眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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書いてる奴が未完と言わない限りエタった事にはならんのだ。
でも誰にも相手されなくなるのとは別。





膝枕

 

 

 

「エイナ~。眠いよ~。もう帰ろうよ~。あの子達も忙しいんだよ~、今夜はきっと戻って来ないよ~……」

 

「先に帰っていいって、言うのは何回目?」

 

「やだよ~。暗いよ~。怖い人居るかもしんないじゃん~……」

 

「…………とにかく、これを渡すまでは帰る訳にはいかないのよ。どうせ明日は休みでしょ」

 

「ん~なのポストに入れとけばさぁ、あ、」

 

ミィシャの抜けた声で顔を上げたエイナは、背丈に差のある二つの人影を認めて立ち上がった。扉の壊れた神殿の庭は、僅かな整地の残った場所も雑草の絨毯を作れるほどに見窄らしい。おかげで職員の尻が土で汚れるのも避けられたのだけれども。

 

「ん、キミは」

 

眷属を連れて帰参した神を前に、腰を低くエイナは挨拶をひとつする。

 

「ベル君……ヘスティア様、夜分遅くに申し訳ありません」

 

「――――エイナさん?こんな時間に何で…………っ」

 

駆け寄ってきた顔は煌々と照らす月明かりのおかげでその端正な作りを映えさせ、ベルの言葉を刹那奪った。主のジト目に気付いたのは、それを正面から見ている二人の職員だけだ。尤も片方は、脳天気な発言に目元を引き攣らせながら、だったが。

ファイルを握る手がわなわなと震えている。失言に気付くと同時にその消えようもない既視感がベルの脳味噌を支配し、身体を凍てつかせた。

ベルは、祖父の言葉を今一度思い出した。

エイナの顔はものすごく怖かった。

 

「こぉんな時間、ねぇぇ。えぇ、こぉんな時間まで大変な事をしてる誰かさんからの頼まれ事をお届けに来ただけですものねぇ。お忙しいクラネルさんは、お忘れになってしまったのかもしれませんねぇぇ……!?」

 

「あっ、えっと、その、違います今のは」

 

顔色を失くして見苦しく言い募るベルの姿をヘスティアは相変わらずジト目で眺める。

何が違うんだよ。今のは何だよ。どうせ見惚れて一瞬全部忘れたまま口を開いたんだろ。きみはじつにばかだな。とヘスティアは思ったが、口を噤んで『子供』が制裁を受けるのを見届けようという算段に行き着く。だって、これは別じゃん。これだけはキミの抱えてるアレやコレやとは全然別じゃん。ボクは知らんぞ。

誰の手にも制止されず、眦と口角をつり上げた執行者は今まさに愚かな仔兎の命脈を絶たんと牙を剥こうとしていた……が。

 

「エイナぁぁ、はやく渡して帰ろうよホぉ……あふ……」

 

「…………はあ」

 

単なる好奇心でついて来ただけの同僚は、欠伸混じりの進言ひとつでエイナの怒気を散らしてしまった。ここまで遅くなるとわかっていたら決して来なかっただろう彼女こそ小さな冒険者の救い手足りえた運命は、誰が紡いだものであったか。

ため息をついて、エイナは危うくまた間抜けを晒しそうになった自嘲を隠す。だらだらと冷や汗を流すベルの姿は、いつかの如く歳なりの肝を持つ少年そのものだ。今臨む、無謀に過ぎる戦いへの決意を口にした際の毅然とした表情など決して見出だせない。

 

「私の辿り着けた手掛かりはこれくらい。あとは君達が「ふああ~~~あ」……ちょっとあっち行ってて。邪魔」

 

半分夢の世界へと足を踏み込んでいるミィシャが庭の隅へと追い払われる。フラフラとした足取りを見せた後座り込んで顔を伏せる彼女は、外界のいかなる話題に興味も示さぬであろう。

改悛の念を表情に滲ませながら、恐る恐るベルは資料を受け取った。開くと街の地図があり、見たことの無いエンブレムが書き込まれている。

 

「これは……」

 

「…………んん?聞いたことの無いファミリアの名前だね………………いや、天界では…………ああ、この名前は……でも、この街では会った事が無い気が……」

 

横から覗き込んだヘスティアは、もう一枚捲って、そこに書き綴られるファミリアのリストを見ながら、必死で記憶を漁る。今になって後悔しているほど交友関係の少なさを自負する彼女にとって、並ぶ神々の名前を思い出すのは中々に困難な作業と言えた。

主従による意図を問う視線を注がれたエイナは、応じて口を開く。

 

「ええ、もうこの街には存在しないファミリアですから。知らないのも無理は無いと思います」

 

その返答がどういう意味を持つか、ベルはすぐに理解した。かっと双眸が見開かれる。

 

「存在……して、いたんですか!?その方法が!」

 

漂わせていた引け目を瞬時に霧散させ、貪欲な光を目に宿して食って掛かる少年。その上体を迫らせる姿にエイナは内心苦笑した。彼の頭にあるのは、今度こそ自分の背負う使命だけだろうとこの上なく理解できる光景ではないか。そういう人間なのだろう、良きにつけ悪しきにつけ。

 

「落ち着いてよ。……ベル君、重ねて言うけれども、結局私が辿り着けたのは……それがあったかもしれない、っていう痕跡だけ。あったとして、それは一体何なのか、今も残っているかどうか、それを知っている人が居るかどうか……私の力でわかるのは、ここまでだった」

 

諭すように、或いは冷水を浴びせるが如き返答だった。だが目の前の主従が既に己等の逃げ場を完全に絶っている事など露知らぬエイナは、それでも過分な期待を抱かせる残酷な振る舞いを望まなかったのである。わざわざ言う事ではないが、仕事の合間もひたすらに探し、寝る間も食う暇も惜しく調べまくったのは、彼女の職場に通う殆どの者が知るところだった。

その結果がこの程度だという落胆は、確かに彼女の中にあった。

あれほどの傲慢な決意を言い放った少年への弁明とも言える態度は、自然とその口調に顕れてしまうのだ。

 

「……このファミリアの共通点、というのはいったい何なんだい?」

 

「それは……」

 

ヘスティアは、核心に迫る質問を投げ掛ける。失われた群団の痕跡を探れという意味は容易に読み取れる。然らばその由来を問うのは必然だ。

真っ直ぐに向けてくる思いに対し、エイナは少しだけ、時間を使う昔話を語り始めるのだった。

 

「zzz……」

 

座り込んで膝を枕にしたミィシャが目を覚ますのは、まだ先の事だ。

 

 

--

 

 

「悪どいパルゥム共が居るらしいのー。騙して、盗んで、陥れて、煽って、消える。ちょいと前はそんな連中も珍しくはなかったが、な」

 

品物の鑑定をする老いぼれノームの言葉などリリの頭には入らなかった。万余の屈辱と後悔に血液は煮立ち、口を開いた瞬間にも三千世界遍く存在への呪詛が噴き出すのを留める事は出来ないだろうと知る――――男のパルゥムの姿をした――――彼女の自制心は、奥歯を割るのも厭わない咬合力を生んでいた。

何度目だ?何度目だろう、この感情に飲み込まれるのは。主従ともどもどん底を這い回る、今やその命脈も一日半と迫ったファミリアは、会う度に、それを思い出させる。リリの魂を縛る鎖、温かい安らかな全てを奪い去っていく闇色の枷の事を。

呪いだ。

生まれながらに繋がれた縁とは、そうと形容する以外なかった。

 

「その頃はな、そういう噂が出れば、真っ先に喰らい付く輩も居たんよ。片っ端から悪党を成敗して、この街を秩序の光で正そうっちゅう……たいそう物好きと思っとったがな、ワシは」

 

救いたい。罪人じゃない。それを理由に足を止めたりしない。

眩い、甘い、愚かしい、かれらの姿は、それを前にした真に罰せられるべき者の影を更に濃く描き出し、膿んだ傷を曝しださせる。

闇の中でしか生きる事の出来ない者の都合など、きっと及びもつかないのだろう。

 

「おかげで、今は随分とマトモな暮らしも出来るようになったもんでな……軟弱が増えたとか言うヤツもおるけども」

 

誰に気を許せばその瞬間全てを奪われるかも知れない無明の世界で、リリが頼れるのは己の力だけだった。自分以外の誰かに何かを預ければ失敗と喪失が返って来るだけだという信念。それこそが彼女の歩んできた道すがらにおいて、その心身に、神の血よりも濃く深く刻まれたものだったのだ。

神の街の栄光に惹かれてやって来た、生ぬるい揺り籠の中にある赤子の如きおめでたい頭のバカ共など、彼女にとって一瞥くれるのも値しないカスだった。

――――そう言い聞かせる彼女の獲物はいつだって、自分を見下し、嘲り、欺こうとする悪逆の輩のはずだ。毟り取られたものを毟り返しているのだという正当性が、彼女の中に残されたか細い救いの糸だったのだ。それがどれほど度し難い欺瞞であったのだとしても。

 

「のお。この街から居なくなっても、連中のやった事は今でも、この街に根付いとるんかもな?」

 

勘定が済んで質札を作り始める姿も、目に映らない。

リリは、それを忘れ去る事は決して出来ないと知っていた。

自分はあの時、あの主従との約束に背いた時、あのせむし男の情報を売った時、遥かな希望へと至る道を照らしていた、小さな灯火を投げ捨てたのだということを。

ずっとずっと守ってきたたった一つの矜持も放り捨てた自分への怒り――――それが、今のリリの全身を満たす炎の、最も激しく燃える薪だった。

 

「……いずれお前さんのお友達も、痛い目見るかも知れんぞ。この街のモンは、例のアカイアの荒くれ共みたいに糞真面目ばかりじゃないからのー」

 

その言葉が吹きかけられた瞬間、昏い炎の中から火の粉を弾けたのをリリは感じた。

それは、売り渡したものの代価を受け取る時にラケダイモンの隊長から向けられた、虫ケラを見るような眼差しよりも――――否、それがあったからこそ――――、御し難く彼女を激させたのだ。

目を見開いて、昂ぶるまま噛み付く猛犬の表情を作り出すリリ。

 

「は……お綺麗な事を仰るもんですねえ?カネのやり取りだけで生計を立てている俺様は清く正しいと。自分より劣った者から何をどれだけ奪おうが飽きたらないヤツでも、法に触れなきゃ悪党じゃないと。そんな素晴らしい考え方を残してくれた、かつて居らっしゃった正義の味方がたは、さぞや鋭く公平にものを見るお目目を持っていらしたのに違いありませんねえ……!?」

 

「……」

 

質札を引っ手繰るリリの口端は目元まで繋がって歪み、右の犬歯を剥き出しにしていた。

何が悪だ、何が正義だ。そんな問いなど、彼女にとってゴミクズに等しかった。

いつしか、溢れ出る怒りの炎はその口を更に歪ませ、不意に笑みを作り出していく。ふ、ふ、ふ、ふ、と、断崖の谺のような、低い哄笑が漏れ出す。

 

「そもそもがおかしな説教なんですよ。悪どいパルゥム?友達?私が?アハハハハハ、誰が言ったんです?是非知りたいものですねえ?私が誰に何を話して、あなたはどこでそれを聞いたのか。つまりは私が悪党とつるんでるって事でしょう?証拠もなくそう決め付ける訳ですね。クククッ、ラキアの馬鹿共よりもよほど図々しい事をやってのけるものじゃないですか、そんな顔して!」

 

ケラケラケラと、溢れる感情の波を全て笑いに変えてリリは老いぼれノームを小馬鹿にする。偉そうに言ってのける訓告がどれほど的外れな下衆の勘繰りであるかを論い、知らしめるように。おかしくてたまらない様子のまま言いたい放題言い切っても、まだその笑い声は絶えなかった。

対する万屋の主人は、何の反駁も無く――――ただ、悲しげに、それを見つめていて、やがて口を開いた。

 

「そーだのー……ワシにはわからんともよ。ああ、何も。だから、どうもせんわい…………ただ、思い出しただけのことよ」

 

腹を手で抑えて笑うパルゥムから目を逸らした彼は、相手の事情に首を突っ込む気概も消え失せて、ただ、郷愁に浸っていた。

 

「――――いつだったか。そんな連中が拵えたっちゅう……怪しい品物を持ち込んできた輩がおったわ。死すべき者の言葉を計るとかいう、そりゃあ粗末な天秤でな……」

 

「――――」

 

リリの嘲笑は、一瞬で消えた。

 

「神様の前に引きずり出しゃあいいだけだろうに、何だってそんな物を作ったんだか…………それも、知りようもない事よな、もはや」

 

そっぽを向いて、誰に聞かせるでもなく独り言つ台詞の一語一句が今ここでどれほどの意味を持つか、彼は決して理解できないだろう。

絡み付く闇も導きの光も消えた虚無だけをリリにもたらす衝撃は、今暫し限り彼女の中から去ろうとはしなかった。

 

「……………………」

 

大時計の鐘が鳴るまで、偽りの姿を持つ死すべき者の意識は、何者の手も及ばない場所に立ち尽くしていた。

 

 

--

 

 

「ホラ、歩いて。帰るわよ」

 

「むぅん……」

 

半分寝ているままのミィシャを引きずりながら、エイナは一度だけ振り返った。だが、壊れた扉の向こうへ去る主従がその仕草を見る事は無い。伝えられる事は全て伝えたはずなのに、多くの含みを残したように思えるまま、エイナは帰路につくのだった。

 

「ほい急げ、やれ急げ!」

 

靴音を立てて小さな居に戻った二つの影は、小さな扉を閉じるのも惜しい速さで机に資料を広げて中身を写し出す。丸められた地図をポケットから引っ張り出して、そこに新しく印をつけていくベル。

 

『しつこいようだけど。これらの場所に彼らが住んでいたのは、この街にしてみればもう一昔前と言ってもいいくらいだから……何かが掴めるとは、ハッキリ言って私は思わない。でも、もしもという可能性がゼロであるとも…………思わない』

 

夢の中へ落ちゆく時間は潰えた。少なくとも自分に関してはそうだとベルは確信を持っていた。冴え切った目と、滑るように動く手首が正確にその記述を書取らせる。その様を眺める事もなくヘスティアがペンを走らせて、今は消え去った正義の味方達の頭目と、その擁護者たる神々の名を記していく。

主従は知っていた、きっと、これこそが残された最後の希望であるということを。

果たせるだろうか。

辿り着けるだろうか。

……違う、必ずや、遂げなければならない事だ。後がどうなろうとどうでもいい、あの場で全てを知らしめたのはその覚悟の為すものと、今更省みるほどもない事実だった。

インクが紙に刻み込まれていく音だけが、ふたりだけの場所に流れ続ける。不規則な摩擦音は、机にかじりつく両者の眠気が永遠に消し去られてしまったかのように絶えず奏でられていた。

やがてそれは、かれらの知らぬ外界に薄明が忍び寄る頃に遂に途切れた。

 

「……おっし終わりっ!」

 

「!」

 

差し出された写し紙を受け取り立ち上がるベル。座り込んで眺める暇も無いという思いが、全身を急き立てる。

 

「あっと、ベル君ちょっと待った…………これだ、これ」

 

「えっ?」

 

何を聞くでもなく『子供』に続こうとしたヘスティアは、はたと思い出して台所へと踵を返した。そこから持ち出してきた、包み紙に覆われたそれは二つあり、片方を差し出す。

 

「作っといたんだ。大した足しになるかはわからないけどさ……ちょっと早い朝ゴハンって事で」

 

主の破顔は、前のめり気味のまま、ともすれば転げそうな危うさも未だ孕む少年の心を平らかにするに充分能うものだ。

少々不格好な、じゃが丸くんとよく似た携帯食を手にしたベルは、少しばかり面食らった顔をして、それから、口元をゆるめた。

 

「神様。……………………これが済んだら、神様のお店に行ってみてもいいですか?どんなふうに仕事をしてるのか、見てみたいんです」

 

「っっっっえ゙!?!?!?、…………!?!?、……あ!?いや、うん!?……うん、まあ、ああ、その、ええと、…………よし!!うん!!大丈夫だとも!!全然!!いっ、いくらでも来てくれよ!!じゃんじゃんサービスするぜっ、わははははははっ!!」

 

眷属がとっくに真相を掴んでいる事を知らない女神は、その心の有り様をそのまま態度に映し出して、最後は冷や汗をしとどに流しながら渾身の虚勢を張る。ヤバイ。どうする。くそっこうなったら土下座でもなんでもしてもう一度雇ってもらうしかない!!と。

自分の抱えていた暗く低俗な欺瞞と比べるべくもない微笑ましき姿を見るにつけ、今この場所と時がどれほど得難い、手放さざるべきものであるか、ベルは理解を改たにするばかりだった。

 

 

--

 

 

リリが所属するソーマ・ファミリアは毎月、団員から各々能力に応じた金を巻き上げる。それは絶対に守るよう厳命されている。足りなければ、制裁を喰らう。それは少なくとも今月においては、リリと関係ない事だった。裏切りで得られたものは、それなりの酬いを彼女にもたらしてくれたのだから。

ひと時の安寧を得た彼女は、街の隅の使われなくなった下水道の一角、ボロボロに崩れて倒れた扉の後ろにある、小さな空間に佇んでいた。

そこが数日前、灰かぶりの少年と、片端の罪人と、小さな女神とはじめて対話した場所のすぐ近くであったのを、彼女はついさっき知った。

誰が使っていたか知れない家具だったものが散らばり、誰が揃えたか知れない食器だったものが散らばり、誰の営みを支えてたか知れない崩れた台所と合わせて、この場所がどれほどの時間放置されてきたかを物語る荒廃ぶりを晒している。

 

「…………」

 

ほつれきった布と飛び出す綿はホコリまみれだったが、構わずリリはその、かつては寝床だっただろう残骸に座った。ふと思う、今はどれくらいの時間だろう。かれらとの会話から、どれくらい経っただろう……。倒れた扉に描かれたエンブレムは今やそれを知る者でなくば他の誰も判別できないほどに色褪せている。今となってはそれがこの街に記された場所は、最早ここしか無かった。

打ち棄てられた、何処の誰の温もりがあったとも知れない安息の場所。それは、リリの心をかき乱す多くの懸案を容易く呼び起こす光景だった。長い旅の末に帰って来た冒険者は、この場所で微かな既視感に心慰めつつその羽を休め、そして誰にも正体を明かそうとせず主の帰りを待ち続けるつもりでいたのだろうか。いつまで?

彼に、かれらに何があったのかなどリリは知らない。だが、十数年も前に追い落とされ、放逐された群団がもう一度戻って来るなどと、どうして本気で思えるのか。信じられない愚か者だ。他の理由があったとしか考えられないのがリリルカ・アーデという死すべき者の性情だった。

だが――――

 

「どうして、…………」

 

呟きはクロスの全てが剥がれ落ちた壁に染みこんで消える。

あの小さな主従は、決して、異形の乳飲み子の事を疑わず、勝算など毛の先ほども見えない、無謀極まる戦いへと身を投じる事を選んだ。

全ての事象は、まるで如何に自分が惨めな存在であるかを指摘しているかの如く移ろい、リリの心を苛み続けていた。どこまでも弱く、虚無のみが待ち受ける夜闇へと消えゆくだけだったはずの少年は今、果たすべき義に従い、信じてくれる者と手を取り合い、確かにこの街に在るに違いないその方法へと辿り着く為にあがき続けている。

どうして。どうして。どうして。

どうして諦めないのか。どうしてそこまで信じられるのか。どうして歩き続けられる強さを持てるのか。どうして……。

 

(……私には)

 

どうして?

何度唱えても足りない疑問。その答えを知らないからだ。どうやっても、知る手段などリリは得られないからだ。

だが――――答えは存在する。誰も知り得る手段を持たないだけだ。

運命が、そう定めたのだ。

リリルカ・アーデという死すべき者は、ただの酒に心奪われ、一時ばかりの情欲の猛りに任せて子をなし、それに人格を認めず、心奪うものを手に入れる道具としか見ず、そのまま曇った眼を晴らす事無く生命を散らすような男女の間に生まれ落ちる。ひとり残されても誰からも施しは与えられず、ただ憐憫と侮蔑と失望だけを投げつけられ、欲する全てを奪われていく道を歩む。

誰も、彼女を見ない。誰も、彼女を慮ることはしない。誰も、彼女の居場所など知らない。

やがて、死ぬ。いつとも知れないその時に……どんな手段でも免れられぬ形で。

 

「フ、フフフッ……」

 

どこまでも壮大でありふれた妄想を膨らませるリリの頬に、冷たい何かが流れ落ちていく。

どうしてだろう。

今ここに、自分を害するものなど何も無いのに。

リリにはわからなかった。

何もわからなかった。

永遠に湧き出し続けるあらゆる疑問についての答えは何ひとつ得ることは出来なかった。

 

 

放心したまま、ふらふらと街を彷徨い歩いた果て、気付いたら辿り着いていただけの場所。かつて、他のどの群団よりも弱く、小さく、見下され続ける主従が救いを見出した、小さな聖域のすぐ傍。

そこでたった一人で膝を抱え座り込むリリは、笑いとも啜り泣きとも区別の付かない奇妙な声を漏らし続けていた。

 

 

疲れ果てた彼女がそのまま眠ってしまうまで、もっと時間が必要だった。

いっそ夢さえ見ることの出来ないほどの心身の憔悴だけが、いま彼女の求める全てだった。

 

 

--

 

 

目覚めの時も迫る頃合は、街の中心であってもよほど人影は少ないもので、だからこそ日陰者達がこそこそと出入りするのも容易かった。今は違う。

ギルドに雇われた冒険者達は城壁の門やギルド本部はもちろん、迷宮入り口から神々の居住区を除いたバベル全体にかけてまで配置されており、虫一匹も逃さないと目を光らせている。それも共犯者とやらを見つける為、というのが建前だ。奥にある真の目的を知る者はどれほど居るだろう?少なくともギルドの長の抱く懸念は街に持ち込まれた謎の巨大花だけに注がれていた。

 

「くそーっ、あの筋肉め。今に見てろよっ。罪人だの共犯だの決めつけてからに、今に赤っ恥かかせてやる」

 

秩序の為の建前など正面から打ち崩す者のつぶやきは、それぞれの目的を持ってここに集いつつある者達の耳に否が応でも入ってくる。――――偶々そこに居ただけか、あるいは既に顛末を知ったうえで待ち構えていたのか――――朝一番と本部にやって来たヘスティアとすれ違ったラケダイモンの副官は、冷え切った眼差しを一瞬だけ向けて、それから何も言わず建物の奥へと去ったのだ。

主神と眷属の性情が必ずしも寸分違わない事などあるはずもなかろうが、それにしたって第一印象からして最悪極まっていた感情はそのままラキアを束ねる戦神へのそれと重なり、慎ましやかな居の擁護者を憤慨させていた。

 

「……おうい、そこな君!そーとも君だよ君。毎日お勤めご苦労さん、ボクは…………えっもう知ってるのか。じゃあ話は早いな、このファミリアについて何かああっ!?」

 

面白くない気分を改めるように、いざヘスティアは目についた不運な第一冒険者を捕まえて一気に捲し立てる。一人攻略に勤しもうとしていた彼は、危うく捕食されそうな錯覚を抱かせる眼光に気圧されそのまま飲み込まれそうだった。

そこに現れた救いの御手は唐突に、小さな女神の広げる資料を掻っ攫う。

 

「面白い事をしているのね」

 

「かっ、返せよっ!何だってキミがこんな所に……また変な事を吹き込みに来たのかっ!」

 

取り上げられた紙束はフレイヤの長い腕で高く掲げられ、ぴょこぴょこと跳ねるヘスティアの哀れな姿を演出する小道具となった。

 

「人聞き悪い事を言うものじゃない?そうやって元気になったのなら、私の言った事も悪いようにはならなかったという事でしょう……ほら」

 

不敵なる振る舞いは、先日街中を騒がせた一端の報いとして団員を駆りださせられている事への不満など、おくびにも出さないものだ。そんなフレイヤの『子供』の一人は、前触れ無くやってきた主から離れた場所で只、その職務を全うしている……女神達に見惚れかける名も知れない中堅冒険者を、ひと睨みで退散させる程度には。

肩をすくめる銀色の女神から没収品を取り戻したヘスティアは非常に渋い顔をしていた。おめえがおかしな事を言ったのが今の発端ではないかと因縁をつけたい気持ちは、結局は己の間抜けさが全てを招いたのだという罪悪感と打ち消し合ってしまう。しかし、それでも一言くれてやるくらいは許されて然るべきではないかとも思うのだ。

 

「…………少なくともキミのおかげなんかじゃ無いんだよ……そんな事言いに絡んでくるなんて良い身分だよな全く。もう知ってるかもだけど、ボクはとおっっっても忙しいんだ」

 

「ええ、頑張ってるらしいじゃない。私の出る幕じゃないみたいだけど……応援してるわ。本当よ」

 

「そうかい……」

 

果てしなく嘘くさい事をかくも真顔で言うものだと、ヘスティアのテンションは下がった。このまま続けても有力な手がかりなど得られそうもない相手でもあると思えて仕方なかった。

 

「じゃあ、お邪魔したわね。一晩『子供』と仲良くしてるうちに気付いたらこんな時間になって、暇だったのよ……ふふ、あなたも同じ口じゃない?」

 

「は?……………………………………………………、!?!?、!!!!、――――~~~~~~~~!!!!」

 

手をひらひらと振り、フレイヤは去る。残されたヘスティアが不埒な冗談を理解して顔を真赤にするのも、銀月の化身の目の届かぬ場所で起きたできごとであった。

とんでもない誹謗に呼び起こされる恥辱と憤激は、近頃味わってばかりな気がするそれらとは比較にならない。言葉を失い、その場で腕をぶんぶん振り回して地団駄を踏むばかりだった。

 

「あ、あのう神様。なにかご用件があるのでしたら――――ひぃ」

 

「ッッッッ!!!!この!!このファミリア!!名前!!覚えがあるかなっっっっ!?ぜひ!!教えてくれ!!というか!!写してそこら辺貼っつけてくれたら!!嬉しいんだけども!!!!」

 

たまの早番の職員は見兼ねて話し掛けて、すぐに後悔した。小さな女神の強烈な怒気を受けあの(ちょっと狙ってた)ハーフエルフの受付嬢や街一番のファミリアが首魁を思い出し、なぜ俺ばかりがこんな恐ろしい目を見なければならないのかと世の不条理を呪うのだった。

義憤その他の要因によって灼炎を滾らせるヘスティアの存在は、すぐにでも朝日に照らされゆく街中より、噂好きな住民達を呼び寄せるに違いなかった。

フレイヤはすれ違う『子供』の勤勉さを流し目だけで労いながら、今どこで駆けずり回っているか知れない少年の事を思い、口元を緩める。彼女の楽しみは、まことに尽きる事も無くこの街には溢れているのだった。

 

 

--

 

 

「わざわざてめえの足で探し回ってるくらいだから何度聞き返されたんだか知らないけどよ、言わせてくれ。お前よ、本気なの?」

 

「本気です」

 

「そうか……。……気の毒だと思うがな、助けにはなれねえよ。コイツらの事は確かにちょいちょい覚えてるが……私がこの場所を借りた時点で、建物は焼けちまってたしな。住んでた連中はどこに行ったんだか」

 

かつて、そこにはその群団があったという。今は違う。何度そこに居を構える者が入れ替わったかも、ベルはしつこく訪ねて回る。

地図に写した印を辿るベルは、その周辺も含めて聞き込みを繰り返した。激しい焦燥を隠し切れない熱心さはそれを嘲る声など忘れさせたし、そんな姿は一夜明けて知れ渡る蛮勇ぶりとともに、決して衆生に対する悪印象をばら撒きはしなかった。何もせずとも消え失せそうな泡沫の輩からは掠め取れるものを期待出来ようもなく、そこに付け入ろうとする者も居ない。

ゆえに、道を遮る誰ぞの悪意よりもずっと征しがたい、そこには結局何も無いのかもしれない闇の帳の中を突き進む難行にベルは挑み続ける。

 

「嘘か真かを裁定する、ね。確かに、ああいう連中でなけりゃあ作りそうもねえのかもな。――――ま、頑張れ。ギルドもあんな脳ミソ筋肉相手にハイハイ言ってよ、そのせいでオラリオがなめられたらたまんねえしな」

 

刻限はあと丸一日と少しと迫る中でこのような反応を得たのは何度目かも、ベルは数えてない。昨晩までに出会った者達のそれとはまた違う、仄かな無念を滲ませる表情と返答だ。ただ僅か遠くを重ねて見るまなざしを向けてきたり、或いはむず痒く感じる声色で紡がれる申し訳程度の励まし。それはかれらの感情がいかなるものであるかを幼い少年にも察させるに充分なのだ。

 

「……ありがとうございました。うちの神様はギルドに居るはずですから、何かわかったら、ぜひお願いします」

 

パイプを蒸す女に頭を下げてベルは店を出た。あと少し、あと少しと自分に言い聞かせ、万度その手が空を切ろうとも歩みを止めまいと戒める。

路地裏からふたたび街道に出れば立ち所に、陽に照らされる少年へと好奇の視線が注がれていく。圧巻の質量にすら感じる雑踏の衆目だが、この程度の事にかかずらう理由などどうして見出だせようか。ただ目は前を向き、脚は立ち止まる人々の間を割るのに躊躇なく踏み出される。あまねく罪を明らかにしようとする白日は少年に、沈黙のまま闊歩する己の影を濃く、大きく錯覚させる。

無茶だな、無謀だ、売名だろう、確かに不憫だけどなあ、知らねえよな。ベルを振り向かせる事もなくそれらは通り過ぎていく。聞き飽きた言葉だ。けれどもそれらはどれだって、戯言と一蹴するのもベルには憚られた。昨晩の、主の呟きに込められた万感の思いを察するにつけ、……即ち、冷淡、無関心ともとれる街の住民たちの反応も、結局はそれを知らないから、そして如何にラキアの思惑を覆すのが困難であるかを物語っているのに他ならないからではないか。

開かれて畳まれて擦り切れそうな地図に目を落としたまま、ベルは前へ前へと突き進んだ。

何度も何度も尋ねた。

 

「懐かし。ごろつきから助けられた事もあったよ。……でも、どこ行ったかは知らない。リーダーが死んだってのは聞いたけど」

 

「あったなこんなファミリアも。まだ自治組織が機能してなかった頃だ。こいつらか?怪物に全員まとめて食い殺されて、服の切れ端も残らなかったんだってよ」

 

「確かにここを拠点にしてたんだろうけど。オレが来た頃には、宿無し連中の溜まり場だったからなァ。金になりそうなものは何ひとつ無かったし、取り壊し中にもそれらしいものは……」

 

正義の味方達はすべてこの街から消え去ってしまったのだろうか、記録と記憶だけ残して。かれらの生命の痕跡はベルの辿る足跡の半ばにあって、髪の毛一本ほども見出す事は出来ない。世界中から死すべき者が集って犇めき合う地においては、失われたものが存在する隙間もすぐに埋められてしまうのだという歴然たる事実ばかり積み上げられてゆく。ただそれを噛み締め、ベルは歩き、いやさ走り続ける。息を切らし、汗を飛ばし、薄暗い路地裏で怪しげな連中にまで聞いて回るのも全く厭わない。

 

「クククッ。なんだ、餓鬼。こんな連中頼りにしてるのか。ああ、覚えてる。役立たずの癖に鬱陶しくてしょうがないカス共だったってな。今のお前みたいに」

 

「胸糞悪いヤツらの事思い出させやがって。テメーもそいつらと同じように、負け犬呼ばわりされてオラリオから逃げ出すだけだ」

 

「正義の味方はねぇ~、悪い奴の事を味方してくれないんだよぉ~、ウヒヒ……ボクちゃんはきっと悪い子だから、この人達も助けちゃくれないわけさぁ~……」

 

彼らは確かに居たのだろう。そしてそれを疎む者達も居たのだろうと、目つきの悪い者達の態度が示していた。彼らはこの街を去り、そして何処かで安息の地を見つけたのだろうか。その主とともに、そこに骨を埋めようと今も暮らしているのだろうか。折れてしまった錦の御旗をこの街に残した事も、永遠に忘れたまま。

その末路全ては各々が理由に基づくものであり、かくも身勝手な等と拳を握られる謂れなどあるはずがないだろう。そう言い聞かせるベルは、苛立ちを消せない未熟な精神性を恥じ、消し去ろうとするように我武者羅に走った。

道すがらすれ違う者達は今や、中天に差し掛かる陽で汗を流す少年の姿形をすっかり及び知るようになりつつあり――――そして既に面識のあった数少ない者は、沈痛な面持ちばかりを浮かべる。

 

「ヘスティアちゃんも無茶するな。正直言うと、同情するよ」

 

「また店長は、そう薄情な事を!…………今そうやって必死で足掻いてるのを助けられないのが心苦しいよ。どうか、叶うように祈る事しか出来ないなんてね……」

 

「いえ、いいんです。全部済んだらこんなの笑い話ですよ、きっと」

 

「そりゃ、笑うしか無いだろうな……餞別くらいなら包んでやれるけど、どうする?」

 

屋台の人々の本心はともかく、そうやって言ってくれる人々がゼロではないだけでもベルにとっては僅かばかり心が軽くなる事実であった――――それが現実を変えるわけでもないと、わかっていてもだ。

見送る視線に振り向かずにベルの脚は地を蹴る。まだ、尋ねるべき場所は残っているのだ。

 

(……何処かにあるはずだ。きっと、手掛かりはあるはずなんだ)

 

何か一つでもいい。何か一つでも掴めなければ、欲するものに辿り着く事は決して出来ない。固く重くベルの全身に絡みついて軋む鎖は、彼の脚を更に早めていく。

眠気も空腹も忘れさせ、ただ赤い瞳に消えない炎を宿させたまま。

 

 

--

 

 

「…………なんでだよお??」

 

ギルドのロビーの端っこに小さな机と椅子まで用意されたヘスティアはそこで突っ伏し、シンプル極まる疑問を口にするのだった。行く人来る神捕まえて聞きまくり、行く神来る人捕まえられ聞かれまくり、合わせていったい何回目だったか、そう聞けば、三桁は確実に超えているハズだぞと自己申告するだろう。こんなに働いたのは屋台仕事でだって無かったとも。

それなのに、誰も知らねえでやんの、とも。

掴ませる金も無い以上、主に死すべき者の偽りを見抜く瞳だけが頼りではあったが、それでも誰も彼もが口を揃えて言うのだ。いやそんな方法全然知りません、そいつらがまだ居るかどうかさえ聞いた事ないです、どこへ行ったかだって。

 

「なんでだよお…………」

 

白目を剥いたまま、口からは重い溜息が漏れ出していた。放心しかけの女神は昼食抜きの苦難ゆえ、その体力も風前の灯だった。皆はただそれに、気の毒そうな視線を送って通り過ぎる。概ね知れ渡った噂では、新しもの好きの好奇心もそろそろ呼び起こせなくなりつつあったのだ。掲示板の新しい貼り紙も虚しく揺れていた。

しかしそんな折に接触を図る者は、未だに絶えず存在していた。世界の中心の、神々の都であるがゆえに。

 

「ヘスティアアアアア!!聞いたぞおおおお!!なぜ、何故この俺に最初に相談しないのだっ!?俺に!この俺!!ガネーシャに!!何故だ!?」

 

「うあっ」

 

どこからかどかどかと地を踏み鳴らす音がしたと思ったら、象頭が大股歩きで突進して来たのだ。ヘスティアは粗末な木イスに座ったままひっくり返りそうになった。

そういえば、こんなやかましい奴ともそれなりの縁はあった、と言えた、のだろうか、と、少し霞がかっていた思考は飛び飛びに結論を導く。いずれにせよでかい身体で机に手をついたままの、その仮面の奥の真剣な眼差しを見返せば、彼の決意は既に固まっているようだと察せた。

 

「俺は今義憤に燃えている、偉大なる小さな女神ヘスティアと、その『子供』の姿が如何に高潔であるか、それに手を貸さない理由があろうかと!!遥かな旅路から戻った昔日の勇者を救う手立てを求めない理由があろうかと!?そう、俺はこの街を、この街に住む者を愛しているからだあ!!」

 

「……あ、はい」

 

エネルギーが枯渇しかけている状態のヘスティアは、大仰に持論をぶって注目を集めてくれるガネーシャに圧倒されていた。なんか褒められているらしいぞベル君、と、ここに居ない者にそう心のなかで呟いた。ぼんやり気味だった。

 

「応、言葉は要らない、そうだろう!?約束する、必ずお前達の道は拓かれようと……何しろそれくらいしなければ、俺の不始末を雪いでくれた借りはまだ返したと言えないだろうからな!」

 

「え、」

 

勝手に捲し立てた挙句にどかどかと地を踏み鳴らして去っていく象頭。背もたれの後ろまで肩を放り出したヘスティアは唖然とするだけである。漸く心音が刻み始めるのをその耳で捉えてから、がっくしと身体を弛緩させた。

 

「……好き放題言うだけ言って、まったく。助けてくれるのは、ありがたいけど」

 

高い天井の豪奢な絵画を仰いだ口から力ない呟きが漏れていた。希望的観測を得られない心情とはひょっとしたら残り少ない精魂を短い会話の間に意図せず預けてしまったからではないかと仄かな危惧すら芽生えてくる。ここでこれ以上何かして、どんな手掛かりを掴めるだろうか、とも。

……ふと、遠巻きに眺める者達が何か言っているのが聞こえた。

……まあ、無理だよなあ……。

 

(――――いかん、駄目だ。弱気になってどうする!今もベル君は走り回っているのに違いないんだ――――!!)

 

一瞬で両眼に力が戻り、自堕落に凭れかかった姿勢を揺り戻すヘスティア。二本脚だった椅子が音を立てて垂直になり、上体は正しく前方へ向けられる。焦燥に耐え忍ぶ力すら欠いてしまえば自らの果たせる事は何ひとつ無くなってしまうではないかと、その自覚はまだ存在した。

真正面を見据える視界に映る細い両目と赤髪……組んだ腕を机に乗せた仇敵の顔を理解するまでは。

 

「ぐっわ!なっ、あっ、…………!!」

 

「お~~、やる気充分やったのがそんなビビって、何、ウチが嫌がらせするとでも思てんか?あの色きちがいみたいに」

 

ガタガタと音を立てたヘスティアは、今度こそ椅子ごと後ずさっていた。ロキの後ろに立つドワーフの巨漢も、その更に後ろで呆れ顔を見せているヘファイストスとデメテルの姿も、認識の外にあった。パクパクと口を開け閉めするのもすぐに控えて、立ち上がった小さな背丈は犬歯を剥き出しにして吠える。

 

「はっ、……く、わ、どうせそのニヤケ面で冷やかしに来たんだろう!?笑うなら幾らでも笑えばいいじゃないかっ!くだらない上辺だけの言葉で惑わそうなんて、そうはいかないからな!」

 

「何や、そんな性悪みたいな顔に見えるんか?これが?なあ~ガレス?ウチはいつも笑顔が一番やて思うてこうしとんのにぃ~、まったく切羽詰まって見苦しいわ~」

 

とても一所懸命に意思表示をするヘスティアに対し、ロキは人差し指で両頬を上げながら煽った。『子供』に同意を求めまた向き直るその仕草でヘスティアの怒りは心頭に発した。

 

「なんだとをぉう!?!?」

 

「……落ち着きなさいよ」

 

果てしなく続きそうな舌戦を諌めるヘファイストス。困り眉ばかり見せて口出ししないデメテルに恨み言もぶつけたいが、それは後にするべきだろう。

ともかく荒く鼻息を吐く旧友に冷静な思考を育ませる為に、改めて会話を持ち出すことにする。

 

「皆、あんたがここまで派手にやっちまったのを笑う為に来た訳じゃないんだから。……それにしてもまあ、正直なところ、案の定というか……そんな方法、よっぽど無いものとは思ってたけど」

 

広まった噂とその根源が置かれる状況を照らし合わせれば、明るくない展望は容易に感じ取れるものだ。精一杯言葉を濁してフォローしようと苦心しても結局それは叶わない。それを皮切りに続く者を呼ぶだけだ。

 

「でも最初からこうしていれば、もう少しマシな感じにはなってたんじゃないかしら。確かに、損得勘定ばかりの連中なんか信用出来ないって気持ちは、わからなくもないけどね。ヘファイストスが変な事言ったせいで……」

 

「ンハハッ、そりゃ違うやろ~。つまらん意地張って自分らを追い込んで、まぁ……事なかれ主義、やなくて……引きこもり特有の秘密主義?溜め込み気質?とにかく、全部ドチビの決断が招いた事やろ?違うか?」

 

「んぐ、う」

 

連続で行われる厳しい寸評に音を上げ、ヘスティアは唇を引き結んだ。わかってるからこそ他者から指摘されると痛くて仕方ないし、返す言葉も見当たらない。特に、二柱の女神から事情を聞き出していただけのロキの台詞はそれでも恐ろしく的確で強かだった。

 

「う、……でも!だ!!だからってどうやってもやり直せないから、ここに居るんじゃないかよ!それが間違ってるとでも――――」

 

「時間の無駄だという、麗しき友情の成す睦言を理解出来ないようだな」

 

レベル6の超戦士もただ控えるだけの、絶対者達による会話へと割り込む野暮天はそこに居た。既にロビー中で屯す者達の視線を俄に奪って久しい小さな界隈は、そこに漂う和気を一瞬で塗り替えられた。

鍛え上げられた肉体と装備だけに依るものでは決してない質量は、その男の足音を通して全ての者達に理解させる。

神々の都を闊歩する不信心者は、ヘスティア達から少しばかり離れた、その間合いの触れ合う場所で立ち止まった。

 

「……不退(leonidas)」

 

ガレスはごく自然に、主を自分の影に隠すよう足を動かしていた。思わずつぶやいた、ラケダイモン最強の戦士のみが戴く異名。それはオラリオ屈指の益荒男に背き退く事を憚らせるのにあたり、少なくともただの虚仮威しとして振る舞うような看板ではない。

神々と相対する金色の双眸は、足ることを永遠に奪われた餓狼の如く燃えていた。少なくとも友好的な意思など欠片も感じ取れない気迫は一同を包み込もうと揺らめき、遍く観衆の言葉すら奪わんと満ちつつある。

 

「ハ、目ン玉腐っとんな~……なあドチビ、友情やて。碌な友達居らなんだら、オモチャにして楽しむ関係もようわからんくなるんか?主神によう似とるわ~」

 

『子供』の意図を敢えて汲まないロキは、あからさまな挑発にここぞと乗ってみせる。それは一見誰に対しても向ける小馬鹿にしたような笑顔であっても、薄くチラつく眼光を絶やさないものだった。その意図を窺い知れる者はこの場においては少なくない数だけ在ったが、割合としては僅かだ。それほどの野次馬はロビー中に居た。そしていかなる輩であろうと等しく、オラリオの頂に立つ女神とラキアの頂に立つ戦士の対面が生む危うい緊張感を理解していた。

かくして生まれた、意思も力も全て呑み込まれそうになる重圧の中において、しかし断じてそれに身を任せるのを拒む者は居た。

 

「――――無駄の筈が無いだろっ!!なに、勝手に決めつけてるんだよ、キミらは……性懲りなく!!」

 

「……」

 

怒鳴るヘスティアが机を叩く仕草からは、自らを鼓舞するかのようないじましさが透けて見えた。それほどにちっぽけな存在である悲しさ、無謀さをこそ、ラケダイモンは侮るばかりなのか……それとも。

無言のままその双眸は、憐れむべき零細群団の首魁へと叩きつけられる。だがそれに動じる程度の決意など、最初からヘスティアは持っていない。大きな瞳の中にある煌きはますますもって抑えがたい勢いで燃え上がっていた。まっすぐにそれを射貫く視線とともに、口髭の中で紡がれた言葉が向けられる。

 

「無力さを思い知る事を恐れ、無能ぶりを受け入れる器も無い故に、ただ動かず口を開けて餌を待ち続ける雑魚が、何を手にする?何を成せる?地に引きずり降ろされた不運を嘆くばかりの神が、死すべき者の何を導くと思い上がれる」

 

「――――!!」「今は、違うわ。そうでしょヘスティア」

 

この世の道理に外れた蛮行への引け目を持たないケダモノの台詞とは、その他大勢の唱えるどんな侮辱よりもヘスティアの怒りを煽り滾らせて余りあった。

髪を逆立てて牙を剥く旧友の肩を、ヘファイストスが抑えた。唇を噛み切ろうとする程の怒りを諌めるのには、まさにその隻眼の女神以外に適任者は居なかっただろう。ヘスティアは悪罵の迸りを既の事で押し留めた。両肩を掴む手の硬い感触に抗う程の恥知らずではなかったのだ。

ひたすらに怠惰だった自分の姿を誰よりも近くで見てきた者の制止は力強く、重かった。

 

「今がどうあろうと……貴様も、あの出来損ないも、ラキアの虜囚になるという運命は、変わりようもない……最早な」

 

「?、この娘の『子供』には、興味無いのかしら」

 

神々の抗議に満ちた視線を受けてなお、戦士の宣告は鋭利で冷厳だった、そう、血煙も凍てつかせる氷河の如く。とぼけた顔で質問を投げ掛けるデメテルに対しても、態度を改める余地は誰にも見出だせなかった。顔は動かないまま、金眼が向きを変える。

 

「……」

 

無言。その答えの意味するところは誰も知らない。

足はロビーの出口へ向けて踏み出される。行く手を阻む何者もそれだけで散らせんとばかりの、傲慢な意思を込めた歩みだった。

 

「おやおや、ま~た熱心に偵察かい。ゴシュジンサマによう飼い馴らされとんな~」

 

「共犯者は全て連行し取り調べの対象となる。……そこに居る貴様の『子供』など、疑わしい一人だが」

 

「んなッ」

 

筋骨逞しい背に放った皮肉を打ち返されて、ロキは一瞬言葉に詰まりガレスの後頭部を見やった。キラーパスを喰らった当人は何も言わず微動だにせず、主の盾となるようそこに屹立するばかりだ。

見事な失態を演じてしまった事にロキが気付いた時には、もうラケダイモンの隊長は穏やかな会話の成り立たない距離に居た。

 

「くぁ、腹立つ。ガレスぅ、ちょっとあの偉そうなトサカだけここから斬り落とせん?あの花みたいに……」

 

「無茶言いなさるな」

 

とっくに眷属の陰から全身を乗り出していたロキは苦い表情を作って囁く。ガレスの溜息は気勢の変わらぬ主への安堵だけかどうか。

会話の途切れた空気の中では和やかさや間抜けさより、向け場のない感情を持て余す遣る瀬無さが募った。関わりのない観衆にとってみても、畏れを知らない戦士の居丈高な物言いは鮮烈に焼き付いたままだ。

こと心理的な空隙の中心に在るヘスティアは胸中渦巻く感情を整理できずに、両拳を握ってぶるぶる震えている。投げつけられた言葉は夜闇の稲光が如く唐突に蘇っては思考をかき乱した。渦巻く雷雲は今確かに小さな身体に詰まっていた。

 

「……連中、乳飲み子を連れ帰ったらどうするのかしら。あの罪状ぜんぶ被せるとするなら、まさか処刑」「ぬあっ!?処刑っ!!」

 

何となしに呟いたデメテルによる穏やかでない単語で、落ち着きかけていたヘスティアにまた火がつく。恨みがましい隻眼の目つきを作ったヘファイストスはデメテルを見やりつつ、また両手に力を入れた。

 

「有り得ないわよ。交渉材料か、そうとも期待できないなら、懲役と称して奴隷にでもするんじゃない」「奴隷!!奴隷だって!!」

 

ぜんぜん効果的でない訂正をしてしまった過ちを知るのは遅きに失した。ヘファイストスは、その手の戒めを打ち破って飛び出す小さな影を呼び戻す手段を思いつかなかった。

 

「待ちなさい!街の中はあんたの『子供』が尋ねて回ってるんでしょうが!」

 

「あー!あー!もう我慢出来るかっ!ベル君一人に任せてこんな所に居るなんて……キミだって、待ってて手に入るものなんて何もありゃしないって、ボクを追い出した時に言ってたじゃないかっ!!あいつら、目にもの見せてやるうぁあああっ!!!!」

 

ヘスティアが幻視するのは、鎖に繋がれボロ布を纏い巨石を引きずる『子供』と乳飲み子の姿だ。肩当てのある黒い革服を着たラケダイモンが鞭を振るい、戦神の巨像を完成させるべく奴隷達を急かしている。なんてこった、こんな世紀末国家にあの子達を連れて行かれてたまるかと、自分の境遇がどうなるかなど抜け落ちたままにただ義憤を滾らせた。誰の言葉にも耳を貸すなとその衝動は全身を急き立て、ただそれに従う。

机に広げた資料を掴むと、煙を舞い上げる勢いで彼女は走り去っていった。

 

「ヘファイストス、あなたって言葉の選び方がヘタよね」

 

「なー。鍛造しとる手はいつも繊細なんに、不思議なもんやな」

 

「……鉄は喋らないし勝手に動かないのよ」

 

生命の無いものの形を作り変える力など、付き合いの長い知己を御するのに何の役にも立たないと彼女自身がよく知っていた。だが好き勝手言いまくって煽ってもいた連中に論われる覚えは無いと、鋭い眼差しを向ける。

何処吹く風の様子で、ロキはロビーの入り口のほうを見ていた。

 

「まあこうやって遊べるのもこれで最後かもしれんしなぁ。ドチビもどえらい不運やわ……なあガレス」

 

「……儂が先に乳飲み子と出会っておっても、同じようにしたかどうかはわからんですぞ」

 

「どうやろな~~~~?リヴェリアやったら、フィンやったら?自分ら、よう世話になっとったもんなあ」

 

向き直るロキは別に悪意を込めて『子供』に話を振っているのではない。実際立場が入れ替わっていたら、自分もまた『子供』らの思いを後押ししていただろう事に疑いを持たなかった。

 

「夜な夜な鐘楼の麓で、ヒヨっ子三人入れ替わりであのヒスババアの可愛いデカブツに挑みかかって、蹴散らされて……はじめて見た時は、そらあ驚いたわ」

 

「忘れ申したな。そんな昔の事は……」

 

誰が言うでもなく主従の足は踏み出されカウンターへと進んでいく。戻らない過去への郷愁を口ずさむふたりの思いに水を差す者は居なかった。

 

「はァ、やっぱりベートも連れて来れば、もっと面白い事になっとったかな」

 

「今のアイツは、あんな連中なぞ目に入りゃせんでしょうよ」

 

ほんの先程までの緊迫感などはじめから無かったかのようにロキは振舞っていたし、その『子供』も、別の窓口で所用に精を出す二柱の女神もそうだった。

恐る恐る、オラリオの筆頭ファミリアの主神から差し出された書類を受け取る職員。

そこに記載された事実は、碌に間も置かず街中を駆け巡ることになるだろう。今、風よりも早くあれと脚を動かす小さな主従の思いも通り過ぎて。

 

「も~、アイズたんも何処に行ったんだか、折角なんやから無理やり引っ張ってくれば良かったわ~」

 

「……アイズは、多分……」

 

三柱の女神がここにやって来たのは、遥かな王国の尖兵に喧嘩を売る為などではなかった。

オラリオから消えてしまうかもしれない零細ファミリアや、濡れ衣を着せられた哀れな乳飲み子の行く末などよりも切実な問題など、彼女らにしてみれば他に幾らでもあった。

少なくともロキにしてみれば、腹の立つ事案ばかり積み上がるように思える今日においては、ここに来なければ出来ない事はとても重要で、いま挙げた二人の『子供』にとってもそうだろうと思っていた。

 

「ま、ええか。お祝いはおウチに帰ってからやな」

 

ロキはにっこりと破顔した。

つまらない、くだらない、気に食わないアレコレなど、遠い何処かに投げ捨ててしまおうと、そんな同意をガレスに求めるようだった。

口に出さないその思いにガレスもまた、ただ口元を緩めるだけで対応した。

 

 

 

 

 

この日ロキ・ファミリアの申告により、オラリオにレベル6の戦士が二人同時に誕生したと明らかになった。

 

 

 

 

 

 

--

 

 

かつて暴虐を尽くしたとある王への怒りの為に、その若者は無謀な試練に臨む事になったという。彼は身代わりとなった友の為に昼も夜もなく走り続けたと。

ベルは故郷で学んだどうでもいい、今と全く無関係な昔話を思い出していた。誰に聞いたか、決まってる。忘れがたく少年の有り様を定めたたった一人の男にだ……。

さて置きその若者も人であったならば、同じく人である自分に成し遂げられよう筈があるかと、それこそ蒙昧の生む思考さえ今のベルを支配する。白目まで充血で赤く染まる双眸は鬼気迫る印象を見る者に与えていた。それはレベル1の冒険者が纏うのに過ぎる代物と誰もが知っていたのに。

白昼をとうに過ぎてなおも走り通しのベルは、どんな制止にも妨げられずにただ探し求める。

 

「イカレてやがるぜ」

 

人差し指で頭の横で回しながら言う誰か。虫や鳥の鳴き声とひとしく聞こえるだけだ。道路に面した短い階段の突き当り、半地下階に間借りしている酒場の扉を開く音は、くだらない雑音を一瞬でかき消していく。ベルの鼓膜から、微塵も残さずに。

 

「……ああ客か。はあ」

 

すでに店を開いている点からして熱心な経営方針があったのだろうが、従業員の意識とは剥離しているようだった。照度の足りない空間と無精髭のせいで年嵩を増して見えている彼は狭いカウンターの中で足を組んだまま視線を扉によこして、再び椅子の背にもたれた。

 

「このファミリアのこと、知りませんか。昔、ここに住んでいた……その人達や神様について、何か知っている事があったら、教えて欲しいんです」

 

「…………」

 

相手の気力の多寡など関係無かった。ベルはカウンターまで歩み寄るとそこに地図と資料を広げ、幾多のファミリアの名前とエンブレムを指差す。従業員の男はいかにも面倒臭そうに身を起こすと、じっとりとそれを眺め――――言う。

 

「知らね……」

 

落胆もいい加減慣れつつあるベルは、鼻白む様もおくびにも出さない。ただ一瞬、ぎゅっと目を閉じて、無念の程を僅かに伺わせる表情を作った。

 

「……そうです、か」

 

かすれた声はそれだけしか紡げなかった。首を少しだけ下に傾けるが、両手の握力はただ強まる。失望に身を浸している時間は無いのだ、そう思って踵を返そうとしたベルを踏みとどまらせる言葉が放たれた。

 

「待ちな。……切羽詰まってんな。理由ぐらい教えろよ」

 

男は虚ろな笑みを浮かべていた。肘をカウンターに乗せて上体を預けている。それから鄙びた店内を見渡した。

 

「なあオイ。念願叶える為、お前みたいに必死な顔でやってた時もあったさ。それが今はこうだ。明日にはここも明け渡して、栄光に満ちたオラリオから永遠におさらばよ。ああ、店のモノ全部差し出せば負債はチャラだってな!お優しいもんだ……」

 

くっくっ、と笑いを堪える男の過去や胸中など計り知れない。見れば、幾つもあるテーブルには薄っすらと埃が見えた。切れた魔石灯の代わりに差し込む西日が例えようもない寂寥をこの店に満たしているようにだけベルは思った。

 

「……助けたい人が居る、それだけなんです……僕は」

 

誰からも忘れられ街から去りゆく定めにある店主は、きっと市井に巡る噂話とも無縁のままなのだ。ベルはただ時間が惜しいという思いだけを短い言葉に込める。

 

「つまり、その為に必要な何かをこのファミリアの連中が知ってるわけか。……なあ?聞いたか」

 

ここに居る従業員と客はたった一人ずつだけなのだとベルは思っていた。事実は、違う。店の隅の、濃い影の中に置かれたテーブルにその男は居た。

髪と髭を彩る灰色はまるでその全身を包む外套のように見える。話題を振られてもこちらを見ることもせず、初老の男はただ酒を飲んでいた。

 

「なあ?爺さん。俺が店を開いて、最初に来た客があんただった。毎日毎日やって来て、才能の無い馬鹿野郎は勘違い。俺の店を好いてくれてる奴が居るんだ、だから続けてやる、いつか、なんてな。気付けば何も残らねぇと来たもんだ」

 

ベルはただ黙って聞いていた。誰かが口を挟むべきではない事だと知っていたからだ。

 

「いよいよ首が回らなくなった時に聞いたよな。なんでこんな店に通ってくれてるんだ、って…………返ってきたアホ臭い答え、お前わかる?」

 

乾ききった笑いを向けられてもベルは言葉を発さない。何かを期待した問いではないとわかったからだ。

 

「昔、ここにあったファミリアの生き残りだから、ただその思い出の残骸に浸りたいだけだから、とよ。何度も危ない橋渡って叶えた夢が、夢破れた年寄りの肴とはな。笑えるぜ」

 

瞬間、ありったけの自嘲を慮る余裕もベルの中から消えた。煤けた灰色の男を血走った双眸で射抜く。

 

「くだらん。自分の力が及ばなかっただけの事だろう。私のせいにするな」

 

男の吐き捨てる台詞は冷淡さだけを滲ませている。消えるものを惜しむ思いも、ぶつけられる恨み言への後ろめたさも無い、全てに飽いた人間がどんなふうに見えるのか、いま学んだのだとベルは後で知るだろう。

 

「ならよお、強く正しく美しく在ったお方がいかに悪い奴らに陥れられたか、その恨み言くらい聞かせてくれませんかねえ。どうせ、最後なんだから」

 

「……」

 

杯に落とされた目に光は無く、灰色の影を濃くするばかりの姿が、店主に与えられる答えだ。だが自分もまたそれを受け入れようという気などベルには到底なれない。目の前の微かな導に、噛みつくような勢いで迫った。

 

「お願いですっ……何でも、引き換えに出来るものなら、どんなものだって出せます!!絶対に手に入れなくちゃいけないんです!!」

 

「…………何でも、か」

 

軽々しく口にするような事ではないと冷静な思考を保っていたら思いとどまるところだ。それでも、その赤い目の奥で滾るものを持つ者でなくば今の暴挙などはじめから臨みはしないのである。自分よりもずっと齢を重ねた男と睨み合うベルは、心の底から思う真実だけを口にしていた。

暗く乾いた空気は途方も無い間そこに漂って答えを遮り続けているようだった。ベルの錯覚がやがて消える瞬間は、出し抜けに訪れる。座ったまま微動だにしなかった男は、ゆっくりと口髭を動かした。

 

「坊主。お前は自分が正しい事をしていると思っているだろう…………そして、それだけが何かを変える力にはならない事くらいはわかってるか?」

 

ベルは答えなかった。

正しいからそうしている、謀略にかけられ無体にされる過ちを覆す為……それは、ベルを動かす一番の衝動などではないのだから。

そのような本心はきっと、男にとってどうでもいい事だったのだろう。少なくとも後段の言葉についての理解は明らかなのだ、渇望の狂いだけで塗りつぶしたような表情から。

いつの間にか男の冷たい双眸は、燃え盛る双眸と突き合わされている。

 

「善を、正しい事を成すために、悪を、過ちを覆すために、この街を駆けずり回った馬鹿共が居た。倫理、道徳、……死すべき者のあるべき姿というやつをあまねく知らしめようってわけだ。輝かしきは真実と秩序。嘘と混沌の満ちる闇を残らず暴いてしまえとな」

 

居なくなった正義のファミリアの構成員全てがそう思っていたかはともかく、かれらは確かにその使命に燃え、戦っていたのだと男は語る。

背負う神の名に相応しき者であろうとかれらは戦い続けた。それは決して安楽な道ではなかった。

 

「当然、面白く思わない奴らが出てくるのだ。昨日まで吸っていたうまい汁を取り上げられて我慢出来る賢しさってのは、そう身につくもんじゃない」

 

対立する悪党達との抗争は日に日に激しくなる。昼も夜もなく襲撃を受ける。無関係なファミリアも巻き込む。余計なお世話だと非難を浴びせられる。

 

「正しい事だけで生きていけるのは、それだけの力があるからって事だろ?煙たがられるのは当たり前だ。バカな連中、そんなこともわからねえのか」

 

店主の冷やかしに、男はぎらつく眼光を差し向ける。

 

「……馬鹿たれが」

 

「…………」

 

ただその一語だけ返す。ベルは、計り知れない思いの片鱗だけを感じ、夢想を芽生えさせるのだ。彼らは、自分達の驕りすらも理解してなお、その歩みを止めなかったのではあるまいか、と。

 

「謂われなく踏み躙られ、喰らわれる者の声など、あの頃であったってこんな場末の酒場になど届かんだろうな」

 

悪を誅する事は実り少なく、敵は多く、かつ尊崇を集めるのに遠い苦行だったという。迷宮でどれだけ深く到達したか、どれだけ強くなったか、どれだけ稼いだか……誰しもの耳目を集めるのはそういう事ばかりだ。

それでも彼らは歩みを止めなかった。なぜか。

 

「いつか必ず、という希望は……覆い隠そうと、途絶えさせようと害されれば、それだけ強く激しく猛ったのだ。負けるものか、と――――少なくとも、同じ思いを持つ者が居る限り。……私もそうだった」

 

男はそこで酒を口にした。

何かを忘れるために、そうベルには見えた。

 

「けれども力及ばず、希望は尽きた。正義は滅び、残った死にかけの悪党はギルドに一掃されて、まんまとおいしいところを奪われた間抜け達はその名前も碌に残せずじまいか。はっはっはっは!!」

 

店主は、おかしくてたまらない様子で――――ひどく芝居がかった印象を強く感じさせながら――――笑った。その姿はベルにとって既視感をおぼえさせて仕方なかった。

ひとしきり虚ろな笑い声を絞り出した彼は、顔を片手で覆いながら、覚束ない足取りのまま店の奥へと消える。

夢破れた先駆者の語らいが、そうさせたのだろうか。

燃え尽きて風に浚われる灰のように、ベルには見えた。

 

「まだ話は終わってないのだがね。あんなのだからこの店も、今日でおしまいになるのだ。……ま、これ以上の内容など、聞いても仕方あるまいよ、女神ヘスティアの眷属よ」

 

「……知っていたんですね」

 

「あんなにもロビーで大騒ぎして、目につく冒険者にも神々にも等しく食って掛かっていればな」

 

表情を変えないで男はまた杯に口をつける。何でもない様子だ。

何の感情も、必死で足掻く主従に対して抱いていないのだろう。

 

「はっきり言うぞ。私はお前の求めるものなど知らん……いやそもそも、そんなものはな……死すべき者が手にするべき力ではないのだ。他のどんな代物よりもな」

 

「何故、そう思うんですか」

 

自らの意思を真っ向から否定する言葉を投げかけられても、ベルの目が憤懣に曇る事は無かった。相手の言葉の奥底に流れる虚無感は浅慮な怒りなどたやすく飲み込むだろうと理解していたから。

ゆえにベルはただ、問うた。真実を知らしめる力を求めるのが、手にするのが、なぜ憚られるべき事であるか……なぜそう思い至ったのか。

男はまだ語っていない事があったのだ。

 

「聞かせてやろうじゃないか。あの馬鹿たれもお前も、どうせ身を以て知る事など無いんだろうからな」

 

そうつぶやく男の目はそれまでよりもさらに暗く、冷えた、情の無い色を湛えていた。

そうしてベルは聞かされたのだ。

なぜ正義のファミリアは尽くオラリオから消えてしまったか、その真の理由を。

 

 

 

ある大志を持った連中の顛末を、男は無感動に喋り始めた。

 

ありふれた昔話でしかなかったのだ。

 

この世の全てに彩りを見いだせなくなった男にとっては。

 

 

 

--

 

 

西側の城壁の一帯は、隣接してそびえ立つ鐘楼に反射する夕陽の中に全てを溶けさせてゆくかのような眩い黄金色を湛えていた。

その中に立つ一人の少女の姿は街のどの住民も認める事は出来なかった。アイズはただ押し黙り、瞑目する。

 

(――――……)

 

思い浮かべるその姿。剥き出しの歯、窪んだ眼孔に宿る悪しき光、血錆に覆われた大きな刃。得体の知れない強敵の姿は、レベル6に到達した剣姫の脳裏に今も踊り狂う。

何もかもを蹂躙する事だけを望むあの怪物達から受けた傷は、その肉の器ばかりにとどまるものでは決して、ない。

 

「――――!!」

 

遠い地平から注がれる光は、なお暗い幻影の姿を克明に蘇らせるばかりであり、記憶に焼き付くその剣戟を征しようと足掻くアイズの滑稽さを照らし出すだけだった。

柄を握る手の筋肉は手首に、肘に、上腕に、肩に……上半身、下半身、足運びに至るまで力を伝えていく。それらは剣の切っ先まで張り巡らせた感覚と固く結合し、眼前にある――――彼女にしか認識出来ない――――敵を滅ぼすべく律動するのだ。

 

『オ゙オ……!』

 

「っ、……!!」

 

銀の軌跡は何も捉えない。昏く呻く影はその輪郭を朧に散らし、レベル6の動体視力をも逸した速度で突進する。

すれ違い様にその天秤刀は少女の鮮血を啜り、持ち主は仮面の下から瘴気を吐き出して嗤うのだ。

 

 

かくも鈍い。

 

かくもか弱い。

 

かくも愚かしい。

 

それがお前の本当の姿だ。永遠に変わることのない――――

 

 

「ッ――――ああああああっっ!!!!」

 

全ては幻影で、存在しない偽りだ。しかし死すべき者の罪悪と全ての真実を見通す陽の光も、今のアイズの目を覚まさせられない。彼女の意識の中にある、自分の持つ力。それは立ちはだかる全てを滅ぼす為の刃だけなのだから。

狂気的とも言える練武の舞は、全身が疲れ果て全てを忘れ去ってしまうまで止める事は出来なかった。

 

『『アリア』――――』

 

(黙れ)

 

剣を振る。ただ振る。謎の女は消え去る。

 

『ア゙アアア゙ァア゙ーーーー!!』

 

(黙れ……)

 

城壁の上に、剣風吹き荒ばせる妖精が舞い踊る。おぞましい精霊の出来損ないはバラバラに切り刻まれて血の海に沈む。

 

『オオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

(黙れ!)

 

血を啜る竜牙の化身を貫く穿孔。砕け散る骨。骸は灰となって風に飛ばされていく。

 

『――――』

 

(……!)

 

灰。

吹かれて消えていく、真っ白い、灰……。

巻き上がる灰が集まって生まれた大きな影が、アイズの前に立つ。

 

『――――、――――』

 

「ぅ……」

 

声がする。どこかで聞いた声だ。とても、懐かしい。

金眼は横から差す夕陽で視界を妨げられてもなお、その幻影から目を逸らせない。立ち尽くし震えるアイズ。全身に伝う汗。それは、疲労ばかりが生むものではない。それは……。

 

『――――もう、どこにも――――』

 

「うっっっっ、あ、あ、ア、ああああああああああああああああーーーーーーーーっ!!!!」

 

瞼で目を、叫ぶ声で耳を塞いだアイズは、全てを拒絶して渾身の一閃を、その影へと叩きこんだ。

まるで、恐ろしい亡霊を幻視した幼子の癇癪が如き姿だった。それも今見ている者は、ただ一人として存在しない。それを知っているから、アイズはここで剣を振っていた。かつてファミリアの三頭目が使っていたという訓練場……街の隅、時計塔の影に隠された城壁の一角。

怪物祭の日から燻り続けている、誰の目からも隠そうとして果たせぬその焦燥を理解していたリヴェリアに教えてもらった場所だ。

 

「……はぁ、……はぁ……」

 

剣を鞘に入れるのも忘れ、肩で息を吐く。呼気に合わせて汗が滴り落ち、石畳を黒く濡らした。熱されたままの筋肉は脳の命令と無関係に震えていた。

 

「…………」

 

長く伸びる自分の影は何も語ろうとはしない。塔にぶつかり壁伝いに伸びていく分身をぼんやりと見つめる。やがて呼吸が穏やかになり、燃え盛る何かが勢いを無くしていくのも感じ取れるようになる。

いつからそれはあったのだろう。最も古い記憶は色褪せて重なり合い、真の姿を思い出すことはもはやかなわない。だがここ最近で、急激にその何かは激しく猛りはじめていることをアイズは自覚していた。

 

(どうして、だろう)

 

そのきっかけは何だっただろうか。絶えざる力への渇望は幼い少女に怪物の骸を踏みしだく道を歩ませる根源として確かに最初から在った。だが今のように熱く狂おしく畝る激情の渦に呑まれそうになった事は、かつて体験しただろうか。

何故、何が呼び覚ましたか、……誰かが?あの謎の女か。巨大花と宝玉。竜牙兵達。――――闘技場の、おぞましき影。それとも――――

 

「?」

 

光の無い水底を彷徨うかのような徒労を伴う思索は、後頭部に感じる視線に気付いた瞬間に終わった。首を上げてアイズはその方向を見やる。赤い陽で煌めく陰影は煉瓦の塔の頂に吊られた大鐘の袂に小さく、確かにそこで動いた。

瞬間、アイズは引っ掛かっていた何かが一段ズレて、そこに収まる感覚を理解したのだ。

 

「……あぁ」

 

鐘楼から見下ろしているその小さな影は、こちらに気付かれたのを知ったためか慌てた様子で引っ込んでしまった。きっと、自分が漏らした得心の溜息だって聞こえやしていないだろうとアイズは思いつつ、一歩踏み出した。

どうしてか、彼女の表情は、ほんの少しだけ、穏やかだった。

何もかもに見放された『子供』のような絶望など、今のアイズの顔には無かった。

 

 

--

 

 

(……なんでボクが隠れなきゃいけないんだよ?)

 

ヘスティアは大いなる不平を抱いていたが、もはやそれに任せて動く力を残していなかったのだ。そも、なにゆえこんな場所に辿り着いてしまったのか思い出す事さえ億劫だ。鐘楼の柱の影に座り込んで、小さな女神の身体は更に小さく、遥か下に広がる街と比べれば塵芥の如き矮小な有り様だった。

憎々しきラキアの尖兵の悪意を跳ね除けようと『子供』に倣ってその足を使う労苦を選んだ結果は、あまりにも芳しくなかった。あのままロビーで目につく誰しもに聞いて回っていた場合と何が違っただろう?そう思うだけで気は重くなる。

そこへ更なる追い打ちとして、冷酷な現実は街を彷徨うヘスティアを襲ったのである。レベル6冒険者の誕生……それも、二人同時に、同じファミリアに。その話題は一瞬で人々の関心を掻っ攫っていった。

 

『なあ』『レベル6だとよ、あの凶狼、それに剣姫。ッたく、また調子付かせる訳だろ?』『こいつ僻んでやがるぜ!』『うるせぇーよ!』

 

『きみ』『だから!ここで私らも一発、どでかくやってやらなきゃ、いつまでもこの立場で……いや、周りもどんどん前に進んで、置いてかれちゃうってのよ!……ん?』『あぁ……』

 

『ちょっと』『アイズ・ヴァレンシュタインは一人でウダイオスをブチのめした。それがどうした?ヤツは所詮血に飢え、力を合わせて戦うのを知らないケダモノに過ぎんだろうが!』『あーヘスティア様?すんません、俺らは知りませんわ、悪いですけど』

 

『……あのさ』『おっしゃあお前ら行くぞオオオオオ!!ロキ・ファミリアばかりに名を売らせてんじゃねえぞ!!』『ま、待ってください団長……何日ぶりの地上だと……』『死ぬ……』

 

誰に聞いても素気無くされるばかりでなく、疲労だの空腹だの眠気だの、様々な要因もあり、それらはヘスティアの足を自然と、街の喧騒から遠ざからせていった。それが、愛する『子供』の主足りうるのに最も在ってはならない姿であるとわかっていながら、力無い逃避行は打ち棄てられた鐘楼の元まで女神を導いたのだ。

この世界の何処よりも栄華を誇るという神々の都はただそこに広がるばかりで、何者をも害しようという意思など最初からありはしないのだと、少なくともここにいる間は思わせてくれた。

そのような夢想の果てにぼんやりと、街を見下ろしていたところでまさかの人物を目撃してしまったが――――膝を抱えて蹲る今の彼女にとって、それは大した懸念などではなかった。

ただ、渦巻く遣る瀬無さを、別の感情へと変質させていくだけで。

 

「……なんだ皆して。敵をやっつけるのがそんなに偉いのかよ。凄くて、強くて、数が揃っていて……そうじゃない事なんか、どうでもいいのかよ……?」

 

世界に名を轟かせる偉大な神ロキが『子供』たる、麗しき剣姫と勇猛なる凶狼。二人はその若さ故の貪欲さと無謀さに任せ遂に頂の座に手を掛けたという。事実を並べ立てるだけで充分な途方も無い偉業だ。いけ好かない連中の姑息な企みの事などよりもよっぽど面白く、耳当たりの良い話題なのだろうとはヘスティアにだってわかる。

ちっぽけな美徳の為に個人の動向や思想を制限する権利など誰だって持ってはいないのだ。明日にも街から消え去るかという連中の行く末に興味を急速に薄らがせていく現実が悪しきことなどと、どうして言えるのか。

……それでもヘスティアの胸の中に例えようのない悲しみが満ちていた。

あるかどうかもわからないものを求める者より、確かにそこに在る偉大な英雄の誕生を誰もが褒めそやしていた。かれらの目が小さな女神に向けられる時、確かな憐憫が浮かぶ。何の得にもならないとわかっていながら、勝ち目の無い戦いに踏み切った群団のいと気高き姿よと。

大きな瞳に熱いものが溢れそうになった。

 

「ッ、っ、……ベル君……アルゴス君……もう、ボクら、おしまいなのかなぁ…………」

 

それは決して吐いてはいけない言葉だとヘスティアは知っていた。知っていても、その灯火は風からも見放された無明の道の半ばで、遂に燃え尽きようとしていたのだ。どこにあるか、誰が手にしてるか、いつそこに現れたか……何一つそれはわからない。それでも求め続ける事の真の苦難の片鱗でしかなかったのだとしても、一つだけ到達できた理解は、追い詰められたヘスティア自身の心を打ちのめすのに充分過ぎた。

世界で最も大きな街からそれを見つけ出すのには、あまりにも足りなかったのだ。手も、時間も、……力も。

 

『……誰かの為にやってるってわかってるなら、知りもしない他人に何を言われて、何を気にするんだよ?って事さ……』

 

偉そうな口上は跳ね返って彼女自身を押し潰そうとのしかかる。今の自分はどうだ。誰に何を言われなくとも、かくも簡単にその意思は朽ち果てようとしている。誰しもから忘れ去られ消えていくのを許容しようと……。

惨めだ。

もう誰にだってこんな姿を晒したくなかった。全身を強張らせて更に縮こまる。濃い影の中に消えてしまいそうに小さく。

 

「っっ……」

 

必死で声を抑え、その思いを頬に伝わせるヘスティア。愛する『子供』が、あんなにも渇望していたのに。それを叶える事が出来ない。こうやって泣き伏せる事しか出来ない自分の、無力への悲しみ、苦しみ……怒りを。

死すべき者の望むものを与えられない神に、どんな存在意義があるだろう。終わることのない自責の念は螺旋を描いて、ヘスティアの心を奈落の底まで導いていく。

それを留める手段はもう、どこにも残されてはいなかった――――少なくとも、彼女の中には、一片も。

 

「……」

 

「…………、?、……はぅ!?!?んんっ!?」

 

鐘楼に満ちた空隙が突如かき乱される感覚に気付き、ヘスティアは顔を上げた。……すぐ隣に、しゃがみ込んでこちらの顔を覗く金色の美少女が居た。

驚きのあまり横向きに倒れ、目を白黒させる女神の顔に残る、その内に抱える感情の迸り。アイズはそれに、じっと真っ直ぐな眼差しを向ける。尤も慌てふためくヘスティアは期せず覗き見してしまっていた後ろめたさや、一瞬前まで渦巻いていた嫉妬や羨望などの黒い感情との折り合いなどで、なぜか尻だけ動かして距離を取ろうと苦心している始末だった。

 

「ほおっ、うぅっ、なな、何だ君はっ。こっ、ここに先に来ていたのはボクなんだぞっ。出歯亀なんかしちゃいないぞっ!本当だっ!本当の、本当に、……うっ、羨ましくなんかっ、ないんだっ!そうだっ、君らなんか……君らなんか……ボクとベル君なら……ぅ、ぅ……」

 

動揺するヘスティアは意味の分からない言葉を口ずさむ。それは明かしたくない恥部の呼び水とすらなって、稚拙な弁明に苦心する当事者の自尊心をいっそう辱めていく。やがて言葉を途切らせ、つり上げた涙目でアイズを睨みつけた。

 

「………………」

 

「……な、何だよぅ……」

 

だが、それに対する反応は些かも得られなかった。……いや、依然表情を変えず……何を考えているのかさっぱり読み取れない眼の色に、ふと既視感を抱く。もはや随分と遠い昔のことにも感じてしまうのは、それだけ濃厚な体験を矢継ぎ早に済ませてきたからなのだろうか?ヘスティアが思い出すのはたった一人の眷属が謎の美少女に背負われて帰還した際の光景だ。目を閉じて力なく四肢をぶら下げている少年の姿を見た瞬間の、あの、自分の肉体と精神が丸ごと氷漬けにされたかのような衝撃も、今となっては随分と生温くお目出度い境遇の証左ではなかったかとすら思えてならない。

呆気にとられる自分を差し置いて最小限の説明だけ口にする金色の少女。衝撃を打ち消す安堵に思考能力を奪われている自分。後ろに立つアマゾネスが困り顔で何か言っている。やおら金色の少女は灰かぶりの少年をソファに、壊れ物を扱うかのような手つきでそっと寝かせたのだ。

 

「……………………」

 

そう、この目だ。吸い込まれそうな鮮やかな金色。惜しげ無くそれを煌めかす、至玉の人形細工が如く整った表情には些かの歪みも見出だせない。ただそれは、大事な大事な『子供』へと向けられていたのだ。

まるで、他のあらゆる存在など忘れてしまったかのような、熱く、深く、果てない憧憬を見出しているかのような、その目つきは……。

それを理解して抑えがたい感情が迸ったのはまた別の話として、意識を現在に巻き戻したヘスティアは釈然としない思いに囚われつつ、そうと悟られまいという矜持を奮い起こす。

 

「笑いに来たなら……好きにすればいいじゃないか。もう、誰に何言われたって、どうでもいいさ。もう……」

 

「……もう、おしまいかもしれないから?」

 

なけなしの見栄を張る気力も尽きた小さな女神の言葉をアイズが継ぐ。何も考えていないようで、何もかもを見通しているようでもある眼差しのまま。

息を呑む音を小さく漏らして、ヘスティアは目を見開いた。

 

「どうせっ!無謀で、最初から無理な事だったってっ、言いたいんだろうっ!わかって、るんだよっ!それくらいっ!……でもっ、あっ、諦めっ、るっなんてっ、……あの子っ、達を、見捨てるっ、うっ、なんてっ、えぇっ……」

 

何をおいても侮られたくない相手の手下にまんまと弱音を聞かれてしまった事で生まれる悋気が、みずからの行いへの呵責と残酷な現実、そして、決して捨てる事の出来ないものへの執着と混ざり合い、やがて限界まで張り詰めていた感情の堰を穿つ。遂にヘスティアは顔をくしゃくしゃに歪めてその奔流を解き放ってしまった。

 

「ううううううっ、うぐうううっ、うえっ、うっ、うっ、っっ、ん゙ゔぅぅぅぅ…………」

 

顔を覆ってさめざめと泣き咽ぶ姿は何処に出しても恥ずかしい『子供』の癇癪そのものだと、少なくとも当者は自覚していた。ぼたぼたと流れ落ちる恥辱の涙が鐘楼の床を黒く濡らす。

 

(なんでこんなに、みっともないんだろう、ボクは……)

 

情けなさに震え、無力感に震え、そんな主を持ってしまった『子供』への申し訳無さにヘスティアは震え、それでもただ蹲るだけだ。見るに耐えない醜態がまさにそこにあった。

声を必死に押し殺しつつ世界中の何者よりも自分自身を責め立てている女神は、きっと自分を見下ろす少女だってもはや呆れ果て言葉も無いだけに違いないのだと信じていた。

笑いたくば笑え、いくらでも軽蔑してくれ。

もう、ほっといてくれ。

ひとりにしてくれ。

口に出せないその思いは、丸める背が物語っていた。

――――が、ただ黙してそこに居る死すべき者は、そんな下知を解する気など、無かったのだろう。

 

「……ヘスティア様。私は……あなたと、あの子……彼の事情は、知りません。私には、関係のない事なんだろう、とも思います……」

 

「……うっ、ゔる゙ざい゙っ、ぞ、ぞん゙な゙の゙っ……」

 

アイズは何も知らない。誰からも聞いていない。ロキの眷属の誰も、話すような事だとは思わなかったからだ。

そして眼前にて臥す当事者からそれを聞き出そうとも思わなかった――――聞いて、自分が何かを出来るような事だと思わなかったからではない。

 

「けど――――」

 

アイズは思い出す。

 

自分達の不始末によってそこに呼び寄せられた、恐ろしく理不尽な運命を前にしてなおその戦意を滾らせていた小さな少年の姿を。

 

その小さな身体と重なる、遠いいつか、どこかの、誰かの姿を。

 

「何かが終わるのはきっと、……それを始めたひとが、そうと望んだ時、だけですよ。きっと」

 

遥か深きに潜む怪物どもの血肉と臓物を積み上げて作る、死すべき者の歩む最も険しき道であったのだとしても、アイズはそれを選んだ。

あの時の少年も、きっとその決断の重きは決して劣るものではなかったろうとアイズは思う。

お節介な救い手が割って入らねば、そのまま途切れる道だったのだとしてもだ。

アイズは何も知らない。彼の事も、その主の事も。かれらの目指すものも。

 

しかし、みずから選んだ道の険しさに膝を折りそうになる苦しみだけは、よく知っていた。

 

齢一桁で冒険者を志した時から、この座まで上り詰めるまでの道のり全てを思い出すまでもなく、はっきりと。

 

「ッ…………」

 

ヘスティアは涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、アイズと目を合わせる。

さっきと全く変わらない顔だ。どこまでも真っ直ぐな金色の輝きを湛え、その奥にとても深い憧憬を秘めた、美しい瞳。

その言葉の偽りなど、芥ほども見出だせぬ貌がそこにあった。それは、たとえ死すべき者が目の当たりにしたとしても、同じ思いを抱くところに違いない。

ヘスティアは己の中で千々に乱れ重なりあっていた多くの感情と言葉が一瞬で、大きな、熱く燃え上がる何かに呑み込まれるのを理解した。

 

「……!、……!!、きっきっ!キミに言われるまでもっない事だいっ!!ぼっボクはあ、はぁっ、ぁはぁ、はあらららっ」

 

「あっ」

 

ぐしぐしと乱暴に顔を手で拭って、威勢よく立ち上がる。瞬間、脳髄が眼球を巻き込んで丸ごと捻転したような感覚がヘスティアを襲った。明滅する視界。膝から力が抜けて、両脚は勝手にその場でワルツを踏む。血液不足の脳は全身の操縦を満足にこなせなかった。

力を失った独楽のような動作をなぞる小さな肢体を、目線を合わせようとしゃがみ込んでいたアイズは危なげなく受け止める格好になる。ヘスティアは足を投げ出したまま、上体をかき抱かれるのに抗えない。

 

「大丈夫ですか」

 

「はあう、こ、こんなの。ちょっと疲れた、だけだあ。寝てない、し、だからちょっと、弱気に」

 

息継ぎ激しい弁明を途中で遮ったのはその細い胴の中程から響く、胃袋の鳴き声だった。小さい身体に似つかわしい、可愛らしい音だとアイズは思った。その感想は期せず口元に現れる。

絵になる微笑を認めたヘスティアは顔を真っ赤に染めて歯噛みした。

 

「うっ、く、くそお。こんな屈辱、ラキアのあの連中相手にだってよっぽど……はぅ、駄目、だ、力、が、出なぃぃ…………ぅぅ……」

 

「少し、休んだほうがいいですよ」

 

「そんな、時間なんてっ、無い、んだっ……」

 

何しろ今置かれている状況の芳しくなさを思うにつけ、既に火のついた衝動は抑えがたく昂ぶるばかりだ。だが悲しいかな、肉体はその思いに応える力も無い。いけ好かん少女の言葉は真実ばかりだった。

手を床について首を起こそうと足掻く姿に向ける金色の双眸は、すうと細まった。

 

「休むのも、大事な事です」

 

「うゎ」

 

ヘスティアは、横になった頭の高さが少し下がるのを理解する。少女の膝が床に敷かれ、まるで恋人同士がするというアレの再現を演じさせられているのだと気付いた。

驚きで抗議も出来ずにいる女神の様を慮らず、アイズはその手を自分を見返してくる両目に優しく乗せ、視界の全てを覆い隠す。

 

「……どんなに強くても、休まず戦い続けることなんて出来ないですよ」

 

「う…………」

 

その言葉の説得力がどれほどのものか、ヘスティアにだって推し量れた。芽生えた得心が緊張を僅かに撓ませると、同時に意識も闇へと引き寄せられていくのを感じる。底知れない恐怖を呼ぶものではなく、優しく全てを包む黒い帳のような闇が。

 

「ぁ、待っ、た……まだ……言いたい、事が……あ…………」

 

急激に勢いを増してきた眠気に翻弄されながら、ヘスティアは最後の力を振り絞って口を開いた。

全ての恥を晒し切った哀れな女神にも、まだ残された矜持があった。いくら、それが不倶戴天の敵の一番のお気に入りで、愛する『子供』に何やら只ならぬ興味を抱いているように見えてならない……大いなる危機感を想起させて余りある存在なのだとしても、それは伝えるべき事だと思っていた。

 

励ましてくれて、ありがとうと。

 

「……」

 

それは、叶わなかった。言葉が途切れてからややあって、アイズは手を退かす。長い睫毛に残る雫は夕陽で煌き、閉じられた瞼を彩っている。微かな寝息が掌に当たっていた。

アイズは黙って、膝の上のあどけない寝顔を眺めつつ、小さな主従が今直面しているのだろう困難について、思いを馳せるのだ。それは、どんな試練だろうかと。自分が乗り越えてきた如何なるもの……自分が味わったあらゆる辛苦と決して比べられるようなものではないのだと知っていても。

そして、思う。果たせるだろうかと。

 

「…………」

 

アイズは顔を上げ、夕陽に目を向けた。

地上の全ての災厄と無縁のままそれらを照らすだけの存在は、誰の目も届かずに在り続ける鐘楼の陰に居るふたりの存在など、きっと知りもしないのに違いないのだ。

少なくともアイズにはそう思えた。

 

 

--

 

 

リリはぬるま湯に浅く浸かるような眠りを終え、顔を上げた。一片の光も差さない闇の中に揺蕩う記憶は全て消し去られていて、ただぼんやりとした垂れ幕が意識を丸ごと包んでいるようだった。

脳の深遠が生む幻影を司る大いなる某への感謝を思いつくよりも、虚ろなる情動に任せてここに辿り着いた時からその薄暗さを更に増している部屋の様相を見るにつけ、自分はどれ程の間寝ていたか思い巡らせる。今、どれくらいの時刻であるか。

未だ光を宿す魔石灯の微かな導きのおかげで、リリは廃水道の横穴を後にすることが出来た。遠くに見える崩れた天蓋から、濃く、燃え尽きそうに昏い茜色の光が見える。こんな闇の底すらも暖かく照らしてくれる陽の恵みは、本来の住民が居た頃には決して届きはしなかったのだろう皮肉――――誰からも見捨てられ崩れ落ちたものを衆目の前に引きずり出す無慈悲さ――――をリリは感じた。

そして同時に認めるのは、流れ込む夕闇の中に立つ者の姿だ。

 

「…………どうしてまた、こんな所に……って」

 

(私の言えた台詞じゃ、ないですね)

 

零れ出た言葉はその少年の耳に届いていた。俯き加減の顔が向けられる。その煌きが陽に呑まれて消えそうに見える双眸が。

 

「君は……?」

 

声は腑抜けていた。リリにはそう聞こえた。それはどうしてか、彼女の心をざわめかせる。まことに、不可思議極まった反応ではないかと思う。もはや言葉をかわすのはおろか顔も見たくないとすら思えた相手だからか。

 

「忘れ物でもありましたか?……よろしければ、お手伝いでもしますよ。落し物には目敏いものですから、私」

 

「……いや、そう、じゃないんだ……そんなんじゃ、ないんです」

 

「へえ。もっと重要な用でも?」

 

募る苛立ちが会話を急かしているのがわかる。その一方で、こんな奴を相手にするなとも囁いているのだ。何の利がある、関係ないだろう、何を期待しているのか……。

あらゆる衝動を努めて封じるリリは、だからこそか平素におけるそれと比べれば稚拙な運びで、自分の望む会話の流れを作ろうと試みる。

何故、何故?何故、何故……と、頭の中をその言葉でいっぱいにしながら。

ベル・クラネルの浮かべるその疲れ切った表情への不満を、沸々と募らせながら。

 

「少しだけ、休みたかったんです……求めてるものが、どうしようもなく遠くに感じて……それで」

 

「休む?あなたが休むために帰るおうちは、ここではないのでは?」

 

言葉に棘が混じる。自分が持っていないものを持っている少年は、分不相応な望みの果てに待ち受ける失敗の大きさを今更自覚したのだろうという理解が、そうさせるのだ。

昨晩とまるで同じ口調であるのを隠せない自分の愚かさにリリは内心自嘲する、声も風体も違うのを見抜かれる筈がない……が。

しかし、かくの如きリリの看破や期待など、全くの無意味と断ずるかのように少年は首を横に振る。

 

「ここで始めた事だから。もう君は知ってるかもしれないけど……ラキアの兵士にこの場所を案内してしまって……罪状が全て嘘だと証明するなんてぶち上げて。その時の事を思い出したかった……の、かも、なんて」

 

力無い笑みだ。街を駆け回る彼は何を見て、何を聞き、何を感じたのだろう。その全てはリリにとって、この街から与えられるごくありふれたものでしかなかったのだろうけれど。

 

「……あなたとあの、彼、がはじめて会った時の事も?」

 

「そうです、ね。……あなたとも」

 

「リリ」

 

過去を思い伏せられつつあった少年の目が自分へ向くのを見て、リリの心がまた波打った。決して表情には出さないが。

 

「名前。なんだか、やっと教えられたって、ホッとしますね。……」

 

「はい……リリ、さん」

 

「さん、なんて、柄じゃないですよ」

 

くっくっ、とリリは含み笑いをした。自分へと向けられる嘲笑だ。何の意味も無い事をしている徒労への……。この少年の未来は決まっているとわかってるのに。その優しい主も、心穏やかで醜い出来損ないの身体を持つ男も。そんな連中を相手に時間を割く理由などありはしないのに。今日という日まで、持ちうる全てを、望んでやまないものの為に使ってきた自分が、どういう風の吹き回しだという。

辿るべき末路を受け入れようとしない愚物共は、それと接した自分へと知能のお粗末さを伝染させてくれたのだろうか。ありがたくないことだ。こんな状況に追い込まれてなお真っ直ぐ歩き続けられる強さなど、耐え難い苦しみだけを呼びこむ枷でしかないとリリは知っているのだ。

だがリリの足はこの場から離れようと動く事は決してなかったし、舌はくだらない言葉を紡ぐだけだった。話せば話すだけ、自分の昏い澱みが明らかになっていくばかりのような相手の事を知りたくてたまらない。すべては惨めな自分を慰めたいからだと自覚すればなお、リリの胸は焦がされて熔ける鉄のように泡立つ。

 

「で。その大事そうに抱えてるものに頼りつつ、どうにか前へは進めてるって事ですか?」

 

「……これは、ギルドの知り合いの方から貰ったんです。昔、この街の秩序を守る為に戦っていたファミリアの情報だって」

 

「それは、また」

 

リリは自分の目が勝手に細まるのがわかった。互い知らずに得てしまった手掛かりの一致までもを定めた某の存在などあり得るだろうか?馬鹿げた考えなど一蹴すべきと知っていながら、リリの中で動揺は収まらない。

 

「けど――――最早そのファミリアもこの街には無い。という事は結局、かれらの中で燃えていた情熱は、とっくに灰になって散らばっていってしまっているのでしょうね」

 

「……」

 

皮肉を止めることが出来ない。少年の俯く姿に胸がすく。同時に熱く粘着くものが喉までせり上がりそうになる。

 

「ご立派な方々のご立派な意思も……半ばで潰えてしまえば、誰とも知れないロクデナシの抱いた夢の燃え滓と変わらずに……この街に埋もれていくだけ……」

 

そんな奴らを何人も思い出しながらリリはわかった風な口を叩く。栄光眩しき神の都が持つもう一つの姿、焼き捨てられた死すべき者の夢の灰が積もる楼閣で生きてきた少女の言葉は、彼女自身にとっては誰に否定出来るものかと胸を張れるこの世の真実に他ならないのだ。そうと自覚してまではいなくとも、少なくともこの瞬間だけはそうだった。

 

(あ、……そうか)

 

リリはようやく、腑に落ちるものを理解した。

真っ直ぐに敵を討ち滅ぼす強さと、迷い悩み己の道もわからない弱さを持つ少年に対し、ずっと抱いていた感情の正体が、やっと掴めたような気がしたのだ。

 

「あなたも――――その中の一粒になって、誰からも忘れられるだけなんじゃないんですか?叶わない夢ばかり追い求めて。何も得られず、何も残せずに……。……私は……」

 

(……私は)

 

やめろ、口に出すな。リリは胸の中で叫んだ。

自分に向かって。

精一杯。

それは、無駄だった。彼女の人生において努めたあらゆる物事よりも、無駄だった。

 

 

「自分の恩人が……そんな風になったら、きっと、嫌ですよ」

 

 

言ってしまった。

なんとつまらない台詞だ、くだらない感傷だ。未練は何よりも自分を痛めつけるだけの酷薄な刃にしかならないとわかっていながら、どうして口に出したのだ!リリは思いつく限りの悪罵を自分に浴びせたかった。そこに自分が居れば殴り倒し、顔面を踏み蹴り、喉を締め潰していただろう。

もはやリリは猛烈な虚無感と後悔を表情に出すのを隠そうとはしなかった。この世で最も惨めな存在になった気分だった。

とっくの昔に諦め切り捨てた筈の人間性を思い出しても、それまで我が身に被り続けた数多の傷の痛みを彼女に思い知らせるだけだった……。

 

「…………っ、僕、は」

 

ベルは、リリが口に出せないあらゆる事も知りようがない。それでも、投げかけられた疑問と、消え入りそうな声で紡がれた惜別は、全てを捧ぐべき主と、いま救うべき男の姿を思い起こさせるに充分過ぎた。

灰色の老人から語られた無惨なる真実によって揺らぎかけていた固い決意が、音を立てて亀裂を走らせたように感じる。

何も恥じる事など無い、正しい事を成せば必ず結果はついてくるという倫理に基づく確信も、どんな相手だろうと、戦うのを諦めて逃げるくらいならという蛮勇も、冷厳な現実を覆すのに及ばざる代物であったのかという危惧は確かにあった。それは今目覚め姿を垣間見せる。何も果たせず終われば、何が残る。どうなる。どうする?

一人で立ち上がる力も持たない塵芥は、罪人の名を着せられていかなる末路を辿るか。その擁護者たる女神は――――?

凍てつく闇色の鎖が折り重なり、赤い瞳の映す視界を埋め尽くそうかという海嘯のように、ベルの心を飲み込もうと巨躯を明かす。

見るな、聞くな、考えるなと必死で念じても、大渦から顔を覗かせる黒い怪物は叫ぶ。お前は無力だ。何も成し遂げられはしない、何も得る事はない。……敗北は決まっている。全てを失う事も!この街に来るのを選んだ――――いやお前が生まれ落ちたその時から!

 

(間違えたのか?)

 

冷えていく思考が、取り戻せない過ちを仄めかし、抗いがたい恐怖を呼び起こす。

 

(このまま、終わりなのか?)

 

手を壁について、崩折れそうな足を必死に直立させる。

 

(嫌だ……違う!こんな、まだ……!)

 

まだ終わってない、最後まで戦うと決めたのだ。だがどんな嘲りや徒労よりも、いま注がれる深い同情を帯びた視線はベルの決意を激しく揺るがしていた。

贖い難い悲しみと無念の深さは、どうしてかただの少年でしかない彼にさえそのまま心に流れ込んでくるようだった。ただの幻覚、勘違い、思い上がりと切り捨てる事も出来ない未成熟な心根は明けない闇の迷い路の奥へと深く落ちていく。

最後、最後とは。すぐそこまで迫ってきている刻限。辿り着けるのか。道は途絶え、進む意思は挫けそうになる。

 

(僕は……!)

 

「もう、いいじゃないですか……あなたは、よくやったじゃないですか。これ以上頑張ったって……」

 

心の底から慮っている言葉だ。優しくて、残酷な。

 

(……!!)

 

その温かさが、ベルの中にあった――――闇に隠れかけていたもの、を思い出させる。

手の中にあった、冷たく光る、硬い、鎖。自分の心を何よりも縛り付ける枷のことを。

 

 

 

『――――そうだ、忘れるな――――』

 

『――――約束、してくれ――――』

 

 

 

「――――駄目なんだ。それだけは、出来ない……諦めるなんて、出来ないんだ」

 

「……どうして」

 

リリには、わからない。少年が歩みを止めようとしない理由が、全くわからない。続けてどうなるのだろう。彼に何の枷があるというのか。何処へも逃げ場の無い自分とは違う、彼は何処へだって行ける。

……役に立たない小さな女神など放り出してしまえば、この世の果てまでたどり着き、そこで誰の目も向けられず平らかに命繋ぐのも難しくは無いのにとリリは思う……神の血を授かった者であれば。ラキアは、この街に掃いて捨てるほどやって来て消えていくレベル1の冒険者志望の事など見向きもしまいとも。

 

「逃げてしまえばいいじゃないですか、馬鹿正直にあるかどうかわからないものを探し出す約束なんて、あっちだってまともに受け取っちゃいないでしょうに!彼奴等を納得させられなきゃ全部おしまいなのに!一緒に罪人として連れて行かれて、あの乳飲み子と同じ扱いなんてされやしないですよ!あんな、ボロ屑みたいな姿になってやっと、猿一匹倒せるような、新米冒険者なんて……」

 

ベルが未だ思い出せぬ最初の邂逅まで持ち出し、リリは食い下がる。理性は感情に取って代わられていた。口から飛び出す思いの丈がどれ程真摯であるかは、荒げられる声と固く閉じられた瞼が生む眉間の皺が物語る。

ベルは、リリの口走った嘲罵について何故それを知っているか尋ねるような間抜けを晒さなかった――――と言うよりも、それよりもずっと重要な事を口にせねばならないと心は決まっていたのだ。少女の切なる思いに基づく諫言の全てについて少年の理解は行き渡らなかった。ただ、上げられた面に、双眸の宿す意思ばかりが一切の欺瞞でも憚られぬかのように湛えられていた。

それは、愚かさだ。

リリが遠い昔に捨て去ったはずの。

 

「おしまいなんかじゃない。たとえ、真実を明らかにする術に辿り着けなくて、ラキアに連れて行かれる羽目になっても……それで全てが終わりなんて……そんな事、あるわけが、ない」

 

「ッッ…………!!バカですか!?本物のバカか、それともやっぱりただのキチガイなんですか、あなたはっ!!??誰がどう考えたって、そこで終わりで――――!!」

 

ベルは、首を横に振った。

そして、言った。

静かに、その言葉は放たれた。

 

「僕が始めた事だから。神様が、一緒にやり遂げようと言ってくれたから。――――一人で戦っているんじゃ、ないから。たとえ」

 

「……!、!……」

 

目を見開くリリ。

ベルは構わずに、その言葉を続けた。

それは自分自身に言い聞かせるために、決して諦めないために、必要な事だったからだ。

 

「神様と離れてしまっても……同じ思いでつながっているなら、一人なんかじゃない。それを忘れないかぎり……希望を捨てないかぎり、何かが終わるなんて事あるはずがないんだ」

 

拳を握れば一層その鎖は固く強く存在を誇示し、忘れがたい苦痛と絶望を今一度彼に思い知らせる。それを跳ね除けるための、唯一の力もまた等しくだ。

凛然と向けてくる、澄み切った赤い瞳の奥で燃える何か。それは自分の纏うあらゆる欺瞞を剥ぎ取っていくかのようにリリには思えた。とてつもなく眩しく、狂おしく焦がれる、残酷な光。偽りの中でしか生きることの出来ない者の何もかもを焼き尽くし、後には灰の山ばかり残す無慈悲な力。

その強大さの前に立つ罪人はただ唇を噛んで、頭を垂れる事しか出来ないのだ。

この上なく強く正しく美しい、誰もが望む、死すべき者のあるべきその姿。決して汚す事の出来ない愚かさを理解すれば……。

 

「――――なら、好きにすれば、いいですよ……」

 

それが渾身の負け惜しみだとわからないベルではなかった。彼女はどんな気持ちで自分の事を見ていたのだろう。その救い難い愚かさに取り憑かれた無謀さを正面から諌め、罵られる程に深めた交友などきっとありよう筈もないと思うが――――それは、ここで出会ったあのせむし男との間柄においても同じなのに違いないだろう。

 

「……ありがとう。気にかけてくれて……。また会えたらその時は、一緒に」

 

優しい声が、背を向けた少女へと送られる。踏み出そうとしたその足が止められた。

また、だって。次なんて、あるものか。どこまで、馬鹿なのだ。そう返して嘲笑を残す事もリリには出来た。それはどうしても出来なかった。首だけ振り向く。胡桃色の眼光は、惑いに揺れても射竦めてくる赤い双眸から逸らせられない。

 

(そうだ。どうせ、無理に決まってる、のに)

 

葛藤の結果ははじめから決まっていたのだとリリは理解していて、ゆえに歯噛みし、己が中で燻ぶる無用な感傷をただ呪うのだ。

自然と、その言葉は紡がれていった。

 

「昔。ええ、あなたみたいなお馬鹿さんが山程居らっしゃったそうですね。それが気に食わなくてしょうがないロクデナシ共と散々殺し合っていらしたと……頑張って頑張って戦い続け、でも結局は滅びた」

 

消えかけの酒舗で聞かされた、ただの歴史をベルは思い出す。正義の御旗を掲げる者達は、真実の光を忌避する罪人達をも惹き寄せて、壮絶な抗争を街中に起こしたという。その結末も……。

しかし、語り部の意図する本質は、別の所にあった。少年の意思を何としても挫いてしまいたいという哀れな足掻きを行う力など、もはやリリには残っていなかったのだ。

 

「生き残った悪党どもは、正義の群団の骸から何もかも奪い去っていった、金になる物は、全部。……表に出せない物は、そういうのを取り扱う所に持ち込んでいったわけですが」

 

「……?」

 

リリは知っている。

ベルの口にした、決して捨ててはならないもの――――それがが齎す苦しみをも。

 

希望を持ち歩き続ける事の難しさが、どれほど計り知れないものであるか。

 

「……その中には、何の役にも立たない、何に使うか、誰が使おうと思うか知れたものじゃないガラクタも山程あったと、知り合いの古物商が言っていました。例えば――――」

 

 

 

死すべき者の言葉の真偽を計る道具、とか。

 

 

 

「――――え?」

 

リリの口にしたその言葉に、ベルは他のあらゆる情報から切り離されたような感覚に陥った。色も、音も、記憶も、全て消え去り、フードの中で弱々しく光る瞳のみを見つめる。

この上なくわかりやすい反応だった。リリは苦虫を噛み潰したような顔を作るのを堪えた。

何故か。

 

「けど、それも、すぐに買い戻されてしまったそうですが……何処ぞの誰かもわからない。そういう相手ばかりに商売する所ですから……」

 

「その、古物商の場所を教えて下さい!まだ手掛かりが……」

 

「十年以上前の話ですよ。あのボケ老人がこれ以上何かを覚えてるなんて、私には思えないですね……それでも行きますか?」

 

「ぅっ……」

 

増した気勢を瞬時に削がれて肩を落とすベルを見るにつけリリは自嘲し自分に言い聞かせるのだ。見ろ、期待を抱くだけ――――絶望は深まるばかりだろうが。

希望とはとても強大な力だ。リリにもわかる。希望さえあればどんな困難も乗り越えられると、昔どこかで聞いた。親から教え込まれた数少ない道徳であったか、遠い昔のお伽話であったか。

そして、とても残酷な力だとも。希望にすがる者は、それを失くした瞬間に闇に包まれる。……温かく優しい、明るい何かは、それが失われた後に歩く方法など決して教えてはくれない。いつか消えてしまうものに、どうして縋れよう?それでも死すべき者は、別の希望を追い求め見出そうとするのだ。それが無ければ、生きていけないから、歩き続けることができないから。

自由のため、金のため……リリを突き動かす浅ましい欲望も結局は希望の光だ。他の誰かを謀って毟り取るのも厭わせない、全ての死すべき者にかけられた呪いに等しい力に違いないとリリは思っていた。それは闇の中であっても決して消えず輝き、どんな罪人も焦がれずにはいられない。それが、全てを無くしても残る最後の力であるのならば、求め乾き続けるその衝動から解放されるには――――死ぬしかないのだ。

今のリリを苛むのは、目の前の弱く優しい少年を、望んでは失うのを繰り返す惨苦の輪へと引き入れる事への罪悪感なのだ。

 

「どんなに尊敬を集めていたか、人々の希望となって輝いていたか、それを背負うに足る気高い方々だったか――――けどもう何も、残っちゃいないんです。わかる事は……その道具を買い戻しに来たのが見るにお美しいエルフの方だった、とか。その程度ですよ」

 

百万回正しい事を行ったって、負けて消え去れば、誰だってそうなるのだ。重ねた偉業も全ては積もった灰の山となり、何の意味も見出されなくなり、……誰から傷つけられる事も、最早なくなる。お前だってそうなるだろう……リリの伝えられる事はそれで全てだった。今度こそそっぽを向いてこの場を後にしようと駆け出す。振り返らせるだけの未練は残っていない。

廃水道を満たす闇は沈んだ日によって更に深く、粘着くようにリリの心に絡み付く。

 

(結局私も、あの連中と同じ……)

 

もうやめてしまえ。辛いだけじゃないか。自分の物言いは新米冒険者に酒を浴びせるろくでなし連中の嘲弄を御為ごかしただけの代物だという自覚が、惨めなパルゥムの心をずっと責め立てていた。

 

 

--

 

 

ベルは何も言わずに立ち尽くす。リリがもう少しの根性を振り絞ってこの場にとどまっていれば、突き付けられた現実に放心しているだけかと思っただろう。

実際は、違った。

少年が俯き瞑目する時間など、それこそ瞬きともさしたる差など無かったのだ。

双眸に宿るのは、諦念に呑まれそうな、霞んでいく弱々しい輝きではない。

 

「…………エルフ」

 

どれ程の絶望の中にあっても、それは決して絶えない。

全ての死すべき者が宿す、闇を照らして歩くための、最後の力は。

 

 

 

 

 







・何かが終わるのは
戦神の椅子に座るのも、オリュンポスを滅ぼすべく運命の鏡に飛び込むのも、復讐を終わらせるのも、プレイヤーの意思によって行われること。
オルコスを刺すシーンも操作したかったぞ。



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