眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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What the fuck!!!!!!!!! What the fuckin' shit story!!!!!!!! It's crap!!!!!!!!!!
(「2章ここまで」という意味)





勝手にしろよ

 

 

 

「やあヘスティア。遂に成し遂げたと聞いて、それは居てもたっても居られず飛んで来たんだが」

 

「やかましい、あっちへ行け」

 

「……そこまで邪険にしなくてもいいと思うんだが……なあ、ベル・クラネル君。君はあんな酷い言い方なんてまさかしない、心優しい少年だと見たが。私の目が曇っていなければね」

 

「え?え、えぇと」

 

「ベル君に話し掛けるなっ!ヘンな目を向けるなっ!近づくなっ!!」

 

野次馬根性丸出しの光明神に、ヘスティアは辛辣にあたった。黄昏時になり本部に満ち溢れる視線の密度はいっそう濃くなり続けている。緊張を保った三つの人影のうち、少なからずは住民の口にのぼった当の主従が居るのだ。再び、それを肴にして話題を作る者も出て来ていた。ロキ・ファミリアの偉業と較べて随分と慎ましやかではあったが。

アポロンは悲嘆の感情を大袈裟な仕草で表現した。

 

「おお……ダフネ。なぜ私はいつもこうなのだろう?思いを募らせる相手からは決してそれを返して貰えない、この胸は張り裂けそうに高鳴り、夜も眠れず月の光に想い人の影を見出す程なのに。恋多き事はそれほど罪深い事なのか?どうすればこの苦しみを贖えるのだろう?」

 

「実際にその胸を心臓ごと裂いてくれるよう、姉君に懇願してみるのはどうですか?高鳴る事も無くなるでしょうし……」

 

額に手を当て跪く主に、『子供』は思いやりに満ちたアドバイスを送っている。ベルを庇うヘスティアはさっさとどっか行かねえかなとだけ思った。

微笑ましき光景は、行き場なく溜まり続ける狂おしい焦燥を少しだけ忘れさせてくれるようにベルには思えた。……そう、少しだけだ。

もしも、もしもと、その懸念は尽きること無く湧き上がるのだ。

もしも、あの天秤が真に死すべき者の心を計り知る物などではなかったら。

もしも、ラキアの法の悪辣さが想像以上であり、無辜の民を罪人へと仕立て上げるのにラケダイモンが一切の躊躇を持たなかったら。

 

もしも――――全てを投げうってでも証明しようと試みた潔白が、そもそも存在しなかったとしたら?

あんなにも慈悲深い人間が、手配書で散々に書き立てられたような残忍な性情を持つ怪物であるはずがないという確信、それ自体が、自分の足で立ち上がる事も覚束ない弱い『子供』の縋った、甘やかな幻想、都合の良い真実でしかなかったのだとしたら。

 

恐怖は消し去り難い。その絶望に耐える力を自分は持つだろうか?今度こそ、膝をついたまま二度と立ち上がれなくなるかもしれない……。

 

「……?」

 

周囲のざわめきが、出し抜けに途切れた。意図せず瞼と拳を固く閉じていたベルは、それに気付いて顔を上げた。ロビー外縁の一部に空白が生まれている。建物奥へと通じる廊下の前、そこへ踏み入り、そして出て来たのもつい先程に感じる。

革と青銅の擦れる音がいやに煩く聞こえた。二人の兵は、この短い期間だけでオラリオ全ての住民の記憶に深く刻んだだろう厳しい顔つきを決して変えずに闊歩する。揺れることなく歩調の合う二つの体幹は一つの巨兵のようにベルには見えた。

 

その後ろで項垂れて歩くせむし男の顔と合わせれば、その光景はまさしく――――

 

「違う。違うぞ。こんなの嘘だっ!有り得ないっ!!アルゴス君が罪人だなんて絶対に間違いだ!!おいロイマン君、何のためにキミはこいつらと一緒に居たんだ!?!?どんなイカサマを許したんだ、幾ら握らされたんだよっ!!」

 

「はっ?え、いやそんな誤解ですヘスティア様、天地神明に誓って私は職務を果たしただけで……彼らがまっとうに尋問の全てを終えたのをしかと見届けました次第です」

 

遠くで主が何事かを訴えているが、ベルにはよく聞こえなかった。ラケダイモンは、ベルの眼前で立ち止まった。しかし赤色の双眸は、伏せられた大きく歪な顔面に宿る青い光だけに向けられている。それ以外何も見えなかった。周りの全てが歪んで溶け合い、足元に開いた闇の穴に吸い込まれていくようだった。

 

――――その光景はまさしく、然るべき沙汰に頭を垂れて打ちひしがれる罪人そのものだった。

 

全身から力が抜けていく。如何なる敵意も飲み込んで糧にする貪欲な業火はウソのように勢いを無くしていった。彼自身の意思は、いとも容易く彼自身から全ての力を消し去ろうとしていた。どれほど大口を叩いていても、それが実際に現れればそんなものだ。ベル・クラネルは幼く、無知だった。本当に自分を打ちのめす現実に立ち向かう力を養う経験を、持っていなかった。

果たせなかった。あんなにも求めた救いはその手から零れ落ちた。報恩の思いは結局その程度だった。無数の悔恨は湧き出し、渦巻く。

……或いは。

はじめから、間違っていたのか。彼が偽りの罪を着せられた哀れな供物だという認識こそ、弱さと愚かさが見せた幻影だったのか――――

 

「無様なものだな」

 

膝をつき両肩を落とした少年を見下ろす金眼の鋭さは、はじめての邂逅に向けたそれと比べて一層研ぎ澄まされたものだと、誰も知り得ない事だった。

 

「見るがいい。真実を受け入れられず、見苦しく喚き立てるだけの哀れな主の姿を。あれが、お前の擁護者だ。お前に、命を棄てさせるのを疑わせない呪わしき誓約を与えた理不尽の権化だ」

 

壊れた人形のようにそこで俯き固まる身体は、どんな侮蔑の言葉も通り抜けていくだけだった。

 

「そして、望まぬ真実を突き付けられ、全てを諦めて膝をつく腰抜けがお前だ。まさに、あれの『子供』に相応しい姿だ」

 

真実。ラケダイモン最強の男は、どんな死すべき者も逃れられない神の武器をベルに浴びせかける。知りたくなかった真実は罪人のあらゆる挟持を奪い去り、その矮小さだけを本人に突き付けるのだ。

誰の耳にも聞こえる辱めの言葉に抗う力も、もはやベルには残っていなかった。

 

「終わりというのはお前の意思とは関係なく訪れる。……望みの尽き果てた後の、何も無い闇とともにな」

 

――――終わり。

 

何も無い、闇。

 

「……違う」

 

握り拳をロビーの床に撞き、首を上げた。酷薄な金眼を宿す男の顔を睨み返す。すでに駆け寄り名を呼ぶ主も、肩に手を伸ばしている女給仕も、意識の外にあった。

 

「終わってない。何も……まだ、何も終わってなんか、いない」

 

赤い瞳の奥に、それはまだ残されていた。右手の中の枷と、その輝きが同調して煌めく。

立ち上がり、なおも見上げるべき身長差の偉丈夫と堂々と対峙する小人。無謀な戦いを挑んだ身の程知らず、功名心か、安っぽい正義感に目が眩んだ哀れな敗残者としての姿など、そこにはなかった。

 

「諦める理由なんか無い。ラキアに連れて行かれて、そこで裁かれて、刑を言い渡されて……それが戦いを終える理由になんかなる筈が無い。無実を証明する手段は、他にもある……絶対に」

 

真に得難きものにかけて誓った言葉だった。誰よりも、何よりも守らねばならない。自分が決めた事だ。それを手放した時が、本当に何も果たせなくなる敗北の時なのだ。

恩人に背負わされた咎が偽り以外の何であるか?全てを捧げる主の言葉を疑う余地などあるはずがなかった。

神を信じる者と、神を信じない者の視線は見えない火花を作って押し合う。

 

「盲が。全てが終わったという現実の何もかもから目を逸して繰り言を紡いだところで、裁決が覆される事などあり得ると思うか」

 

ベルは目を見開いた。

広い視界の中心にある、金色の眼光。兜の影にある、驚嘆に満ちた青い眼光を受け止める瞳は、どんな疑念も退けるよう少年の心へと打ち寄せる。

怒りも恐怖も忘れさせる潮騒は彼の耳にしか聞こえなかった。

 

「戦いの終わりは――――それを始めた者だけが決める事だ」

 

どんな闇の中でも、途方のない困難の中にあろうとも、ベルの心と身体、魂に繋がれた神との誓約は、その力を絶やさずに与え続けるものとして存在していた。

 

 

--

 

 

敵が天を覆い隠す強大な存在であっても、地を埋め尽くす無限の軍勢であっても、彼は決して退かず、諦めず、屈しなかった。

その背を地に預けるのは、全てを成し遂げた時だけだと決めていたからだ。

 

 

--

 

 

「……」

 

ヘスティアは言葉を失っていた。静かな広間に行き渡る最低限の声量は、誰かの脳天を揺らすものではなかった。『子供』の変貌への恐怖も、見苦しい足掻きへの失望も生まない。

そうだ。どうして忘れてしまっていたのか。言われるまでもなくわかっていたことだと、ああも威勢よく言ってのけた自分はどこへ消えてしまっていたのか?

深き感銘に奮い立ち、ヘスティアはいざ『子供』の真横に並ぶ。ここで、何が決まったという?何が終わったという。何とでもしろ、この子が諦めない限り、地の果てまでも一緒に行ってやるさ!!

そう啖呵を切るべく口を開いて――――

 

「……あのお。何やら……大いなる認識の齟齬が発生しているのではないかと、思えてならないのですが」

 

「っっっっほ!!お、おお?、?、??、……????」

 

割り込むロイマンの抜けた声は、硬直したその空間に穴を穿って萎ませていくような効果をもたらした。突然コイツは何言ってるんだ、と振り向くヘスティアは表情だけで物語っていた。

地下牢で行われた全てを見届けていたギルドの長は、真実をここに明かすべく、口を開いた。

 

「ずっと目を瞑っていた乳飲み子には、わからなかったのでしょうがね……彼は確かに、全ての件において無実であると証明されたのですよ、神様」

 

 

「え?」

 

 

「――――は?」

 

 

「………………??」

 

 

三者一様に同じ顔をした。同じ感想をそのまま、形にした表情だった。

 

なんつった、今。

 

非常に間抜けな光景に、ラケダイモンは目もくれなかった。呆然と佇むせむし男をそこに置いて小さな主従のすぐ横を通り抜ける。巨大な質量が自分の肌を掠める錯覚に対しても、ベルは何の行動も起こせず固まっていた。

 

「命拾いしたな」

 

聞き慣れた、感情の消えた声だけが残った。二人の兵は、来た時と全く変わらない力強い足取りで、ロビーの出口へと歩いていく。

何が起きているのか。

誰もがその答えを知っていたが、誰もその確信を抱けなかった。

 

「え?、あ、……なに?何だって?あいつらは、何を?……無実?で?だから?…………????」

 

恐ろしい頻度で目を瞬かせるヘスティアは、混沌に満ちた思考を吐露するのが精一杯だった。

ロイマンは、大層ばつの悪そうに、目をそらしつつ、口を開く。

 

「……まあつまるところ、負けたのが悔しいから、嫌がらせのひとつでもしたかったのではないか……と……」

 

 

ヘスティアの思考は停止した。

いや、それは傍目にそう見えただけだ。彼女の意識は神すら解し得ぬ波動関数の漣の果てへと瞬時に旅立ち、不確定性原理の作り出す不定の飛沫の中に溶けていった。

あれ~、っじゃあ、つまり、どういう事なんだい~。も~わけわかんなくってボク困っちゃうよ~ん。

彼女の頭のなかで無数のニューロンが無数の量子と腕を組んでダンスを踊っている。

 

 

「……ア、ルゴス。じゃあ、……君は……」

 

「…………おでは……」

 

 

ロイマンの説明は途方もなく現実感の無い響きを持っていた。誰も至った事のない遥か彼方へ思考をブッ飛ばしている女神程でなくとも、その『子供』はどう表現すれば良いのかわからない感情に混乱していた。

――――自分達の無様な早とちりが生んだ醜態と、最後の最後でラケダイモンが残した下らない駄法螺に呆れ果てる気持ちばかりが心を埋め尽くし、本当に芯から湧き上がるその思いを掴みあぐねるだけで――――

 

「やったんですよ……クラネルさん、神様。貴方達は、やったんですよ!アルゴスさんが何の罪も着せられる謂れが無い事を、ラキアに証明したんですよ!!」

 

「……やった?ラキアに……僕と、神様が……」

 

「……ベル゙……お前ぇ……」

 

そのシルの興奮ぶりは彼女の店の常連、いやさ同僚もそこに居たら目を剥いただろう。両肩を揺らされつつ真実を告げられても、ベルの理解力は未だラケダイモンの背中の大きさを目測出来るくらいしか無かった。

殊に一番の間抜けを晒していたせむし男。頑なに真実を恐れていた彼は、尋問の完了が潔白の証明ともわからなかった。天秤は常に血に染まった皿へと傾いていた事も。

いよいよシルは寝惚けた『子供』達を覚醒させる母親のような気勢を発し、ベルに迫る。

 

 

 

「そうですよ!ラキアに勝「、ぃっ……っっ…………っっっっいぃやっっったああああぁぁあああぁあああ!!!!勝ったっっ!!!!勝ったんだぞっっっっ!!!!ベル君っ!!!!ボクらが勝ったんだっっ!!!!正義が勝った!!!!ぅおおっっっっしゃあああああああーーーーっ!!!!万歳、万歳、ばんざーーーーいっっっっ!!!!」「わぷっ」……」

 

 

 

いきなり横から飛びつかれたベルは、顔を覆う柔らかい感触に狼狽した。シルは、餌を取り上げられた犬みたいな顔をして、喜びを全身で表す女神を見ていた。

 

「ははっ、はっはははははは!!見ろベル君、アルゴス君っ!!あいつら、悪党どもが尻尾巻いて逃げていくぞっ!!くっっっっだらない負け惜しみだけほざいた負け犬達だぞっ!!精々あの下品脳筋馬鹿野郎によろしく伝えてくれよっ、おとといきやがれってな!!うわーーーーっははははははっはははあーーーーっ!!!!」

 

「むぐっ、かっ、神様。わっ、わかりましたっ、から……ちょっ、……」

 

ヘスティアは衆目など気にかけようとせず『子供』の上半身にガッチリとしがみつき、ロビーの出口を指差して高笑いする。その姿を省みる余地など芥も残っていないのは明白だ。だが、誰がそれを止められるだろう。その資格を持つ唯一の少年としても、(少々息苦しいが)この歓喜の迸りを諌めようという気など無かった。

 

「では、私はこれにて……おっと、これはお返ししておきましょう」

 

「あ」

 

手持ち無沙汰だったシルに木箱を渡してロイマンは去った。優先すべき案件など他に幾らでもある悲しき終身事務員の姿は皆の視界からすぐに消えていく。人も神も、零細群団の成し遂げた一つの功業にただ感嘆の意を向けていたのだ。

 

「おお、おめでとう!おめでとう、ヘスティアとその勇敢なる『子供』よ、無辜なる乳飲み子よ!そなた等の慈悲と忠節が成した快挙に惜しみない賞賛を禁じ得ないよ」

 

「わははははははっ!!そうかっ!!そうだよなっ!!そうだろそうだろっ!!聞いたかベル君、ははははははっ!!」

 

「ぶっ、はっ、はぁ、はい、聞いてます、だからその」

 

「あっ、お、おう……ごめんよ」

 

アポロンの仰々しい褒め称え方は平素のヘスティアだったらどんな腹だと勘ぐったところだが、もう浮かれに浮かれ我が世の春を謳歌する今の彼女は気分だけ天界へと舞い戻る勢いである。『子供』の呼び掛けに気付くのも少々遅れたが、その思考にはちょっとの羞恥と未練が混じるのみだ。

 

「まーとにかくこれで一件落着ってわけだ!もう、なーんにも気にすることなんか無いんだぜアルゴス君。晴れて自由だっ!誰に何を恥じる事なぞあるもんか!」

 

「……」

 

主に自らの歓喜の程を肩代わりさせているかの如く、ベルはどこか上の空だった。それもラケダイモンが残していった最後の悪あがきが影を落としていたため――――だけでは、ない。思い出せない、もっと重要な懸念があった事に思いを巡らせていたのだ。

思索の海の底へ達するより先に、彼の意識を浚う男の声が発せられた。

 

「……何゙て言っで、感゙謝すればい゙いの゙が……わがらねえ゙。おでは……」

 

大きな顔は歪んでいた。それは生来彼が与えられた造形だからという理由ではなかった。低く割れた声は裂けた唇から途切れて紡がれ、彼の心境を言語の内容に依らず伝えるものとなっていた。青い目は霞んで実態の無い自分の心を繋ぎ止めているようにベルは感じた。

 

「――――あ゙り゙がどゔ……ベル゙……神゙様゙…………」

 

深々と頭が下げられる。ベルは言い表せない万感の思いに身を浸すようだった。達成感か、充実感か?正体などどうでも良いという気持ちもあった。

心の引っ掛かりも今は関係なかった。

戦いは、終わったのだ。

そうと理解すれば。

 

「……は」

 

「あ」

 

「っお、ベル君っ?」

 

出し抜けに足の力が抜けたベルは、辛うじてそのままへたり込むのを免れた。受け止めたシルが顔を覗いて微笑む。

 

「……本当に、お疲れ様でした」

 

「…………は、い……」

 

「ちょ、ちょっとキミぃ。それはボクの役目でっ」

 

ヘスティアの咎める声は、沸き起こった拍手にかき消された。弾ける空気は轟音となって、捧げられる者達を飛び跳ねさせる。

 

「この偉業が生まれた瞬間に立ち会える喜びを、ここに示そうではないか!!」

 

音頭をとるが如く先頭に在る顔は先にもまして笑みを輝かしくしている。彼は正しく神の街の住民の代表者として振る舞っていた。その内心がどうあるか、受け手に計り知れようもない事を含めて。

すごいな。大したもんだ。いけ好かねえ奴ら、ざまあない。まさかやり遂げられるなんてなあ。…………。

 

「は、は」

 

ロビー中に満ちる賞賛の声は、戦士達の鍔迫り合いとはまた異なった質を持っていたが、直接それをぶつけられるヘスティアにとっては圧巻そのものだ。手放しで褒めちぎられるむず痒さもあり、落ち着きを取り戻しつつあったその心境は少しばかり居心地の悪さすら芽生えつつあった。

 

「……クラネルさん?」

 

シルの声に振り向く。かような紛れも無い偉業の立役者は既に自分の足で床を踏みしめる程に立ち直っていたが、相変わらず何かが抜け落ちたような顔をしていた。

 

「ベル君?」

 

「あ……いえ、別に」

 

視線に気付いたベルは、照れ笑いを浮かべて首を振る。その朴訥で人の良さそうなただの少年そのものの貌こそが、全ての不安を剥ぎ取った処にある『子供』の本当の姿であるはずだとヘスティアは信じていた。彼は、やおら自分のした事の素晴らしさを噛み砕きつつある最中に慣れない注目と賛辞に晒されているもんだから、どう反応すればいいのか困惑しているだけなのだと。

冷えつつある頭が行き着こうとするその先の推測を打ち切って、アルゴスのほうを向いた。

 

「じゃあアルゴス君……そうだね、これからお祝いさっ!こういう時の為のお金だからなっ!」

 

一時頭から抜け落ちていた規定事項を告げるヘスティア。何の憂いも今の自分達には必要ないのだと、胸を張って宣告する。

アルゴスは小さな女神を見下ろし、瞠目しているだけだ。

 

「……でも、おでは……」

 

「おっと、申し訳ないだのそういう台詞は却下だぜ。そーいう所までベル君と似てて困っちゃうねぇ全く。なあ?」

 

立てた人差し指を振りつつ、片目を閉じた主は『子供』に皮肉をぶった。顔を染める朱をまた少し濃くして、ベルはそれをごまかすように笑う。

 

「ここに来てそうまでは言いませんよ、僕だって。……アルゴス、あなたが良ければ、だけど」

 

赤色と青色の眼光は穏やかに反射しあっていた。せむし男は太い首を僅かに上下させ、足を踏み出す。途方もなくちっぽけな功績を打ち立てた主従に連れ添われるべく。

戦士は友誼の証を携え、主とともにただ静謐にそこを後にする筈だった。

そうはいかなかった。

 

「おお!待った、聞き捨てならない話ではないか?ヘスティア、かくも遠大で困難な試練を果たした『子供』達に対して、君はあの哀れみを誘うほど質素な神殿で祝宴を開くつもりか?」

 

「あァン!?ケンカ売ってんのかいキミは!?」

 

ヘスティアはついさっきまでのおべんちゃら丸出しだった姿を忘れるノータリンではなかったので、そのメチャ(極めて揺るがし難い真実ではあったが)無礼な発言で水を差す馬鹿野郎に牙を剥くのを躊躇わなかった。万雷の拍手と祝福の言葉もいい加減収まりそうな頃合であり、既にその思考は平素の回転を取り戻していた。まあニコニコニコニコとなんかコイツ胡散臭いぞと。最初は他人事、次は怪しい預言、で馴れ馴れしくこの場にやって来てこうだ。さもありなん。

ともかくにべもない反応を受けてもアポロンは堪える様子もなく美しい声色も絶やさない。

 

「まさか!私はただただ感動に打ち震えているだけだとも。この麗しき英雄譚を目の当たりにさせてくれたお礼は、我が館にてその祝宴をひらく形で贈りたいのさ。君等に大した助力も出来なかった以上、これくらいはさせて欲しいと、私の良心が痛んで仕方がないんだ!」

 

「……本当かあ?」

 

侍るダフネは自分の主に良心などというものが存在する事実に内心驚愕していたが、表情にも口にも出さなかった。

是非にと申し出るアポロンを疑いの目を向けまくるヘスティア。ベルもアルゴスも神々の対話に割り込む気を起こせずに居た。が。

 

「申し訳ありませんアポロン様。私のお店に先約があるんです……そうでしたよね?ヘスティア様?」

 

曇りのない笑顔は、明らかに余人によるこれ以上の干渉を退ける意図の含まれたものである。その女給仕の胸に、かつて静謐な休息を求めた少年が被った災難の光景が去来していたのかは、定かではないが……。

 

「成る程。では私の奢りということで、『子供』ともども同席させて貰っても……」

 

「あー!駄目だ駄目定員オーバーなんだよ!悪いけど三人用の宴会なんだ!悪いねアポロン気持ちだけありがとう!よし帰ろうか諸君!」

 

輝かしい笑顔で食い下がるアポロンを切り捨てる為には相当意味不明な理屈を捻り出す必要があるヘスティアだった。青天井の警戒心は、達成感でも覆い隠せずに彼女の中で鳴り響いていたのだ。

『子供』の手を引いて背を向ける女神の様には、ようやっと望みが尽きたのをアポロンに悟らせた。

 

「ああ、残念だ、至極」

 

「あ、と、神様……あの、アポロン様、本当にありがとうございました。この御礼はいつか」「こいつは何もしてないんだから、これで良いんだよベル君っ!さ、アルゴス君、給仕くんも……はい君達、御世辞は充分だから、道を開けてくれっ」

 

神の言葉は人波を断ち、安らう為の場所へと『子供』を誘う。好奇、感嘆、驚愕、尊崇、多くの視線を浴びながらも、遍く悪徳を寄せ付けないかれらの歩みは夜の街の中へと消えていった。

当事者の姿が消えようとロビーの喧騒はとどまるところを知らず、寧ろ好き放題言えるだけ更に盛り上がる。

 

「信じがたいが、あンの傲慢なアカイアの連中の鼻を明かしたのは凄い事だろう」

 

「はっ、馬鹿ばかりだな。あの青っちろいガキ一人だけのファミリアだから、こんな瑣末な事も大袈裟に見えるだけだ」

 

「じゃあオメーは同じ境遇でもやれるってか?」

 

「あのコならやるかもなんて、ちょっと思ってた~」

 

「……何でシルちゃんが一緒に居たんだ?」

 

傍観者の言葉はアポロンにとって聞くに値しないものだった。そうなればこの場に居る意味も全く無いのだ。踵を返そうとして、しかし足を止めた。

 

「ん?これは、少し遅かったね。主役達はとっくに帰ってしまったよ、つれないものだ……」

 

「やあ、……実のところ何がどうなってるんだか把握出来ていないところなのだが。ヘスティアが何をしたって?ラキアの兵士はどうなったんだ?」

 

寸評を繰り広げる野次馬の中で、こちらに向かう知己の顔を認めた。今しがたここに足を踏み込んだばかりのディオニュソスは、人々の話題を掻っ攫う要因について全く心当たりが無いわけでもなかったが、よく見知った相手からの確証を欲していた。

本部へとともに連れられてきたフィルヴィスにしてみれば、また例の謎の怪物どもの関連かとしか思えなかったが……。

 

「まあ大方、君の予想通りだよ。小さく誇り高き神と『子供』は、街に跳梁する悪党を叩き出したというわけだ……あらぬ疑いをかけられた同朋を救い出したというおまけ付きで」

 

「……あのヘスティアが、か。驚くべきか……いや、そう言えば、あの乳飲み子の主神との縁が成した偉業という事か?」

 

「そうとも。泣かせる話じゃないか?主を追って安らぎの場所を棄て、長い長い放浪の末に罪人などと呼ばれるようになって、逃げ帰る場所は結局ここしか無かった。それを救ってくれたのが主の残した縁だったと……いやはや、あの鬼ババアもそれほどの……、情、が、……く、うっ」

 

「……おい、アポロン?」

 

怪訝そうに顔をしかめるディオニュソス。アポロンは口上の途中で顔を伏せ、何やら息を堪らえようと唸りはじめた。さては、感動屋のサガ故に目から流れ落ちるものを隠そうとしているのか……と、ディオニュソスは思った。フィルヴィスも思った。

実際は、ぜんぜん違うという事を、一貫して白けた目を保つダフネは知っていた。

小刻みに震えるアポロンが顔を上げる。死すべき者の心を虜にする二枚目は、崩れた恵比須顔で見る影もなかった。

 

「く、くくっ……いや、だね……っくひ、へ、ヘスティアがな、あの乳飲み子と、自分の『子供』を、似てると、言って……それで、それでだ、つい、あの、ウフヒ、鬼ババアが必死になって、街中、走り回って、誰も彼もに虚仮にされて、それでも、縋り付いているのを、そ、想像し、したら、な。さっきから、くくくくっ……!!」

 

「……」

 

つくづくいい性格してるよな、とだけ思うディオニュソスはただ閉口した。必死に腹を抑えて含み笑いを続けるアポロンの努力は、すぐに無に帰した。

 

「ウフフッ、うはっ、うわはははははっ!アヒィー、や、ま、まずい、ひひひひひひっ!!お、面白すぎるっ、あの鬼ババアがっ、うくくっ……あ、あんな馬鹿丸出しの喜びようでっ、か、考えただけでっ、くっくっくっくっく、くくっ、苦しいっ、はひひひひし、死んでしまう、息がっ、ひひひひひひっ……」

 

そのまま死んでも、あまり自分は悲しまないだろうなあ、とかダフネは思った。ディオニュソスもまさしく呆れ果てた目でずれ落ちそうな月桂冠を見ている。尋常でない爆笑ぶりに、群衆も訝しげな視線を送る。

……ややあって人垣の中から、小さな影がまろび出た。笑い転げる神の正面にそれは屹立する。

 

「ご機嫌麗しゅうございますねえ、アポロン様。何か面白い事でもあったのかい」

 

「アハハハハハハッハハハハハ、ははぁ、ひっ、ひひひひひ、それはっもう、ケ、傑作な、うくくくく……うごおぉッッ!!」

 

鋭い踏み込みとともに繰り出された正拳が、アポロンの鳩尾にめり込んだ。一級の戦士も見惚れる必殺の一撃でその長身は僅かに宙へ浮いたのち、力なく床に崩れ落ちる。

ヘスティアは、ほっぽり出して忘れていた分厚い資料を小脇に抱えると、臥して動かないアポロンを一瞥した。

 

「やっぱりただ見世物扱いしてただけじゃないかっ!!馬鹿にしやがって!!ふんっ!!」

 

再び波を割る女神は、怒り肩のがに股歩きで今度こそその場を後にした。

 

「……生きてるか?」

 

「あ、おかまいなく。いつかの時なんかイシュタル様の『子供』に言い寄って吊るされて、顔の皮を剥がされそうになってたし……よくある事です」

 

事も無げなダフネは長い足を肩に載せて歩き出した。白目を剥き涎を垂らす色男を引きずる姿は、小さな偉業を成した者達に負けず人々の注目を浴びていた。

 

「神様も、普段の行いが大切ですよね……」

 

「……私は誰に何を恥じるような事などしていないぞ」

 

多分に示唆の満ちた眷属の言葉の真意を、ディオニュソスは尋ねなかった。他方、渋い顔を作る主の発した言葉が真実であるかどうか、フィルヴィスには決してわからなかった。

 

 

--

 

 

自分は確かに成し遂げたのだ。道すがら掛けられる声は嘲りと哀れみの篭る聞き慣れた響きなど皆無だった。すれ違う毎に、口さがなく賞賛と畏敬を送ってくる人々。

歩を進める中で、ベルは奇妙な気分が大きくなっていくのを自覚してしまう。その中身がわからない焦燥も。……それ以上考えてはいけないのだと警告する自分が居る事も。

凍り付いた砂漠を導なく探し回るような、果ての見えない戦い。それは終わった。勝利を掴み取った今、何の懸念も無い筈だろうと言い聞かせている少年は、一人誰の声も届かない闇の中を彷徨っていた。

軽く、肩を叩かれる感触を理解するまでは。

 

「到着しましたよ?」

 

「?、…………ハッ、すいません!」

 

魔石灯の点きはじめている道路に面した大きな酒保には、時間帯なりに盛況な様子だった。

しかしベルの視線は、通りすがりに此方を見やる人々でも、怪訝そうに自分を見ている同行者でも、況してやこの店で得た愉快とはいえない過去の記憶にも向いていない。

 

「さあて。ここであんた達の事を褒め称えたなら、あたしもその他大勢の風見鶏と一緒ってわけかねぇ?」

 

女将が不敵な笑みと共に飛ばす自嘲とも皮肉ともつかぬ言葉がベルの中に反響して、泥の中に埋もれるのに任せようとしていた本心がまた顔を覗かせようとしていた。

面食らう少年の顔に何事かを危惧したか、シルは眉をひそめて苦言を呈する。

 

「ミア母さん、意地悪言わないでください。八方丸く収まって、それでいいじゃないですか」

 

「ふん?丸く、ね。まぁ、出すものを出すんなら客だ、拒む事なんかしないけどさ……」

 

言うだけ言って店内へと消えるミアに、ヘスティアは口を尖らせる。

 

「歓迎されてないみたいだね……」

 

「すいません……ちょっとだけ、意地っ張りなだけなんです。本心じゃないですよ……クラネルさん?」

 

訪れつつある夜の漆黒をかき消す街明かりも、見知らぬ人々の感嘆の声も、もはやベルの気を逸らすことは出来なかった。心の底から自身を慮っているのだろう三つの眼差しが、忘れて消し去ってしまおうとしていた彼の本当の思いの陰影を描く真実の光となっていた。

 

「……先に、会わなくちゃいけない人が……その人の前でやらなきゃいけない事があります。お店に入るのはそれからでもいいですか?」

 

どうしてこんなにも苦しく思うのかとベルは口を噤み、それはすぐ自嘲に変わる……最初からわかりきっていた事の筈なのに。剰え口にするのは、もっと苦しく惨めな気持ちになるばかりの、何の意味も無い自己満足でしかないのだ。

それでも伝え、確かめなければならない事だった。見て見ぬふりをする事など出来ないのだ。自分の中に確かにある迷妄と煩悶は、どれほど目を逸らしても無くなる事などありえないと、彼は知っていたから。

ベルの意思全てを汲んだかは定かでないが、シルは僅かばかりの間目を丸くして――――頷くと、一行を裏口へと案内するのだった。

 

「……あの、ベル君」

 

絶えることのなく聞こえる住民の営みの音、混じる賞賛と評論が、扉が閉まると同時に消える。いやに狭く感じる廊下を歩く短い時間に耐えられなずにヘスティアは口を開く。

『子供』の思い詰めた様に主が危惧を覚えぬ道理など無かった。だが、その何らかの決意をここで問い質す事に尻込みする気持ちもまた、等しくあった。

あらゆる問題は消え去ったと思い込むのを、どうして許せずにこんな重苦しい気持ちにならなければならないのか?そう主に詰られれば、ベルはおそらく、気の抜けた、虚ろな笑みを浮かべて肯く事だろう。

 

「いや……何でもない」

 

「……」

 

足を止める事はなかった。やがて一柱の神と三人の死すべき者は扉の先、失われた正義の們に出迎えられる。リューの双眸から広がる凍り付いた空の色は個室を覆っているようだった。中に入れない巨漢のせむし男は廊下から、その温度を感じ取っていた。表情を変えず、真っ直ぐに。

 

「万事上手く行ったというわけですね。暴虐の企みは堅い友誼によって辿り着いた真実で、退けられた。ベル・クラネルさん……あなたは大した事をしました。誰も、否定は出来ないでしょうね」

 

空々しく聞こえる台詞で、ヘスティアの中に如何ともしがたい感情が鬱々と、積もっていく。だが知己を前に起こせた癇癪も憚られた。彼女の顔と声に、『子供』のそれと同じような虚ろさが滲んでいると気付いたゆえに。

……過去、正義の群団を滅ぼしたものが何であるかを知っていれば、女神の胸を満たすのは単なる同情心だけだったに違いない。だが、真実はそこへの過程の中にあるヘスティアの理解と少し逸れた場所にあった。

 

「僕一人では、何も出来やしなかった。どんな、何も手に入らなかった。……誰かを信じる事すら、この道を選ぶ事すらきっと、出来ませんでした」

 

首を横に振ったのち、感情を押し隠すように平坦な響きで以てベルは吐露する。もし、一人きりなら。剣と翼の天秤へは至れず、それの存在は知れず、滅びたファミリアの生き残りの名など及びもつかず闇の中を彷徨い歩くだけだっただろう。

恥も外聞も棄てて街の住民に全てを明かす事も、幾多もの冒険者に袖にされる事も、……ラキアの思惑に正面から楯突く事もなかった。

 

素性も人格も碌に知らない、人目を忍ぶせむし男に助力を請う事も。

 

「アルゴス、僕は……」

 

口を閉じ、固く、歯を噛んだ。胸は苦しく締まり、喉に重く閊える塊が行き来していた。

しかし、なんとしても自分でその言葉を絞り出さねばならないと、ベルは知っていた……真実を求めて戦い、成し遂げたからこそと。

論理を無視した蒙の輩がそこに居た。だが、彼を中心に作られている決死極まる空気は、詰まる言葉に割り込もうという意思など寄せ付けなかった。

アルゴスとリューの二人を、赤い視線が一度だけ往復した。

ヘスティアとシルは、拳を握ってそのさまを見守っていた。

ベルは、首を横に振った。

 

「……あなたはもう、自由なんだ。どうしたって、誰も止める権利なんか無い。冒険者に戻って……そうでなくても、他のファミリアに入る事も、今度こそ、この街から去るのだって」

 

「お、おいベル君、そりゃ――――!」

 

ベルは、たまらない様子で口を開いた主を一瞥した。その眼光は刹那向けられるだけで充分、対面する者の言葉を奪う重圧を備えていた。

物理的な衝撃をすら錯覚して硬直する顔に、すぐベルは己の失態に気付いて目を閉じる。だが、その事にかかずらう余裕も尽きていた。いま全てを白日の下に晒さなければ、その言葉は永遠に闇の中に消えてしまうような、そんな焦燥が彼を支配していた。

 

「僕がこれからどうするなんて、そんな事、もう関係ないんだ。あなたは居なくなってしまった神様と、ファミリアの仲間達を探さなきゃいけないんだ。……僕はっ!」

 

思い切り声を上げて、荒い息継ぎが、数拍続いた。ベルの視界が歪んでいた。酸素の足りない脳が生む幻覚である。

 

「僕はっ、真実がどうとか、あるべき正義のことなんか、どうでも良かった!あいつらが気に入らなかったからとか、そんな事もっ……恩義の為なんかでも、ない!偉業なんて、どうでもいい……!僕は…………」

 

ばらばらの感情が吐き出されていく。すべては昨晩、リューが問うた事だった。簡素に、冷厳に突き付けられ、容易く飲み込んだ筈の真実の数々は今一度、心底、本人の血肉となった言葉としてここに顕現した。

いつかの時を、シルは思い出していた。弱りきった少年が、口篭りながら行った懺悔のこと。魂まで潰しそうな重みに耐える必死の表情。心底痛ましく思う感情は再び呼び起こされる。

かの時とひとつ違うのは、この場においては、彼を揶揄する者が一人も居なかったということだけだ。

 

「……何もかも忘れてしまう自分よりも、戦えない自分のほうが、ずっと恐ろしかった。自分が消えてしまいそうで、怖くてたまらなかった……誰からも見捨てられて、また一人になるのが、嫌だった。だから、助けを求めた……誰でも良かった、知らない誰かなら。こんな、弱い自分の事なんて、どうとも思わない、誰か……」

 

第三者でしかない正義の女神の『子供』への告解は、ただの義務感で幾らでも覆い隠せたのだ。だが、今は違う。動悸は不規則に鳴り、向き合いたくない弱さを剥き出しの感情のまま掴んで喉の奥から引きずり出すような苦行は、自分に救いの手を差し伸べた者の前だからこそ、克服し難く少年を苛む――――それに耐えねばならぬと己に科す矮小な挟持も、その拠り所がここに居なければ絞り出すことも決して叶わないのだ。

 

「神様にもひた隠しにして……あの二人に啖呵を切って、街を駆けずり回って……」

 

もはやベルの中には、その言葉を遮るものは無かった。上げられた顔は、虚ろな自嘲を浮かべていた。

 

 

「自分が、何かを成し遂げられる人間だと、そう思いたかった、この街に居られる人間だって、自分に証明したかった……その為に、やったんだ。……それだけなんだ。誰の、何かの為にやった事じゃ、ないんだ……」

 

 

ひたすらに冷淡に見えた名も知らない住民達へ抱く怒りも侮蔑も、全てはそれを向ける己へと跳ね返る身勝手な逆恨みに過ぎない。勝手に挑み、勝手に挫折し、勝手に消え去りかけていた惰弱の輩は、もう一度立ち上がる為の餌と、寄る辺なき罪人を利用したのだ。

 

だから、もう、自分のような弱く得体の知れない『子供』に関わる理由など、あなたには無い。

 

本当に求めるもの、得難く思い続けるものが違う以上、同じ道を歩む事は出来ない。

 

途方もなく馬鹿げた泣き言は、それを裁く権利のある者達の前で明かさねばならなかった。雪ぐ術の無い罪であってもそれを闇の中へ追いやったまま歩み続けられる強さなどベルは持っていなかった。

 

真実を求めて戦った死すべき者の救いがたい弱さは、どんな擁護も差し挟めない沈黙をそこに生み出していた。

 

「…………それ゙が、お゙前ぇの、本心゙な゙んだな……」

 

疎らな歯が動き、罪人を咎めるでも、赦すでもない言葉を隙間から漏らした。静寂は熱波と霧氷の狭間にあるような危うさを湛えており、どんな感傷も見出だせない濁声だけが暫し宙に打ち込まれて、全ての者達の反応を阻んでいた。

ベルが首を縦に振るのには、彼の持ちうる全ての力を使わねばならなかった。ひたすらに重そうに、その仕草は青い瞳へと映り込んでいた。

 

「…………」

 

そして。

開いた扉からただ一点を注視していた青眼の持ち主は、ゆっくりと、巨躯を動かした。

誰も、それを止める事は出来なかった。誰もその権利を持たない。手を伸ばしても足を止めたままの女神は、それを知っていた。

彼は自由になったのだという事を。

 

 

 

「……………………どんなに崇高な題目も、負けて潰えれば残せるものなど何も無い。あなたは勝った。誰に後ろ指を向けられる謂れなど、ありはしない。……私は、そう思いますよ、クラネルさん」

 

「ありがとう、ございました。リオンさん、シルさん。何も返せない事を許してください」

 

只管に苦渋を堪えるその面持ちは、身勝手極まる屁理屈で善意を反故にする者の傲慢に過ぎなかった。それでもシルは居たたまれさに何も言えなかった。

ただ、悲しかった。

 

「……許さなければならない事など、私にはありませんよ」

 

あらぬ方を向くリューが、そう呟いた。それが本心であるかどうかを知っているヘスティアは、決して真実を暴かなかった。

裏口の扉の、いやに重く聞こえる開閉音が途切れてから、どうということのない会話が少しだけ、続いていた。

 

 

--

 

 

「あの日、あんたがアポロン様に連れられて話したっていうの、あの子達の事じゃない?やるもんだよねぇ」

 

「……そう、だったね」

 

カサンドラは、感心しきりの様子を見せる同朋に対し、格別な反応を起こさなかった。

 

「そんなにどうでもいい?」

 

「……」

 

強大な力に抗って自由を手に入れるという美談の耳障りさよりも、単にあの少年の中に垣間見た深い暗黒を思い出すのが億劫だった。

寝転ぶカサンドラは瞑目し、自分だけの逃げ込める闇の褥へと落ちていった。

 

 

--

 

 

今の自分に祝宴を開くような気分へと持ち直せる気丈さがあっても、それを行使する図太さを発揮出来やしないという事を、ヘスティアは知っていた。気分だけは人目から逃れるように縮こまっている主従は、早足で家路を辿る。

 

「お、あんた方は」

 

「小さな英雄さ~ん。ウチに来ない~?」

 

「よくやってくれたよ神様、あの筋肉ダルマ共の顔といったらなあ!」

 

どんな言葉も頭の上を通り過ぎていくかのようだった。神の街に入り込んだ害虫を叩き出した程度の、とるに足らない小事。達成感などとっくに燃え尽き、永遠に熱の宿らない灰となって心に貼り付いているかのようにヘスティアには思えた。

握られた手の感触を深く、消え去るのを拒むよう強く確かめる。そこから繋がっている『子供』の心境を余す所なくはかり知ってしまったからには、あんなにも浮かれていた自分の醜態すら悔いるほどに胸中は重い。

 

「神様。……ごめんなさい」

 

時を忘れても歩みを止めずに、勝利の余韻を遠くへ置き去った者達は帰るべき処へと辿り着いた。街灯は乏しく、ちっぽけな戦いを征した女神の神殿は、哀れまれるべき清貧ぶりを変わらずに保つだけだ。それは夜闇の星明かりの下で、更に見窄らしさを浮かばせている。

小さな前庭で立ち止まったベルは、たったひとり以外の誰の耳にも届かない声を出したのだった。

 

「神様も、僕の助けになるようアルゴスに頼んでくれたのに、こんな勝手な事をして」

 

「そんな事っ……言って、くれるなよっ……」

 

とてつもない寂しさが、ヘスティアの中に湧き上がった。何もかも悟りきったような表情のくせ、わかり易すぎる未練を滲ませている少年を見てその口上を遮るのを抑えられない。

 

「アルゴス君と組む事も、彼を助ける事も、キミが決めた事だろっ。キミが始めて、……キミが終わらせた戦いなんだ。ボクは、最初から……」

 

手を握ったまま正面に回り込んでまくし立てていたヘスティアが、俯いた。

 

「キミの助けになるなら、キミの為になるなら、って……それだけだよ。キミと、あの子が決めた終わり方がこうなら……どうしろこうしろなんて、思いやしないよ」

 

嘘である。

ヘスティアには最初から義務感があった。かの如き境遇にある『子供』を擁護しなければならないという。それは、アルゴス自身の事情を知った上での同情心でもあったし、彼の主との関係に基づく義侠心でもあった。ラキアに戦いを挑むのを後押ししたのは、悪法の跳梁を許さない道徳心で、いけ好かん戦神への対抗心だ。

 

そして何よりも――――彼ならばきっと、訳の分からない強大な運命の影の付き纏う少年の事を守り導くのに、何らの不足も無い筈だろうという打算から生まれたものだった。

 

それが、科せられたもの全てから解き放たれたのを告げられるや、ああも簡単に孤独なせむし男は去っていってしまった。

ヘスティアの中にあるのは消し去りようのない不満と失望、そして、それを芽生えさせてしまう己の不徳に対する底なしの侮蔑だった。

そう、彼は自由なのだ。

頼んでもないのにやり遂げたのだからという恩を着せ、それを理由に生き方を束縛する事は、ありもしない罪を着せて虜囚の身へと堕させようという行いと、いったい何の違いがあろうか。

 

そんな傲慢を許される者など、この地上の、そして天界の何処にも、居るはずがない。

 

「…………大丈夫ですよ、神様」

 

ベルは、ヘスティアの細い肩に手を乗せた。少しだけ屈んで顔を近づけるさまは、いじましく傷を舐め合う小さな家族の現況を端的に映し出しているようだった。

 

「神様の名前はきっと街中に知れ渡ります。悪を許さず、損得関係なく戦える、素晴らしい神様だって。……入団したいという人だって、やって来るかもしれない」

 

主の心を『子供』はすべて理解していた。苛むものを打ち払う為に口にする希望的観測……それは自分で本気で信じているのかどうかもわからず紡がれる、空虚な繰り言なのだという自嘲をも。

 

「僕一人でおっかなびっくり戦う必要なんて、すぐに無くなりますよ。心配することなんか、無いです」

 

『子供』の心もまた主はすべて理解していた。

 

寂れた神殿の前で、赤い瞳と相対しながら、ヘスティアは思った。

 

負ければ全てを失う。だから、戦った。

 

だが、勝つことで得るものとは、いったい何なのだろう?

 

どんなに考えても、答えには至れなかった。

壊れた扉をくぐり、奥の扉を開け、小さく温かい、ふたりだけの暮らす安息の場所で、明日から始まる戦いの日々の為の眠りへと就こうとも。

 

 

 

--

 

 

彼は自分が海の前に佇んでいるのを知った。切り立った断崖から見下ろす水平線は、いままさに全貌を覗かせつつある陽の色に染まる黄金の野のようだった。どんな死すべき者でも言葉を失う、地上遍くものを創造した超越者の芸術品がそこにあった。

 

だがそれらも、眼下の白波の調べを生む、狭間に生まれる吸い込まれそうな深い青色も、今の彼の心を癒やすものとは決してなりえなかった。

 

途方も無い戦いを終えた今の彼を支配しているのは、虚無だけだった。

 

何の為に、自分は戦ったのだろうか。

 

自分は何を得たかったのだろうか。

 

自分は――――何を失ったのだろうか。

 

彼は決して、それらの答えに辿り着けなかった。

 

振り向けば、開かれた扉から注ぐ光景に目が眩む。

 

地上のどんな芸術品も及ばない、天界の住民が生み出した無尽の栄華の顕現が広がっていた。

 

『――――…………』

 

彼は何も言わず、そこに足を踏み入れる。

 

それ以外のどんな道も、彼には残されていなかった。

 

 

--

 

 

「……ベル君……」

 

灯りの消えた部屋は深い闇と微かな寝息の音のみが支配する、一組の主従の褥以外の役目など持っていない。

ヘスティアは、ソファで眠る『子供』の顔を、触れるのを厭わない距離で見つめている。

消えてくれない不安と孤独感を慰めるための行動だった。彼の存在を網膜に焼き付けるのを望んで、その寝顔を眺めていた。

 

閉じられた瞼から流れ落ちる確かな煌めきをも、女神の瞳は見逃さなかった。

 

「…………」

 

音を立てないよう、細心の注意を払い――――かつ、自らの動作の生む作用が最小のものとなるようにも図らって、ヘスティアは狭い寝床の中に忍び込んだ。

眷属との同衾を無事果たすや目を閉じつつ、手を伸ばす。

細く小さく見える少年の身体は、小さな女神にとってはずっと大きく感じた。

心細さに冷たく悴んでいた心は、掛布の中の右手から伝わる熱で立ち所に融けていくようだった。

緩んだ心身を、夢の世界へと誘う闇が包み込んでいくのをヘスティアは理解した。

そして抗いようのない眠気に支配されるのを任せながら――――小さく、囁く。

 

「…………自分の為に、何も出来ない奴に――――他の何かの為に、何が出来るって、いうんだい――――?」

 

 

 

戦わなければならなかった。

 

他の何か、誰かの為などではない。

 

すべては自分の為だった。

 

 

 

その思いそれ自体が過ちであるはずがない――――どんな結末へ至ったのだとしても、それが自分の意思で選んだ道の果てにあったのならばなおさら。

 

その思いが『子供』に届いたかどうか、彼女に知るすべは無かった。

 

 

--

 

 

二人の少年が戦っていた。

槍と盾を構えて対峙する、背丈も年の頃もほとんど同じ……未だ児童というべき程の小さな体つきの二人は、しかし、滾る戦意のままに切っ先を鋭く相手へと突き出す。盾がぶつかり、裂帛を上げて押し合う。蹴りで鳩尾を貫かれ膝をついた片方は、追い打とうと得物を振り上げる相手に砂を蹴り掛けた。

 

『ハッ、もうおしまい?』

 

『ッ、はあっ!!』

 

彼らは戦士となる運命を背負っていた。彼らが生まれ落ちた場所、育つべき場所の定めだ。国の礎を築いた偉大な英雄の名を冠する法に従う事に、疑いを抱いたことなど刹那として無かった、二人共。

戦士達等しく背を預け、肩を並べ、そして守るべきものの為に戦う一つの剣、盾となさしめるべく、幼き時分からかくの如き勇猛さを培うようその街で奨励された。

誰もが恐れ、誰もが従い、誰もを打ち倒す最強の戦士の姿を誰もが目指していたのだ。

 

『どうした!!かかってこい弱虫!!』

 

『っおォ!!』

 

幾つもの打ち合いが続いた。穂先に火花を散らし、怒声で以て心を激突させる。その胸中は噛み締められた歯と、つり上がる口角が物語る。

小さな戦士達は、稽古の高揚の中で確かに果てない渇望と充足を同時に得ていたのだ。

そして、それは永遠に続かない時間なのだという事を『子供』達は知っていた。

向き合う二人の脇から、出し抜けに声が掛かった。

 

『さあ――――戦いはおしまい。夕餉にしましょう』

 

彼女はそう言って微笑む。二人の『子供』は母を見上げると、疲労と歓喜、少しの未練を浮かべて我先に駆け出した。

その背を追い彼女は思いを馳せる。小さくともその身に宿る闘志は、何れも同じ年頃の男子とは比べるべくもなく燃え盛り、互いでなければ並ぶ者無しとその強さを既に知らしめつつあるという事実へと。

二人はきっと、この街から生まれた最も偉大な戦士として、その名を歴史に刻むに違いないと、そう確信していた。どんな敵も打ち倒し、留まるところを知らない栄光を手にすることだろう。

同じ血と肚で作られた身体と、何よりもこうして技を高め合う事で育まれたその絆はより固く、謀りも悪逆も寄せ付けぬ力となって二人を繋ぎ、助け続けることだろう。

どれほどの困難がひしめくか知れない、誇り高き戦士の歩む道への懸念など、芥ほども思い起こせない。

 

たとえ親馬鹿の誇大妄想とも謗られようが、彼女の思い描く『子供』達の行く末はどこまでも輝かしくあった。

 

母の存在が不要になるのは、そう遠い未来の事ではあるまいとさえ思うにつけ――――吹けば飛びそうな程の微かな寂寥を覚えるのだった。

 

 

--

 

 

「シルがぼーっとしてるニャ。珍しいニャ」

 

「昨日は結局、あの灰かぶりにフラれたみたいだからニャ~。可哀想だから、皆でいたわってあげるんだニャ……」

 

「……えぇと。まぁ、男なんて星の数ほど居」「それが、あなた達の仕事ですか」「い゙ッ」

 

声色は後ろめたい店員どもの耳に零下の感触を突っ込む。大慌てで退散する猫耳を一瞥したのちに空色の視線が身体の向きに倣う。

シルは気まずさを誤魔化す為に、乾いた笑いを漏らした。

 

「……ヘンな夢を見たの」

 

「…………私も、よく見ますよ」

 

消し去れない過去は夢の世界に楔となって深く打ち込まれ、眠りに落ちたリューの意識をしばしば引き寄せる。贖いようのない罪それ自体が、忘却されるのを拒む意思を持っているかのごとく。

視線だけ遠くへと向けるリューに、シルは首を横に振って答えた。

 

「不思議な気分になる夢。すごく懐かしいような、安らぐような、切ないような……けれども内容は思い出せない……たまに見るのよ。同じ夢なのかしら」

 

それは、あの少年を見て呼び起こされるものと、どこか似ているように思えた。打ち棄てられた身の上が同じような境遇の者を捨て置けずにさせる渇望の源泉になっているのを、彼女自身は自覚していたが――――ベル・クラネルに抱くものは、それとも少し外れたもののように思えてならない。

薄く塗られた偽りの笑みにその本心が混じるのを理解するリューは、黙りこくる事しか出来なかった。あの後、彼らを呼び止める事もしなかった自分は、遣る瀬無さに打ちひしがれる目の前の恩人にどんな力になれるというのだろうか。

 

「また、辛気臭くなってるね。小娘共」

 

ミアは、心底呆れ果てた様子だった。にべもない言葉に押し倒されそうになったシルは、思わず胸の内を露わにする表情を浮かべてしまう。

だが、図太く繊細な娘達に向けられるのは、不敵な笑みだった。

 

「終わったことばかり気にして、何の実りがあるっていうんだい。振り返って過去を変えられると思うなら、一生ベッドの中で夢見てるのが良いよ」

 

一層その苦悩を深めるよう沈痛な面持ちになるシル。

――――正しい事は、それだけで死すべき者の歩みを助ける事は出来ない。ミアはそれを知っていた。

 

「そうさ。あの乳飲み子だって、くだらない過去なんざ忘れるさ。あとは自分のしたいようにするだけ……ちんけな同情とか、正しいか間違いか、そんなもの関係なく、ね」

 

含みのある口上に、シルは顔を上げる。リューの凍り付いた瞳の奥にも、はっきりと揺れるものがあった。

 

「あんな出来損ないの身体でも、頭の中身は、あんた達と大して変わりゃしないんだよ。誰だって、自分のしたいように、学び得たものに従って、歩むべき道を決めるもんさ……」

 

長く酒場女を続ける彼女は、そうでない者と比べ多くの事を知っていた。多くの出会いがあった。繋いだ縁は多くの感情とともに記憶され、時として予期せずに蘇る事も、あるのだ。

昨晩――――裏口から去りゆく、古き知己の姿を思い出す。窓越しに朧に、それでも忘れがたく網膜に焼き付くその光。

その目は、幾多もの街灯もかき消す事のかなわない強い光を、たしかに宿していた。

それで以て今一度、ミアは悟ったのだ。

 

まだ彼女が、この店の主人となるよりも以前――――たった一人、誰からも馬鹿にされてようがそれでも戦いを止めなかったあのせむし男は、はるかな旅路を経ても決してその心根を変質させる事は無かったのだと。

 

「自由になれたんなら、あとは私等が気にするような事かい?さ、誰かさんには休んでいた分を取り戻して貰わなきゃいけないね」

 

豊かな体躯から溢れる確信の中身も、それが何に起因するものなのかも、二人の小娘の理解の及ばざるものだった。が、言語を超えた説得力を感じさせる点において、二人の認識は共通していた。

これ以上案ずることなど、何も無いと。

漸く今在る場所、するべき事を思い出した『子供』達は、仄かに、互いの最初の出会いを思い出しながら、力強く頷いた。

 

 

 

--

 

 

 

「!!!!、な!!!!、ん!!!!、だ!!!!、と!!!!、~~~~!!!!」

 

怒声は荘厳と豪奢も極まる聖堂によく轟いた。立ち並ぶ兵は耳を抑えて仰け反り、王と王子はその威容にひれ伏す如き姿を晒していた。本当はあまりの声量に膝をついて気を失う寸前なだけである。

声の元は、その表情も佇まいも微動だにしない死すべき者を睨みつけて鼻息を荒げ、均整のとれた長駆に相応しき端正な顔を隠しようのない憤激に歪めていた。

 

「報告は以上です。ラキアの偉大なる擁護者――――戦神アレスよ」

 

「待てェィ!!!!」

 

金色の短髪は掻き毟られて乱れ、顔の上半分は浮き上がる青筋に覆われている。痙攣する口元は、なお理性的な問答を行うべく尽力して唇を変な形に歪めまくっていた。

アレスは怒りの丈をその全身で表現するのを、持ちうる全ての力で抑制していた。

 

「貴様――――キサマはぁ、つまりッ、例のせむし男を連行する事も、住民一人引っ立てる事も……人質としての神を手に入れる事も出来ずっ、奴らの詭弁を呑んで、おめおめと、お、おぉぉぉお、をぉぉぉっっっっ…………!!!!」

 

「お待ちください偉大なる主神よ、法に基づき彼に全権を委ねたのはこの私、ラキア王マルティヌスであります。これ以上の下知がお有りならばそれは私が賜るもので」

 

「うガーーーーーーーーッッッッ!!!!責任などどうでもよいわっ!!!!負けたのだぞ!!!!よりにもよって、あのチビ相手に…………まんまと言いくるめられて、っっっっキサマはぁ!!!!」

 

決死の進言を図る死すべき者が誰であろうと、絶対者にとっては関係なかった。一喝とともに縋る影を退けアレスは、震える人差し指を不遜なほどに鋭い双眸へと向ける。

 

「デイモス!!!!ラケダイモン最強の戦士などと、聞いて呆れるわ!!!!こんな、ガキの使いひとつ、満足に果たせぬ…………!!!!」

 

「第一目標は、侵攻の為の下調べでしょうが。それを存分に果たしたのは覆せない事実ですよ。だいたいねぇ、何年も前の痴漢だの盗難だの落書きだのまで引っ張り出して、全部おっ被せてこんな大悪党!!匿ってる!!入れろ!!って、ラキアの馬鹿さ加減を広めるようなモンだっつの」

 

揺れる脳天を父に次いで立ち直らせたマリウスはなおも片手で頭を抑え、鼻白んだまま冷たい指摘を口にする。それはアレスにとって怒りを盛らせる糧としかならず、いよいよ広がる両腕の掌は顔とともに天を仰いだ。

 

「だぁらっしゃぁ!!!!負けたのが問題だと言っとるのだあ!!!!どうせなら、あのチビと『子供』一人でも無理矢理攫うくらいせんかぁ!!!!」「それこそ犯罪だろーが、こんボケがぁ!!」「ぬぁんだキサマさっきから!!!!誰に向かって口を利いてると」「てめえじゃなきゃ誰だっつんだよ!!バカ!!アホ!!脳筋!!チンピラ!!」「やめんかマリウス!!アレス様、どうか怒りを」「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」「王子!!」「神よ!!」

 

顔真っ赤な主従が組み合うのを王と近衛が必死に制止している。堂々と踵を返すデイモスの姿は、低次元な諍いへ何らの感傷を抱いていない事をこの上なく物語っていた。アレスは不敬なる王子を蹴り飛ばしても尚、一言も無く去ろうとする不敬なる輩への怒りを収められなかった。

 

「ああとも、キサマは来るべき戦いの布石を打つだけで満足し引き上げたわけだ、卑劣な難癖などラケダイモンにふさわしくない道具という事だろう。全く気高い奴だな!!!!」

 

唾きを飛ばすアレスへと、肩越しに向ける金眼。それは神の街から長大な路を風の如き速さで駆けて馳せ参じるにあたり、一切の緩みもなく研ぎ澄まされたままの彼の闘争心を映す鏡のようだった。

 

「だが忘れるなよアカイア人。お前達がどれ程ラキアにとって欠かせぬ力になろうとも、その精強さは我が血を賜らず手にする事は決して能わなかった事をな。キサマの冠する不退の名も、それ故に敗北し征服された烙印そのものだと、帰ったら部下共にもよく聞かせておく事だ!!!!」

 

口上の途切れると同時に今度こそデイモスは背を向け、開かれた巨大な扉の外へ消えた。言うだけ言ったように見えたアレスは未だ冷めやらぬ激情を腹腔に満たし、赤黒い顔色のまま小刻みに震えている。

斯くの如き剣呑な遣り取りには互いへの敬意や配慮などとは最も遠い場所にある光景と言えたが、王も、王子も、近衛も、ラキア全ての者にとってもごく馴染み深い顛末でしかないのだ。それに頭を痛くするのもまた、広大な国土の統治を生業とする者の常だった。

 

「あのな!こんなガキの使いを提案して!わざわざデイモス将軍を指名して!それを俺らがフォローするのにどれだけ苦労すると思ってんだてめーわ!?ラケデモニアだけじゃない、ボイオティアもアッティカもどっかの馬鹿の無茶振りで不満まみれなんだよ!!」

 

「こんなガキの使いだけならキサマ程度でも出来る事だ、乳飲み子を捕獲し懲役を科してラキアの戦力にし、あわよくば協力するファミリアを弾劾してオラリオの戦力を削ぐという一石三鳥の妙案を!!!!あの無能は~~~~!!!!」

 

仁王立ちする主に再び噛み付く『子供』は一切の忌憚も表明しない。両者の言い分はここに立つ者ならたやすく理解出来るものだ。そして死すべき者の世界では、理屈では回らない事もそれなりに存在するという現実も。

尤も、故郷への帰路につく二人にとっては塵芥に等しく懸念に値しない事象でもあった。聖堂から伸びる石畳は、彼らの歩みと同じように規則正しく並び、神の座を囲んで並ぶ彫刻とともにラキア王国の誇る建築技術を雄弁に物語る。

並んでまっすぐに歩く二人へと、王都の住民は遠巻きに視線を送っていた。決して向き合わないように、横から、後ろからだ。誰もラケダイモンの前には立たなかった。属州の民への畏怖と隔意はあまりにもあからさまであり、そしてそれは憚られるようなものと誰も思わなかった。

 

「狂犬どもが……」

 

誰かの呟きも、はじめから存在しないかのように市井に消えていく。デイモスも、それに従う全てのラケダイモンも、知っていた。

自分達よりも強き兵はラキアに存在せず、そうである以上ここで投げかけられる全ての誹りは耳を貸すに値しない戯言だと。

 

 

 

一晩寝ずにたった二人の行脚を続けたラケダイモンの歩みはまだ止まらなかった。

彼らが帰るべき場所は、ここではなかったのだから。

 

 

 

「……」

 

今並び歩いている、揺らがぬ忠誠を誓う存在がなぜあんな取るに足らない冒険者にあれ程の情けをかけたのか――――男の頭の中では、そんな疑問など消えて失くなったかのように小さく、二度と思い出すことの無い過去となって埋没していった。

 

 

 

--

 

 

 

目覚めは穏やかだった。それは何かが抜け落ちた虚無の生むものなのか、ともベルは一瞬思ったが、物言わぬ温もりはそれがまったくの見当違いであると諭すよう傍に在った。

柔らかく包まれている右手の温度は暑いくらいに感じていたが、汗に濡れる感触は全身どこにも無かった。寄り添われる事の不快さなどどうすれば呼び起こせるだろうか?すぐそこの主の寝顔はどこまでも安らかだ。降ろした黒髪は掛布とソファの隙間に流れ込むように艶やかに見えた。

自然と、ベルの口から呼び掛けの声が漏れた。

 

「神様」

 

「…………ふんぁ?」

 

口端から涎を垂らしつつ、大きな寝ぼけ眼がゆっくりと瞬く。かつてヘファイストスがうんざりするほど見た光景、或いは行った遣り取りであるが、ベルの双眸には限りない慈愛の顕現のようにしか映らなかった……。

ともかく覚醒していく意識と思考が、視界にあるものの意味をゆっくりとヘスティアに理解させていった。真顔、いや、なんだかすごく優しい微笑みを浮かべた『子供』が居る。キラキラ光ってる。なんだこのイケメンは!?(注意:ヘスティアは寝起きである)だいたいここは何処だ?柔らかいぞ。ベッドの中じゃない??あれ!?そうだ確か昨晩ボクは、いや、これはっ、違うんだ!!

 

「あっ!あっあっ!駄目だぁまだ速いぞぉこんなのはぁっっ!!!!」「うわわっ!!」

 

完全に無防備な精神状態が彼女に重篤な混乱を引き起こした結果、起き上がった勢いで『子供』をソファから落としてしまった。ヘスティアが一世一代の大チャンスを逃した事を知るには、それからほんの僅かな時間しか要さなかった。

 

「すみません神様……ヘンな起こし方をしたせいで」

 

「いや違う、違うんだ……ちょっと驚いただけなんだよ!大体潜り込んだのはボクのほうで……くそっ、なんて勿体無い……」

 

主の呟く意味の取れぬ言葉についてベルは理解出来なかったが、それを除けば昨日までの切羽詰まりきった雰囲気が嘘のような緩やかな朝餐の時間が流れていった。

眠りの安らぎが自分に諦観を与えたのかもしれないと、準備をするベルは朧げに思った。ひとつの戦いは終わった。自分が終わらせた、どんな形であれ……。

ならば、また別の戦いに挑む日々が始まるだけだという至極当然の理屈に、己の心身は従っているのだろうかと。

 

それを止めさせない理由を忘れる事は何があろうとも許されないとだけ、ベルは理解していた。

 

「……ベル君っ、これでどうにか、また始められる場所に戻ってこれた……とボクは思ってるんだけども」

 

出し抜けに主は、引き締まった表情で会話を切り出した。振り向いて、ベルは肯く。続く口上を遮らない意思表示として。

大きな目を持つ幼い顔は、とてつもなく切実な話を絞り出そうと苦心して、その言葉は実に酸っぱそうに見える。

 

「いっ、言わなきゃいけない事があるんだ。すごく大事なのに……キミに隠してたことがあって」

 

「…………??、それは、一体?」

 

突如の告解の中身についてベルには見当もつかずに、目を瞬かせて眉が撓る。とても重要な話なのに違いないが……。だが、隠していたと言うからにはさもあろうかともすぐ思い至る。そして、どんな内容だろうとも、それは自分の中にある主への忠誠と信頼を疑わせるものであるはずがないとも。

面持ちは正され、もう一度ベルは頷いた。目を閉じて震えていたヘスティアは、意を決して、口を開いた――――『子供』もまた、己が恥部を全て明かした。その行いを肯定するのに、主が同じ事をせずにいられようかと!

 

 

 

「じっ、実はっ、…………ボクっ…………お店、クビになっちゃったんだよおおおお~~~~、おっ、おっ、…………」

 

「…………、ん?……??、????」

 

 

 

かつてなく深い悲嘆に満ちた声を出し、主は顔を覆って俯いていた。丸い目でそれを見やるベルの頭上に、大量の疑問符が生えて群れをなした。

それは、それで、それが、……何だっけ?と、言葉の意味の解読をしつつ反応の引き出しを必死に探る眷属の姿は、ヘスティアの危惧を大いに煽った。ばっと顔を上げて、その勢いでベルの肩に掴み掛かる。前のめりの勇気は、失望を買うかもしれない焦りが生むものだ。

 

「でっ……でも!な!大丈夫だっ、何としてももう一度雇ってもらうからさ!そうとも、あの時は色々と事情があったわけで……ボクらがやってのけた事だって知ってる筈だし、ちゃんと説明すればきっとわかってくれる!!多分、いや間違いない!!絶対だ!!」

 

汗を流し、目を盛大に泳がせ、忙しなく手振りをして弁解に腐心する醜態に威厳というものを見出だせる死すべき者は、この地上に居るだろうか。ぽかんとしたままのベルは、上体とともに激しく揺すられる脳で必死に主の言わんとする事を解そうと励む。

 

(そういえば神様に伝えてなかったな、もう全部知ってるって事……)

 

「べっ、ベル君っ!!お願いだっ、見捨てないでくれようっ!もし駄目でもっ、別のバイト先探すから!!週七でも働くから!!家事ぜんぶするからあああああ!!」

 

「まっ待、待っ、まっ、待って、落ち、着いて、ください」

 

ヘスティアは出来もしない事を叫びながら、物言わぬ少年をガクンガクンガクンと尋常ならぬ周波数で揺する。意識を手放す危険を感じたベルはその一歩手前で踏み止まり、細腕を掴んで制止を促した。

正面から見据える顔は、幼さの著しい美少女そのものの造形に万余の悲壮を浮かべていた。それが呼び起こすのは、少しの罪悪感も一瞬で覆ってしまう、相手を思う故の慈悲と、そして――――

 

「大丈夫ですよ。神様の言う通り、元通りに雇ってくれるはずです。それに、僕は……」

 

言葉が途切れる。

こんなことも伝えていなかったのだと、愚昧さへの自嘲を湧き上がらせた。かくも些細な機微も感じ取るヘスティアは息を呑んで、『子供』の二の句を待った。

そしてベルは、言った。

 

「僕だって……神様を見捨てたりなんか、しません。絶対に、何があっても」

 

――――孤独への恐怖。さもなくば麗しい博愛なのだとしても、その言葉を紡がせるものの正体が主従において全く同じものである事に違いはなかった。

己の真実の姿などわからない死すべき者の言葉は、それでも女神の心に広がる不安の海へ落ちて輝き、無明の幽冥を果てまで照らしていく力が確かにあった。

 

「うん……ありがとう、ベル君。取り乱してごめん。……ああ、そうさ。この固い絆があれば、どんな困難も打ち砕けるって証明したばっかりなんだ。何も気に病む必要なんか無かったなっ!!はっはっは!!」

 

もっと気にしなさいよとかつてその身を預かっていた女神ならば言うだろうが、今という時のこの場所においてそぐわない言葉だとも既に彼女は知っているのに違いなかった。未だ知れない道行く先には多くの懸念があり、そしてその足跡に多くの未練を残しているのはどの主従も同じ事と受け入れる小さな器は、確かにヘスティアの中で醸成されていたのだから。

調子よく高笑いする姿にベルはつられて笑みが漏れる。

 

 

胸の片隅に鎮座し続ける空虚さも、いつかこの温もりが埋めてくれるはずだと信じながら。

 

 

「じゃ……行くとしよう。時間も惜しい事だしな、ベル君も……」

 

「僕も、一緒にお願いしに行きますよ。探索は、その後でも」

 

その提案こそ、欠いてしまったものの自覚を恐れる本心のなす言動だと誰も知り得ないのだ。ヘスティアに反対する理由などあろうはずが無かった。正直ちょっと心細かった手前、一も二もなく快諾する。目を輝かせて首を縦に振る姿が、彼女の心境全てを物語るだけだ。

主もまた同じだった。

勝利それ自体だけに喜んで――――何を失ったか、何を得たか、それは取り戻せぬ過去でしかないのだと自分に言い聞かせる欺瞞に慰めを見出すのは。

掛け替えのない存在を思う者達は、振り返る事はあってもそれを思って立ち止まる事はもはや出来なかった。

 

 

それが、かれらの選んだ道だったから。

 

 

扉の先、狭い階段を登り、小さな神殿の小さな広間が、主従の視界に広がった。

 

 

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

 

 

ベルはそれを見て、言葉を忘れた。

 

 

 

--

 

 

彼は、どうして自分が海に安らぎを見出すのかを知っていた。

 

得たいものも、失うものも、帰るべき場所も、何もかもなくしてしまった彼は――――埋めようのない虚無を、その広大な褥の中で紛らわす事が出来たからだ。

 

 

どれ程の困難な戦いを征しようと、どんな敵を滅ぼそうと、それらの勝利の中にどんな救いも見出だせない無念が残るだけだった。

 

けれども永遠に続く波の音は贖えない罪を詰らず、青い深遠は取り返せない喪失も飲み込まれてしまう程に深く大きかった。

 

 

忘れる事の出来ない痛みと苦しみを癒せるのは、それだけだった。

 

 

--

 

 

 

天蓋は所々崩れ、朽ちた内壁の亀裂が走り、壊れた椅子が転がる、荒れ切った神殿の真ん中に佇むアルゴスは、伝えなければならない事があるから、そこに居た。

 

「おでは……此処に゙は、居られねえ゙。もう、お前ぇに゙力を貸す事も出来ね゙え」

 

過去と割り切ろうとした虚無は大きな影を象って主従を覆おうとする。壊れた大扉の向こうを照らす朝焼けの光に、ベルは顔を顰めた。

しかし主従はすぐにせむし男の真意を知り、暗澹とした面持ちを改めるだろう。

 

「おでは……まだ、諦め゙られねぇんだ。まだ……おでの神゙様が、皆゙が、何処かに居゙るかもしれねえ゙って思うと」

 

今やあらゆる者の意思に依らず生きられる権利を得た死すべき者は、気付いたのだった。なぜ自分がこの街に戻ってきたのかを。遥かな温もりの欠片に縋り、不当な扱いに抗うのも諦める弱さを。再び自分を受け入れてくれる誰かを求めていた弱さを。

遠い昔、目的を果たすまでは戻れないと信じて去った、かつての決心を。

 

「ふたり゙に会え゙なきゃもゔ一度、立ち上゙がろうなんて、思わ゙なかっだ」

 

ただ一人でも戦い続けられる戦士になるためにあがく少年と出会った。

あるかどうかもわからないものを手にする戦いに厭いなく挑む神が居た。

ただ闇を彷徨い、逃げ帰ってきても自らその深きより踏み出す事が出来なかった男にはどこまでも眩しく映る絆が、そこにあった。

 

「済まねえ゙」

 

深い慚愧があり、それ以上の未練が篭もる言葉だ。目を閉じて僅かに肩を落とすアルゴス。

だがいつの間にか忘れ去ってしまっていたものは、諦観を湛える青い瞳の中に落ちて眩しく煌めき続けている。その衝動を抑える事は彼には出来なかったのだ。

 

 

たとえそれが、忠を誓った存在への裏切りなのだとしても、彼の選んだ道は、まだ途切れていなかった。

彼がはじめた戦いは、終わってなどいないのだ。

 

 

「良いんだ」

 

一語で全ての心境を語ったベルは、胸に満ちる虚無に愛しさを感じた。自分が何を得たのかわからない、ただ無駄な時間と労力だけを費やしたのかもしれない戦いの結果に、後悔など無かった。

ヘスティアは、涙を堪えながら、口を開いた。

 

「ッ、っだ、大丈夫さっ。必゙ずっ、会え゙るよ。あ゙の゙娘だっでっ、キミ゙の事、世界゙中っ探しでるに゙、決ま゙っでるっ!」

 

押しとどめられない感情の奔流を頬に伝わせているのは、彼女の『子供』も同じだった。しかし、その顔には確かな得心に基づく笑みがあった。

クジャクの羽根のエンブレムが遠ざかるのを見つめ、ベルは少しの間だけそこに佇んでいた。

 

 

 

ひとつの戦いは、そうして終わった。

死すべき者の道は一度だけ交わり、そして遠くを目指して分かたれていった。

それぞれの歩みを止めずに生き続けるかれらの心に、確かなものを残して。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

歪な顔、異様な巨躯を持つ、神に棄てられた男は、何の憂いも見出だせない足取りで去っていった。

 

泣き濡れ汚れた顔の少年と、同じように酷い顔をした小さな女神がそこに居た。

 

壊れた大扉から出て来るかれらの浮かべる笑顔は、神殿をほど離れて見守る少女に全てを理解させる。

 

フードの下の顔に、どんな感情が浮かんでいるのか――――太陽の光の届かない路地裏の影に逃げ込むそれを、誰の目が見通せようか?

 

どうして。

 

どうして、あなたは?

 

――――どうして、私は……。

 

リリはまるで自分が世界で一番惨めな生き物であるかのように思えてならなかった。

 

 

--

 

 

 

 

罪人は知っていた。

 

 

何かを得なければ、何も失う事もない事を。

 

 

その時はどんな形であれ、死すべき者に必ず訪れるのだという事を。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

草原を吹き抜ける風とともに、そのひとは帰ってくる。いつでもそうだった。

幼い自分はその影を見つけた瞬間、他の何もかもを忘れて駆け出す。

馬から降りたそのひとは、こちらを見て仄かに微笑んだ。

 

誰もが言った。そのひとは何者よりも強いのだと。

 

誰もが言った。そのひとは何者も恐れないのだと。

 

誰もが言った。そのひとは何者にも讃えられるのだと。

 

けれども幼い自分は、そんな事を聞かされても、ちっとも理解出来なかった。

そのひとの大きな優しさだけが、自分の知る、大好きなそのひとの全てだったのだ。

飛びついた小さな身体を受け止めた太い腕が持ち上がる。それだけで、世界の誰よりも幸せな気分を夢見る事が出来た。胸の奥から溢れ出す感情で破顔するのを、決して抑える事も無かった。

そんな自分を見つめるそのひとの顔も綻ぶのが、たまらなく嬉しかった。

そのまま広く頑丈な肩に乗せられ、そのひとの力強い歩みを一緒に感じながら、幼い自分はその場所へと向かう。

小さな自分には広すぎて、今自分の居る場所からはとても小さく見える、その場所へ。

扉の前に立つそのひとは、幼い自分を乗せる彼の姿に、にっこりと笑った。それは、幼い自分が世界で一番好きなものだった。幼い自分は、世界で一番好きなものが幾つもあった。

幼い自分を肩から降ろした彼は、彼女と向き合った。

 

『お帰りなさい』

 

『……長く、帰れなかった。すまなかった』

 

二言、三言だけことばを交わして、ふたりは互いを抱き締める。いつでもそうだった。

幼い自分は、不思議に思う。ふたりは幼い自分に見せる、花開くような笑顔で見つめ合う事は決してしない。それなのに、ふたりはきっと、世界の誰よりも幸せな気分を夢見ているのだろうとわかるのだ。

短い抱擁が終わると、彼女は少し気恥ずかしそうに頬を赤くして、幼い自分に向き直る。扉を開いて、中へ入るよう促す。断る理由など、まるで思いつかない。幼い自分は、これから待つ団欒、至福の時を知っているから、我先にとそこへ足を踏み出すのだ。

話したいことはいくらでもあった。一番は、そうだ、前に帰ってきた時に作ってもらった、あの――――

 

『――――?』

 

すう、と、空気が変質した。穏やかな陽気、爽やかに吹く風、楽しそうな鳥の声……同じなのに、違う。自分は今、何処に居るのだろう?何処へ行こうとしたのだろう?

足を降ろして振り向くと、そこには大きな背中があった。大好きなそのひとの、大きな背中。

それは、どうしようもなく遠くに見えた。周囲を見渡す。広がる草原。もうひとりの大好きなひとは、何処にも居ない……。

迫り上がる危惧が身体を突き動かす。

呼び掛ける。

止めなくては。

そう思っても、どうしてか、足がへたり込んだまま動かない。

幼い自分は、理由もわからず必死に手を伸ばした。しかし、そのひとは重い足取りのまま、少しずつ遠ざかっていく。

聞こえないのだろうか。もっと、大きな声で叫ぶ。

行かないで。

お願い。

一人にしないで。

抑えがたい寂しさと悲しみが、両目から溢れ出る。枯れそうになる声を絞り出して何度も呼ぶ。喉の痛みなど、意に介さない。それよりもずっと、ずっと胸が痛かった。

何者にも阻まれないそのひとの歩みの先には、天高くそびえる大きな影があった。まばゆい光を背負い判然としない大きな、とても大きな何か……。

そのひとはそこへ行って、何をするのだろう。そのひとはなぜ、そこへ行かなければならないのだろう?

幼い自分には何もわからない。何もわからない恐怖が、その声を上げさせる。

いや、一つだけ理解していることがあった。

 

 

 

もう、二度と、大好きなそのひとには、会えないのだと。

 

 

 

美しく、穢れを知らない草花達に囲まれてうずくまり、ただ泣き伏せる事しかできない自分がそこに居る。

弱いから。

立ち上がって、追い求める事も出来ないほどに。

 

 

 

 

 

『どうして、嫌――――私も、連れて行って、お父さん――――』

 

 

 

 

 

その言葉は決して、そのひとには届かなかった。

 

 

 

--

 

 

 

黄昏の館の一室で、アイズは目を覚ました。窓から差し込む陽は高い。普段よりも、深く長い眠りだった。

頬にある冷たい感触に、手を添える。

 

「…………」

 

指を濡らすもの――――拭い去る事の出来ない、深い悲しみ――――がどうして生まれるのか、アイズにはわからなかった。

 

 

 

 

遥かな忘却の彼方に過ぎ去った夢の内容を思い出すことも、決して叶わなかった。

 

 

 

 

 

 







・姉君
GOWでは初代だけのチョイ役(コミック版でも本当にチョイ役で出てるけど)。設定画では女ケンタウロスである。

・鬼ババア
原典ギリシャ神話では、浮気相手の子供というわけでアポロンもディオニュソスも壮絶な目に遭わされた同士。でもヘルメスは可愛がられている。理由は略

・一人で戦うこと
原作ベル君は11巻の時点で14歳。スパルタ男子が一人で放浪の試練に挑むのは13歳。
……コミック版GOWで描かれる少年クレイトスのシーンはどう見てもあの映画です、本当に

・勝つことで得るもの
スパルタの名が世界に轟く。

・デイモス
本当はephialtesって二つ名の予定だったけどそこまでひねくれてもしょうがないのでやめました。

・副官君
名前無いんだよラストスパルタン君。きっとこれからも名無しの副官君のままだろう。

・ラケデモニア、ボイオティア、アッティカ
それぞれリアルで言う所のドーリア人、アイオリス人、イオニア人の支配地域(語弊あり)。
勿論ダンまちにこんな設定など無い。全部捏造だ。

・なんだこのイケメンは!?
ベル君はイケメンだ。
クレイトスだってイケメンだ。
何か間違っているだろうか。



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