Fate/reverse alternative   作:アンドリュースプーン

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最終話  ゼロの夜

 聖杯は破壊され、四度も繰り返された魔術師達による聖杯探索はまたも失敗に終わった。

 だが探索の失敗は魔術師だけのものではなく、数ある英雄譚の中でも『聖杯』と深く関わる物語の主演にとってもそうであったのだ。

 アルトリア・ペンドラゴン。騎士王アルトリア、アーサー王、ブリテンの赤き竜。

 嗚呼、呼び方は幾らでもあろう。

 十二の会戦の全てにおいて勝利という結果だけを齎した常勝無敗にして無敵の王者。ブリテンの守護神。

 生前において敵に対し常勝無敗を貫いた孤高なる王者は、その最期にて最も信頼した騎士と不義の息子の裏切りにより果てた。

 皮肉なことに、それは決して伝承に残されることなきアーサー王による聖杯探索においても同じだった。

 聖杯により招かれた彼女は最強であった。

 衛宮切嗣という男を主と頂いた彼女は軍団を率いる王ではなく、戦場を駆け抜ける騎士として戦い――――やはり最強であり続けたのだ。

 ギリシャ神話に伝わる裏切りの魔女。人の技のみで神の御業にまで辿り着いた魔剣士。アイルランドに名高きクランの猛犬。そして無限の剣を束ねし赤い外套の騎士。

 彼女と彼女のマスターはその悉くを討ち取り見事、聖杯戦争を制したのである。

 聖杯に手が届いたはずだった。もう後一歩、願いを託すだけで悲願を成就させるという段階にあったのだ。

 だというのに彼女は自らのマスターの裏切りにより――――千年後の世界における仮初の生に終止符を打たれた。誰よりも聖杯を求め欲した彼女は、自らの聖剣で聖杯を砕いたのである。

 そうして彼女は戻ってきた。

 彼女はサーヴァントにあってサーヴァントに非ず。死の間際に聖杯を手に入れるために世界と契約した彼女は、このカムランの丘から『聖杯を手に入れる可能性があるありとあらゆる時代』へと召喚され、彼女が聖杯を手に入れるまでそれは続く。

 だから最期の土地はこの場所なのだ。

 キャメロットで武勇を競い語らっていた勇猛果敢な騎士たち。その一人一人の顔を彼女は覚えている。彼女の目の前では彼女の息子が彼女に切られ死んでいた。

 カムランの丘は数多の騎士達の血を吸い赤く染まっている。その様はまるで血の湖のようですらあった。

 

"聖剣の一撃をもって聖杯を破壊せよ"

 

 自らのマスターの言葉をこの地へ戻ってもまだ覚えている。

 どうして彼が最後にそんな命令をしたのか、彼女には見当もつかない。会話こそ少なかったが、お互いに信頼し合っていたと思っていた。彼女は彼の勝利と聖杯にかける執念を知っていたからこそ、彼のことをマスターとして認めたのだ。その彼がどうして自らの意志で聖杯を捨てたのか。

 告白すれば『令呪』の存在をこの時ほど憎んだことはなかった。

 

「……まだだ」

 

 しかし彼女は膝を屈指はしない。世界で最も有名な騎士道物語、その王たる彼女は不屈だった。

 元より簡単な道程ではないと覚悟していた。所詮は一度の失敗、失敗したのなら成功するまで何度でも挑めばいい。

 彼女にとって時間は一瞬であり無限である。

 聖杯を手に入れるその時まで彼女は無限に戦い、この一瞬から一秒も進むことはない。聖杯を手に入れることこそが『世界』との契約条件であるのであれば、この身はいつの日か聖杯を手に入れることを約束されているのだ。それが幾度目かの探索で達成するかは分からないが。

 第四次聖杯戦争と衛宮切嗣。この二つを頭から排除し、頭を切り替えた。

 

 誉れ高き騎士が代名詞。勇猛果敢にして常勝無敗のアーサー王。

 彼女は無限の戦いの果てに、聖杯を掴み取るだろう。

 

 

 

 エクスカリバーの光が黒い聖杯を破壊していく。砕け散った黄金の杯が炎の光を反射しながら地面に落ちていく光景がスローモーションのように見えた。

 切嗣は力を失ったかのようにそれを見つめ続け、背後にある罪過に目を奪われた。

 

「――――――ぁ」

 

 ついさっきまで気にも留めなかったもの。灼熱の業火に焼かれる紅蓮の街と、炎に焼かれ死んでいく人々。

 これは自分が齎した災厄だ。大火災を起こしたのは言峰綺礼であるが、その責任は聖杯戦争に参加した衛宮切嗣にもあるのだ。

 恒久的世界平和。聖杯による救済はならなかった。

 喪われた命があるのならば、それ以上の結果がなければならない。

 だが今のこれはどうだ。

 自分はなにも成していない。この冬木での戦いを人類史における最後の戦争にするなどと嘯いておきながら、自分は誰一人として救ってはいなかった。

 では彼等はどうして死んでいる。彼等の死は……なにも生まない、ただの死だ。

 

「がっ!」

 

 切嗣が紅蓮の街に釘づけになっていると、その足元で死んだはずの言峰綺礼が跳ねる。

 視線を向ければ、銃弾に貫かれ失われたはずの心臓に『黒い泥』が詰まっていた。恐らくアンリ・マユ、聖杯の中身の一部が事前に聖杯に触れていた男の命に宿ったのだろう。

 

「はぁ……ぐっ……衛宮、切嗣……」

 

 言峰綺礼の黒い瞳が切嗣を射抜く。それは咎めているようにも、懇願しているようにも見えた。

 自然と銃口を言峰へと向けるが、直ぐに下ろす。

 例え相手が誰であれ、今日この場所ではもう誰にも死んで欲しくはなかった。誰も殺したくなどなかった。殺す事など出来なかった。

 切嗣はふらふらと希望を求める死刑囚のように炎の海へと歩いていく。

 まだ誰か生存者がいるかもしれない。いや、いなければ耐えられない。この大災害である。この地獄の中で生きている人間などいるはずがない。それでも探さずにはいられなかった。

 

「クッククッ……はははははは」

 

 切嗣が去った後、漸く自分の状態を認識した言峰綺礼は立ちあがる。

 心臓のあたりを撫でると、そこにはなにもなかった。心臓の鼓動はなく、極大の呪いが言峰綺礼の肉体を稼働させていた。

 

「私を、見逃したのか。あの男は」

 

 蘇生したばかりの言峰は完全に無防備だった。切嗣が殺す気なら一息つく間もなく言峰綺礼は絶命していたはずである。

 だというのに死んでいない。それはつまり言峰綺礼が衛宮切嗣に見逃されたということに他ならない。

 よりにもよってあの衛宮切嗣が言峰綺礼を見逃した。それがどうしようもなく不愉快だった。

 それでも言峰綺礼は笑みを浮かべて見せた。

 彼は知っている。

 生者などいる筈のない地獄。誰一人として生き残れる死の淵。

 しかし衛宮切嗣はそこで見つけるだろう。いる筈のない生存者を。

 切嗣がその生存者を見つけた時、運命は廻り始めるのだ。

 

「そうだろう? アーチャー」

 

 そうして言峰は問いかける。未だラインにて繋がっている自分のサーヴァントへと。

 

 

 

 偽物が本物に敵わぬ道理はない。それはいつの頃の己が言ってのけた言葉だったか。

 しかし己はもはやあの頃の己ではない。

 月下のもとに誓いし理想は既になく、内に宿すのは"自分を殺したい"という汚れた願望のみ。こんな自分では本物を凌駕することなどできるはずもない。

 本物の輝きが偽物を駆逐し、偽物しかない世界を崩壊させたのは当然の帰結すらいえた。

 だがエクスカリバーの光を浴びて尚、アーチャーはまだ世に存在を留めていた。

 アーチャーがもしこの大地でセイバーと戦っていたのであれば、今頃アーチャーは跡形もなく消滅していただろう。しかしアーチャーがセイバーと戦ったのは『無限の剣製』の結界内部である。

 本物のエクスカリバーが偽物のエクスカリバーを放逐しているのを見たアーチャーは、恐らく令呪の強制力が働いたのだろう。無意識に結界内にある盾という盾を引っ張ってきて自分を守っていた。

 そうして結界を自ら解除し、セイバーと離れた位置に再出現することでどうにか難を逃れたのである。

 けれど所詮それは延命行為に過ぎない。セイバーのエクスカリバーはアーチャーの霊核を著しく破壊しており、数十秒か数分後かの消滅を待つのみの死に体だった。

 そう――――何事もなければ、アーチャーは綺麗さっぱり死ねていたのだ。だが如何なる運命か、何事かがあってしまった。

 破壊された霊核が戻っている。いや別のもので補填されている。

 

「壮健なようでなによりだアーチャー。お互いかろうじて生き延びたようだな」

 

 炎の海の中から一人の神父が姿を現す。言峰綺礼だ。

 

「貴様は……」

 

「どうやらお前も私と同じように生き長らえたらしいな。私の心臓に巣食った『この世全ての悪』……それがラインを通じて貴様にも流れたということだろう。さながら山から海へ川を通して水が運ばれるように。今のお前は半・受肉状態にあるといっていいだろう」

 

 完全なる受肉ではない。ただアーチャーの欠けていた場所を『この世全ての悪』が補っただけだ。

 然り。この世全ての悪を背負い飲み干すことが出来るのは英霊の座広しといえど彼の英雄王以外にはいない。アーチャーでは世界の悪を背負うことなどはできないのだ。

 そんなアーチャーが『この世全ての悪』を受けて尚もこうして自分の意識を保っているのは、アーチャーがそもそも正純な英霊ではないということと、『この世全ての悪』がアーチャーを呑み込んだ訳ではないということに尽きるだろう。

 赤い外套の中にある自分の体を見てみる。するとそこには『この世全ての悪』を示す黒い刺青が刻まれていた。

 

「ぐっ……!」

 

 やはり『この世全ての悪』の呪いは恐ろしい。言峰綺礼の心臓から流れた僅かなものだというのに、英霊エミヤシロウの精神を真っ黒く塗りつぶそうとする。

 気を確かにもっていなければ即座に精神が『悪』に乗っ取られるだろう。否、恐らくは実感がないだけで自分はとうに汚染されてしまっている。ただ汚染されながらもぎりぎりのところで堕ちきってはいないだけだ。

 

「………………」

 

 それでも、生き残ったところでアーチャーには生きる理由などはない。

 半・受肉状態とはいえ完全に受肉したわけではないのだ。弓兵の単独行動スキルの力もあってどうにか残存しているが、意図的にそのスキルを使うのを止めれば直ぐに消えるだろう。

 聖杯戦争は終結した。これ以上、生きている理由はない。アーチャーは目を瞑って。

 

――――本当に?

 

 悪魔の囁きを聞く。自分を染め上げようとする『この世全ての悪』が囁いてくる。悪しき願いを。

 渾身の意志をもってその呪いを跳ね除けたアーチャーだが、ここに一人、この世全ての悪の意志を代弁する者がいる。言峰綺礼であった。

 

「令呪をもって命じる。――――汝の自害を禁ずる」

 

 自ら消えようとしたアーチャーの意志が強制的に生存へ再稼働させられる。

 憎々しげに言峰を睨むが飄々と言峰は言った。

 

「そう怒るな。私とて聖職者の端くれだ。そう何度も目の前で自殺されるわけにはいかん。それにお前には願いがあるのだろう。お前となったお前をお前自身の手で殺めお前を殺す。自己の抹殺という願いが。アーチャー、この聖杯戦争に集った英雄や魔術師の中で私はお前にこそ聖杯を手に入れて欲しいと思った。そしてお前は私の望み通り、多少捻くれた形であれ聖杯の力を受けた。運命とは思わないかね?」

 

「戯け。運命だと? ああ、そうだな。貴様のいう『運命』とやらは存在しているのだろうよ。でなければ、こんな光景などありはしなかった……」

 

「そうだ。だからこそ私は運命の夜へとお前を導こうと思う。眠れ、アーチャー。十年後の戦いまで。安心しろ。眠っている間のお前を維持するための魔力は用意する。幸いこの大災害のお蔭で餌には困らない」

 

 それがアーチャーがこの十年前の世界で聞いた最後の言葉となった。

 令呪による魔力がアーチャーの意識を強制的にブラックアウトさせていく。令呪の意志が黒い泥と混じり合い、アーチャーを深い暗闇へと誘う。そうして『この世全ての悪』の呪いはアーチャーの魂の隅々に至るまでに侵食していった。

 彼が目覚めるのは、これより十年後の話だ。

 

 

 やはり『運命』はあるのだろう。

 奇しくも英霊エミヤシロウが十年間の長き悪夢に落ちた時と同じくして、エミヤキリツグはいる筈のない生存者を見つけた。

 切嗣は広大砂漠の中からたった一つだけの泉を見つけた旅人のように微笑む。

 炎の海を歩いてきた少年の目は虚ろだったが、確かな呼吸音と心臓の音があった。少年を抱きしめると重みを感じた。あの冬の城以来となる命の重みだった。

 

「良かった……本当に、良かった」

 

 衛宮切嗣はこの日、地獄から一人の少年を救い上げた。

 だが本当に救われたのは誰だったのだろうか。

 往年の鋼鉄の意志力をもちし魔術師殺しは既にない。衛宮切嗣は理想に敗れ、在りし日のユメを思い出しただけの残骸である。壊れた殺戮機械には未曽有の大災害の罪過を背負いきれるほどの力はない。けれどそんな誰もが死に絶えた絶望から衛宮切嗣はたった一人の希望(生存者)を見つけたのである。

 希望を砕くのが絶望であるならば、絶望を砕くのもまた希望。

 少年が切嗣に命を救われたのなら、少年は切嗣の心を救い出したのだ。

 しかし救った少年は予断を許さない状況である。

 切嗣は少年の体から命の温もりが失われていっていることを感じていた。どうにかしなければならない。どうにかしなければ、少年は死ぬ。

 

(僕に治癒魔術や治療手段なんていうのは…………いや、一つある)

 

 切嗣自身に少年を治癒する術はない。されど衛宮切嗣の体内には『全て遠き理想郷』がある。

 セイバーとの契約が既に切れており、セイバーがこの世にいない以上、その治癒は完全なものとはいえないだろうが。ないよりはましだ。

 切嗣は魔術を唱え自分の体内からアヴァロンを摘出すると、その鞘を今度は少年の体内へと『融合』させた。

 すると、どうだろうか。

 死にむかうだけだった少年が、生へと戻り始めた。

 

「……すまない。ありがとう」

 

 それは自分が裏切ってしまったサーヴァントへのせめてもの謝意と感謝だった。

 この日、衛宮切嗣がセイバーの鞘をもって救い出した少年。名前を"士郎"と言った。

 大災害で唯一の生存者となった士郎は衛宮切嗣の養子となり、こうして"衛宮士郎"は誕生した。

 時計の針は漸く"ゼロ"を刻む。

 

――――ゼロが終わり、夜が始まる。

 

 

 

 

 

 ライダーを失い、自分の聖杯戦争が終わって幾日かが過ぎた。

 第四次聖杯戦争は終結したのだろう。元参加者であったからか、それとも魔道に身を置く者だからなのかなんとなく肌でそう感じることができた。

 だが決して戦いの終わりは静かなものではなかった。

 冬木市新都の新造住宅地で発生した未曽有の大災害。今をもって原因不明とされるそれは聖杯戦争による爪痕に間違いない。

 それでもウェイバーはマッケンジー邸へと帰って来た。理由は多くあるが明確に一つこれだといえるものはない。

 強いていえば荷物を取りに来るためというのが一つと、夫妻への暗示をとくためというのが一つ、最後の一つは口にするのも恥ずかしい理由だからだろう。

 ウェイバーは久しぶりにマッケンジー邸へと戻ると上から「おーい」という声がしたので頭上を見上げる。すると屋根の上でグレン・マッケンジーが手を振っていた。

 

「お、お爺さん! なにしてるのさ!」

 

 驚き慌ててウェイバーが言う。

 この寒いを通り越して焼けるような寒さの夜に家の屋根に上る。見る人が見ればボケ老人の奇行とすら受け取られかねない。いや、ウェイバーは内心もしかして寒さで頭がボケてしまったのかと真剣に考えていた。しかしグレンの方は笑みこそあるが至極真面目なようでいて、とてもではないがボケ老人には見えない。

 ウェイバーには皆目見当もつかないが、グレン老は正常に働いた頭で自分の家の屋根に上るという奇特をしているのだろう。

 

「まぁまぁ。お前さんも上がっておいで。ちょいと話でもしようじゃないか。ここは朝焼けが良く見える」

 

「…………えーと、うん。分かった」

 

 自分でも驚くほどあっさり頷くとウェイバーは屋根を目指した。

 グレン老の趣味なのかマッケンジー邸は天窓から外へ出やすいよう設計されている。なのでウェイバーがグレン老と同じように屋根の上にでるのは容易かった。

 屋根へ出るとグレン老の隣に座った。この寒空に屋根に座りこむというのはそれなりに忍耐力のいることだったが、ライダーのペガサスでの高速飛行と比べれば大したことはない。

 

「ほら、コーヒーじゃ。あったまるぞ」

 

 用意のいいことだと感心しながらコーヒーを受け取る。正直この寒空に温かいコーヒーというのは有り難かった。

 一口飲むだけで温かさが芯まで伝わるようだ。

 

「お爺さん、なんでこんなところにいるんだよ。落ちたら危ないし、こんな寒い中一人で」

 

「なんじゃウェイバー。お前さんも、小さい頃はこうして一緒に空を見上げてたじゃないか」

 

 ありもしない思い出を語られ、ウェイバーは曖昧に頷いた。

 当然そんな思い出などありはしない。ウェイバーにとっての小さい頃の思い出など、魔術書を片手に悪戦苦闘していたことばかりだ。少なくとも屋根に登り夜空を見上げるなんてアウトドアな思い出は一つもありはしない。

 ウェイバーが珈琲を啜っていると、やがてグレン老が快活に笑いだした。

 

「……? どうしたの。いきなり笑い出して」

 

「あはははははははっ。すまんすまん、あんまりにも嬉しいことを言ってくれるもんじゃからついな。なぁウェイバーや、お前さん儂らの孫ではないね?」

 

「っ!」

 

 これにはウェイバーも身が凍るかと思った。

 暗示が破られたのである。魔術のまの字も知らないただの一般人に

 

(僕も、まだまだ全然だな……)

 

 前のウェイバーなら暗示一つも完遂できなかったことに絶望するか憂鬱になるかしただろう。しかしロード・エルメロイという壁と命懸けでぶつかったことが精神的な成長をウェイバーにさせていたのか、素直に自分の失敗を認めることができた。

 

「……ごめんなさい。そうです、僕はお爺さんやお婆さんの孫じゃない。赤の他人です」

 

「ん、そうか」

 

「怒らないんですか?」

 

「むぅ。そりゃあのう。お前さんが性質の悪い人間だったなら儂も黙っちゃいられなんだが、お前さん。最近じゃ見ない気の良い若者じゃ。こうして儂たちの孫になっておったのもそれなりに大事な理由あってのことなのじゃろ? それにのう。この年になると不思議なことは不思議なもんなんだと受け入れることもできるもんなんじゃよ」

 

「そういうものなの?」

 

「ははっ。まだお前さんには分からんよ。あと五、六十年は生きんとな」

 

 五、六十年。先の長い話だ。明日がどうなっているかすら分からないのに、六十年先の未来がどうなっているかなど予想もできない。

 もしかしたら『魔法』が幾つか『魔術』になっているかもしれないし、ウェイバーだって生きているかどうか。

 魔術師とは常に死と隣り合わせ。幸せに天寿を全うできる方が稀だ。

 

「それに、どちらかというと儂はお前さんに感謝もしておるんじゃよ。さっきよく孫と一緒にここで星を見上げてたなんて言ったがのう。あれは嘘じゃよ。孫は一度もここに上がってきてくれなかったし、マーサは高い所が苦手で儂はずっと一人で星を見上げておった。それがお前さんのお蔭で孫と一緒に屋根から星を見るという願いを叶えさせて貰った。……マーサもお前さんが来てからよく笑うようになった。だからのう、ウェイバーや。お前さんが気に病むことなんてなーんにもないんじゃ」

 

「……ありがとう」

 

「だけど一つお願いを言わせて貰えば、マーサが退院するまでは儂らの孫でいてくれんかのう。あれが退院して孫なんて本当はいなかったってなれば、悲しむかもしれん」

 

「うん。いいよ」

 

 考えるより早く頷いていた。

 最初からまだイギリスに帰るつもりはなかった。当然いつかは帰るが、まだウェイバーには見たいことや知りたいことがある。それは魔術だとかそういうものではなくて、もっと有り触れたもの。

 

「なにかウェイバー、お前さん。少し見ない間に大きくなったのう。男子三日合わずんば括目して見よ……だったか」

 

「そうかい?」

 

 手の甲にはもう令呪はない。こうして過ぎてみると、ライダーと過ごした一週間は夢だったのかと思えてくる。

 しかし形としてなくとも思い出としてしっかりと脳裏に刻まれていた。ライダーと過ごした数えるほどの日々。けれど今までの生涯で一番濃密だった時間。

 

「そういえば、ステンノさんはどうしたんじゃ?」

 

 グレン老が訊いてくる。

 ウェイバーは星を見上げ、ぎゅっと右手を握りしめると言った。この言葉が届いているように祈りながら。

 

「元の場所に帰ったよ。……大丈夫。またいつか会えるから」

 

「……そうかね」

 

 グレン老はなにかを察したように、それ以上追及することはなかった。正直ありがたい。もしも問い詰められていれば困ってしまう。

 彼女との最後の別れを思い出して収まったものが目から溢れてしまうかもしれない。

 

(いや、最後じゃない)

 

 そうだ。先は長い。ウェイバー・ベルベットの生涯はまだ始まったばかり。

 人生のさいころの出る目次第ではまた会えることもあるだろう。

 これからのウェイバーの未来を祝福するように、寒空には似合わぬ温かい風が背中を押した。

 

 

 

 未曽有の大災害より半年が経ってから漸く遠坂時臣の葬儀は執り行われた。

 時臣は最後にしっかりと己の最期の責務をやり遂げていたといっていいだろう。娘・凛への魔術刻印の移植と頭首の移譲。入念な下準備のもと記された遺言は滞りなく凛への遠坂家当主の継承を完遂させた。

 これは時臣の実績と人格が創り上げた人脈あっての成果といっていい。実際、言峰が苦心したのはほんの些細なことくらいだった。

 故・時臣の願いは『根源』への到達だった。根源に到達した魔術師がその瞬間にこの世から姿を消すというのなら、時臣は最初から自分がもう妻子のもとに戻らないであろうことは覚悟していたのだろう。

 言峰の視線の先ではまだ十歳にもなっていない子供の凛が喪主として葬儀を執り行っている。その隣では最愛の夫を失った葵が悲しみというスパイスで美しい顔を彩りながら凛の手伝いをしていた。

 本来なら喪主は子供の凛ではなく、妻の葵の役目だ。

 しかしこれは魔術師の葬儀。葬儀の喪主を執り行うことこそが新しい頭首の最初の仕事といってよく、それがそのまま自分が新しい頭首であることを外へ示す道具でもあるのだ。

 傍から見ても凛はよくやっていた。子供とは思えぬほどに親類縁者や父の友人に慇懃な物腰で接し、遠坂の頭首は自分であると示していた。

 もう誰も彼女のことを子供とは侮りはすまい。

 今日この日をもって名実共に遠坂凛は遠坂家の頭首となった。

 それは同時に彼女もまた聖杯戦争に参加し聖杯を掴むという義務を負ったことを意味している。

 

(アーチャーの話では十年後か。さて、奴はどう足掻くのか)

 

 言峰には分かる。ああして気丈に振る舞っているものの凛の中では深い悲しみが渦巻いている。

 本心では母に縋って泣きたいだろう。しかし凛はそれを良しとはしない。誰の前でも気丈に振る舞い、誰よりも頭首然として魔術師として振る舞いながら、一人自分の部屋で枕を濡らす。

 そんな様子を想像するだけで言峰の胸中は至福で満たされる。

 凛は言峰綺礼こそが父の仇だと知れば、どんな顔をするだろうか。激高するか悲しむか、どちらにせよ面白くはある。

 

(だが、まだ駄目だ。楽しみは後にとっておかなければな)

 

 時臣を殺した時に全身を駆け巡った喜びを回想する。もしも亡き妻や父をこの手でかけていれば、あれに匹敵するだけの悦びを感じることができたのだろう。我ながら惜しいことをしたものだ。

 だからこそ凛には頑張って貰わなければならない。凛があの未熟さをもったままに成長すれば、きっと時臣以上の逸材となるだろう。

 葬儀が終わると人も疎らに散っていく。

 遠坂凛の後見人ということになっている言峰は葵と二言三言話してから、凛を教会へ呼び出した。

 

「さて。まずはご苦労だった。亡き遠坂時臣師父と比べれば随分と未熟で背伸びした感が拭えなかったが、まあ妥協できるものではあった」

 

「あんたねぇ。お父様の弟子の癖して、自分だけおめおめ逃げ帰っておいて……少しは悲しんだり責任感じたらどうなの?」

 

「心外だな。私は私なりに時臣師父の死を悼んでいるとも。師父の弟子としても、聖職者としても。お前こそ少しは年上に敬意を払ってはどうかね。一応私はお前の後見人ということになっているのだが?」

 

「どうだか。このドグサレ神父」

 

 この調子だ。凛が一人悲しむ様を想像するのは楽しいのだが、こうも年不相応に振る舞われては多少面白味に欠けるというものだ。

 

「お前も私などと話したくはないだろう。それは私も同じでね。これでも私は忙しい身だ。いつまでもお前に関わってやるわけにはいかん。故に後見人としてやるべきことを果たしておこう。お前は時臣師父の後を継ぎ頭首となったわけだが、魔術刻印はよく馴染んでいるかね?」

 

「ええ。とってもよく馴染んでるわよ。で、これで終わり? 私も忙しいから早く帰りたいんだけど」

 

 売り言葉に買い言葉。凛は負けじと言い返してみせる。

 言葉通り馴染んではいないだろう。十世紀ほどの歴史のある家ならまだしも、遠坂はまだ十代も経っていない家だ。魔術刻印は肉体にとって異物に等しい。刻印を継承した凛にはそれによる苦痛や気分の悪さがあるはずだ。

 それでも凛は自分が苦しめば言峰が喜ぶだけだと知るからこそそんなことはおくびにも出さない。

 

「ああ終わりだ。ああ、そうだ。後見人としてお前の頭首就任祝いに贈呈するものがある」

 

「アンタが? ……呪われた十字架だかニンニクなら間に合ってるわよ」

 

「そんなものではない。私などよりお前が持っているべきもののはずだ」

 

 ただの気紛れだった。どうせ自分が持っていても仕方ないから、この可愛気のない弟子にでも押し付けてやろう。それだけのつもりだった。

 懐から取り出したのは装飾の施された儀礼用の剣だった。

 

「私が時臣師父より見習い修了の祝いにと譲られたアゾット剣だ。お前の就任祝いには相応しいものだろう?」

 

「これが……お父様の、剣?」

 

 軽い動作で凛に手渡す。美しい意匠が施されたソレを凛は食い入るように見つめていた。

 その剣を見つめていると漸く凛の目から年相応の滴が零れ落ちた。透明の滴はアゾット剣に落ちると、刀身を通って刃先から落ちる。

 葬儀中も一度も見せなかった遠坂凛の涙。それを見た言峰は満面の笑みを浮かべるとその場を立ち去った。

 

 

 

 視界は白く染まっている。

 全身を黒いコートで固めた切嗣は極寒の地獄を一人孤独に行軍していた。目指す場所は唯一つ、アインツベルンの冬の城のみ。

 強風にのせられた白い雪が体を叩く。雪は服の中にも入り切嗣の体を重くする。

 それでも行軍を止めることはなかった。この苦しみの数十倍の苦痛を娘のイリヤが背負っていると思えばなんのことはなかった。

 自分はアイリスフィールとの約束をなにひとつとして守れていない。

 恒久的世界平和どころかイリヤスフィールを迎えに行くという父親として当たり前の義務すら果たせていない。

 切嗣は『聖杯』を一度その掌中に収めておきながら、自らの意志で聖杯を拒絶し破壊した。アインツベルンはそれを怒り、切嗣を裏切り者としてアインツベルンの領地に入れることはなかった。

 アインツベルンは裏切り者の粛清に刺客でも差し向けるかと思っていたが、それすらなかったのは……アインツベルンがその価値すらないと思ったからか、それとも娘と引き離したうえで生を終えることこそが切嗣にとって最大の罰と考えたかだろう。

 そのどちらが正しいのか答えは出せないが、少なくとも後者が切嗣にとって最大の罰であるということは間違いではない。

 常に自分より他人を優先させ続けてきた切嗣にとって、自分よりも娘の不幸こそが最大の不幸に他ならないのだから。

 

「アインツベルンに何の御用ですか、衛宮切嗣」

 

 やがて切嗣の前に二人の女性が現れた。

 人間離れした銀髪赤目の容貌。何度も見た事がある。アインツベルンのホムンクルスだ。

 

「退け。……娘を迎えに来た。邪魔をするなら、容赦はしない」

 

 言峰綺礼に『この世全ての悪』の呪いを浴びせられ魔術回路の七割を死滅させて尚、魔術師殺しと怖れられた男の威圧は健在だった。

 しかし凡百の魔術師を恐れさせた威圧を受けてもホムンクルスは眉一つ動かさなかった。

 

「娘? なにを仰っているのです。アインツベルンには貴方の娘などはおりません」

 

「とぼけるな! イリヤのことだ……イリヤを返せ……僕の娘だ」

 

「お嬢様の名前を気安く口にしないで下さい。貴方はアインツベルンとはなんの関係もない人間でしょう」

 

「違う。……イリヤは僕とアイリの、たった一人の娘だ。だから迎えに」

 

「無礼なことを。お嬢様はアイリスフィール様の娘であらされますが、貴方の娘ではありませんよ。貴方はお嬢様を見捨てて、アインツベルンを裏切り聖杯を破壊したのですから」

 

「――――!」

 

 否定はできなかった。この世全ての悪がどうこうは関係ない。

 確かにあの時、切嗣はイリヤの命よりも聖杯を破壊することを優先したのだ。アインツベルンを裏切れば、イリヤがどうなるかを知っておきながら。

 二人のホムンクルスは切嗣に冷たい視線を一瞥すると立ち去っていく。

 

「待て!」

 

 切嗣はそれを追うが、その行軍は結界によって阻まれた。

 

「がっ!」

 

 目に見えぬ力に弾かれ、尻もちをつく。負けじと幾度となく挑むが同じだった。

 もしも切嗣が万全ならば或いは結界を突破し、冬の城にいるイリヤスフィールを助け出す事が出来たかもしれない。

 しかし言峰から受けた呪いで半死人の切嗣にはもはやそんな力はなかった。

 

「……イリヤ」

 

 これが罰なのだろうか。娘が地獄の中にいると分かっているというのに何も出来ずにいるのは。死ねば楽にはなれただろう。だがイリヤを地獄に追いやり数えきれぬ命を絶望に堕としておいて、自分だけにそんな救いを与えることなど許されていいはずがなかった。

 雪の丘に両膝をつき慟哭する姿には最強の魔術師殺しの面影はどこにもない。ここにいるのは理想を抱いて溺死した惨めな男だった。

 

 

 

 そうして気付けば聖杯戦争が終わってから五年の月日が流れてしまっていた。

 時間が流れるにつれ、おぼろげながら切嗣にも自分の死期というものが分かってきた。

 極大の呪いは切嗣の全身を犯している。もう長くはないだろう。

 最初の失敗から幾度となくアインツベルンの城に挑んだが、結局、切嗣が冬の城に足を踏み入れることはなかった。勘を取り戻すため戦場に足を運びもしたが、勘が戻っても力を取り戻すことはできなかった。

 要は身体の問題である。

 時に精神が肉体を凌駕することもあるが、それとて限界があるというものだ。どれだけ若い精神をもっていようと100を超えた老人が全盛期の兵士に勝てはしない。

 もはや切嗣の肉体は死を待つのみの老人のそれと化していた。

 だから段々と家を空けることも少なくなり、養子とした士郎や隣の藤村家の人達と一緒にいる時間が多くなった。

 喪うばかりの切嗣の人生。しかし聖杯戦争が終わってから切嗣の前から消えていった人は誰一人としていない。

 そう――――つまりは喪われるのが漸く他人から自分へとなったのだろう。

 切嗣は士郎と縁側で月を見上げながらじっと佇む。

 なんとなくだが分かる。もう直ぐ自分は死ぬ。この夜を超えて朝日を見ることは、ない。

 隣にいる少年、士郎を見る。 

 これから死にゆく切嗣だが、恐怖はなかった。数えきれないほどの罪過を背負った切嗣にとって死は祝福であり福音であり安息でしかない。

 けれど心配事があった。士郎は切嗣のことを『正義の味方』だと思い、それに憧れ自分もまた成ろうとしている。

 もしも士郎が自分のような人間を目標として、同じ道筋を歩むのならばそれは止めなければならないのだろう。

 さもなければ士郎にとってこの一時一瞬が生涯を縛る呪いとなる。

 自分の人生の無為さを知るからこそ、せめて士郎にはそんな人生をおくって欲しくなかった。自分の背負っているような罪過を士郎にまで背負わせたくはない。

 衛宮士郎を第二の衛宮切嗣とする訳にはいかないのだ。

 

「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」

 

 そんな声が出た。

 ずっと昔に置き去りにしてしまった願い。誰かを救う正義の味方になりたいという子供の頃の自分が抱いた愚かな夢。そして聖杯戦争最終日のあの時まで忘れていた想いだ。

 

「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」

 

 むすっとしたように士郎が言った。

 

「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けばよかった」

 

 もっと早く自分の理想なんて、この世にはないのだと気付いていれば――――もしかしたら何を喪うこともなかったのかもしれない。

 アイリスフィールもイリヤスフィールも。総て喪わずに、幸せにただの人間として暮らせていたのだろうか。

 もはや手を伸ばしても届かない遠い夢だ。

 

「そっか。それじゃしょうがないな」

 

「そうだね。本当に、しょうがない」

 

 こんなことを後から思ったところで何にもならない。

 切嗣は申し訳なく相槌をうちながら遠い月を見上げる。

 

「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。爺さんは大人だからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ」

 

 士郎は輝く笑顔でそう言ってみせた。

 

「任せろって、爺さんの夢は俺が、ちゃんと形にしてやるから」

 

 どこまでも無垢で純粋なるユメ。それを見て漸く衛宮切嗣の憂いはなくなった。

 切嗣は思う。

 士郎なら大丈夫だろう。自分は忘れてしまった少年の頃の夢。一を切り捨て十を救うのではなく、十を救い一をも救う正義の味方になりたかったという愚かしくも尊い願い。

 自分はその夢を地獄を渡り歩き死を運ぶ中で摩耗し忘れ去ってしまった。 

 だがこの美しい月の下でかわされた言葉なら士郎は忘れない。自分のような『衛宮切嗣』にはならないはずだ。

 どれだけの苦しい道だろうと、この日の記憶さえあれば――――必ず原初の想いに戻って来れるだろう。

 

「ああ――――安心した」

 

 二つの目蓋を閉じて、この日、衛宮切嗣は覚めない眠りについた。

 この世界に永遠の命をもつものなどはいない。不老不死とされる死徒や真祖であろうと不老であれ不死であれ永遠ではない。それはこの星とて同じだ。

 それでも世に不滅なものがあるとすれば、それは『意志』なのだろう。

 誰かを救いたいというちっぽけな夢はこの日、衛宮士郎へと確かに受け継がれた。

 


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