眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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ダラダラ。




エイナまじおこ

メインストリートのそこかしこに小さな水溜りがあった。昨晩の雨の痕だった。

 

(視線を感じる……)

 

ベルは、少々の睡眠不足を感じながら、仕える神と朝食を共にして、それから街へ繰り出した。立ち並ぶ商店は目覚め始めたばかりでもぽつぽつと人影があるが、夜の賑わいに比べればおそろしく静粛なように思える。

だからこそ、ひとり道を歩く少年は、聴覚以外の五感を幾分鋭敏に研ぎ澄ましたのだろうか。

奇妙な居心地の悪さを、ベルは感じていた。

 

(何だろ?)

 

つい、つい、と、鳥のように顔を左右に振ると、決まってその方向に見える人と、一瞬だけ視線が合う。彼らはすぐに顔を逸らして、何でもないように開店の準備を続けるのだが。

 

(……何かおかしな所でもあるのかな)

 

ベルは、自分の身なりを改めてみる。ぱしぱしと顔を叩き、身体のそこかしこを自分でまさぐる少年の姿は、更なる珍妙さを見る者に印象付けさせるだろうと数瞬後に気付く。

 

(……いいや、気のせい、気のせい……関係無い)

 

ベルは頭を振って、迷宮へと向かう事だけを考えるようにした。浮ついた気持ちで命を賭す地に臨む脇の甘さは、今日この日から永遠に捨て去るべきなのだ。それが、昨晩の誓いの持つ意味だ。

そう思うと居ても立ってもいられず、ベルの足は自然と駆け足になっていた。

戦いの結果だけが、今の自分が主へ捧げることの出来るたった一つの栄光なのだ。時間は幾らあったって足りなかった。

天を衝く摩天楼に挑む小さな影は、一直線に走っていった。

 

 

 

--

 

 

 

 

早朝は、あまり迷宮に人影が無い。だからベルみたいな弱小ファミリアの構成員にとっては、狙い目の時間帯だ。一人の冒険者が相手にする怪物達の数は多くなるのだから、早起きする苦痛を乗り越えれば、多くの見返りが手に入るというわけである。

そしてそれは、命の危機も近くなるという事だ。

たかが半月、冒険者として入口の門から一歩踏み出しただけの存在に過ぎない少年にとって、今彼を襲っている事態を『よくあること』と受け止めるのは難しかった。

コボルトの小隊、計八匹と対面した時、殊更に自分の運が悪いのかと疑ってしまうのが、彼の想像力と経験の限界を物語っている。

 

(数を減らす、先手で!)

 

ベルの、刹那の分析は正鵠を射ている。その後の判断も。彼は戦闘態勢に移る途中の犬頭の頸部狙って、短刀で斬りかかった。

十四歳の少年が、頑強な毛皮と筋肉に守られたケダモノの動脈を一息で斬り裂く事が出来るのも、オラリオの神が起こす奇跡の結果と言わねばならないだろう。

 

(まだ!)

 

息を吐かず、そのまま、跳躍するように一歩踏み出したベルは、もう一匹のコボルトの首根っこを引っ掴んで、息を吐いた。そして、吸い、止める。

 

「っああ!」

 

文字通りの力づくで、ベルは、コボルトを床に伏せさせた。下顎を打った衝撃に一瞬、昏倒したコボルトは、自らを組み伏せた狩人の牙が心臓を貫く感触を知らないまま、息の根を絶やした。

 

(六匹……やばい)

 

事切れたコボルトを足蹴にして、取り巻く状況の変化を理解するベル。浅層の通路は広く、戦力の多さが戦闘の有利不利に直結する。たった一人で迷宮に挑む冒険者にとって嬉しくない建築構造だ。

コボルト達は喉笛からくぐもった嫌な音を漏らした。ゾロゾロと、影がベルを取り囲もうとうごめいていた。

不意打ち気味に頭数を減らすことが出来た戦果に満足して、一度退くべきだろうか、と思う。

 

(いや……)

 

逆の発想がベルの頭の中に湧く。まだ六匹『だけ』だ、と。ここで退いても、彼らはベルを容易く逃すようにはしないだろう。なんとか有利な状況を作り出す前に、別の敵と遭遇した時が、今の決断の誤りを後悔する時だ。

コボルトの背から短刀を引き抜いて、ベルは身構える。

ここで全て仕留めるのを苦と思わない戦い方を身に着ける機は、まさに今与えられているのではないか、と、ベルは思った。

脇を締め、腰を落とすと、コボルト達へ向ける眼差しは自然と険しくなっていく。

 

(斃す!)

 

そうベルが思うのと、コボルト達が唸り声を上げて飛び掛ってくるのは全く同時だった。

爪を振り上げ、牙を剥く獣人のシルエットを視界の中におさめるベルは、最初の一手を既に決めていた。

 

(こいつだ)

 

そいつは両腕を大きく広げて、ベルと同じ目線の高さに居た。距離は、跳べば二歩少し前の所で、両隣の奴よりも、影半分ほど後ろに居た。

ベルは、床を思い切り蹴った。

 

「っだっ、あ!」

 

彼を遮るものが無ければきっと、そのまま床に顔面を強打していただろうほどにつんのめった姿勢で、ベルは一匹のコボルトの腹に組み付いた。周りの連中による一切の横槍も許さずそれを成し遂げられたのは、日々鍛えた敏捷性の産物だ。

高速度による、自らの質量の衝突でコボルトのはらわたを揺らしたベルは、その勢いを殺さず、コボルトの身体を宙に浮かしたまま、迷宮の壁面向かって突進した!

 

「ああああーーーーっ!!」

 

肩と足の筋肉がはち切れそうに膨れ上がって、一歩踏み出す毎に全身に荷物の重量がのしかかり、激しく暴れられて視界が揺れる。

これほどの重量物を肩に担いでの全力疾走は、彼の人生でもかつてない経験だが、少なくとも歩くだけなら祖父との暮らしの中では日常茶飯事だった。薪や農具を背負って歩きづめさせられた過去に、初めてベルは感謝した。

ともかく、その走馬灯を一瞬で掻き消したベルは、いざ壁面が迫るのを認めると、更に上体を前方へ倒した。そう、担いだそれの脳天が、ちょうど壁面に叩きつけられるタイミングを見計らって。

 

「でああっ!」

 

ごがっ、と音がして、コボルトの身体から力が抜けたのをベルは感じ取った。虚脱した獣臭い塊からすぐに離れて振り向き、短刀を構える。その切っ先は、ベルの足跡を追いすがって来た一匹へと差し向けられている。

迫る毛むくじゃらの手の中の、煌めく爪が軌跡を描いているのが見えた。

 

「んっ!」

 

左手の手甲で裏拳気味に、その爪を打ち据えて斬撃を逸らした。硬く頑丈な籠手は、短刀使いにとって器用さを損なわせ攻撃を不利にする面もあるが、こういう箇所で余計な傷を作らせないのは利点だった。

がら空きの胴体だけがベルの目に映っていた。容赦なく、その中心を突き刺す。

 

(あと四匹)

 

ベルは串刺しにした心臓ごと屍を持ち上げて、追撃を迎え撃った。さすがに、名だたる戦士による盾を構えた突進のような致死性は持たないが、レベル1の眷属の供物にしかならないコボルトを止めるには、充分だった。

衝突に踏みとどまったベルは、コボルトがその仲間の骸で吹き飛ばされたのを直感し、即席の盾を蹴飛ばして短刀を自由にした。

 

(やっぱり、連携が下手なんだ)

 

しょせんは、浅層の住民だった。かれらは徒党を組みはしても、それ以上の戦術は持たず、距離をとった相手への追撃は各々の判断を優先するのだった。ゆえに一対一の戦いに手間取る未熟ささえ無ければ対処は可能とベルは踏んだのだ。

次の一匹の牙が迫っていた。そう、そいつは四つん這いで床を蹴って獲物に食らい付こうと試みたのだ。一匹で。

ベルは膝を突き上げて、勢い良くその鼻先にぶつけた。砕き潰す感触が伝わる。牙を届かせることが叶わずに床に倒れたコボルトを踏みつけたベルは、屠殺するようにその横っ腹を一文字に切り裂いた。

 

(まだ起き上がるなっ!)

 

事切れた仲間の身体の下敷きになっていた一匹が、その上体を起こそうとしているのをベルは見たが、迫り来る最後の二匹を迎え撃つからには、今は忘れておくしかないと思った。彼が直面している事態は、意識を分散させたまま対処できるほど容易ではなかった。

右と左。爪を振り上げた方と、爪を突き出す方。左肩で短刀を持つ手を庇いながら、右側に突っ込んだ。爪が肩と背を掠めたのを知りながら、構わずベルはコボルトに体当たりを仕掛けた。

衝撃音と一緒に、コボルトの濁った声が生まれた。よろめき、無防備になった腹に、深々と短刀が突き刺さった。

 

(これで!)

 

短刀を引きぬかれたコボルトが崩れ落ちる所まで見届けずに振り向いたベルは、ようやく起き上がってこちらを見ている一匹と、爪の先を赤く濡らしている一匹を睨みつけた。

後者はともかく、前者の及び腰は、素人冒険者のベルの目にも明らかに思えた。

 

(あとは)

 

戦意を未だに保つほうを見定め、ベルは挑みかかる。人間のものよりもだいぶ裂けた口が大きく開けられている。

 

「っああ!」

 

跳びながら目いっぱいに伸ばされたベルの右腕の先端は、宙に大きな半円を描いて、コボルトの脳天に刃を叩きつけた。頭蓋を貫く一撃で、脳幹を断ち割られたコボルトは、白目を剥いて動かなくなった。

これで、残り一匹、と思ったベルは、首を向けた先にいるそれを見て機嫌を損ねた。

 

「待て!!」

 

背を向ける獣人の姿が、燃え上がっていたベルの闘争本能を、無慈悲な狩猟本能へと変質させた。

大股でコボルトを追う。

一歩、二歩、三歩。

 

「だあっ!」

 

その背に猛然と蹴りをくれてやると、あとは何の憂いも無かった。うつ伏せになった獲物の首を掻き切る事への逡巡も、ベルの中には存在しなかった。

静寂が訪れた。

ひとり、ため息をつく。

 

(痛っ……)

 

左肩から背中にかけて、じわりと走る感覚に、いまさらベルは気付いた。戦いの昂揚が誤魔化していた肉体の救援信号は、やっと機能しはじめていた。

クロースアーマーの上からなぞられた、文字通りの引っかき傷だ。さほど深くはないだろう、と思う。背中側に近いというのは運が良かった、とも。痛覚が鈍く、筋肉が厚く重なっている箇所だ。ひとりで傷の処置をするのに多少の手間は掛かるが……。

 

(まだやれる)

 

動かない八つの骸から魔石を回収する前の雑事が出来ただけだとベルは思った。それに、この程度の傷も厭わずに戦えなければ、冒険者として話にならないだろう。痛がり屋の少年は僅かずつに、自分を変えつつあった。それが彼の意思か、別の何かに基づくものなのかどうかは定かではない。

ともかく、応急処置の道具を取り出しながら、一連のシークエンスの煩わしさに、やはり、誰かもう一人でも仲間が居てくれたなら……とベルは夢想する。

この日の彼の探索はまだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

(疲れた)

 

すでに夕刻。ベルは、昼食も、持参してきた前夜の残りで済ませて、ずっと迷宮に篭もっていた。勿論、むやみにフロアを下ることはしない。最後にちらりと第四階層へと踏み込みはしたが、きっと許容範囲だとベルは思った。

彼はもう、帰路へとついていた。第一階層の広い広い、入り口へと続く通路だ。

行き交う人の影も増えつつあった。目を引くのが、大きなカーゴを押している集団だった。あれほどの量の戦利品を持ち帰るとは、ファミリアとしての規模の差も甚だしいと痛感する。

 

「あ痛」

 

そこで、背中の傷が疼いた。

八匹のコボルトは、結局この日彼が相手にした連中でも一番数の多いパーティだったというだけで、それ未満の数で襲われた事例はいくつかあった。そうした中で、最初に受けた傷以上の消耗が無かったのは幸いと言えたが、それでもあちこちぶん殴られるし、こっちからぶつかっていく事も多かった。

少し、画一的な戦闘方法が染み付きつつあるのではないか、との危惧も彼の中にはあった。力任せにぶっ飛ばし、防具任せに受け流すというのは、それを恒常的な戦いの手段にしてしまうと、自分の身をベットにして勝利をもぎ取るような、安易な博打頼みの愚か者にばかり近づいていくような……。

 

(もう少しスマートにやりたいけど……なんでこうだったんだか、今日は……)

 

自分の身は自分ひとりだけのものではないと思い知った筈が、昨日の今日でこうも……と、ベルは、自分の鶏頭ぶりに頭を抱えたくなった。それも、迷宮の出口に差し掛かろうとする今、脳が戦いの熱から冷めてきている証とも言える。

そう、妙に、そういう戦いを優先的に選択していたように思えた。複数相手でも、退却を真っ先に除外して、考えるのはまず『どいつを一番先に潰すか』だ。そりゃ確かに、時間が惜しいという思いを忘れているわけではないが……。

身体中そこかしこ生傷と痣だらけだろう自分の姿を見て、あの女神は何と言うやら。ひょっとして、本当に見限られてしまうかもしれない、という恐ろしい未来図まで、ベルの頭に思い浮かぶ。

 

(でも、収穫はあったし)

 

仄暗い先行きをかき消そうと、ベルはバックパックを背負い直す。なかなか、幸福感を呼び起こす重量だった。魔石だけでなく、怪物達の身体の欠片もいくつか手に入った。魔石に比べて、評価額が高く、回収する際の優先順位は高い。

これほどの成果は初めてだとベルは思う。ゆえに多少、身を削った甲斐はあった筈だと、みずからに言い聞かせる。それが第三者への言い訳として通じるかはわからないが。

少し眉間に皺を寄せて歩く少年は、ふと顔を上げた。

 

「……?」

 

前を歩く同業者のパーティが、こちらを肩越しに眺めながら歩いている。しかし、バチリと視線がかち合った瞬間に、かれらはふい、と前を向いてしまった。その先には、地上へ続く螺旋階段があった。

 

(……朝と同じ感じが?)

 

既視感はすぐに浮かんできた。そう、探索が終わって散漫な気持ちで歩いていたから気付かなかっただけなのだろう。ひょっとしたらすれ違った者達も、同じように、こちらに顔を向けていたのかもしれない。

 

(何なんだよ……)

 

いい気はしない。そんなに、一人で迷宮に殴りこむのが珍しいかよ……と、ベルは心のなかで毒づいた。彼のファミリアの構成員は一人だけだが、なにも同じファミリアでなければパーティを組めないなんて話は無い。自分が一人でやってるのが多少なりとも奇異の目を集める事であるのは認識してはいるが、それでもここまで無遠慮に、赤の他人達に観察されては不機嫌にもなる。

とはいっても、日の暮れた往来のど真ん中で泥酔する酔っぱらいのように、見てんじゃねぇよ!と暴れる事もベルはしない。

 

(無視!)

 

意思を明らかにしたまま、ベルは巨大な螺旋階段を昇り切った。大穴の周囲には、同じように探索を終えた人々がたむろしている。ここまで人が多ければ、たくさんの言葉や視線が飛び交い、今までベルを不快にさせていた居心地の悪さもどんどんと薄らいでいくので、気が楽になる。当然、迷宮の住民達の手も、もはや届かない場所だ。

ようやっと、緊張の糸を緩めるベル。身体が重く感じたが、胸の中は軽かった。

 

(どれくらいになるかなあ……)

 

多少の打ち身と切り傷も、見返りを得られたのならば大した懸念でも無かったなと思える現金さが少年にはあった。昨晩の彼が居たら、何を調子に乗っているのだ……と苦言を呈したかもしれない。

だが今、彼の身の上を知り、それでいて彼にわざわざ忠告をくれる親切心のある者もここには居らず……。

 

「あっ」

 

「あっ」

 

しかし、ベルは出会った。まさにその人物に。

何やら職員と真剣な面持ちで話をしていたエイナの身体の向きは、ちょうど大穴から出て来たベルと向かい合うようになっており、二人の視線は正面からぶつかりあった。

瞬時に彼女は、その端正な顔の、一瞬だけ丸くなっていた目を釣り上がらせた。発せられた怒気によって、周囲の空気が歪んだようにベルは錯覚した。彼の足は、自然と後ずさった。この日の探索で、いかなる相手を前にしても、一度たりとも行わなかった動作だ。

ベルは、祖父の言葉を唐突に思い出した。

 

『一番怖いもの?……美人が怒った顔だ。美人が怒るとな……本当に怖い顔になるぞ』

 

エイナの顔はものすごく怖かった。

 

「ベル君!!!!」

 

怒声は広場のあまねく人々の耳を貫いた。一番驚いたのは、彼女と怪物祭の打ち合わせをしていた不幸な職員だろう。その剣幕に突き倒されそうによろめいていた。

ベルはと言えば、巨大な杭を打ち込まれたようにその佇まいを縛り付けられ、直立不動になったまま、ドカドカと大股歩きでこちらへ歩いてくるハーフエルフの顔を見ていた。彼の顔色は真っ白だった。半開きになった口は、歯の根を震わせていて、顔中から汗が浮き出ていた。

ベルの前に立ったエイナは腕を組み、小さく縮こまる少年を見下ろした。

眼鏡の奥の緑色の眼光がレンズを覆い、彼女の目元を隠した。

 

「元気そうで……何よりだね?」

 

「はぃ……」

 

あまりの恐ろしさにベルは顔を俯かせてしまったので、脳天に投げかけられる声音の優しさには殊更に背筋が凍りついた。彼の知る叱責とは、祖父による轟雷のような一喝だけだ。未知の領域とは、時として自分の意志と無関係に現れ全てを飲み込んでしまうものなのだとベルは理解した。そして、それに直面した時、人に出来るのは、ただ怯え、災厄が去るのを神に祈る事だけなのだとも。

 

「聞いたよ?……一昨日は、第五階層まで踏破したって……一人で……まだ、冒険者になって、たった半月の!十四歳の少年が。凄ーいじゃない!」

 

「ぁぅ……」

 

弾んだ口調で語る内容は少年の偉業を賞賛していた。しかしそれを聞かされる当人も、耳を欹てる通行人たちも、彼女が心の底からの喜びとともに言葉を紡いでいるはずがないという解釈で一致していた。寸分違わず。

 

「しかも!しかも!そこに迷い込んできたミノタウロス!第十七階層から逃げてきたっていう怪物を前にして……戦いを挑んだ、って!なんて勇気に満ち溢れた、前途有望な冒険者で……冒険者で……ぇぇぇ……」

 

言葉尻を震わせ、エイナの台詞が途切れる。ベルの視界には、エイナの胴体から下の部分しか映っていないが……彼女の携える資料がものすごい握力でぐちゃりと歪んでいる事は確認出来た。

 

(ああ、何だか大事そうな話してたのに、大丈夫かなあ)

 

ベルは現実逃避をした。許容量を超えたストレスへの対処法は彼の精神状態をある程度快方へと向かわせ、恐る恐る顔を上げる程度の勇気を生み出させた。

何だって、そんな事をしたのか、ベル本人にだってわからない。ひょっとしたら、そんなに怒ってないんじゃないか?という希望に縋ったのかもしれない。

面を上げたベルの視界に、馴染みの、ちょっと憧れの、ハーフエルフのお姉さんの顔があった。

ものすごく怖かった。

 

「こ、ン、の、おバカああああああああああああああああ!!!!」

 

「ひいぃ」

 

バベルの地下一階で起こった噴火の音響は、かつて偉大な芸術家によって彩られた天井の緻密な絵画を揺らした。そんな大声を目の前で直撃したベルの意識が消し飛ばなかったのは、祖父の叱責を経験していたからだろう。しかし、その事がこの場で幸運であったとは、決して言えない。

 

「君はあ!冒険者があ!!冒険しちゃあ!いけないってえ!私の言葉をお!全ッ然!!分かって!!なかったみたいねっっ!?!?」

 

「……!……!」

 

エイナは、ベルのド頭を片手で掴み、ギリギリと絞め上げていた。そこには、数々の冒険者達の密かな憧れの的となっている、麗しい受付嬢の姿は無かった。ベルは声を上げることもかなわず、両手をエイナの指に添えたまま、ぷるぷると震わせた。彼女の手のひらを、全く動かせないのである。

 

(や、夜叉)

 

既に腰を抜かしていた不幸な職員は、迷宮でもその存在定かならぬ伝説の怪物の名を思い出した。怒り狂える、人の形をした人ならぬ魔性、一対の角を生やし、人の肉を喰らう恐るべき精霊……冒険者の中には、その力を借りるために、貌を象る面を被る者も居るという。

その鋭い眼光を前にしたら、一山いくらの木っ端冒険者など我先に退散するだろう……或いは迷宮の住民達さえも。大口を開いて激しくベルを責め立てるエイナの犬歯は、今にも哀れな少年を供物として屠らんばかりに煌めいていた。

この話が終わったら食事にでも誘えたらいいなあ……なんて、へたり込む前の彼が抱いていた淡い思いは、既に霧散している。

 

『ベル……美人を怒らすんじゃないぞ。美人を怒らすと……マジでろくな事が無いからな』

 

ベルの圧迫された脳血管が、彼の意識を薄らがせ、今となっては何の実にもならない遠い教訓を蘇らせている。この日かつてない成果を得て、少しの自信も同時に手に入れた少年冒険者の命脈はまさに今、尽き果てようとしていた。

ベルの両腕がだらりと垂れ下がった。遠巻きに見守っていた人々は、若い同業者の冥福を祈った。

 

「ベ、ル、君っ!?聞、い、て、る、のっっ!?人の、話は!き、ち、ん、とおおぉ!!」

 

「ハイ!ハイハイ!そこまで、そこまでー!エイナ、はい落ち着くー!どうどう」

 

ベルに意識が残っていれば、同僚の制止を成し遂げたミィシャを救いの御手とその目に映し、或いはそのヒューマンの受付嬢に一目惚れしていたのかもしれないが、我に返ったエイナが手を離したのと同時にベルの身体は垂直に崩れ落ちた。

 

「はっ……わ、ベ、ベル君っ?」

 

「あハイハイハイ。もー、こっちはこっちでやっとくから、そっちはそっちできちんとやっとかないとでしょ?ほら、書類グッチャグチャだよ……エイナ、握力すごいわね……」

 

白目を剥いているベルを介抱しながら、ミィシャはエイナの手元を見て少し引いた。正気に戻ったエイナは、己のあまりの醜態に気づき、顔を覆った。彼女を包んでいたドス黒い陰影はあっという間に消え去り、恥ずかしさに身悶えるハーフエルフが後に残った。

広場の喧騒を完全に支配していた超越者はもう居ない。見物していた人々は、怒声が生まれる前に続けていた作業や会話に戻る事にした。尤も、かれらの記憶までは元通りにならないのだろうが。

そういう事も理解していたエイナは、先程までの少年冒険者よりもずっと小さく縮こまって、頭を抱えて嘆くのだった。

 

「あああ……わ、私は何を……」

 

(この子も大変ねえー)

 

ミィシャがその感想を向ける少年が目覚めるのには、エイナが平静を取り戻し、打ち合わせの場所を別に移すのを待つくらいの時間が掛かった。それは、大した猶予でもなかった。

エイナは最後まで、目を回したベルに、心配そうな、申し訳無さそうな視線を向けていたのだった。

 

「よほど、可愛いのねえ」

 

クールに見えた同僚の意外な一面を知り、ほくそ笑むミィシャだった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

「まあ、あれでスッキリしたでしょ。大体、生きて帰って来て、今だってピンピンしてるんだから、ウダウダ言うない!ってなもんよね」

 

「で、でも」

 

「積もる話は、怪物祭が終わってからすればいいのよ。時間が経てば、大抵の事なんてどうでもよくなるって」

 

「はぁ……」

 

意識を取り戻したベルは目の前に居たミィシャの自己紹介を受けた後、まず姿を消していたエイナへの謝罪を(恐々した様子で)申し出たが、即却下され、一緒に換金所へと向かっていた。

ベルは、少し浮かれていた数刻前の様子はもはや無く、足取りもとぼとぼと重たげだった。

 

(そんな気にしなくてもね)

 

ミィシャは内心で肩をすくめた。冒険者がどう冒険しようが自己責任だ。勿論、守ってもらわなければならない規則もあるにはあるが、ベルは違反したわけではない。職員の説教なんて知ったこっちゃない立場である。

ああやって我を忘れて怒るエイナのほうがむしろ、表立った贔屓丸出しの、眉を顰められかねない側なのだ。

真面目なのだろう。どちらも。

口元を引き結んでいる少年の頬を、指で突いた。

 

「むぁっ」

 

「こんなに沢山の戦利品抱えちゃって、そーいう顔するのは、良くないんじゃな~い?」

 

エイナと違い、柔らかく愛嬌のある印象を抱かせる顔がベルの近くに寄ってきた。彼女の片方の手がバックパックをぽんぽんと叩いている。

 

「いひゃっ、あにょっ」

 

頬を赤らめて、ベルの足取りが蛇行を描く。祖父に叩き込まれた好色の思想と裏腹に、少年は極めて初心であった。

目を泳がせまくって対応に困る姿を見て、ミィシャは心の琴線を僅かにくすぐられた。

 

(おお、面白い……)

 

小動物を弄って楽しむ擁護本能か、それとも残酷さを忍ばせる嗜虐心なのか……いずれにせよ、なかなか見ないタイプの冒険者であるから、接すると湧き出る感情も違ってくる。

いかにも出来る女然としている同僚が心砕くようになる気持ちに少し共感もするミィシャだった。

そうこうしてるうちに、目的の場所に着いた。

 

「あの」

 

「んー?」

 

ひっくり返した背嚢から魔石のひと粒まで換算されていく最中、ミィシャは書類を相手に手を動かしている。内容を理解できる日が来るとはベルは思っていなかった。それよりも気になる事があった。

彼女がペンを置いたのを見計らい、ベルが口を開く。

 

「怪物祭、っていうのは一体」

 

「あ……知らないのか。迷宮から捕まえてきた愉快な連中を集めて、闘技場でワイワイやるのよ。楽しいわよ~」

 

「ゆ、愉快」

 

ギルドの職員は仕事に追われて地獄行だけどね、とミィシャは凄みを利かせて付け加えた。ベルは少し気圧されつつ、疑問を口にした。

 

「危険じゃないんですか?」

 

「それが、主催はガネーシャ様の所なのね。あれくらい大きなファミリアなら、おっかない連中相手でもボコスカと傷めつけて大人しくさせられるような人も沢山居るのよ」

 

ベルは、迷宮の入口付近に居た、カーゴを運ぶ集団の事を思い出した。あれは、捕獲された怪物達の容れ物だったのか……と理解する。

ついでに言えば、普段よりも広場に居る人の数も多かった気がするぞ、と、今更思う。

 

「そうやって上下関係を叩き込んで、飼いならしちゃう事も出来るっていうんだから、スゴイわよね」

 

「へえ!」

 

ベルは感嘆を一声で表現した。そう、ガネーシャと言えばこの都市でも最大級の勢力を持つ神だ。そんな神の眷属ともなれば、まさしく想像の埒外も極まる異能の持ち主達も集うのだろう。果たして、神の権勢も大いに栄えるのだ。このような、壮大な行事を取り仕切るほどに。

自分も、あの小さな主を、そのような存在へと押し上げる事が出来るだろうか?それは途方も無い夢のように思える。だが、成し遂げるべき目標の一つの形でもあるのだ。

平易ならざる道へと踏み込んだばかりの少年は、遥かな到達点に立つ自分と主をおぼろげに夢想した。

 

「ベル・クラネルさん?」

 

「はっ……」

 

現し世の外にあったベルの意識が、戦利品の確認をしていた職員の声で呼び戻された。見ればミィシャがくすりと笑っており、気恥ずかしさで頭のなかが塗り替えられる。

赤ら顔のまま、対応した。

 

「な、何でしょう?」

 

「お預かりしているぶんも、まとめて換金致しますか?」

 

「?」

 

かけられた言葉の意味を理解出来ずにベルは首をひねった。

 

「あぁ~、一昨日のだよ。君が運ばれてきて……診察ついでに、持ってたぶんも預かっておいたんだね」

 

「あ!そ、そういえば……すいません!お願いします!」

 

ペンを取ってクルクル回すミィシャの注釈で、ベルは合点がいった。ギルドは、救助された冒険者の所持品を一時的に保管する職務も請け負っているのだ。尤も無関係の他人に救助された際は、文字通り身一つ拾われただけでも類稀な幸運と言う他ないだろう。冒険者にとっては迷宮の住民だけでなく、同業者の屍もまた戦利品をもたらす存在なのだ。ましてや命を賭けた稼ぎ場。勝手に挑んで、勝手に負けて、勝手に死んで、名前も知らない誰かの選んだ結果など、本来知ったことではない。

気絶したベルは命だけでなく、その財産までも拾われていたのだ。並の幸運ではないことくらい、ベルにもわかっていた。

そして、当然とも言える新たな疑問が生まれた。

 

「……僕を助けてくれた人、っていうのは」

 

そう、主の逆鱗に触れたその言葉を口にする。ベルにとっての真の幸運とは、その人物に助けられた事だ。その人物でなければミノタウロスの餌になり、あの日の稼ぎは全て奪われ、大枚はたいて購入した装備品も失っていたのだ。

或いはその救い手が天界から降り立った偉大なる者達の一柱であったのならば、それと引き換えに誓約の変更を要求されてもベルに反抗など出来ないだろう。それはある意味では彼にとって最悪の予想だ。

 

「ありゃあ、知らなかったんだ?」

 

ミィシャがにやりと笑って口を開いた。「それがね」前置きして、厳かに言葉を紡ぐ。

 

「なんと、あのロキ・ファミリアの、アイズ・ヴァレンシュタイン!レベル5の冒険者にしてみれば、ミノタウロスもただの仔牛ちゃんなのかしらね~」

 

「んなっ」

 

ベルが言葉を失ったのは、必然だ。オラリオの頂点を争う片割れたるロキ・ファミリアの、その中でも一躍名を馳せる英傑たる女戦士の名を知らない冒険者など、この街に存在するのだろうか?

金砂の零れ落ちそうな長髪と、同じ色の瞳を持つ美貌は、神によってそう造られたと評されてもいる……ベルも実物を見たのは、遥か遠目に一度だけだが、その評が正しいことを知っていた。

だからこその驚愕だ。まるで住む世界の違う住人と接点を持った事実は、たやすく受け入れがたい。

唖然とした様子のベルの顔を見て、面白そうにミィシャは語る。

あのミノタウロスがロキ・ファミリアの取り逃した獲物だったこと、

アイズがそれに追いついたのは、ベルが倒されたその瞬間だったこと、

気絶したベルを本部の治療施設に運んだのはアイズだったこと……。

 

「あの『剣姫』に大事そうにおんぶされてね、しかも君のホームにまで送り届けてくれたって話」

 

「うわああっ!?」

 

「あの、お静かに」

 

ベルは、朝から感じていた視線の意味が今、わかった。名高き彼の人にそのような『親切』を受けた事は、公衆の面前での出来事だったのだ……。

衝撃の事実は、猛烈な気恥ずかしさで少年の心を支配し、彼の口から奇声を上げさせた。蹲って頭を抱えるベルに、職員が冷静に注意した。公共の場であった。

 

「羨ましいぞお、少年」

 

「あああ」

 

「……換金の方終わりましたので、ご確認ください」

 

面倒くせぇ事態に付き合う気のない職員は、横目でミィシャを睨みながら、ベルの戦果を領収書とともに差し出した。ミィシャは悪びれない様子でベルを立たせると受け取らせるものを受け取らせ、一緒に換金所から退散するのだった。

 

「そんな隅っこ歩かなくても……」

 

「ううう」

 

おんぶって何なの?いや……確かに人ひとり連れて帰るにはそれが良いってわかりますけどね。それ以外にどうするって言われても……担ぐ?いや、確かにおんぶした方が早いですよね……。

しかもわざわざホームまで……そういえば神様そんな事言ってたな。ああ、色んな人にそんな姿を見られて……ていうか、何でアイズさんがおんぶするの?いや、他の誰かがやるべき事ってわけじゃないですよね……。

 

「おおお」

 

「そんな壁に寄りかからなくても……」

 

なめくじのようにずるずると歩くベル。彼の抱いてる釈然としない気持ちは、解決の糸口の無い問題だ。アイズは正しい事をした。彼女の対応に対し辱めを受けたと思う事こそ、恥じ入るべき狭量さと言えるだろう。

それでも、高みを渇望する少年にとって己の無様さを受け入れるのはまだ抵抗があった。

 

「……弱いって、恥ずかしいですね」

 

ぽつりと口をついて出た言葉は心の底からの本音だ。ちっぽけな矜持だった。男として、冒険者として?……人間として、戦士として?

いずれにせよ、ベルの中の一番弱い部分が顕になっていた。

一瞬、きょとんとしたミィシャは、すぐにムッと口を尖らせて、ベルの頭を抱え込んだ。そして、左の拳骨でグリグリと額を絞める。

 

「うわわっ」

 

「ベル君、今の減点でーす。大減点。駄目駄目。エイナが聞いたらこんなもんじゃないよー」

 

ミィシャのお仕置きは確かに、先のエイナのそれに比べればじゃれついてるだけのようにしか見えない。だが女性に不慣れなベルに与える心理的動揺は多大であるのに違いない。事実、顔を赤くして苦しんでいた。

 

「若い冒険者さん、君はここに来て何日目なのかな」

 

「……」

 

左手首を止めたミィシャの質問の真意を汲めないベルではなかった。何故なら彼にも、そんな事はわかっていた。

でも、逸る。

強者たる事を心が渇望し、脳の理解を承服しないのだ。そのギャップが、彼を苛むものの源泉だった。

 

「高みを目指す事が悪いなんて言ってるんじゃないよ。でも、背伸びしたまま目指して、足元を掬われて、そのままオシマイなんてつまんないでしょ?」

 

黙するベルに、敢えて構わずにミィシャは続けた。

 

「全力で走るのは良いし、ちょっと限界超えてみるのもあるだろうけどさ、それも、しっかり前見て、足の裏も使って走った方が、変な癖もつかなくて、最終的に得だと思うよ」

 

人間族じゃなけりゃ、ずっと爪先立ちで走るヒトも居るかもしんないけどー、と、笑って付け加える。

首元に回されていた右腕が解かれて、ベルの両肩に手が置かれた。

 

「誰でも多かれ少なかれ、今の君の苦しみを味わうんだよ。だからどうした、って話じゃないのもわかるけどね。……もっと、肩の力抜いて、ね?」

 

高い望みを抱いたまま転んで、そのまま立ち上がれずに消えていった者達をミィシャは見てきた。または、そうやって去る事も許されずに命を散らした者達も。

だから、弱さを受け入られずに苦しむ少年を放っておけなかったのだ。

生きてさえいれば取り戻せないものなんて無いはずだとミィシャは信じたかった。うら若き乙女と言っても通すことの出来る齢でも、彼女が触れてきた人間はベルよりもずっと多かったのだ。

 

「…………ミィシャさんは」

 

口を開いてベルは後悔した。いけ図々しい、他人の過去を穿り出して自分を慰めようという、自身の下賎さを思い知る。

けれどもミィシャは怒ることもせず、変わらない、軽々しい口調で言った。

 

「私もまだまだ、新米だよ?掃いて捨てちゃいたいくらいありますとも」

 

「……」

 

「エイナと自分を比べて、あー何で私は……なんて。おっと、今の内緒ね」

 

扶持を得る場所は違えど、自分よりもずっと、『戦う』経験を重ねている者の言葉は、ベルにとって重く、貴かった。

また、己の甘さが浮き彫りになる。事実をありのまま、ただそうあるだけと許容するだけの事に苦心する弱さも……。

今すぐに、全ての我執を乗り越えるなど、ベルには出来ないだろう。それでも、ミィシャの言葉は確かな救いになっていた。

他者は、自分を映す鏡だ。ひとりで戦う時間の多かったベルは、その事もいずれ忘れ去ってしまいかねなかった。少なくとも今日、彼女と出会わなければ、今気付く事はなかったはずだ。

 

『出会いを求める事を忘れるんじゃないぞ。男なら……』

 

……祖父の言いたかった事とは、少し意味が違うのかもしれない。それでもベルは、この出会いに感謝するのだった。

勿論、ミィシャ当人に対しても。

ベルは、彼女に向き直った。

 

「ミィシャさん、ありがとうございます」

 

「どういたしまして、フフフッ」

 

片目を瞑って笑うミィシャの顔は、どこまでもベルの心を解してくれた。弱き自分を呪う忌むべき枷の存在は、消えていった。

二人は止まっていた足を再び動かしはじめ、ミィシャは受付へと戻る為にベルと別れる事になった。

 

「頑張るんだぞ、少年!」

 

「はい!」

 

手を振るミィシャの姿に応える声は、すっかり元気になっていた。

 

「命の恩人にもお礼を忘れずに、ねっ?」

 

「あっ……は、はいっ」

 

出し抜けに宿題を思い出させて、少年の反応を最後まで楽しみ、ミィシャはその場を後にした。

柄にもない事をしてしまったな、などと思うが、少しは役に立てればいいか、とも思う。やや職務を逸しているようにも……。

 

(まー、これくらい良いでしょ。あとはよろしくねエイナ)

 

粉をかけたつもりは無い。存外に思い入れが強いだろう事は、あの怒りようからも明らかだ。それに、と。

 

(私はもーちょっと、がっちりしたヒトの方が……)

 

大きく、強い男にこそ惹かれるのは、少なくともその逆より普遍的であるように彼女は思う。

 

(もっと強面なら、あの傷もワイルドな持ち味に見えるんだけどね~)

 

右目を跨る傷跡は、幼さを残す顔には凄みよりも痛ましさを先立たせるものに、彼女の目に映っていた。

いずれにしても、可愛らしく思いこそすれ、異性としての魅力を感じるには無理のある存在だと、改めて思うミィシャだった。

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

「……やっぱりアレか、扉を開いてしまったのかい、ベル君……何てことだ……」

 

「違いますっ」

 

着るものを脱ぎ去ったベルの身体を見て、ヘスティアは愕然とした様子で呟いた。あちこちに青痣作って肩甲骨の上に大きな絆創膏を貼り付けた眷属の姿が、彼女に大いなる危機感を想起させたのだった。

当然、ベルは否定する。

 

「この程度の傷くらい、珍しくもない事ですよ……多分」

 

「……にしてもだ、君が突撃する度に装備も痛めつけられるんだぞ。買い換える宛なんかあるのかな」

 

「う」

 

ヘスティアの言葉は、昨日の今日と来てこんな有り様な眷属への将来を見越した苦言もあるが、単なる過保護に基づく皮肉も混ざっている。

主の言葉の真意をベルが汲めるかはともかく、額面通りに受け取ったのだとしても反論に窮する内容だった。生物の体はある程度勝手に治るが、それを守る防具はそうもいかない。ベルが愛用しているギルドの支給品は無料ではなかったし、壊れてしまったからもう一セットください、などというものでもなかった。

 

「いやっ、その頃には、装備に頼らずとも耐えられる身体になって……いる、ハズです!」

 

「なってみせます、と言って欲しいなあ……」

 

拳を握って希望的観測を宣うベルの姿は、ヘスティアを少し悲しい気分にさせた。

眉を山なりにしならせながら、彼女は荷物の確認を続ける。

今日この日の夜、ガネーシャの主催する神々の交歓会が、バベルで行われる。オラリオの片隅の小さなファミリアの主神も、勿論出席するつもりだった。

 

「よし。じゃ、明日の朝には帰って来るから……お土産には期待してくれて構わないぞっ」

 

「はい」

 

ベルが上着を着替え終わった所で、準備完了とヘスティアが立ち上がった。ヘスティアの言葉でベルが想像するのは、一袋幾らの駄菓子が精々だが……ヘスティアの決意は違っていた。主と眷属、神と人とは、かくも隔絶した価値観を持っていたと言えるだろう。

ヘスティアは己の確たる使命を胸に抱いていた。いざ向かわん、とホームの扉を開こうとして……振り返る。

 

「……やっぱり、更新しておくかい?」

 

「一晩で変わりませんってば」

 

朝、予定を聞いたベルは、それならば今日は余計な時間を使う必要も無いだろうと、自分の力を上書きするいつもの儀式を明日へ繰り越すよう進言したのだった。

ヘスティアが難しい顔をしたのは、それだけ気を揉ませてしまっているからなのだろうとベルは推測した。

事実は、違う。

 

「…………わかった。じゃ、また明日」

 

「いってらっしゃい、神様」

 

屈託の無い笑顔で送り出され、ヘスティアは神殿の地下から出た。天蓋の穴から星の粒が覗いていた。

 

(ヘファイストスも来る筈だ……相談に乗ってくれればいいけど)

 

そう、ヘスティアが抱く心配事は確かに、ベルに刻むべき運命の形についての事だった。けれどそれは、単に彼の力を少しでも伸ばしておいてやりたい、という思いよりも、もっと重要で、そして深刻な案件だった。少なくとも、ヘスティアはそう思っていた。

自分だけで考えて判断出来ないと、彼女は素直に認めていた。それも、たった一人の眷属可愛さだ。彼の未来を大きく左右するだろう岐路の標は今、自分の手の内にあるのだ……。

ついさっきまで目の前にあった、ベルの顔を思い出す。

喜びと安堵、驚愕と悲哀。ヘスティアは彼の全てを知っていない。だから、もっと知りたいと思う。彼とこれからの時間を共に分かち合いたいし、彼の行く道に災いが待っているのならば、それを免れる為に払う労苦など惜しくないと思う。

自分の抱いている思いは神として相応しくないものなのかもしれないと薄々ならずヘスティアは理解していた。けれども、それを押し止める事も出来ないと思っていた。

 

(こういう事についても、ヘファイストスなら何て言うのかな……)

 

隻眼の知己との再会を思うと、期待と不安が入り交じってきたが、いずれにせよ、会ってみなければ話も出来ない。

どうか彼女もバベルへやって来ますようにと、女神は何ものかに祈った。

神すら抗えぬ運命を紡ぐ、何ものかに。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

ガネーシャ・ファミリアのホームに、たくさんの神々が集っていた。

そんな中、ヘスティアは鬼気迫る様子でテーブルの上の料理を持参したタッパーに詰め込んでいった。

恥だの、外聞だの、今の彼女にとっては、ゴミ同然だった。少しでも眷属に良い物を食べさせて、食費を浮かせて、台所事情を改善させて、負担を軽くしてあげたい。その確たる使命の前には、ちっぽけな矜持など何の価値も持たないのだ。

 

「もぐもぐ」

 

同時に自分の胃袋もどんどん満たす。神の身にどれほどの食い溜めが可能なのかは不明だが、今はとにかく倹約のために取れる手段の全てを惜しまなかった。

 

「なんて涙ぐましい事をしているの」

 

「んむっ」

 

ヘスティアの後ろから声を掛けたのは、まさにこの場所へ来たもう一つの目的たる存在だ。眼帯を着けた緋色の美女が、哀れみを湛えた眼をしていた。

 

「んももむ」

 

「待ってあげるから、飲み込んでから話しなさいな……」

 

ヘファイストスは、腰に手を当ててため息をついた。口いっぱいの料理を咀嚼する旧友の姿は、神というか、齧歯類的な小動物に近いように思える。

とはいえその有り様は、かつてどうしようもなく怠惰に、時の流れに身を任すだけの存在だった頃とは違い、固い意思を宿したものにも感じた。やってることは情けないが。

数十秒掛けて、ワインと一緒に固形物を飲み込んだヘスティアが、やっと口を開いた。

 

「んぐ……久しぶり、会えて良かったヘファイストス。実は、折り入って君に……」

 

「もう何もあげないし、貸さないわよ」

 

「違うよっ!」

 

会話ののっけからヘファイストスが出鼻を挫くように断言するので、ヘスティアは怒った。いきなりそれはないだろう、確かに、地上に降りて来てからしばらくは少しばかり……いやかなり……ほぼ生活全部……世話になりはしたが……と、省みるにつけ……。

 

「あ、そのう……違うんだ、今度は本当に違う!ただちょっと、相談に乗って欲しいことがあるんだよ。それだけだ」

 

「そう?それならいくらでも」

 

ばつが悪くなって来たヘスティアが必死な表情で言ってくれば、ヘファイストスもからかう気は無くなった。ファミリア運営の先達として助言を乞うているというのなら、それは彼女としてものぞむ所であった。少なくとも、底の抜けたバケツに水を注ぐような不毛さを齎していた、かつてのヘスティアの世話をする事に比べれば。

少々貧乏臭いなりにも何とかやれているらしい様子に、内心ほっとするヘファイストスだった。あの苦労も甲斐があったのなら、もはやいい思い出だった。

 

「じゃあ、この後に少し時間を……」

 

「あら、相談なら私でも力になれるんじゃないかしら」

 

ヘファイストスの後ろから現れた影を見て、ヘスティアは「はっ」と目を剥いて口上を途切れさせ、渋い顔になった。

 

「い、いやあ……そんなに大人数の知恵が必要なものじゃないから……」

 

豊満な肢体を強調する大胆なドレスを身に纏い銀色の髪を靡かせる彼女こそ、オラリオで勢力を二分する最大勢力の片割れ、その首魁に他ならない。フレイヤは星の数ほどの異性を虜にして来た笑顔をヘスティアに向けていた。美しく、心の底を決して掴ませることを出来なくさせるその笑みが、ヘスティアは苦手だった。

ヘスティアは上半身を引かせて、もごもごと歯切れの悪い返答を口にした。

 

「残念……私、あなたともっと仲良くなりたいんだけど」

 

(気持ちだけにしてほしい……)

 

フレイヤのちっとも残念そうじゃない笑顔を見て、ますます苦手意識が強まるヘスティアだった。

図らずしも二人を引き合わせたヘファイストスは、特に茶々を入れる事もしなかった。概ね、予想通りの会話だったので……。

 

「なんや、女三人集まって、コソコソと。こーいう所なんだから、もっと盛り上がらなあ」

 

「うげえ」

 

そこそこに閑静だった席をかき乱す者がやって来た。ヘスティアはロキの顔を見て、フレイヤに見せたそれよりもずっと、あからさまに、不快感を露わにした。ここで会ったが百年目の怨敵と言うべき存在……というか、実際に付き合いが始まって百年近いが、未だに打ち解ける構図の見えない相手だった。傍から見れば、弄り好きの性悪っ子が、弄られ気のある単純な少女で遊んでいるようにしか映らないのも、ある種悲劇的だった。

ロキの、常に細められた目は、フレイヤの微笑と見た目こそ違えど、本質は同じだ。腹の中を決して明かさないように貼り付いた仮面の奥で、いつも自分が楽しめそうな事象を探り回っている。そしてロキの場合、その趣味の悪さにかけてはフレイヤの好色さなど稚児の砂遊びが精々と言えるほどだ。

根っこが糞真面目なヘスティアにとっては、自分の知らない所でいくらでも楽しんで、そのまま永遠に関係を絶ったままであって欲しい存在だった。

そんな思いなど知ったことではないロキは、ニヤーッと口端を歪めた。

 

「おっと、結構な態度やないか。うちのアイズたんのおかげで、たった一人の『子供』拾われときながら……」

 

「んなっ」

 

ヘスティアは血の気が引いた。一瞬で、怨敵の言葉の意味を理解してしまったのである。愛しい眷属が大失態をかました一昨日の出来事を詳らかに知らしめられていたのは、自分だけではなかったのだ。考えてみなくても、当たり前ではないか!

言葉を失ってぱくぱくと魚のように喘ぐ顔は、ロキに深い充実感を与えた。

 

「ンッハハハハハハハ……ええ?こういう時、何て言うのが礼儀なんやろな?んー?」

 

「うぐぐぐぐ」

 

胸を張って高笑いをするロキと、小さくなって呻くヘスティア。必勝を期した先手により、勝敗は決したように思われた。毎度毎度、かくもくだらない戦いも無いとヘファイストス等は思っているが……。

しかし、いつもならロキの気が済むまで放っておく所だが、今日はあまり話を拗らせておくのを座視したくない理由がある。

 

「あー、そのへんで勘弁……」

 

「けど。そもそもの発端も、ロキの『子供』なのでしょう?」

 

場を収めようとしたヘファイストスの言葉はフレイヤに遮られた。ヘファイストスは意外に思った。フレイヤが耳聡くないとは思わないが、この二人の間に入って口を挟むのは珍しい、と。

フレイヤの言葉を聞いて、ヘスティアとロキは一瞬硬直し、それからヘスティアはくわっと目を剥いてロキに噛み付いた。

 

「そうだ……そうじゃないか!君ん所の連中が取り逃した獲物のせいで危うくベル君は……ぬゎにが礼儀だっ、プラマイゼロじゃないか。足し算引き算も出来ないなんて、胸じゃなくて脳ミソも足りてないんじゃないのかっ!?」

 

「えい、おのれん所のヘッポコ冒険者を助けてやる義理がそもそも無かったっちゅうんや!あと胸は関係あらへんわああああああ!!」

 

喚き立てるヘスティアの反撃のうち最後の一言が、ロキの理性を簡単に吹き飛ばした。怒声とともにヘスティアの頬を抓りあげて伸ばしまくる。

 

「楽しそうよね」

 

「そりゃ、見てるあんたはね……」

 

フレイヤが涼しげに笑っていて、ヘファイストスはげんなりした。結局この二人が顔を合わせると、こうなってしまうのだ。

必死で反撃しようとするヘスティアの姿を見て、少し同情し、同時に、相手にしなければこうもなるまいに、と呆れもするヘファイストスだった。

周囲の連中の注目を浴びる狂宴は、しばらく続いたのだった。

 

 

 

--

 

 

 

「あいつは嫌いだっ!」

 

「知ってるわ」

 

頬を腫らしたヘスティアは吐き捨てるように言った。神々による、極めて低次元の戦いは既に終わっていた。どちらの手に栄光が齎されたのか、それは誰にもわからない。

いずれにせよ過去の事を思い出す気はヘファイストスには無かった。ロキとフレイヤが席を離れて、旧友同士が後に残った。

 

「それで、相談っていうのは、ここじゃ出来ないような事なの?」

 

「ん、その…………うん、出来れば二人きりがいい」

 

「じゃあ、終わったらウチに来なさいよ。予定も無いし、まっすぐ帰るつもりだから……ここでやる事がまだあるんでしょう」

 

ヘスティアの持ってきた荷物の中に見えるタッパーを見ながら、ヘファイストスは言うのだった。その気遣いにヘスティアは痛み入る。

 

「ありがとうヘファイストス!じゃあ、後でっ」

 

「…………」

 

ぱっと目を輝かせたヘスティアはテーブルに向かい、果たすべき使命の為に邁進するのを再開した。非常に前向きに行動していて、それは喜ぶべき事なのだろうが、果たしてこの姿を彼女のたった一人の眷属に見せたら何と言うのだろうか……?

ヘファイストスの心配事はそれだけだった。

 

 

 

--

 

 

 

「やっぱり、『子供』の事?」

 

都市随一の高級武具を取り扱う店舗の一室で、客人を座らせたヘファイストスは、ずばり核心を突くつもりで問いかけた。それは的中しており、ヘスティアは無言で頷いた。そして、神妙な顔付きで口を開いた。

 

「……例えば、大きな力を得るのと引き換えに、何かを差し出すような……そんな運命が、その『子供』に現れたとしてさ」

 

(ああ、そういうのが、出ちゃったわけね)

 

喩え話などという体は一瞬で見抜かれていたが、一々突っ込む無粋さはヘファイストスには無い。黙って先を促した。

ヘスティアの顔は、鎮痛そうに歪んだ。

 

「…………それを……見て、それを、恐ろしいと思った神が……その運命を、『子供』に明かすのを躊躇している……その神は、全てを告げるべきなんだろうか?」

 

「……ふぅーん……」

 

ヘファイストスは、ヘスティアの苦悩について理解した。確かに、たった一人で抱えるには少し、荷が重いものだろう。ましてその問題は、最初の『子供』と出会って幾ばくもの月日も経っていないのに直面したのだ。

とは言え、ヘファイストスにとっては前代未聞の難題などではなかった。然程多くの例を経験した訳でもないし、最適の答えを知っている訳でもない。しかし、最善と思われる対応をして来たつもりだ。

 

「あなたも、聞いたことあるでしょうけど……」

 

「?」

 

ヘファイストスは、ある喩え話を持ち出すことにした。否、喩え話ではなく、ある教訓、と言うべきお伽話だった。

 

「かつて、地上の全ての生命は、運命を神に独占されていたって話……みんな、一寸先も見えない暗闇の中で生きていた。そこに何があるのか、踏み出してみなければわからない。底のない穴があったのだとしても、そうせざるを得なかった……そうしなければ、生きていけなかったのね、かれらは」

 

古いお伽話だ。ヘスティアも知っている。地上の人間達が、神が降り立つ前から語り継いでいた伝承である。それが真実なのかどうか誰も知らない。

 

「やがて神々は、それを哀れに思うようになって、……そして、地上に現れた。大いなる存在にひれ伏した者達に神々は言ったと。我らを崇め敬えば、お前達を待つ苦難と、それを退ける術を授けよう、って」

 

「ああ、知ってるよ。人間はどうやって、そんなお話を零から創ることが出来たんだろう……」

 

それは、黎明の物語とも、黄昏の物語とも呼ばれる。そう、始まりと終わりの内包されたお伽話なのだ。

ヘスティアの合いの手を受けて、ヘファイストスは続けた。

 

「そうして人間は神々に仕える事で、安息の日々を手に入れた訳だけども……かつて自分達の力だけで生きてきたかれらは、神々のしもべとなって命を繋いでいくうちにどんどん弱く、愚かになっていってしまった……」

 

ヘファイストスは連々と口ずさむ。幾度も読み返す物語だ。世界中に少しずつ形を変え語り継がれているそれを密かに読み比べるのが、彼女の小さな楽しみでもあったりするのだ。

 

「神々は知った。全てを自分以外のものに委ねる事は、生きているとは言えない、それは、ただの血と肉で出来た人形だと。――――そして、神々は地上から去る事にした。かれらが未だ、自分達の力と知恵を失っていないうちに」

 

それは、神代の終焉だった。人々は堕落の極限へと至るのを免れたという。神の慈悲によって……。

 

「かれらは深く嘆き、惑い、恐怖の虜になった。一片の光も無い、未知という暗黒が支配する世界の到来は、神の腕に抱かれていたかれらの命なんて、簡単に奪い去っていった。それでもかれらはただ、耐え忍び、命を賭す日々を送る事を選ぶしかなかった……ってね」

 

「……介入するだけして、勝手に去っていくなんて、無責任なもんだよ」

 

物語が結ばれて、ヘスティアは毒づいた。もし、自分が同じ立場なら?決して見捨てなどしないだろう。この身が朽ち果てるまで、自分に忠を捧げる者達の為に力を使うだろう。少なくとも、あの子の為なら……と、たった一人の眷属を思い出す。

ヘスティアの考えている事を察しているのか、ヘファイストスは笑った。

 

「あら、まだ終わりじゃないのよ」

 

「えっ?僕が知っているのは、そこまでで……」

 

「ほとんどの地域で失われてしまっているけど、続きがあるタイプの物も伝わっているのよ」

 

そう。

ヘファイストスがこの物語に魅入られたのは、その『続き』を知ってからだと、自分で思っていた。

けれども、どうして、そこまで魅入られてしまったのか、それは随分長い時間が経ってしまった今でも、さっぱりわからないのだった。

 

「神々が次々に、天へと帰っていく中、……一柱だけ、その神は、地上に残ることを選んだのよ。でも、他の神々はそれを許さなかった。たとえ一柱でも……いえ、一柱だけだからこそね。その神が地上の支配者になってしまいかねないから……そう考えたんでしょうね」

 

その神々の危惧は当然だった。この世ならざる超越者、唯一の存在が、地上の全ての者達の信仰を得るなど、想像を絶する絵面だ。その時その世界は、正しくその神のものになるのだろう。

ヘスティアは、初めて聞くその展開に深く興味をそそられた。

 

「そして、その神は決断したのよ。全てを見捨てて帰る事など出来ないし、地上に残る事も出来ないならば、と……自ら命を断ったの。地上の、最も天に近い場所で」

 

「神が命を断つ……!?そんな事」

 

「お伽話よ」

 

永久不変の存在が死を迎えるという、あり得ざる構図にヘスティアは戸惑ってしまった。彼女もすっかりこの物語に惹き込まれている事の証だ。ヘファイストスは上機嫌になった。自分の好きなものを共有できる存在が出来るのを嬉しく思うのは神も人間と同じだった。

はっと気付いたヘスティアは顔を少し赤くした。

 

「その時――――神の肉体から、光が解き放たれた。眩い光が……天へと昇ったように見えると、それは一気に広がって、小さな粒に分かたれて、世界中へと散らばっていった」

 

ヘファイストスは何度も想像する。その神の屍から、青白く輝く光が立ち昇る光景を。それが空を覆い、全ての命へと降り注いでいく光景を……。

 

「それが何だったのか、地上の誰もわからなかった。ただ全ての神が居なくなった事を嘆くだけだった……けれども、神々には、それが何なのかわかっていたのよ。それが、どれほどとてつもない事なのか……」

 

「……」

 

静かで、けれども確かに熱のこもった語りようだった。ヘスティアは息を呑んで聞き入っていた。長い付き合いの旧友がこれほど真剣にものを語る姿を、彼女は一度も見たことが無かった。

目を閉じているヘファイストス。彼女は瞑目するように、深く黙り込んだ。それはヘスティアにとって、その先の、この物語の結びを口にする事への敬意の形にすら思えた。

そう、ヘファイストスは、この物語が好きだった。

神の居ない時代にあって、懸命に命を繋いできた人間達の創り出した星の数ほどの物語の、ほんの一遍。

苦難の日々を送るかれらが、己の境遇を慰めるために何度も読まれただろう、他愛の無いお伽話。

地上に降り立った神々に愛された英雄達の詩が溢れる今、この物語に価値を見出す者がどれほど居るだろう?

それでもヘファイストスは惹かれて止まなかったのだ。

その一柱の神が決断するに至った、数奇な運命の軌跡を夢想するにつけ――――。

 

 

 

 

 

 

「その神が、命と引き換えに地上に残したもの。それは――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

『私達が、人間の運命全てを見通せないのは、その為なのかもしれないわね』

 

夜半、ひっそりとホームへ帰還し、ヘスティアはベッドに座ったまま夜を明かしたのだった。ヘファイストスの言葉を何度も反芻しながら……。

そして夜が明けた今、ベルと向かい合っている。旧友の薫陶を理解した彼女は、その決断をしたのだ。

全てを明らかにする事を。

ヘスティアは、自分が見た、ベルの中に眠る、未だ開かれていない運命の形……その全てを包み隠さずに、語った。

そこに一切の誤解も与えないように、自分の意思による誘導が入らないように、慎重に、そして、はっきりと。

全てを語り終えたヘスティアは、じっとベルの目を見て、再び口を開く。

 

「ベル君。……それはたぶん、他の冒険者でもよっぽど身に着ける事の出来ない、すごく珍しいものだと思う。それを手にすれば、君はもっと、ずっと強くなれるはずだ……いや、なれる。……でも」

 

「……」

 

『暗闇の中でも、その小さな光があれば、どんな災いにも立ち向かえるのだから……かれらが真に得るべきは、それだったんだって、その神は悟ったのかも』

 

ヘスティアは、その運命を恐れる。それは確かに大きな力をベルにもたらすのだろう、けれども、その先を思うとどうしようもなく不吉な予感があるのだ。それが、彼女の垣間見たベルの運命の形だった。

ヘスティアは真っ直ぐにベルの目を見つめていた。

ベルもまた、主の真剣な面持ちから、この対話の持つ重要性を理解していた。

 

「僕は……怖いんだ」

 

「…………」

 

『その神が残したものは、未だに人間の中に宿って、私達に運命を直接変えさせようと出来なくさせている……なんて』

 

ヘスティアは胸中を満たす全ての感情を明かした。それが、彼女の決断だった。頭を振り、罪を吐き出すように苦しげな表情を浮かべた。

 

「僕は、それを見て、その先にあるものを想像して、怖いと思った……そして、それを君に明かした時……僕の中の恐怖を知った君がもしも失望してしまったら……そう思ったんだ」

 

「神様」

 

ベルは、全身全霊で否定したかった。しかし、果たしてそうなった時、本当に自分は主の懸念を撥ね退けていただろうか?

何者をも寄せ付けないだろう力を齎す道を目の前に与えられ、それをただ、先に待つ『何か』が恐ろしいから、という朧げな忠告だけで選ばないなど……。

自分の中の力への渇望を薄ら寒くベルは思った。

 

「君に選んでほしい。その道を行くのかどうかを」

 

「……!」

 

ベルは息を呑んだ。

そこに、望むものがある。僅か手を伸ばせば届くのだ。

自分がそれを口にすれば、それは手に入る……。

 

(強く……なれる。今よりもずっと……)

 

主へと捧ぐ栄光はずっと輝かしくなり、この小さなファミリアへの畏怖は高まる。

やがて、志を同じくする者も現れるだろう。小さな女神の名を背負って戦う事を望む者が。

ファミリアが大きくなり、この都市を席巻する勢力の一つとなれば、そう怪物祭のような大きな催しを開く事さえも……。

 

(僕は)

 

遥かな高みは、その力を以って踏破するのは容易くなる事だろう。まさに、ベルが夢見る全てが、目の前にある道を行けば、姿を現すのだ。

先行きのわからない闇の中、ただ命を拾われたというだけでちっぽけな矜持に苛まれ一喜一憂している今の自分など、一瞬でただの過去になり、省みられる事も無くなるのだ……。

 

「っ…………卑怯と思ってくれていい。僕は……それでも、知って欲しかった。君に、僕の思いも伝えず……何も知らせずに選ばせて……それを後から、やはり話しておけば……なんて、そんなのは嫌なんだっ」

 

「………………」

 

ヘスティアは最後の葛藤を吐き出した。もう、彼女の中に伝えるべき事は残っていない。

たった半月の付き合いの、たった一人の眷属への執着が彼女に齎した苦悩が、客観的に見てどれほど重いものなのか、或いは軽いものなのか。それは、誰にもわからない。

しかしヘスティアはベルの事を、代わりの居る存在などと思っていなかったし、彼以上に心を砕かせる存在がこの先現れるなどと露ほども思わなかった。

ベルは目を伏せて、何度もヘスティアの言葉を反芻した。

 

「僕は……」

 

主の思いは確かに伝わっていた。庇護する存在が遠くへ行ってしまう事への寂しさだけではなく、心底ベルの辿る道を慮っての言葉である事が。

主への敬愛と、力への渇望が、静かに、激しくぶつかる。

 

(強く……)

 

強ければ、誰かに負ける事も無い。

遥か格上の化生相手に、無様な相打ちを遂げることも。

……家路へつくこと無く果てることを憂う必要も無くなるのだろう。

 

(けど)

 

その果てにあるものとは、何か?

ベルの中に、黒い靄のように蠢く何かが、少しずつ、大きくなっていく。それは、この都市に来て以来既に忘れ去ったと思っていたあの夢の中で、どこまでも彼を追い掛けてくる、あの、名伏しがたい恐怖だった。

すうっと頭の奥が凍り付いていき、それは脊髄を流れて少年の細い体に鎖のように絡みついた。

硬く冷たい幻覚は、五体全てを喰らい尽くそうと皮膚の下を這い回る。

塞がれた喉の奥で、出口を求める呼気がぐるぐると渦巻き、震える肌はいよいよ汗を浮き上がらせつつあった。

 

(なんで、こんなに、怖いんだ?なんで……怖い。わからない。怖い!)

 

恐怖が今、彼の魂を食い尽くそうとした瞬間、その声がベルの耳に届いた。

 

「ベル君」

 

「!」

 

視界が開けて、眼前に少女の顔が現れる。

大きな瞳は揺れていた。それが、彼女の瞳に映る自分の瞳の震えだと、ベルはすぐに気づいた。

ヘスティアは最初から真っ直ぐにベルを見つめていたのだった。

恐怖に呑まれる事無く、ただ、眷属の意思を待ち続けながら。

 

「僕は、誓うよ……君が選んだ運命は、最後まで見届ける。僕の刻んだ標だ。その先に何があっても……君が、導くのを欲するなら、どこまでも」

 

『或いは、それは災いだったのかもしれない。数歩先を照らすだけの小さな光は、無限の闇を更に濃くするだけで……』

 

ベルはいつの間にか震えが止まっていた事を知った。冷たく暗い闇の底に齎された小さな灯火は、少年の目を、思いを確かに明らかにした。それが、恐怖を退ける力となったのだ。

ベルは腰の横に添えていた拳を握り、口を開いた。

 

「神様、……僕は」

 

「ん」

 

『もし私だったら……その思いも、開かれた運命の形も何もかも、その『子供』に話すでしょうね……それほどに大事なのなら、全てを見届けたいし、選んだ道を悔やんで欲しくないって、思うもの』

 

「その道を――――行くのが、怖い、です。だから」

 

「……」

 

『私達に出来るのは、きっと』

 

「今はまだ、その道を選べません――――」

 

「…………うん」

 

『かれらが、自分の運命を切り拓くのを、見守ることだけ、なのかも』

 

今は、まだ……。

それが、ベルの決断だった。

身に余る力に縛り付けられる事に拒絶を示した事は、賢い判断だと言う者も居るだろう。けれどもそれは、恐怖に屈服した敗北宣言であると謗る者も居るだろう。

ベルは、どちらも正しいと思った。

そう、彼は、まだ、と言ったのだ……。

多くを語られずともヘスティアはその意味を分かっていた。そして、それを非難することもしなかった。

 

「……」

 

「大丈夫さ、ベル君」

 

ヘスティアは押し黙るベルの両手を握った。そして、優しく微笑みかけた。

 

「人間には、自分の運命を変えられる力があるんだ。今は恐ろしく感じるかもしれないけど……いつか、こんなつまらない事に怯えてたのか、なんて笑い飛ばせるようになれるさ」

 

「……はい」

 

旧友の受け売りではあるが、本音の言葉だった。そう、いつかは、この運命も姿を変えて、まったく別のものになってヘスティアの目に映るようになるかもしれない。

ヘスティアは、人間の運命は誰にも見通すことは出来ないし決める事も出来ないはずだと思わせる説得力を、ヘファイストスの言葉から感じていたのだ。

きっと、大丈夫だ。ヘスティアはそう思った。

目の前の眷属が、決して自分より大きな力に屈しない、困った性根の持ち主である事を知っていたのだから……。

 

「さ、朝ご飯にしようか!昨晩の戦利品があるから、たっっくさん食べて、元気つけよう!」

 

「はい……!…………な、何ですか、これ!?」

 

ヘスティアはいそいそとバッグを開けて荷物を食卓に並べていった。その光景はベルを仰天させる。見たことも無い料理の数々は……。

 

「もっちろん、交歓会の料理達さあ!まったくどいつもこいつもお喋りばっかりでちっとも口に運ばずに……折角食べられるために手折られた生命達への慈悲ってもんが足りないね、皆!」

 

「かっ、神様っ……」

 

ベルは心のなかで血の涙を流した。嗚呼、嗚呼、何て、何ていじましい、こんな事を、いくら台所事情に余裕が無いとは言え。

そう全ては己の甲斐性の無さだ……しかし、それを明かす事は出来ない。こんなにも誇らしげに、嬉しそうに自慢する主の顔を曇らせようと考えるほど、ベルは冷血ではないのだ。

涙を飲み込む顔の不自然さを誤魔化すために、ベルは料理に食らいついた。

 

「おおおっ、そ、そんなに焦らなくても……しょうがないか、やっぱりジャガ丸君ばっかりじゃ飽きちゃうし、そこにこんな高級料理出されたら……」

 

「うぐっ、うううっ、もぐもぐ」

 

ああ、旨い、なんて旨いんだ。

少ししょっぱいけど。

 

「泣くほど美味しいんだね……いいさ、僕は昨晩詰め込んできて、お腹いっぱいだよ。好きなだけ食べな」

 

かつてなく豪盛で、そして大いなる慈悲と哀しみに満ちた朝餐であった。

腹を膨らませる満足感によって、溢れる涙を誤魔化しきったベルがホームを後にしたのは、もう少し時間が経ってからの事だ。

少しは眷属のために尽力する事が出来ただろうかと、ヘスティアは喜びで胸を満たしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘスティアは、勘違いをしていた。否、気付かないふりをしていただけなのかもしれない。心の何処かで知っていながら、自分の願望に縋っただけで。

 

神は、人間の運命を変えられない。確かに、そうだ。

 

そして、人間もまた、そうなのだ。

 

定められた運命からは決して、何者も逃れる事は出来ない。例え、神をも超える力があろうとも……。

 

人間に出来る事。それは、迫り来る運命を受け入れ、そしてその結果……破滅や喪失を乗り越える事だけなのだ。

 

未知の領域を切り拓く力は、抗えない結末を垣間見せる呪いだった。

 

ヘスティアは終ぞ、その事に気付かなかった。

 

力の更新を施し、迷宮へベルを送り出した彼女の中ではいつまでも、旧友の言葉が繰り返されていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

『それは――――希望、よ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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迷宮へ向かう少年の背で、目覚めを待つ運命の刻印が、鈍く鼓動した。

 

 

 

 

すべての終焉を意味するその文字が、炉の神のシンボルを囲んで、一瞬だけ浮かんで、消えた。

 

 

 

 

それに気付いた者は、刻印の持ち主も含めて――――誰も居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【混沌の怒り(rage of chaos)】

・激しい怒りは黎明の幻影を呼び覚ますだろう。

・黎明の幻影は比類なき力をもたらすだろう。

・比類なき力はやがて逃れられぬ運命へと導くだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・連打で脱出
GOWシリーズの密かな伝統?として、「連打表示が出てるクセに連打しなくても展開が変わらないQTE」があります。伝統じゃなくて、IIとIIIだけか。

・ヘファイストス
GOWシリーズではヘファエストス。IIIに登場。シリーズ屈指の鬼畜武器ネメシスの鞭を作ってくれる。

・『子供』
「行くな!子供!」
余談。日本版GOWIIのOPでゼウスがクレイトスをぶっ刺し「他にも道はあったはずだ息子よ」と……有名な誤訳。原語版の「my son」は「小童」とか「若造」と訳すのが正解。
言うまでもなくラストでアテナが明かす衝撃の新事実(……)に引っ掛けた表現だったはずが、カプコンの大チョンボ。まあ初代のオマケ要素でバラされてますけどね……。


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