間に帰宅してもらって構わない」
長門はそこまで言うと全身の力が抜けたようで、ふっと横に倒れこんだ。お盆を抱えたままなのが、律儀と言うかなんと言うか。
俺は長門からお盆を預かってそれをコタツの上に置くと、今度は長門の身体を抱き上げて隣の部屋まで持ってきて、そのまま寝かせた。いつもは重量操作の賜物か、体重なんて全く感じない長門の身体も、機能が停止してしまっているいまだけは我が妹に少しプラスしたくらいの重みを両腕に感じて、それがちょっとだけ新鮮だったりもした。
さて、本格的にどうしたものか。昨日突発的に意識不明になったとは言え、現状ではこのとおり。さほど重症ではないのは長門のお陰なのかもしれんが、欠席する理由としてはなんだか弱いような気がする。長門は気に病むなと言ってくれはしたものの、俺のせいで長門が止まってしまったのだから、申し訳なく思うなと言う方が無理な話だ。とは言え、そのまま学校に行けば長門の看病も古泉の働きもすべて無に帰すだろう。せっかく与えられた余暇だ。全快まで安静にするのが俺のいまの努めだな。
などと自分に言い聞かせ、さてこの余暇をどう使ったものかと再び思考を巡らせる。
急務は現状の把握だろう。長門の説明では掴みきれない部分があったのは確かなのだ。とは言え長門が「聞け」と言った古泉は恐らく普通に登校しているだろうし、だとすればあいつは現在授業を受けている只中だ。次にまとまった時間が出来るのは昼休みだから、それまで二時間強は俺の側に暇がある。
「ふあぁ……」
欠伸が出た。昨日の夕方から眠り通しのはずなのに、どう言うわけか休めたような感じは全くと言っていいほどしなかった。
どうせだから少し眠るか。
そう思い、まずは温くなった菊花茶を一気に飲み干した。すると目蓋が次第に重たくなってきて、俺はコタツに入ったまま仰向けに寝転ぶとすうっと眠りに入っていった。
薄らぐ意識の中で、
「まるで睡眠薬でも飲まされたような感じだな」
そんなことを漠然と考えた。
◇
「……寝過ごした」
それが第一声だった。うつ伏せになった炬燵の板から上半身を起こして大きく伸びると同時にだらしなく欠伸が放出された。
気が付くと殺風景な部屋にその身があり、そうかここは長門の家で俺は長門に助けられて当の家主は現在寝てるんだったな……などと回想していくうちにだんだんと意識がはっきりしてきた。つられるように視覚もその機能を活動させはじめ、得られる情報が徐々に増えてくる。そして脳味噌が通常時レベルまで冴える頃には、俺は少しだけ呆然としていた。
窓の外は、綺麗な夕焼けだったのだ。
昼休みあたりまでの仮眠のはずがどうやら夕方までスヤスヤと眠ってしまったようだ。ただ夢を見た記憶が無いので、目を閉じて開けたらもう日暮れだった、と言う感覚ではあるが。
長門の話を鵜呑みにするなら、俺は昨日のこの時間あたりから今朝の十時まで眠っていた。そして前述の通りそこからまた睡眠をとったのだからこの二十四時間のほとんどを寝て過ごしたことになる。そう思った時、少々鳥肌が立った。
ところで頭痛だが、痛みはさっぱり無くなっていた。睡眠を取りすぎると頭痛を起こすなんて話も聞くが、今のところは大丈夫なようだ。凄いもんだな、菊花茶。
おっとそれよりも、先に古泉に連絡を入れないといかん。
携帯を取り出して開く。日付は間違いなく今日の表示で、時刻も長門が全機能を停止してからおよそ六時間後をさしていた。それとは別に、ディスプレイには『着信あり』との表示がある。
五件の着信が入っていた。しかもその五件全てが同一人物で、一番古いものでは昨日の夕方、俺が古泉と話していた時間から少し進んだあたりに一分以上の着信、一番新しいものではつい三十分前の表示が出ている。そんな状況なので古泉への電話は後回しだ。俺はその人の履歴から番号をプッシュする。呼び出し音の二回目が鳴り始めるかどうかの頃に、相手はヒステリックな様相で電話に出た。
「キョンくん!?」
ええ、俺です、朝比奈さん。
「……よかった」
途端に電話口から嗚咽が漏れだした。
「……ひっ……キョンぐんに……何があっだら……っ……私、どうじようがど……」
心配かけて本当にすみませんでした。俺は大丈夫ですから、もう泣かないで下さい。
「……はい……ひっく」
しかしそこで泣き止んで下さるのならまだ話は楽なのだが、朝比奈さんはそこから十分位はそのまま泣き続けていた。その間俺は謝罪と慰めを繰り返し、ようやく朝比奈さんの気持ちが落ち着いたと思われる頃に電話の内容について聞いてみた。
「えっと、一番始めに電話した時は涼宮さんが倒れた時です」
……はい?
「あ、えっと……言葉の通りなんですけど……」
ハルヒが、倒れた?
「はい……私と涼宮さんはキョンくんと別れてから二人で話しながら歩いてたんです。そしたら突然、涼宮さんが……」
にわかには信じがたい話である。あの涼宮ハルヒが突然倒れ……いや、ちょっと待て。
「朝比奈さん。ハルヒは突然倒れたんですか? 何か前触れとかは無しに」
「……はい、突然でした。話してる途中に、言葉が途切れてそのまま地面に倒れ込んだって感じです」
なんとも、聞き覚えのある状況である。
全く同じなのだ、俺と。何かの偶然にしては話が出来すぎている。また電話をかけてきた時間からしても、ほぼ同時刻に俺とハルヒは倒れているだろう。
偶然、とは思えないが――しかし原因がわからない。
「……キョンくん?」
朝比奈さんが不安そうに俺に声をかけていた。
あ、すみません。少し考え事をしていました。
「いえ、それなら安心なんですけど……古泉くんから聞いたんですが、キョンくんも似たような倒れ方をしたんですよね?」
ええ、多分そうなります。当事者なので状況はわかりませんが、長門から聞いた話だとハルヒの状況と全く同じみたいです。
「……そう、ですか」
朝比奈さんはそのまま黙り込んでしまった。電話口から伝わる雰囲気に「どうしました?」とも聞けずにただ無言でどうしたものかと考えていると、
「……怖いです」
朝比奈さんが言う。
「知ってる人が二人も、突然意識を失って……そのまま私の前からいなくなっちゃったら、どうしようって、そんなことを考えちゃって……」
先程とは違い、朝比奈さんは涙を堪えながら声を絞り出しているようだった。もし俺が朝比奈さんの立場だったら、などと考えると、俺だって怖いと思うかもしれない。さっきまでピンピンしてた奴がいきなり目の前からいなくなるなんてのは、恐怖以外の何物でもないだろう。
「……ありがとうございます」
だから俺はお礼を言った。本心から心配して下さる朝比奈さんに感謝の気持ちを込めて。
「……ふぇ? ど、どうしてありがとうって」
朝比奈さんから心配していただけたことが嬉しかったんです。
「………………」
朝比奈さんはまた黙り込んでしまった。だが今回のそれは、前のような負の思考の賜物では無いだろう。
俺が思うに、時間振動の原因だからだとか未来人だとか、そう言う立場的な概念を全部忘れて朝比奈さんは俺達を気に病んでいてくれていた。本当のことなど知りもしないし、こんな風に考えるのは傲りが過ぎるかもしれないが、しかし朝比奈さんの発言や雰囲気をこうして感じ取る分にはそうだと言える。確証は無いが自信はあった。だから嬉しかったのだ。
その後、朝比奈さんと二言程の言葉を交わし、また明日会いましょうとさようならを告げて電話を切った。名残惜しいが仕方がない。朝比奈さんに無事を伝えることは勿論大切だが、それよりも優先すべきは現状把握に他ならないのだ。
アドレス帳を開いて古泉一樹の欄を探し、電話番号にカーソルを合わせて発信する。相手方は五コール目が鳴り終わらないうちに電話に出た。
「……体調の方はいかがですか?」
痛み等は無い。これもひとえに長門のお陰かね。
「そうですか。それを聞いて安心しました」
古泉はどうやら、本気で俺の安否を気遣ってくれていたようだ。お前にも色々と迷惑をかけたな。
「滅相もない。お互い様ですよ」
すまない。
「いえ。ところで、長門さんからは話をお聞きになりましたか?」
ああ、大方は。活動停止が近いからって詳しくはお前に聞けと言われたがな。
「……活動停止?」
古泉は珍しくも語尾に疑問符を付加させている。聞いてないのか?
「ええ、ですから恐らくは僕との会話が終わった後の出来事なのでしょう」
そうかい。何でも、俺を介抱したから情報思念体に大目玉を食らったんだとよ。
「………………」
すると今度は黙り込んでしまった。おい、どうした?
「いえ、いまの話は長門さんが?」
他に誰がいると言うんだお前は。
「ふむ……」
だが古泉はさもそれがおかしいと言わんばかりに、
「あなたの介抱につきましては、長門さん側からの申し出により、だったんですけれどね」
……なんだと?
「言葉の通りですよ……そうですね、順を追って説明しましょうか。昨日僕はあなたと電話で話している途中で、あなたの言葉が突然途切れたかと思ったら、直後に人が地面に崩れ落ちるような音と携帯が何かにぶつかったような音を確認したのです。通話はそこで一方的に切られましたので、携帯電話は恐らく地面に落ちた衝撃で電源が落ちたかフリーズしたのでしょう。ただごとでは無いと感じて僕は直ぐ様長門さんに連絡を入れました。自宅に居たらしい長門さんは、あなたが倒れた位置と涼宮さんの情報をくれましたよ」
じゃあハルヒが倒れたってのはやはり事実なんだな?
「ええ、長門さんは説明して下さらなかったんですか?」
さっきも言った通りだ、詳しいことはお前から聞けとさ。
「……続けます。しかも両者共に原因が同じだと言うでは無いですか。長門さんは原因までは教えてくれませんでしたが、しかし倒れた理由が同じならば機関としては一緒に調べたかった訳です。ですから二人を同じ病院へと担ぎ込んで機関が面倒を看る手筈を瞬時に構築していました。そこに異議を唱えたのが長門さんですよ。これは紛れもない客観的事実です」
じゃあ長門は……自分で自分の首を絞めに行ったってのか?
「どうやらそうなります……つくづく、あなたも罪作りな方ですね」
何が言いたい?
「長門さんが処罰覚悟であなたの看病をした。さて、これはどう言う意味でしょうね」
古泉は少々笑いながらそう言った。
「……それより、ハルヒはどうなんだ?」
「それがあなたの答えですか?」
質問に質問で返すな。
「これは失敬」
古泉はそう言うが、やはりまるで誠意が感じ取れない。
「涼宮さんの容態については御心配無く。少し頭痛がする以外は至って普通だと仰ってましたし。いまは静かに病室で寝ていますよ。ただ様子を見なければならない為に、明日も涼宮さんと僕は欠席させていただきます」
ハルヒに何ら問題が生じていない事に安堵したものの、
「古泉、お前も休んだのか?」
「ええ。涼宮さんが目覚めた時に誰かが居ないと不安になるでしょう」
古泉のその言葉に、若干だが言い様のない不可思議な感情が蠢いた。
「本来なら、これはあなたの仕事なのですよ」
などと古泉の声が電話口から響いていたが、それを上手くは理解出来ていなかっただろう。
「……もしもし?」
――ん? ああ、すまない。
「まだ体調は万全には遠いですか?」
いや、大丈夫だ。明日は学校に行けるよ。
「そうですか。それは何よりです」
その言葉だけは、こいつの本心の様に思えた。