眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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「ここまで書いたんだから……」という心理が無駄な時間の浪費としょうもない長文だけを残す。
俗に言うコンコルド効果である(ウソである)。






無敵状態

 

 

 

幾輪もの荒ぶる巨大花が水晶と建造物をなぎ倒し、数多の冒険者達がそれを鎮めようとリヴィラの街を駆け抜ける。刃と鏃が飛び交い、炎と氷が弾け散る。話にこそ聞き及んではいたが、大蛇とも見紛う巨躯を惜しげなくのたうたせる植物の凶暴性はロキ・ファミリアが誇る手練の冒険者をも驚嘆させて余りあった。第十八階層に撒かれた災厄の種は今こそ芽吹き、死すべき定めを負う全ての者を食い尽くさんと花開いて牙を剥いていた。

狂乱の中心に立つアイズの項が粟立っていた……目を灼く電子の奔流と、凄まじい爆風を生む魔力の炸裂を前にして。その魔法を生んだ者は毛先ほどの逡巡も慢心も、ましてや憐憫すらも抱かなかっただろうという確信を抱いたからこそ。

左手一本でレフィーヤ渾身の光魔法を跳ね返した謎の女は、砕け散る水晶の破片が鎮まるのも待たず躍り掛ってくる。

それは、ゆっくりと、見えた。振られる長剣の軌跡、真っ直ぐその先にある自分の肉体を目指して突き進む、明確な殺意が。

刹那か須臾か、それにも満たない極限まで分解された単位時間の一幕で、アイズの脳細胞はその幻を網膜に映し出す。

 

刃を携え紫色の影を纏う、どこまでも凶悪で無慈悲な怪物の姿を。

 

「――――ッ!!」

 

「――――!!」

 

絶望の名を冠する剣は、名も知らない殺人鬼の毒牙をなぞって火花を散らした。

全身の毛が逆立つ。金色の髪の一本一本の根元の感覚までもを理解する。しかしそれは鋼の削れる甲高い音と等しく、今の彼女の気勢を削ぐ力とはならない、決して。

アイズの中から、街を破壊し暴れまくる巨大花の存在も、すぐそこに転がる謎の宝玉のことも、遥か彼方へと去っていた。

 

「!」

 

「っ!!」

 

弾かれた一閃に怯まぬ女の追撃は、更なる速度を得た袈裟斬りで顕れ――――空を切る。腐ったマスクの下、徹底した無感情を保つ左眼ははじめて動揺に色を変えた。そう見えた。アイズ・ヴァレンシュタインの金色の双眸は、そこまで見通していた。

臓物を撒き散らす筈だった細い肢体が瞬時の足運びで凶刃を逃れ、仰け反る上体が纏う鎧の表面は並行に通り過ぎる軌跡を反射する。踏みしめた足の脹脛から腿、腰までが一気に強張り、放つべき一撃を支える剛体と化す。

まばたきも許さない攻防の中で、整った唇からその言葉が紡がれる。

初めて、死すべき者に対して放つその魔法。それを躊躇させるいかなる倫理も道徳も、アイズの中からは消え失せていた。どんな姿かたちを持とうが、それが敵であればただ屠る事のみを望む、血煙を礫に凍りつかせる氷河のような、冷たい表情――――それを生むものとは、果たして彼女がこの街で培ったものであるかどうか、誰も知らない。

 

「【目覚めよ】――――!!」

 

「ち!」

 

女に対して左半身を晒す姿勢は、右手で振り上げる得物のリーチを見誤らせる意図もあった。アイズの振る剣の切っ先が豪速で三四半円を描いた。風を断つ渾身の斬撃に対し、女は予備動作無くバク転をこなして避け切る。間合いが広がった。

仕切り直しである。その視線をぶつけ合う無傷の二人。否。女の兜はアイズの振り上げた刃の勢いに吹き飛ばされ何処かへ、そして……。

 

「……お前は」

 

「……!」

 

マスクが真っ二つに割れ、血のように赤い髪が現れた。その下にある緑色の両目に、はっきりとした驚愕の感情が映し出されている。対峙する戦士の、予想だにしなかった力量を目の当たりにしたからなのか……。

それはアイズの中でどういうわけか、闘技場の残滓と結びつく。何の関係があるのかなどわかりはしないのに、一瞬でその奇妙な同調が生まれた。

しかしすぐ、思う。

 

(違う……)

 

その直感がアイズを支配する。違うと感じる。似ていた、いや違う。……何が違う?

赤い色の髪。血のような、赤い色を見て、胸の奥から溢れるその声。何かを思い出す。

赤。飛び散るどす黒い血の色。燃え盛る目を灼く炎の色。

……瞳の色。……刺青の色。瞳。刺青。誰のだ?誰だ。血と炎の飛沫が、絡み付くよう渦巻く鎖となって連なる。

赤い呪縛が形をなすいくつもの像がぼやけて重なり、離れるのを繰り返す。あれは、誰だ?赤い刻印で結ばれた……誰か。

……違う。目の前の女とは、関係ないはずだ、それは。

何の関係も、無い。

 

(……違う?)

 

根拠もなく、緑色の目がそう言っているのがわかる。違う?誰が。誰と違う?自分を、誰かと見間違えているのがわかる。

金色の輪郭は確かに、歪と澱みを湛えた双眸に映り込んでいるように見える。その影は、誰だ。……決まってる、他ならぬ自分ではないか。ロキ・ファミリアの眷属が一人、アイズ・ヴァレンシュタイン。……何が、違う?

生まれ育った場所と、自分を挟んで両手に繋がる感触がよみがえる。優しい声、胸を満たす安らぎ、穏やかな日々……。

去りゆく、人影。

鼓動が早まる。考えるなと自分の中の別の自分が言っている。

耳を塞げ、目の前の存在を倒せ……殺せ、と!

だが、その思いは決して女の口上を止めることは出来なかった。

 

「――――『アリア』、か……いや、ちがう、……!!」

 

(――――違う、黙れ!!)

 

その単語が、アイズの意識を支配しようとする幻影を決定的に、顕現させる。血流の音が大きく、全身に響き渡った。例えようもない激情が、麗しき剣姫と讃えられる少女の全身に満ちる。

金眼の修羅は息を止め、敵の懐へと踏み込んだ。頭と胸に宿る渇望が喚き立てる。闘技場で現れた怪物達の骸が、血の海に沈みながら叫び続ける。もっと力を求めろ、もっと、もっと。もっと血を求めろ。魂に、真に刻まれたものを欺こうなどとするな。何もかも切り刻み、焼き尽くせ。

遥かな眠りから、呼び覚ませ。

目覚めの時を齎すのは、お前なのだと。

アイズの叩き込むしろがねの光跡は、腹に手を添えた剣により受け止められ、女の肉体まで届かない。

十字になった二本の刃を挟んで生まれる、噛んだ歯を剥き出しにした凶相を前に、女が目を見張り、忌々しげに呟いた。また。

 

「ああ、……なるほどな。目覚めの『鍵』、というわけだ、お前は……!」

 

アイズは鼓動を更に大きく感じた。膂力を絞り出す押し合いでわななく刃の悲鳴も煩く感じるほど、耳が澄まされていた。

『鍵』。『鍵』とは。

 

「どう、いう……!!?」

 

「ン゙アアアアアアッアアアアアアーーーーアアアアアア!!!!」

 

胎児の泣き声が上がった。相対する二人の意識は一瞬で、その力の発露に呑まれた。邪悪な宝玉は如何なる方法でか自ら飛び跳ね、飛び退ったアイズの身体を掠めて巨大花の骸へと激突する。そのまま粘液を飛び散らせながら茎に根を張り同化していく光景のおぞましさは、尋常の神経の持ち主であれば戦慄に身を震わせるだけだったろう。

しかし今のアイズは違った。巨大花を取り込み見る見るうちに生長していく胎児を意識から振り落とす選択は、もはや狂気の成す仕業と言わねばならなかった。今の剣姫はただ、自分の心に踏み込まれた怒りを償わせる事しか考えていなかったのだ。

今一度、アイズが吶喊を試むべく右手を強く握り締め――――

 

「アイズさ――――ぁあっ!!」

 

「っ!?」

 

理解を超えた剣舞を見守っていたレフィーヤの叫び声が、深淵へと踏み込んでいたアイズの意識を呼び戻した。瞬時のことだ。振り向いた金眼が、胎児の乗っ取った巨大花に押し潰されそうになる人影をしかと捉える。

 

「【目覚めよ】っ!!」

 

一陣の突風となり、通り過ぎざまに手を伸ばす後輩と気絶した犬人を抱えたアイズは、そのまま必死の逃避行を決め込んだ。

なんとか逆撃の機を得るための道筋を脳内で巡らせる最中、恐怖と不安の満ちる視線を理解しながら、己の不覚を悔いる。後輩の心境を慮るにつけ、胸の内側を掻きむしられるようだった。

 

「アァアアーーーーーーーーーーーン゙!!!!」

 

街を破壊し、立ち塞がる別の茎を取り込んで肥大化していく胎児、それはかつて第五十階層で見たあの怪虫を想起させる……女体を据え付けられ触手を折り重ねていく巨体は、さながら蛸の怪物と変貌していた。聞くに堪えない絶叫の奏でる不協和音とともに、背筋を舐めるような悪寒を周囲に振り撒いていた。

団長らと合流しなければならないという決断はすぐに下る。猛り狂っていた衝動はもう無かった。そこに居るのは、オラリオで命を賭す冒険者としての使命を思い出した一人の戦士だけだった。

 

「……まんまと邪魔されてしまったが……」

 

狂い咲く巨大花に立ち向かう死すべき者達、それを遠巻きに見つめる赤髪の女は臍を噛んだ。しかしすぐ、苦々しげな表情を変質させる。

細まる目の光は、確かな憐憫を湛えていた。

 

「『アリア』……哀れなやつ。せめてこの地に囚われる事も無ければ、別の道もあっただろうがな……」

 

女の姿を目に収める者はもう、どこにも居なかった。その言葉を聞く者も。

冒険者達の繰り広げたリヴィラ全地区を巻き込む攻防が終わった後、女の痕跡はチリ一つとして探し出せなかった、誰も。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

真っ直ぐに迫り来る三本指に対して、少年はほんの少しだけ全身の軸をずらした。風を切る一突きは頬の薄皮に赤い線を残す。

全開になった細い肘を掴む。渾身の握力は、そこから肩まで伸びる筋肉を一気に張り詰めさせた。

息を止め、漲る衝動に全身を委ねる。

 

「は、ア゙っ!!」

 

息を吐くとともに、腰をひねった。

長い腕から繋がる身体が宙を舞う。半円を辿り、迷宮の床に叩きつけられるまで。

 

「……!」

 

仰向けになったウォーシャドウは、自分の上半身を表裏から挟む衝撃に、声も無く呼気すべてをひり出した。

そして、気付く。

自分を見下ろす、真っ赤な眼光に。

肘を握り潰しそうに締めあげてくる力も忘れて、その輝きに意識を奪われる。

あたたかい血を持つ貧弱な生き物への侮蔑は消え、重く冷たい恐怖が、怪物の中に芽生えた。

 

「っ、ぁあ゙、ああッ!!」

 

「!!」

 

響く咆哮と同時に、靴裏で固定された胴体から、怪物の右腕は引き千切られる。

黒い体液を肩口から吹き出させて身悶えるその姿に、多くの駆け出し冒険者を恐れさせる強敵の面影は無かった。

 

「ッ、ッ……!!」

 

「……」

 

決死の抵抗によって踏む力が一瞬だけ、緩む。その隙は、怪物に脱出の選択肢を与えた。身軽さを活かした闇討ちを常套手段とさせる身体は、三本だけの脚でもレベル1の眷属では到底反応出来ない速度を発揮できただろう。

ウォーシャドウの不幸とは、今対峙する相手がそれを許さないだけの動体視力と判断力を持っていた事だった。

 

「――――!?」

 

片足が、地面と鎖で繋がれたように、動かなくなる。その鎖は、渾身の握力と膂力を発揮して、影の全身を引っ張った。

 

「ッお!」

 

「――――!」

 

肉屋の仕事のようだった。食材の詰まった袋をまな板に叩きつける光景は、黒い影を象る異形の生命体が、脚を掴まれて振り回されるという形で再現されていた。

硬い床面に激突した顔面は、埋め込まれていた鏡を砕く音だけを上げる。

すでに怪物の意識は消失していたが、無慈悲な執行者はそれでも、右手の力を緩めずに――――左手を添えて、黒く細長い肢体を引きずる。

それは迫り来る刃を迎え撃つために、必要な行動だった。

 

「ふっ!」

 

少年の細腕が、もがく影を抑え付けようと硬く強張る。下肢が床を突き刺すように、踏みしめられる。

赤い瞳は、相方を昏倒させた憎き仇を屠るべく爪を突き出すもう一体のウォーシャドウを、鋭く睨みつけていた。

怪物の長い腕が誇るリーチは、たった一本の短刀で以て渡り合う判断を愚挙と謗られるべき脅威と言えただろう。

だからこそベルは、ただ血への渇望だけを抱いて襲い掛かるという短慮を見せた者への手心など芥ほども見せず、この場で最適の得物を手に取った。

ねじられた腰関節に溜まった力は、繋がる上半身まで逆流する。

 

「ン゙ッ!!」

 

鼻息を漏らすと同時に、彼の両手に握る獲物が周回軌道を描いた。

 

「!!」「ッッ!!」

 

持ち主と同程度の質量を持つ黒色のフレイルが、怪物の横っ面に直撃する。

鈍い音を立てまとめて吹き飛ぶ二つの影を見ながら、攻撃の反動にベルはたたらを踏み、危うく尻餅をつきそうになった。

一瞬ののち、ガシャン、と、鏡が砕ける音がした。

 

「ふう、……ふゥ……っ」

 

息が荒い。それは、単純な肉体疲労だけが生む反応ではなかった。

ぎらつく双眸の先に、迷宮の壁面に叩きつけられて致命傷を負った二つの影が折り重なっていた。それぞれ半壊した頭部を痙攣させながら、必死に体勢を整えようとしている。

逃げようとしているのだろうか。

それとも、再び立ち上がり、その爪を振るうのだろうか。

足を踏み出す。

手甲で強張る手のひらを、強く握る。

硬いグローブの中に、冷たい感触が生まれた。

 

「う……!」

 

燃え盛る破壊衝動を、無理やり凍りつかせようとする枷の存在が呼び起こされる。

 

「うっ、ぐ……!」

 

歯を噛む。腕の筋肉が膨張と収縮を繰り返す。

巻き付く鎖を打ち破る為に、血流は更に激しく酸素を求めた。それが、口角を下げた必死の形相を少年に作らせるものの正体なのだ。

それは、狂気なのだろうか。

敵を殺せと昂ぶるものも、激情を呑み込み縛り付けるものも。

葛藤で震える少年の目は、影が遂に起き上がるのを捉えていた。

 

(――――前を、見ろ!!)

 

ベルは、知っていた。この世すべてのものは、自分が答えを出すまで待つ都合の良さなど持たないという事を。

戦わねば、勝利は得られないという事を。

死ねば、全てを失うという事を。

否応無しに突きつけられる現実の光景は、四肢を支配するものを振り払う力を思い出させた。

小さく縮こまって消えてしまいそうだった少年に、もう一度立ち上がる意思を育ませた力は、全身へと行き渡る。

 

(流されるな、引き込まれるな!!)

 

瞼を全開にして、床を蹴る。

振り下ろす刃が、影の細い頚椎を貫いた。

腕を伝う痙攣。生命を断つ感触が爽快感と、嫌悪感を湧き上がらせる。

 

「ふうっ!」

 

だが、止めない。すぐに引き抜きつつ息を吐き、一直線に短刀を突き出す。

息を絶やした相方を省みずに爪を光らせる、残り一体との対峙は今、彼の越えるべき試練として存在した。

赤い瞳は瞬きせずに、伸びる腕の交差を捉える。

砕けた鏡面に短刀が突き刺さる瞬間、肋骨を貫こうとする衝撃をベルは感じた。

 

「う……ッ!!」

 

今際の際、ウォーシャドウの最後の一撃は、狩人の胸を掠めて右腋へと吸い込まれる。並の業物とも匹敵する鋭い爪は、軽鎧の継ぎ目を憎らしくすり抜け、少年の側胸部へと浅く突き立てられていた。

しかし、それまでだった。

 

「……」

 

黒い頭部は既に短刀で貫かれ、首の下へ一切の信号を発さなくなる。

それを成した者は、流れ出す血の感触と同時に生まれる痛覚を味わいつつ、ひとつの結論へと至った。

……終わった。

痛みをおして難局を征した安堵を味わう瞬間、ベルの首筋に悪寒が走った。幼く、芽生えたての戦士の感覚でも理解できる、確かな殺意だった。

 

「ぐっ!?」

 

振り向きざまに、両腕で防御する。裂傷こそ腕当てにより免れるが、その衝撃は一発で肩関節を跳ねさせた。

――――未熟な冒険者には感知出来なかったもう一体のウォーシャドウは、音も無くすぐ後ろまで距離を詰めていたのだ。がら空きになる懐。開けた視界を占める、歪なヒトガタ。表情を持たない鏡面の光が、黒刃を照らしていた。

防げ、いや、避けろ。

下される脳からの指令を果たせぬ証が、肋骨まで達する創の痛みとなって肉体の反応を遅らせる。

自他から得られるすべての情報は、少年に確かな死を予感させた――――が。

 

「あ――――っ!?」

 

約束されていた未来が、一瞬で塗り替えられるのをベルは見た。巨大な腕は、獲物まで目と鼻の先まで至っていた爪を、その持ち主もろとも一撃で叩き潰したのだ。

アルゴスは朽ちゆく灰を吹かせる余韻を湛えて、乱れた外套を直した。隙間から、青い眼光が覗いている。

 

「危なかっだな」

 

「は、ぁ……」

 

今度こそ危機を脱したと理解し、ベルの全身が弛緩した。弾かれた両腕の痺れを、今になって感じる。

心臓の鼓動が大きく聞こえた。

 

「うっ、く」

 

それは一拍毎、負傷の発する信号を全身へと行き渡らせる。麻痺した痛覚が正常の働きへと戻るにつれて、苛む痛みが強くなっていくのをベルは理解していた。

ひとすじ伝う冷や汗に粘り気が増してゆき、左手を右脇に伸ばす。

そんな仕草を見せるベルの頭の上から、濁声が掛かった。

 

「今日は、もう帰゙れ」

 

「っ、まだ」

 

すべてを看過した青い瞳を見上げて、ベルは反駁を口にした。

まだ。戦える、止められない、この程度、こんなんじゃ……。

そう続こうとした言葉も、喉で止まった。大きな陰影の中心にある青い輝きは、ただ真っ直ぐに少年を見つめていた。

大きくかぶりを振るアルゴス。外套が擦れる音は、周囲の人気の無さを証明していた。

 

「駄目だ、帰゙れ」

 

「……」

 

「神様が、待っでんだろ」

 

迷宮の中まで伸び、決して眷属の心を離さない枷の存在を口にするアルゴス。それが、ベルのあらゆる抵抗を無意味にするものと知っていながら。

 

「自分の足で帰゙るのまでは、助げられねぇ……お前゙が、自分の力でやりでえってんなら」

 

――――ふたりが出会って、数日が経っていた。

誰の目も届かぬオラリオの片隅で生まれた奇妙な縁は、一組の冒険者をともに迷宮の探索へと連れ立たせるようにしていた。

しかしアルゴスは、ベルの隣で戦う事をしなかった。

 

「…………」

 

それが、ベル自身の望みだったから。

振り向いて息絶えた怪物を見やりながら、回顧する。自分の背を守る者との関係について。

……かつて、ある事情を抱えたままオラリオを去った男。すべてに見放された錯覚に打ちのめされ、闇の底へ転げ落ちていったベルが出会った男。

長い旅の末、ここに帰ってきた異形の放浪者の持つ力は、少なくともレベル1の冒険者など比較にならない代物である事を少年はすぐに知ったのだ。先において繰り広げられた、ベルにとっては自らの肉体を賭して打倒せねばならない怪物を一撃のもとに葬り去る光景も、既知のそれだった。

肩を並べて戦うには、二人の力の差があまりにも隔絶していることも……。

ベルは、引き結んだ唇の下で、歯茎を白ませる。

 

(そうだ……これ以上、寄り掛かる訳には、いかないんだよ……)

 

由来の知れない幻影に取り込まれる不安と、見放されひとりになる未来への恐怖は、己の強さによってしか打ち払えない弱さだと思う。

極まった身勝手を押し付ける事への自責の念を抱きつつ、迷宮ではじめて協力者と一緒に戦った日、少年は自分の考えを伝えていた。

一人で戦わせて欲しい。

自分の力で立ち上がりたい、と。それは、守るべき最後の一線だったのだ。

夜、怪物の産声を恐れる者達の居なくなる時間であっても、アルゴスが此処へ足を運ぶ事は途方も無く、彼自身にとって望ましからざる事態への危険を高める行為と言えた。剰え、そこで行うのは――――ようは、単なるガキの御守りに過ぎないのだ。

明らかな窮地以外にあっては、決して手を出すなという傲岸な要望に対し一切の逡巡も浮かべずに首肯した協力者の思いを計り知るには、ベルの持つ洞察力では不可能だった。

どうあれ、はじめて組む相方に対し大いなる負担をかける迷宮探索というのは、潔癖な性根を捨てきれない少年にとって愉快なものと言い難かったのは確かだ。そう望んだのが自分であるにも関わらず、である。

確実に生命の危機から守られている安心感は、それが過ぎ去った後の屈辱との引き換えだった。

だが、今の自分は、そんなちっぽけな挟持――――いや、見栄など認めるべきではないのだ。

それは、弱さだ。

恥じるべき、捨て去るべきものなのだ。求めてやまない、あるべき自分を得るにあたっては……。

じくじくと体の芯まで穿つ鈍痛も忘却しそうなほどの不甲斐なさが、少年の心にのしかかる。

 

「……あんま゙気負って、急ぐんじゃねえ。胡散臭え゙奴なんが、おで以外いぐらでも、居るみてえだしな。昔と、変わらず。……それに」

 

陽も月も知らず死の影が常に傍に在る場所とは、彼がかつて神のしもべとして戦っていた頃よりろくでなし共の最後の居場所でもある事に違いは無かった。

このような夜半に怪物の巣へ挑む常識知らずの馬鹿野郎の生死などギルドにとってはどうでもいいことなのである。姿を隠して闇の底向かう者一人ひとりの後ろ暗い事情と等しく。

出入りする連中の検分など、少なくともそのせむし男にとっては大した障害になっていないようだった、今は。

 

「他の奴゙の事なんが、気に掛げる余裕もねえだろ……今のお前ぇは……」

 

黙するベルを置いて、外套に覆われた巨体は去っていく。残された者は、口数少ない協力者に掛けられた言葉を深く反芻するだけだ。

逸るばかりの気持ちを見透かされる事を、辱めとは感じなかった。その気遣いに報わねばと思うことはあっても。

息を入れ直して、ベルは気を張り詰めさせる。目は、アルゴスの去った方角へと向いた。

情けでも、打算でも、何でもいい。彼は一人のまま闇の底へと落ちそうだった自分の前に、確かに現れた、何かなのだ。もう一度やり直させる為に与えられた機か、道を照らす一筋の光明か……どうあったとしても。

立ち上がらなければならない。歩き出さなければならない。

強くなければならないのだ。

自分の背負うものの為にも、それは決して覆せない掟と少年は何時だって自戒する。

あの青い目との出会いが降って湧いた都合の良い幸運だと言うのなら、何があってもそれを不意に出来なかった。へばりつく後ろめたさや情けなさに囚われる暇など、無いのだ。

心を覆い、身体を縛る恐怖を克服する為にも。

 

 

きょう、遂に第六階層へと踏み込んだベルは、ただ更なる強さを求め、弱い自分を消す事を望むのだった。

 

 

空が白み始める時刻よりも遥か前。幼い顔に険を浮かべる少年は、やはり、下ってきた時と同じように、慎重に階層を上っていく。

外套を被り光の届かぬ場所を行く巨体との関連など、誰も勘ぐろうとしないだろう。やがて路地裏に消えていくかれらの素性も。

だが、誰に見られていなくても、ベルの戦いは確かにいま、ここに存在していた。

 

 

神の眷属として、背負う名に恥じぬ者であろうとする、孤独な戦いだった。

 

少なくとも、彼本人にとっては……。

 

 

--

 

 

口を開けない。

 

――――傷が痛むのかい?

 

――――どうして、夜に行くようになったんだい?

 

――――悩みがあるなら、何だって言ってくれよ、だって、ボクは……

 

 

 

 

 

――――赤い瞳と見つめ合うだけで、言葉が封じられる。どの口でほざけるのかという呵責の声は、紛れも無く女神自身の心の中から生まれるものだった。

朝焼けも見えない夜明けの前にホームの扉を開く少年。そのままソファで泥のように眠ったまま主を送り出し、帰宅した女神が食事を終えてからやっと目を覚ます。

そして碌な会話も無く……新たな力の刻印だけをその身に与えられると、沈痛そうに、まるで口を開くだけで胸を切り裂かれるのに等しいかのような表情を押し隠し、彼は背を向けて扉の向こうへ消えていく。

宵闇の支配する時に迷宮へ征くようになった眷属に何を問えばいいのか、何をすればいいのか、小さな主にはさっぱりわからないのだ。

過去の間違った選択を贖うよりも先に突き付けられた新たな難題は、一柱の女神を日々悶々と、思索の迷い路へと引きずり込んで手放そうとしない。

 

「じゃが丸くんのー、……クリームふたつお願いします」

 

「ふぁー……」

 

「あの」

 

屋台に立つツインテールの少女は、注文に対して、碌な反応も示さない。口を半開きにして、目は遥か遠くへと向けられている。

慌てて、店主が割り込んだ。

 

「ああごめんなさいね!はいふたつ、毎度あり!」

 

「ふぁーー……」

 

ヘスティアは仕事中もすっかり腑抜けていた。勤務形態の本分も覚束ない状態が続いているのだ。

加えてこの屋台は、そこまで余裕のある経営状態というわけではない。切羽詰まってもいないが。

客が去りゆくのを見届けると、ある決断を胸に、店主は腕を組んでため息をついた。

 

「ヘスティアちゃん」

 

「ふぁ?」

 

名前を呼ぶ声に、何の思考も働かせずに振り向くヘスティア。

今頃地下道で大変な難事に直面している仇敵が見れば、よっぽどデコピン一つでも叩きこみたくなるだろう間抜け面だった。

当然だが、ただの人間である店主はそんな不敬を働かない。だからって不真面目な従業員を放置する事もしなかった。

 

「もう帰っていいよ。君、しばらく休みね」

 

「……え゙っ」

 

耳に入った言葉が危うく反対側から零れ落ちそうになるのを免れ、一呼吸使って意味を理解する。

顔を引き攣らせる少女の様子を見ても、店主は粛々と続けた。

 

「うちも、道楽ってワケじゃないからさ……調子治したら、またその時に、ね」

 

「ま、待ってくれ……く、下さいっ。ボ、ボクぁ……」

 

悲壮な声音で言い募られても、毅然と手のひらを突きつけて店主は首を振るだけだ。ヘスティアは、全てを受け入れるしかなかった。

近ごろ、小さな屋台の小さな名物娘としてひっそりと好評を博しつつあった売り子は、かくの如くして職を失くしたのである。

 

 

 

--

 

 

暮れなずむ夕日は街を照らすとともに、揺蕩うように道路を歩くなにか見窄らしい、小さな人影をもミアハの目に映し出す。まるで行き交う人の間をすり抜ける枯れ葉のようにしなびた、小さな姿を……。

恐る恐る近づいて、声を掛ける。誰もがそれを見てあからさまに避けて通っていく知己の顔とは、この世の終わりを明日と知らされた神官であっても、ここまでしょぼくれはしないだろう。

 

「なんという顔を、ヘスティア……いったい」

 

「ふぁぁ……」

 

眉から目から口から、何もかもが重力に引かれて垂れ落ちそうに傾く表情。黄昏時、街灯の作動する直前のいま、殊更に彼女の心を満たす悲愴さを際立たせる陰が顕になる。

休職を言い渡されて数時間、茫然自失のまま街中をさまよい歩き続けていた少女は、ついに出会った顔見知りを前にして、凍りついていた感情の波を決壊させた。

 

「うぉおお、うおおおぉおん!ううっ、うぐぐっ、うわああっ、ああああっ、ゔぐぐぐぐっ、ええええええっ」

 

「ど、ど、どうした!何があったんだ!?」

 

いきなり跪き、天を仰いで号泣する女神の姿は衆目の更なる好奇とドン引きの視線を呼んだ。眼前で、一番の驚愕を覚える優男もろとも。

 

「うあ゙ああああっ、ああああああっ、ぐっ、うぶぶっ、うおおおおん、おおおおおん!」

 

「ちょっ、いやっ、落ち着け、落ち着けヘスティア!……と、とにかく、ここじゃ埒が明かないな」

 

しゃくり上げ、堪えるのを抑えきれずに吐き出される嗚咽とは違う。全力のマジ泣きが街道に轟き渡る。その中心に、くしゃくしゃに顔を歪めた美少女の前に立つ男。

ミアハにとっては、断じて望まぬ風評を生み出させかねない状況が形成されつつあった。というか、事実野次馬にとってはそういう認識だった。あんな可愛い娘を弄んだわけだ、イケメン死ねと。

ミアハは両手の荷物を無理やり片手で握り、もう片方の腕に涙と涎と鼻水でぐっちょぐちょの顔を晒すヘスティアを抱える。その後の彼が払った労苦とは、凡百の冒険者が日々課せられる代物と等しかったと、主観的な感覚を比較出来れば断言出来ただろう。

ぽつ、ぽつ、と魔石灯が光り始めるメインストリートを疾走する一柱の男神は、恐るべき苦行に端正な顔を真っ赤に染めて喘ぐ様を、決して泣き止むことの無い付属物の姿とともに人々の記憶に強く刻まれた。

 

 

 

--

 

 

「はあ、つまり……ベルに対して、申し訳が立たないと」

 

「うぇええええええ」

 

ホームへと連れ帰ろうにも、大事な眷属に任せている商売の邪魔になること夥しいだろうと思ったミアハは、とりあえず適当な酒場に駆け込んだ。

 

「どころか、ろくに話をする事すら覚束ない。夜中に出掛けるようになった理由もわからない……」

 

「うぇええええええ、えっ、えっえっ」

 

いま片手に握ったグラスをテーブルに叩きつけている少女からの聴取は、至難を極めた。何か口に入れさせれば気分も落ち着くかとの策は実らず、結局、手足をじたばたさせてびゃーびゃー騒ぐ酔っ払いの言葉を地道に復号化させるしかなかった。

飲ますんじゃなかった、とミアハは心底思ったが、そんな後悔も、一頻り泣き喚いてから肩を震わせる姿を見ている内に薄れていく。

落ち着いてくれば、この案件についての本質的な問題へと思いを馳せる。

 

「うっ、うっ、うっ、うっ」

 

(ベルよ、お前は……)

 

哀れにもすれ違うだけの主従、この悲劇の発端を知る者として幾許かの責任を感じるミアハだった。あの時渡した魔法薬が無くば、別の未来があったのだろうか?と。同時に、そのふたりに対して自分が出来うる助力の小ささも。

そうわかっていても口を開く。

 

「このまま、ただ待つつもりなのか?」

 

「うぶぶ……うううぐぐぐううう~~~~っ……」

 

横顔を卓上に押し付けて呻く女神の返答は期待出来そうもないとミアハは知る。

言いながら、ふと思うのだ。

もし、自分が同じような状況に陥った時、どうするだろうか?いや、今まさに注いでいる愛情、信頼が、あの『子供』にとっての枷になっているのだとしたら、それが彼女自身にとって重荷となっているのだとしたら。

可愛い『子供』の為に、何が出来るだろうか。

気にするな、の一言で、人間は救われるのだろうか。

 

(なぜ話してくれない、などと、言えればそのような労苦などはじめからあるまいに……しかし)

 

「問えぬほどに、耐え切れないほどに苦しいというのならば、……みずから動いて、その心を探るしかないかも、な」

 

「…………」

 

意図せずに、口をついて出る言葉。待つことができないのも、問うことができないのも、相手を信用していないだけに過ぎないのではないか、という自嘲を抱きつつ、きっと自分はそうするだろうという結論だった。

喧騒の絶えない安酒場は、偉大なる天上の住民がつくる沈黙など目もくれない優しさも同時にあった。万余の人と神の溢れる地で、腐るほどに存在する光景だったのだ。

無力である事にのたうつ者の姿とは。

 

「…………そうだよ」

 

「ん?」

 

「そうだっ!!!!」

 

「うおっ!?」

 

相対する者ですら聞き取れない微かな声を出したヘスティアは、すぐに立ち上がって叫んだ。その剣幕で椅子ごと一歩分後ずさる音が、ついでに上がった。

酒気で濁りきった瞳に、歪な光が宿るのをミアハは見た。

 

「そうだっ!!!!こっそり!!!!こっそりついて行けばいいんじゃないかっ!!!!どーせクビになったんだ、夜寝て朝起きる必要なんか、ぁあったく!!ありゃしないじゃないかああああ!!!!ベル君、今行くぞおオオオオ!!!!」

 

「待て!待て!待て!」

 

キレた女神の蛮行を止めようと、非力な薬屋は追いすがる。口の端に泡を作って酒場の出口に向かおうとするヘスティアの表情は、自分を苛むあらゆる問題の最終的な解決方法へと思い至った人間が浮かべるものとよく似ていた。アッパラパーだった。

 

「神は迷宮へはついて行けないのだぞ、そもそも、怪物一匹すら倒す事も出来ない身体で……」

 

「うるっさああああい!!!!今のボクはあ、ああああ、むっ、むっ無職なんだ!!!!そう無職!!!!つまり無敵だ!!!!失うモノなど無いから無敵なんだ!!!!残ってるのはあの子への想い……愛!!!!それだけだ、だから無敵なんだ!!!!誰にも止められはしないんだああああああ!!!!」

 

「わかった、わかったから待て、今日はやめろ!明日にしろ……もうベルだってとっくに迷宮の中だろう、今追っていったって」

 

「ああああああああ!!!!離せええエエエ!!!!何が待つだ、いつまで待つんだっ!!!!フレイヤのヤツにしろそんな変な事言うから、何していいのかわかんなくなっちゃうんじゃないかあああああ!!!!」

 

「なんだあ、痴話喧嘩か?」「オイ神様がた、出るならいいけどお代は頼むよ」

 

タガが外れて八つ当たり気味な激情すらぶち撒けるヘスティア。そーだ、思えば、あの時アレコレと吹き込まれたせいで、問題がごっちゃになってしまったのだ、と。あの子に酷い事をしてしまったのは、今あの子が何か、これまでと違う探索形態をとっている事を窺い知れないのと切り分けて考えるべきなんだ、と。

確かにその結論は明らかに正当なものだったが、何しろ目を血走らせ唾きを散らす怒号で以て宣言する姿に、神としての聡明さを見出せる者はこの場に居なかった。

悪酔いした客へ向けられるのは、珍しくもない光景に対する微笑ましげな視線だけだった。

小さな身体に似つかわしくない怪力を発揮した少女が疲れて眠るまで、ミアハの災難は続いた。

 

(というか、クビになった事は話さなくていいのか?)

 

 

 

--

 

 

「なるほど、楽しく騒いで、きちんと家まで送り届けたんですかあ……、律儀なことで……」

 

「……ああ、そうだ。そうとも……本当に今日はすまなかっ、……た……」

 

ミアハが自分の帰りを待つ者のもとへと辿り着く頃、彼は言い訳の一つも出来ないくらい困憊し果てていた。機嫌を損ねる眷属に全てを自供しソファに座ると、すぐに夢の世界が彼の意識へと迫る。高級とは言えない座り心地でも、投げ出された身体が沼の底へと落ちていくような錯覚を呼び起こしていた。ヘスティアに対して軽率な行いは避けるよう極めて強く念押ししており、その労力も並ではなかった。

それでも、眠気に因るものではないだろう垂れ目の中に光る、鋭い眼光を受けながら口を開くのだ。

 

「ナァーザ……」

 

「……何です」

 

外した義手に視線を落とすと、長耳も垂れて落ちる。就寝前の習慣になっている点検も忘れて主の帰りを待ち焦がれていた眷属の心すべてまで、ミアハは見通しているわけではない。

ない、が……。

 

「……もし、……私も、かれらのような、苦しみを……、お前に、負わせているの、な、ら……」

 

夜更けもいいところで、酒も少々入り、おまけに大暴れするじゃじゃ馬を必死でなだめすかした疲労のせいで、もはや彼が覚醒を保つのは限界だった。

互いを思うゆえに迷妄の虜囚と成り果てる主従の姿へ、確かに自分自身とその『子供』の影を重ねていた神は、全てを口で紡げず瞼を閉じる。

言葉を途切れさせた主が静かな寝息を立てるのを聞き届けて、暫し。

 

「……ミアハ様?」

 

呼び声は、返らない。

中身の無い右袖を揺らし、ナァーザは毛布を優男の身体に被せた。左手だけで器用に寝床を整えると、それを見下ろす深紫色の双眸に多くの感情が渦巻いた。

 

「…………」

 

全てを話せば、それは何かの救いになるのだろうか。

自分とほんの少しだけ、境遇を似通わせている真紅の瞳の少年を思う。お得意様というほどの客ではない、顔馴染み、か、そうでないかも、怪しい……。

しかし、彼が見た目通りの純朴さに満ち溢れた人間であることを、この街においても一、二を争うほどに知っているのがナァーザだった。

だから、彼の近況を聞くにつけ、心のなかがざわめくのだろうか。

 

「………………」

 

途切れた右肩を、服の上から掴む。

主の、穏やかな寝顔を見つめる。

冷たいものと、暖かいものが胸の奥から湧き出した。それこそ、目の前の存在に与えられた枷なのだと彼女は知っていた。

決して背く事の出来ない使命感は、しょせん自分を縛り付ける罪悪感を裏側から眺めたものに過ぎないのではないか、と自嘲する。

今は存在しない右腕のむず痒さに、頬を軽く掻いた。消失した腕部の感覚が蘇る。

 

「……でも……私は、あなたみたいな馬鹿じゃ、ない……ベル……」

 

誰に聞かせようというものではない呟きは、貧乏くさい薬屋の居住スペースの中ですら響かずに、消えた。

梟が何処かで鳴いていた。

 

 

 

--

 

 

その日の探索は終わろうとしていた。

 

「……」

 

行き先に向く短刀の刃が零下の細氷を想起させる冷たさを放つように見えただろう、そこに何者かの目があれば。

それはきっと、携えている人間の纏う緊張感が生む幻覚なのだ。

 

「……」

 

容量の半分も満たしていない背嚢に音を立てさせず、駆け出し冒険者は歩く。鎧の上から加えられた幾多の傷の鈍痛も逆に、強張る表情を更に凍りつかせ、全身の五感を研ぎ澄ます助けとなっている。

正中線を揺らさず、下半身を何時でも跳ねさせられるよう低く保っているのは、彼が誰から学んだものでもない、意図せず身につけつつある戦士の性だった。

ただ漫然と散策し、会敵してはじめて武器を構えるような迂闊さは、帰還の途にさえある今でもベルは見せないのだ。

己は一人だとただ言い聞かせ戦う。

迷宮の敵と戦う。

自分を支配するものと戦う。

僅かな緩みが、一瞬で肉体と精神を蹂躙するのだと常に自覚せねばならないのだ。

……たとえその背を守る者が居るのだとしても。いや、居るからこそ……。

 

(……アルゴス)

 

今日もまた、助けられつつの探索だった。隙あらば支配権を握ろうとする冷たく凍てつき、それでいて焼き尽くそうと燃え盛る二つの衝動は、何度も少年の身体を絡めとる。

その度、あの青い瞳の持ち主は全ての脅威を取り除き、じい、とこちらを見つめるのだった。

多くを語らぬまま。多くを問わぬまま。

来る時も、帰る時も……。

 

(もう、帰ったのかな)

 

亀の歩みが差し掛かっているのは、第二階層である。ベルは、ひとりきりだった。

歪な巨躯は決まって、帰る頃合いと見るとそれを告げてすぐに姿を消し、気配すら感じ取れなくなるのだ。彼の俊足は既に、夜の街へと消えていったのだろうか。

同じフロアの何処とも知れぬ場所からか一瞬で協力者の危機に現れる姿も、ベルが見込んだ彼と己の隔絶する能力差の一つだ。詳しくは聞いてないものの、或いは彼の体得している異能の生むものかもしれない。それが、彼を今日まで生き延びさせた力なのかも知れぬとも思う。

どうあれ外套に覆われた怪しい影にとっての、レベル1の冒険者と道中を共にする理由を、少年は思いつかない。怪物の跋扈する窖でならともかく、だ。

そう、いかに無法者の隠れ住まうとはいえ曲がりなりにも秩序というものが存在する路地裏の暗がりと違い、誰もその底を知れない迷宮は、後ろ暗い事情を抱いた冒険者の存在など幾らでも等しく、贄として受け入れているのだから。

そんな連中はベルの元にいきなり現れたのだ。

唐突に近づいてくる激しい足音に気付き、反射的に振り向く。

 

「!?」

 

「あっ!?」

 

通路の角から飛び出した、くすんだクリーム色の塊が、すわ会敵かと短刀を構える少年を見て動きを止めた。フードの下にある双眸は此処に在らざるべき存在を理解し、驚愕に見開かれる。

かたや赤い瞳は、下からぶつけられる視線に明らかな理性の光を見出す。

怪物、ではない。

同業者だ。

硬直してから数瞬、ベルがそう思い至った刹那、目の前の某は後ろから蹴り倒され、這いつくばった。

 

「この、糞アマ!!」

 

「あぅ!!」

 

「なっ」

 

うつ伏せになった小さな身体を踏み付ける男は、見下ろす眼差しに浮かぶ深い憎悪と侮蔑を隠そうともしなかった。ベルよりもずっと背丈の高い、がっしりした体格の冒険者だ。背負う鞘の大きさが、その実力を誇示しているようでもあった。

彼の心情について、芥ほどもの理解を持たないベルは、突如そこに出現した修羅場を唖然として見つめる事しか出来ない。いつ降りかかるとも知れぬ襲撃への警戒も、頭の片隅へと追いやられてしまう光景がそこにあった。

男が、フードもろとも栗色の髪を掴んで、少女の顔面を地に叩きつけた。

 

「ぐブ……っ!」

 

「ええっ、一杯食わせてくれたな!すぐ楽にさせてくれるなんて、思っちゃいねえよなあ!?この阿婆擦れがっ!!」

 

「ちょっと……!」

 

真っ赤な顔色は口から吐かれる罵声とともに、男の怒りを雄弁に物語る。それほどの理由は、確かにあるのだろう。ベルは、自分が部外者だとわかっていた。

わかっていても、繰り返される硬い音に嫌な水音が混じり始めるのまで聞き及べば……いや、そうでなくとも、こんな小さな女の子が、これほどの激情をぶつけられるのを前にすれば、ベルは自分を止められない。……倒すべき敵を相手にはどこまでも残虐になれる凶暴性を隠し持つ少年は、幼い頃から育まれた確かな道徳も同時に備えていたのだ。純粋な、人としての倫理かどうかは(彼の祖父の性格からして)ともかく。

自分に向けられているものではないと知っていても僅かに怯む程の怒声の元に対し、ベルは意を決して話しかける。

 

「待って……下さい!何か知りませんけど、そこまで酷い事を……!」

 

「んだあ、テメエ」

 

荒い鼻息が顔を上げたほうへ向けられる。沸騰した思考は、人道に基づいた制止の声への明らかな反感を抱いた。男が目の前の『子供』に敵意を向けるのに、あと一押しのところまで来ていた。

それほどに男は、組み伏せる少女への怒りを滾らせていたのだ。

 

「こいつの仲間か、ああ!?」

 

その威圧的な質問は、戦意を緩めずに帰路を歩いていた少年の心を確かに逆撫でした。人の間の諍いとはかくして起こるのだという典型が、そこに現れる。

歯茎を剥き出しにした怒りの表情を前にして、ベルは自然と胸を張って目つきを険しくする。

 

「知りません」

 

「じゃあ口出すな、とっとと消えろ!!」

 

「その娘が何をしたのか、こんな仕打ちを受けるほどなのか教えてくれたら、そうします」

 

「ああそうかい!こいつはなあ――――っ!?」

 

張り詰める空気を割ったのは、足蹴にしている力が緩むのを知った少女だ。声を出さずに、ただ息を呑んで身体を跳ねさせる。その勢いは確かに一瞬だけ、この危機的状況から脱する光明を掴ませようとした、が……。

 

「クソがあっ!!」

 

「ぐッえ!!」

 

靴裏から逃れようとする獲物に加えられる一撃は、いよいよもって殺意の片鱗を見る者に感じさせた。

カエルのような声が、首の付根を踏まれた少女の口から出る。

それを見下ろす男の目に生まれた残忍な光は、遂に背より抜き去った長剣の煌めきよりも情けが薄かった。

 

「こいつでも喰らわなきゃわかんねえみてえだな、オイ!」

 

言うが早いか、切っ先が振り下ろされる。まこと唐突な凶行は、見開かれたベルの目に一瞬一瞬、焼き付けられるようにゆっくりと映しだされていた。

刃が、真っ直ぐに、少女の背へと向かう……。

 

「……!」

 

顔。少女の顔が、持ち上げられていた。鼻血を流し、土で汚れた顔に、凍てついた表情が貼り付いていた。

恐怖があった。

諦観があった。

そして――――懇願が、あった。

胡桃色の瞳の奥にあるものを、確かに少年は、理解したのだ。

どうして理解出来たのかまでは、わからなかったけれども。

 

「――――!」「ッ……て!?」

 

反射的な行動だった。一瞬で詰め寄ったベルは左手で男の利き手を掴み、短刀を顎下へと突きつける。

誰も知らぬ内に、少年の真紅の瞳は、理性を持つ獣のそれに変貌していた。

 

「め、え……!?」

 

男は、目の前の存在もまた、仇成す者であるという認識の確信を得る。それは、燃え上がる激情に焚べられる薪となって握り手を震わせた。

然るべき誅罰を下す正当性を汚された彼の怒りは、その根源を詳らかに聞かせられた万人も賛同するところだったに違いない。

しかし不幸なことにこの場に居るのは、自分の利の為ならどんな手を使うのも厭わない狡猾な罪人と、そして、いま男を支配する感情などたやすく呑み込む程の、底知れぬ混沌を抱える者の二人だけだったのだ。

 

「……!!」

 

――――真っ赤な眼光は、立ちはだかる意思すべてを完全に無視する溶岩の奔流のようだった。

のぼせ上がった思考が一気に冷えていくのを、男は理解した。

 

「こ、この……」

 

「……」

 

ベルは、自分が男に恐怖を与える存在と化している事に疑いを持たなかった。

支配し蹂躙するのが自分であり、その生命を自由にする権利を持つ事の確信すら抱いていた。

 

(……そうだ)

 

短刀を握る力が増す。

 

(……邪魔だ)

 

視界が赤く滲む。

何かが燃え、何かが飛び散る。

叫び声。怯える瞳。背を向けて逃げ出す影。

 

(邪魔だ)

 

「ッで、……!!」

 

男は、潰されそうなほどに締め上げられる利き手の痛みで声を上げた。

 

(こいつは)

 

幻影が重なる。黒い影、……敵、では、ない。

敵ですら、ないのだ。

短刀を首に当てる。

 

「ま、待て」

 

正しく、目の前の男とは、ベルにとって、真に無価値で、省みる必要など全く無い――――

 

(これ、は――――)

 

 

 

『来るな、あっちへ行け!』

 

『ぎゃあああっ!』

 

『もうおしまいだ……!』

 

 

 

(――――ただの、――――人間、だ……!)

 

何かが、目覚めようと首をもたげた。

弱く、脆く、優しい少年が、情け容赦無い、心を凍てつかせた戦士へと変貌していく。

……祖父に聞かせられた物語の中の、憧れてやまなかった、怪物を斃す勇者とは違う。

容赦なく人を屠る、狂乱の征服者が姿を顕す。

なぜ、男に食って掛かったのか、その最初の理由はもはや塵となって消え失せていた。

ベルの頭には、故こそ知らぬも理不尽としか思えない仕打ちを受ける少女の存在は無く、ただ目の前に立つ男への苛立ちだけが残っていた。

 

「よ、よせっ!!」

 

震える首筋の汗は刀身へと流れ落ちる。

男は、己に向けられる確かな殺意を感じ取っていた。

いや、その本質は、殺意と呼べるほどに情の満ちたものなどでは、なかったのだ。

真紅の瞳は、どこまでも冷えきった輝きの奥で、その理屈をぎらつかせる。

死すべき定めを負う者すべてを絶望させる、酷薄極まる律――――即ち。

 

 

今握る刃の一振りで断ち切れるか細い命脈。それは路傍の草花や虫けらのそれと、どれほどの違いがあるのか、という。

 

 

「や、止め――――え!?」

 

 

無意味と知りつつも男は命乞いしようとして、そのまま開け放った口を停止させる。

大きな何かが、再びこの空気を揺らしたのだ。

男の目は処刑人の後ろにあるものを捉え、更に大きく見開かれた。

 

 

「――――は!?」

 

 

ベルは、突如として背後に現れた圧倒的な存在感を理解し、振り向いた。

 

「……!」

 

音も無く馳せ参じていたアルゴスは何も言わずに、三つの影を見下ろしていた。

短刀を向けられた眼光が、真っ直ぐに少年の全身を射抜く。青色のさざなみが、一息で心を浚っていった。

自分は今、何をしようとしたのか。

何を考えていたのか。

……何者だった、のか?

疑問が頭の中を満たす。

 

「あっ、がっ、あっ、う、わ……!!」

 

茫然自失となるベルの頭の後ろで呂律を絡ませる男が、遂にその言葉を発した。

 

 

 

「ッ――――ばっ、化け物おっ!!」

 

 

 

「ッ……!!」

 

また首を戻したベルの目に、身体の自由を得て一目散に駆け出そうとする男の姿があった。

男の言葉とは間違いなく、自分の生命を刈り取ろうとした者に対してではなく、突如その場に現れた異形の存在を形容するものに他ならなかった。浅層に巣食う連中と全く違う風体は曲がりなりにも冒険者として身を立てる男にとって、既に恐怖の鎖で締められつつあった心で対抗するのに無理のある衝撃を与えて余りあった。

だが、どうしてその事をベルが理解できただろう。

 

「う、ひっ、いいい……っ!」

 

恐怖に震える高い声とともに、男の足元にあった小さな影もまた、遠くへ去った。

迷宮の仄暗い陰へと消えていく者達の背を、ただ立ち尽くして見やる。

ベルが思い出すのは、あの夢の光景……その、小さな破片達。

恐ろしい、あの夢の中の自分。

ただ、荒れ狂う衝動に身を任せ突き進み、立ち塞がる全てを切り伏せ、焼き払い、大地を赤く染め上げ、それでも渇き、渇き……なお尽きない衝動に全てを委ねる自分。

その先には、目を見開いててのひらをこちらに向け、どんな言葉よりもまさる感情のほどを表現する、無数の人間たちの姿。

 

 

 

『うわああーっ!』

 

『な、何をするんだ……!?やめてくれ!』

 

『皆、あいつに……!』

 

 

 

激しい拒絶だけが、己の所業の結果を表していた。

 

(僕は、……)

 

いつの間にか、自分の腕が震えているのに気がついた。

俯き、視線を落とす。

腕。

その手に、握るもの。

揺れて、血のしずくが滴る刃。

ベルは、悟る。自分がしようとした事を。

 

(人を、殺そうと、したのか)

 

自分が、何を思っていたのかも。

 

(……それを、なんとも思ってなかった)

 

それは至極当たり前の、――――呼吸をするような――――日常の行為のひとつとして、間違いなくつい先程のベルは感じていた。

敵も味方も、無い。

邪魔だからという理由で、

取り除くという目的の為に、

目障りだと思う傲慢のまま、

殺す。

 

(ぼ、く、は……)

 

急な怖気が全身に走る。震えが止まらなかった。

冷たい。心臓から氷河が噴き出し、脊柱を走って五体を凍てつかせていくようだ。

やがて短刀を握る手まで達すると、中指に嵌められた枷が一際低い温度の鼓動を生む。

 

(人を、人を……人、を…………)

 

 

 

『人殺し』

 

『人殺し……』

 

『人殺し……!』

 

 

 

何処からか聞こえる。自分のすべてを言い表す言葉が。

黒く赤く濁った悪夢のなかで、無数の雑音に混じりその声は――――いつだって、常にベルの耳に届いていた。

枯れ果てぬ血の河を生む殺戮の演舞場で、天をつく屍の山を踏みしだく者――――怪物へ与えられる、最も相応しい称号。

 

「ベルッ!」

 

 

 

『人殺し!!』

 

 

 

大きな濁声で、顔を上げる。取り巻く全てが、夢うつつの少年を恐慌状態へと陥れた。

 

「ッ……は、あ、うああああああああっ!」

 

「!」

 

瞳孔を広げて、武器を振り回す。それは冒険者の姿でも戦士の技でもなく、ただ得体の知れない恐ろしい何かと出くわした子供の有り様そのものだ。少年を恐怖の坩堝へと追い込んだ張本人たる巨大な影にとってみれば、座して受けるのを待たねばならないほどに稚拙な動きと言えただろう。

だが、アルゴスは、避けなかった。その小さな刃の軌道の先に、ただ大きな左腕を翳したのだ。

 

「あ、あ――――!?」

 

ガネーシャ・ファミリアによる補償として与えられた業物はその切れ味をロクに発揮する事なく、色素の薄い肌に突き刺さる。

硬い、しかし確かに水気を含んだ、肉の感触。

視界を塞ぐように突き出された手のひらを前に、ベルは得物を引き抜く力も出せずに戦慄く。

 

「あ、あああ、……」

 

口を半開きにした表情は、贔屓目に見ても錯乱の極致と言えた。

だが、動きを止めた今こそ、彼の脳は外部の情報を受け入れる僅かな余裕を得ていた。

 

「ベル」

 

腕の根元から、双眸が覗いた。歪で不揃いな、けれども、どこまでも澄んだ、穏やかな青色の……。

 

「あ、あ、ル、ゴ、ス……?」

 

「……」

 

ようやく、ベルは我に返る事が出来た。真紅の瞳を揺らす波紋は、小さな身体を震わせる恐怖とともに消えていく。指輪によって凍り付いた右手が、融けるように握力を失う。

自分の手のひらに突き立てられた短刀から持ち主が手を放すに至って、アルゴスはのっそりと、脱ぎ捨てた外套を再び羽織った。

覆い隠された異形の顔は、いかなる感情を抱いているのかベルには図りかねる。

わかるのは、またしても訳の分からない衝動の台頭を許した自分への、後悔と、無力感、怒り――――そして。

 

(なんだ、それ)

 

立ち尽くしたまま、愕然とするベル。

 

(自分の事、だけなのか、僕は……)

 

縋り付いて、凭れ掛かって、助けられた所で乱心し刃まで向けて、まずは自分可愛さという自分自身の卑しき性情に絶望する。憎むべき弱さは、ほんの少しの隙間から滲み出るのだと理解せねばならなかった。

 

「アルゴス、僕は」

 

「ほら゙」

 

決死の発言を遮って、ベルの眼前に、短刀の柄が突っ返される。

刀身を摘む大きな指に目を奪われ、次いで、垂れ落ちる血の色を見た。

 

「……大した傷じゃねえ゙。気にすんな゙」

 

「っ……、僕は……」

 

謝罪も弁解も受け付けぬ冷淡さなのか、それとも、何も問わない優しさなのだろうか。

背を向けて去ろうとするアルゴスの姿にどうしようもない不安を呼び起こされたベルは、自然とその問いを投げかけた。

突拍子の無い疑問。それでも、口にせずにはいられなかった……。

 

「僕は、人間、なのかな……?」

 

「あ゙……?」

 

つぶやかれる言葉で、アルゴスは動きを止めた。

意味を理解しようとしているのか沈黙する異形を置いて、もう一度、ベルは口を開く。

 

「それとも、本当は、……怪物、なのかな……」

 

「…………」

 

ずっと、頭の片隅に存在した疑問だった。脱走した大猿との戦いの後、目覚めたあの時。

何よりも大切な存在の激しく悲しむ姿を見たあの時から。

自分は、"マトモ"な人間なのだろうか。

何もかもを忘れ、ただ目の前の敵を滅ぼす事だけに全てを注ぐ自分。

それを成さしめるものの源泉……万余の言葉でも表すことの出来ない、無限の憤怒がたしかに存在した。人間性のすべてを燃やし尽くす業火のような激情。それは果たして、およそただの人間が抱きうるほどの代物であっただろうか。

ひょっとしたら、という考えに行き着くのは、必然だったのだ。

ここに居る自分とは、人間ではない何かが、ベル・クラネルという人間の皮を被って、成りすましているのではないだろうか?と。

そして自分はその事に気付かないまま、必死で人間の真似事をしているのではないだろうか?

あの恐ろしい夢の正体は、自分のふりをした、本当の自分の持つ本性……或いは、……

 

(ほんとうにあった、過去の出来事……本当の僕の、記憶……)

 

「……おでは」

 

頭の中で果てしなく荘厳な妄想が膨らむのを、アルゴスの声が止めた。

はっとして、厚い布に隠れた横顔を見るベル。

片方だけ向けられる青い光は、相変わらず平らかなまま、こちらに向けられていた。

少年の抱えるものの全てを計り知る事など、誰にも出来なかった。自分の居場所を求め、世界中彷徨い歩き続けてきた男であっても。

だから、ただアルゴスは、自分の持つ知識の範疇だけを以て、その答えを導き出すだけだったのだろう。

 

 

 

「…………そんな゙、悲゙しそうな顔をする、怪物な゙んて……見たごと無゙えや……」

 

 

 

 

 

--

 

 

ベルが寂れた神殿の前に辿り着いた頃、もう東の空が赤くなりはじめていた。

ぼんやりとした頭は、ぼんやりとした視界から、いかなる情報も受け付けていなかった。何度も繰り返される疑問と、与えられた言葉だけが巡っていた。

 

(悲しい、か)

 

それの尽きた時が本物の怪物になる時だというのなら、この扉の先で待っている存在こそが、ベルの人間性を繋ぐ最後の枷なのに違いない。

だが拳の中の冷たい感触は、猛ろうとする戦士の魂を幾度となく縛り付けるものでもあった。彼自身の罪深さを知らしめるように。

思い出すだけで心が千切れ飛びそうになる、小さな主の悲しみに満ちた顔。会話すらも覚束ない、バラバラになりそうなファミリア。

すべては自分の弱さが招いた事だった。

すべてを贖う事が出来た時、自分はどうなるのだろうか。

誰に恥じることも無く、誰に侮られることも無く、誰に負けることも無い、最強の戦士になった時。

闇に包まれた未来に、未だベルは光明を見出せなかった。堂々巡りになる思考を打ち切るようにかぶりを振って、壊れた扉の間に入り込む。

荒れ果てた内装が、彼の心を描写したように寂しく広がる。

待つ者のもとへ帰る為、身体を休めて、再び戦いの場へと発つ為に、足を動かす。

どうあれ、今はただ、のしかかる悲しみと苦しみに耐えるしかないのだと、ベルは思っていた。

 

(強くなくちゃ、何も、取り返せないんだ……)

 

それが何よりも正しい理なのだと、信じていたから。

 

小さな部屋に帰ってきたベルは、未だ眠りの中にある主を起こすまいと、静かに床に就いた。

夢を見るのも出来ないくらい疲れ果てるまで戦えたらどれほど楽だろうか、などと思いながら……。

 

 

--

 

 

その日の夢は、ベルを苦しめるいつもの悪夢と少し違っていた。

 

 

 

男が言う。

 

『来るな!お前の助けなどいらん!あっちへ行け!』

 

女が言う。

 

『やめて!近寄らないで!』

 

皆の目は、彼に対する恐怖に満ちていた。

 

誰もが、彼を忌み嫌った。

 

誰もが、彼を同じ人間とは見なかった。

 

彼が、人間の生命を奪う事をなんとも思わない、人間の心を捨てた者だったからだ。

 

どんなに強くなろうとも、どんな困難を乗り越えようとも、それは覆せない事実だった。

 

怪物と呼ばれる彼の心が癒される事は、決して無かった。

 

膨れ上がる狂気から解放される事は、決して無かった。

 

ただ――――広大な潮騒の最中に揺られている時だけは、荒れ果てた心が慰められるように、思い込むことが出来た。

 

海は何も言わないから。

 

海はただ大きく、彼を見つめるだけだったから。

 

『――――』

 

激しい戦いを終えた彼は、傍に寝る女の体よりも、寝床の隣に置かれるワインよりも、船にぶつかる波の音だけに意識をゆだねる。

 

不意に思い起こされる幾つもの記憶。泡のように浮かぶそれらはしかし、次々に飛沫と消え、押し流されていく。

 

無数に切り替わる夢の光景を眺めるベルは、ただまどろみの中に揺蕩っていた。

 

彼が生まれる前からずっと続いていたさざなみの声は、いまと遥かな過去の狭間にあって、何を伝える事もせずに唄い続けていた――――。

 

 

 

--

 

 

 

目を覚ましたベルは、奇妙な心境を持て余した。恐ろしいような、寂しいような、……懐かしいような、安らぐような、そんな気分だった。

ソファのうえで寝ぼけ眼のまま佇む時間は、短かった。

 

「おはよう、ベル君」

 

寝起きで霞がかった思考は、一瞬で明瞭さを取り戻す。首を向けた先に優しく微笑む主の顔があった。

 

「っお……はようございま、す」

 

「うん。ご飯は用意しておいたからね。きちんと食べて、今日も頑張りなよ」

 

違和感を覚えないはずが無かった。昨日までは、こんな簡単な挨拶も緊迫した空気を保って交わされていたのである。引き攣った顔をにこやかにしようと一所懸命になる主の顔は、ただ眷属の罪悪感を膨らませ、よそよそしい態度を互いに誤魔化し合う猿芝居を生むだけだったのに。

安らぎの場所を欺瞞の坩堝に仕立て上げた者の罪など、まるではじめから無かったかのような朗らかさを纏う女神の姿がいま確かに存在していた。

 

「神様」

 

「うん?」

 

食事を終えて、卓を挟んで座っている主に声を掛ける。

だが、僅かな翳りも見出だせない、かつてベルの孤独を忘れさせてくれていた柔らかい笑顔は、そこにあるだけで続こうとする口上を遮る力を持っていた。

彼女がどんな悟りを得て、こうも優しくなれるのかは検討もつかない。けれども……。

 

――――こんなにも情深い神に比べて、お前はどうだ?

 

罪悪感が生む自責の念が蠢く。

 

「……、なんでもないです……」

 

「なんだい、変なの」

 

ケラケラと笑う主を見ているだけで、胸が締め付けられる。

全てをぶちまけてしまいたかった。苦しい。怖い。悲しい。恥ずかしい。千の言葉で、自分の思いを伝えたい。

泣き喚いて許しを請えればどれほど楽だろう。

……それが拒絶されれば、ベルはもう、何処にも帰ることが出来なくなってしまうのだ。

自分のつくる鎖で身動きの取れずにいる愚か者が、そこに居た。

その背に刻印を与える作業のさなかも、ヘスティアは言葉も手つきも軽やかにしていた。

 

「うん、うん……順調に伸びてるよ。このまま行けば、ヴァレン某だってあっという間さあ」

 

さり気ない励ましも耳に入らないベルは、ひとつの決意を固めつつあった。

早めに出発する理由として、良心を苛むあたたかい空気から逃れたい思いもあったかもしれないが……。

 

「じゃあ、気をつけて、行ってらっしゃい」

 

「はい、神様……いってきます」

 

与えられる気遣いに報いる笑顔を、自分は浮かべる事ができていただろうか?

扉を開きつつ、振り向きざまに挨拶を残して、ベルは夜の街へと繰り出していった。

 

「…………」

 

扉が閉じられた瞬間、ヘスティアは跳ねるように箪笥へ向かい、外出用の服を引っ張りだす。暗色系の、地味な、それでいてあまり高級感の無い装いに着替えるまで数秒。

一息も惜しんで支度を整えた彼女の目的は、たった一つであった。

 

「ふ、ふ、ふ、ふ……そう、無敵、無敵、ボクは無敵……」

 

意味不明な文言がぶつぶつと繰り返される。ぐるぐる回る瞳を見れば、この女神が正気を失っている事を誰しもが理解出来るだろう。しかしここにそれを指摘する者は居ない。

なぜかほっかむりまで着けたその顔に、数瞬前まで浮かべていた安らかな笑みは無く……剣呑な光を宿す青い瞳と吊り上がる口端が、その狂的な風貌を引き立てるのみだった。

みずからの内と外にある要因により追い詰められた者は、この街の律を侵す事への逡巡など抱いていないのである。

恐ろしいスピードの忍び足で以て一切の足音を立てぬまま、ヘスティアは扉を開けてベルの後を追う。

夜風と一つになり雑踏の中に見える白い髪を追う彼女は、すべての問題を一挙に解決する手段をとっている確信を疑わなかった。

 

「そおだ、ボクぁ、君の事が心配なだけなんだよ。悪い奴と何か企んでるのか、悪い奴にいじめられてるのか、悪い、悪い、……悪い、おんな……女、女だって!?」

 

看板の陰に隠れながら際限なく妄想を加速させるヘスティアを見て、夜の街の住民達がぎょっとしながら通り過ぎていく。

彼女の疑問が氷解するのは、もう少し先のことだった。

 

 

--

 

 

眠そうに垂れた瞼のせいで碌な気概など一見感じ取れなかったが、確かに深紫色の眼光はベルに対する無言の非難を主張していたのだ。

此処最近のように、店じまい直前の時刻に駆け込んだわけでもないので、そんな目つきを向けられる謂れなどあるだろうかとベルは思ったが、口を開くナァーザにより己の浅慮を知る。

 

「あなたん所のグダグダは、気の毒に思うし、ヘスティア様の憂さ晴らしに付き合うのも、ミアハ様の勝手なんだろうけどー……さァ」

 

聞き慣れた粘質な喋り方で皮肉られて、ベルはさっと顔を赤らめ……すぐに青くした。頭の中が真っ白になる。なんと返せばいいのかわからなかった。自分の不始末が波及し無関係の者まで迷惑を被る事実に、小さくその身を縮こまらせる以外の反応を引き出せない。

しかし、ナァーザの指摘は止まらなかった。事の本質を引きずり出す躊躇いなど、彼女は持たなかった。

 

「ベルが、何考えていろいろと内緒にしてるかはわからないけど……結局、神様の事を信用してないから喋れないって事なんじゃあないの?……」

 

静かな声が、稲妻に貫かれたような衝撃をもたらす。自覚するのを無意識に避けていた真実の重みは、第三者によって突き付けられてこそ罪人の心を糾弾する槌として姿を変えた。

塗り固めた欺瞞を一撃で崩された時、その人が取れる反応というのは、概して今のベルの姿が答えの一つだ。

黙って俯く客を見て、ナァーザの胸の奥に小さく、針で刺したような痛みが生まれる。

 

「まあ、他人事だから、私も……そう言えるんだけど、ね……」

 

辛辣な物言いの裏にある罪悪感。確かに自分と同じ貌を見出したからこそ、彼女はベルにとって直視したくないであろう内なる矛盾を指摘したのだ、強かに。

誰もが他者の中に己の弱さや醜さを垣間見て、……時によりそれを嫌悪し、侮蔑する。自分を守るため。

そして、そのような浅ましさをすべて受け入れたくないとも思うナァーザの心情もまた、死すべき者の真実の姿の一端と言えた。

 

「今日は、まけてあげる。……またのご来店を、お待ちしています」

 

来訪を迎える時よりも優しげな目つきになる店員ではあったが、今のベルが見つめるのは此処ではない別のものばかりだった。

出掛けに送られた優しい言葉と笑顔。今日になって明らかに変化した態度は、何も語らぬ不忠者に対しても決してその信は揺るがないと言っているのに等しいものだった。

いよいよ情けなくて涙が出そうになる。

それでも、今すぐに引き返してしまいたくなる衝動を抑えてベルは足を動かす。

誰の目と耳からも秘さねばならないという約定を身勝手な感情で投げ捨てるのは、それこそ這い上がれない最低の場所へ落ちゆく選択だと知っているから。

それでも募る焦りは鎮めがたかった。

意識せずにその足取りを早める程度に。

 

「……幸せなんだよ、ベル。君は」

 

暗く細い路地の果てへ消えるベルと、それをこそこそと追う女神の背を見ながら、ナァーザが零した。

それは、紛れも無く、自分自身へと向けた言葉でもあった。

 

 

--

 

 

「はひい、はひ……」

 

入り組む小道は、街明かりや月の光を拒む日陰者達の意思を体現したようだった。足元の視界も覚束ない暗く狭い迷路を、ヘスティアは駆け足で突き進む。肺腑は軋み、足裏はドタドタと絶えず重い音を上げている。

曲りくねって、幾つにも分岐し、わけのわからんガラクタの転がる道を踏み越え、――――行き止まりに、突き当たる。

ほっかむりの下の表情が凍り付いた。

 

「み、み、み、見失ったァァァ!!??ベ、ベル君んんんーーーーっ!!何処だーーーーっ?!」

 

頭を抱えて己が失態を告白する女神の姿があった。はじめて踏み込んだ旧市街の内部は、ただでさえ足腰の出来の違う少年を追いかけるにあたり、元来ウルトラ引き篭もりな気性を持つヘスティアにとってアウェーに過ぎた。

ベルの影が視認出来たのは最初の何秒ほどだっただろう。それを思い返す気力すら削がれそうになる疲労は、見渡す限りの闇とともに彼女を押しつぶそうとする。しかし、それを跳ね除ける力を生む意思は、未だにその瞳に燃え盛っていた。少々、危うい勢いで。

両拳を握り、天を仰いで叫ぶ。

 

「うがあーーーー!!こんな、こんな障害で、ボクの愛が尽きるかあーーーー!!ベル君、こんな所で怪しい連中とつるんでちゃ、ダメなんだぞおおーーーー!!!!」

 

「うるせえぞ!」「また怪物か?」「酔っ払い!」

 

ヘスティアは間違いなくしらふだった。しかし、目はグルグル回っていた。

希望の光は彼女の歩みを止めさせなかったが、アッパラパーにさせる意図まであったかどうかは、定かではなかった。

 

 

--

 

 

全力で迷子になっているヘスティアにも、そして勿論それを知らず一心不乱に走るベルにも気取らせない尾行術をリリは発揮していた。ダイダロス通りに入っても、灰かぶりの仄かな影を胡桃色の瞳は逃さない。

 

「――――!!」

 

「……ご苦労様ですね……」

 

遠くから聞こえる、小さな女神の絶叫に皮肉を返す。そして、ため息をついた。

それは高い壁に阻まれ、誰も居ない闇の中消え……いや、前方を走る少年の背だけが彼女の確かな標として存在していたが、少年の耳には決して届くことは無いだろう。

 

(というか、何をやってんですか、私は)

 

夜の街を歩く、見覚えのある背中。小さな背中。消え入りそうになっていたあの背中を、またしても追っている自分。その行動の根拠がわからないリリ。

レベル1。冒険者になって、まだ一月経つか。仕える神は、恩寵はヘボヘボで、自分からはロクに行動しない穀潰しで、眷属は累計一人きりの、ちびっ子女神。

オラリオ有数の超零細群団たるヘスティア・ファミリアについて調べれば、そんな目を覆いたくなる彼の境遇が続々と明らかになったものだ。

……わざわざそんな事を調べずとも、壮絶な死線にそびえ立つ、血みどろになったあの背中はきっと幻だったのだと、数日前に理解したはずだったのに。

なのに彼は、またリリの前に現れたのだ。

まるで、迫り来る審判の時から逃れるのを阻むように、迷宮の中で立ち塞がったのだ。

面識があると理解していたのはきっと、自分のほうだけだったのだろうけれども。

鼻に貼ったパッチを、なんとなく撫でる。

 

(変な因縁ばっかり、あなたとは……)

 

昨晩、処刑台に掛けられたのに等しい状況だったリリは、自分を足蹴にする男と相対した少年の変貌までは見えなかったし、どうにか悲惨な末路から逃れる事が出来たのも突発的な要因のおかげだと知っていた。見たこともない、思い出すだけで冷や汗をかく風貌の怪物。はたして取り残されたレベル1の冒険者がどうなるかという危惧さえ投げ捨てて、一目散に遁走したリリである。

這々の体で辿り着いた閨で眠り――――目を覚まして気付いた罪悪感に、胸くそが悪くなったものだ。見知らぬ誰かを勝手に助けて、勝手に危機に陥るのは、お人好しの馬鹿が選んだ結果のはずだ。後ろめたさを感じる必要がどこにある、と。

なのに、焦燥が消えなかった。

会える保証などあろうはずもない、あの日と同じように、小さな背中を忘れられぬまま街へ出た彼女は、自分の愚かさを理解するより先に、見つけたのだ。

いま、決して待つことなど出来ない思いを両足に纏わせているであろう、少年の背中を……。

言い表しがたい波打つ心境を抱いたままのリリは、闇の奥へといざなわれていく。どこへと繋がるのか及び知れない無明の小路へ。

 

 

--

 

 

うっすらと薫る苔のにおいは、彼の者と出会った日にはまるで感じ取れなかったと今更ながらベルは思う。

朽ちた旧水道跡に立ち、割れ目から注ぐ月明かりの中を見渡す。

 

「アルゴス?」

 

返事は無かった。まるで生活感の無い石造りの空間で虚ろに消える呼び声に、少しの寒さを感じる。

やはり、既に迷宮へと発っているのだろうか、と思うが、未練はベルの首をしつこく振らせた。

出来ることなら、誰の耳目に触れないだろうこの場所で話したい事だったからだ。今のベルが抱えているものとは……。

 

「アルゴス――――?」

 

青白い帳の届かない、深い廃路の奥に足を踏み出そうとした瞬間、ピンと張った鼓膜が物音を捉えた。微かな、砂が擦れる音。

振り向く。誰何もせずに、闇の中に身じろぎした小さな影をじっと見据えた。怪訝そうな眼差しが少しずつ険を帯び始めるのに、さしたる時間はいらなかった。アルゴスが何故、このような場所で隠れ住まねばならないのか、その理由を知っているから。

ベルが腰に手を回し、鞘に指を触れさせた瞬間――――その影はやっと、みずからの置かれた状況を打開する覚悟を決めたのである。

その、胡桃色の瞳が煌めくのを認めて、ベルは意図せず満ちていた昂揚が霧散するのを理解した。

 

「君は……」

 

細く、己より少しだけ嵩の低い身体。大きな目と鼻に貼ったパッチによって、やや齢は下かとの印象をベルは受ける。月の下に晒された少女の顔は、フードの陰にあってもただ緊張と当惑に強張っているのが明らかだった。弁解の言葉をひり出す為に思考を稼働させるばかりだった少女の頭脳は、表情筋を動かすのを忘れさせていた。

 

「……ええ、その。先日は、どうも」

 

紛れも無く、精一杯の挨拶であった。リリは、自分の会話の切り出し方がひどく稚拙なものだということをすぐに理解し、心中で盛大に舌打ちした。そも、まさか気付かれてしまうとは……と、何かを呼ぶ声に刺激された好奇心を呪う。

が、彼女の後悔も消し飛ぶ反応が、すぐに上がった。

 

「…………あの、誰、だっけ?」

 

「はい?」

 

冷や汗を垂らしながら尋ねるベルは、対面する少女に負けないくらい、間の抜けた面を晒していた。ぽかんと口を開けたふたりが、暫し、時の流れに置き去りにされたままになる。

闇の奥から飛び出して足元を駆け抜けるネズミが、気まずい空気を破った。

大急ぎで少女の後ろへ逃げていく姿が、ベルの中の記憶と朧気に重なる。ひょっとして、と思い至るもいまいち釈然としなかったのは、記憶の中の体格が、目の前のそれと微妙に一致しない事に因った。もう少し、小さく、細かった気がする……。

しかし、真っ直ぐにこちらへ向けられる瞳の色によって、どうしてもベルは自分の中に芽生えた疑念を確かめたくなる。

 

「ひょっとして昨日の」

 

「――――まあ、そういう事です。気難しい御仁と組んだせいで、とんでもない目に遭う所でした。で、今日にきて、あなたを街で見かけまして……お礼の一つでもしようかと」

 

ひどく虐げられていた少女。結局どういう因縁があったのかは聞きそびれてしまったし、あまり愉快でもない記憶ではあったが、それでもどうやら無事に済んだらしいとだけは理解出来たベル。いちいち仔細まで問いただす気も無かった。

実際のところ、ふたりの初邂逅についての認識の齟齬は確かに存在したが、少女――――リリは、いちいちそれを指摘しなかった。まあ、あの時は相当切羽詰まっていたのだし、忘れていたのだとしても致し方無い事だろう、と。さて置き、自分も随分とおかしな事を口走っているものだと思う。考えてみれば、いずれの出会いにおいてもその危機に引きずり込んでくれたのは目の前の少年に他ならないではないか。昨日だって、あの瞬間の再会が無ければきっと大事なく自分は逃げ切れていただろうに、とも。何故だろうか。

 

「お礼なんて、されるような事は……してないよ」

 

謙遜には感じなかった。伏せた目を逸らす顔からは、悔しさと無力感が滲んでいるように思えてならなかった。

それが仄かに、リリを苛立たせる。何故だろうか。

 

「いえ。助かりました。あなたのおかげで」

 

「……そっか。それなら、良かった」

 

翳りを全て打ち払うには至らないものの、少しだけ胸の内が軽くなったようにベルは思った。

断言しながらも自覚できない感情の波を無意識に抑えつつ、あまねく冒険者に警戒心を抱かせないよう訓練された笑顔を浮かべるリリは、そのまま話を続けることを選ぶ。

 

「改めまして、本当に、ありがとうございました。うだつの上がらない、サポーター風情でも……ゴミ拾い、なんて言われたりもしますが、自分の命まで拾うのは、なかなか難しいもので」

 

「うん、わかるよ。一人だと……」

 

形式張って感謝の念を伝えながら戯けてみせる。その軽薄さとも取られかねない態度も、警戒心を薄らがせるのには充分のように見えた。

少し口ごもった隙を突くように、少しの強引さを発揮する事をリリは決めた。純粋に疑問符を浮かべる表情をつくり、会話を続けていく。

 

「いつも、お一人でやってらっしゃるんですか?」

 

「……そうだね、今は一人で」

 

「何かと、苦労なさるでしょうね」

 

ベルの返事の歯切れの悪さとは不慣れな虚言に由来していたが、過日の醜態を知るリリにしてみれば成る程、口が軽くなるような事実ではないだろうとの認識を得るにとどまる。

肉体のみではなく、その精神も容易に蝕む孤独という病。それに耐えられるのは、もはや減らすほどの人間性も残っていない者だけなのだとリリは知っている。

 

「僕みたいな新参じゃ、なかなか相手にしてくれる人も居ないから……仕方ないよ」

 

はじめてこの街にやって来た日……どのファミリアからも門前払いを喰らい、途方に暮れて彷徨う記憶がベルの頭の中によみがえる。

命を賭けた食い扶持の奪い合いの場において、誰だって役立たずなんか欲しくない。温情とは、自分にとって真に大切な存在以外に分け与えても、決して報いが得られるものではないのだから。

 

「けれども、あぶれ者同士、手を取り合う余地も残されていない訳ではないでしょう?」

 

「?」

 

過去へ飛びかける思考が呼び戻された。意味を理解する間も無く、リリの口がまた開く。

 

「私で良ければ、お手伝いさせていただけませんか」

 

「へええっ?」

 

素っ頓狂な声を上げてしまうベル。そこまで驚く事かと思いながら、あまりの反応に素でおかしくなってしまい、リリの口端が緩んだ。

 

「昨日の人とは、もう組めませんし。ゴミ拾い一人じゃ、なんともなりません。助けていただいたついでにもう一つお力添えして貰えたら、嬉しいのですが」

 

そのように宣う彼女自身は、やはり自分にそう言わせる根拠を掴みあぐねていた。もっと、マトモな金づるを探すべきではないのか。いかにも唐突で、不自然な提案ではないか。迂闊だ。いつもの警戒心はどうした。笑顔の裏の自問自答は、決して目の前の人間には悟らせなかった。

リリの葛藤など露知らずに、ベルは眉間に皺を刻んで考え込む。

 

「う、……」

 

本音を言えば、彼の心を占めるのは、嬉しさだった。助けた女の子が、力を貸してくれるという。まあ、色々と彼女なりの事情があるのだろうとは思うが、それは置いておくとして……。近ごろ消えかかっていた祖父の教えが息を吹き返すのを感じるが、それを考慮しなくても、純粋に自分という存在が認められたようで嬉しかったのだ。

しかし、そのまま二つ返事で了承する自分を看過できない理由もまた、あった。

 

(アルゴスの事は、どうしよう)

 

その存在は誰にも明かすべきではないのだ。ならばと思いつくのは、彼に対しては事の次第を告げ、交互に協力して探索する、という形式にでもしてもらうか。

 

(でも、この娘だって稼ぎに来てるわけだろ)

 

……これ以上、身勝手を通すのは、彼自身の良心も限界だった。器量の小ささを隠す狡さも、今のベルには許せなかった。

結論はひとつと決めるのに、さしたる時間は掛からず……ベルは、顔を上げた。

 

「まだ、一緒には行けないんだ。まだ、ひとりで戦えるだけの力があるって、思えなくて」

 

「……そうですか?でも、昨日は」

 

ベルは、首を横に振った。

すべてを語る事も出来ない。それは不誠実さと言えるのかもしれない。今の彼の限界が、そこにあった。

 

「正直、……上手く言えないけど、自分の面倒も怪しくて……今のままだとこっちが足手まといになっちゃうから、もう少し、時間が欲しい」

 

「もう少し、ですか」

 

「うん。それで、その時、君と一緒に組めるようになったら……」

 

それはいつなのだ、と期限を問う事の出来ない問題なのだと、リリはなんとなく察した。ベルの中にある奇妙な何かの片鱗を垣間見たからこそ。

 

「ここがダメだと思ったら、言って欲しいんだ。僕、ただ我武者羅にやってるだけで、何とか今は持ってるけど……ここでの探索の仕方だとか、そういうのはまだ、全然だから」

 

そりゃあ、一月もやってない新米でしょうしね、とは、リリは返さなかった。ただ、真摯な思いを告げるベルの、真紅の瞳を見つめていた。

 

「でも、……君の命を守る盾としてなら、せいぜい使えるように働くつもりだから、さ」

 

いつまでも、誰かに頼れない。自分が誰かの前に、あるいは背を合わせて立ち、戦う事を知らなければならないのだと、ベルは思っていた。そして悲しいことに、今の自分は決して、それを成し遂げるに足る力を持たないのだとも。

 

「……」

 

リリが思い出すのは、遥かに格上の相手を圧倒し、恐怖させ、残虐に誅した処刑人としての姿。遥かに格下の相手に圧倒され、恐怖し、危うく命を絶たれそうになった敗残者の姿。

どちらが、目の前の少年の真の姿なのだろうか?

知りたかった。

それこそが、近ごろの自分を突き動かす奇妙な衝動の正体だと、いまリリは理解した。

胸にすとんと落ちるものを感じながら、笑みが零れた。作ったものではなかった。

 

「振られてしまいましたか」

 

「うっ」

 

少し意地悪な言い方をして、たじろぐベルの姿を楽しむリリ。

 

「いや、あの、君みたいな可愛い女の子が一緒にやってくれるなら、そりゃ本当に、嬉しいよ。これは絶対に本当!」

 

結論こそ祖父に叩き込まれた教えに反していたものではあったが、身に染みこんだ常識によって……その、ものすごく惜しい事をしちゃったんじゃないかとの思いがベルの中に渦巻く。必死で取り繕う姿が、更に滑稽だった。

リリの大きな目が細まり、妖艶な印象すら浮かばせるようにベルには思えた。仕えるべき主の輝くような笑顔や、何かと世話を焼いてくれている職員の知的な微笑みなどとも異なった魅力に、胸の鼓動が高鳴る。なんというか、今の自分が抱えるものを差し置いて、無節操なものだと心のなかでぼやきながら……。

 

「フ」

 

薄い唇から、ため息とも笑いともつかない声が出た。袖にしておいて口説き文句を垂れる不可思議な挙動。図太いのか、何も考えていないのか。あの凶悪さも情けなさも、本当に同一の存在が秘めている代物なのか疑わしくなる。

変な人だ。とても、変な人だ、と、リリは思った。

 

「仕方ありませんね。今日は、おとなしく引き下がりますよ」

 

なぜだか、清々しい気分だった。底抜けのお人好しか、ただの馬鹿か――――その両方だろう少年との僅かな会話は、虚言と欺瞞に満ちた掃き溜めを生きてきたリリにとって、毒気を抜かれ過ぎるものであった。だが、不快感は、あまり無かった。

むしろその終わりに少しの寂しさを感じる程には、名残惜しさを覚えていた。

 

「ごめん。次会った時には、もう少しだけマシになっておくから、さ」

 

「期待してますよ?」

 

次とは、いつだろう。その言葉に、どんな保証があるのだろう。交わす言葉の内包する空虚さも、しかし、いまのリリには遠いものに思える。

いつか、きっと。いつか、きっと……そう信じ続けて生きてきて、久しく忘れていた……いや、最初から存在しなかったかもしれないものは、確かに今の彼女の中でその輝きを取り戻しつつあった。異性へ抱く懸想のような甘ったるいものの萌芽なのだろうか。それとも別の何かが発するものなのだろうか。

そのどちらであったのだとしても、どちらでもあったのだとしても、彼女はじわりと、その存在への愛しさを感じていた。

 

何時訪れるか知れない淡い期待を齎す出会い。このままこれが何もなく終わっていたなら、それはリリにとって幸福だったのだろうか?

それは、この世界の誰にも計り知れない事だった。

万物の辿るべき、定められた運命を知る方法……そして、それを覆す方法は、遠い昔、時間の意味すら持たない程の過去において、永久に失われていたのだから。

 

 

--

 

 

 

息も絶え絶えとなったヘスティアは、それでも全身を突き動かす使命感を失わずに、気付けばこの旧水道へと足を踏み入れていたのだ。それは、誰かに導かれたものなのか、はたまた彼女に言わせるところの何者にも断ち難い絆が成した奇跡なのか、誰も知り得ない。ともかく、彼女の目前に、その光景は現れた。

月の光を浴びながら対峙するふたつの影が……。

 

「!?!?!?」

 

ヘスティアの見開かれた目が、確かにそれを捉えていた。疲れ果てた身体は、決定的な場面においてその五感と推理力(妄想力とも言う)を極限まで研ぎ澄まさせていた。

大事な大事な『子供』と向き合っている小柄な輪郭。フードの下に覗く顔。大きな瞳、柔らかい曲線を描く頬。

瞬時に導き出された確信は何者の異論をも退ける重みで、ヘスティアに突き付けられる。

女だ。

女だ。

お・ん・な、だ!

 

「それじゃあ、また……」

 

「ええ、また」

 

また。

また。

また、また、また……また!?!?

ふたりの口にする言葉が、ヘスティアの頭の中を埋め尽くす。パンパンに詰まった脳内のそれは一瞬で弾け、彼女の逞しい妄想を第二宇宙速度に匹敵するスピードで彼方へとぶっ飛ばした。

こんな、暗がりで、一組の男女が密会して、いったい、…………何を!??!

 

『心も、肉の器と繋がっているのよ』

 

幻聴は弔鐘にも等しく幾重にも――――かつてなく悲壮的な音色で響き渡り、虚空へと放り出された彼女の意識を絶望の底へと叩き落とす衝撃を与える。

そう深く傷ついた可愛いあの子は癒やしを求めて行きずりの女と……あ、あんなことやこんな事を。下唇を噛んで、瞳を眼孔の裏側までひっくり返す彼女が見るのは、全裸になってベッドの上に女を侍らせる眷属の姿。女どもも全員裸だ。フレイヤが居る。ハーフエルフ君が居る。ヴァレン某も居る。なんで!ボクが!居ないんだよ!?超むかつくう!!!!

情動の全てを混沌の怒りに染めたヘスティアは、その荒ぶる魂の命ずるまま二人の前に飛び出した。

 

「ベル君ンンンンンン!!その、その娘は誰だあーーーーっ!?浮気は許さんぞおおおおオオオオ!!!!」

 

「は、!?」

 

「ええ!?神様!?な、なんでここに??」

 

鼻の穴を膨らませて絶叫する主の登場は、完全にベルの理解を超越した事象であり……身体をびくんと跳ねさせて、平凡極まる疑問を返すのみだった。リリとの会話ですっかり冒険者としての佇まいを緩めていた今の彼は、ただ保護者の怒りに戸惑う『子供』そのものの姿しか象れなかったのだ。そのほっかむりはなんですか?とまず思う有様である。

当然、同席するリリも概ね同じように硬直していたが、少なくとも状況の把握にあたっては前提を異にしていた。それなりに入り組んだ道程であったろうに、どうやってここまで辿り着いたんだろうか?と思った。単なる山勘の生んだ偶然だという見地には、そう至れない。

とにかくそうやって立ち尽くす二人の姿はまさしくヘスティアにとっては、後ろめたい場面を抑えられた不埒者どもの狼狽としか映らなかった。怒りその他の感情によって顔面は真っ赤に染まり、拳を振り回し地団駄を踏んでその思いの丈をぶち撒ける。

 

「ふんヌおおおおオオオオオ!!何故だ!何故!何でこんな事があああ!?どおしてだよおおお、ボクはこんなに君が好きなのに、どうして別の女なんかああああああっ、あっ、あっ、かはっ、ひっ、うっ、うっ、浮気なんてっえっ、ウソだあ、夢なんだあ……」

 

「違っ……おち、落ち着いて、神様!浮気って……あのですね、この娘とは昨日会ったばかりで」

 

「嘘だあああああああ男はいつもそう言うってゆってたあああああああああうわああああああああああ!!」

 

「誰が!?」

 

大噴火する主を止める手段を、ベルは持たなかった。テンションの乱高下に合わせ爆発する有様に辿々しく弁明し、それが更なる癇癪の呼び水となる繰り返しだった。嘘ならすぐそうとわかるはずの絶対者の混乱ぶりとは、それほどのものを失うかもしれない不安の大きさを容易に感じ取らせるものだ。

終いには女神の眦に光るものが浮かんでくるに至って、もはやこの修羅場を収拾する手段は永遠に失われるのではないかとの危惧もベルは抱いたが――――当事者の一人が、冷えた目で全てを見渡しているのに気付かない。

 

(大事なんですねえ)

 

何かが勢いを失っていくのを感じた。

当人達にとっては極めて切実な、(些か一方的ではあるが)生の感情のぶつけ合いも、第三者たるリリの目には、誰よりも互いを思い合う者同士の痴話喧嘩としか映らないのだ。

 

その光景は、その光景を作るものは、自分が決して得ることの出来ぬものであると、リリは知っていた。

 

ほんの数秒前まで彼女の中に揺らめいていた何かは、風に吹かれた蝋燭の炎のように他愛なく消え去っていた。

代わりに、どうしてだか、粘質で、淀んだ、昏いものが滲み出てくるのを感じる。

それは彼女にとり、とても馴染み深いものだった。

フードの下の胡桃色の瞳を覆うそれは、いつだってリリの目に映る全てのものに、たった一つの注釈を与えるのだ。

 

(結局、私とは違うところに居るひとなんですよね、あなたは……)

 

ぎゃーぎゃーぴーぴー騒ぐ主への後ろめたさと、その悲劇的な妄想を打ち払いたくあらゆる手立てを案じる苦難で困り果てている少年が、他の何もかもを忘却しているのは明らかだった。

自分は、何を期待していたのだろうか。何か、を期待していたのだと、リリは理解した。

想像するのもバカバカしい、何か、を。

冷笑に歪む口元は、少なくとも、彼女の前に居る二人が気付けないほどの仄暗さを湛えてはいた。

さて置き狂乱の渦でもがく主従は、白熱する問答にのみ没頭していた。リリの見立てと違わずに。

 

「お願いだよ見捨てないでくれよううううううクビになったの取り消してもらうからああああうああああああああ」

 

「見捨てっ……!」

 

取り乱しきった主の懇願で、いよいよベルは言葉を失った。直後の不穏な供述も耳に入らなくなる驚愕で、頭が真っ白になる。

 

(見捨てる、誰が?誰を?)

 

鳩が豆鉄砲を食ったような表情のまま、全身を停止させるベル。

このひとは、何を言っているんだ。そんな事、世界が滅びたって有り得ないのに。心の底から、そう思った。刹那の硬直は、その思いを如何に伝えるかを逡巡する為の猶予にすぎなかった。

 

実際、ベルがそれをそのまま口から発する事は、無かったのだけれども。

 

「きっ、君がっ、君がっ居なくなったらっ、ボクぁっ、…………っ!?」

 

「……?」

 

ヘスティアの大口は、突如その口上を中断した。涙を浮かべた瞳は瞬きするのを忘れ、対面する眷属のほうを向いて目一杯に見開かれる。振り回していた両腕が、おかしな角度で止まった。

主の豹変をすぐに察知したベルは、その青い瞳の先にあるものを突き止めた。自分の、後ろ。

 

「ひっ、いっ」

 

身を翻すと同時に耳に入る、甲高く詰まった……聞き覚えのある叫び声。それの発せられた元が、いったい何を見て、どんな感情を抱いたのか、ベルはもう、わかっていた。

ベルの横で、逃げ腰のまま足を震わせるリリの頭からは、持たざる者の粘着く感情など消し飛んでいた。

 

宵闇も届かない場所で、物言わずに立つ異形の青い双眸に射竦められる者達は、ただ驚愕だけをその顔に浮かべていた。

 

「なんで」

 

「……」

 

弛みと瘧で不均衡に歪んだ顔を見つめても、ベルは自ら発した問いの答えを掴めない。この街の片隅でひたすら身を隠し、ただその時を待ち続ける事を選んだ男の望む状況ではないだろうに、と思えば……。

それを口に出して聞く事自体も下策極まるに違いなければ、もはやベルは何も語れないのだった。

誰もが口を開けて言葉を忘れる時間が生まれる。打ち破ったのは、この場における唯一の絶対者だった。

 

「だ、誰、かな。この子と、……ベル君の、知り合いなのかい」

 

「……一緒に゙、迷宮゙に行っでる」

 

リリが真に驚愕したのは、この、自分と齢を近く見せる少女の姿そのものの女神が、目の前の怪物を意思疎通が可能な存在と看破した事に他ならなかった。

と、言うか……。

 

「に、人、間……なんです、か」

 

「……」

 

「ひ」

 

巨大な右目が、ギョロリと動いてこちらを見やる。両生類や爬虫類を連想させる仕草に、リリは息を呑んだ。迂闊な失言と後悔する余裕も無い。そこに居るのが間違いなく昨日、あの命の危機において現れた謎の怪物そのものだと理解している彼女は、ただ恐怖の虜となり身を凍りつかせるだけだ。

 

「待って、この娘は……」

 

ベルの釈明は僅かに言い淀められた。この娘は、何なのか……いや、それより、なぜアルゴスが姿を現したのかという疑問の答えも得ていない。そして、主には何と説明するべきなのかも、まだ整理がつかなかった。

だが、まとめて押し寄せる事象の処理に、ベルが労力を払う事はなかった。

アルゴスは大きく頭を振って、裂けた口を開く。

 

「黙っでで、悪いが……ぜんぶ、聞いでだ」

 

「……案内するために、ここに来たわけじゃないんだ。僕は……神様に話して良いのか、聞きたくて」

 

「待で」

 

巨躯と不釣り合いの細さを印象づける右腕を掲げて、ベルの言葉を制止するアルゴス。

 

「先゙に、おでから、話してえ゙んだ。いや゙、話すべき、なんだろ゙う」

 

「…………」

 

屈み気味になってもその背丈はヘスティアが充分見上げねばならないほどに高く、横幅は少なくとも、あの小さな居の扉をくぐれないだろうほどにはある。どう見たって、穏やかな対話など望むべくもない外見だがしかし、そこからヘスティアは少なくとも敵意を感じ取れなかった。

老人のように乾いた肌と、幼子のように澄んだ瞳を向ける目の前の男が如何なる存在であるか、愛する『子供』との会話から幾許かの理解を得てすらいた。

彼は何を話すのか、彼に何を問うべきなのか、身体は硬直しながらもその頭脳は全力で稼働する。

剥き出しの歯が動くのが見えた。

 

「神様゙、こいづに、黙るように言っだのは、おでなんだ」

 

「君は、」

 

ヘスティアは見た目に相応しい低く重いがらがら声を耳にして、更に萎縮するリリとは対照的にその佇まいを改める。闖入者を迎え撃つためにかとっていた変なポーズから、直立して両手を腰の横に当てる姿勢に。顔と胴は、同じ方を向いて。

 

「訳あり、なんだね?」

 

「……あ゙あ」

 

一語で以て来歴のすべてを問い質され、アルゴスは頷いた。至尊の存在の前に、言葉の偽りは無為に等しい。そしてヘスティアにとって重要なのは、何処から来た誰なのか、などではなかった。そんなものは、彼女の心を平らかにさせるうえで何の拠り所にもならないのだ。なぜ身を隠して住まわねばならないか、なぜ黙るよう言伝ていたか、……その外見が疑問の答えを推測するのを容易くさせるのは、ヘスティアの場合にしたってそうだ。しかし、彼女にとってその真偽などどうでもよかった。

 

「何よりも、まず聞きたい。君は――――」

 

伸ばした背筋と、一寸の振れもなく相手と視線を突き合わせる瞳を持つ姿は、それを傍らで見るベルにとって紛れも無く――――少なくとも、己のように吹けば揺らぎ崩れそうになる精神性などとは無縁のものに映っていた。

 

「君は、ベル君を害しようとしているわけではないと、言えるかい?今も、これから先も」

 

静かで、強い意思を込めた言葉が、誰しもの耳をうつ。

曖昧な答えを許さない問いかけである。真実、この女神の知りたい事はそれだけなのだ。少なくとも、今、この場では。

 

(神様……)

 

無音を煩く感じるほどの張り詰める空気は、いつしかそこに顕れていた。其の只中にある少年は、ただ拳を握る。不安ではなく、改悛に突き動かされるままに……なぜ、自分は、これほど情の深い主相手に口を噤んでいたのかと。

そんなベルの姿を置いて、拉げた粘土細工のような顔面を持つ男は、決して小さな女神から目を逸らさずに、口を開いた。

 

「言え゙る。おでの神様゙に、誓ゔ」

 

一片の翳りも含まずに、アルゴスは言い放つ。

その答えが真であると理解するのに、これ以上の問いは不要とヘスティアは知った。

 

「信じるよ」

 

語られる来歴がそのひとの性情を推し量る最も大きな役割を果たすのは、あくまでも尋常の理においてなのである。ヘスティアは――――少なくともこの場でこれ以上の――――詮索はしなかった。神の住まう街に生きる者が幾千も居れば、その歩みも等しい数だけあるだろうというわけだ。

どうあってもこの男は、ともに迷宮へと征くという大切な存在に仇をなす者ではないのだ。その一点だけで、信を置くには充分すぎた。

そうなれば、この場で彼女のするべきと思うことはあと一つだけだった。

決意の深さは、暫しの瞑目が物語る。

 

「ベル君は」

 

向けられる顔に非難の色を見出すのは、自分に疚しく思う心があるからだとベルは思った。まっすぐに見つめてくるだけの目を恐れる弱さなど、今すぐに消えてしまえばいいのにとも。

 

「どうして、この子と一緒にやろうと思ったのかな」

 

この子、と来たもんだ。神にとって姿形とは所詮、魂を詰めた肉塊として等しく見えるのだろうか?と少し離れて控えるリリは思う。自分が蚊帳の外に立っているのを理解した彼女は少しの冷静さを取り戻していた。口を挟む野暮を知る以上、黙する以外の事はしない。ただ、胸の奥に、寒さを感じた。自分には関係無いと言い聞かせても、それを忘れられないのが不快だった。

 

「……」

 

はたして部外者の心境など、見つめ合う主従の頭には無かった。ただ、その時が来たのだという事実だけが、ベルの頭を占めていた。

後で、いつかと先送りにしていた懸念がもしも、何の前触れも無く突き付けられていたならば、最も慮るべき存在を蔑ろにしていた報いにただ頭を垂れ打ちひしがれるだけだったかもしれない。後ろめたい隠し事を暴かれた小さな子供のように。

しかし、そうはならない理由があった。自ら明かさねばならないという決意は、既に彼の中にあったのだから。

こんな、弱い自分でも、力を貸そうとしてくれる者が居るのだと、知っていたから。

大きな青色の眼光は、顔を上げて見つめ返される小さい者に何の意思も伝えない。

ただ、出会った時と同じ、どこまでも穏やかで、果てなく広く……その色を湛え続ける揺り籠のように、ざわめこうとするベルの心を鎮めていくようだった。

 

「今のままじゃ、ダメだと思ったんです。強くなくちゃいけない、一人でも戦えるように、立って歩けるように……ならなきゃいけないのに」

 

それが泣き言に過ぎないのか、問われたから吐き出すだけの弁明なのか、紡ぐ本人にとって区別のつかない言葉だった。ただ一つだけ……最早それを隠し通す事とは単なる背信に過ぎぬのだという確信が、主への後ろめたさに抗う力を与える。

 

「約束一つ守れず……ただその過ちを悔いて、取り戻そうとして……足掻いても足掻いても、答えがわからなくて、どこまでも転げ落ちて行きそうだった……」

 

ベルは、思い出していた。傍らで、自分の告解を見守っている男との出会いの事を。

ほんの数日前、この場所で起きた事を。

瞑目する少年の沈黙は、彼を中心にその空間を塗り替えていくように広がる。

 

「…………」

 

ただ、流されただけなのか。憐れみに縋り付いただけなのか。

アルゴスはたまたまあの時、ここに居ただけだろう。それに対して抑えきれない、苦悩の迸りをぶち撒けた。ただそこに居た、知らない誰かだったから。黙って聞いてくれていた姿に見出した慈悲など、ただの幻影なのだろうか?

ベルは、そうは思いたくなかったけれども、しかし、そうであったのだとしても、何よりも立ち上がろうとする自分自身に対して不実を重ねるのは我慢ならなかった。

赤色の双眸がまた、主に向く。

 

「彼――――アルゴスが居なければ出来ない事なのか、は、わからないです。けれど」

 

闇の底へ沈んでいくだけの自分へ示された、最後の何か。ベルがアルゴスに見出したもの。

それは何なのか、わからない。誰が与えたのかも、わからない……彼が理解している事など何一つ、あるだろうか。

 

「自分の力で……自分を無くさずに、一番大切なものを忘れることなく、戦えるようになりたいんです」

 

それでもただひとつだけ、わかっている事があった。

真っ直ぐな眼差しを向けてくる、少女の姿をした、たった一人の家族。ベルは、今自分の感じる事の出来る世界における、唯一の存在として、ヘスティアの事を見つめていた。

 

「神様と一緒に居るのに、ふさわしい存在になりたいから……」

 

言葉とは、決して人の手で触れ得られない、心という概念に対してすらどこまで漸近できるのか、ベルにはわからない。

ただせめて、自分のこの気持だけは曇りなく伝えられたらと切に願う。新たな家族に対して示せる、唯一の誠意として。

誰にも恥じることのない姿でありたいという思いは、つまらない見栄と謗られようとも、中身の無い絵空事と断じられようとも、彼の偽らざる本心だったのだ。

 

「……」

 

人ひとりの胸に潜む言い尽くせぬ澱の数々をかき分けて掴み出されたものに対し、さてはこれは、プロポーズというやつなのか!?などと浮かれてはしゃぎ回るほどの分別のなさは、ヘスティアも持っていない。その程度の重みを確かに感じ取っていたから。

その理解力の範疇を超越した、……何か、極めて大きな不安を予感させる……数奇な運命を内包しているように思えてならない少年が出した、精一杯の答え。何もわからないまま、勝手に決めて、勝手に進もうとしたのか、と叱りつける事だって、彼女のとるべき選択としては、正解の一つでもあっただろう。しかし……。

 

「……」

 

『子供』の抱えてるであろう数々の問題とは、まさしく己にも等しく課せられるべき重荷でもあったはずなのだ。

なし崩し的に全てが暴かれた――――その切っ掛けが自分の暴走じみた決意であった事にはヘスティアも気づいてはいたが――――この場所で、どうして一方的な非難を投げつける資格を得られるだろうか?

捻れてしまった信頼関係を見つめなおすのを恐れ、怠惰にも全ての忘却を期待していたのは、どちらも同じことだったのだ。すべて、まぼろしであったなら、どれほど楽だろうか、と。

それは今、確かに両者の間で共有された真実だった。

言葉の途切れた空間で交わる主従の視線は、此処に在る者達に時の歩みを暫し、忘れさせていた。

 

「わかった」

 

短い返事だけを口にしたヘスティアは、首の向きを変える。弛みと瘧に歪んだ、大きな顔へ。

 

「ボクの『子供』の為と思うことを、君の好きなようにやってくれ。アルゴス君」

 

いかなる逡巡も含まない声色で言う。少なくとも、表面上はそうだ。死すべき者にとってはそう聞こえた。

 

「――――おでに出来る事゙なんで、大しだ事じゃ、ね゙えと思うけど、な……」

 

隙っ歯が顔を覗く瞬間、青い瞳が少しだけ動いたように、ヘスティアには見えた。その揺らぎが、此処に居ない何者かの姿を見出しての事とは、流石の神といえども見抜けはしなかったが……。

ともかく、張り詰めていた糸が緩んだ気がして、少し固形化した吐息を漏らす。他意なく、疲労がそうさせたのだ。半開きの口が崩れる。

 

「こんな神様じゃあ、皆に侮られるのも、当然だとも思っちまうかい、ベル君?」

 

「そんな」

 

主が柄にもない卑下を見せつけるのに、黙ってはいられなかった。ベルの、無意識に抑圧していた思いの丈が溢れそうになる。

 

「僕は……何も伝えないのが一番いけないって、わからなかったんです。自分が恥ずかしくて、許せなくてっ……」

 

震える声。不安と恐怖を宿す真紅の眼光。握られる拳。

喉が粘着く水で満ちそうになるのを必死で堪えて心情を吐露する姿は、主に対して、腑に落ちる安堵を齎した。

 

「そりゃ、ボクだって同じだよ。……ああ、駄目だね、面倒な事を放っておくから、苦しい気持ちになるんだ。簡単な事だ……ちゃんと話せば良かったんだ。君の事を縛り付けて、そのままにして……どうしようもないねぇ、まったく」

 

は、は、は、と、腰に手を当てて笑う。虚勢だ。だが、必要な事だった。

 

「……色々とまぁ、あるね、気になることは。そいつは……ボクが何とか、調べてみるよ。だからね、ベル君は……自分の出来る事だけ、自分のしたい事だけ、考えるんだ。何もかも抱え込てちゃあ、駄目だぜ」

 

死すべき者は、その腕で抱えられるもの、背負うことの出来るものも限られているのだ。そんな事すら忘却していた身でようもほざくかと自分で思うが、そんな不甲斐なさ等、この子は知るべきではないのだとヘスティアは思った。

自分の弱さに打ちひしがれ、それでもなお必死で立ち上がろうとしている『子供』。赤い瞳に灯りかけている光が、どうか消えぬようにも願う。

 

「なっ?」

 

「――――はい」

 

『子供』が感じる負い目は、傲慢なのだろうか。当人には決してわからない。言えるのは、今から変えられる未来において、きっとあれで正しかったのだと思えるように歩を重ねていくしかないという事だ。

今の自分は、どんな物をも覆しうる力を持たない。

けれども、必ず……。

ベルはそう、心の奥底で固く思うだけだった、主への感謝と等しく……。

 

「……あぁ、おほん。それでだ。うーんと、……失礼。キミは」

 

なんとか、一段落つけたとばかりにヘスティアがリリに話を振った。割りとほったらかしにした以上、少々のばつの悪さを感じてはいる。

漂う気まずさを吹っ飛ばす言葉を少女が紡ぐまで。

 

「ええ、そのかたが、良い事をするのにお誂え向きな場所があると言ってここに」

 

「ぇあァ!?なななな何やっぱりベル君キミはぁあああ!?!?」

 

「ちがっ!違いますよっ!!ちょっと君も、なんだってそんな嘘つくの!?」

 

また焚き火に放り込んだ栗のように暴れ始めた女神の姿に、リリは暗い溜飲が少しだけ下がる思いだった。俯き口角だけ上げる表情は、ベルの目には悪戯を成功させたほくそ笑みにしか見えない。

 

「冗談ですよ神様……ちょっとした御縁があって、お力添え出来るか尋ねたんですけれども……どうやら、私の出番は無いみたいで」

 

「はぅ?」

 

傾いだ首を上げて含み笑いを漏らし、食いつかれるベルから一歩退くリリ。肩をガクガク揺らされていたベルは、抜けた声をあげる主と同じほうを向く。

 

「またの機会に、ですね」

 

「あ。その……名前を、まだ」

 

亡き祖父が居れば遅すぎるわ!とでも叱咤しそうな台詞だが、別にやましい心に基づいたものではない、多分。いつかまた、というのならば、ごく自然な問いであろうとベルは思う。

が、それは叶わなかった。

 

「名乗るほどの人間じゃあ、ありませんよ」

 

俯き気味になって首を横に振る少女は、溢れ出そうなものに蓋をするのもそろそろ草臥れる頃合いだと感じていた。言葉に出来ない、ふつふつと沸き立つその黒いものは、今にも胸を食い破りそうに思える。決して理解してはいけないし、受け入れてはいけない、どんな方法でも洗い流すことなど出来ないそのどす黒い何かは……。

少女の葛藤など露程もわからないベル。あっさりとかわされた彼の中に次いで芽生えたのは――――不安だ。

秘しておかねばならないものをこうして晒してしまったのは自分の不覚なのである。それを贖う義務は自分にしか果たせないと、強く感じた。後ろに控える青色の光を意識する迄もなく。

恥も外聞も、今のベルには必要なかった。少女が踵を返そうとするのを見て意を決し、声をかける。

 

「あのっ。ここで見たことは、誰にも言わないで欲しいんです……お願いです!」

 

「……」

 

なんと情けない姿だろうか。しかし眉尻を下げて懇願するさまは、酩酊の末の無気力さゆえではなく、ただそうしなければという意思の賜物だということくらい、リリにもわかった。それが、更に内なる何かを刺激する。じりじりと弱火で焦がされているような錯覚を抱く。その何もかもを吐き出せれば、どれほど楽だろうか。

どれほど、惨めだろうか。

自嘲を堪え切れずに歪む口から、渾身の思いで言葉を紡ぎ出した。

 

「……別に、誰ぞに言いふらすほどの事でも無いじゃないですか」

 

脛に傷持つ者など掃いて捨てるほど溢れ返る、この街で。それに……。

 

「――――っ……」

 

そんな事を伝える相手だって、自分には居ないのだ。そう続ける事も出来ずに、少女の身体は月影から離れる。

心の底から生まれた真実を言い残したリリは闇の中へと駆けていく。振り返ることもしなかった。

異形の光らせる青い瞳への恐れと、……それ以外の何かを振りきりたかった。

自分は最初からひとりで、かれらは違った。それだけだと言い聞かせる。

それは決して揺るがない事で、何も思う事も、無い。あってはいけない。

あたたかいものとは、それが無くなったあとに残される冷たい現実に耐える方法など決して教えてくれないのだから。

枯れた水道の果てに仄かな街明かりを見出そうとも、リリの中で凍り付き、なおも蠢く闇は決して晴れなかった。

 

「……」

 

――――見送った者達の沈黙が、そこに残っていた。

 

「ベル君。どこの『子供』かも知れないのに手を出そうなんて、考えてくれるなよ。ロキなんかヴァレン某に手を出す奴はちょん切ってやるとか言ってたんだからな」

 

「しませんって、だから違うって言ってるじゃないですか!」

 

別れの余韻も霧散させてしまう空気が醸成されていたが、その最中であってもベルは仄かな寂しさを抱いていた。また、会えるだろうか?

どんな事情があるかはわからないが、彼女も彼女なりの背負うものがあり、この街で生きている者の一人で……助力を申し出てくれた、数少ない奇特な輩の一人でもあった。

そしてそのうちのもう片方が、黙って闇の奥を見つめていることに気付く。

 

「あの娘は――――」

 

「……いい゙。出て来だのも、話しだのも、おでだからな゙……」

 

はからずも無関係の人間を連れて来てしまった不始末をアルゴスは咎めなかった。少女を信用しているのか、また別の思惑があるのか、ベルにはわからない。

 

「さて。それでだね、今晩はどうするんだいベル君。これからこの子と一緒に行くのかな?」

 

「はい。そのつもりで来て……」

 

「そうかそうかそうだったのか。あの娘も紛らわしー事をしてくれたなハハハハハ、ハ、は。……いや、そうじゃなくてだね、ちょっとアルゴス君と、もう少しだけ話したい事があるんだよ。ベル君は先に行っておいてくれないかな」

 

一番大騒ぎしていた失態を誤魔化す笑いがやや寒々しく響いたが、我に返ったヘスティアの口上が続いた。

話とは?と聞く事はしなかった。優先すべき事はそれではなかったからだ。

 

「わかりました。行ってきます、神様」

 

右手の中の枷を強く感じた。凍り付くような冷たさも、焼き尽くされそうな熱さも思い起こさせない、ただの金属の輪の感触だった。

 

「気を付けるんだぞ」

 

にこりと破顔する主の言葉が、少年の背を軽く押した。それがどれほど心を軽くするのか、彼自身は伝える事が出来ないのを歯痒く思った。

一人ではない事の替え難さを彼は知っていた。ずっと昔から。

重荷を分かち合ってくれる者の為に、ベルは迷宮へと走るのだった。

 

 

--

 

 

「さあて、まあ、一つ二つくらい聞きたいだけさ。すぐ終わるから」

 

「……」

 

特に気負うものも無いような顔で言うヘスティア。真実そうだと思わせるだろう、少なくとも、死すべき者には。

アルゴスは決して目を逸らす事なく、小さな女神との問答に臨んだのである。

 

 

 

 

 

 







・ただの人間
一.遍く創作において、死んでも誰も気にしないキャラのこと。
二.初代GOWにおける回復アイテム。日本語版には居ない。
三.初代GOW日本語版にのみ存在する、強制タゲ取り機能を持つ無敵キャラ(当たり判定が無い)。ダンまち世界に現れたら熾烈な争奪戦は必至。
  PS3版でも居る。VITA版でも。これがおま国ってやつ?

・男はいつもそう言うって
アイアコス「誰が言ったんですか?」
ミノス「誰が言ったんですか?」
ラダマンテュス「誰が言ったんですか?」
ダルダノス「誰が言ったんですか?」
イアシオン「誰が言ったんですか?」
アルカス「誰が言ったんですか?」
アムピオン「誰が言ったんですか?」
ゼトス「誰が言ったんですか?」
エパポス「誰が言ったんですか?」
ヘレネー「誰が言ったんですか?」
ペラスゴス「誰が言ったんですか?」
アエトリオス「誰が言ったんですか?」
オプス「誰が言ったんですか?」
テーベー「誰が言ったんですか?」
ティテュオス「誰が言ったんですか?」

・世界が滅びたって有り得ない
ペルセポネ「は(笑)」





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