中学3年生の春。
最上級生へ進級するとともに、まわりのクラスメイトも高校受験を意識出す頃合い。
俺もその例に漏れず、この時期から進学塾へと通うことになった。
受験。
小中学校と近所の公立学校に通っていた自分にとって、初めての経験だ。
幸い、昔から勉強をすることに苦を覚えない性格なのだが、それでも不安は大きい。
そんなことで通うことになった塾は、自宅から電車を乗り継いで15分ほどの場所にある、
地元には名の知れた比較的有名な集団形式の塾だった。
この塾は授業が行われる教室が数部屋、加えて生徒がいつでも利用できる自習室のある、
おそらく一般的なつくりとなっており、普段からいろんな人が出入りしていた。
当時の俺は、授業のない日は自宅で、授業のある日は受講後に自習室で勉強をするのが日課で、
たまに友達と息抜きに遊ぶ、そんな日々を送っていた。
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塾ではとくに友人も作らず受験勉強に勤しもうとしていた俺だったが、
そんな中、海未と出会ったのは、5月くらいだったはずだ。
彼女は毎週金曜日、決まって自習室の最後列の窓際の席で黙々と勉強をしていた。
何故か、金曜日にしかそこにはおらず、しかもいつも同じ席に座っている、女の子。
姿勢正しく、真剣なその表情は凛としていて、独特な空気感を醸している。
そんな彼女は当時の自分の興味を引くには十分すぎる存在だった。
「……あの」
「……? なんでしょうか」
あと少しで閉室時間になるという頃、気が付くとその彼女に声をかけてしまっていた。
幸い自分たち以外に生徒はいなかったものの、これではナンパみたいじゃないか。
「……いつも、その席にいるよね」
「はぁ」
声をかけてしまったが、空気が重い。見知らぬ女の子と2人しゃべりなんて胃が痛い。
ひょっとしたら集中の邪魔をされて怒っているかもしれない。
「……ここの席は、実は眺めがいいものですから」
「へぇ、そうなんだ……」
初対面の人に対して緊張してしまう悪い癖が出てしまう。
こっちから話しかけたくせに話がぜんぜん続かない。うーん。
「「……」」
漂う沈黙。これは、なんとかしなければ……。
「わかんない問題とかあったら、なんでも聞いていいよ!」
「…………」
やっちまった。
脈絡もクソもないようなことを口走ってしまい、案の定彼女も戸惑っているじゃないか。
「…………ふふ」
「……えっ」
「すみません、ふふ……」
「ちょっと、何笑ってるのさ」
怒っていると思ったら突然笑い出した彼女に、
自分もつられて困り笑い。
それまでは、真剣な表情と端正な顔立ちが相まって少し怖いイメージすらあったけど、
笑うとこんなに柔和な優しい表情になるなんて。
これだけでも収穫かもしれない、なんて考えてしまう。
「それでは、この問題を教えてくれませんか?」
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「こんなに簡単に解けるんですか……!?」
問題は、乗法公式を使ったちょっとした応用問題だった。
公式自体は彼女も完璧に覚えていたので、工夫の仕方を教えただけだったのだが、
思った以上にリアクションが良くてこちらまで嬉しくなってしまった。
「基本的に習ったことしか使わないから、工夫次第でほとんどが解けると思うよ」
「ご丁寧にありがとうございます」
「どういたしまして、かな?」
少し前はどうなることかと思ったが、何とかなったみたいだ。
空気も良くなったし、感謝までされてしまった。
「じゃあこの問題も……」
『まもなく閉室時間です、忘れ物に気をつけてお帰りください』
いい感じのところで、閉室時間のアナウンスが入ってしまった。こればっかりは仕方ないか。
「じゃあ、また今度会ったらその時に」
「……はい、よろしくお願いします!」
「俺、3年の茅野悠人。君は?」
「園田海未といいます。私も3年なので、よろしくお願いします」
これが、俺と海未のちょっと奇妙な出会いだった。
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園田さんとの出会い以来、変わったことが一つ。
大したことではないかもしれないが、自習室での座席の位置だ。
相変わらず園田さんは例の窓際の席だが、俺はその隣に座るようになったのだ。
まぁ、彼女が来る金曜日限定なんだけど。
とはいえこの部屋は、あくまで自習室。
特に示し合わせたわけではないが、他に生徒がいるときは、ほぼ無言だった。
なので、基本的に2人のペンが走る音や、ページをめくる音、
そしてお互いの僅かな息遣いが2人のコミュニケーションとなっていた。
筆圧によるカリカリという音が歯切れよく続いていれば、順調に進んでいるサイン。
ペラペラとページをめくっている時は、大抵つまづいているし、
ふぅ、というため息は長い問題が解けたり、一区切りついたときのしるしだ。
そして、閉室が近くなり、他の生徒がいなくなると、どちらからともなく会話が始まる。
内容は、その日の成果だったり、わからない問題の質問だったり……
夏期講習が近くなった頃には、勉強と関係ない他愛もない話もするようになってた気がする。
「園田さんは、金曜日以外は来ないの?」
「はい、他の曜日は稽古や用事があるので……」
聞くところによると、園田さんの実家は日舞の家元で、その稽古に勤しんでいるようだ。
日舞についてはあまり詳しくないが、とても良く合っていると思う。
「茅野くんは、やっぱり勉強熱心ですね」
「それくらいしか、やることないからね」
「ふふ、謙遜しなくてもいいんですよ」
日を重ねるにつれ、互いの距離感も掴み始めたことで、
居心地の良い関係になってきた気がしていた。俺の勘違いかもしれないけど。
出会った時のぎこちなさに比べたらだいぶ良くなったよね……?
「園田さんは、受験勉強は順調?」
「ええ、最近は専属の先生もついてくれてますし」
「そうなんだ、よくわからないけどそれなら安心だね」
「……そうですね、ちょっと鈍い人かもしれないですけど」
当時の彼女は、勉強ばかりで息の詰まりそうなこの場所のちょっとした癒やしであり、
ともに切磋琢磨しあう大事な存在だった。
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7月のある日の帰り際、いつものように園田さんと話していた時のこと。
塾を出ると、ムシムシとした夏の夜の熱気を感じた。
「さすがに夜でも外は暑いね」
「……そうですね」
「日に日に暑くなってる気がするなぁ」
「……そうですね」
どうやら園田さんの様子がおかしい。何というか歯切れが悪い?
ひょっとしたら考え事でもしているのかな。
少し遠くを見ながら、心ここにあらずといった様子なので、
特に会話もないまま駅前の交差点に辿り着いた。
自分は駅の方へ、園田さんは家の方へ向かうので、
普段はこの交差点で別れることになっている。
「それじゃあ、また――」
「あのっ!」
別れ際、園田さんに呼び止められた。少しうつむきながらこちらを窺っている。
「どうしたの?」
「その…………明日、うちに来ませんか?」
返ってきた言葉は、予想の遥か上だった。
あぁ神様、これは夢なのでしょうか――