眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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こんなに投稿が遅くなったのもオビ=ワンが悪いってお祖父ちゃんの幽霊が言ってました。






嘘つきは誰だ

 

 

 

かつてなく消極的で、己の権能やら性情にふさわしい対処法であったとヘスティアは自覚するし、ヘファイストスもまさに呆れてそう評するであろう。が、実際この三日間で他に何が出来たかと考えても、他に取れる手段なんて無いじゃないかよ!と言い返す自信がある。

この短き引き篭もり期間が、大事な大事な『子供』と仲を深めるのに大きな役割を果たしたとも思いたいが……それは、まあ置いておこうとヘスティアは判断した。

 

「つーわけでだベル君。ちょっとギルドに偵察へ行ってくるから……いいかい、出かけるのは良いけど、まだアルゴス君の所には行っちゃダメだぞ。ラキアの連中が完全に居なくなったと確認するまで……」

 

「……わかりました。僕は買い出しに行ってきます」

 

遂にこの日が来てしまったと、内心気が気でないベル。休みの間何度か外出はしていたが、この広い街ではたった二人のラキアの兵と邂逅することも無く、何らかの動きがあったかどうかという話も回っては来ていなかった。本当に、アルゴスは見つかってはいないのか?ギルド側が、余計な波風を立てさせないよう情報を止めているのか?出来るものなら目につく人片っ端から訪ねて回りたい衝動を抑え続けた。下手に動けば誰が告げ口するか……そんな疑心暗鬼に囚われて平素に振る舞う一住民の仮面を捨てられずに居たが、本当はもっと他にするべき事はあったのではないだろうかと思わずにいられない。

影のある表情は、主にその心境を悟らせるのに充分だった。

 

「大丈夫さ。夜中にコソコソしてる奴なんていくらでも居るし、直接居場所を知ってるのはボクらだけで……ああ、あの娘も居たけど、誰にも言わないっていうあの言葉は嘘じゃあないぜ。ボクにはわかる」

 

腕を組み、自信ありげに言い放つヘスティア。元来の気質に沿った自堕落な時を過ごしオマケに愛する『子供』との親交も大いに回復した(と思ってる)結果、少々気が大きくなっていた事は否定出来ない。だが無根拠な言い分でもなかった。今更ああすればこうすればなんて、考えてもしょうがないと。

真っ直ぐな視線が有無を言わせない得心を眷属の中に生んだ。頷いたベルは、黙って主を見送る。

 

「いずれ、アルゴス君の無実だって証明出来るさっ。あの子の主神さえ帰って来れば……じゃ、行ってくるよ!」

 

扉が閉じて、軽い足音が遠くへと消えていくのを聞き届ける。

それから大した間も置かずに、ベルも街へと繰り出すこととなった。

荒れ果てた神殿に見送られた小さな人間は、忙しなく迷宮へ向かう者達を横目に街中を練り歩く。……ここ三日間の過ごし方と変わらない、非生産的な振る舞い。冒険者の本分を放棄したような様は誰にも咎められない。ベルは自由だった。自由とは、そういうものだった。誰の目にもとまらず、誰かに陽の下を歩くことを制されるわけもない。

……誰から相手をされる事の無い姿も、それは自由という檻を与えられた結果の一つなのだ。

 

「……無実の証明、か」

 

出る間際に主が残していった言葉がベルの中で再生され、口をついて出た。すでに、その手提げ袋は幾らかの重みを湛えている。空は高く日が昇り、主役達の居ない街の静かさに慣れないベルは所在無げな気分を味わっていた。もし、今直面している問題が大過なく去って行ったのだとして、その後はどうするのか?アルゴスの力を借り、力をつけ、自らの中に眠る衝動を飼い馴らせるようになって……それで、終わりか?

小さく首を振る。

 

(それで、良いはずがない)

 

無償のまま、無実の罪で引っ立てられるかもしれない危険を背負い、いつ暴発して自分に襲い掛かるとも知れないバカな『子供』のお守りを引き受けてくれた恩を返すのに、出来ることはたったひとつだけだろう。

だが今のベルには、その方法は全くわからなかった。

少ない人影と幾度かすれ違う。前を見て歩くひとびと。誰も彼もが、きっと今すべき事に注力しているのに違いない。扶持を得るにしろ生活の支えにしろ、自分の歩む道をしっかりと踏みしめて前に進んでいるのだ……。

 

(……帰ろう)

 

まるで、いつかの夜の時を思い出してしまう。自分の出来ることも、その居場所も、何処にもないように思えたあの時の気分が蘇ってくる気がした。誰の目にも見るに耐えなく映っただろう醜態の事も。

無意識に、人通りの少ない道路に並ぶ店や人影を視界から除いて足を動かす。その歩みも、自然と早まっていく。

帰ろう、あの小さな家に。

そう思った時だった。

 

「あ……おい、おい、ちょっと、そこの!」

 

不躾な、聞き覚えのある呼び声が、ベルの耳に飛び込んで来た。

 

 

--

 

 

ロキの歩幅は大きく、ドスドスと大袈裟な足音を立ててその感情の程を表現していた。額の青筋は太く浮かび上がり、真一文字に引き結んだ口の代わりに呼吸を引き受けるその鼻息はとても荒かった。

ギルドのロビー奥から顔を出した一柱の女神を見て、応対していた職員や冒険者達も驚き後ずさる。神威を発さずとも彼女の放つ怒気はそれほどの力を持っていた。

 

『あの、バカでかい花はギルドの植えた観葉植物か?』

 

『違う』

 

『……あの、見てるだけで胸くそ悪い新種の怪物は?』

 

『……過去の例に無い。言えるのはそれだけだ』

 

カッ、とその細まった瞼が開かれる。

 

「ンなああーーーーもん!!もっと!!必死で調べんかいっ!!教えんかいっ!!危機感無いんかいっ!!ラキアの使いっぱなんか、相手にしとるヒマがあるんかおのれらっ!?」

 

「ひいいいっ、わ、私らに言われましても……!」

 

万神殿の最深部でふんぞり返る役立たずとの会話を思い出すにつけ湧き上がるもどかしさ。ロキは頭を掻き毟って、たまたますぐそばに居ただけの運の悪い職員に怒鳴り散らした。オラリオの『子供』の中でも最前線を張れる力を以てしてなお膝をつく程の存在が、いつまた地上を闊歩するかも知れないのに、遥か離れた国でお山の大将気取る脳筋アホ戦神がせっついて来て、それがどうしたという?ロキの発想を切実で的確と評する声は決して少なくは無かっただろう。

大声によって溜飲も少しは下がったか、明瞭な視界では向けられている好奇の目がさっと引いていくのを感じられる。頭に血が上ったままなら、その居心地の悪さを感じられなかっただろうが……と、ロキは額を抑えて唸った。

 

「あったく、話にならんわ……こっちで調べていくしか無いかな……おや」

 

不満を口にしつつ足早に本部を抜け、ささくれ立つ心を落ち着かせるには強制的に寝床に放り込んでいる『子供』の所に戻るべきかなと往来に佇み思い巡らせた折に、朱い瞳が目敏くそれを見つけた。

街道の向こうから懸命な表情を乗せて走ってくるちっちゃい背丈、それに見合わないものを胸部に揺らしている人影は……。これは好都合と口端を歪めるロキだった。

 

「はあーん、よお、ドチビ。そんなに急いで、何ぞギルドに用でもあるんか?また、自分とこの『子供』がぶっ倒れたか?」

 

「のおおっ!?なっ、何で君こそ、こんな所に居るんだよっ、タイミングを考えろっ!」

 

宿敵と顔を突き合わせる事態を全く予期していなかったのか、ツインテールを跳ねさせて驚くヘスティア。開いた口から意味不明過ぎる挨拶をかます。

なんつう無茶言いよるわ、と呆れるが、こんなバカな返答も真っ黒な腹を持てない純真さが生むものに違いないとロキはニヤける。もっと弄ったれと、本性の猛りを抑えられず……。

 

「まあまあ。ウチの『子供』もな、最近めんどくさい事に巻き込まれたりで大変でなあ。アイズたんは腹に穴開けるし、ベートは足折れるし、ガレスは黒焦げになるしで……ドチビの気持ちもちょっとだけわかるようになったっちゅうか?可愛い『子供』が目の前であんなになるのは、辛いもんやなぁってな。ウラノスのタマ無し野郎に文句も付けたくなって……自分もここに来たのは、そんな所やろ?」

 

「えっ、?、??、……あ、いや、まあ、うん。そうだ、そうそう!まったく、しっかりして欲しいよな!ベル君だって、あんな事が無けりゃあ……」

 

何度も瞬きをした挙句に、明らかに不自然な乗り方をしてくる。が、そうさせているものの正体への興味も芽生えたロキは、ただよく動く小動物を構うような好奇心に身を任せた。おっと、つつけばもっと面白い事を言いそうだな……と。

果たして前に会った時の半死半生の有様もどこへ放り出したやら、聞かれてもいないのにベラベラと話を続けるヘスティア。

 

「だ、大体ねえ。ラキアの追ってるっていうあの『子供』の話さ!聞いたかい!?」

 

俄に市井を騒がせる話題を振られる。ロキは、かの渦中に置かれる者について思考を巡らせた。

 

「あー、……あーーー、ああ、ああ、あのババアの手下やったな、ソイツ。よー覚えとらんけど、まあ、あのババアからして碌でもなかったしどうせ」

 

「ンな訳あるかっっ!!」

 

ロキも、ラケダイモンの二人が探している例の罪人について朧気な知識はあった、えらい昔の事に感じるが。でかい図体で、あんまり血の巡りの良くなさそうな喋り方をしていたのは覚えている。しかしなにぶんここ十数年でのし上がっていく間の出来事ひとつひとつの濃ゆさか、随分と記憶も薄れるものだ。今思い出せるのはその主がまっこといけ好かない捻じくれ根性したクソッタレの陰険ヒスババアだった事くらいである。そんなヤツの『子供』と来ればな、と。

そのように正直な感想を述べようとしたのを、ヘスティアが大声で遮った。鬼気迫る表情だった。

 

「あ、あ、あの娘の『子供』だぞっ。いっつも意地悪でちゃらんぽらんな君と違って、あんな真面目で優しくて誠実で一途で気立てが良くて可愛らしい娘の『子供』が、悪党のハズが無いだろっ!あんな罪状ぜーんぶ嘘っぱちだっ!!いつか抗議してやるぞっ!!」

 

「お、おう」

 

地団駄を踏んで怒り出すヘスティアの姿はただならぬ憤激ぶりを察させた。言われたい放題である事への腹立たしさすら霞むのは、どうもその特定の神に対する認識の齟齬を覚えざるを得ない為である。それも、多大に。腕を組んで首を傾げるロキ。

 

(……まあ確かにクソ真面目やったけど。他は……そんなんか、オイ)

 

そう言えば目の前の女神とは縁浅からぬ仲だったかな、とも思い出した。やたらと融通の効かないというか、軽い冗談でも爆発しまくる所は確かに似てる。ただ、あの底意地の悪さと執念深さ、敵対した際のタチの悪さを考慮するに、身内の欲目丸出しとしか受け取れないという当事者の感覚は消せそうもない。散々いびり抜かれた者共としか共有できないだろうこの得心しがたさよ。

まあ、全ては遥かな過去だった。そう、アレに比べてなんとまあ、コレの可愛いことよとロキの目は遠くなる……。

 

「なんだよその目は?」

 

「ん~~~~?いやいや。ま……こんな騒ぎになってるんなら、あのババアも今に戻って来てギャースカ喚き立てるんと違うか?本当に『子供』が可愛いんならな」

 

適当な誤魔化しを口にする。尤も、かつての座を追い落とした自分がこの街に君臨している限り、あの雲より高いプライドの持ち主が再び姿を表すなどとはロキには毛頭思えなかった。大体、追われている『子供』も本当にその本人だか、そもそもこの街に本当に居るのか、あれから何年、本当に生きているのか。というか全てはラキアの戦神の適当な口実ではないか……いずれにしたって全ては霞に包まれた遠い絵空事のようにしかロキには思えない。もっと言ってしまえばどうでもいい、というのが本音だ。

それより大事なものなど、いくらでもあるのだ。そう、例えば。

 

「んじゃっ、ウチは家に帰って可愛い『子供』の看病する時間なんでな。もう、ウチの為に血ィ流すわ骨折るわ内臓まで生焼けだわで、全く神様冥利に尽きるってもんやな~ドチビも例のヘッポコ君のお世話しとけや~」

 

「へっぽ……!!ベッ、ベル君はなあっ、今はちょっと疲れてるだけで、すぐ立ち直れるさっ!!そしたら今に君の『子供』達なんか追い抜いてやるんだからなっ!!その時の吠え面が、ああっ、楽しみだなあっ!!」

 

いや容易く発火するその幼さは、百年経っても変わらない。真っ赤な顔のヘスティアへともう一発、ロキは叩き込む。ニヤける口を抑えつつ、もう片方の手をひらひらと振って。

 

「うっひょ~怖いわ~凄いわ~めっちゃ吠え面かきそうやわ~レベル1のボウヤがいつまで生き残れるのか、皆で賭けてやるわ~」

 

「!、!!、!!!!、あの子はっ!!ボクの愛があればっ!!どんな困難だって乗り越えられるに決まってるんだあああああーーーーっ!!」

 

大噴火するちびっ子を置いて、足取り軽くロキは立ち去った。衆人はああ、いつもの組み合わせかと微笑ましく見守っている。そうそう、こういうのが自分のあるべき姿、自分が作り出すべき空気なわけだ。まったく、心の健康に欠かせない存在だと目を更に細めてロキはホームへと向かう。

両脚ともども躍る心は、うざったい、正体の見えない、重々しい問題の全てを放り出して、ただ楽しい事だけを考える。それが、彼女の生まれ持つ性情だった。

 

 

 

 

『目覚めの『鍵』――――この言葉に心当たりは、あるか?』

 

 

 

『――――無いな』

 

 

 

 

誰の目にもわかる大嘘をほざかれた怒りも、今のロキの頭の中からは消え去っていた。

 

 

 

 

--

 

 

リリにとって、神とは何か。どんな存在か。手の届かぬ天界の住民。死すべき者の擁護者。害すること能わざる絶対者。……地上の常識でいくら語られても、身に刻まれた認識は覆せない。

即ち。

自分が生まれ落ちた時からその歩む道全てを縛り付け、

どんなに声を上げてもその言葉を聞き届けず、

血よりも濃い労苦を注いで得た実りを毟り取る事に、何の痛痒もおぼえない者。

――――姿を見せず、声を聞かせず、されどかくも死すべき者の全てを支配するというのは、まさに人智の及ばざる力を持つ超越者の仕業以外にリリには例えようもない。

あの――――死すべき定めという枠の中にあって到達でき得る限界の領域という前提こそあれ――――ただの醸造したアルコール飲料を作っているだけで、彼女の主神ソーマは、その権利を得ているのだ。

リリルカ・アーデの人生をどれほど蹂躙しようとそれを省みる必要を持たないという、絶対的な権利を。

目深にフードを被った少女は、その光景を見ながら、繰り広げられるバカな口喧嘩を聞きながら、己の境遇を否が応でも振り返り、それは彼女の胸の奥でいつも粘つき蠢くものをかき混ぜて揺さぶる。遥かな底から湧き上がる気泡。それはさながら、汚濁を湛えた肥壺が腐臭を吐き出すようだった。人の心ほど移ろうものなどこの世に無いと、あの小さな女神は知らないのだろうか。あの、廃水道における対話では確かに、自分とは関係ないと固く信じて言った、誰にも明かさないと。しかし……。

偉大な神。

捧ぐものを得るために、困難へ挑む勇敢な『子供』達。

与えられたものを、与え返す関係。

可愛い『子供』。

愛。

幾つもの思いが浮かんで消える。

 

(くだらない……)

 

ここ最近で、何度目だろう。こうして、何の価値も無いものを思い出してしまうのは。何の関係も無いはずのものを思い出してしまうのは。

反吐が出るのを堪えなければならないのは……。

 

(嘘っぱちの罪状、ですか)

 

よくも言い切れるものだ。巨大なせむし男の姿を思い出す。あんな化け物の弁解の言葉を信じる人間など居るだろうか?死すべき者では決して触れ得られぬ領域にもたやすく踏み込む事が出来るからわかるのだろう。地を這い回る虫けら共といかに隔絶した存在であることよ。

もう、その感情を抑えきれないのだ。暗く凍てついた自分の顔が歪んでいくのを理解する。

リリは思う。自分が持たないあらゆるものを見せつけられたのは、自分の咎が呼び込んだ罰であるはずがないのだと。自分は充分に努めたはずだ、それを決して、表に出すまいと。あの、優しく、凶悪な、謎に満ちた少年に対して。

だから、これは、かれらが撒いた種……持たざる者を知らない愚かさであり、報いなのだと言い聞かせる。ただ偶然目撃してしまっただけの光景に対し、果てしなく身勝手な逆恨みと自己弁護が募る。もはや、その流れは止められない。二柱の女神が言い争うのを背にして、路地裏へと忍び込むと、その呪文を淀みなく唱えた。

彼女が主に与えられたものの中で唯一と言っていい、感謝すべき贈り物……変身魔法。一瞬にして欺瞞の衣を得る力を使う度に、リリは自嘲するのだ。もしも今の主と繋がる鎖を持たねば、こんなにも便利な力は得られなかった。

だが、この力で以って、自分はどれほどの価値あるものを得られただろうか?この力でなければ得られなかったものとは一体何なのだろうか?

 

――――真に欲してやまぬ得難いものを手にする為に、こんな力などどれほどの意味があるというのだろうか?

 

背丈は一気に伸び、耳は毛だらけになってフードを押し上げる。直前までとは人種さえ異なる貌を得た彼女の正体を知り得る者など、世界中の何処に居ようか。

ファミリアの団員?かれらはいつも互いを疑い押しのけあい、自分達が見下す最底辺のサポーターに何度も謀られ、欺かれ、同行者もろとも出し抜かれている事すら気付けない、この世で最も愚鈍で蔑まれるべき輩だ。

あらゆる嘘を見抜ける主?それは、ただそこに居るだけの存在で、自分の声も姿も、きっと名前さえ知らないに違いない、誰に対しても平等で、慈悲を持たない絶対者だ。見抜いたから、どうするというのだろう。何もしないに決まってる。次の瞬間には死すべき者の事など忘れてしまうだろう。

 

(――――あの人は?)

 

そこまで思った瞬間、黒い澱がひときわ大きく泡立つのを感じる。路地裏の薄暗さの中で濃く渦巻く、奈落への穴が開いたかのような闇が顔を覗かせていく。

心の中に居る、もう一人の自分……本来の姿の、小さな少女が叫ぶ。考えるな、これ以上、何も。全て忘れろと。何度もかぶりを振って、フードがずれる。下から出た顔に、もはや彼女本来の面影などかけらも無い。どこまでも冷たく、それでいて現し世のあまねく苦しみを内に秘めたような、昏い、昏い笑みを浮かべた美女がそこに居た。

彼女は願い、夢見る。いつか真の自由を得る日を。身も心も、その歩みも、すべて自分の意志のままに出来るようになる事を。

絶対者の繋いだ鎖から解放されるその時を。

 

罪を重ね続ける生き方が、永遠に過去のものとなる未来を。

 

その為に必要なものを得るべく、リリは素知らぬ顔で、ヘスティアとロキの横をすり抜けて歩いていった。

 

彼女が今、心の底から求めているのは、何も言わず、何も見ず、決して裏切らない絶対的な力を持つ、死すべき者が生み出した、神とは違う……この街においては、神よりも信ずるに値するものだけだった。

 

 

--

 

 

「おい!あんた!……やっぱりそうだ、あの時のだ!」

 

「え……?」

 

男の顔と声は、ベルの記憶の中でも、ほんとうに隅の隅にしか残っていなかった。あの時。どの時か。少し日焼けした、額に皺を持つ顔の、中年の男。誰だと口にするのも忘れて、ぽかんと口を開けて佇むしか無い。間抜け面に構わず、男の口上が続いた。

 

「フィリアの時、怪物と戦ってただろ?それから、神様を連れて一目散に逃げて……聞いたぜ、その後また戦って、何だかんだで死に掛けたってよ。生きてて良かったなあ」

 

そこでようやく、記憶の糸を繋いだベル。底知れない怒りだけに支配され動く身体、真っ赤に染まる視界、敵の心音まで聴き取ろうと澄ませた耳。それらの全てを一瞬で吹き消した、主の一発と、大声……確かに、その後ろにあった顔が、今そこにある。

 

「……あの時の……止めに入った、人」

 

「そうだよ!あの後すぐ俺も大猿にぶっ飛ばされてな。ガネーシャ様のところの連中が治療してくれなきゃ、そのままあの世行きだったぜ」

 

ベルの両肩を叩く男は、何故か笑っている。何故か、だ。……ベルの思い出すに、男を襲った災禍の根こそ、眼前に在る少年冒険者ではないのか。何故こんな笑い話に出来るのか、理解するのに苦心した。

お前のせいで、お前がここに来たから、お前が災いを呼んだ。夢の残滓が脳幹にパシパシと閃く。

額を抑えて表情が翳る少年の様子に、男はただ訝しがる。

 

「ん?どうした?調子が悪いのか」

 

「え、いや。何でもないです。……お互い、災難でしたね。あんなのがいきなり現れて」

 

「そりゃあな。でもあんた、あんなの相手に戦って稼いでるんだろう?大したもんだよまったく。俺なんか、とても無理だね……ゴブリン相手だって、一目散に逃げっちまうよ。まして誰かを守るなんてなあ」

 

商売人として糧を稼ぐ男にしてみれば、遠い場所で命を賭ける者達に対しては羨望と賞賛を送りこそすれ、恐怖や侮蔑など芽生えもしない。それは間違いなく、殆ど関係ない場所で生きているからこその振る舞いに過ぎない。しかし、故に正当で、客観的な評価だと言えた。出し抜けに降り掛かった災厄。それに対し勇敢にも立ち向かって神を守る戦士の姿は確かにそこに存在していたのだと。

率直な賞賛がベルの心の中に染み渡る。自分が何者なのか見失いかけ、居場所を探し続ける虚ろな心に生まれる誇らしさと温かさを感じた。弱い自分を過去に出来る力を得ても、それを誰かの為に使わねば何の意味があるだろうか……。それがわからなければ、今危うく掴んでいる救いの糸の有無など関係なく、自分はすぐに闇の中へと舞い戻っていくだけだろう。男とともに巻き込まれたあの死闘の時のように。

ともかく少し照れくさくなったベルは笑みをこぼした。

 

「まだ、半人前にもなってないですよ、ど素人もいいところで……。神様にも、心配かけてばかりなんです」

 

「ど素人!?あれだけやってど素人と来たかよ。凄いな。……すまん、あんたと、あんたの神様の名前、なんだった?」

 

「ああ、それは」「おおい!君!」「??」

 

会話を中断させられる呼び声に、既視感をおぼえるベル。男と一緒にその方向を見やると、健康的な体格をした獣人の女性が手を振って走ってくる光景があった。

期せず男と顔を見合わせてしまう。誰だ?と通じ合う心。今度こそ全く面識の無い存在だった。そうしている間に、女性はもうそこに立っていた。ふう、と一息つく丸い顔はいかにも人柄の良さを滲み出させる。

 

「や~、思った通り。君、ヘスティアちゃんの所の『子供』だろ?白い髪と赤い目と、その古傷……ベル君、だっけ?」

 

「はっ、い……?すいません、以前お会いしましたか?」

 

主の名前を出されてますます面食らう。……いや、ひょっとしたら、とその推測に思い至る暇を置かずに、男は指差して口を開いた。

 

「ん?アンタは、確か……ウチから仕入れてくれてる所の店員だったよな。あの、じゃが丸くんの露店!」

 

「え!?じゃあ、神様のバイト先の方ですか?」

 

「そうそう!いつもいつも、どうも助かりますよって店主さんも言っててねえ……ああ、もちろんヘスティアちゃんにもね。本当さ」

 

驚嘆に口を開けるベルを他所にして、面白い偶然の渦中にある男は感心して頷くばかりだった。

 

「ほおお。狭いもんだな、世間ってのは。どんな神様なんだ、ヘスティア様は?」

 

「そりゃあ可愛い女神様さ。小さくて一所懸命に働いてねえ……まだ少し足りないところもあるけど、みんな元気づけられるし、お客さんからも好評なんだよ。ザシキワラシなんてアダ名がついたりね」

 

「???、ザシキ?なんですか、それ?」

 

奇妙な縁で繋がれた者達の、とりとめのない会話が続いていく。ベルは気付きもしなかったが、陽の下で営まれるこの時間とは、彼が忘れかけていたもの……彼の道を照らすものと等しく代え難いものだった。それを思い出させてくれるものは、彼の身の回り、いや、この世界すべて……死すべき者達を繋ぐ鎖でもあるのだ。出会いで結ばれる鎖の意味を真に理解するには、彼はまだ、若すぎたのだが……。

ともかく、少年を挟んで、その二倍は齢を重ねた男と女との歓談も、かれらを温かく包む日差しのように緩やかで、何者も害せぬものとして続いていた。概して食い扶持の話題であり、ベルにとっては語るのも苦痛な淀んだ思い出もあったが、不思議とそれは意識の何処かへ追いやられ、口をついて出るのは初めての探索の日、初めての戦いの時、初めての帰還の途、続く試練の数々を早くも懐かしがるか、さもなくば……主との、賑やかで慈しみの溢れる新たな生活の記憶ばかりだった。

 

「……神様。危うく屋台を全焼させるなんて……」

 

「竈の女神様にしちゃあ、火の扱いは苦手なんだなあ、ははは!」

 

「アッハハハ。まあまあ、何とか消し止められたから今じゃ笑い話さ……失敗も多いけど、何と言っても前向きで、へこたれないんだねぇ、ヘスティアちゃんは……」

 

翳りのない話はいつまでも続きそうにベルには思えた。しかし、そうもいかないままならなさは、別段彼に限って付き纏う問題などではなく……つまるところ、獣人の女性が声を掛けてきた本当の理由を知るべき時が来た、というだけの事だ。溶けゆく語尾を少し置いて、女性が言葉を紡いだ。

 

「……だからさ。店主さんも、あたしも、皆も、待ってるから。また働けるくらいに元気が出たら教えてくれるように、伝えてくれないかい?」

 

「……え?……え?」

 

「ん?……あら」

 

意味が取れずに目を丸くするベル、その様こそが女性に対して、真実へ至るに充分な道筋をもたらす。

 

「――――ひょっとして……ヘスティアちゃんったら。ここ数日お休みを貰ったこと、話してなかったみたいだねぇ。フィリアの後、もう、魂が抜けたみたいになっちゃってたんだよ。『子供』が、つまり、君、がね……大変な事になった、ってのは聞いててね。それが関係あるんじゃないか、ってのは皆も思ってたけどさ」

 

「そんな……神様は、そんなの一言も……」

 

呆然として声を絞り出すベル。衝撃的な事実として受け止めねばならなかった。しかし、思わず口をついて出そうになった感想をそれ以上続けさせなかったのは、彼の羞恥心がそれほどに強固であったからだ。手前の事を棚に上げてどれほどの台詞を吐けようかと。

だが、そのまま沈みそうになるのを放置する者ばかりではない。それは、彼自身の行いが招いた幸運なのである。

 

「……明日から来なくていい、なんて言われたら確かに話すのに勇気は居るだろうよ」

 

とっさに口を噤んで顔を曇らせる少年の姿は、見守る大人の理解をよりたやすく、促すだけだった。咄嗟にフォローを入れていく人生の先達らは、見た目に違わずに青く育ちかけたばかりの心根を慈しむだけの余裕があったし、それだけの好感も抱いていた。

 

「そうそう。誰も言いづらい事くらいあるもんじゃないか。それにもう、君もすっかり元気そうだし、ヘスティアちゃんだって大丈夫そうで、安心したよ……そんな顔しちゃ、駄目駄目」

 

俯き加減の首を直すように、強めに背を叩かれるベル。二組の双眸と目が合う。男の顔は、先ほどと同じ……人好きのする、陽気で、それなりの経験を皺と刻んだ中年のそれは、破顔したまま、口を開く。

 

「おう、まあ、色々あるもんだ。頑張る時はよ、せめて良いもん食って元気つけとくんだぜ。気持ちだけはサービスしてやるから、いつでもウチで買ってけよ!」

 

獣人の女性も、情の深さを体現したような濃く硬い髪を陽に煌めかせて、笑った。

 

「ほれ、難しい事なんかありゃしないさ……頑張れるだけ頑張って、疲れたら休むんだよ誰だって。今さっきまで元気にしてたんじゃないか?さ、前向いて、行かなきゃね」

 

ベルは視線を交互に送った。軽く、言うものだ。まったく、簡単そうに。……それがかくも確かな導のように思えるのは何故なのか?言葉だけでは計り知れない説得力は、少なくともベルが真似したって全く再現出来はしないだろう。

背を押される感触は物理的な反応以上に、少年の歩みを強く推し進めるだけの力を持っていた。ベルは、溜まった何かを押し出すように、胸を抑えた。それから息を大きく吸って吐き出すと、織り重なっていた幾千もの澱も一緒に消えていくように思えた。いま発するに必要なものはそれではないと、彼は知っていた。

 

「……ありがとうございます。何度も立ち上がれる強さが無くちゃ、どこでも、どんな時でも前に進めないし、誰かと支え合えばそれを得るのも、簡単なのに。すぐに忘れてしまうんです。――――不安なのは、神様だって同じだって事も」

 

廃水道での主への告白でも語り切れなかった思いの丈でもあった。改めて自分へ理解させるためでもある言葉が、聞く者の耳にしっかりと届いていた。ちっぽけな人間のちっぽけな意志とは、その歩みを続けさせるのにどれほど欠かせぬものであるか、かれらは知っていた。期せずとも同じように深く頷く。

 

「それがわかってるなら、大丈夫だよ。ヘスティアちゃんによろしくねぇ」

 

「死なない程度に、頑張れよ。若いうちは何度もずっこけるもんなんだからな」

 

手を振って、二人はそれぞれの場所へと歩いて行く。ベルは、知っている。かれらの道は、自分とは遠く離れた所にあるものだ。だからこそ言えること、見えるものがあり、本来交わらざる何者かに新しい光明をもたらしうるのだろう。

この街で得たあらゆる出会いが、そうなのだ……。

 

(そうだ、だから……きっと、大丈夫だ)

 

遠くに微かに揺れている希望がもしも失われるかも知れないのだとしても、その時ただ、出来る事をすればいいだけだ。

ベルはそう思い、家路へついた。

そこで、待たねばならないのだ。主の帰りを。

 

 

--

 

 

怒り心頭のまま去ったロキと入れ替わるようにロビーにやって来たヘスティア。それを迎えるのに適任なハーフエルフの職員は残念な事に所用で外していた。然らばとミィシャが相手をする事になる。

未だ女神の頭から仄かな湯気がたっている理由など、この場に居る誰もが知り得ないことだったが、多分それは自分達とは関係ないことだろうとも思ってはいた。カウンター前できょろきょろと視線を移ろわせながらも少し震えて鼻息を漏らすヘスティアに対し、ミィシャはなるたけ刺激をしないように声をかける。

 

「三日ぶりですね~ヘスティア様……あ、はじめまして。ミィシャ・フロットです。エイナから色々と聞いてますよ~。今日はどんなご用件でしょう?」

 

ヘスティアは桃色の髪の毛の持ち主に見覚えは無かったが、纏わせる抜けた雰囲気はわかりやすい人懐っこさを醸し出していたし、その言葉から嘘も感じ取れなかった為、冷めやらぬ興奮も少し落ち着かせるように努める。あの宿敵は遠くへ去ったのだから……。

 

「ん……と、ハーフエルフ君の同僚かな。いや、ほんとにとるに足らない質問なんだが……つまり、連中はもうラキアに帰ったのかな?」

 

「え?ああ、情報提供ですか?あの人達なら――――」

 

もしもその答えが、彼女にとってあまり都合の良くないもの――――ラキアの兵士の滞在期間は伸びるのかもしれない、等――――であったとしても、結局のところヘスティアとその眷属のする事はここ三日とさして変わる事は無かったと思われる。どうせ、捜査の延長もすぐに限界になるはずだ。さっさと引き上げるに違いないと。

目を丸くしたミィシャが口を開こうとした瞬間、女神の予測を浅はかと断ずる現実は、すぐにそこに顕れる事となった。

前触れ無くカウンターのずっと奥に見える扉が開き、その男は不遜なる威風を以て一瞬でロビー中の視線を奪ったのである。

 

「あ――――!」

 

誰のものとも知れない声とともに沈黙が訪れた。人々を一瞥する、口を引き結んだ硬い表情。兜に覆われて一層その怜悧さを増し、半端な時間帯のおかげで和気藹々としていた空気を張り詰めさせるに充分な気迫を漂わせる。

槍と大盾で武装した戦士は、衆目の好奇心を跳ね除けるような力強い歩みでギルドの正面入口へと向かっていく。思わず口を噤んだ小さな女神の事など目もくれないのは、当然だった。しかし……。

 

「ついさっき、タレコミがあったんですよ。背の高い、獣人のかたから。で、滞在も延長になるとか」

 

「!?………!?!?、誰……いや、違う……!?延長……!どれくらいなんだい……?」

 

暫し目を奪われていたミィシャが我に返って連々と解説しはじめるのを聞き、ヘスティアは小声気味に尋ねる――――すぐにそれを後悔した。芽生えた疑問を解くには、今この瞬間で無くても良いはずなのだ。あの獰猛な光を目に宿した猟犬は、まだ出口まで足の届かない場所に居る。彼らの耳に届かないはずがないではないか。

 

「……?あっそうか。褒賞金の事なら焦らなくても多分大丈夫ですよ。この街へ来る前に事前勧告があったぶん、もっと日数を使った捜査を続けられるとかで。それに今なら奥にもう一人……」

 

「あ!あ!あっ、いや、いい!気のせいだった、じゃあありがとう、失礼するよ……?!」

 

これ以上続けると確実にボロが出まくるだろうと自覚したヘスティアは、無理やり会話を打ち切って踵を返した。そこで、硬直する。岩壁がそこに立ったような幻視を生ませる屈強な肉体が目の前にあった。体の芯まで叩き込まれた規律のように真っ直ぐな背筋が通り過ぎて、ミィシャの隣に居る職員と相対する。

ヘスティアは、自分の顔以上にその職員が表情を凍てつかせているのにも気付けないほどに心中を波立たせていた。石突きが床に当たり、冷たい音を立てた。

 

「旧地区の下水道……管理用の入り口は、さっき聞いた通りの場所で間違いないな?」

 

「はっ、はいっ……」

 

「――――!!!!」

 

誰だ、誰が喋った?誰に見られた?どこで……無数の疑問が浮かんでは消え、それでもこの場から逃げ出そうとせずにただ棒立ちになるヘスティア。ここで動けば、更に怪しまれるだろう。まだ目をつけられた訳ではない。はずなのだ。落ち着けと自分に言い聞かせる。

職員と兵士の会話の残響が、絶対者の頭脳を全力で回転させる。どうする?すぐ隣の兵士はどこまで知っている?場所を尋ねていた。街の隅、その打ち棄てられた場所は路地が蟻の巣のように別れ、その地下は更に底が知れない……少なくとも自分の場合は、そこを隠れ家にする者の案内が無ければ脱出も覚束なかった程だ。余所者が押し入って目当てのものを探し当てるのに、どれほどの時間が掛かるか……。

 

「ヘスティア様……?」

 

「はっ……!」

 

意識を呼び戻す声は、ヘスティアの目に兵士の後ろ姿を認めさせた。悠然とロビーから去っていく背。その光景が、渦巻いて定まらない心情を一瞬で固めさせた。

 

(――――アルゴス君に知らせるんだ。いつ捜査が切り上がるかもわからないのに、このまま待っていたらまずい!)

 

別の場所に隠れるか、それともこの街から去るのか……彼がどうするにしろとにかく伝えなければならないと決意する。何もせずにいた方が良い時もあるが、何もせずにいるべきでない時もあると彼女は知っている。人波をかき分けるように威を放つ男が街道を曲がって消えるのを見て、ヘスティアは遂に走り出した。場所は覚えている。一直線に行けば、あの兵士の鼻がいかに利こうとも先回りするなど不可能だろう。

僅かな間立ち尽くしていた小さな女神が、伸びる手から逃れようとする子猫のように走り去っていくのを見て、ミィシャはただ首を傾げるだけだった。

 

「どうしよう?あの隊長さんに教えておくべきかなあ?」

 

「……あのヒゲの人なら、さっき裏口から出て行ったけど」

 

「え?」

 

こぼれた独り言に意外な返答を受けて、目を丸くする。不幸にもあの気迫を正面から受け止めた同僚の姿は、今なお少しばかり草臥れて見えた。

 

「旧下水道の入り口って、一つだけじゃないの?なんで二手に分かれるのかしら?」

 

「あの辺は迷路みたいになってるし、あちこち崩れてて危ないからね……。後ろ暗いものを抱えてる人が潜り込む隙間も多いらしいよ」

 

「へぇ~……」

 

遠い他人事に思いを馳せて、ミィシャは息を漏らした。

ともかく、空気を硬く張り詰めさせる者が消えて、いつも通りの緩やかな貌がロビーに戻りつつあった。

 

 

--

 

 

「――――ベル、君ッ!!」

 

「神様――――!?」

 

ベルが知ろうか、帰路を行くさなかこうして主と街中で対面出来たのは、完全な幸運に基づく偶然であったと。汗を散らす全力疾走を止め、思い切り肩で息をするヘスティアの様子は、一目でベルにある予感をもたらした。

 

「はあ、はあっ、……マズイ、マズイぞっ、あいつら、下水道に……おわあっ!?」

 

「すいません、失礼しますっ!!」

 

もはや、詳らかに始終を聞く必要はなかった。ベルは、いつかと同じように主を抱え上げて、両脚の筋肉を弾けさせる。一気に上がった目線に映るものが引き伸ばされて消えていく光景で既視感をおぼえるヘスティア。これが平時であればおお我が世の春が来たと愛しい『子供』に抱きつくだろうが、そんな場合ではないのもあの時と同じなのだ。尻に火がついたような焦燥感をともに分かち合いながら、一つの影になった主従はオラリオの平穏な空気を突っ切って行く。すれ違う好奇の眼差しも忘れて。

風を切る音と、自らの肺腑の悲鳴と、二つの鼓動が、地を蹴る冒険者の聞くすべての音だ。早く、もっと早くと脳幹が喚く。追いつけ、追い縋れ、間に合えという思いは、あの時ただ逃げる為に身体を突き動かしていた衝動とよく似ていた……戦う事を求める自分をひたすらに抑えつけ、守るものの為にと言い聞かせ、自分が変質する恐怖を忘れるべく走ったあの時。

そう、恐怖だ。失うかもしれない恐怖。そこから逃げる為に、消えそうなそれに飛びつこうとひた走るのだ。遥か先にある、微かなものを目指して……。

 

(――――いや、無駄な事は考えるな……今、出来る事だけを考えろ――――もっと、早く走れっ!!)

 

しがみついてくる温度。それを認識するだけで、ベルの中からすべての雑念は消え失せた。脳裏に地図を生み出すエネルギーも両脚に流れ込み、身体に覚えさせた道順を辿って動かさせるだけだ。壁に挟まれた薄暗さも、転がるゴミも、狭く無秩序な分岐点も、ベルを止まらせる事はない。たとえここが一片の光の無い闇であったとしても、彼は止まらなかっただろう。

どれほどの時間が経っただろうか、やがて現れる崩れた割れ目と、その中に続く階段。影に融けて日中に眼前まで迫ろうとも朧気な入り口に、躊躇なくベルは飛び込んだ。何よりも、主の身体に傷と衝撃が無いよう配慮しつつ……。

 

「うはっ……だ、大丈夫かな!?こっちで!?」

 

「っ、はい――――!!」

 

どこかからか差す陽によって、廃水道の視界は淡く見えるが、それが却って不気味さを醸しだしてもいた。尤も切羽詰まった極みにあるふたりにとっては、そんな感傷を得るだけの余裕もない。主への返事も一声で済まして、ベルはその場所へと向かう。いつもの待ち合わせ場所だ。腕の中にある安らぎの象徴を、辛うじて取り零すのを免れたあの時と同じ場所。

三日ぶり、はじめて日中にやって来るそこはやはり、かつてと同じように誰の気配も感じられない虚ろな空隙があった。だが、構わずベルは口を開く。全力疾走の疲れも、酸素を求める肉体の声も無視した。

 

「アルゴス!!アルゴス、聞いてくれ!!ラキアの兵士が探してるんだ、この、辺りにもすぐ、に、来るっ!!――――……っ、っ……!」

 

「おいっ、ベル君、落ち着いて!息が切れてるだけだ!」

 

急に視界が暗まり、意思に逆らって傾く身体をなんとか片膝で支えるに及んだベル。主はすぐに原因を悟って、腕の中から降りて『子供』を気遣った。喉頭を激しく往来する呼気が、薄明に陰影を落とす地下に響く。だがその返事は決して無い……。ヘスティアの決断は、すぐだった。

 

「アルゴス君……居ないのか?……いや、聞こえてるだろう?すまないが、ボクらもここにはいつまでも居られないし、もう引き返すけど……」

 

「ッ、神さ、まっ」

 

主の言い分はもっともだとわかっていても、そうベルは縋らずにいられなかった。姿までとは言わない、返事だけでも聞きたい。まだ帰れないと、蘇ってきた不安が首をもたげて弱気な本音が顔を覗きだしていた、主の言葉を遮ろうと。

だがヘスティアは構わず口上を続けた。この思いとそれを伝える事は何よりも、愛する『子供』と、そしてこの闇の中人知れず隠れている彼の為――――

 

「どうか!あんな連中に捕まってくれるな!この子の為にも、キミの主神の為にも――――」「そうは行かんな……神ヘスティア。その『子供』ベル・クラネル」

 

「――――!!??」

 

突如。

後ろからその低い声が掛けられて、主従は振り返る。割れた天蓋より差し込む光の帯が埃を煌めかせており、その奥に佇む影を隠していた――――すぐに、その欺瞞も消え失せる。男が、一歩前に足を踏み出した事で。

ぶつかる金属音と、硬い皮革の摩擦音、そして、苔を生やす石畳を撞く音が生まれた。ラキア兵は、長槍と大盾を携えてそこに立った。倒すべき敵を前にしたのと等しい、空気を破裂させそうな緊迫感が生まれるのをベルは知った。

鼻当てを挟んで光る双眸は、小さな女神と小さな眷属を真っ直ぐ射抜いていた。

 

「なっ、なんで……こんなに早く。本部じゃ、ボクの事なんか見向きもしてなかったじゃないか!?」

 

震える唇で紡がれる言葉は、侍る『子供』への弁解じみた疑問となって男にぶつかった。男は鼻息をひとつだけ吐いた。

 

「気付いていないと思ったのかバカめ。あのせむし男の主神と貴様との関係。貴様と『子供』、その姿と名前。全て知っているというのにな。しかしあんな簡単な芝居に引っかかるとは、余程の頭弱か」

 

「……!!!!」

 

ヘスティアは完全に言葉を失う。それも、露骨過ぎる侮蔑に対してではなく、完全なる自分の失態に気付いたが故だ。この兵士は天下の往来で大騒ぎした末にのこのことやって来た自分の存在を認めたからこそああもあからさまに情報を漏らし、そして呑気に街へと繰り出す姿を晒したのだ。まんまと紐を掛けられた事に気付かずに、大急ぎで獲物の場所へと案内した己が間抜けぶりに気が遠くなる。

顔色も頭のなかも真っ白になる神を前に、男の不遜な態度はなおも改められる事無く、声が続く。

 

「しかし、ロキかフレイヤか……さもなくばデメテル辺りが匿ってると思ってたがな。確かに貴様らも目星をつけたうちの一つだったよ。だがこれほどの惰弱の……軍団とすら呼べぬ雑魚に縋るほどとは。哀れむな、あの化け物も」

 

「!!、!!!!ざ、ざこ……っ!……あ、哀れっ……!!」

 

溢れそうな自責の念も、出される旧知の名前も、続く台詞により一瞬で吹き飛ぶ。確かに、ヘスティアは、その外見だとか、その性情だとかを、色々と他の連中に揶揄される事は多かったし、それにあまり気分を良くする事もなかった。だが、ここまで冷たく、はっきりとした悪意に基づく言葉をぶつけられたのは初めてだった。それも、死すべき者に、だ!

いや、それよりも何よりも許せないのは……そう、自分の事など、幾ら馬鹿にしようが、貶そうが、見下そうが、心底どうだっていいのだ。関係ない道を歩いている関係ない奴が何を言おうが、それは自分の歩く道に何の影響を与えられるというのか?

しかし目の前の男が踏み込んだ領域とは、そんな達観も消し飛ばさせるのに容易な、その女神にとって誰にも侵させざらんと振る舞うべき神聖さに満ちていた。

 

「アルゴス君を信じて共に戦う事を選んだこの子が、どんな気持ちだったか、何を背負ってるか、そんな事も知らないで――――惰弱だ、哀れむだって!?」

 

傍らの少年の耐える屈辱は、自らにも等しく科せられるべきものだとヘスティアは疑わない。振り向いてその顔色を伺うのも忘れるほど、彼女の『子供』へ向ける思いは深いのだった。それを解する気など無い男の冷たい目はただ鋭く、吠え立てる犬を見下す如き無慈悲さを隠さない。

 

「……御託が過ぎたな。ともかくあの罪人が居ないのであれば、さっさと来てもらおうか……共犯者ども。言いたいことは本国で幾らでも言うがいい」

 

なおも恐れを知らない言葉だった。ジビエに鉈を振るうが如き物言いに、いよいよ目を剥くヘスティア。無音の地下空間にてどこまでも鋭敏な聴覚を疑うのである。

 

「は……共犯!?なにを言ってるんだっ!?いぃいやっ、それより!あの子が罪人だなんて絶対に有り得――――」

 

「……それが、本当の狙いなんですか、ラキアの……!?」「えっ?」

 

現れた追跡者を前に固い沈黙を守っていたベルは、その実ただ思考の海へ潜っていた。主の無様さを論おうなどと思いつきもしない、探り求めたのはこの場を切り抜ける方法だけだ。目の前の敵の備える正当性を覆す道、罪人を追う者を退けるには?

答えはまだ出ない、しかし、男の言葉はその導でもあった。至った真実の一端を口にして揺さぶりを掛ける。男の纏う威に、重さが加わったような気がした。迷宮で出会ったどんな敵よりも組し難い存在だということは、既に理解しているベルだった。

 

「罪人を捕らえるのは名目……協力者をあぶり出して連れ帰る……人質として」

 

「ァえぇっ!?」

 

田舎の農村から出て来たばかりのまるで世間を知らない少年は、だからこそ職員に教えこまれた様々な一般教養をスポンジのように吸収した。大国ラキアと神々の街オラリオの長年に渡る対立も、そのうちのひとつだ。エイナにしてみればとるに足らない無駄話だったが、今組み上げる論理の立体模型を作る欠片としてベルの中で繋がっていく。

『子供』の推測がいかにも尤もらしく、そして悪辣極まる戦神の策と理解させるに充分な筋立てであったがために、ヘスティアは裏返った変な声を上げた。

怒りと驚愕の余り硬直する神を差し置いて、死すべき者はその視線をぶつけ合う。

 

「主と違って、それなりの頭はあるらしい。――――わかっていても、無駄な抵抗をする愚かさに克てないと見たが」

 

「ッ……!!」

 

無意識に、ベルの右手は腰のホルスターに触れていた。男が看破せしめるはその仕草から透ける、一人の戦士が宿す無謀なる蛮勇ぶりだ。歯噛みして見上げる赤い瞳は、吊り上がった眦と相まってもはやその害意を隠せない熱を発しているのだ。

ヘスティアに比べればというだけで、その眷属はちっとも冷静ではなかったし、憤怒は収め難く滾っている。ここまで馬鹿にされる謂れを背負うのは自分だけだと。短刀の柄を握る力が、腕の筋肉を爆発させそうに膨らませる。ざわざわと胸の中で蠢く黒い何かは、彼の気付かぬ内にその全てを呑み込もうと全身に染み渡りはじめている。

すでに臨界状態にあったベルに対して、男は最後の一押しを突き付けるべく口を開いた。

 

「どの道、貴様らに選択の余地など無いだろう。何の役にも立たぬ神と、寄る辺を持たぬというだけの理由でそれにぶら下がる屑を省みる者も、必要とする者もな」「――――!!!!」「ベルくっ……!!」

 

広くなった視界が真っ赤に染まる。その端で自分を制止しようと手を伸ばす主の存在も、ベルの中から消え失せた。噛み合わさる歯の根の反動が顎を開き、屈んでいた足腰が一気に引き伸ばされる。猛獣のように飛び掛かる少年が望むのは、刃の先にある無礼者が流す血による贖罪のみ。

声も出せない怒りに支配された『子供』の凶行を映すヘスティアの瞳は、全ての光景をコマ送りにして脳へと送り込む。地を蹴る足、抜かれた短刀、迎え撃つべく得物を構える兵士――――そこに現れた、巨大な影。

 

「あっ、~~~~っ!?」「んん゙ッッ!!」「!!」

 

三つの影が重なる。男の長槍が掴まれて逸れ、少年の振り下ろす短刀は色素の薄い右腕の皮を浅く裂いて柄で止まった。瞬時の沈黙で、外套が落ちる音も煩く響く。男とベルの間に割って入ったアルゴスは、肩越しに燃え盛る瞳を青く見据え、叫ぶ。

 

「ベル゙ッ……退けえ゙っ!!」

 

「!!……っあっ!」

 

長い腕に引っ掛けられた手首により空中で止まっていたベルは、振られる剛力に抗う術を持たなかった。いや、もしも、彼の中にある消せない業火が滾ったままであったなら、きっとこんな情深い制止などやすやすと飛び越え――――そして、歪な巨躯を睨みつける兵士の喉笛を切り裂かんと舞うだけだっただろう。

凄まじい力で固定された槍の持ち手を支点に男の全身が僅かに引き、一気に戻す反動の勢いで左手にある大盾を突進させる。それだけで半端な冒険者は全身の骨を砕かれるだろう衝撃は、アルゴスが瞬時に引き戻した右腕へと叩きつけられた。

とてつもなく鈍く、重い音は、宙を舞うベル、そしてやや離れたところで呆然と見守るヘスティアの全身まで揺るがし、主従の及び知れない領域にある戦士達の真の姿の一端を垣間見せるのだ。

 

「……!」

 

「ベル君っ」

 

床に転がる少年はそれでも、文字通りレベルが違う二人の男から目を逸らさない。辛うじてその視界は青いさざなみと触れて明瞭になり、怒りに任せ吶喊する愚を理解するだけの分別は取り戻せていた。しかし、それもすぐに去りゆくのが定められた運命だった。

ベルを跳ね除けた一手の遅れは、それこそアルゴスの失策として顕れていた。巨大な左腕は剥き出しのまま碌な備えを得ずとも、多少の攻撃に対する防壁として充分過ぎる機能を持つだろうが――――それは今、槍を掴んで離せぬままであり、そして何より相手は一山幾らで片付く迷宮の雑魚とは比較できない実力を持つ、ラキア有数の実力者だ。少なくとも、最強の戦士に目をかけられるだけの……。

大盾の一撃は相手の防御姿勢をたやすく破壊するに留まらず、大きくその巨躯を仰け反らせる。すぐさま握力の緩んだ大腕から槍が引かれ、がら空きの胴体目掛けて、一歩踏み込んだ男の渾身の薙ぎ払いが見舞われた。

 

「ハッ――――ッァアア!!」

 

「グゔっ!!」

 

腰巻き以外何も身に着けるものの無い彼は、その腹に食らった衝撃でさすがに堪えた。槍の胴金は真っ白い円弧の残像を描き、獲物の内臓を破裂させるべく全てのエネルギーを注ぎ込む。

全身を駆け巡る震動で巨大な左眼が更に見開かれ、不揃いな歯が交差する――――戦士の掛け声と呻き声、そして先よりも低く震える打撃音が、傍観者の理性を消し飛ばした。

 

「ッッ!ーーーーーーーーッッッッ!!!!」

 

咆哮。全てを怒りに任せて、ベルが今一度、敵に向かって跳んだ。低く、地を滑るような踏み込みは、彼に刻まれた神の力を優に超えた速度であったと見る者が評するならば謂うだろうが、主にしてみればただ底無しの絶望を想起させる蛮行に等しかった。また、彼は遠くを見ている。ここでないどこかを。そして、そこへ踏み込もうとしているのだ。激しい怒りのもたらす破滅的な未来へと。ヘスティアが思い出すのは、大猿との死闘の末に全身を砕かれ引き裂かれたあの姿だけだ。残酷な死以上の悲劇的な末路など、彼女は想像だにできないのである。ただ、現実今においてその危惧は的確ではあった。

 

「駄ッ……!!」

 

やはりヘスティアは制止の声を出し切る事も出来ず、そのままベルは兵士の間合いへと肉薄する。罪人との組手を一度制した男にとっては、見下ろす白い髪の奥にある赤い目など、恐るるに値しない輝きだ。突進の軌道に合わせ、右手の槍はその脳天を穿つ軸と重なって突き出された。幾万も重ねた修練と戦いの生んだ、寸分もぶれない一刺し。そして、思う。泡沫の如き弱小群団にしがみつく虫けらの怒りなど、この程度で絶たれよう……と。しかし、その僅かな慢心が、忘れがたい不名誉を招く結果を生むのだ。

 

「ッ!」

 

「――――なっ!?」

 

完全なる不覚だった。いや、その槍のリーチを完全に見切られていた事への驚愕は、この街の誰もと共有する反応ではあったに違いない。穂先と眉間が交わる寸前、低姿勢の疾走で溜まっていた下半身のバネを弾けさせたベルは、跳躍した己が肉体とすれ違うように足下の空を穿つ槍の事など瞬時に忘却していた。

右手を伸ばしたまま、盾で身体を庇う男。狙うは――――兜の隙間。ベルから見て鼻当ての左側に光る右目、だ。一直線に突き出される短刀。ベルの目論見は完全に達されたかと、少なくともその本人は確信していた。

だが、それは自身の貧弱な肉体に対する、余りにも大きな過信であったのだ。敵の実力への見誤りに等しく。

 

「――――らッ!!」

 

「がっ……!!」

 

瞬き程の間も必要な予備動作を経て、男の右脚が蹴り上げられた。爪先は細身の少年の胸筋に直撃し、その中にある肋と肺まで軋ませる。空に在った全身が大きく軌道を変え、ベルは短刀を握ったまま男の右半身をすり抜け、陽の帯を外れた闇の中に落ちて転がった。

 

「がはっ、ゲホげほっ!」

 

鶴橋を打ち込まれたような痛みに耐え、潰れた胸を必死に広げようとベルは咳き込む。その最中にも震える四肢に活を入れて立ち上がろうと足掻くのを忘れられなかった。

 

「貴様……!!」

 

すぐ振り返った男の声はどんな言葉でも言い尽くせぬ怒りで満ちていた。その原因は、ベルの身体が描いた低い丘陵を辿るように、滴り落ちて染みを作っていた。男の顎に薄く刻まれた朱い線から雫が流れる。敵の握る刃を濡らす屈辱の証左を見出して、更に男は激した。レベル1の雑魚相手の不始末は、彼自身こそが最も許し難い。それほどの自負は、全てのラケダイモンが等しく身に着けているのだ。戦士としての誇りと裏返しの傲慢さにつけられた疵を贖う方法は、最も単純で容易い道理を彼に悟らせる。即ち――――

 

「ぁぐうああウっ!!」「!?」

 

血への渇望に槍を折ろうかという力を右手に込めた男も、這いつくばる姿勢をすぐに立ち直らそうと手に床をつくベルも、ダメージに膝をついて歯を食いしばるアルゴスも、その呻き声のもとを見やった。

地上に在る絶対者は項を鷲掴みにされ、まるで兎のように持ち上げられて四肢をばたつかせていた。苦しげな表情は、脊髄を握り潰すのも厭わない握力が生むものに他ならない……皆の薄暗い視界に映る、女神の背後に立つ陰影。それが放つ迫力は雄弁に、この場を支配せしめんというその者の強い意思を物語るのだ。

だが、右手で主を掴み上げた者の姿をすべて目に収めて認識するより先に、ベルは動いた。自らの縋るか細い希望を捕らえようとした者への怒りよりも更に深く、濃く、激しい感情のうねりは、瞬時に彼の全身に満ちた。

 

 

 

『――――その娘を降ろせ!!――――』

 

 

 

「ッッあああああああああああっっっっ!!!!」

 

それを手に掛けようという意思の存在を、彼は決して許さなかった。幻影の生む力がベルの全身に迸る。眼前の大きな影は、その短刀が吸った最も新しい血の持ち主よりも高い背でベルの跳躍を待ち受ける。

 

「ベ、ル、君……っ!」

 

先に見せた、神の力に定められた領分を遥かに超えた瞬発力……それを更に上回る閃撃はいよいよ、痛みに耐えつつ然と真正面から見つめるヘスティアの心をも覆い尽くすような影として迫る。たとえベルが初めての眷属であろうと、理解出来ない筈もない。この身体能力の尋常でなさ、そして、刃を振りかぶる少年の凶相――――真っ赤な双眸を吊り上げ、剥き出しの犬歯を光らせる、飢えに狂った獣でさえ慈悲深く見えるだろう表情――――は、神の血が生む奇跡といかにかけ離れた禍々しいものであるかを!

ヘスティアの抱いた底無しの危惧はしかし、彼女自身の見識の浅さとして瞬時に退けられる事となるのだ。それはまことに皮肉な話だった――――彼女は、神の血によって引き出される人間の力の限界など、まったく知らないのだ。

 

「――――!!!!」

 

ベルの失策は、暗がりの中にあってその者の得物を見逃した事だ。怒りに覆われた浅慮に基づく必殺の一振り……ガネーシャ・ファミリアからの償いとして与えられた業物の短刀は、振り上げられた分厚い大盾と凄まじい相対速度でかち合う。

跳躍からの落下と、レベル1にあるまじき筋力で以て振り下ろされる豪速を湛えた刃は――――瞬間、甲高い断末魔を上げて、短きに過ぎる生涯を閉じる事となった。

 

「っぐ、あッ……!!」

 

その衝撃は、健気にも刀身という犠牲を以て霧散させんと願った短刀の柄を通り、少年の細腕を貫く。ベルは右腕の筋肉が断裂する音より先に、骨に亀裂が走る音を聞いた。

全ては、刹那の出来事だ。ベルの身体は容易く攻撃を受け止められるに留まらずにそのまま弾き飛ばされ、壁に叩きつけられて垂直に落ちる。重い音の直後に、砕けた鋼の散らばる透き通った重奏が廃水道に響いた。

 

「――――隊長……!!」

 

「……」

 

構えを解かないまま、男は計り知れないほどの畏怖を込めて、闖入者を迎える言葉を紡ぐ。ラキア最強の戦士は、右手の中にあった邪魔者をその場に放り捨てて足を踏み出した。

 

「あ゙ふうっ、うっ……ぐうっ、えほっ……!っ……」

 

「……随分と手間取るものだな」

 

置き去りにしたものが咳き込む姿など見向きもせず、濃い口髭を僅かに動かす隊長。また踏み出す一歩ともども、部下の佇まいを立ち所に改めさせる言葉は重く昏い余韻を湛える。得物と背筋を平行に直立させる男は、上官の下す沙汰を黙して待つだけだ。

勿論、地の底に這いつくばる者共にとってはそんな遠い国の規律など全く関係が無い。開かれた気道と動脈で目を白黒させながら、それでもヘスティアは四つ足で駆けて『子供』に縋り付く。

 

「だいっ、じょうぶか、ベル君……ボクの事、わかるかいっ!?」

 

「うっ、ぐ、…………!、……!」

 

右腕を抑えて呻くベルは、その痛みに抗しているのでも、主の言葉に我を取り戻しかけているのでもない。握力が失われ麻痺している手のひらの感触に歯噛みし、意思のもとに従わない手首から腕、肩までの筋肉へのもどかしさに身を焼くほど焦がれているのだ。立ち上がれ、戦え、倒せ。全てを奪おうとする敵を全て滅ぼせと、闇の中の声が叫んで荒ぶ。

 

「連れて行け」

 

「直ちに」

 

箍が外れて溢れ出す怒りに支配される少年の何もかもを気に留めない世界の有り様が、すぐ傍で続いていた。忠勇なる部下は短く指示を受けると、臥してなお戦意を宿らせる瞳に槍を差し向ける。その昏い煌めきは共にあるヘスティアの目に例えようもない絶望感を映し取らせた。どこへ連れて行くのか……決まっている、ラキアだ。あの脳筋横暴バカ戦神の膝元……いや、それだけなら許容出来ない事ではない、死ぬほど嫌だが。だが、この手で抱いている少年は?少年が冒険者として共に戦いたいと願った男は?かれらを闇へと引き込もうとする悪夢の使者達を退けるすべを全力で考えるヘスティア。

かくも静かに迫る審判への異議は、遂に放たれる。

 

「――――そい゙づはっ、……そいづも゙っ、その゙方も……おでと、なん゙の関係゙も、ねえ゙ッ!!」

 

「……!」

 

出来の悪いホルンを鳴らしたような、低く響くだみ声。精一杯の弁護を申し立てる思いがどれほどのものか――――少なくとも、それは血と炎の畝る闇の渦に囚われかけた少年の目を開かせるだけの真摯さはあった。鼓膜から脳を揺らされたベルがそれを見る。瞳の奥に広がる青色に浚われて、煮え滾る幻影が鎮められていく。

眷属の全身から力を緩まるのを理解したヘスティア。しかしそのほんの僅かな安堵は、酷薄なる詰問を成す者達こそが蹂躙する権利を持つのだ。

 

「よくもほざける……その愚かさは底を知らないらしい。全ての状況が示す事だ、罪人アルゴス。貴様を庇い立てするはオラリオのヘスティア・ファミリア。匿う者も連行の対象だとラキアの事前勧告に盛り込まれている……納得したいならこれで充分だろう」

 

声はどこまでも、冷たかった。あるべき律がある。従わねばならない掟がある。それに歯向かえば、相応の報いを受ける……まことに、正しい。一分の隙も見当たらない理屈を男は口ずさむ。隊長はその後ろで黙して佇み、会する者全ての一挙手一投足も見逃さない眼差しを研ぎ澄ましていた。

素晴らしい正論を流し込まれるヘスティアの中に、抑えがたい熱が生まれる。違う、と叫ぶ心の命ずるまま、女神の口が開かれた。

 

「――――何なんだ、君たちは……間違ってる、こんなの間違ってるっ!!」

 

根本的に違うのだ。この者達の言い分と、自らの認識は全くかけ離れているのだと彼女は理解する。納得だと?それ以前の問題だ。

身体の芯で燃え盛る炎は顔面まで真っ赤に染めていた。地上に在っては何の力も持たない零細ファミリアの首魁は己が迂闊さの招いた事態への後悔は確かにあって、それでも後ろめたさもみっともなさも、何かも吹っ飛ばしてただ喚くのだ。正義は我にありと。

 

「ああ、そうだよっ……全ての始まりからして間違いだらけじゃないか!アルゴス君が罪人なんて――――いいか、教えてやるっ!!あんな、手配書に書かれた罪状――――ぜんぶデタラメなんだよっ!!ボクは聞いたんだぞ。アルゴス君はウソなんか言ってない、全く、絶対に、潔白だ……君達のやってる事はみんなウソの上に築かれた徒労で、鼻くそほどの正当性も有りやしないんだぞっ!!!!」

 

ヘスティアがベルの告白を聞いたあの日、アルゴスに尋ねた、二、三の事柄。その素性、この街へ来た経緯。それだけで彼女は充分だった。充分、その男に手を貸すだけの理由を得られたのだ。

彼女の言葉は、このオラリオで暮らす全ての死すべき者が理解し受け入れるだろう。神に偽りを伝える事は、どんな奇跡でも能わざる所業なのだと誰もが知っているのだから。

 

 

 

その常識がいとも簡単に崩されようなどと、少なくともヘスティアは考えたこともなかった。

 

 

 

「――――神ヘスティア。貴様の言葉を真実だと担保するものは、何だ?」

 

 

「………………は?」

 

 

 

一切の音が絶たれた薄暗い帳は、女神にとってあらゆる生命の存在をその瞬間忘れさせていた。たった一人――――地の底の業火で鍛え上げられた刃のような恐ろしい輝きを持つ眼を向ける、ラケダイモンの隊長以外の、何もかもを。

 

「なに、言っ…………は?……担保?」

 

「貴様ら神々に偽りは通じない。では死すべき者は、貴様ら神々が紡ぐ虚言をどうやって暴ける?」

 

ヘスティアはその質問の意味が理解出来ない。こいつは何を言っているのだ、と心底思った。神に嘘はつけない、確かにそうだ。それで、虚言を……誰が?神?どの神が嘘をついたって?

ゆっくりと、ゆっくりとヘスティアの頭の中が回転する。どれほどの時間が経ったのかも、わからなかった。それほどの衝撃が小さな身体に駆け巡っていた。自らの追う罪人を庇う女神の言葉への異議……いや、違う。一柱の神がくだらない駄法螺をぬかしてそれを糾弾するというような、ごくごく狭い範疇での例を言っているのではないのだ、目の前の男は。

貴様ら、神々。そう言った。本心から、そう言ったのだ、この男は。

髭面の男の全身が発する、圧倒的な威の中に在るものとは――――神という存在そのものへの、不信。何があろうとも、己の全てを他者に委ねまいという、固い誇り――――どうしようもなく愚かで、傲慢な確信、なのだ。

 

(なんだ、それ――――信じられない。こんな人間が、存在するのか!?)

 

「偽り……は、そっちだ……!!……アルゴスは、罪人なんかじゃ、ない!!」

 

「!」

 

俯く少年の言葉は魂を削り出したかのように、切実で、悲痛で、激しい怒りの満ちた代物だった。振り返ってその顔を覗き込むヘスティアは、赤く燃える目を認めながらしかし、彼が確かな正気である事を知る。赤黒く腫れた右手首を抑え、痛みに流れる冷や汗を拭うのも忘れ――――ベルはただ、吠えた。心の底から。

だが主従の姿をただ映していた大きな青い瞳は、歪んだ顔面に似つかわぬ無念をただ浮かべていた。巨体に相応しく大きな馬鈴薯のような、貧相な頭髪の生えた頭が横に振られる。

 

「ベル…………もゔ、良゙いんだ。お前゙ぇはもゔ、関係無え゙んだ……だから゙早ぐ、こごから」

 

「関係無く、ないっ!!」

 

ベルは、アルゴスの懇願を一喝で退けた。この場において最も幼く、弱く、歩むべき道を探すのも覚束ない少年の身体には、狂気の炎の奥に隠されたもっと激しく燃える別の何かが宿っていた。それは彼という人間の、救われ難い弱さの根幹でもあった。赤い、血よりも炎よりも赤い虹彩の奥に燃える何かは、この場の誰しもの目でも捉えられない微かなものであり……そして、誰もが知る力でもあった。

 

「餓鬼の駄々こね等付き合う暇は無い。あるいはラキアを納得させる潔白の証明を成せるすべがあるとでも言うか?」

 

隊長は、この世で最もくだらないものを眺める時におぼえる感情を、その声に込めて言った。神の手を借りても這いつくばって虚勢を張ることしか出来ない塵芥にどうして配慮など出来るだろうかという思いは、何者にも覆し難くそこにあった。

ベルが顔を上げるその時まで。

 

「ある――――ある筈だ……神の、英雄の住まう街なら、そんな方法くらい……!!」

 

ハッタリだった。

だが、世界のことも、他人のことも、自分自身のことについてすらも理解の遠い『子供』には、選択の余地は無かった。力では決して覆せない壁、どんな情を通すのも拒む扉がそこにある。それでも最後の最後まで、何もかもを失おうともあがき続け、自分の歩みを止めてはならないとベルは固く信じていた。目指すものに辿り着けず道半ばで斃れるとしても、それは地に背をついた負け犬としてではない、立ち向かう意思を宿し続けた戦士としてでなければならないと。

見苦しい愚かしさしかこの世に残せないのであっても、死すべき者の出来ること、すべき事はそれだけだと……。

 

「その言葉こそ信じる根拠も無いと、何故わからない?」

 

穂先を突き付ける男はそう切り捨てる。そう、ベルが口にするのは徹頭徹尾稚拙も極まる詭弁であり、一笑に付す価値もないと誰もが断ずる言葉だ。だが――――

 

「本当に、あると思うのか」

 

「……隊長?」

 

上官の言葉は男にとって耳を疑うのに充分過ぎた。ただ強きを求めよと己にも他者にも等しく課し、常に行動だけを尊び、力無き意思に価値は無しと断ずる、まさにラケダイモンの模範そのものである彼は今、……信じられない。まったく信じられない、が――――

男が真意を問うより先に、ベルは口を開く。

 

「見つけてみせる!!」

 

「……」

 

兜の下より向けられる光から、寸分も目を逸らさずにベルは言い切った。必ず、恩人の無実を証明してみせると、心の底からの宣誓だった――――頑として、ぶつかる意思を退けるのも逸らすのも拒むがゆえに、ベルは気付かなかった。

蓄えられた口髭の下で引き結ばれている唇がほんの少しだけ、緩むのを。

そう、男はまったく信じられなかった。こんな、……確かに、所詮はレベル1と軽く見た報いを刻まれた事への遺恨があるのを否定はしない……だがこのような、神に庇われる事への辱めすら持たないだろう愚昧な『子供』相手に、尊崇する隊長は施しを授けようとしているなどと。

 

「正気ですか」

 

「こいつはそうではないらしいな――――その主はどうだか」

 

まったく未知の思考形態を突き付けられた衝撃はもう、ヘスティアの中から過ぎ去っていた。『子供』による精一杯の叫び、壮語で以って願望が垂れ流される今こそ、この暴虐なる収奪を覆す糸口を手繰り寄せかけている――――そこまで理解していた。

剣呑な眼光を向けられ、それを跳ね除けるようにヘスティアは声を張り上げた。憚る悪意が消し飛ぶのを願う無意識が、そのただならぬ威容を大いに盛り立てた。

 

「あるとも!!絶対に、ある!!キミ等の過ちを皆に知らしめる手段くらい、幾らでもあるに決まってるさっ!!」

 

幼い顔は一所懸命に強面を作り出す。大きな目を釣り上げ噛んだ歯を僅かに覗かせる様は、全く蚊ほども誰の恐怖を誘うものでなかった。ただ、自らの言葉に一片の疑いも持っていないだろうその愚かさを知らしめるだけで。

暫し誰もが黙して、主従同士を包んだ固い空気が互いを押しのけ合っているかのように、遠けき街の雑音をかき消していった。四つの眼光と四つの眼光がぶつかる火花を幻視したのは、其の者達が求める化け物じみた外観の片端男だけだ。

 

「ラキアは法治国家だ。人が法を以って人を裁く権利を持つ。神がそれを許している、という名目だが」

 

一息も空気を緩ませぬ重さを持った口調のまま、隊長は語る。隣に立つ男は、誰の目にも明らかにならぬよう祈りながら、動揺に身を震わせた、ほんの僅か。

 

「この件の全ては私が預かっている。……冤罪の疑いが濃厚と見れば、本国に捜査のやり直しの必要性を伝える義務もな」

 

「……!」

 

誰が息を呑んだか、沈黙を保つ者達は自らの声なき声以外察知出来ない。隊長は、目だけ動かして壁に凭れ掛かっているアルゴスを見た。

 

「罪人の身柄はこちらで抑えさせて貰う。……三日だ。三日後のこの時間までに貴様らの戯言を現実に用意出来なければ、ヘスティア・ファミリアはこの街から消えると知れ」

 

「!!、っ……」

 

ベルは、動かそうとした右手の痛みに呻くのを堪えて、左手で懐中時計を取り出した。正午だ。三日後のこの時間、と脳髄に刻まれるやその針が動き始めた。それからすぐに顔を上げる。アルゴスは、信じられないものを見るような目をしていた。他の誰もがわからないのだとしても自分にはそうわかるとベルは思い上がる。幾らでも驕ってみせると、決意が胸の奥に宿っていた。

 

「……お前゙ぇは……何で……」

 

「……必ず」

 

理由を口にするのを躊躇うのは、それを口に出したら燃え尽きて無くなってしまう気がしたからだ。本当はそんな事は有り得ないのだが、そう受け入れるにはベルは幼すぎたし、まだ潔癖で、脆い心を捨てられなかった。アルゴスの問いを遮って、ベルはただ、決意だけを言葉に紡いだ。

 

「必ず、証明する、アルゴス、あなたが着せられた罪は全て――――まやかしだって」

 

決して理で諭せない頑迷さは、善良な性根が生む美しき報恩の顕れだっただろうか。それは、喪失を拒む恐怖と愚かさそのものだと断じられて、誰が否定出来ただろう。だが、少なくともアルゴスは何も言い返す事はしなかった。ただ、頭を垂れた。

 

「歩け」

 

二人の兵士は、のろのろと立ち上がる罪人を挟んで、光の無い洞の奥への歩みを促した。手傷の癒えやらない僅かなびっこ引きの足音と、力強く己が道を疑わない足音が混ざる。

未だ跪いて見送るベルは、太い黒眉の下に光る金色の眼光と今一度、鍔迫り合いを演じる。刹那――――だが、決して、変わらない。自ら退く事は決して無く、それでいて過ちも後悔も疑わない意思を、言葉を持たず理解させるように。

闇の中に影が溶けて消え、耳に届く音も地上の微かな雑踏だけが残るようになって、どれほど経ったか、……ベルは、やっと、首を動かすことにした。どんな顔をすればいいのかわからないし、どんな事を言えばいいのかわからない。それでも主の顔すら見る事の出来ない弱さなど、もう二度と手にしたくないのだ。

そこにある表情は不安も軽蔑も無く、眉尻を形良く引き上げ、目は熱く燃える太陽のように煌めいていた。

 

「かみさ」「ベル君っ……よくやったぞっ!!あとは、無実を証明する方法を探すだけだっ!!」「えぇ!?」

 

ベルはちょっと所じゃない驚嘆で目を剥いた。確かにさっき渾身のハッタリに乗ってくれた姿を忘れた訳ではないが、『子供』による悪足掻きとしか思えない素っ頓狂な言動を諌めるでもなく、主は拳を握って声高らかに言うのだ。

 

「なんだよ、ええ!?って。ボクが雰囲気に流されて援護しただけだと思ったのか。……ベル君よう、確かに、頭に血が上って訳が分からなくなる事は怖い、わかるさ、それくらい。でもあんな乱暴な連中相手に、怒らないのがおかしいんだよっ!逆にそれくらいじゃなきゃ、あんな自信満々に威勢よく啖呵切るなんて出来なかったしな!」

 

ヘスティアは――――ここで敢えて、その議題を持ち出す。今、彼は間違いなく、恩人の救出という神聖な御旗を掲げ、そのための戦いに一歩踏み込んだ。それは、血塗られた運命への入り口などではない。間違いなく、皆に讃えられるべき偉業を成す英雄の姿へ続く、光り輝く道だ。だからたとえ、本質を意図的に違え矮小化するという欺瞞に満ちた詭弁なのだとしても、その憂いを少しでも取り除く機会なのだと思った。

きみの中に渦巻くものは、少し他人よりも激しいだけの感情の発露に過ぎないのだ。遥か格上のラキア兵を相手にあれほど堂々と渡り合う姿が、その証だと!ならばそれを生む正義の心こそ、ベル・クラネルという人間の本質に違いないと、ヘスティアは彼を苛む苦悩についての解釈のすり替えを目論んでいた。そのように明確に意識するのは無いまでも。……こうでもしなければ、彼女の、彼女の『子供』の背負うもの、辿るべき運命はあまりにも重く険しきものに過ぎた以上、誰がそれを責められようか。

 

「それより!今はそんなしみったれた顔してる場合じゃないんだぜ……アルゴス君が居なくなっても良いなんて、そう思うのか?彼が有りもしない罪状で引っ立てられて、そうでなくてもお天道様に隠れて生きなきゃいけない、キミはそれでも良いって?」

 

「――――思いません、絶対にっ!!」

 

気の抜けて、己の決断への不安に満ちていた少年の目に力が宿るのがヘスティアにわかった。そうとも、今……これからする事は決まっている。三日間。長いか短いか……この街の規模を考えれば少なくとも、最強にいけ好かないあのヒゲ野郎の慈悲に感謝する気にはなれない。だが、やるしかないし、やらずにはいられない。全ての手を尽くす覚悟は、今の主従の分かち合う最も激しく近い衝動だった。

 

「よっしゃあ、やるぜベル君!絶対にあの悪党どもの鼻を明かしてやるんだっ!!アルゴス君も堂々と表を歩けるように!!」

 

「はっ…………!!、い、あ痛たっ、う、う……っ」

 

もう一度手を振り上げる主に倣おうとした間抜けな『子供』が、一気に冷や汗を噴出させて右腕を抑える。立ち上がりかけた膝がまた地に触れて、その温度を下げた。

 

「!!、ああっ、忘れてたよ……ごめんよベル君。ボクがあんな奴に……とりあえずミアハの所に行こうか……」

 

すべてはヘスティアの思うように運んだように、少なくとも傍目そう見えるよう収まった会話。其の最後についてしまった味噌の始末に、二人はひとまず零細ファミリア仲間のもとへと向かう事にするのだった。

そう、主と心は一つという理解が、ベルの中からあらゆる懸念を忘れ去らせていた――――己の中の、燃え盛る破壊衝動、狂気。それは確かに常軌を少し逸していて、けれどそれだけの代物なのだと、そう思い込むことで。

眷属の中で今も静かに揺らめく業火とは、遍く死すべき者の命など、すべて塵芥に等しく映るものなのだという事実を主に伝える事もせず……それを自らが垣間見たできごとについても。

熱く疼く手首から下膊までの痛みは、そんな生ぬるい逃避を拒絶するように拍動していた。

まるで、骨まで食い込んで絡みつく鎖のように。

 

 

 

--

 

 

ミアハは『子供』との昼食を終えて、午後の業務の準備をしていた。忙しないのはいつもと同じだが、何よりも大事な存在と労苦を共にする時間は安らかな休息でなくても代えがたく思えるものであり……言葉には決して出さないが、ナァーザも同じだった。

大通りから少し離れた店には、今この時街中を騒がす事案について知るのに少しの時間がかかることだろう。

 

「じゃ、行ってきますので」

 

「うむ」

 

生身の腕に袋を持ったナァーザが、注文した材料を取りに行こうと――――買い物のついでである――――把手をとった瞬間、その扉が叩かれた。

 

「おおおーーい、ミアハっ!居るかい!?居るよな!?開けてくれっ!頼む、急ぎの用なんだっ!」

 

「……だ、そうですよ」

 

振り返った顔は、いつもの気だるげな雰囲気に小さな棘を隠しているように見え、ミアハはそれが錯覚であるよう願うばかりだった。私は巻き込まれてるだけだぞと。そのような懸念も、現れたものを見て主従ともども消し飛んだが。

迷宮へ挑む戦士の姿とは明らかに違う、使い古された軽装を更に汚れさせた少年は、腫れた右腕を抑えて固く表情を強張らせ、小さな主とともに薬屋の裏口から歓迎された。

 

「……懲りないね」

 

「うっ……あ、痛たたっ!」

 

何も言われずともナァーザは察して、処置に取り掛かった。もと冒険者であるし、人体の構造に明るい彼女は、さっさと上着を捲らせると固定具と包帯と治療薬を棚から引っ張り出す。痛そうにするのも構わずに手際よく治療するのはそれだけ慣れてるからか、或いは別の意図があるのか。

『子供』らをさて置き離れたところで、ミアハは少しばかり声を抑えるよう努めて尋ねた。

 

「ヘスティア……また、何か」「ミアハ!!自白剤あるかい!?一発で全部ぶち撒ける強力なヤツをくれっ!!幾らでも出すからっ!!」「何と言った?」

 

こちらを見上げる顔は鬼気迫る勢いを纏っており、開口一番理解出来かねる要求を宣う。痛ましく手傷を負った眷属と、また悶着を引き起こしたのかという予測の遥かな外を突き抜ける言葉でミアハは一瞬、停止した。

そして――――思い当たると、更に声量を潜めて囁くのだ。訝しげにこちらを見やる眷属達の耳には届かないようにするのが、女神のためと。

 

「いいか、ヘスティア……いくらベルが心配だからって、秘された思いとはそのようにして知るべきではないと私は思うぞ。大切にしたいという気持ちがあればこそだな……」

 

「何言ってんだよ!?そっ、それは……そう、もう解決済みだよ、見りゃわかるだろ!?ボクらにゃもう何の蟠りも無い、一心同体なんだから、なっベル君!!」

 

「えっ!?は、はい??」

 

ヘスティアの大声だけではそれがどういう会話なのか観衆にはいまいち判別出来なかったので、突如呼ばれたベルもただ戸惑う。少なくとも其の様は、少し前まで見せていた沈みぶりの面影を漂わせなかった。

 

「神様、ちゃんと事情を話しましょう。すぐにでも、街中に知れ渡ると思います」

 

「あ、そうだね……うん」

 

すぐ面持ちを固くした眷属の進言で、ヘスティアは誤解を招く自らの物言いを省みるのだった。

はたして、掻い摘んで事の顛末は語られる。終わる頃、少年の腕に包帯を巻かれるのも済んだ。

 

「というわけだよ。一時はもうダメかと思ったけど……これでもう万事解決さ。あいつら、まさかこんなにアッサリと覆るなんて思っちゃいないだろうぜ!」

 

説明を終えたヘスティアは、両手を腰に当ててふんぞり返った。まったく連中も主に似てノータリンだぜと、その思考は今や楽勝至極とどこまでも軽くなっている。だが一通り聞いていたミアハも、その『子供』も、決して倣わなかった。そんな空気を敏感に察知したベルもまた、同じだった。

 

「よくわかったヘスティア。そちらの思惑も……それで、こちらとしても重要な事を言わなければならないが……」

 

「ん?ああ、やっぱり値は張るかな……」

 

引き換えにするものなど無くとも幾らだって楽天的な展望を抱けるのがその精神の有り様だけであるのは地上の神も同じである。ヘスティア・ファミリアの懐事情は決して余裕があるとは言えない。だが、足りぬものは手を尽くして賄おうという覚悟に躊躇は無かったし、対面する主従もきっと、それを受け入れてくれるだろうとヘスティアは信じていた。

彼女の愚かさは、そんな部分ではなかった。

ミアハは表情を沈痛そうにしたまま、真実を語った。

 

「……残念だが、薬による証言では何も覆せない、というのがラキアの法なのだ。そなたの望むような力には、なれない」

 

「……、えっ、…………!?!?」

 

開かれていたはずの栄光への道筋が一瞬で閉ざされたという衝撃に、ヘスティアは棒立ちになった。無防備なその心への更なる追撃が、少し離れたテーブルに座る少女より放たれる。

 

「そーいう、非人道的な取り調べはダメって事ですよ……。拷問とか、恐喝とか、法定期間以上の拘禁とか、……薬物投与もね。ロクデナシ達の悪用も凄く厳しく目を光らせてるから、あっちで商売なんてろくに出来やしない」

 

「非……――――ヒ、非…………!!!!」

 

「か、神様」

 

非人道的非人道的非人道的。大きく揺れる鐘がヘスティアの頭のなかで何度もナァーザの台詞を繰り返して轟かせた。わなわなと震え、目を皿のように見開き口をパクパクさせながら顔色を白く、青く、赤く変えていく主の姿は、精神的な失調をすら『子供』に危惧させて――――その、瞬間。

 

「非っっ!ーーーーッヒひっひひ、!!……ひィひ非、ッッッ!!!!ヒ!!!!じ・ん・ど・うっっ!!、だとうおおおをおおおをおおお!?!?ベル君とアルゴス君にあんな事こんな事したロクデナシ連中が、人、道!!!!それを差し向けたあの無体無神経傍若無神超馬鹿野郎がどの口でンな事嘯いてっっ!!??」

 

小さな薬屋を揺るがす大音響だった。いや、カウンター側の通りを歩く人々すらその絶叫を聞いて一瞬身を竦ませる。立て掛けている『休憩中』の看板がぐらぐらと動いて倒れそうになっていた。

 

「おっ、落ち着けヘスティア!」「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

「……神様が元気になって、良かったね。ベル」「……」

 

台風のように荒れ狂う心をそのまま肉体に映し出そうと、羽交い締めにされたまま藻掻いて喚くヘスティア。ベルは知りようもないが、激しい既視感を抱くミアハだった。他方ベルは、すぐヒートアップしてパーになりやすいのはひょっとしたら主譲りなのだろうかという、不謹慎極まる安堵すら芽生えさせるだけだ。

茹だった頭から湯気を放出し激発に身を委ねるヘスティアがやがてぐったりと両足を床に投げ出すまで、大した時間は掛からなかった。既に本日で数えて三度目の大爆発であり、未だ昼食もとっていなかったのだ。

 

「はああ、ふうう」

 

「すまん。だが、出来るだけの協力はするつもりだ。誰ぞ手掛かりを知らないかと、客に尋ねていくくらいだが……」

 

「いえ、ありがとうございます。いつも申し訳ないです……」

 

目を回してグロッキー状態なヘスティアはソファに寝かされ、顔の上半分に濡れタオルを被されていた。どこまでも穏当な対応を貫くミアハに対し、小さくなって頭を下げるベル。

 

「それでさー、次どうするかは、考えてるの?アテはあるの?……話した事は無いけどさ、あの連中、半端な事じゃ引かないよ、きっと」

 

「……」

 

白けた視線を保ったままのナァーザは、決してただの意地悪からベルの前に事実を並べ立てているのではない。神々の奇跡と迷宮から得る無二の力、資源、技術を抱えるオラリオの経済力と並ぶべくも無いが――――それでもラキアがあれほど広大な版図と多くの人口を持ってそれなりの歴史を重ねているのは、その頭目の圧制の凄まじさを意味しているのでは決して無い。従う者達の積み上げた統治機構がいかに優れているかを証明する事はあってもだ。異なる土俵に引きずり込まれた戦いの勝機が限りなく薄いというのは、誰の目にだって明らかなのだ。

だが、ベルの心はどうあっても変わらない。相手がどれほど強大な存在であるかを知ろうとも、それは着せられる理不尽を承服する理由にならないと、そう信じていたからだ。

自分の出せる全ての力を注ぐ以外に、すべき事など無いとも。

 

「だからって、うずくまって悩んだり考えたりしても、きっと道は開けない。手当たり次第、動いてぶつかるしかないよ。……方法はきっとある、僕はそう信じてる」

 

「…………ベル、君は」

 

鋭い目つきをして、ベルはナァーザに返答した。意思を形にするに充分な表情は、それ以上の忠告を無意味と断ずる……ナァーザはそう理解した。だからこそ、言う。深紫色の輝きが細まる瞼で色を濃くするように、ベルには見えた。

 

「やっぱり、馬鹿だねぇ。たった三日で、この街中盲滅法駆けずり回ったって、あるかどうかもわからない奇跡に辿り着ける訳ないでしょ」

 

「ぐ……」

 

曇りない筈の決意へ辛辣に冷水を浴びせられ、ベルの顔は流石に渋くなる。そりゃ、そうだ。わかってるが、あくまで口にしたのは諦める訳にはいかないという心の持ちようであって、などと女々しく返そうともしたが……。

 

「人の心を読み取る技なんて、そんなのよっぽどのファミリアじゃなきゃ生み出せる奇跡じゃないよ。……そういう人達が寄り合う所を重点的に当たるとか、具体的な方針くらい立てなくてどうするの」

 

全く道理にかなった助言だった。ベルは羞恥より、知慧の光明を与えられる感謝を覚えて、それに頷いた。そっぽを向いたナァーザはいつの間にか筆記具を手にして、紙に何かを綴っている。

 

「――――ギ、ギルドに行くんだぁ、ベル君。ボクもすぐ、知り合いを回ってみるから、ナァーザ君の言うように、キミは冒険者達から情報を集めてくれないか……」

 

「はい……神様、あまり無茶しないでください」

 

へろへろな声がソファから上がった。言われるや三角巾に右手を預けて立ったベルは、まるで自分を省みない台詞をほざくのだった。内心呆れ果てながら、ミアハは苦笑した。そうせずにはいられない主従の心を誰よりも理解していたのだ。この小さな薬屋の住民達も。

ナァーザは、手描きの小さな地図をベルに手渡した。

 

「私の知ってる、それなりの人が集まる盛り場。規模は小さいけどね……。そこで何を聞き出せるかまでは、面倒見ないよ」

 

「……うん。ありがとう」

 

単に愚かし過ぎる者への隠し切れない憐憫であるのかも知れない、だが例えそうであっても得られるもの何もかもをかき集めていかなければ、望むものには決して届かないのだ。真っ直ぐ視線を向けて感謝の念を告げる少年に、ナァーザは相変わらず、斜めに構えて冷めた目つきを返すだけだ。

彼女の本心を知っているのは、その主だけだった。いつもどこか厭世的で皮肉っぽいが、それに隠された本質を知る者だけ……。

 

「……何ですか。言いたいことがあるなら言ってください」

 

「ん、いや、いや何でもないぞ、何も思ってない」

 

大嘘を垂れる主の心も計り知れる方法とは、果たしてこの街に存在するのだろうか?ニコニコと気持ち悪く笑うミアハに見送られて裏口から出て行くベルを、視界の端に収めながらナァーザは詮無い事を思った。去り際に残された治療費がきっちり耳を揃えてあるのを確かめる。

 

「なんとお礼を言えばいいやら、わからないよ、君達には……」

 

「そういう大袈裟な台詞は、ぜんぶ丸く収まってからで良いですよ」

 

ヘスティアに返事をしつつナァーザは本音で思う、きっと不可能だろうと。やかましくて、やたらと世話を掛ける小さな主従と関わりを持つのも、これで最後のものとなるかもしれない。……勘定した料金は、普段ベルに払わせている分よりもずっと少ない。これで終わりなのならせめて最後くらいはボらずにおいてやろうか、という人の良さだった。

しかしミアハは、相変わらず笑顔だった。そのまま通りに出れば、女達の目を奪う優男は、『子供』の神経を逆撫でる表情を崩さず、言った。

 

「そうだな――――こういう時に高く貸しておくのも、商売だ」

 

少ししてから、ヘスティアは小さな薬屋を後にした。一本、元気の出る薬をつけで買わされて。

小さな借りだった。その気になれば、今すぐにでも返せるだろう。

これから更に、想像だにしないほどの借りを、想像だにしない相手からする事になるなど、彼女は考えもしなかった。

 

 

 

--

 

 

小さな薬屋の騒動なぞ誰も耳を貸さない理由が今まさに、ギルドへ向かう通りを闊歩している。一級冒険者と遜色ない気迫は、その列の一番目と三番目を歩く者を大きく覆う冷たい鉄塊のように道を満たし、人々を自然に退かせていく。

そして彼らはふたたび、目を剥くのだ。ラケダイモンに挟まれてびっこを引く、異形の大男を見て。

 

「ぎょえっ!なんであんなバケモンが地上に居るんだニャ~!」

 

「馬鹿、よく見るニャ、ラキアのパシリに連れられてるニャ、あれが噂の罪人アルゴスだニャ」

 

「おい、止せニャ、また怒鳴られるニャ」

 

異様な雰囲気でもって固く沈黙に支配されている表通りを、窓に齧りつきながら眺めている人影は絶えなかった。この酒保以外の店でも、概ね同じような光景が繰り広げられていたことだろう。

クロエは神妙な顔で、好奇心に敗北する同僚達を見回した。

 

「……あれはきっと、極東に伝わるフクワライの刑を受けてしまったからなのニャ、あんな見た目のせいで内面も歪んでしまったのに違いニャいのだから、悪く言うのはやめるのニャ……」

 

「フクワライって何なのニャ」

 

「きっといま思いついた適当な駄法螺だニャ~」

 

「おミャあ等が無教養なだけなのニャ!よく聞くニャ、極東の国では不始末をした者の目を隠して、輪郭だけ残してパーツをバラした似顔絵を復元させ、出来上がった顔のとおりに整形してしまうという恐ろしい刑罰が……」「「あっ」」「えっ」

 

限りなく胡散臭い高説も何処かへと消え失せる光景が彼女らの目に映った。丸い眼球の割れた瞳孔が大きくなる。カウンターの中に立つシルも、遠くに見える窓の向こう側に目を奪われていた。

三人の巨漢が店の前を通り過ぎようとするのを、通りの脇に立つミアが腕を組んで睨めつけていた。

まるで戦士たちの正面に立ちはだかっているかのような威容を、外壁を挟んだ店員達は確かに感じ取っていた。

 

「……」

 

足音が止まる。ただの酒場の女主人は、神の街にずけずけと上がり込んで我が物顔で練り歩く免罪符を手にした者共を前にしても気圧されることはなかった。どころか、獣のような四つの眼光を一瞥しただけである。いかなる意思も交わす気は無いとばかりに。

彼女が見つめていたのは、歩を進めるに連れ項垂れ気味だった首を再び持ち上げた、罪人の顔だった。歯を生やした奇形の蟇蛙が如き作りの顔は、口を小さく開いて乾いた息を吐いた。

 

「また…………懐゙かしい顔だ、な゙……」

 

「……本当に帰って来てたなんてね。何年ぶりかねえ?」

 

短い会話で、青い瞳が揺らいだ。かつての日々を思い出しているのだろうか。旧知の異形だが、その機微まで窺い知れる程の仲でも無かったミアだ。

しかし、ただ一つだけ確信出来る事はあった。

 

「……店゙……お前゙ぇの、か……大ぇしだも゙んだ……」

 

「…………馬鹿だね。こうなるとわかってたろうに、何だって戻ってきたんだか。アンタくらいの力があるなら、何処でだって」

 

アルゴスは、後ろの窓に貼りついている連中をちらりと見て、だみ声に感慨深さを滲ませた。視線を刹那合わせただけでぎゃーぎゃーと騒いでる声が中から聞こえたが、ミアにとってはどうでもいいことだ。問いかけを与えられた太い首が僅かに、横に振られた。それだけを見ていた今の彼女にとって、他の情報など無価値だった。

ミアは全てを悟って、無念を表情に浮かべた。踵を返し、扉の把手を握る。

 

「ああ、本当の馬鹿だよ。今更、何かが元通りになるわけでもないのに」

 

「……」

 

扉が閉じられる音は、誰も固唾を呑んで眺めているだけの通りの一角で、大きく聞こえた。それからすぐに、また二つの規則正しい足音と、重いびっこ引きの音が生まれ、去って行った。

戻ってきた店主の大目玉を恐れて壁際に固まるキャットピープル達を他所に、シルはただ吐き出せない言葉を堪え、ミアを見つめる。そして、その小さく緩んだ口元からこぼれる、力ない台詞を聞いた。

 

「……男ってのは、皆そんなもんなのかね……」

 

死すべき者であるならば、誰しもが変わるものだ。しかし、誰しも変わらないものを持ってもいるだろう。その周りが変わるだけで、立場も変わるという事もあるだろう。誰しもそうだ。

シルには、店主にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。

それだけの知恵も、積み重ねも、持っていなかった。

 

 

--

 

 

好奇と生理的嫌悪の眼差しを浴びながら、罪人は街の中心部まで連れられた。専用の通用口からギルド本部へ入ったおかげで人集りに阻まれはしなかったが、少なからずすれ違う職員達も例外なく目を剥く。既に騒ぎは届いていたとはいえ、迷宮の住民とも縁深いと言えないかれらにとっては、出来損ないの巨漢の姿は同種としての近親憎悪じみた得も言われぬ恐怖を想起させた。おとなしく頭を垂れさせて歩かせる二人の戦士への畏敬の念とともに。

一行は更に奥へと通される。魔石灯の点在する長い階段を歩いた末に、凶悪犯を収容する地下牢の一角までたどり着き、そこでひっそりと実検が成されていた。

薄暗さの続く空間は、地上に溢れる欲望の掃き溜めが澱んだが如く、ここの住民達の心を苛む空気を保っている。しかし咎を持たない者にとっては、ただ少し湿っぽい、厳重なだけの手入れされた集合住宅に過ぎない。

 

「ああ……間違いない、このエンブレムは。乳飲み子アルゴス……まさか生きていたとは。……その、彼女からの伝言でもあってかね?」

 

ロイマンは大きな背を見上げて、驚きと郷愁を抱きながらため息をついた。その青い瞳を模した孔雀の羽の画がかつてこの街を牛耳った二つのファミリアの片割れたる証と、覚えている者はどれほど居るだろうか。激烈極まる性情で多くの神も人も恐れさせた主たる女神の振る舞いも。

しかし複雑な感情を含んだ問いかけに対しても、手と首に頑丈な枷を嵌められて獄吏達の手から伸びる鎖に繋がれたアルゴスは、何の返事もしなかった。

太い格子の扉が重い音をたてて開き、罪人はそこに収容される。機械と魔法による二重の仕掛けは、必ず特定の人物が立ち会わねば解くことは叶わないものであり、また人智の生み出すいかなる力も砕くのに及ばない。それこそ、迷宮に蠢く者共の牙すらも退けるだろう。鎖が壁に繋がれた。

 

「思い出に浸るのは、ここでなければ出来ない事か?」

 

「おっと、失礼しました。さて、そちらの用件は全て済んだと見て構いませんか?今日が期限という事になりますが、いつお帰りになると?」

 

眼光と同じように研ぎ澄ました声色にも、ロイマンは平然と受け答えした。余計な衆目も無い、陽の届かないオラリオのもう一つの闇の底では、侮られる為の仮面など必要なかった。本音を偽る意味もだ。

 

「延長だ。匿っていた共犯者を探す。拒否出来る道理は無いだろう」

 

「熱心な事で……ではもう三日ばかり、どうぞ存分に」

 

冷めた感情が口調に表れるのを、ギルドの長は取り繕わない。ラキアの目論見などはなから見通している彼は、戦神の浅ましき貪欲さには呆れ果てるだけだ。糞真面目に従う眷属への憐憫は、彼らの徒労を見越しているゆえに生まれた。哀れな罪人に悪意こそ抱きようはずもないロイマンだが、しかし今のオラリオの住民達の中でこの乳飲み子の人となりを理解しており、あまつさえ匿おうと考える者など居ようかと思うのだ。

その共犯とやらは、何の利があって、怪物そのものの風貌の、恐るべき罪状の知らしめられている大男を庇うだろうか。ロイマンには及びもつかない。ましてや今こうして獄に繋がれ然るべき裁きの時を待っている状況を覆そうなどと考えるものだろうか?尋常の理性の持ち主なら今頃はただ全てを諦め、出会ってしまった不幸、情けをかけてしまった過ちを後悔しているだけだろう。

前を歩くラケダイモンに続いて暗く冷たい石の廊下を歩くロイマンの頭からは、街に生まれた小さな波紋の原因など消え去りつつあった。もっと切実な問題など幾らでもあるのだから。

足音が途切れて聞こえなくなってから、牢の前に佇む獄吏は口を開いた。

 

「……この街の誰も、あんたに恨みがあるわけじゃないし、あんたに掛けられた容疑にしたって、少なくともロイマン様は信じちゃいないだろうさ。ただ、守らなきゃいけない決まり事があるからあんたはこうなってるんだ。悪く思ってくれるな」

 

獄吏達は同情心を失くした怪物などではなかったが、ただそれだけだった。果たさねばならない使命に従い、この場所を守り続ける。資格無き者の一切の出入りを阻もうと。

死すべき者が勝手に作り出した枷は彼ら自身を縛り付ける。神の街が誇る権勢も関係無い。真偽の程も、個人の意見も、……地に降り立った絶対者すらをも超越してそれは存在するのだ。

 

「……」

 

鎖が、床と擦れて音を立てた。鈍い痛みに耐えながら、座り込んだアルゴスは静かな息遣いを続けていた。大きな瞳が瞼で細まり、その焦点は今この場所ならぬどこかへと向けられている。

時刻を告げる鐘の音が地下牢に響いても、アルゴスはじっと座り込んだままだった。緊張の糸が緩んで眠りにおちる頃にはすっかり地上も夜闇と星明かりに覆われていたが、勿論彼がそれを知ることはなかった。

 

 

 

 

 







・役立たず、タマ無し野郎
ダンまちのウラノスはどうなのか。深い謎に包まれている。

・捻じくれ根性したクソッタレの陰険ヒスババア
それでも研ナオコ似ではないだろう、少なくともダンまちでは。

・神々が紡ぐ虚言
「許すとは言いましたが記憶を消すとは言ってません」
嘘ではありませんよクレイトス。

・ラキアの法、オラリオの法
全部捏造。全部。




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