凛が眠りに入ってから寝ぼけ眼を擦るまで、だいたいだけど一時間半くらいの時間があったと思う。それまでのうちにやるべきことをやっておいた私は、先程いたベッドには戻らず、凛が眠るベッドに背を向けるような格好でソファーに腰を下ろして持参したロイヤルミルクティーを飲んでいた。サイドテーブルの無いベッドの傍ではミルクティーが飲み辛いと言うのも理由だけど、凛の横にいるとさっきの不埒な気持ちを思い出してしまいそうでそれを避けたと言うのが実のところ一番だった。少しだけ時間を置いて――もしくは、起きている凛を見ている分には何の問題も無いんじゃないか、って、そう思ってのことだったんだけど、でも自分の後ろでもそもそと動き出す凛のその音に反応して振り返って見た私の顔には、まだいくばくかの朱が見え隠れしていたことを自覚していた。
ところで凛だけど、私はもっと元気のいい寝起き、それこそ文字通りの『飛び起き』をイメージしていたのに、実際はと言うと布団を掛けたまま身体を起こし頻りに目を擦り、ここがどこかと理解するのに終始しているように見えた。
「おはよ」
そう私が声を上げると凛のまだ若干うつろな双眸はこちらに向けられる。寝起きで見るはずのない顔を視界に入れれば多少は驚いて声を張るんじゃないだろうか、そう思っていたのに。
「まき……ちゃん」
聞こえてきた声音は、やはりどこか、柔らかで甘いものだった。
「そっか……凛、寝ちゃってたにゃ」
ごめんね、と、そう言う。表情は『苦笑』――そう言い表すのが一番近いような気がした。
「飲む?」
私は立ち上がると片方のグラスに入った冷たいミルクティーを携え、凛の傍へと寄る。それが一時間半前に持ってきた物ではなく、ほんの十分前に自分で淹れ直してきた物だってことは一応説明しておこうと思う。手に持ったグラスを彼女に手渡すと、凛は「ありがとにゃ」と言って一口含み、喉を鳴らす。
「甘いにゃ」
言って少女は笑って見せた。微笑むようなその顔は、凛の顔でありながらやはり星空凛とは思い切れない何かが宿っているように感じてしまう。
普段は見せない一面を、あえて私に見せているのか。
それともこれが、星空凛の本当の姿なのか。
どちらかはもちろん、私にはわからない。でもどちらであったとしても、それは同様に私に最大限気を許してくれていると言うことに違いは無いだろうし、そんな言動、表情、そして幸せそうな寝顔を見ることができた私は、ある意味僥倖にめぐりあえたのだと言えるのかもしれなかった。
そこまで考えたとき、凛の睡眠中に不埒なことを考えてしまっていた自分が何だか恥ずかしくなって、凛の傍から一歩だけ離れた。
「真姫ちゃん?」
いぶかしげに問う凛を背にし、私は言う。
「……ほら、起きたのなら星を見るわよ。凛が寝てる間に準備は済ませておいたから」
「――うん!」
一息ほどの間を持って、凛が頷く。その声は、私が良く知っている凛のものに違いなかった。
――ほんとに。
いつだってこんなだから、エリーに「素直じゃない」なんて言われちゃうのよ……。
◇
部屋の電気を消してみても、遠くの街の明かりは部屋の中へと進入してくる。カーテンも閉めて初めて、私が望んだ暗闇ができる程度に、私達が住む街は人工の煌めきに満ちていた。だから凛が自らの名字を、天体に舞う幾億もの星々を求めたのだろうってことは先述の通りだけど、その気持ちは何も凛に限った話ではない。私だって、満天の夜空のもとで天体観測に興じたいと思うことだってある。ただしそれが環境的、そして時間的制約によってなかなか叶うものではないとするならば、私の両親が私に与えてくれたのは人工の光を遮った上で輝く人工の光だったと言うこと――すなわち。
暗闇の中で私がそれに息吹をもたらせば、出来上がったのは天井に瞬く彼女の名、だった。
「わあぁ……」
息を漏らす凛はきっと恍惚の表情だろうと思う。施設にあるような本格的な設備とまではいかないけれど、家庭で使用するプラネタリウムにしては高額なもののはずだから、明度彩度もその程度にはなっていると思うし、部屋の広さに比例する天井のそれもまた、彼女に遠くまで星空を見渡す錯覚を覚えさせるんじゃないだろうか。是非、そうであって欲しい。
私は凛の隣に座っている。凛が私の部屋に入ってきてすぐにそうしたように、ベッドのふちに腰掛けて、その身を私の身体に預けるように寄り添って。私の家に来るまでにそうしていたように、私の左の腕を独占して。座っているせいかさっきより腕にかかる圧力はないけれど、このくらいがちょうどいいなって思えるくらいの気持ちよさを私は感じていた。
「あそこにあるのが、秋の四辺形って呼ばれるものよ」
凛に頼まれた通り、私は星座の解説を始める。指を指した先にあるのは、気をつけなければ見落としてしまうかもしれないほどの煌めきの星だった。
「春や夏、冬には大三角って言われる、特に目を引く星同士を繋げた、星座とは違う星の繋がりがあるの。夏なんか、有名よね。アルタイル、ベガ、デネブ――聞いたことあると思うけど」
凛は聞き入ってくれてるのだろうか、特に返事をくれることはない。構わず私は続ける。
「でも秋に限ってはそれが無いの。その代わり、ひとつの星座の中にある四つの星を取り出して秋の四辺形って呼ばれてる。元々がひとつの星座なんだから、無理やり付け足した感が半端無いわよね。で、その星座って言うのが、四辺形の右に伸びる星々を繋いだものなんだけど、凛には、何がモチーフになっているかわかる?」
まあ、わかんないだろうなと私は思う。本に載ってる星座表のように星同士が線で結ばれているわけではないのだからなおさらだ。むしろ知識も無いのにわかってしまう方がどうかしてる。その通り、凛は「全然」と声を上げる。か細い声は、凛なりに雰囲気を気にしているのだろうか。
「正解は、天馬。よくペガサスって言われるものね。でもこの星座の名前はペガスス座って言うの。これはラテン語読みをしているせいね」
「ペガサス……」
「この星座、面白いのは天馬の構図が逆さになっていることなの。これは何も間違いってわけではなくって、星座がギリシャ神話と密接に関係しているせいなんだけど。もちろんペガスス座にも例外なくあるわ」
「どんなお話?」
ちゃんと話すと長くなるから簡潔に話すけど、と私は前置きする。
「その昔、ひとりの勇者がいた。その勇者にある日、怪物を倒してくれと言う依頼が来るの。勇者はその怪物を倒すために、女神から天馬の手綱を授かってペガサスを操り、その怪物を倒したわ。その後も勇者はペガサスと共に武功を上げ続けるのだけど、その過程で彼は勘違いしてしまうの。自分は強いんだ……って。もちろん、勇者に根本的な強さが無かったら、彼がここまで活躍することは無かったかもしれない。だけどそれらの武功は、ペガサスに寄るところが大多数を占めていた。にもかかわらず彼は自惚れて、ペガサスと共に神々のいる山へと向かい、駆け上ろうとしてしまった。神々はこの行為に激怒して、ペガサスに跨り飛行する勇者をその馬上から振り落としたの。一匹のアブを使って――」
「アブって、虫の?」
「そう、神々の王は一匹のアブをペガサスに向けて放ち、その身に刺させた。痛みに驚いたペガサスはそのままひっくり返って、勇者は地に落ちて行った……ってことね」
「なんだか、悲しい話」
「神話なんて、だいたいそんなものよ。中身をみたら、どろどろしてるものばかり」
綺麗な薔薇には棘がある、じゃないけど、星座にまつわるギリシャ神話もまた、この天井に広がる星空とは笑ってしまうほどに真逆で。知らなければ良かったと思う裏があるのは、美しいものに共通する性なのだろうか。
「他に、何か聞きたいことはある?」
でも例えそれが悲しい物語だとしても、凛がそれを望むのなら私は凛に話さなくちゃいけない。いま私の隣に凛がいるのは、そのためだから。
すると。
彼女は私の予想の範囲外、想像の遥か彼方にあるだろう質問をぶつけてきた。
「真姫ちゃんは、凛のこと好きかにゃ?」
――う、うえぇぇぇ!?
「まーきちゃんっ」
きっと凛は、私の顔を見ながらにやにやとしていることだろう。私は確かに(星座について)『聞きたいことはあるか』とたずねた。けれど(私に対して)『訊きたいことはあるか』とたずねたつもりは毛頭無い。それに大体にして何と言う問いだろうか。
「な、何よいきなり!?」
言いながら凛を見ると、彼女は案の定、にっこりと両の目に弓を作りながら私を見ていた。
「ききたいこと、きいただけだよ?」
やはり、と言うか。
彼女に悪びれる素振りは全くと言って見当たらない。だけどもその問いがどこまで本気でたずねてきたものなのか、そこについては私にはわからない。
「り、凛は」
「大好き」
だから私は訊き返そうとした。その真意を、その本心を。そんな私を、凛は見抜いていたのだろうか。即答された声音は、柔らかさと甘さの中に、彼女の名前のような凛としたものがあった。
「こうして真姫ちゃんの隣に座って、星空を眺めて、真姫ちゃんのお話を聞いてるのが、ほんとのほんとに好きになっちゃった。だから」
凛の、私の左腕にかけるチカラに、強さが増した。
「今度は、本物の星空の下で、真姫ちゃんのお話が聞きたいなって、ずっとずっと、そうしていたいなって――そう思うにゃ」
いいかにゃ、真姫ちゃん? と、凛は私に訊ねた。
そんな凛を、私の双眸は正面に捉える。
そして、こう告げる。
「……凛から誘っておいて途中で眠ったりしたら、容赦しないんだからね」
それが、言葉尻ほど声音が厳しくなかったことを、私は自覚し、凛も理解していた。
だから。
「うん」
溌剌としない、柔らかく、甘い声。凛はそれをもって私に返事をする。今日何度となく見聞きした星空凛の、星空凛らしからぬ言動や、表情。彼女からの問いを、告白を受けていま私が見出したものがあるとするならば、それは。
愛しさ。
そう、言えるのかもしれない。
◇
そのまま他愛も無い話をしながら、あるいは食べ物をつまみながら、擬似天体のもとで同じ時を過ごした私と凛は、しかし予想以上に過ぎ去ってしまっていた時間に少しだけうろたえることになった。互いにいまが何時であるかなど気にも留めなかったし、気に留めることすら心のどこかで拒んでいたきらいがあるかもしれない。今日は室内だからよかったものの、これが夜分遅くになるにつれ段々と冷え込む屋外であれば絶対に失念するわけにはいかないだろう。いつかふたりで天体観測をすると言うのならば気をつけなければと心深くに刻み込む。凛に風邪を患わせるわけにはいかないもの。
「どうせならこのまま泊まって行けば」
夜も遅いし、どうせ今日は両親がいないから何かを言う人はいないし、そんなことから誘ってみたのだけど、凛は少しだけ考えたのちに「じゃあ」と言って私の言葉に甘えてくれた。いまから帰宅することと我が家に迷惑をかけること、その他さまざま、考えることはあったと思うけれど。もちろん私だって今日が週末でなければこんなお誘いはしなかったと思う。断言できないのは、それは――少なからず、凛と離れてしまうのが嫌だと思っているから。なんて、そう思いはするけど、やっぱり口には出せない。
出さなくても、なんだか凛には見通されているような気がしてしまうのはなぜだろうか。
「ありがとにゃ!」
泊まらせてくれる私に謝辞を述べる、その凛の姿は学校やμ'sで見かける星空凛のものに違いなかった。その切り替えはいつどのタイミングで行っているのだろう。気にはなったけど、結局聞くのは躊躇われた。どちらであっても凛は凛だし、どちらであっても私にとって『愛しい』と言う感情があることには変わりがないからだ。
一緒にお風呂に入り、凛に合うサイズの着替えを貸し、ふたりしかいない自宅でわざわざ客間を開放するのは作業的にも個人的なの心情的にも否の印を押した私はひとりで寝るには少々ゆとりのあるベッドへと凛を促した。添い寝については、少々憚られる思いが私の中にあったから私はソファーに横になろうとしたのに、それを認めなかったのは他ならぬ凛だった。私は渋々――と言った体で、凛の隣に潜り込んだ。
◇
「ねぇ、凛」
私のすぐ隣で同じ布団を被る少女に、私は訊く。
「どうしていきなり、天体観測がしたいなんて言い出したの?」
多少の間を持って、凛が言う。
「何か、非日常みたいなことをしたいって、そう思っただけにゃ」
星空凛らしからぬ言葉を、言う。
◇
ひとつの寝床を誰かと共にするのは、いつ振りだろう。きっと記憶にも残らないほど昔に両親のどちらかと枕を並べた時以来なんだと思うけど、その時には感じることの出来なかった思いがいまの私にはあった。そしてそれはなかなか私を眠りの国へと誘おうとはしなかった。対して凛ときたらうちに来て一度仮眠を取っていると言うにも関わらず既に夢幻の海を泳ぎだしていた。全く……と思いながらも、先述の通り起こしてしまうことなどするつもりはない。それに起こしてしまったら、この綺麗な寝顔を堪能出来なくなってしまうし。
さっきの私が不埒だと切り捨てた行為を、いまの私はしている。先刻の私が持っていなくて、いまの私が持っているもの――それは、凛に対する想いの内、この少女を真正面から『愛しい』と思える気持ちであると、私は胸を張ることができるだろう。それでもまだ、このことを口から先に出してあげることはままならない。
凛が私に言った、
「大好き」
それを、どうしても言葉として表に出すことができない。そこに傲慢さがないのは言わずもがな、気恥ずかしさはもちろんあるけど、プラスしてそこに臆している自分がいるような、そんな気がしている。何を臆することがあるのかと、私は自分を叱責したい。
けれど。
「……すぅ」
また、凛の顔を眺めた。いまはこの綺麗な顔を眺めているだけで、この吐息を身近で感じられるだけで、心の底から幸せを感じる。この少女を――星空を冠した女の子を、私が独り占めしていると言う事実が、いまはとても喜ばしい。
今日私が凛に見せたプラネタリウムが、彼女の、星空凛にとってのみの星空となるならば。
私の、西木野真姫にとってのみの星空は、いま、隣にある。
「凛」
好きよ。
そう、面と向かって言える日が来るまで、どうか、私の隣に――私だけの星空であり続けて……
◇
私がいきなりこんなことを話し始めた理由と、凛が私の隣で眠っている件の顛末は以上。これを語っているうちに、どうやら時刻は深夜を回ってしまったようだった。なおも隣で音息を立て続ける凛に倣い、私もそろそろ、まどろみの中へ落ちていこうと、そう思う。願い事を、ひとつだけ心で唱えて。
――これから見る夢が、どうか凛と同じものでありますように。