眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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上げまんた。





大きなお世話

 

 

 

まだ陽は落ちていないけれども、エイナの気分はあまり明るくは無かった。それは決して表情には出さないが……。

それと云うのも、遂に捕縛されたという罪人の話で持ち切りの本部の空気だ。

 

「見たか!?あれが人間なんて、信じられるか」

 

「どーいう病気でも貰えばあんな風体になれるんだろう?」

 

「いや、怪物の呪いって聞いたぜ。昔はそんなとんでもねえ奴が迷宮に棲んでいたとか」

 

「どうあれ罪状に違わない化け物ってわけか」

 

「まあ大人しいもんだったけどな、ラケダイモンってのも伊達に精鋭呼ばわりされてないのか」

 

先日における小さな女神の妙な様相によって刺激された好奇心は、この一件についてのひとつの見地を養わさせていた。失われたファミリア、長い時間を経て帰って来た男……罪人の正体、その過去。かつて彼は確かに、この街において神々の為に命を賭す戦士の一人でもあったということ。それは、彼女の良心を密やかに、確実に蝕むものだ。いくら面識も無いとはいえ、かつての同胞に向ける言葉がこれか……と。そして、そんな綺麗事を胸中で宣うへの自己嫌悪も生まれる。確かにその風貌に息を呑んだのは、自らも同じことだと。やり切れなさに項垂れたくなる。

ハーフエルフの職員は、果たして自分はこれほどにナイーブな性情であっただろうかと些か苦悩する向きすらあった。おそらくここに集う人々は、単に見たまま、感じたままの事を口にしているだけだろうに。遠き戦神の奸計など、いちいち理解に労を費やすほどの価値など無いとは、確かにわかるが。

 

(ちょっと前までは、こんな風じゃなかった……筈なのよね。どうしてまた)

 

良かれ悪しかれ、多くの死すべき者たる剥き出しの感情と向き合わねばならないこの仕事で、そこそこに業務に揉まれていれば慣れてゆくものだというのに。割り切れるようになり掛けていた自分が、まるで世間知らずの乙女か?彼女自身気付けないその原因は、すぐ目の前にやって来ていた。

灰をかぶったような白い髪と、血のような赤い瞳を持つ少年は。

 

「エイナさん?」

 

「――――ベル君。……また、そんな怪我して!君は……!!」

 

あらぬ方角を向いていた意識から戻された瞬間、彼女は職員としての態度も忘失してベルに食って掛かった。固定具と三角巾を着けた右手は、怪物祭における知られざる勇者の末路を再び思いださせるのに充分過ぎた、少なくともエイナにとっては。

無意識下で荒げられた声に気づくのも速く、慌てて口を噤む。幸い、周囲の人集りが意識を向けているのは、相も変わらず罪人についての事だった。

醜態を無かった事にするように、エイナは眼差しを厳しくして駆け出し冒険者と相対する。それは、あの凄惨な戦い以来ろくな会話も出来なかった事への自覚なき不満もあってだが、そうと理解するだけの時間も彼女は与えられなかった。

だがベルの顔には、遠くからは飼い主に捨てられた犬の如く見えたかつての有り様などまるで感じさせない、確かな意思を秘めて引き締まった表情が浮かんでいた。

 

「この前は散々心配かけてしまって、本当にすみません。ろくに話もしないままで……そんな手前でとわかってるんですけど、お願いがあって来たんです」

 

「っ……はぁ、もう。冒険者らしく、ハチャメチャになっちゃったねベル君も。いつかとんでもないことになっても、知らないよ?」

 

その慇懃な態度には、口をついて出そうになった様々な説教を飲み込まさせるものが感じられる。散々に気を揉ませた報いを受けさせるにはどうしてくれるのが良いだろう?少なくとも、彼が今抱えている面倒な案件が済むまでは、その時は来るまいとエイナは思った。

額を指で抑える職員の様に躊躇せずに、ベルの口上は続いた。

 

「……助けたい人が居るんです。その人に着せられた罪が本当かどうか、証明する手段を探してます」

 

「え、罪が?、て…………、……………………!!!!」

 

エイナは一瞬だけ、その言葉の真意を図りかねた。だがすぐに火花が散るような感覚が頭の中に生まれて、帰って来た罪人と、其処彼処で囁かれるラキアの真の目的と、深夜に潜るようになった駆け出し冒険者と、小さな女神の奇妙なふるまいが結合する。彼女は今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。

脳の血流が不安定になるのを感じる。頭を支えるよう右手の肘を机に立て、低くうめいた。

 

「……私と君を引き合わせた運命を恨みそうになるわ」

 

恐るべき頻度で厄介事を引っ張って現れる少年に対する、率直な感想が漏れ出た。エイナは眉間に皺を寄せたまま、じろりとベルを睨めつける。冒険者が危険を冒す愚を省みなければその命は容易く尽き果てようという教えを、彼は未だに理解していないというのか。それは、職員として、いや対等な人間としての自分の意見を軽んじている事に他ならないではないか。胸の隙間に入り込む、仄かな失望。

だが彼女の視線を正面から受け止めるベルは、やはり、迷い無くその言葉を口にする。

 

「僕は、エイナさんに出会えたことを感謝してます。何も知らなかった田舎者が、今ここで冒険者を名乗っていられるのは、エイナさんが色んな事を教えてくれたからです。……本当に、どんなにお礼を言ったって足りないし、どれほど失礼な事をしてるか、謝っても謝っても元に戻せるなんて思ってません」

 

彼にはやらなければならない事があった。歩かなければならない道があり、得なければならないものがあった。それら全ての為に必要な事が、今自分のしている事なのだとベルは知っていた。

 

「……それは、あの人に対しても同じなんです。何も無い僕がここに居られるのも、また立ち上がって前に進もうと思えたのも、あの時あの人と出会えたからなんです。このまま諦めるなんて出来ません。そんな事をしたら、僕は本物の腰抜けのままなんですっ!!――――!!」

 

「!――――」

 

固く握られた両拳は、カウンターに叩きつけられて大きな音を立てた。瞳を燃やして右手の包帯から血を滲ませる姿に、エイナは完全に呑まれる。激情に焚べられた使命感は、彼のあらゆる身勝手さを見る者に許容させる威とすらなって顕れ、そして同時に周囲の人々の意識を漏れなく集めてもいた。水を打ったような沈黙が訪れる。とても、僅かな間だけ。

 

「――――っ!い、あ、あ、い、痛、~~~~っっ!!」

 

「!!あ、ちょ、ちょっとベル君!……っひょっとしてこれ、やっぱり折れてるの!?まったくもう……!!」

 

自らの持つ肉の器がいかなる状態かを失念していた間抜け野郎が涙を浮かべてうずくまる光景は、それを見ていた者達の緊張感をすぐに消し去ってしまった。――――かれらが自覚できなかった確かな危険信号とともに。

職員に左手を引かれて本部を後にし、そのまま駆け出し冒険者は医務室へと急き立てられた。

二つの人影が消えた後、ロビーはまた、平時の有り様を取り戻していた。自分達とは関係無い事象を肴に談笑する冒険者達が他に口にするのは、手にした扶持の程くらいだった。

 

「君は、アレか。血と一緒に記憶も流れ落ちる部類の冒険者か。意外と多いんだよ、そういう奴は」

 

容態を診た医師が表情を変えずにつぶやいた。折良く治療を待っている者はいなかったので、それだけの皮肉を飛ばす余裕もあったということだろう。まして先日、死の淵に立ったベルを担当したまさに当人であるのならば、さもありなん。

だいたい自分の爪で掌を刳った傷など、絆創膏ひとつあれば人の手を借りる必要も無いとは誰だってわかる。無理やり引っ張ってきた職員の動転ぶりがどれほどのものか伺い知れよう。

 

「しかし、よく処置されてるな。こうじゃなかったら君、手首が外れて取れてたかもな。そっちのほうがエイナちゃんにしてみてもザマミロってなもんか」

 

それはやはりただの冗談だったが、ベルは返す言葉が見つからずただ歯噛みして黙った。かたやそうもいかないのは、横に立つ職員である。

 

「わ、私は本当に心配だっただけですよ!!……あの時だって、本当に……」

 

「……」

 

これ以上ベルに余計なものをおっ被せたくない一心で、エイナは大慌てでまくし立てる。僅かに本音が漏れたのは、それだけ彼女の心は大きく動かされていたからだ。蘇るは全身を血に染めた惨状、潰れそうになる胸の痛み。そしてほんの先刻に垣間見たただならぬ決意の程と、内に秘める純粋なその思いの丈。少しばかり冷めつつあった年下の冒険者に対する感情が再び熱を取り戻し、いやさ更に猛って吹き出しそうかとエイナは危惧していた……主に顔面を中心に。

が、ちらりと目線を寄越せば、その変調を呼び起こしてくれた当人はただ真剣な面持ちでこちらを見つめているだけだった。はた、と畝る心境が急に平らかになるのをエイナは感じた。

そして理解する、自分がするべき事とは――――という、使命感。小さな少年が為そうとしている事の無謀さもエイナはわかる。だが、それを知ってなお、いやだからこそだ。自分の事を頼って来たのだ。応えないわけにはいかない、と、緑色の双眸に凛とした煌きが宿る。

 

「……私は、君の担当だから!その責任の範囲でなら!手伝う。それだけ。いーい?ベル君、君が何処をどんな風に突っ走るにしても、その結果は全部、君と……ヘスティア様が、背負わなきゃいけない。わかってるよね?」

 

エイナは薄々感じている危惧も口にして、念を押すように詰問する。この愚かな少年は、自分の身が自分だけのものではないという事をもっと深く理解するべきなのだと。そうでなければ、彼が掴み取るものは以前のそれよりずっと残酷で無意味で、そしてこの街では極々ありふれた最期だけだろう。そんな心胆の凍てつく想像が彼女に対し、明らかに職務を逸脱した個人的な思い入れを顕現させる。いや、これは、あくまでも小さな女神の事も慮った言葉なのだと自分に言い聞かせつつ。しかし――――

 

「エイナさん」

 

三角巾に腕を通したベルは、強い言葉と眼光に決して怯まなかった。静かな意志は、カウンターを揺らした際の激情が燻ぶる灰のようでもあり、今にも燃え上がりそうと全身に満ちていた。

 

「結果なんて、決まってます。……あんな罪状、全部嘘に決まってる。ありもしない罪を着せて枷を嵌めるなんて過ちが、まかり通るはずがない。証明は必ずしてみせます」

 

「――――」

 

医師の存在も忘れて、エイナは赤い瞳に釘付けになる。一瞬だけ、確かにそうなった。

それから、たまらなくなって両手で髪をかき乱す。

 

「、ああー、もおおっ!!」

 

はじめて会った日、吹けば飛びそうな、つつけば折れそうな、あどけない顔をした少年。同じ顔の……当然である。少し目を離していた間にここまで印象が変わるものだろうか。度し難い頑迷さと傲慢さを隠そうともしない物言いをさせるものとは、いったい何なのだろう?だいたい主はこの蛮行を許容しているのだろうか?

様々な疑問が渦巻き、エイナの身体は震えてその頭を垂れた。おおおおお、と呻き声が出る。外聞も関係無い、そんなものはバベルの窓から投げ捨てちまえというべき姿だ。怪訝そうな顔つきになったベルは流石に手を伸ばしそうになり、医師は黙って面白そうに見ていた。

そして、勢い良く顔を上げる。

その目は据わっていた。

 

「わかった、よおっくわかったわよ!もう好きにしなさい!お馬鹿な君が行き着く所まで行くのを、私が見届けてあげるからっ!」

 

目一杯の虚勢を張って、エイナは敗北宣言を行った。いっそ潔くもあろう、少なくとも医師はそう感じた。

 

「はい。よろしくお願いします、エイナさん」

 

「はいはい!よろしくされました!わかった事は後で届けてあげるから、もうどこへでも行っちゃいなさい!」

 

表情を緩めて頭を下げるベルに、エイナはシッシッと手を振った。歳よりも幼く見える人懐っこい笑顔からあえて目を逸らしていた。これ以上心乱されるのは望む所ではない。そんな思惑など及びもつきはしないだろう少年は、振り返るや早足で歩き去る。怪我人とは思えない強い足取りの後ろ姿は、屹然とした陰影をエイナの薄目に見出させた。揺るがない思いは確かにそこにあるのだと。

 

「……っっっ、は、あ゙あああああっ~~~~…………、……あ、あああーーーーああああ゙、……」

 

扉が閉まると同時にどっと疲労感が押し寄せて、そのままエイナは椅子に座り込んだ。腹の底から鬱憤を吐き出すかのような声は、誰かに聞かせられるようなものではない。それでも誇り高きエルフの血をひく姿かとここに居ない母は言うだろう。

 

「気になる奴があんなのなんて、エイナちゃんも大概に物好きだね」

 

「!!!!、違いますよっ!!」

 

医師が薄笑いを浮かべて囃し立てて来るので、エイナは髪を逆立てて応戦する。彼女自身知らぬ本音を突かれた過剰反応なのは言うまでもない、しかし、そうと見抜いている医師は気圧されずに続けた。

 

「ああいうのは、長持ちしないんだよ。何人か同じようなのが居たんだ」

 

「……そんなの、誰にもわからないですよ」

 

エイナは身だしなみを整えながら、忠告じみた台詞を聞き流そうとする。尤もらしい理屈など余計なお世話というものだ。それは自分も彼に対して行い、叶わなかった。同じようにして何が悪いと開き直る。過去の例などいくら重ねたって、それが未来を確定させるなどという事は有り得ないだろうに、と。

 

「勘違いしちゃ駄目だよ。君が知っているような輩じゃない。アレはね、自分が死なないと思ってるような甘ったれなんかじゃなくてね……もっと救い難い愚か者だと私は見るよ」

 

冷え切った声色に微かな怖気を感じ、エイナは振り返った。

医師の表情は消えていた。

ベル・クラネルを死の淵から引き戻した者は、その確信を疑わずに、口にした。

四肢も臓腑も拉げさせ、その血を全て絞り出したかのような様だった少年が、なぜそこに至るまで立ち止まれなかったのか、その理由を察していたから。

 

 

「ああいうのはね……目の前のものをブチ壊す為なら、他の何もかも……自分の命さえ、忘れてしまえるような――――」

 

 

--

 

 

エイナの目つきは、ばらばらと捲っていく資料の、その情報の一欠片さえも漏らさず脳に取り込もうという貪欲で深い闇を湛えているかのように同僚には見えた。

ここまで一心不乱な様子は、同期の誰も、そして彼女に懸想を寄せる冒険者達も、その記憶に無かった。こうもさせる理由とは如何なるものなのか、それを尋ねるのも憚られる真剣な面持ちで、彼女はこの街のあらゆるファミリアが目覚めさせた奇跡を調べていた。

そんな最中にも脳裏には、医師の言葉がいつまでも反響していた。

 

 

『――――人の皮を被った、怪物に近い連中なんだよ』

 

 

エイナの没頭ぶりは、その言葉を忘れてしまう為にこそ顕れたものなのだと、誰も知らなかった。

 

 

--

 

 

「成る程、……よく、わかったわ。ええ。でもヘスティア、あなたもそうとう思い切った決断をしたのねえ。ちょっと信じられないわ」

 

青果店の裏手で秘密の会話が行われている。蜂蜜色の髪を日陰に隠し、デメテルは腕を組んで渋い顔をしていた。頼みがあると前触れ無くやって来た小さな女神に対し当初は施しの拒否を表明したが、すぐに事情を説明された。顔を真赤にされたまま。

それはまったく驚くべき内容だった。少し前までは他のファミリアに集ってグータラ三昧していた彼女は、あろうことかこの街に向ける牙を研ぐ連中を正面から退ける手段を探していると。

正直な感想はヘスティアの誤解を招いた。

 

「んな、何を信じられないんだよ!?デメテルだってわかるだろ、あの娘の『子供』が――――」

 

「ああ、違うのよ。私だって例の子の事を疑ってなんかいないわ。ただ、単にね……つまり、算段もついてない賭けみたいなものでしょ?あなたのやってる事は」

 

デメテルは、ヘスティアの顔をじっと見つめた。まさしく必死そのもので、その決意の固さ、抱く主張の正しさへの確信を揺るがすには、どんな言葉だって無意味だとわかる。

 

「そんな大胆さもあったのね、って驚いているのよ。それだけ」

 

「……ボクの『子供』が選んだ道だ。何をしたいか、どこへ行くかにしたって、思いは一つだよ」

 

静かな言葉は、通りの喧騒から離れた場所において、そこに込められた気持ちの重さが知れた。デメテルは、ふと遠い憧憬に思いを馳せた。

 

「そうね……そういうものよね。大切な『子供』なら」

 

「?」

 

含みを持たせた言葉なのだという事以外、ヘスティアにはわからなかった。首を傾げて疑問符を幾つも浮かび上がらせる顔に、デメテルの神妙な表情も緩む。

 

「――――まあ、私の手の届く範囲で調べてはみるけれど。正直言うわ、期待はしないでね。人の心を知る奇跡の業なんて……この街じゃ需要なんか無いでしょ」

 

デメテルの指摘は結局のところ核心を突いたものだった。神の御前ではあらゆる偽りなど無意味だというのに、誰がそんな奇跡を選んで生み出すだろうか。誰か必要とするだろうか。

殊に世界の経済の中心たるこの街では金を生む力こそ誰もが望む奇跡なのだ。道徳の是非について、教科書で学ぶ以上の意味を考える者はどれほど居るやら。

 

「……くそっ、なんだ、需要需要って。みんな、自分が必要ない、知らないものは無いのと一緒だと思い込んでるだけだっ!絶対あるに決まってるっ」

 

「そうね。あなたも頑張ってねヘスティア……。……もしラキアに行く事になったら、餞別くらいは寄越すから」

 

「なんて事言うんだよ!?そんな事はぜえっっったいに有り得ないんだからなっっっ!!」

 

不穏な事夥しい励ましを送るデメテルに対し、ヘスティアはぷんすかと怒りながら背を向けてさっさと歩いていった。尋ねなければならない場所は幾らでもあり、そして時間は決して止まってくれないのである。

路地の隙間を抜け表へと消えた背に視線を固定して、デメテルは何事かを思案し続けた。

 

「本当に大切な『子供』なら、どうしてそれを放っておけるのかしらね……」

 

店の裏口に入った女神のつぶやきは、傾く陽に覆われた広い街の陰に溶けていく。誰に知られる事も無い、その思いと一緒に。

 

 

--

 

 

街の南側に広がる繁華街は、夕闇の迫る頃合で増々人通りも多くなっていた。娯楽施設の林立するここいらは、迷宮のある街の中心部と比肩でき得る経済規模を誇る。

かつて住んでいた村とはケタ違いの人口密度を誇る場所でもしかし、ベルは未だ望むものの手がかりを得られずに居た。

 

「注文も無しに居座ってアレコレと情報だけ頂こうなんて、見上げた図太さだなァ、坊や」

 

「お、お願いします、なんでもいい、何か心当たりのある人でも……」

 

粗末な服を着た手負いのレベル1の冒険者は、どう贔屓目に見ても高級酒場に相応しくない客だったが、従業員の対応は比較的温情のあるものだった。ベルは、自分よりもずっと背丈のある男の手で表に放り出され、それでもいじましく縋り付く。

短く髪を刈り上げた男は軽く鼻を鳴らした。

 

「無えよ。在ったとして、タダで教えるようなお人好しが居たら……そりゃ、坊やをだまくらかして、オカマを掘っちまおうって奴だろうさ。生憎ウチはそういうのお断りだ、よそ行きな」

 

「……!!」

 

分厚い木の扉が閉まり、精微な彫金の把手が音を立ててそれきり外界を遮った。少なくとも、その前に佇む少年を決して通さない防壁と成って。

男の残した台詞はその中に含む果てしない憐憫と侮辱をベルに理解させて余りあった。今日顔を伏せてただ怒りに耐えるのは、これがはじめての事ではなかった。

誰もが彼を侮る。女も知らぬような子供を。

誰もが彼を知らない。レベル1の冒険者が如何なる功を立てたかも。

誰もが彼を哀れむ。一人で街を彷徨う怪我人を。

そして、誰もが、それらを理由に施しを与える事もしなかった。

それでもベルは再び足を動かして、通りの雑踏に混ざって歩き続ける。ナァーザに貰った地図を手に、次の場所へ向かう。立ち止まる理由など何も無かったし、彼はまだ何も失ってなど居なかったからだ。

何かを失うとすれば、その歩みを止め、全てを諦めた時だけだ。骨の髄まで染み込んだ信念が、今のベルを突き動かす。大通りに溢れ返る言葉、視線、温度、それらは容易に人ひとりの意思を呑み込んで消し去る力を持っているが、少なくとも今はたった一人の少年を押し止める事はしなかった。

 

「は~、知らんなあ。んなナリで、注文ひとつも出来ねえ財布でこんな所にご苦労なこったけど、本当に知らん。悪いな」

 

「は?心を覗く方法?お前さん、ここがどういう場所かわからんか?まさにその望みが叶う場所と思わんかな……こいつを飲み交わして叶わないなら、そりゃ儂らは知るべきではないという事よ。おっと、奢らねえぞ」

 

「ウソツキなんて、アタシのカミサマにかかればイッパツだし~。イミワかんない~。バカみた~い」

 

「金だ」

 

「なんだってそんな力を手に入れる必要があるんだ?他人の本心なんて知っても碌なもんじゃないぞ、やめとけ」

 

「ボク、好きな女の子の気持ちでも知りたいの?」

 

じっさい慈悲に縋って手に入るのなら幾らでもベルはそうしただろうが、結局のところその尽くは実らなかったし、大体ナァーザの示した店はそもそも零細軍団の一員が溶け込むには金額的に無理がありすぎたのだ。ベルの話をまともに聞こうとする者はそうそう居ないし、探すだけの時間も多くは得られなかった。

ナァーザはもちろんこの結果を予測するのは容易かっただろうが、彼女への恨み言を紡ぐ気にはならないベル。示された道筋の先にあるものを手に出来るかは、そのひとの力次第であり、保証など誰も持っていないではないか。

 

(……今日はこれで、最後だ)

 

いくら時間が惜しいとはいえ、休息も無しに駆けずり回るわけにはいかなかった。戻って主と情報の整理をしなければならないだろう。ベルは決意とともに足を速めた。

繁華街の外れは空まで照らすような灯りも収まり、代わりに多くの間接照明の放つ光が立ち並ぶ妖しい景観が広がっていく。色街との境目にある区域にはそういう目的でやって来る男達と、そういう男達を目的に立つ女達の姿が僅かずつ見られた。或いは、そんな連中を相手にする盛り場も少なからずあった。

レールに囲まれた二枚の板で作られた扉は枠の中を曇りガラスで覆われていて、はじめて目にするベルにとってはどのように開けばよいか少しだけ思案させた。

 

「あのっ」「お゙え゙~~~~~~~~~」「おい!絶対汚すんじゃねえぞゲロ女!!」

 

「チッ、だらしないね。迎え酒なんて意味無いって言っただろうに……ん?」

 

開いた引き戸から店の中へ投げかけたベルの声が、濁った嗚咽と水音で遮られた。顔を覗かせて硬直する一見の客を、紫紺の短衣と薄布で着飾ったグラマーなアマゾネスが出迎えた。整った吊り目と膨らんだ唇が、挑発的な色香を濃く形作っている。これが、街中の曲がり角での出会いならばその姿に暫し見惚れていただろうが、生憎その美女は座敷にあぐらをかいたまま、もう一人のアマゾネスの背中を擦っていた。色気も糞もない。

苦々しくそれを見ていた店主は、新客の存在に気付くと一瞬でにこやかな表情に変わった。

 

「あ~すいませ~ん。カウンター席へどうぞ~。その人らは気にしないで……オイさっさと便所に行けよ、お客様の邪魔だろ淫売ども」

 

「はっ!その淫売が居なけりゃとっくに潰れてるボロ酒場の主人が、偉そうなもんだ。おら、立ちな」

 

「うげえええ……ゔぼお゙お゙お゙…………」

 

盥を抱えたままのアマゾネスは、酸鼻なる香りを仄かに残して店の奥へと消えた。見送る美女とも遜色ない麗しさも台無しの有様は、万人による冷ややかな視線を博した。未だ店内に足を踏み入れていないベルを除いて、二人だけの。

 

「ほら、ぼーや。さっさと入ってきなよ。安酒ばかり揃ってるところだし、いざとなりゃ踏み倒して逃げちまえばいいのさ」

 

「アッッハハハハハお客様、こいつらは脳味噌に精液が詰まっちゃってるんで、もちろん何を言っても聞き流してくださいな。ご注文お決まりになりましたらお呼びください……てめーらはさっさと帰って働けよ」

 

「フン」

 

目の前で繰り広げられる一連の流れは今日訪れたどの場所とも異なり、凡そ最低限の礼節も格式も感じられないやり取りばかりであった為に、ベルはひょっとして入る場所を間違えたのかとさえ思う。それを差し置き無精髭を生やした主人は営業用の笑顔と顰めっ面を使い分けつつ厨房に引っ込んだ。

ともかく入り口を塞いでいるわけにもいかなかったので、言われるままにベルは戸を閉めカウンター席のほうへと歩を進めた。壁に敷き詰められた品書きはこじんまりとしながら猥雑な店内の雰囲気を演出する。それはきっと、妙に素朴な作りと似合わない褐色肌の美女の存在あってのことだろう。

 

「おやおや、冷たいもんじゃないか。二人きりなんだから、仲良く飲もうとか思わないのかい」

 

「え、その……」

 

座敷に立ち上がる長身は、それと見合う歩幅であっというまにベルに肉薄した。妖艶な肢体を惜しげなく晒すような服を纏う彼女が、そういう職業の人間なのだとベルは既に理解している。胸の鼓動が大きく脈打って――――漂うアルコール臭は、蘇る苦味とともに少年の理性に冷水を浴びせた。頭半分ほども低い背丈の少年がいかなる胸中であるか、知るはずもない彼女は持っていた杯を差し出す。

 

「いいよ、奢りさ――――おっと、ご指名されたいって訳じゃないから勘違いしてくれちゃ困るよ。今日はそういう気分じゃないからね……あんたみたいなのも興味あるけど、フフフッ」

 

「…………っ」

 

挑発的に軽口を叩く彼女の心情などベルには窺い知れないが、今日巡った酒場に居た多くの人々とさして変わらないだろうとは察した。衝動的に杯を取ると、湧き出し溢れそうになる昏い感情もろとも一息で飲み干す。

 

「へェ。思い切りがいいね……けっこう強いんだけど」

 

褐色の美女――――アイシャは、意外な勢いの良さに少しだけ印象を改めた。傷つき疲れ果てた兎のような少年だが、それともこの姿は自棄の作り出す虚勢だろうか?……そんな見立てが誤りだと知るのは、すぐだった。

熱が喉を通り、胸の奥に染み渡っていくのを感じるベルは、その更に奥……彼も、彼以外の誰も未だに知らないその場所で蠢く、凍てつき、畝り、全てを縛り付けて――――焼き尽くそうとするものに、アルコールの生み出す一切の興奮作用が打ち消されたのを理解した。むしろそれは、彼の心臓から逆流し、脳と爪先まで覆い尽くすようでもあった。

アイシャは、顔を上げた少年に少し瞠目した。引き結んだ唇と上がった眦、眉間の皺、そして瞳に赤く揺らめく光に、閨の中の男達ならよほど浮かべないだろう激情の片鱗を感じた。

 

「――――こんなもの目当てに来たんじゃありません。絶対に見つけ出さなくちゃいけないものがあるんです」

 

「……こんなもの、ねぇ。まあいいさ、言ってみなよ。泣き言聞くのも慣れてるよ」

 

向けられる真剣な表情を受け流すように、ベルの隣に座ったアイシャは水を一杯注いで口にする。自分の感じたものはきっと、酔いと物珍しさが生んだ幻覚だろうと思いながら。

それに構わずベルは掻い摘んで……ただ、今の自分の目的だけを話すのだ。他の場所で別の者達に聞かせたのと同じように、誰が必要として目覚めさせるかも、それを得ようかも知れたものではない奇跡を求めている事を。

大した時間は掛からなかった。店主が食器を洗う水音と、店の奥から漏れる嗚咽は相変わらず絶えなかった。

 

「ふん?で、こんな場末の酒場にまでやって来たのかい。……ちょっと気になったんだけどね」

 

「なんですか?」

 

硬い表情は融けずに、むしろ口調まで引っ張られて冷えていくようにもベルは自覚した。酒に関する苦い記憶がそうさせているだけなのだろう、と推測して、またそれを目の前の人間にぶつけるのは単なる理不尽だとも理解していたから、なんとか鎮めようともしているつもりだったが。

ただアイシャは特に気にした様子を、少なくとも表に見せてはいなかった。

そのままただ、思った事を、口にした。

 

「あんたが『それ』を見つけたとして、それでどれだけ懐が温まる算段――――」

 

「――――違うッ!!」

 

発火するものにベルは抗いようもなく、吠えた。立ち上がって歯を剥き、その凶相を隠さずにアイシャに向ける。イシュタル・ファミリアの中でも指折りの手練と認められる女戦士は、確かに刹那その怒気に怯んだのだ。勿論、自分が話しているのは大方は夢破れかけた少年冒険者であろうという侮りで気が緩んでいたというのもあろうが――――

 

「僕はっ……そんなものの為に、探しているんじゃない!いや、それが手に入るなら何を差し出したって……!」

 

喉が焼け付きそうな錯覚に任せて、思いの丈を絞り出すベル。

だが彼は、目の前の美女の言葉を下衆の勘繰りと決めつけて正義の立場から一蹴できるほどの潔白さを自分が持っていない事を本当は理解していた。怒りのままに口から飛び出す言葉がいかにも曖昧で、どこか上滑りしたものであるかが、決して溶けない氷のように在る自分の半身で感じていたのだ。

 

「……本気で言ってるのかい?何も見返りを期待せずに?本当に?」

 

「…………!!」

 

アイシャの感じたのは、込み入った事情の全貌よりも何よりもまず、少年の言葉は確かに真実もあるのだろうという事、そして、ただそれだけでは決してないのだろうという確信である。幾多もの男達の情欲と、その内にある小さく脆いものを受け止める生業が、彼女にそれだけの洞察力を育んでいた。そして芽生える好奇心が、純粋なその質問を紡ぎだしたのである。お前の本心は、それだけか、と。

強かに本質を突く質問でベルは言葉に詰まり、その心が激しく揺れ動いた。まったく、簡単に。

恩を返したい、それだけか。

……違う。

ただ、恐ろしいだけなのだ。

失う事が、恐ろしい。また、あのどうしようもなく弱い自分に戻ってしまう事が、何よりも恐ろしいのだ。

自分が本当の意味で自分以外の誰かの為に尽力しているのだと思いこめるような器用さなど、ベルにとって何よりも程遠く得難いものに違いなかった。

そのようなベルの心境を、期せず本音を掠めた言葉を放った当人は理解など出来なかった。だが、それでも、人は察する力を持っている。得られるのだ。

それは、神の力など頼らずとも、手に出来る。だから、誰もこの街では求めはしないし――――きっと、手にする者も、居ないのではあるまいか。

 

「ぐ、っ……っ!」

 

「おい……」

 

また、包帯の中に血が滲むのを感じた。悪い方向へと進んでいく思考に膝をつきそうになるのを堪える。手首に走る痛みは、彼に為すべきことを思い出させる天の声のように鋭く疼いていた。

無様で、弱い自分に、ベルはこれ以上耐えられなかった。かくも儚く脆い心は、最早ここでは求めるものの手がかりなど有りはしまいという判断で以て自らを守ろうと浅ましく案ずる。それは肉の器を突き動かし、小さく、暖かい、どこかあの帰るべき場所に似た雰囲気を持つ酒場から一刻も早く去るよう急き立てた。

それは一瞬前まで在った、飢え猛る獣のような姿とまるで異なる、雨に打たれた犬ころのごとき物哀しさをアイシャは見出した。背を見送る目が自然と細まる。

 

「何にしたって、求める事自体は悪徳なんかじゃないだろ。何も望まなきゃ、何も手に入らない……ただ、自分が見返りを求めていないからって、相手に同じように期待するのだけはよしなよ」

 

見返りもなくこれほどの、素晴らしい善行だ、お前こそ死すべき者のあるべき姿だ!!神々によるそのような賞賛だけで命を繋ぐ事が出来れば、それこそ楽園というべき世界であろう。アイシャは、現実はそうではないとベルに伝えたかった。それは単なる憐憫であったかどうか、はたまた別の何かか、彼女はまだ知らない事だ。しかし、僅かな興味が湧いて、それは暫し尽きそうに無いかもという予感はあった。

引き戸が閉まる音と同時に、店主が奥から顔を出した。

 

「おいテメー!!なに逃してやがんだ、その身体は飾りかッ!?あのガキが何か手ぇ付けてたらイシュタルの所に勘定送りっつけてやるからなあ!!!!」

 

「あんなぼーやが、食い逃げなんてするようなタマに見えるとはね。ああ、こんな崩れ落ちそうな酒場の大将ってのは、誰彼構わずそう見えるんだろうさ……ま、上客になるとも思えないけど」

 

目を血走らせて口角泡を飛ばす顔は、歴戦のアマゾネスにとって蚊が止まった程もの動揺も覚えないものだ。座敷に戻って酒をつぐと、一口呷る。脳の奥が痺れ、そのまま髄液にアルコールが混じって全身を内から茹でていくような錯覚が生まれた。

この店で、一番強烈な酒だった。口端が緩む。

 

「……ソーマに比べりゃ泥水だなんて言う奴も居るけど、やっぱりこっちの方が私は好きだよ」

 

「はあっ!今更何言いやがる。酒ってのはわかる奴に飲ませる物だけ値をつけてりゃいいのを、あの神はわかってねえな。おかげでイカレた連中がすっかり幅を利かせてよ、今に潰されて送還されるだろうぜ」

 

安酒とは桁の違う値を持った数種の酒、それがこの古く小さい、悪い立地において挙句に歓楽街や繁華街とはまったく場違いな雰囲気を漂わせる店を生き延びさせていた。

密かな穴場に通う楽しみとは、勇名を頂く冒険者達にとっても長く味わうに値するものなのだ。

 

「しかし、『こんなもの』とは、ねぇ」

 

「あ?」

 

「なんでもないよ」

 

半分ほどに中身の減った酒瓶を振って、苦笑するアイシャ。『こんなもの』を月に一度の楽しみにする高級娼婦とは、あの少年にとってどんな存在に見えるだろう。

 

「うえ~~~~。水、水くれ水……ああ……」

 

「それとも、あんたみたいに、これの楽しみ方がわからないただのアホ野郎って事かい?」

 

「んぐ、んぐ、んぇあ、何……あ゙ーーーーっ、アッタマ痛え…………ちょっと、一杯くれ……」

 

二日酔いと空きっ腹に沁みる酒のせいで、トイレから戻った彼女の美貌は見る影も無かった。これでもそれなりの人気と実力を備えた眷属であろうに、主が目にしたらまさしくこれこそ憎くてたまらぬあの月の女神との格差と理解し怒り狂うに違いない。

水を飲み干し、涎も拭かずにまだ酒を食らおうとするのを、瓶と杯を遠ざけて阻止するアイシャ。

 

「あんたに飲ますくらいなら、その辺の兎にでも飲ますよ。身の丈に合わないものなんか手にするもんじゃないって、何度言えばわかるのさ?」

 

「うる゙せえ゙ーーーー、私の金で買った酒だろーーーー。なにが兎だ、うううぅ…………」

 

逆立ってぼさぼさの髪の毛を卓に押し付けて恥も外聞もなく呻く同僚の姿とつい、比べてしまうのだ。

あの少年の姿とは、何者の手も届かない道を求めるゆえの、身の程知らずが陥るだけの無惨さを描いたものに過ぎないのだろうか。

明星の光から遠く離れた酒舗で、どうでもよい事に思いを馳せつつアイシャは他人の金で買った酒を楽しんでいた。

 

 

--

 

 

「うーーーーむ。成果無し……いや、まだ明日、明後日、明々後日まであるんだ。余裕だ余裕!!安心して今日は寝るぞベル君」

 

いつもの就寝時間にあたる時刻のホームで、腕組みして豪放に言うヘスティア。ただの脳天気さがそうさせているのではないとベルは知っている。だからこそ、その言葉は受け入れる必要があるだろう。

 

「……しかしだな、デメテルもタケもヘファイストスも揃って心当たりなしと来るとは予想外すぎて……いやいやまだ他に伝はあるぞ、いくらでも…………アポロンの所にも行くべきかなやはり……」

 

「神様」

 

「んっ?」

 

自分に聞かせるよう独り言を唱えるヘスティアは、ソファに腰掛けた眷属の言葉に顔を上げる。決して部屋の照度だけが生むものではないだろう薄暗い表情がそこにあった。

 

「アルゴスは……どうして、僕に力を貸してくれたんでしょうか?僕みたいなのに……」

 

「………………」

 

目一杯の卑下が、ベルの口から自然とこぼれ落ちた。それがいかに返答に窮するものであるかと知りながらと、己の身勝手さをすぐに悔いる。

主はきっと、未だに知らないのだ。たった一人の眷属の演じた醜態も、それに手を差し伸べた男との出会いがどんなものであったかも。先の見えない道を歩く徒労に、ベルの精神は着実に磨り減りつつあった。他者からの肯定が欲しかった。それは前に歩く為の力として、おそらく最も儚いものであるのに違いないのに。

それでも力なく下がった肩に、小さな掌が優しく置かれた。

 

「それは、聞いてみなけりゃわからないだろうね……でもさ、ボクの見立てを言うと」

 

まっすぐ見つめてくる、薄闇を照らすような双眸の煌きは、ベルの心を繋ぎ止めるもっとも強く断ち難い鎖でもあった。

 

「あの子はねぇ……きっと、誰かに、助けてほしかったんだと思うよ」

 

「助ける。……今?」

 

「ああ、違うよ」

 

ヘスティアは、ベルの思い違いを諭す。因果関係が違うと。アルゴスは、謂れ無き罪に追われる自分の境遇をどうにかして欲しかったからそこに居た誰かに手を貸したわけではないだろう、というわけだ。

即ち。

 

「……こんなに広い世界なのにさ、…………誰とも寄り添えず、誰からも必要とされないなんて……辛いじゃないかよ」

 

短い言葉は自嘲も込められていたのだろうが、それ以上に根深く、真に迫る感情が耳を通して全身に響くようだった。そして少しだけその目に浮かんでいる寂寥をも、ベルは確かに理解していた。

この小さく暖かい場所に住む、大きな優しさを持つ主との出会いは、彼にとっても決して忘れることの出来ないものなのだった。

口を僅かに開けた、間抜けな顔をしていたのだろう。ベルがそうと気付くより先にヘスティアは、微かに生まれていたしめやかな雰囲気をかき消すように、破顔した。

 

「ほら、もう寝よう。今日はボクがこっちだからな。こんな怪我、ベッドでぐっすり眠れば元通りだよ」

 

「あ」

 

ベルを退かすと、ヘスティアは毛布を被って寝っ転がった。崩れそうな弱い心から溢れたつまらない疑問の答えに静かな震えをおぼえてる事を、ベルは暫くしてから気付く。何か、気の利いた返事をしようとしても、もうそれを聞く相手は小さな寝息を立てているだけだった。

やむなくベルは、随分と久しぶりに感じる柔らかく大きなベッドに身を横たえる。

 

(誰とも寄り添えず、誰からも必要とされない……)

 

何度もその言葉は繰り返された。蘇る熱い何かの正体とは、胸を満たす苦いものばかりのようでもあり、同時に自身が得た替え難いものの温もりのようでもあった。

――――その、誰しもが自分に向けてくる蔑みも慈悲も全て、あの夢の中に迷い込んだかのような激情に囚われた状態であれば、それは決して地に膝をつかせない怒りの業火となってベル・クラネルを突き動かすだろう。

そしてそれは、決してあってはならない事なのだとベルは思う。

自分の得た何もかもを薪と焚べて何かを成し遂げる力を得たとしても、きっと最後に残るのは血の海に沈んだ灰の残骸だけなのに違いない。怪物祭の日、まさにベルはその一歩手前まで辿り着いたのだ。

 

『そんな゙、悲゙しそうな顔をする、怪物な゙んて……見たごと無゙えや』

 

瞼の閉じられた闇の中、近づく夢の足音を感じながら、ベルは強く思った。

たとえそれが万人から向けられる侮蔑であろうと、それは確かにベル・クラネルの人生で得たものであり――――彼が得た屈辱、迷妄、苦悩、……そして悲しみも等しく、決して手放してはいけないものなのだと。

それが無ければ、この小さな家も、主との生活も、あの大きく穏やかな青い漣を瞳に湛えた男との出会いも、きっと存在しなかったのだから。

だからベルは、思った。ただ、思った。

彼との出会いが、こんな終わり方で途切れて良いはずがないと。

助けたいと。

今のベルが望むのはただ、それだけだった。

 

(そうだよ、だから誰に、何を言われたって……関係無い。ただ、やること、出来ることだけ考えなきゃいけない……)

 

アルゴスもきっと、そうしてきたのだ。いや、それは『当たり前』の事だ。誰であっても、そうやって前に進んでいく。蹲っている暇など無い。全てを焼き尽くすような業火の影を退けられたとして、後に残るのが言葉一つで揺らぐ意志ではいったい何が成し遂げられるだろう。世に名を残す者達の最も強い力が何であるか、ベルは何度も祖父に聞かされて育ったのだ。自分の境遇など、今は無実の罪で冷たい獄に在る虜囚に比べてどれほどとるに足らないだろうか。

 

たとえ自由の身となった彼がこの街を見限り、永遠に去ってしまったとしても、それはただ彼がそう望んでするだけの事であり……残された惰弱なる駆け出し冒険者がいかなる道を行くかなど、今考えるべきではないはずだ。

 

自分の心を蹂躙しようとする何よりも御し難いものを押し返すように、瞼を更に強く閉じて毛布を頭から被るベル。

 

(……………………)

 

眠りの闇はいつしかベルの思考を塗りつぶし、奈落よりも底知れぬ場所へと彼を導いていく。

現実の全てを忘れてしまう理も、どうかこの思いを成し遂げる時までは追いついてくれないよう、彼は願った。

それが叶ったかどうかは、この世界の誰であってもわからなかった。

 

 

--

 

 

『アルゴス』

 

『…………』

 

果てなく続く黄昏色の空に、ぽつりぽつりと星が輝き始めている。そこに届いてしまいそうな高さの鐘楼で、出来損ないの身体を持つ男は林立する無数の建造物と、そこに行き交う雑踏を黙って見下ろしていた。

いつだって向けられる奇異と嫌悪、憐憫と侮蔑の感情。それらも決してここには届かない。この世界の何処よりも栄華を誇るという神々の都はただそこに広がるばかりで、何者をも害しようという意思など最初からありはしないのだと、少なくともここにいる間は思わせてくれた。

影の中に座り込むアルゴスは、聞き慣れた呼び声を耳にしても振り向かなかった。

 

『どうせ、ここに居ると思っていたわ。お前が帰って来る場所はここではないと、何度も言っているのに』

 

誰にも媚びない気高さを秘めた、凛々しい声色。それは、異形の死すべき者が聞いたあらゆる声を合わせても届かない数ほどに聞いたものだ。

アルゴスが仕える主とは、天上にあって遍く知らしめられていた栄光をそのまま地上に行き渡らせる名声として恣にする、神々の都の最も偉大なる存在の片割れでもあった。

その数え切れない『子供』達もまた、途方も無い苦難に満ちた試練に挑み数々の偉業を打ち立てる誉れ高き英雄として名を馳せる。その誇りは神から与えられともに分かち合う血の量よりも、強大な敵を前に流した血の嵩で計られ讃えられた。

――――曇りなきその誇りは、図体ばかり大きい愚鈍な出来損ないひとりが背負うのに、時として支え切れない重みとなってのしかかる。

誰もが言う、お前には無理だと。

誰もが言う、お前は現実の見えない盲者だと。

誰もが言う、お前よりも憐れまれるべき死すべき者は存在しないと。

 

 

――――なんで、神様はお前みたいなのを拾ったんだか。

何の得にもなりゃしないって、何度も言ったのに聞かず……イカレちまったのかね。

 

 

『また誰ぞがいらない事を吹き込んだのでしょう?くだらない。愚か者どもの戯れ言など耳を貸すのはやめなさい』

 

『……神様゙は……どうも゙思わね゙えんでずか……おでの事゙゙で、みんなに馬鹿にされで……』

 

死を以て忠を捧げよと言われれば逡巡も覚えず出来るとアルゴスは信じている。だがたった一度きりで済むその決断と比して、冒険者となる事を選んだ己の道の険しさはどれほどのものなのか、誰が語るのを許せるだろう。我武者羅に求める勇名はすべて主の為、しかし自分の力の及ばざる故に何も叶わず、得られるのは侮蔑のみだった。

その苦しみはきっと一人であれば決して得られなかったものだと理解しながらも、不揃いの歯を噛み締めて震える事しか出来ない時が、まさに今なのだった。

 

『アルゴス……私を見なさい。立って、振り返りなさい』

 

背く事の出来ない下知にアルゴスは従う。顔から身体まで余すところ無く均整のとれた、完璧な造形の絶対者の姿がそこにある。太陽の残火と荘厳な鐘楼の生む影は、それでも遍く死すべき者が理解すべきその女神の麗しさ、偉大さを覆い隠す事は出来ないだろう。生まれた時から曲がった骨と崩れた肉を持っていた者の姿と等しく。

柔らかい両手が頬に触れられる感覚を得ながら、アルゴスはぼんやりと思う。主の背丈を追い越してしまったのはいつだっただろうかと。

 

『ええ、私がお前を拾った時は、脚は萎えて立てなかったのに。瞼は腫れて腐りかけていたのに。息は今にも絶えそうで、痩せきった身体はこの細腕で抱き上げるのもたやすかった。……それが今、こんなに大きくなったお前はただいじけて、永遠に座り込もうとしている』

 

翳りの中にある主の表情はどうしてだか見えない。なぜだろうか。これほど真剣に自分へ語りかけているのに、その顔を見ることの出来ない弱さを、どうすれば無くす事が出来るのか……アルゴスには皆目検討がつかない。

 

『誰かにお前の何かを貶されて、それがどうしてお前が歩みを止める理由になると思うの?あんなに小さかったお前をここまで育てた私が、何もしてない何も知らない者達に、何を言われて何を感じると思うの?みんな?それはいったい、何処の誰の事です?』

 

どこまでも強い言葉は、自分の弱さに心を打ち砕かれそうな者を立ち上がらせるのに決して能わざる場合もあるだろう。

しかし、アルゴスが主に見出すものとは、弱きを悪徳と糾弾する刃のような正しさではない。

 

『失い、傷ついたのならば休みなさい。……けれどお前は何も失っていないし、傷ついたのでもないわ……それは、私と同じ。ならば』

 

両手に温もりが触れた。小さく、今の自分ならば一握りで潰してしまいそうに繊細なてのひら。それこそが自分の命を拾って繋いでくれた、この世で最も尊く偉大な力なのだと、アルゴスは理解していた。

 

『前を向いて歩き続けなさい。誰にも恥じず、戦いなさい。お前が本当に得難く思うものを――――希望の光を、放さず持ち続けなさい』

 

 

その力がおまえを裏切る事は、決して無いのだから。

 

 

星の坐す夜空よりも広く、大きく、深い慈悲が、アルゴスの心に流れ込み、身体を震わせた。

返事もせず、ただ涙を流す事しか出来ない『子供』の頭を、女神は黙って撫で続けた。

青色の瞳は、鐘楼の柱の影で小さく瞬き続けていた。

 

 

--

 

 

夢だった。

ずっとずっと昔の記憶から、アルゴスは現実に引き戻された。

陽も月も見えない薄暗い牢獄に、時刻を告げる鐘の音が響き渡っている。おそらく……朝だ。

 

「……神様゙……」

 

「?」

 

口の中で生まれた呟き。牢番は一瞬だけ罪人を注視し、しかしすぐ無意味な呻き声と理解して視線を外した。

座り込むアルゴスの脳裏に、夢の中の言葉が何度も浮かんで消えていく。

自分は何を失い、何に傷つけられたのだろう。

彷徨いの旅路はいつも周囲を伺い、人目を忍び、光の無い時に影の中を這いずり回り続けていた。

掛けられた謂れ無き嫌疑に、決して立ち向かわずに、ただ逃げ続けた。

ひたすらに故郷を目指して。

失くしてしまったものを取り返せる事を夢見て。

すぐに消えてしまう身体の傷よりもずっと深く癒えがたい傷を抱えて。

なぜ、そうなってしまったのか。アルゴスは知っていた。とっくの昔に知っていたのだ。

 

 

他の何をおいても従うべき主の命に、自分は背いた。その報いがただ、訪れた。

 

 

それだけなのだと、アルゴスは思っていた。

 

「………………」

 

そして今胸の奥を褥瘡のように蝕む痛みの正体は、ラキアの戦士が与えたものではないのだという事すらも、アルゴスは知っていた。

後悔。どうして自分はあんな事をしてしまったのだろうか。

どうしてあのどうしようもなく弱く、小さく、消えてしまいそうだった少年に力を貸したのだろう。

あんな事をしなければ、今の不条理な扱いも決して存在しなかったのに違いないのだ。

……そこまで思って、裂けた唇が自嘲に歪んだ。不条理、不条理とは。全ては正当な報いではないか。あの時ただ息を潜め、何も見ず何も聞かず何もしなければ、報いは通り過ぎてそのまま消えてなくなり、いずれ罪が贖われるとでも思っていたのだろうか。この期に及んで自分は、この現実を呼び込んだ弱い心を受け入れようとしていないのだ。浅ましく、醜いことだ。

自己嫌悪が過ぎ去ると、あとは例えようのない無念だけがあった、本当の意味で何の罪も無い主従を巻き込んでしまった事への。別れの際に瞳を燃やしていた少年の叫びが、その無力感を更に煽るのだった。罰せられるべきは自分だけのはずなのに、ただ関係無いと見苦しく訴える事しか出来なかった己が低能さを呪った。

もうアルゴスは、ただ座り込んで項垂れる事しか出来なかった。

 

 

願う事も出来なかった。

どうか彼らの希望が絶たれ、せめて罪人と呼ばれるのは自分ひとりだけであってくれるようにと。

そんな僅かな希望すら、抱けなかった。

 

 

--

 

 

「占い……」

 

「うん。……いやその、そういうのはあてにしないっていうなら、あえて行くことも無いと思うけどさ」

 

「いえ、行きます。是非行きましょう」

 

夜が明け、既に真昼。これで、丸一日が経過した。朝日が顔を出すのも惜しく、ベルとヘスティアは街を駆けずり回った。成果は、無かった。ギルド本部でも、いずれのファミリアでも、冒険者達の集いでも。

疲労ばかり携えて昼餐を囲みに戻ってきた主従は、ともすれば求めるものの遠さを嘆きあうような光景を演じかねなかったが、ふと意を決したかのような口調でヘスティアはその話を切り出したのである。一も二も無く、ベルは乗った。

 

「ああ~と、……ちょっとした昔馴染みのところなんだけど。まあなんだ、あちこち走り回ってたらそいつがいきなりやって来てさ、ちょっとくらいは力になれるとか言ってきて……あんなに嫌がってたくせに……、……ともかく、それじゃあ一緒に行こうか……」

 

「?……あ、僕が片付けますよ」

 

なんだか奥歯に物が引っかかったような物言いをしている由来に考えを巡らせる前に、ベルは食器を纏める主を止め、自分の仕事に意識を取られていった。昨晩の宣告どおり、もはやその右腕は湿布一つで抑えられる程度の痛みしか残していなかった。

はたして行く場所がどこであれ、僅かな手がかり一つもあえて逃す理由などありはしないと思うベルは、すぐにヘスティアとともに小さな神殿を後にする事となる。ふたりは少々の疲労を足取りに反映させながら、しかし忙しなくもある様子を隠さず通りを歩き続けた。

 

「ここ、ですか」

 

閉じられた玄関だけで自分達のホームより投影面積が大きく見える豪邸を前に、ベルは呆然としてつぶやいた。純粋な感嘆に基づいたものだ。精微な彫刻の柱は、それひとつ設えるだけで自分らの一年分の稼ぎも吹っ飛ぶのではあるまいか?

目を丸くしている眷属の姿に、主は要らぬ危惧を感じてそれをそのまま口にした。

 

「……ボクだってこれくらいの知り合いがいるんだぜ。いや、だからウチの規模がどうとか、そういうのは関係無いと思うがね――――」「ヘスティア。やはり来てくれたか!ああ、信じていたとも。ふふふ……」

 

よく通る美声に台詞を遮られた主がものすごい顰めっ面になった。何事かとベルはその声の方を見やると、眩しい笑顔を浮かべた美青年が立っていた。稀代の芸術家によって生み出された彫刻のような完璧な造形を持つその者こそが、主の知己にしてここに在る豪邸に住まうその神であるとベルは容易く理解した。

 

「なんでキミはいつも背後から現れるんだよ。ちゃんと玄関から出迎えろよっ」

 

「いやさ偶然だよ。そも招き入れて堅苦しく話すより、こういう場所のほうが『子供』同士も変に気を使う事もないだろう?で……ほう、君がヘスティアの『子供』か。はじめまして、私はアポロン」

 

「は、い。はじめまして、ベル・クラネルです。お招き頂いてありがとうございます、力添えしてくれるというお話を聞いてやって来たんですけれど」

 

「フフッ、勿論……私は下らぬ虚言を並べる趣味などないとも」

 

気を置かずに会話する神々に流されること無く、ベルは礼儀を守って挨拶を返す。同時に下げられた両者の頭だが、その動きの流麗さと言えばまさしく天と地か雲と泥か。洗練された立ち振舞を惜しげ無く魅せつけるすらりと伸びた長身と、そこに纏う爽やかな雰囲気は、どうして対面する主が渋い顔を保っているのかまったく見当もつかないくらいには友好的な印象をベルに与えていた。

眷属の胸の内を察してか、増々ヘスティアの中で胡散臭さが募っていた。

 

「……やっぱり怪しいな。ベル君よ、こいつはアルゴス君が捕まったと街中に広まってから急にボクに接触してきたんだぜ。それより前に別の事を聞きにここを訪ねた時はさっさと追い払われたってのに。丸め込まれてくれるなよ」

 

「なんて事を!ヘスティア、私は思い直したんだよ。あの女神の大事な『子供』だという乳飲み子が帰って来た、君達はそれを救うために無償で街中を「馬鹿!!大声で話す事じゃないだろっっっ!!!!」……」

 

ヘスティアはすんごい大声でアポロンの気障ったらしい賞賛を阻んだ。大手ファミリアの居は通りからずいぶん離れて耳目も少ないだろうが、確かに何処でつまらない火種を生むとも知れない話題なのである。ベルにしたって、あくまでも手段を探し回っている体だけを晒すよう努めており、その目的まで知るのは精々ナァーザとエイナくらいだろう。肝を冷やして身を竦ませたベルは、思わず首を振って周囲を窺う事しか出来なかった。

大いに憚る正論に暫し閉口したアポロンは、咳払いをひとつした。その仕草だけでもひとつの絵画になる決まりようだが、由来を知ればそれを題材にする絵描きはいないだろう。

 

「ま、御託はこれくらいにしておこう。要は、君達の助けになるならと思って、彼女を連れてきた次第だ。少し、手間だったが」

 

「彼女?って」

 

どこのどいつだ、と聞く間もなく、その『子供』がそこに居たのを小さな主従は知った。アポロンの影の中に潜んでいたのか、はたまた別の奇跡の業であるか、どうあっても計り知れない力量という事しかわからないが……。

暗い緑のローブを纏って紫の長布を細身に巻きつけた少女は、フードの中に見える垂れ目でじいっ、とベルの顔を見つめていた。その小さな口は固く閉ざされ、雄弁なる主との奇妙なコントラストを作り出している。

 

「カサンドラ。私の『子供』であり――――君達に、その行く先をほんの少しだけ垣間見せてくれる――――比類なき預言者…………かも、しれない」

 

それはもう胡散臭い紹介をかますアポロンに、いよいよヘスティアは限界だった。

 

「なんだよ、かもしれない、ってのは。……やっぱりおかしい、絶対あやしい!!帰ろうぜベル君。こいつは見た目と違って本当にタチが悪い奴なんだ。当たるかどうかもわからない占いなんか頼んだら、後でとんでもないものを請求されるぞっ!!」

 

「そんな、ちょっとっ、神様っ、待ってください!!」「おわっ」

 

付き合ってられないと踵を返した主の手を、ベルは咄嗟に掴んだ。切実さはその力と静止の言葉に宿り、小さな女神の身体は一気に引き戻されて半ば強制的に顔を突き合わさせられる。構わず、ベルの口からはその思いがまろび出た。

 

「途方も無い代償を背負わされるのだとしても、けど、手掛かりを掴めるかもしれない機会は、今この瞬間を逃したらもう次は無いかもしれないじゃないですかっ。僕は何もせずに後悔するのは嫌です!」

 

後にやらなきゃいけない事を恐れ、今目の前の手掛かりを放棄するのは断じて望まない事だとベルは訴える。曇りなく向けられる眼差しにヘスティアは刹那心奪われ、そして自らを恥じるのだった。まったく、この子の言う通りだ。あんな不条理な扱いをされている乳飲み子を救い出す手段は、どんなものでも引き換えに出来るのなら差し出す以外に選択肢などあろうかと。

ヘスティアは瞼を閉じて恥を飲み込み、そして瞳には恐怖を退ける確かな力を込めて自分の表情を整える。

 

「そうだったね……ごめんな。参ったもんだ、私情なんて今一番どうでもいいものなんだよなあ。……おいアポロンよう、出すものは出すけれどね、その娘に適当な事言わせてくれたら承知しないからな」

 

なんだか微笑ましげに自分達をを見ているアポロン(ヘスティアは非常にむかついた)に向き直って、ヘスティアは釘を刺した。

 

「大丈夫だとも。大体、何を払うかなんて考えなくてもいいというのに……私と君の仲じゃあないか?」

 

「おいベル君、勘違いしちゃダメだぞ。こいつとボクはただ天界に居た頃からの顔見知りってだけだ。それ以外の関係なんてまーーーーったく無いからな。ちゃんと理解してくれなきゃ困るぜ、いいね!?」

 

「は、はあ」

 

こいつだこいつ、とアポロンの方に人差し指だけ残してヘスティアはベルに熱弁を振るっていた。それはとても重要な事だった。

 

「さて始めようか。頼むぞカサンドラ」

 

「…………」

 

茶番も一頻り済んだと見て、アポロンは『子供』の肩を軽く叩いた。少女は決して返事をせぬまま、するすると歩いてベルの正面に移動した。

対峙する瞳は片方が長い前髪に覆い隠されていて、主とは正反対の仄暗い粘質さを湛えているような深緑色の光に、如何なる思考をもベルは見出だせなかった。

ただ少なくとも――――きっと今の状況を面白くは思っていないのだろうという憶測以外、ベルがカサンドラの人格について伺える事は無いのだ。

 

「あの、カサンドラ……さん。よろしくお願いします」

 

「……す、少し、黙ってて……」

 

「…………」

 

「ん、何だ。気難しいのだよ。不快に思ったらすまない」

 

挨拶を突っ返された眷属の姿にヘスティアは鼻白んだが、アポロンが事も無げにフォローを入れていた。まあ、それは許容出来るヘスティアだが、なんか釈然としない。何でだろう。何でだ。何でそんなに距離が近いのだ。平然と主従の間に割り込んで、額も触れ合いそうに見える所まで顔を突き合わせている。すごく面白くないぞ。ヘスティアはざわめく胸中を持て余した。

沈黙ばかりが、光明神の住処の入り口を支配している。それがどれほど続いたかと言えば、大した時間でもなかったと小さな主従が知るのは後になってからだ。しかし、特にベルにとってただ片目の光を鋭く睨めつけてくるだけの少女の姿は、さながら獲物の時間を止める蛇のようにも思えてならなかったのだ。

 

「…………っ、……」

 

いい加減息苦しさを感じ始めたベルは、出し抜けにひときわ大きな生唾を飲み込む衝撃を味わう。

白い、滑らかな感触がいきなり両頬に添えられたのだ。

カサンドラは両手でベルの顔を掴み、その顔を更に近づけていた。黒髪に隠された片目の光までもわかる距離だ。

見開かれた垂れ目は、その美少女ぶりよりも、ただ驚愕の色のみを見る者に印象付けていた。

 

「なに……………………?…………君は…………?、……これは……?」

 

「え…………あ……あの、?」

 

只ならぬ様子に辛抱出来ず声をあげようとしたベル。

 

 

それは、少女の声なき叫びに遮られた。

 

 

 

「…………………………!!」

 

 

 

 

物理的な意味で異性に迫られている事実よりも、ただ瞳を伝わる動揺にベルは困惑した。カサンドラは何を見ているのか、何を感じているのか。

わかるはずもない。

未来を知る奇跡を与えられた少女が、それほどの恐慌に包まれたかという事も。

 

「っ!!!!、は、…………あぅ、っ…………!!」

 

「む、どうした?」

 

たたらを踏みながらカサンドラはベルから後ずさる。脚を縺れさせて倒れそうになった『子供』の細身を受け止めたアポロンは、怪訝そうに死すべき者達を見比べた。

呼吸を乱し、フードの下に脂汗を幾筋も流しているカサンドラのただならぬ様相は、矮小な嫉妬心に機嫌を傾かせていたヘスティアもその身を案じた。

 

「ちょっと、大丈夫か。何がどうなったんだ。ベル君、何かしたのか?」

 

「いえ、何もしてないです。……カサンドラさん?」

 

「ひっ……」

 

一番わけがわからないのはベルだ。いきなり飛び跳ねてその主に抱きついた少女の思惑を窺い知れる方法など持っていない。刺激しないように、努めて落ち着き払いながら声を掛けるベル。

なんてことはない少年の呼びかけに、カサンドラは再び身体を跳ねさせて、激しく震え始めた。

 

「な、なんだよ。いったいどうしたっていうんだ。占いの結果はどうなんだ?それともどこか体調が悪いのかい?」

 

「………………や、闇…………」

 

「はっ?」

 

業を煮やしてヘスティアは詰問する。カサンドラは明らかに恐怖を抱いていた。ただの少年でしかない――――少なくとも今は――――眷属に向ける目は、まるで人間ではない別の存在を前にしたかのようで、……はっきり言って、不快に思えた。

女神の胸中を知ってか知らずかカサンドラは、震える暗い青緑の眼光を伏せて、命懸けのような様子で口を開いた。そして、言った。

 

 

 

「…………闇、だけが……見え、た…………君の、未来…………」

 

 

 

カサンドラは、芥も偽りを含めずに、そう告げた。

それが決して、地上の誰にも信じられない言葉であったとしても、彼女はただ、真実を告げていた。

真実だけを見通す瞳が捉えた、小さな少年の未来に待つ確かなものを。

 

 

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「何だよありゃ。未来が闇だって?ボクらのやってる事が全部ムダってわけか?そんな占い信じるもんか!!……すまんベル君、やっぱりあんな奴のところなんて行くべきじゃなかったよ」

 

ヘスティアは憤激を露わにして街道を歩く。がに股だ。それも肩を怒らせるのに疲労を覚え始めてから改めたが。

頼れる姿を演じられない悔しさを、謝罪する主の声色からベルは感じ取った。痛いほど、よくわかった。その苦しさは骨身に染みていた。故に、それを和らげるのに幾らかマシな応対も知っていた。

歩調を合わせて顔を覗き込み、なんでもないような顔をする。

 

「闇っていうのは……きっと、まだ闇の中、つまりわからないって意味だと思います。いくらでも塗り替える事は出来るんだって」

 

「…………それはそれで、行った意味なんかまるで無いな」

 

気を使わせているのは明らかだったが、それでもヘスティアは憮然とした。誰だってわかることだ、未来なんて誰にもわからないと。だから今必死で、あるべきと願う未来を作ろうと誰もが足掻くのだ。んな当たり前な事をあんな大袈裟な格好で言うとは、悪趣味も甚だしい。きっと意に沿わぬ形で引っ張りだされたのだろうとはいえ、気の毒な預言者への不信感も募った。当然、その主に対しても。

 

「あんな凄いファミリアに後押しされたと思えばいいんじゃないでしょうか。少なくとも……失敗して終わるなんて、そう言っていたわけじゃないんですから」

 

「……そう……だな、うん。そうだ、そういう事にしとこう。でもあいつの手なんか二度と借りたりしないぞ。次こそヤバイ事になりかねないからな……」

 

なおも前向きな展望を語られて、ようやくヘスティアは絆された。終わった事に愚痴を零すのは無意味だ。後の判断の材料にはするだろうけれど。

そして、誰よりもあの不穏な宣託に動揺して然るべき者の前で晒した醜態を挽回すべく、眉尻を上げて凛々しく表情を引き締める。

 

「よしベル君。あんなのはスッパリ忘れて、情報収集と行くぞ。ボクは……もう伝は全部使い切ったし手当たり次第やるしかない、街の北側から虱潰しにしていくから――――」

 

「はい。僕は、まだ回ってない所がありますので、……子夜には戻ります」

 

さして広くない友好関係をいまさらヘスティアは呪った。地上にやって来てからもう少し能動的になっていれば、今の苦境も無かったのかもしれないと。詮なきことだが。

陽のまだ高く在る時間、幹線道路の交わる広場で主従は別れた。

手を降って走っていく主の姿を見て、その機嫌もどうにか直ってくれたと安堵し、ベルも駆け出した。

 

「……」

 

人も物も視界に留めずに風を切る。忍び寄る不安の影から逃れたいかのような早足だった。眷属もまた、同じなのだ。怪しげな預言に心動かされているのも、それを出来るだけ前向きに解釈したいのも。

闇。

その単語が今一度呼び起こされて、全身を震わしそうに身動ぎするのを、ベルは感じた。

 

(……知らないよ、そんなの……)

 

何かが、蠢いていた。理性を必死に働かせ、抑えつける。

それは不要なのだと、ベルは固く信じていた。

 

 

 

少なくともその判断は、正しかったのだろう。今は。

 

 

 

--

 

 

 

ベル・クラネルの瞳の奥には、定められた、彼自身の辿る未来の光景があった。

 

 

 

カサンドラ・イリオンは、そこに、闇を見た。

 

 

 

一片の光も無い、深く、濃く、覗き込もうとする者全てを引き込もうと蠢く、果ての見えない無明の世界だけが広がっていた。

 

 

 

--

 

 

ヘスティアの質問とは多くの神々にとって理解不能な内容だった。嘘を見破る奇跡、言葉の真偽を審判する奇跡。そんなもの誰が求めるのかと。

大体、まずもってなぜそんなことを聞くのか、求めるのか、目的は何だ?という当然の疑問に対しひたすら口を噤んでくる。それでもまともに相手にしたいと思う者はそうそういなかった。

とぼとぼと、街明かりの影に溶けて歩く女神。その足は歩きっ通しで棒のように固く張っていた。幾多のファミリアを訪ねて全戦全敗という精神的な疲労も反映していたのだろう。

 

「うぅ~っ、皆なんて冷たいんだ。……やっぱり全部話してしまうべきなのか。でも……」

 

どんなにしつこく問い質されようと全てを明らかにしなかったのは、たとえ好奇心が満たされたとしてもかれらが手掛かりを教えてくれるかどうかは別だろう事をヘスティアは知っていたからだ。かつての同胞だからというだけの理由で、下手を踏めば巻き込まれて連座させられる危険を冒してまで罪人を助け出す協力など、そんな奇特な神はよっぽど居ないだろうと。アポロンはなんか怪しいし碌でもない事考えてたからに違いないとも。

殊にそれらの発想は、ヘファイストスの影響が大きかった。昨日に訪ねた時のいつにも増した怪訝そうな顔と、一連のあらましを聞かせた際の目の見開きようを思い出す。最後に訪ねた伝だと希望を募らせるヘスティアに、隻眼の女神は伏目がちに口を開いたのだった。

 

『――――まあ、おかしな巡り合わせもあったものよね。……とりあえず今言えるのは、私は協力出来ないって事。勿論、その手段を知らないからっていうのもあるけど。で、他の連中も大概そうだろうから、会う度いちいち全部話す必要も無いだろうって事ね……』

 

多くの守るべきものを抱える者達は、いくらその大半が享楽主義に抗わない絶対者だからといって――――いや、だからこそだ――――被る必要もない火の粉に近づこうとする道理は無い。賭けに乗った結果がこの街から遠い、つまらん辺境の国に眷属ごと引っ立てられる結末など、誰もが御免被る未来だ。事の次第が広まれば、或いは声を掛ける事すら困難になるのかもしれない。

……或いは、痛くもない腹を探られかねない。お前達はあの罪人の為に、関係無いファミリアを巻き込んで何とかしてしまおうというわけか?と。

釈然としないヘスティア。

 

「チクショウ、ヘファイストスだって、あの馬鹿には恨み骨髄じゃないのかよ。皆も、ここで弱気になったらラキアに良いようにされっぱなしって思わないもんかな?そうだ、そうやって焚き付けて回っていけば――――、?」

 

追い詰められつつある思考が良からぬ案に至る辺りで、形の良い耳がぴくりと揺れた。立ち止まって周囲を見渡すツインテールの少女は、ラキアの兵士の存在も忘れかけて夜の街を歩く人々の気に留まる事は決して無い。

無数の言葉と音の中から、確かにその鼓膜で感じ取ったものにヘスティアは集中していた。

 

「――――、――――」

 

「――――、――――……!」

 

「……やっぱりベル君の声だ。この辺に……?」

 

理解できるはずもない内容だが、確かにその声だと直感する。誰ぞとの会話であろうか、ともかくそこに届いていたベルの声色は、どこか気ばかり逸るようなものにも聞こえてならなかった。もしここにヘファイストスやタケミカヅチが居てその聴覚に驚嘆したら、愛の力に決まってるだろ!!!!とか返していただろう。

行く宛も気力も尽きかけているヘスティアは、ここらで合流して帰宅しようかと思って『子供』の声のした方へと歩き出す。両手は耳に添えたまま……仄かな不安を胸に宿して。

 

「ベル君……大丈夫、だよな?無茶なんかしてないよな……」

 

零しながら歩き、歩き、すれ違う遍く者共には目もくれないヘスティア。『子供』への想いの中に燻ぶり続ける多くの懸念が、一筋の冷や汗を生んだ。

斯くして、女神が地を這い回る距離は、彼女自身が思ったより随分と短くて済んだ。

 

「――――ここ、だな。……多分」

 

転がったバケツと景気よく撒かれた水の跡が路面に広がるその場所に、ヘスティアは辿り着いた。酒を求める冒険者達の憩いの場だ。

開きっぱなしの扉の中からはかれらの団欒が漏れ出しているのがわかる。愛する者の、か細い静かな声も。最初、満ちる喧騒の中でそれを聞き分けられたのは、単に場所が近かっただけなのだろうか。ヘスティアはちょっとだけ落胆しながら、その酒場の扉に手を伸ばした。そこまで極まった冒険者達が集うような場所とは思えなかったが、相手など選んでいられないのは『子供』も同じ事と違いない、と納得させつつ。

瞬間、中から飛び出した怒声は絶対者の脳天を劈いて、全身を竦ませたのだった。

 

 

--

 

 

書き加えられた印で殆ど判別出来なくなってしまった地図は強く握り潰され、そのままポケットの奥に押し込まれた。

得られたものは疑りと憐れみと、嘲り。昨日と同じだった、全く。

すべてが徒労に終わった事実は、なお少年の歩みを――――辛うじて――――止めさせてはいなかったが、骸に集う蟲のように焦燥感は胸の内を侵しつつあった。

標は尽きた以上、あとは手探りだけでこの世界一広い街の中を歩きまわらねばならない。滲み出す不安を退ける為の虚勢を張るようにベルの拳は固くなり、歩は力強く踏みしめられる。

幾つもの灯火の揺れる夜の街も、今のベルには果てしなく続く闇と見紛うようだった。

慌ててかぶりを振る。

 

(……やめろ。そんな事考えるな。神様が別の手掛かりを掴んでるかもしれないじゃないか……)

 

「オイ少年」

 

「は?」

 

意識の外から飛んできた呼び声が自分に向けられたものと、不思議な事にベルは理解した。

そこに堂々と立っているキャットピープルは、閉じた唇を小さく、たぶん彼女なりの引き締めた表情を以て通りすがりの冒険者を見つめている。

 

「やーっぱりそうだニャ。あの時のセクハラヘタレ灰かぶり。あそこまでバカにされまくってまだ冒険者やってんのかニャ?なら、大した奴だニャ~」

 

夜目で膨らんだ瞳孔と声色が、記憶の片隅に追い遣られていた苦い味を思い出させた。どうしてそこだと気付けなかったのだろうか、その店員が立っているのは、今自分が居るのは、あの酒場の目と鼻の先の場所だったのだ。あの時に比べれば中から聞こえる喧騒も、然程ではないかもしれない。しかし、忘れがたい感情が滲み出てくるのがわかる。

 

「そんな顔してくれんニャよ……にしたって、シルもどうしておミャーみたいなしょぼくれたボンクラに構ったのか全然わからんニャ!」

 

「……」

 

自分はどういう顔をしていたのだろうと、そんな思案を巡らせるだけの冷静さすら失いそうなのをベルは自覚していた。泣きそうな顔か、辱めに破裂しそうな顔か、凍てついた能面であろうか。しかしどうあろうとここに居る理由にはなるまいという、逃避に近い衝動だけが膨らんでいく。すぐ気を抜けば蘇りそうな無惨な姿を今一度演じようという気は決して無くとも、頭の中でだけそうなるのを抑える難しさを彼は知っていた。

――――それでも。

 

 

『本当に、あると思うのか』

 

 

それでも抗うだけの力を、小さな身体はまだ失くしてはいなかった。

背負う使命は、何の役にも立たない羞恥心の為に、そこにあるかもしれない機から目を逸らさせるのを許すようなものでは、決してないのだから。

幼稚な葛藤を飲み込んで押し黙っているようにしか見えなかった少年はすうと顔を上げると、街明かりの生む影を纏めて切り裂くような眼光をそこに宿していた。

 

「席、空いてますか?この街で探しているものがあるんです。誰が知っているかもわからないけれど」

 

「お、お、何ニャ。……ただのグズのままじゃあニャいって事かニャ。お一人様ならカウンター席に行って貰うニャ……生憎シルは休みだから、おミャーに構う奴も居ニャいからニャ」

 

意外も極まる様子で、同時に面白そうに口角を上げるクロエ。顎で扉を指し示して、意地の悪い事を宣った。挑発は明らかだったが、ベルは只管に、あの穏やかな青い瞳を思い出して沸き立つ心臓の表面を抑え込んでいた。その努力は、握りこぶしの中の感触とともに、燃える網膜と繋がる脳髄を冷たくしていく。

いま一度足を踏み出したベルはそのまま敷居をまたごうと――――振り返って、口を開いた。

 

「……あの、気になってたんですけど、どうして両手を縛られて、頭の上にバケツを乗せられているんですか?」

 

「うっっっせえニャ!おミャあには何の関係もない事だニャっ!!知りたい事がそれなら、とっとと帰るニャ~!!」

 

古典的な仕置きを加えられている最中のクロエががなり立てるのを、ベルは目を丸くしつつ受け流して、そのまま店内へと入っていった。

 

「おかしいニャ。こういうのはアーニャの役割の筈ニャ、ニャんでミャーはあの時頭の上に皿を……」

 

後方から聞こえるボヤキが途切れると、ベルは隔絶した空間に放り込まれたような錯覚に囚われる。見覚えのある光景がありもしない嘲笑を呼び覚まそうとして、それを跳ね除けるように顔つきは自然と厳しくなった。それに気付く者はごく、僅かだ。そして気に留める理由を持つ者はもっと少ない。

店内の和やかな雰囲気は、ラキアからやって来た連中の生んだ波紋が消えつつある事の証左だったが、ただ前を目指して歩く者には気付けない事だった。そのまま、真正面まで一直線に進み、空き気味のカウンター席に座る。

 

「何だい、おっかない顔して。誰かと喧嘩しに来たってんなら場所間違えてるよ」

 

侮りを退ける為か、迫る刻限への焦燥が顕れただけか、とにかく少年が隠さない張り詰めた雰囲気をカウンター越しに店主が諌めた。対面するのが彼女であった事はベルにとっての幸運だったのだろうか。彼と面識のある店員は少なくとも、この場には居ない。尤も安堵を覚える事もベルはなかったが。混沌とした感情の生み出す熱を必死で抑えて、彼は口を開きかけ――――思い改める。

 

「……一杯頂けますか」

 

「ミルクは出してないねぇ」

 

ベルは、躊躇わずに財布から有り金全てを取り出した。自分が使えるぶんの全てだ。これを以てもたった一杯届かないのが、彼の巡ってきた場所なのだった。ならもう後のことなどどうでも良いという、どこか捨て鉢じみた衝動が確かに存在した。しかしそれを見てもミアが表情を変える事は無かった。

 

「これで買える一番高いのをお願いします」

 

「酔い潰れても介抱なんてしないよ、うちは」

 

知っているし、そう返事もしなかった。きっとあの時と同じようにはもう、ならないだろうと知っていたからだ。ベルにとって酒など値ばかり無駄に張るだけの液体だ。皆何が楽しくてあんなものを飲んでいるのか、きっと一生理解できないとすら思えた。どれほど飲んでも浴びても、温く蕩けさせるのは思考の表面だけで、一番奥で冷え固まった人間としての本質までは決して届かない偽りの安らぎだと知っていた。いま実際そうだった。出された杯を一口で空にしても、胸の燻りはその勢いを増す事も失う事も無い。喉元であっという間に霞となって消えていくようだった。

 

「探しているものがあるんです」

 

「へえ。落し物ならギルドに行きゃあ、対応してくれるかもよ」

 

どこか剣呑な空気がそこに漂い始める。普段より少ない客のうち何人かが、もうそこに注目していた。

 

「頼んで待ってるだけじゃ間に合わないから、ここに来てるんですよ。……」

 

こんな腹の探り合いみたいな会話だって、望むところではない。かつて勇名を馳せた女ドワーフの巨躯など、小さな少年の気概を憚るものではなかった。

 

「人の心を計り知る方法を知りませんか。神々の前に立たせずとも、それを成せる奇跡、道具、……聞き覚えがある程度の事でも構いません」

 

「……何のためにそんなもん探してるんだい。誰がそんなもん、求めると思う?それがわからないほどのバカには見えないけどね」

 

ミアの返答はまったくわかり切ったもので、何度も何度も何度も聞かされた言葉でもあり、苛立ちが赤い瞳から溢れ出した。

 

「知っているのか知らないのか、僕が聞きたいのはそれだけです」

 

いやに静かに感じた。強気に言い放つ自分の台詞に驚いただけなのか……いやそれはきっと違うと、ベルの中の冷静な部分が判断していた。これは、ただ目の前の女丈夫との対話だけが今の自分が気を払う全てであり、他のいかなる事象も無価値という理解だ。

柄にもないと省みる余裕も持たないベルの示威的なまなざしに、ミアはただ目を細めた。

 

「しつけの悪いガキだね。誰に対してもそうやって聞いて回った挙句にここに辿り着いたってわけだ。そりゃ、誰しも得にならないものに興味なんか示さないだろうけどさ、それが全てじゃないって事くらい、親に教わらなかったのかい?」

 

「そんな…………御託にっ!!金を払ったんじゃないって、言わなきゃわからない事ですか!!」

 

なけなしの金は自分ひとりだけで得たものではなかった。代価を求める気持ちがいよいよ逸る心に火花を浴びせ、声を荒げさせる。

 

「何ニャあ?誰がケンカ……って……え……マジか……」

 

机に両拳を押し付け牙を剥く姿は震え、細かいそれが空を伝い、やがて何事かと店内に飛び込んだクロエの肌をも冷やした。コイツ何やってるんだ、あのミア母ちゃんに突っかかって、自殺志願か。

しかし当然そんな危惧の存在は中心に居る二人のやり取りと無関係だった。

 

「言わなきゃ、ああそうだね。あんた、まだ言ってない事があるだろ?こういう仕事してりゃ、誰だってわかるもんさ。だから気に入らない。だから話さない。そんなのこっちの勝手だよ」

 

「…………!」

 

手前勝手極まる正当な理屈を打ち崩す方法など、ベルは知らなかった。表情が消えるのを理解する。皿のように目は丸く、瞳孔は広く、全ての色が消えていく錯覚ばかり強まった。図星と知らしめるには充分過ぎる反応だった。

しかし続く口上を聞いた瞬間、真っ白になった彼の視界は、一瞬で業火に包まれたのだ。

 

「おおかた、皆様に聞かせられない理由なんだろうけどね。ん?神様の前に立てないような、後ろ暗いロクデナシの為に?そんなのをどうこうしようなんて、悪どいことを考えるのはやめときな――――」

 

憤激が、全てを真っ赤に染め上げた。

 

 

 

「――――救われたから救いたいと思うのが、悪い事だって!?この街の誰も、アルゴスの事を罪人だと決めつけて関わろうとしないで…………ラキアに連れて行かれたらどうなるか!!このまま見過ごせるわけがないッ!!!!」

 

 

 

店内にびりびりと轟く音量は、全ての客と店員の意識を虜にした。いや、店の前を歩く者すら、驚いてその顔を向けていた。

それはきっと、話すべきではない事だったのかもしれないし、遍く人々に知れ渡って何かが変わるという事でもなかったのかもしれない……むしろ目指すものからより遠くなるばかりではあっても。しかし、そんな考えを巡らせる脳味噌など、ベルは自ら引きずり出して踏み散らかす事が出来た。

冷淡な態度を保っていたミアはようやくそこで、瞳の奥を僅かに揺らした。誰も、気付かない奥深くで、とても小さく。

 

「はあ。罪人アルゴス……成る程、あの可哀想な乳飲み子を助けるために、ね。あんたみたいのが」

 

そう言うとともに伏せた目にどんな感情が浮かんでいるか、ベルの興味を惹くものではなかった。薄笑いは、非力な癇癪持ちの少年への侮蔑か、そうであったから何だという?

射殺すのも厭わない視線を受け止め直し、ミアが挑発的な表情で続ける。

 

「大きく吹かすじゃないか……しょうもない連中にコケにされて潰れてた『子供』だなんてほざいてたうちの連中が節穴なのか……」

 

ベルにとって拭いがたい恥部を語りつつ、外されるミアの視線。双眸に映り込む陰影を理解した時、それは怒れるベルの目に舞うどす黒い何かを吹き払った。

反射的に、首が、上体が――――両足は床に立ち、全身が振り返った。

 

「ようこそいらっしゃい神様。この『子供』が駄法螺吹きの酔っ払いなのか、それとも本物なのか、どうも私にゃわからなくてね――――教えてくれたら、一杯奢るよ」

 

「……」

 

小さな身体はその決意を湛え、みなの目を一身に浴びてもただ毅然として揺るぎはしなかった。ヘスティアは、『子供』の繰り広げていた会話から、自分の今すべき事を知ったのだった。

 

「全部、本当の事だ。偽りなんか、なにひとつ無い……この子とボクの二人だけでも、ラキアの連中の行いは止めてみせるさ」

 

静かな宣誓が誰の耳にも届いていた。神威も発さぬただの少女の姿である絶対者に侵しがたい高潔さを見出すのは、その『子供』だけだったかどうか、それはヘスティアの関知するところではない。重要なのは、この戦いが存在するのを知らしめる事なのだ。

姦譎なる大国が尖兵どもに立ち向かう事を選んだ、小さな戦士がここに居るのだと。

一拍、その言葉の意味を解するに充分な時間を置いてから、ざわめきが酒場を満たした。本気なのか。あの罪人に。確かにラケダイモンは気に食わないけどな。あの女神なんつったっけ?大体あのガキ誰だよ?いや思い出したぜ、あの時の情けない僕ちゃんだ。何だそれ、教えろ。

無関係の聴衆の言葉まで、中心に立つ者達の耳は拾わなかった。ただ、それぞれの存在だけを感じていた。

 

「ラキアの法は神の言葉を退ける。かつての同胞にかけられた咎が偽りと証明するには、真実を明かす奇跡が要る。……なるほど、耳当たりの良い美談も、成し遂げられなきゃただ身の程知らずの無謀と終わるだけだろーに」

 

表向き感心するミアの舌は事の次第全てを知らしめるように、滑らかに動いた。今はただ前だけを見つめているヘスティアにも、その意図は容易に察せた。もはや何の躊躇もなく、腕を組んで胸を張る。

 

「そーゆーのを、負け犬思考って言うんだっ!……おい、君たち。聞いてくれたな!!ボク達ヘスティア・ファミリアは、あんな非道なんか許しておかない、必ず覆してやるぞ!!みんな存分に触れ回るついでに、知ってる事があるなら是非とも教えてくれるようにも伝えてくれよな!――――それと!!」

 

首を振り、大見得切って言い放つ姿はいっそ清々しさも感じる虚勢と受け取る者も居た。しかしここまで断言して後でしらばっくれるような性情と見通す者は居なかった。

 

「いいかっ!!あの子は罪人なんかじゃない!!まだ……まったく、本当に、とんでもなく腹に据えかねるけど、ラキアの言い分を飲み込んだとしても!……まだ容疑者、だろっ!!長い旅から帰って来たあの子は、ずっと日陰者のままでも、居なくなってしまった家族を待ち続けようとしてただけなのに……この街の仲間に掛ける言葉くらい、もう少し考えてくれよっ!!」

 

互い、近くの者と顔を見合わせて駄弁る者達全てを睨めつけるような、鋭い眼光を宿す双眸で以てヘスティアは酒場中を見渡した。面白そうに笑みを浮かべて視線を受け止める者も、少し罰が悪そうに目を逸らす者も区別なく、その言葉を深く理解するよう望みながら。

そうして義憤に身を突き動かされたまま、尽きぬ不満をこの際全てここで洗いざらい吐いてしまおうかとさえ小さな女神は猛りつつあった。どいつもこいつも知らないあるわけない時間が無いだの薄情な事ばかり言いやがる!!許せん!!しかし肩に置かれる手の感触が、そんな衝動を打ち消す。

 

「神様。……もう充分です、ありがとうございました」

 

全身を覆いそうだった黒い何かを、全て正当な怒りとして主が代弁してくれたのだとベルは知っていた。

はたして毒気を抜かれた様子の『子供』の声は、いつもの優しげで、幼さを残した響きと相違ないものとヘスティアは感じた。脳を煮やす熱が一気に失せて、明瞭になる思考。注がれる視線を強く感じながら、己が役割を終えたと理解する。もう、ここに居る理由は無いのだとも。

 

「あっ、あ、あぁ……そうだね、うん。……じゃ、そういう事だから。お邪魔したね、君たち」

 

少し声量を落としてそう言い残し、『子供』を連れて女神は店から去っていった。時間にすれば一刻にも遥か届かない間に巻き起こった嵐だった。

 

「おい今の、マジかよ!」

 

「大きく出たなあ、あの神様と坊や」

 

「つってもなぁ、お前知ってる?」

 

「さァ。というかさ、ラキアってそんな面倒臭い決まりがあったんだな、それ自体初めて聞いたぞ」

 

「ああー、思い出した。あのガキ、いつかの時、剣姫に背負われてたアイツじゃないか?あんなのがよくまあ、吠えるもんだぜ」

 

二人の影が夜の街へ溶けていった後、一瞬で店内は大騒ぎになった。いけ好かん筋肉ダルマ二人のせいでつまらない雰囲気に満ちていた筈のオラリオでこんな面白い出来事が蠢動していたのだとなれば、少なくともこういう場に集う者達の格好の餌食たりえるのは自明である。

店の外で聞き耳を立てていた連中まで当然のように雪崩れ込んでくる光景に、腕の紐を解かれたクロエはぼやいた。

 

「あの灰かぶり、どうかしてるニャ。まんまと街中巻き込んだつもりだろうけど、うまく行かニャけりゃいよいよ居場所なんて消えっちまうのにニャ」

 

「……こうやって知れ渡るのが無かったとしても、ラケダイモンどもはあの神様と『子供』を連れて行くつもりだったろうさ」

 

「はぇ?ミア母ちゃん、どゆ事ニャ?」

 

一気に増えた客の注文に対応しながら呟いた店主に、怪訝そうな顔を向けるクロエ。

 

「あいつらがまだこの街に居るのは共犯者を探し出す為、なんて言ってるけどね。実際は、あの小さなファミリアと話がついてるんだろう。どういう経緯かは知らないけどもあの乳飲み子を匿っていたのを取り押さえて、覆そうというならラキアの法に則った手段で、ってね」

 

推測は容易だった。そこそこに栄える酒舗の主は、日々流れ込んでくる膨大な情報を整理して論理を組み立てる術を身に着けていたのだから。

 

「はぁ~それじゃ、逃げても追われ続ける運命ってワケで、増々八方塞がりニャ。だいたい神様の前に出さず本心を知る方法なんて、聞いた事無いニャ。明後日にはあのふたりも、乳飲み子も、纏めてラキアの人質かニャ~」

 

「………………」

 

憐れむクロエは料理の乗った盆を取ると踵を返してテーブルへと向かう。予期せぬ繁忙時の到来は、すぐに店員達から要らぬ思索に耽るだけの余裕を奪い去る事だろう。

その、僅かな空隙の中で、ミアが何を思うのか。

虚を湛えたその表情に気付く者さえ、今この場には居ない。

 

 

--

 

 

「不思議だよな、ベル君」

 

あの後家路へついた主従は最中ひっきりなしに声を掛けられ、阻まれ、引っ掴まれ、大言壮語の真偽を問い質される運びとなった。そして、どちらも同じ返答をするのだ。本当だ。正気だ。やってやる。無いはずがない。聞いた者達の反応は様々だ。感心もするし、嘲笑もするし、ただ驚愕もする。興味深そうに首肯するだけの者も居た。

そのように夜更けの騒ぎの渦中にあったベルとヘスティアだったが、街の外れ、寂れた神殿に近付くにつれ人波もおさまってゆき、舗装の荒い道を歩いているのはいつの間にかふたりだけになっている。とっくに未明を過ぎている頃合だった。

 

「これまでろっくに相手されなかったのが、ああやってぶち撒けた途端に、野次馬だらけでさ。いや、最初からこうすれば良かったのかもな~、なんて」

 

戯けてみせるヘスティア。けれども、その本心は違っていた。隣を歩くベルの面持ちは同じ思いを物語っていた。

声を掛けてきた遍く人々、それはふたりの尋ねて回った人数を合わせた数にも届こうかというほどで――――その誰もが、求める情報を知らなかったという事実は、少なからぬ落胆を主従にもたらしていた。

 

「――――みんな、意地悪で教えてくれなかった訳じゃあ、無いんだなあ……」

 

「ッ……」

 

ぽつりと零れた台詞がベルの心を打った。それは、自分の中に確かにあった感情をそのまま形にしたものだった。最初からこうすれば。なぜ、そうしなかったか。

信じられなかったからだ、この街に住む者達の事を。

どうせ本当の事を触れ回っても誰も協力してくれないだろう、という、とるに足らない、ばかげた見栄、猜疑心、疎外感。そんなものに囚われていたのがまさに自分達だったのだと、僅かな時間であっても押し寄せる人集りが物語っているようだった。

そして何より、結局そういったくだらない葛藤を踏み越えたのだとしても、得られたのは万人の好奇心ばかりだという結果が、より色濃い失望感を与えていたのだけれども。

 

「あれが……あの人達がこの街に住む全てなんて、そんなわけ無いですよ。明日になればもっと、沢山の人の耳にも届く筈です、それならもっと可能性は……」

 

「…………そうだよな。うん。はあ、疲れてくると悪い方向に考えが行っちゃうんだよなあ。早いところ帰って寝ようか…………ぁ?」

 

道の脇に立つ人影に気付いたのは、灯りの少ない郊外で、その獣人の双眸がいやに煌めいて見えたからだった。ベルよりも僅かに高い背を持つ冒険者風の身なりをした女は、先程まで散々向けられた値踏みをするような目つきとも違う、その感情を努めて隠そうとしているような冷たい色を眼光に滲ませていた。

 

「ええと、キミも、さっきの騒ぎを聞いたクチかな。何か知ってる事があるなら――――」

 

不穏な雰囲気を感じても、それを無視してヘスティアは声を掛けたのだ。たとえ実りが得られなくとも失うものは無いのだから。

 

「可哀想ですよね、あなた達って」

 

抑揚の無い女の声色は冷え固まった凍土のようであり、女神の口上を阻んだ。嘲りは薄布程もの憚りを纏わず主従に突き付けられ、刹那その時間を停止させた。

女の胡桃色の双眸は酷薄な感情をベルに幻視させた。それは、直感だ。

 

「ねぇ神様。そこの僕ちゃんが、さっきのあの酒場で……ちょっと前、どんな姿を晒してたか、知ってます?」

 

「……!」

 

ベルは面識のない彼女がそれを知っている理由に思いを馳せる無意味を知っていた。幾つもの視線と笑い声。あの場に居た知らない誰かがどれ程居たかなど、最早記憶の遥か彼方だ。あんなものは何でもない、小石に蹴躓いたほどもない出来事なのだと容易く飲み込めるのなら、今ベルはこうして街中を駆けずり回るような事はしてない。無数の嘲笑を浴びせる何処かの誰かは、未だその苦味を忘れられない少年の心を揺らした。

 

「ゴブリン一匹相手に腰を抜かして、涙目になって、それを散々バカにされて、酔い潰されて、頭に酒をかけられて、ヘラヘラしてるだけ。下見て笑うカスみたいな連中相手に言い返しもしない……そんなちっぽけな『子供』が、あんな化け物といじましく傷を舐め合って、身を寄せ合う事を選んだ……何の取り柄もない神様の膝元で……。誰からも相手にされない者同士の友情なんて、泣けるお話ですよねぇ」

 

薄笑いを浮かべた口から、暗い愉悦の混じる台詞が紡ぎだされていく。それはベルの両腕の筋肉をを言い尽くせない感情で硬く興らせる。やめろ、話すな。それ以上口を開くな。そう叫ぼうとしても、噛み合わされた歯が許さない。わなわなと震える全身を必死で抑えつけていた。

その怒りは、いったい誰に――――何に向けられるべきものであるかを、知っているから。

 

「居場所の無い連中が、自分を慰める為の猿芝居を続けてるうちに、本気になっちゃってるんですか?あれだけの野次馬からも手掛かり一つ掴めないのに、いい加減無駄だって気付いてるんでしょう?出来もしない事に必死になるフリなんか、見苦しいだけだって、わからないんですか?あなた達なんて――――」

 

「おいキミ」

 

ヘスティアは、短く声を上げて女の長台詞を遮る。はっきりとした威勢を含みながら、それでいて萎縮させて相手の意志を挫こうというものでもない、単純な呼び掛けだ。自分の言葉に酔いかけていたのかもしれない女はハッとした様子で小さな女神の視線を受け止める。暗く膿む憤懣の澱に沈みかけていたベルもまた、辛うじてその声によって外界と意識を繋ぎ止められた。

 

「キミはそんな、可哀想なボクらの求めてるものについて、何か知ってる事はあるのかな?」

 

「…………見当もつきませんよ……いやさ、存在するわけが無いじゃないですか。この街の誰も、同じ事を言うに決まってます」

 

女は顔を逸らすと、吐き捨てるように言った。昂ぶりを消す為か、不遜なる振る舞いを今一度思い出す為か……。いずれにせよちらりと戻された横目はすぐ、その冷たさを取り戻していた。だが、そんなものは眼前に在る絶対者の心を揺るがすのに何の力も発揮していないのだと、ヘスティアの作る真顔は証明していた。ベルにはそう見えた。

 

「ふーむ。そうかい」

 

腕を組んで首を傾げていたヘスティアは、それから神妙そうに頷くと、固く握られているベルの手を取って足を踏み出した。軽く引かれるだけの力なのに、どうしてかベルの重く凍りついたように動かなかった身体は、容易く歩を進められた。その理由は、すぐにわかる。とても簡単な事だ。

 

「ご忠告痛み入るよ。でも、もう誰かに聞いたと思うけど、そうと決まってるわけじゃない以上ボクらは諦めたりなんかしないし、それにね」

 

胡桃色の瞳を下から覗き込む女神の顔は、対面する相手をただの下衆と断罪するような傲岸さなど欠片も無い、ただ己の確信だけを告げようとする真摯な表情を浮かべていた。

 

「この子はまだ、小さくて、か弱くて、少し傷つきやすいだけの『子供』かもしれない。けど――――知りもしない誰かにつまらない謗りを受けても、それを理由に足を止めたりしないって、ボクにはわかってるからね。……余計な心配は無用だよ」

 

「――――」

 

見開かれた女の目にどんな感情が宿っていたか、それはヘスティアにとっても、連れられるベルにとっても、何の関係も無い事だった。

損得勘定で繋がるものも、思いで繋がるものも、何も無い相手。そんな存在にここまで言われてどうするべきか。

何もする事など無いのだと、自分の手を引く存在は語り聞かせてくれた事をベルは理解した。

 

「じゃ、失礼」

 

「……」

 

もうヘスティアは一瞥もくれなかった。強く引くでもない小さな手に抗わず、ベルは足取りを辿って女の横をすり抜ける。俯く顔の色など、読み取れようはずもなかった。

それでも、絞り出すようにその言葉を口にした。

 

「……ありがとうございます。……さようなら」

 

彼女は何者であっただろうか。どこで出会ったかもわからない。わざわざ扱き下ろす為だけに姿を表させるような悪行を自分はいつ積んだか、ベルにはいくら考えたってわからないことだった。

少年の中から、いつの間にか煮え滾る怒りと屈辱は消え去っていた。

ただ、あっという間に冷えて乾いてしまった自分の感情への虚しさだけが……いや。

 

「…………っ」

 

女の、引き結ばれた口元を見て、確かにそれは感じられた。

どうしようもない物悲しさだけが、ベルの中に一筋流れ込み、そして止まることのない歩みを重ねるとともに身体の奥へと染み渡って霧散していった。

 

 

--

 

 

「神様。……あの人の言った事は……全部、本当で……」

 

「ん、わかってるよ。……わかってるとも。本当の本心だったろうね」

 

「…………」

 

「でもね……ボクが言った事だって――――証明なんか出来ないけど、――――本当の本心なんだぜ、ベル君。誰に何を言われたって、それは変わらないさ」

 

「……………………僕は」

 

「うん?」

 

「僕も……神様のように、強くありたいです。それが出来なくて、悔しくて、膝を折ったりするような弱さなんて、消してしまいたい……」

 

「……………………簡単だよ、ベル君。ボクみたいになる方法なんて」

 

「?」

 

「同じ思いで頑張ってるひとが居るとわかってるなら、知りもしない他人に何を言われて、何を気にするんだよ?って事さ」

 

ヘスティアにとっては、『子供』の抱える弱さも迷妄も我執も何もかもが愛おしく思いこそすれ、侮蔑し見放すのに値するものとは芥ほども思わなかった。それはどんな時でもともに分かち合うべきものなのだから。

それに潰されそうになる苦しみを払う為ならば何だってするだろう。どんな無様を晒そうが成し遂げたい何かがあるのならば、手を貸すのに何を苦しく思うだろう。いま直面する困難など、何でもないのだ。

立ち上がるのに必要なものが時間以外に無いのであれば、世界の終わりが来ようともただ傍らで座し続けられるという確信さえ決して揺るがない。

 

 

彼自身が、その命脈尽き果てさせる道を選ばないかぎり。

 

 

 

 







・その命脈尽き果てさせる道
「神々はかような大業を成した人物が自ら死ぬ事を許しません」
感謝しなさいクレイトス。




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