Ideal Smile ~脳内鎮守府カッコカリ 鈴熊編~ 作:subroh
今日は平日だ。期末テストも終わり、夏休みは既に秒読み段階に入っている。朝から太陽は地面に容赦なく照りつけ、部屋も少し蒸し暑い。鈴谷は、寝ぼけ眼で朝食のパンを準備する。昨日も遅くまで熊野と語り合っていたのだ。
テスト返却がある以上、学校には登校しなければならない。赤点があれば、補修授業は夏休み中に実施され、その予定も返却と同時に発表されるのだ。今回のテストは熊野の助けも借りながら頑張ったつもりだったが、数科目の赤点は免れそうにない。憂鬱だ。
そうだ、この時間帯は芸能ニュースを放送しているチャンネルがあるはずだ。パンをトースターに放り込むと、いつも通りの暇つぶしをするべくテレビの電源を入れた。贔屓の芸能人は出てこないだろうか、順番にチャンネルを回す。
しかし、今日は何かが違った。どのチャンネルの映像にも、映るのは火の海だ。何度回しても同じだ。見たことのない、どこか大きな町が火に包まれ、建物が無残な姿を晒す。めちゃくちゃに折れ曲がった鉄骨と粉々に砕け散ったコンクリートに覆われた画面の中で、迷彩の服を着た人々が、怒鳴り声を上げながら動き回っている。映像に音は無い。聞こえるのは、聞き慣れたコメンテーターとリポーターの騒ぎ立てる声ばかりだ。次々と流れる字幕に、寝ぼけて焦点の合わない目を凝らす。
『……神戸港空襲、死傷者多数、港湾施設に甚大な被害……』
同時にコメンテーターの声が耳に入る。
「……えー、それでは繰り返します。本日明朝、深海棲艦と思われる数百機余りの爆撃機が港湾施設を中心に無差別爆撃を行い、甚大な被害が出ている模様です。現在も各地の火災は収まっておらず、被害の詳細は分かっていません。被害の拡大を食い止めるため、国防軍は総力を上げて……」
しつこい眠気もテストの憂鬱も、鈴谷の頭からはあっという間に吹き飛んでいた。
「熊野!!!」
いつもの病室に鈴谷は全速力で駆け込んだ。熊野はいつものようにベッドの上に座り、いつものようにテレビの画面を見ていた。いつもと違うのは映される映像と、画面の前で一切微動だにしない熊野だ。テレビの前で全く動かない熊野など、今まで見たことがない。鈴谷の第一声に気づかないのも明らかにおかしい。
「熊野!!!」
もう一度呼びかけると、熊野はゆっくりとこちらを向いた。全く動いていないように見えた熊野だが、よく見ると小刻みに震えていた。
「鈴谷さん……これは、これは何かの間違い、ですわよね……?」
鈴谷は俯く。熊野の問いかけに答えることなどできるわけがない。
「神戸の港町が……、こんな、こんな……」
熊野の表情がみるみる内に崩れていく。鈴谷は熊野の肩を掴むと、強い口調で語りかけた。自分でも驚くほど冷静だった
「熊野、落ち着いて。神戸の人達には連絡取れたの?」
熊野は目を見開いた。
「そう、ですわ……。お父様、お母様、造船所の方々、こうしてはいられませんわ!」
慌ててベッドから降りようとする熊野。しかし、突然の動きに入院生活でなまった熊野の脚はついていくことができず、熊野は思いっきり前のめりに転んでしまった。
「きゃあ!!!」
「ちょっと熊野! 慌てちゃダメだから!」
熊野を介抱し、ゆっくりと起き上がらさせた。
「慌てるなですって!? 鈴谷さんも見たのですよね? あの神戸の惨状を! 急がないと、急がないとダメなんです!」
鈴谷もビックリするような大声で訴える熊野。すぐに立ち上がると、鈴谷を突き飛ばしてでも病室を飛び出そうとする。
「熊野、落ち着いて!!!」
再び熊野の肩を掴み、彼女の動きを止める。熊野が振り向きざまに叫ぶ。
「何をするんですの! 鈴谷さん!」
鈴谷はゆっくりハッキリと語りかける。その目は熊野の瞳を真っ直ぐ捉えている。
「慌てたらダメ。アンタは重病人なんだから、慌てて動いたりしたらアンタがケガする。興奮してパニックになるのも、絶対体によくない。だから、とにかく落ち着いて」
「そんな悠長なこと言ってられませんわ! 一刻も早く安否を……」
「だから落ち着けって言ってんのよ!!!!!」
鈴谷がありったけの力を込めて叫ぶ。流石の熊野もたじろぐ。一瞬の沈黙の後、鈴谷が口を開く。
「神戸の人達はきっと無事だから。大丈夫、絶対大丈夫だから。それで、向こうが無事なのに、アンタがケガしたり病気悪くしたりしたら、元も子もないでしょ。だから、今は冷静になって。お願いだから、ね?」
鈴谷の言葉でようやく熊野も我に返ったようだ。
「そう、ですわね……。申し訳ありません、取り乱してしまって……」
熊野は今にも泣き出しそうだったが、必死に堪えた。
何よりもまずは安否確認だった。ナースステーションの近くの公衆電話で神戸との通話を試みる。しかし、受話器から聞こえてくるのは無機質なオペレーターの声だけだ。あれだけ大規模な空襲の後だ、全国から通話要求が殺到しているのだろう。繋がりにくくなっていてもおかしくはない。
「どう?」
「繋がりません、回線が非常に混雑しており……、とのことですわ」
次の方策として、メールを試した。テレビ電話に使用しているPCで、神戸へメールを送ったのだ。運良く1回で送ることができたが、当然ながら返信はすぐにはこない。
「本当に大丈夫、ですわよね……」
熊野は焦りの色を隠せない。テレビでは、神戸の惨状が繰り返し報道されている。現場は未だに混乱しているようで、被害情報が何度も修正されている。先ほどまでは盛んに励ましの言葉をかけていた鈴谷も、こんな映像を見せられると口をつむぐしかなくなってしまった。
「とにかく、他に情報を集められる手段は……」
鈴谷はふと窓の外に視線を移した。すると、海の上に何か小さなモノが動いているのが見えた。よく見ると、それは人の形をしている。各々様々なセーラー服に身を包み、背中に煙突や砲のようなモノを背負っている。間違いない、あれは艦娘だ。
「ちょっと待ってよ、こんなところにまで敵がやってきたの!?」
震える声でつぶやく鈴谷の後ろで、勢いよく扉が開いた。振り向くと、そこには重厚な艤装を身に纏った最上が立っていた。相当急いでいたようだ、肩で息をしている。
「最上さん!」
「最上! どうしてこんな所に!?」
驚く2人に最上は事情を説明する。
「神戸が大空襲されて、日本の全鎮守府・泊地・基地に緊急の出撃命令が出たんだ。神戸以外の沿岸地域も攻撃される可能性があるから、ボク達には鎮守府近海の警戒任務が与えられたんだよ」
「じゃあつまり、ここに敵が来るってわけじゃないのね?」
「まだ確実に安全とは言えないけど、ありったけの哨戒機と偵察部隊を出してるから、敵がやってきてもすぐに迎撃できるはずだよ。この施設の人達を避難させる準備も、今急ピッチで進めてる」
「最上さん、神戸の様子はどうなっていますの……?」
熊野の不安はピークに達していた。最上が静かに答える。
「……それが、ボク達もまだ被害の全容は把握しきれてないんだ。民間人も含めて死傷者は数百人、まだまだ増えるだろうって話だった。軍民問わずに港湾施設が集中的に狙われて、辺り一面ガレキの山になってるらしい。迎撃に向かった近くの部隊も、敵艦隊が一切哨戒網にかからなかったせいで出撃が遅れて、到着した時には既に手遅れだったんだ……」
深海棲艦の奇襲攻撃に対し、何もできなかった悔しさが語り口からは滲み出ていた。。
「ごめん、ボク達がもっとしっかりしていれば、こんな事にはならなかったのに……」
「そんな、大丈夫ですわよ。最上さんが謝ることはありませんわ」
謝る熊野が慌ててフォローする。
「ねえ最上、アンタの所の司令官に今連絡取ることってできないの?」
司令官という役職上、神戸の情報はすぐに入ってくるはずだ。そして、熊野の実家とも深い繋がりがある。こちらのことを気にかけて色々と調べてくれるかもしれない。鈴谷は期待を込めて尋ねた。
「すまないけど、連絡は取れても、今は戦力を総動員して警戒に当たってるから、君達の要望に応えられるほどの余裕はないよ。少なくとも任務が終わるまでは、欲しい情報はもらえないと思う」
「身内の安否くらい、すぐに知らせてくれたっていいじゃない……」
今の状況下では仕方のない返事だったが、それでも思わず本音が漏れてしまった。
「納得できないかも知れないけど、それだけの非常事態なんだ。本当にごめん。任務が終わったら、ここに連絡してくれるようすぐに提督に相談してみるから」
最上はそう約束すると、自分の持ち場へと戻っていった。最上の話によれば、少なくとも神戸を奇襲した機動部隊がどこから現れたかを特定できない限り、警戒体制を解除することはできないそうだ。敵の出現位置が分からない以上、別の場所が再び攻撃を受けてもおかしくないからだ。鈴谷達は、病院地下に用意されたシェルターに避難し、長い緊張した時間を過ごした。自分達の身の安全、そして実家の被害が分からない状況では、1分1秒がとても長く感じられた。更に、段々と明らかになる被害状況の報道に、熊野の不安は増していくばかりだ。じっとシェルターのテレビモニターを見つめる熊野のそばに、鈴谷はずっと寄り添っていた。
正午を過ぎた頃、速報が入った。敵艦隊の出現位置を特定し、敵勢力の排除に向かったとのテロップが通知音と共に表示される。間髪を入れずに、シェルターには放送が流れはじめた。この病院の近海に深海棲艦の部隊は確認されなかった、とのことだ。ひとまず自分達の安全が保証され、シェルター内の人々はみな安堵した様子だった。
「どうやら、ここは大丈夫みたいだね」
「そうですわね」
しかし、2人の表情は固いままだ。まだ熊野の親族の安否は取れていないのだ。病室に戻ってからも、悶々としながら連絡を待ち続けた。緊張を少しでも和らげようと、いつものような会話を交わしたり、院内の喫茶店に行ってみたりしたが、あまり効果はなかった。
陽も傾き、真っ赤な光が病室を照らす頃になって、ようやく連絡が入った。声の主は最上ではなく、衛田嶋本人であった。
「連絡が遅くなってしまった、申し訳ない。君達は大丈夫か?」
衛田嶋はそう切り出した。
「最上さん達のおかげで、大きなパニックも起きませんでしたわ。ありがとうございます」
そして話は本題に移った。
「それよりも、神戸……わたくしの実家は大丈夫ですの……?」
衛田嶋の「ふぅ……」という息を吐く音が電話口から聞こえた。
「覚悟して聞いて欲しい」
そう言うと衛田嶋は、ゆっくりと言葉を選ぶように熊野に語りはじめた。。
「まず、君の実家の造船会社だが、造船所は少なくとも半年は使用不可能だ。建造および修理中だった艤装やその他の艦艇、船舶も半分以上が廃棄処分になった。それから、造船所に詰めていた技術者や工員の方々、そして海軍関係者の人間はほぼ全員が生還した。適切な避難誘導と少数ながら奮戦した現地の艦娘部隊のおかげだ。手持ちできる資料や艤装の設計図などもかなりの数が無事だった」
熊野は所々で衛田嶋の言葉を反復し、鈴谷にも情報を伝えた。今回の奇襲攻撃は、朝早くに行われたことと、港湾施設に攻撃が集中したことが不幸中の幸いだった。港湾施設に滞在していた人間はあまり大人数ではなく、避難も比較的スムーズに行うことができたようだ。物的被害は甚大だが、人的被害は最小限に抑えられたと言ってもいいかも知れない。
「それは、良かったですわ」
不安は一部解消された。しかし、まだ最も重要な情報が残っている。熊野が意を決して尋ねた。
「それでは、わたくしの家族は、無事ですの?」
「君の家族……、君の両親は危険を省みず、最後まで造船所内に残された資料や設計図を運び出すために動き続けていたようだ。現在は行方不明となっているが、破壊された建物の残骸から数名の遺体が発見されている。身元の特定にはまだ時間がかかるが、おそらくは……」
熊野の耳に、それ以上の言葉は入らなかった。熊野の様子に、鈴谷も全てを察した。全身の力が抜けたかのように、熊野はぺたりと尻餅をつく。目を虚ろに開けながら、体を小刻みに震わせている。「どうして……どうして……」とうわ言のようにつぶやく声だけが、廊下に響いていた。
熊野の顔から笑顔が消えた。笑顔だけではない。驚き・感嘆・悲哀、今まで見せていた熊野の豊かな感情は、全て神戸の戦火によって失われてしまった。湯水のように湧き出していた知的好奇心も枯れ果て、ベッドからただ呆然と海を眺めるばかりの日々が続いている。
鈴谷は、そんな熊野を励まそうと毎日テレビ電話をかけ続けた。しかし最近は、その電話への応答すらなくなってしまった。直接病室へと会いに行っても、会話は全く盛り上がらない。気の利いた言葉の1つでもかけられればいいのだが、燃え盛る神戸の映像と熊野の取り乱し、泣き崩れた姿を間近で見てしまった以上、下手な言葉を口にして更に傷つけてしまうことを恐れ、何もできないまま時間だけが過ぎて行った。
今日は鈴谷が病室を訪れる日だ。今度こそは、熊野をもう一度笑わせてやろうと意気込んでいる。手に持っているのは、熊野と出会った時に見せた漫画の最新巻だ。昨日発売になったばかりのモノを道中で購入し、これで熊野を喜ばせようという魂胆である。これまでも同じ手段で熊野の笑顔を取り戻そうとあれこれやって失敗し続けていたのだが、今回は熊野の1番のお気に入りの、しかも最新巻である。きっと上手く行くだろう。鈴谷の期待はいつも以上だった。
「おっはよー! 熊野ー!」
元気よく病室の扉を開ける。熊野は、大理石でできた石像のように動かない。ベッドに座ったまま、窓の外をぼんやりと眺めている。
「……もう、返事くらいしてよねー。ほらほら、こっち向いて」
鈴谷は今日のチャンスを逃すまいと、いつも以上に明るく振舞っている。呼びかけられた熊野がこちらを向いた。その顔は相変わらずの無表情だ。
「じゃーん!!! ほら、これなーんだ?」
隠していた、買ったばかりの漫画を熊野に見せる。熊野は何もしゃべらない。
「…………」
「もう、ノリが悪いなあ。最新巻だよ最新巻! しかもまだ未開封! ほら、早く開けちゃって!」
熊野の手元に漫画を置く。そして満面の笑みを熊野に向ける。熊野は渡された漫画に視線を落とす。しかし、開封のために手を動かす気配は一切無かった。
「ねえ、ほら、早く開けてよ。熊野が読み終わったら、私も読むんだからさ。早く早く」
熊野を急かす鈴谷。すると熊野がようやく重い口を開いた。
「鈴谷さんがお読みになりたいのでしたら、さっさと持って帰ってください。そんなモノ、わたくしには必要ありませんわ」
そう言って、渡された漫画をぐいっと鈴谷の手元に押し付けた。一瞬にして空気が凍りつく。鈴谷は予想外の返答に混乱する。
「え……? ちょっと……、これ、好きなヤツじゃなかったっけ……?」
熊野は暗い顔で俯いている。何をしくじってしまったか、鈴谷には理解できていない。
「お、おかしいなー、これ、アンタの1番のお気に入りだと思ってたんだけどなー! そうだ、それじゃあさ、アンタが今欲しいもの、教えてよ。漫画でもCDでも、何でも持ってくるからさ。そうだよ、変なモノ持ち込んだりしないで、最初から本人に聞けばよかったんじゃん! こりゃ、失敗しちゃったなー!」
「そんなもの……要りませんわ……」
熊野が小さな声で、しかしハッキリとつぶやいた。
「え? 何だって、熊野?」
鈴谷が咄嗟に聞き返すと、熊野は今まで聞いたことのないような大声で叫んだ。
「わたくしが欲しいモノは、そんなものではありませんわ!!!」
突然の大声に、鈴谷は激しく動揺する。
「そんな……、だって熊野、今まで色々持ってきたらすごく喜んでくれてたから……」
いつの間にか熊野は眉間に皺を寄せ、全身を小刻みに震わせていた。その手は布団をぎゅっと握り締めている。
「鈴谷さん、あなた、わたくしの悲しむ姿を、飽きることもなく毎週毎週見にいらして、そんなに楽しいですの?」
「な、何言ってんのよ! そんなわけ……」
慌てて否定しようとする鈴谷だが、熊野は全く聞く耳を持たない。
「そうですわよね? 生まれ育った故郷を蹂躙され、唯一の頼れる存在だった両親も奪われたわたくしの気持ち、分かるわけがありませんわ! 長く苦しい入院生活も、いつの日か神戸に戻れるのならと言い聞かせて、必死に耐えてきましたの。それなのに……、それなのに……」
「熊野……」
今にも泣き出しそうな熊野に寄り添おうとする鈴谷だったが、熊野はそれさえも拒絶し、鈴谷をベッドから遠ざけた。
「鈴谷さん、もう構わないでいただけます? 安易な同情はまっぴらごめんですわ! こんな不幸なわたくしを見て、嬉々として恩を売ることがそんなに楽しいですの? わたくしの気持ちなんか一切考えず、毎晩毎晩性懲りもなく電話をかけて、いい加減付きまとわれるのもウンザリですわ! 我慢の限界です。早く、わたくしの前から……」
最後の言葉を言い終わる前に、鈴谷の右手が勢いよく振り抜かれた。パシンと乾いた音が病室に響く。左頬がじわじわと痛み出し、熊野はようやく自分が鈴谷の平手打ちをもらったことに気づいた。
「黙って聞いていれば、勝手なことを言ってくれるわね……、私が安っぽい同情や恩を売るためにここに来てるですって? そんなわけないじゃない……」
怒りとショックが入り混じった複雑な感情が、震える声からにじみ出る。不思議と鈴谷の目に涙は無かった。
「アンタにもう構うなって? 分かったわよ、言われなくてもそうするから。もう電話もかけないし、高い電車賃払ってここに押しかけるのもやめにするから。それでいいでしょ?」
そう言うなり、鈴谷は熊野に貸していた漫画やらCDやらをいそいそと回収しはじめた。無言で無表情のまま淡々と作業を進める。熊野は、ようやく自分の言葉の過ちに気付いた。
「そんな……、違いますわ! わたくし、そんなつもりじゃ……」
鈴谷は冷たく言い放つ。
「いいよ今更。アンタの気持ち、嫌ってほど分かったから」
以前色々と持ち込んだ時に使った大きな紙袋を見つけ、鈴谷は手早く荷物をまとめていった。
「鈴谷さん、違いますわ! わたくしは……、わたくしは……」
「それじゃあね、病気、治るといいね」
熊野の必死の呼びかけを無視し、そのまま部屋を後にした。扉を閉めて、病室から離れていく。だが、熊野の呼びかける声が未だに耳に入ってくる。俯いたまま、鈴谷は早足で廊下を進んでいく。後ろ髪を引かれるような気持ちを必死に抑えた。
熊野にあんな風に思われていたなんて、想像もできなかった。あの時は、感情に任せて思わず一発入れてしまったが、今の鈴谷の心を支配するのはショックと悔悟の念ばかりだ。熊野のために良かれと思ってやっていたこと、それは全て間違いだった。熊野の心の傷に塩を塗っていたのだ。だがこれからどうすればいいのか、鈴谷には分からない。歩くスピードだけがぐんぐんと上がり、熊野の病室はみるみる遠ざかっていく。
数分前の出来事で頭が一杯の鈴谷は、曲がり角の先が全く見えていなかった。
「うわっ!」
「きゃぁ!」
思いっきり誰かと激突し、尻餅をついてしまった。激突した相手が持っていたのだろう、書類が廊下に散らばった。
「ご、ごめんなさい!」
「こちらこそごめん……、ってもしかして鈴谷かい?」
聞き覚えのある声だ。顔を上げて声の方を見ると、そこには最上がいた。鈴谷と同じように尻餅をついていた。
「最上……ってあの、ホントごめん! 紙拾うから……」
バラバラになった書類を、鈴谷は急いで拾い集める。すると最上がこう言った。
「鈴谷、大丈夫? なんか目が真っ赤だけど?」
全く自覚がなかったのだが、病室では一切出ることのなかった涙が廊下を歩いている内にどんどん溢れてきたらしい。
「え? そんな……、泣いてなんかないから……、うん、大丈夫、大丈夫……だよ……」
平静を装う鈴谷だったが、その言葉とは裏腹に大粒の涙が1つ、また1つと落ちていき、しまいには自分では全く収拾がつけられなくなってしまった。
「落ち着いたかい?」
最上に連れられ、鈴谷は病院近くの公園のベンチに腰掛けていた。気づけば、もうすぐ昼食の時間だ。夏の日差しが2人を容赦なく貫く。最上の奢ってくれたアイスは既に木の棒だけになっていた。
「君と熊野がケンカだなんて、あんなに仲良さそうだったのに」
「いいんだって、私も考えが浅はかだったし、熊野だけを責められないから……」
鈴谷は涙に言葉を詰まらせながら、病室での一部始終を最上に明かしたのだった。ひとしきり打ち明けたことで、鈴谷は冷静さを取り戻していた。
「神戸の話はたまにしてくれたけど、あんなに思い入れのある場所だなんて思わなかった。私、自分の住んでる町とか家とかに深い気持ちを持ったことなかったし」
「ボクも昔はそう思ってた。でも、自分の生まれ育った場所って、そこから離れると自分にとって大事な場所だったってことに気づくんだよ」
最上は、飲みかけのコーラを一気に飲み干す。鈴谷が尋ねる。
「最上の生まれたところってどんなとこ?」
「ボクの故郷は、山の中の小さな村さ。四方を山に囲まれて、海なんて全く見えないところ。交通の便がもう最悪でさ、物資の配給すら全然来なかったからなぁ。あ、農村だったから、食糧だけはいっぱいあったけどね」
自分のルーツを最上は楽しそうに語った。神戸について話していた時の熊野も、こんな顔をしていたような気がした。
「今でも、地元には帰りたいって思ったりする?」
「そりゃもちろんさ。不便な生活だったけど、あののどかな畑や森の風景は、こっちに来てからも一時たりとも忘れたことはないよ」
最上は更に続ける。
「だから、自分の故郷をめちゃくちゃにされて、しかもその様子を鮮明に見せつけられた熊野のショックは、ボク達では想像もつかないくらい大きかったと思うよ」
「それ、熊野も大声出して言ってた」
「それから、熊野は病気が治ったら外の世界のことをいっぱい勉強して、神戸でその知識を活かしてたくさんの人の役に立ちたいって言ってたし」
最上の言葉に鈴谷は何か引っかかるモノがあった。
「え? 熊野がそんなことを? 初耳なんだけど?」
最上はキョトンとしている。
「あれ? てっきり君にも話してるかと思った。ほら、ボクと君が提督と熊野の話を盗み聞きした日の後。あの後また熊野と話す機会があってさ、その時言ってたんだよ」
初めて熊野と出会った時、『箱入り娘のままでいたくない、外の世界についてたくさんのことを知りたい』と言ったことは覚えている。だが、『自分の知識を人のために役立てたい』とまでは言っていなかった。
そこで、鈴谷は自分が彼女に向けた言葉を思い出した。確か、病気を治すために多くの人に迷惑をかけてしまうと嘆く熊野に、『病気を治した後、一生懸命人のために働いて挽回すればいい』みたいなアドバイスをかけたはずだ。熊野が自分の言葉を入院生活の支えとしてくれたらしく、鈴谷は少し嬉しい気持ちになった。
しかしその反面、鈴谷はその後の自分の行いをますます悔いた。『いつか神戸に戻り、その地で自分の知識を人のために役立てる』という熊野の生きる希望は、神戸の港町が焼け野原になった時点で失われてしまったのだ。両親という、自分を守ってくれる存在すらいなくなってしまった。入院生活を耐え抜くために必要な希望を、今の熊野は何1つ持っていない。そんな熊野を、小説だの雑誌だのモノを使って慰めようとするなど、正に愚の骨頂だった。
「そんな大事なこと、なんで私に言ってくれないかな……。先に言ってくれれば、私だってもうちょっとまともな行動ができたのに」
愚痴る鈴谷に、最上は少し考えてから言った。
「大事なことだから、言わなかったんじゃない? ずーっと傍にいてくれる鈴谷だったら、言わなくてもきっと分かってくれるって、思ってたんじゃないかな」
最上の言葉に、鈴谷は顔が真っ赤になってしまった。
「アンタ……、私と熊野がどんな関係だと思えばそんな台詞が出てくるの……」
「うーん、『恋人』かなぁ。だってそうとしか見えないもん」
恥ずかしくてしょうがなかった。頭がフラフラして倒れそうになる。
「ごめんごめん、『恋人』の辺りは冗談だよ」
鈴谷をからかう最上だが、その目は真剣だった。
「でも、熊野が君のことを大事に思ってるってことは本当じゃないかな。君と出会ってからの熊野はすごく活き活きしてたし、今も仲直りしたいって思ってるよ、きっと」
ようやく自分のやるべきことが見えてきた。鈴谷もようやく立ち直ることができた。
「そうだよね。ありがと最上」
「いいっていいって」
2人は立ち上がる。厳しい日差しだが、海風がとても心地良かった。
「アイス、ごちそうさま。ちょっと熊野に謝ってくる」
「頑張ってね。ボクはこの書類、鎮守府に届けなきゃだから。また今度!」
鈴谷は最上に別れを告げると、真っ直ぐ病院の方へ走り出した。今の熊野に必要なのは、誰にでもかけられる励ましの言葉でもなければ、見ず知らずの人間が書いた心揺さぶる物語でもない。人生の目標、生きる希望だ。自分には想像もつかないようなモノを背負ってきた彼女に人生を説くなど、おこがましいにも程がある。だが、ずっと熊野に接し続けた自分だ、きっと何か手伝えることがあるに違いない。全ては熊野に、あの屈託のない笑顔をもう一度取り戻してもらうためである。
何よりもまず、モノで熊野の注意を惹こうとした行動を詫びなければならない。善は急げだ、院内だろうと構わず走り抜け、いつもの病室へと駆け込んだ。
そこはいつもの病室ではなかった。見慣れない、白衣を来た医者や看護師が何人も出入りしている。初老の医者が大声で指示を飛ばし、若い研修医や看護師はその言葉に従って何かの準備をしている。ベッドを囲む彼らには、焦りの表情がありありと見えた。
鈴谷はベッドの上に視線を移す。ベッドの上では、1人の少女が手足を痙攣させ泡を吹いていた。呼吸は途切れ途切れで目は虚ろだ。鈴谷は一瞬、入る病室を間違えたのかと錯覚した。だがここは、確かに熊野がいるはずの病室だった。鈴谷は未だに状況が理解できない。
「熊野……、ねえ熊野……、どうしちゃったの! ねえ!」
鈴谷は電気が走ったようにベッドに駆け寄る。初老の医者が鈴谷を視界に捉える。
「ちょっと君! すまないが今は一刻を争う。少し外に出て行ってくれ!」
「何言ってんの! 私は熊野に言わなきゃいけないことが!」
冷静さを失い、暴れだす鈴谷を若い研修医が外へと引きずり出した。
「離してよ!!! 熊野!!! 熊野!!!」
そうこうしている内に、熊野の体はストレッチャーに乗せられ運び出されて行く。
「熊野!!! 熊野!!! ねえ、どうして!!!」
鈴谷の叫び声も虚しく、熊野は医師達とともに角を曲がり見えなくなってしまった。