眷属の夢 -familiar vision   作:アォン

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遅い。長い。くどい。反省しない。

原作に合わせて改変するのが面倒くさいのでもうオリキャラオリ設定オリ展開突っ込むけど許してや城之内





2章 -罪人
未成年者の飲酒は法律で禁止されています


 

 

月明かりに照らされる街道。そこからほど離れ、茂る叢をひとりの罪人が走っていた。

 

「ふう、ふう、ふう」

 

荒い息は、虫達の声に隠されていった。

歪な巨体の影を明らかにする事は誰にもかなわず、草を踏む彼の足は止まらなかった。

 

「はっ、はっ……」

 

汗を散らして、彼は走る。ただ一つのものを目指して。

月と星が覆う夜空を貫く、偉大なる者達の住処を望みながら。

遥かな地平線にそびえる神々の塔は、その膝元の住人の帰還など知らず、ただ静謐に、世界の全てを見下ろしていた。

 

「っ……、っ……」

 

一陣の風が草原を撫ぜる。大きな背中を隠す外套が、一瞬だけはだけた。

クジャクの羽根を模したエンブレムが、天空の輝きによって、青く煌めいていた。

 

 

 

 

 

--

 

 

 

 

 

 

神々の緊急招集が行われた。本来なら三ヶ月に一度と決まっている会合は、もう少し先だった開催予定日を前倒しにされたのだ。

ただ、今度のものは、定例通りの歓談じみた雰囲気とはいかなかったし、集った面々の数も、普段よりずっと多い。

それも、オラリオを揺るがした事象に端を発する緊急招集ゆえに。

 

「なのに、いの一番に、ここに来て説明しなきゃあかん奴が居らんのは、どーいう事や?」

 

円卓の一席にて、机に肘を立て傍若無人な様子で腰を据えるロキは、ものすごく低い声で言った。

バベルの地上三十階にある会議室には、オラリオの遍く神々でごった返してはいるが、喧騒もなく彼女の言葉は響きわたっていた。

それに応えるように立ち上がる神が、一柱。象の仮面の男神は、今日の議題における司会となる資格を得るに充分な存在である。……ロキの言うとおり、一番ではないが。

 

「ウラノスとは、私が事前に話をつけている。彼の見解もここで代理として皆に周知させていだたく」

 

「……」

 

ロキはジト目でガネーシャを見つめた。その視線は事実上ギルドの主神である欠席者への非難を意味しており、それを最も承服せざるはずの者がガキの使いじみた役割まで許容している事への軽蔑も少なからずあった。

 

(お祈りで忙しいってか、あのじじい)

 

ロキは鼻を鳴らして、背もたれに身を預けた。

不機嫌さを隠そうともしない仕草も、ガネーシャの口上を止める事はなかった。

 

「この緊急招集は、ご存知のとおり、先日の怪物祭を襲った災禍と、我がファミリアの醜態についての説明が主な目的となる。……質問が無ければ、続けさせていただくが」

 

象の鼻がゆっくりと、ホールの外周をなぞった。

返答は、無い。

無数の視線が、議題の進行を促していた。

 

「まず結論から言う。闘技場における、過去の記録に一切存在しない未知なる怪物達の出現。……ウラノスの『祈祷』ですら御せぬ、迷宮の強大な意思の顕現、が、ギルドの公式な見解だ」

 

駆け抜ける衝撃は、神々が息を呑む一瞬、空気を張り詰めさせる。直後に、戸惑いと驚愕の声が一斉にざわめき、部屋を満たした。しかし、その中には、やはり、という声も混じっていた。

かれらの不安の的中とは、予測を逸した程度のものではなかったのである。迷宮を封じてきた千年の間において、その事例は確かに存在していた。迷宮が秘める底知れぬ憎しみは、いかなる法則に基づくのかは詳らかではないが、時折、自らを封じる者達を滅ぼすべく、溢れ出すのだ。

生きとし生ける全てのものの血肉を喰らう事だけを望む怪物という貌で。

 

「が、記録に無かったって話じゃないか?その連中……と」

 

「『角の』『手刀』『擲弾兵』……。確かに、いずれも、過去いずれの冒険者達も……世界中どこにおいても、遭遇記録が無い。似たような特徴を持つ例もなく、まったくの新種、と見て間違いないとも、返答を貰っている」

 

月桂冠を着ける美青年――――アポロンは、質問を途切れさせて、手元の資料を捲る。二の句はガネーシャが継いだ。

それを聞き届けたアポロンは、もう一度、資料に目を落とした。精微なイラストと、怪物の特徴が細やかに箇条書きで記されている。

曰く、分身を操る。影に身を隠す。頭目を倒さねば無限に現れる。最低でもレベル3相当。……レベル5の剣を、容易に退ける。

直接刃を交えた者達の貴重な証言に基づくデータだった。

アポロンと仕草を同じくしていた神々は、驚き半分、疑念半分の態度を表して、真偽の是非を各々問うわ、語るわ。百家争鳴と言うには、論客は野次馬根性が過ぎた。

 

「加えて、これほどの量、これほどの強さの連中がというのはね。いかにも何らかの……」

 

「あー!問題は!」

 

周囲を代表して更にアポロンが好奇心を満たそうとするのを、ロキは黙って待ってはいられなかった。

両手を卓に振り下ろし、やいのやいのと勝手な憶測で盛り上がろうとするその他大勢の目を集める。

 

「これからどーする、っちゅう事と違うか?何故いま、どうやって、誰が。ここでワアワアやってわかるような話かって?」

 

まこと、その通りである。彼女が睨む先に、視線がまた集まる。

腕を組んでいたガネーシャが厳かに口を開いた。

 

「当分、街全体への注意喚起と情報収集につとめる、との事だ。諸ファミリアの助力も大いに期待すると」

 

「はあー」

 

ロキがぐったりと上体を突っ伏させた。わかりきった、くそ面白くもない対応だった。そんな彼女に他の面々も同調し、幾つものため息が重なった。結局、オラリオの人間どもを恐れさせる前代未聞の事件も、天界の住民にとっては、退屈しのぎの他人事なのだ。堅実な対応よりも、突飛な推論を期待する者が多数だった。

……その態度を最初に顕にしたロキに関して言えば、意見は、異なる。

 

(気に食わん……)

 

迷宮の意思。なるほど、疑いようのない理屈だ。しかし、何かが引っかかっていた。天性のトリックスターであるがゆえの感覚が察知したのだろうか。

自分達……神々の絶対性など気にも掛けずに、平然と揺るがし、蹂躙せしめようとする、ひたすらに強大で、傲慢に満ちた何者かの意思の存在を、彼女は朧気に捉えていたのだ。

あの、とてつもない悪意と残虐さを剥き出しにしたような、未知の怪物達の姿から……。

 

「と、この件については、以上。あとは各自、ギルドに掛けあっていただきたい。……そして、次」

 

ガネーシャが頭を上げ、また一同を見渡した。一通り、その首を動かしてから、ある一点に視線を向ける。

 

「このたび我が膝元から、一匹の猛獣が逃走するのを許した件。結果、負傷者を数名出し、旧市街含む建造物を損壊させ、果て――――」

 

その目は、一柱の女神――――うつろな目をしたまま、何処かに心を置き忘れた有り様のヘスティア――――に、しっかりと、固定されていた。

 

「一人の勇気ある冒険者を、瀕死の重体に追い込んだ……この不始末。私の責任だ。すべての償いは、する。……すまなかった!」

 

高らかな謝罪とともに、ガネーシャは腰を直角に曲げた。彼の言葉の意味する所を悟れない者はこの場に居ない。祭りを脅かした大騒動は闘技場のみにとどまっていなかったが、……それに立ち向かった勇敢で、無謀な愚か者の存在は、既に神々の間に知れ渡っていた。尤も、オラリオに足を踏み入れ一月も満たないその少年の功績とは、概ね半信半疑に受け止められていた。

ともかく、注目を浴びるのは、ガネーシャの頭が向けられる先である。

未だ現世から意識を離れさせている、少女の姿をした神は……無反応、だった。

 

「ちょっと」

 

隣のヘファイストスが人差し指で、ヘスティアの顎をつついた。

 

「……ほぁ?」

 

「……」

 

まるで知性の篭っていない返答と眼差しを向けられても、黙って眉をひそめ正面を指さすヘファイストス。ヘスティアは、口を半開きにしたまま、視線を前に戻した。

 

「女神ヘスティア!!」

 

「んぉおっ!?」

 

仮面の奥の目が合った瞬間、大音量で名前を呼ばれヘスティアは身体を跳ねさせた。そして、きょろきょろと首を振る。かち合う無数の視線。戸惑いが彼女の思考を満たした。

だが、それも、すぐに収まる。ガネーシャの言葉によって。

 

「責められるべきは私だけだ。どうか、……『子供』達の事は、恨まないでやってくれ!」

 

「……!」

 

また、頭を下げるガネーシャ。ヘスティアは、一瞬で、現状を把握するのだった。蘇るのは、ベッドに寝かされた、包帯でぐるぐる巻きになった眷属の姿。今一度思い返すだけで、胸が潰れそうに痛む。だが、さすがに、この場で取り乱す分別の無さまでは持ち合わせていないのだった。

目を閉じ、俯いてから、ヘスティアはかぶりを振った。

 

「……い、いや……別に……いいさ。……君の方こそ……大切な『子供』を、亡くしたって話じゃないか。それに、比べれば……なんて事ないさ」

 

ぽつ、ぽつ、と、言葉を紡ぐヘスティア。それが、彼女の精一杯の強がりだと気付けた神は、いったいどれほどの数にのぼった事だろう?しかし、あえてそれ以上追求する者など居なかった。ガネーシャも、また。

 

「すまない、ヘスティア。君の眷属の治療費も、失った武具の補償も、確かに受け持たさせてもらうとしよう。そして、君の慈悲深さに痛み入る……ありがとう」

 

もう一度、ガネーシャは深く頭を下げた。だが、ヘスティアはもう、意識を外界から離れさせていた。

その後の議題――――大猿と冒険者の戦いに割り込んだ、謎の巨大花について――――への興味など、芥ほども沸かずに、ただ、会合が終わるまで、茫漠とした様子で佇んでいた。

涙を流し、ひたすら許しを請う少年の顔を、何度も反芻しながら……。

 

 

 

--

 

 

 

「いったい、どうしたっちゅうねん。例の話がフカシでないんなら、大喜びで触れ回りもせんで、このドチビは」

 

遥か遠くを眺めたままのヘスティアは、既に多くの神々が席を立ち、疎らな円卓に未だに座ったままだった。終始訝しがっていたロキが、ヘファイストスに尋ねた。当事者の真横に居ることなど、全く考慮せずに。……何しろ、全くこちらの存在を気にも留めていないのだ。

ロキがこんな風に戸惑うのも当然の反応だった。彼女は既に、眷属から聞き及んでいたのだ。闘技場から逃走した大猿の死骸は、ボロクズのような姿になったヘスティアの眷属の前に転がっていたということを。

その情報から導き出される事実が本当なら、まさしく快挙と言う他ないだろう。その神の初めての眷属は、街を襲った脅威に単身、生命を捨てる覚悟で挑み、見事に打倒した。尋常の感性を持つ人間であれば、これ以上なくその冒険者と主への畏怖を抱くところだが……。

 

「ん、まあ……ショックも大きかったんじゃないのかしら。相当の深手だった、って話じゃない?レベル1の身で挑んだくらいだものね」

 

会議室へ足を運ぶ最中に見つけた幽鬼のような有り様で歩く旧友の姿に、慌てて付き添ったヘファイストスは、ヘスティアの心境全てを把握してなどいない。だから、そんな他愛のない推測しか出来ないのだ。

ロキが、頭を掻きながら、眉間に皺を作った。

 

「あー、調子狂うわ……おい、もう終わりや。起き!」

 

「……おゎっ?へっ?……あっ?」

 

後ろから頭を抱えられたうえにぺしぺしと頬を叩かれて、やっと正気に戻ったヘスティアの顔に、神の威厳も何も見出だせはしないだろう、何者も。

 

「オハヨーございます、お嬢ちゃん?」

 

「なっ、わっ、何するんだっ!」

 

「おっと」

 

見上げた視界に思い切りこちらを揶揄する宿敵の顔を捉え、ヘスティアは両手を上げて身を捩る。さっさと身を離したロキは、ヘファイストスを挟んで隣側に陣取った。その短い動作の間にヘスティアは、とっくに会合が終わっていた事を知った。

そして、胡乱げに自分の事を見つめるヘファイストスの視線も理解した。

気恥ずかしさと、何となしのばつの悪さで、両手を下ろして少し背を丸めてしまう。

 

「あんな。ちょっと死にかけただけでそんなんなって……籠の中に入れて飼ってるのと違うやろ。イヤなら冒険者やめさせたれ」

 

「そっ」

 

無思慮ともとれるロキの言葉でヘスティアは顔を上げた。しかし、反駁が詰まる。正論なのだ。命を賭す道を許容した以上、その『子供』の辿るいかなる末路も想定しておくべきだという、当然の道理をロキは説いていた。

……だが、ヘスティアを苛むのは、彼女自身の過保護さに基づく我執じみた悲しみとは――――それが全くないとは言えないが――――別のものだった。さりとてそれを詳らかに語るのは、煩わしさ以外にも、『子供』の運命について部外者に明かす事にも繋がってしまうので、容易く口を開かせるのも憚られるのだった。

諸々の葛藤をうまく言語化出来ずに、変な形にした口を蠢かせるヘスティア。

 

「何や面白い顔して」

 

「……」

 

ロキの訝しげな視線を受ける旧友の内心について、ヘファイストスは概ね理解するところはあった。先日の相談。眷属の背に現れたという、大きな力と引き換えに何かを差し出すと示唆する運命のことだ。

さては、今度の快挙とは、その力を目覚めさせた事で得られたのだろうか……その代償としての、深手も……とまでは察する。

すべてを見通せてまでは、いなかったけれども。

 

「……自分のせいで、なんて思うのはやめなさい。その『子供』の為にならないわよ」

 

「!」

 

その簡潔な指摘に、ヘスティアは目を見開いて口をつぐんだ。ヘファイストスの言葉はヘスティアの罪悪感の真の原因を見透かしたものではなかったのだが……結局、その指摘を免れられないという点では、同じだ。自分の背負わせたもののせいで、大切な少年を苦しめる結果を引き起こした事に、ヘスティアは深く打ちのめされていたのだ。

辛うじて死の淵から脱した少年は、しかし、その時以来、自分と顔を合わせる度に、激しい自己嫌悪と深い後悔、贖罪の糸口を見出だせない苦しみを幼い顔に顕にしていた。

それは、主にとっても、身を裂くような胸の痛みを呼び起こすのだ。

 

『必ず、戻って来てくれ。自分の足で』

 

課した誓約が、どれほど重い枷となるのかも知らなかった浅慮は、神であっても逃れられない呵責をヘスティアに与え続けていた。

全ては、子を案じるという名目で親が押し付けた鎖の生んだ結果だ。

喜劇にも等しかった。

旧友の言葉は、更にヘスティアの精神状態を深く、冷たい所へ突き落とす一押しとなった。

 

「ああ、その……あのね、だから……」

 

「……地雷踏んだか?」

 

いよいよ目から光を失い、顔を俯かせてどんよりと淀む空気を漂わせ始める姿に、ヘファイストスも慌てた。ロキも気まずさを表情に浮かべる。

椅子の上でうなだれ、ツインテールを床に付きそうなほど沈み込む少女、それを挟んで困り果てる妙齢の美女。珍妙な光景を演ずる三柱の女神を後ろ目に捉えながら去りゆく者達。いよいよ、会議室の住民は彼女らだけになりつつあった。

そこに、近づく影がひとつ。

 

「親が『子供』を思い、悩むのは、悪い事では、ないんじゃない?」

 

銀の輪郭を持つ女神の登場は、ヘファイストスに既視感をおぼえさせた。はて、彼女は、かくもこの旧友に興味を示す理由を何時見出したのだろうか。そんな疑問について彼女が思いを馳せる暇もなく、フレイヤはヘスティアの肩を抱いた。ロキなど、口を縦長の楕円に開いてその姿を見ている。

 

「思う為に苦しい。……そして、それは『子供』も親も同じ。そんな姿を見て、互いにもっと苦しくなっていく……そんな所でしょう」

 

ぴくり、と、肩を震わせる。わかりやすい反応をするヘスティアだった。見透かされた驚嘆と、全てを剥ぎ取られる事への恐怖の浮かぶ眼差しを、フレイヤに向けた。

男であれば心奪われずにはいられない優しげな微笑みは、逃れられぬ獲物を腕の中に収めた肉食動物のようにもヘスティアには見えた。

 

「そんなに怖がらなくてもいいでしょう。落ち込んでしまった男の子を奮い立たせる方法なら、いくらでも教えてあげられるわよ?」

 

「えっ」

 

現金にも目の色を変えたヘスティアに、ロキは呆れ顔になった。ひらひらと片手を振る。

 

「良かったなあ。コイツならよおく助兵衛な事教えてくれんぞ、ドチビ」

 

「えっ……えぇ!?!な、なに、そんな!ボクが……べ、ベル君と……ダメだ!!いや、ダメじゃ……違う!!そんなのダメだっ!!」

 

宿敵の言葉に与えられた刹那の困惑と思考が、またヘスティアの表情を変える。立ち上がると顔を真っ赤にして、揺れる心をそのまま口から吐き出した。

だが、すぐ傍から漏れる、くす、くす、という押し殺した笑い声を聞くや、ヘスティアは正気に戻り、また別の羞恥に顔を赤らめさせたまま、口をとがらせる。いかにも男を囲う女神らしい戯言に、危うく乗せられるところだった、と。貞節を重んずる炉の女神にとっては、大っぴらに語るのも憚られる考え方なのだった。

 

「そんな顔しないでよ。嘘でも冗談でもなく、その方法が一番良いのよ。男と女は、そういうふうに作られてるのだから」

 

「そ、そ、そんな関係、ダメに決まってる、不健全だっ!ボクとあの子はもっと、深くて、心の中で通じていてっ……」

 

フレイヤの諫言に抗し、ヘスティアはなおもトマトのような顔色で強弁する。だが、美を司る女神は、銀の双眸を少しだけ鋭く光らせた。

 

「心も、肉の器と繋がっているのよ、ヘスティア。死すべき運命の者(mortal)ならばなおさら強く」

 

「うっ……!」

 

数え切れぬ男と情交を重ねた女神の言葉には一定の説得力を感じた。心を隔てる溝を埋めようというのなら、身体を触れ合わせる事が一番の近道になるだろうという理屈。はじめは突拍子もない冗談のように思えたそれは今、尤もらしい根拠付けにより、少なからず、ヘスティアを魅了した。

しかし尚も肯定するのを妨げるのは、彼女の生来の倫理観と合わせて際立つ、眷属に対し誠実であろうとする挟持だ。相手の弱った心につけ込み……或いは自分の弱さを盾に寄りかかって、なし崩し的に関係を持つ事への嫌悪感は、根底から清廉な異性関係を尊ぶ炉の女神を固く支配する。

口を閉じて、ヘスティアはぷるぷると細かく揺れた。

 

「う、ぬぬぬ……!」

 

爆発しそうなほどに顔を赤熱させること、暫し。

もしも、あんな物騒な刻印が現れなければ、もしも、あんな惨劇に巻き込まれなければ、もしも、彼が純粋に、男女としての慕情に基づいてそれを望むのならば……ヘスティアはおそらく、自分は拒まないだろうと自覚していた。

しかし、現実はそうではなかった。愛しい少年は正体の分からない何かに取り憑かれ、身勝手な主の誓約に縛られ、そのせいで苦しんでいる。

激しい葛藤を見守っていたフレイヤが、肩をすくめた。

 

「なら仕方ないわね。その子が自分で立ち上がるまで、見守ってあげるしか、ないわ」

 

「うう」

 

怜悧でもある最後の助言により、ヘスティアは空気が抜けるように萎れた。結局のところそこへ戻って来てしまうのだろうと、最初から、彼女はどこかで悟っていた。或いは、それを確認させてくれる誰かの言葉をも欲していたのかもしれなかった。

他者との関係を拗らせたのはこれが初めて、などと宣う気など無いヘスティアだが、かくも苦しい我執を呼び起こし、そこから脱する展望を一切見出だせない憂鬱さをもたらす関係も、全くの未知の領域の出来事だった。

 

「大きく構えていればいいのよ。あなたが愛する『子供』なら、信じてあげれば?」

 

それが、主の出来る一番の事なのだから、と言い、フレイヤは不安を打ち払えぬ様子のヘスティアの背を軽く叩いた。

答えを持たずに揺れる瞳は一呼吸の間だけ、フレイヤの視線と交錯して、それから会議室の扉へ向けられる。

小さい身体は少し猫背になったせいで更に小さく見えるままに、とぼとぼと去っていった。

 

「ねえ……」

 

「なあに?」

 

少女の姿をした女神が扉の向こうへ消えるのを待ってから、緋色の女神がフレイヤに声をかける。その目は猜疑に満ち満ちており、横からそれを見るロキは、フレイヤとヘスティアの問答の中で生まれた推測の正しさを確信した。

 

「どこまでが、貴女の仕業なの?」

 

「……」

 

ヘファイストスは直感していた。先の騒動のうちの幾許かは、眼前に佇む者が関わったものであることを。

その理解は旧友を謀った事に対する義憤の芽を心の中に育んだ。

詰問を涼し気な顔で受け止め、少ししてから、整った口元を開くフレイヤ。

 

「鍵」

 

「?」

 

「??」

 

放たれた単語の意味を図りかね、二柱の女神が面食らう。フレイヤは構わず、口上を続けた。

 

「鍵を……開けただけ、ね。私は。囚われていた獣を、解放する為に」

 

それきりフレイヤは口を噤んで、視線を遠くへ飛ばした。

その様を見てロキは、これ以上の有意な返答は得られまいと、長年の付き合いから悟る。……ヘファイストスも、同じ思いを抱いていた。だが釈然とはしない。成る程、怪物を一匹逃し、今も旧友を苦悩させてくれている下手人の正体は掴んだのだ。気分は良くない。

自然と、隻眼は非難が込められた目つきになる。

 

「そんな怖い顔しないでよ。もう手出しはしないから……あとは見守るだけにするわ。本当よ」

 

横顔で平然と受け流すフレイヤ。こうまでいけしゃあしゃあと言われて言葉を失っているヘファイストスを置いて、不敵な笑みを浮かべ麗美な佇まいを崩さない足取りで、扉へ向かう。ぽかんとしたまま、その背を見送る視線など意に介さずに……。

静かに、扉が閉じるまで見届けた女神達。

耳鳴りがしそうな沈黙は少しの間だけ、会議室を支配した。

 

「……ガネーシャにチクったろ」

 

会議の最初から溜まっていた鬱憤を晴らす昏い企みをぼそっと呟いたロキ。片や、それを聞き流しつつ、しおれたアジサイのような表情をする旧友に思いを馳せる。

 

(あの子に、話したほうがいいのかしら)

 

しかし、と思う。いまのヘスティアの心にのしかかるものの根源は、きっともっと別の所にあるのではないだろうか、と。

 

(あの時の相談も、関係している……?)

 

今一度、その推測にまで思い至る。自分の『子供』の運命について切々と語る、不安気な表情も。

 

(折を見て、また話をするべきかしら……って)

 

そこまで考え、指をこめかみに当てて、かぶりを振った。

 

(……私も、こんな甘くして、偉そうに説教出来ないわね……)

 

自嘲は小さなため息となって口から漏れた。地上に降りてきてから怠惰も極まるまで面倒を見ていた旧友を、どうにか雨風防げるだけの住居まで確保して放り込んだ頃から、あまり変わっていない事に気付くのだった。

彼女ももう、一人の『子供』の親だ。彼女の側から接触してくるまでは、何も手出しをするべきではないのだろう。

怪訝そうな顔を向けるロキに気づかず、ヘファイストスはほんの少しの郷愁に耽るのだった。

 

 

 

--

 

 

「ねえ、オッタル」

 

フレイヤは己の居室……バベルの最上階、この都市の頂点に在る者に与えられる座、の褥に腰を下ろしていた。

傍らに控える従者は、古よりそこにある巌のように、威と忠節を同居させた佇まいを持ち、黙して主の言葉を受け止める。

 

「私はね……あなたの事、好きよ」

 

母親が子供に語りかけるような口ぶりだった。その表情も。

主の言葉に嘘偽りなど無いであろうと、オラリオ最強の冒険者は確信している。

 

「誰よりも強いものね、あなたは……」

 

立ち上がって、鎧越しに、大きな胸板へと指を這わせる。恐ろしい密度で束ねられた筋繊維を隠す肉体は、いかなる脅威も受け止められるだろう。いかなる障害も打ち崩すだろう。その事を主は知っているのだ。この世界の誰よりも。

 

「でも」

 

オッタルは、自分を見上げる二つの眼光から、決して目を逸らさない。

 

「たったひとつだけ、恐れているものがある。……それは、何だったかしら」

 

「……貴女です。我が主よ」

 

逡巡の無い返答は、フレイヤの予測を寸分も違わない内容だ。

そうだ。

どれほどの力を持とうとも、どれほどのものを得ようとも、それから逃れる事は出来ないのだ。何者も。

レベル7の、世界最強の人間であったとしても。

……たとえ、天上の住民であったとしても。

自分の心を捧げたものを失うかもしれないという恐怖からは、どうやっても……。

忠誠、愛情、畏敬。どんな言葉にも置き換えられるだろう、執着という宿業とは、それを与えるものへの恐怖という枷でもあるのだ……。

笑みを浮かべて身体を離し、再び褥に腰掛ける主に対し、オッタルは真意を問う事などしない。

全てを捧げた存在に対し、問う事も、疑う事も、欺く事も、決して許さない。それが、彼が己に課した義務だった。

 

「でしょうね……私にも、怖いものはあるもの」

 

ぴくり、と自分の言葉に反応する従者の姿を見て、フレイヤの心は満たされた。笑みが溢れる。

 

「あなたが守ってくれるから、心配はしていないけど」

 

含み笑いをする主を見て、刹那オッタルの全身を覆っていた緊張が解ける。こういう事をよくする女神なのである。

フレイヤは、男が安らぐのを見るのが好きだった。ひたすらに強さと栄光を求める男が、全てを自分の身体に委ねる姿は、例えようのない充実感を覚えさせてくれる。

それが自分以外の何かに対してであっても、彼女は別に良かった。生来の男好きというのは、単なる欲望だけではなく、すべての男を見守る母という存在意義をも内包しているのかもしれなかった。

そして、当然、その楽しみを全て無くしてしまうかもしれないとなれば、自分はきっと恐怖するに違いないだろうとフレイヤは思うのだ。

 

(誰かが、そのように作ったのかしら。私達のことを)

 

出し抜けにそんな事を考える。人も神も、その精神性にどれほどの違いがあるのだろうか、とさえ。

失う事への恐怖を決して捨てられず、喜びを見出す事を決して諦められない。

あまねく人と神に宿ったもの。

恐怖と、希望。

それは、世界のはじめの誰かが与えたから、全ての者の中に根を下ろしたものなのだろうか。

突拍子もなく、壮大な仮定に飛んで行く自分の思考に自嘲する。

 

(あの子が呼び起こしたのかしら)

 

透明な、ガラス球にも見紛う純粋さを、一人の少年の中に見出したフレイヤ。

陽を浴びて虹色の偏光を湛えた、無色の宝石。それは確かに一度、女神の目を奪ったのだ。

……それは偽りではなかった。

しかし、全ての貌では、なかったのだと、彼女はあの日、知った。

鎖を破って現れたものは、玻璃のように穏やかで繊細な少年の心を一瞬で、混沌に染め上げた。

それはきっと、水に落ちたわずか一滴のしずくに過ぎなかったのに違いないのにも、かかわらず……。

赤く、

青く、

黒く、

白く、

そして何よりも、ただ激しく……ひたすらに狂おしく少年を猛らせていた。

容れ物すら打ち破る事への危惧など、まるで忘れたかのように。

ただ、破壊を求めていた。

ただ、征服を求めていた。

ただ、勝利を求めていた。

それは確かに、少年の中に宿っていた、彼の持つ別の一面そのものだったと、フレイヤは見通していた。

雄々しく荒ぶ衝動、その奥にあるものさえ。

 

(そんなにも勇敢なあなたは、何を恐れているの?)

 

疑問は、彼女の心から決して消えなかった。血に濡れ、真っ赤に燃え盛る瞳の奥にほんの一瞬垣間見た感情。

恐怖。

何かをただ、ひたすらに恐れていた。

知りたい、と思った。その根源を。

けれども、介入しようという気にもならなかった。

恐怖とともにある、自らを引き裂くように哭き叫ぶ深い悲しみと後悔の色を知ってしまったからには……。

 

(壊してしまうのは、趣味じゃないもの……)

 

自らの中に潜む獣の咆哮で、激しく震える脆い心。それはきっと、神にしてみればほんの少しつつき回す程度の悪戯で跡形もなく砕け散り、二度と元に戻らないだろう。

もしも少年の本性が、最初の見立て通りの透き通った無垢の水晶であったならば、フレイヤはそんな危惧など放り出していたに違いないが。

 

(あなたがその獣に全てを委ねるのか、斃して追い出すのか……)

 

見届けるくらいは許して欲しい、と、少年の主である小さな女神を思った。

なにしろ、ちょっとくらいは罪悪感はあるので……。

 

(迷い疲れた時は、少しだけなら手を貸してあげる)

 

夜を支配する月の女神は、闇に囚われ標を失った戦士を導く事への煩わしさなど生来から覚えなかった。

小さな主従の行く末を思い、フレイヤは今一度、趣味の悪い娯楽への期待により、笑みを浮かべるのだった。

オッタルは相変わらず、黙してそれを見守るだけだった。

 

 

--

 

 

 

 

ゴブリン三体など、今のベルの実力から言えば、狩られる事はおろか、正面からぶつかって戦果を取り零す事すらもあり得ないのである。

まして、身に着けている武具は、あの強敵との戦いで無惨に砕けたものに代わってガネーシャ・ファミリアから供給された業物揃いだ。

少年は、粗末な棍棒を振り回す一体目の手首を、新品の短刀で切り飛ばし、傷口から血を吹き出させるより先に刃を返して、そのまま喉を貫いた。

息を入れず、後ろに控える二体目に飛び掛かる。左腕による裏拳は、側頭部に直撃した。頭骨は砕け、ゴブリンの右眼球が飛び出る。

 

「……!」

 

手の甲の衝撃は、波紋のようにベルの全身を伝う。冷たい何かが、胸の奥で疼いた。

奥歯を噛み、短刀を強く握る。中指に嵌められた罪人の証が、少年の身体にもう一つの波紋を生んだ。

二つの波紋がぶつかり、せめぎ合う。

 

「グッ!」

 

倒れたゴブリンが、うめき声を上げた。健在である最後の一体を、ベルは睨みつける。肺から脱出しようとする呼気を押しとどめ、全身を支配しようとする何かに必死で抗いながら。

その葛藤は双眸を吊り上げさせ、独り残された獲物を恐慌状態へ陥れる威となってベルの身体から溢れ出る。

 

「ゴッ、ゴァッ!」

 

恐怖に屈した獲物が遁走を選ぶ姿は、瞬時に少年の脳髄を沸騰させた。

 

「ッ待っ…………っ!!」

 

足を踏みだそうとした瞬間、その記憶が蘇る。

顔に滴り落ちる涙。

悲しみに歪みきった表情。

胸の上に縋りつく温度。

そして。

 

『必ず……戻って来てくれ』

 

その、言葉。

 

「っ、っ……う、…………ぅぅう……!」

 

血液が鉛に入れ替わったかのように、身体が重く、動かなくなる。

冷たい鼓動は、右手の中指から、どくどくと音を立てて全身に運ばれていくようにベルは錯覚した。

眼球が映す、逃げゆく贄の背は、そのまま神経を通って彼の頭蓋の中身を覆う灼熱を呼び起こす。

 

追え。

 

逃すな。

 

とどめを刺せ。

 

敵は、殺せ……全て!

 

「う、ぅ、うううっ、………………っ!!」

 

永劫とも紛うその時間は、ほんの刹那の出来事だ。存在しない挟持になど縛られずに生命への執着に縋り付いたゴブリンは、いよいよ通路の角に逃れベルの視界から消えた。

そこまで律儀に見守ってからベルはようやく、背後に気配を感じた。

 

「!…………あっ!?」

 

「ゴギャアアッ!!」

 

ゴブリンの平衡感覚を失調させた先の一撃は、同時に感情や理性の箍を完全に破壊する効果も持っていた。左目を明後日の方向へと向ける獣人は、ただ己の破壊衝動に突き動かされて立ち上がり、千鳥足のまま両腕を振るう。

幼児の駄々こねに似た動作を持つ稚拙な攻撃。だが、見えない鎖で縛られている少年に対する不意打ちとして、それは充分に機能した。

 

「ぐっ!」

 

振り向きざまに、肩の付け根に棍棒が叩きつけられる。碌な踏み込みも篭っていない一発だが、まるで戦いの方法を忘れたかのような無防備を晒したが為に、そのダメージは大きかった。

殴りつけられた衝撃で体勢が崩れる。膝関節は氷を詰められたように動かずに、ベルの胴体をそのまま地に引き倒した。

 

「はっ、あっ……!」

 

無様に尻餅をついた少年は、自らを見下ろす迷宮でも最下級の雑魚の影を、引導を渡しに冥府から現れた使者の姿に重ねた。口から泡を吹き、左目をぐるぐると動かしまくるゴブリンの狂気の表情は、少年の顔から色を無くさせる。

生命の危機を理解したベルの身体に、その指令が下った。

 

(に、逃げ……!)

 

立て。

 

(そうだ、立って、……!)

 

戦え。

 

(……!……ち、違……!)

 

逃げるな。

 

(ち、が、う……!)

 

胸の奥の業火が、ベルの心と身体を支配しようと盛る。

右手の中の冷たい枷が、ベルの心と身体を支配しようと凍てつく。

歪む視界。

呼吸が乱れる。

蜘蛛膜の血流が、がつんがつんと音を立てて耳を塞ぐ。

 

「う、あ、あっ…………!」

 

混沌の坩堝と化した彼の思考など、他者に推し量れるはずもなかった。そこにあるのは、ゴブリン相手に腰を抜かして涙を流し、恐怖に屈した情けない冒険者の姿だけだった。

あの時、この地においてはじめて死を間近に感じた、あの牛頭の怪物を前にした際におけるものとは比較にならない絶望感が、ベルの心身を蹂躙する。

がちがちと震えるベルの前に立つゴブリンが、倒れこむようにして足を踏み出した。

 

「ガアアッ!」

 

「――――っ」

 

ゴブリンの足から伸びる影は、ベルの身体を一息で呑み込んだ。

瞼を閉じる。闇が、彼の視界を覆い尽くした。

 

「……………………っ……!?」

 

だが、予想していたその時が訪れることはなかった。

へたり込んだ姿を石像のように動かせずにしている少年の股座目掛けて、ゴブリンは頭から地面に突っ伏した。硬く鈍い音は、握り締める右手の中の冷たい感触とともにベルの意識を外界に向けさせる力となった。

 

「……な、何が……」

 

目を開き、周囲を見回す。少年は、突然の状況の変化によって、しばらくはただ狼狽していたが、臥したゴブリンの後頭部に突き刺さったものを見て、この場で起きたことを理解する。

その黒いボルトは、鏃すべてをゴブリンの脳髄に埋めていた。誰かが、少年の命を救うべく放った、必殺の一矢だった。

 

「だ、誰、が……?」

 

すぐ右の曲がり角に、人影は無かった。親切心か、ただの気まぐれか、いずれにしてもベルは姿の見えない誰かに感謝し、同時に、情けなさに臍を噛んだ。たかが、ゴブリン相手に。……仕留めきれたのは一体だけ。一体には逃げられ、残り一体の最後の足掻きに腰を抜かし、殺されかける有り様。

 

(……冒険者なんだぞ。何やってんだよ……)

 

幼い頃、ゴブリンに襲われた時の事を思い出した。山へ足を運んだ際に現れた獣人の群れは、年端もゆかぬ子供を恐怖で縮こまらせる以上の抵抗など許さなかった。雷光のごとく駆けつけた祖父が一瞬で制圧しなければ、ベルは今ここに居なかっただろう。

脅威から守られた安堵に涙を流して縋り付いたあの時の自分と、今の自分。いったい、どれほどの違いがあるというのか。

座り込んだまま、郷愁の混じった自己嫌悪に耽るベルのもとへやって来る所帯の姿があった。

 

「どうした、僕ちゃん。大丈夫か?」

 

戦いに慣れた風体の、四人の冒険者達。がっしりした体型と、年齢なりであろう皺を少し刻む肌を共有していた。

……顔に浮かべる、侮蔑の表情も。

 

「頑張ってゴブリン倒して、もう疲れちゃったのかあ?」

 

「一匹逃してたぜ、しっかりしろよ」

 

めいめい、歪んだ口端から溢れる労りの言葉。一人が、血の滴る剣を見せて笑っていた。そこに込められたのは、自分達にとっては取るに足らない事象を相手に苦心する者への優越感、哀れみだ。

 

「そんな事言ってやるなよ。泣きべそかく位怖かったんだからよ、なあ?」

 

先頭の男が、細い目でベルを見下ろした。口ではいかにも優しく後輩冒険者を気遣う風だが、揶揄と嘲笑を隠そうともしていない顔だった。

ベルの顔は恥ずかしさに赤らみ、伏せられた。この状況をどう言い繕おうとも、それは己の無様さを上塗りするだけの徒労になると彼にはわかっていた。

しかし、そんな真っ当な分析以上に、自分の失態を無関係な人間達の前に晒し、論われる事への経験など持ち合わせていなかった少年の純朴さが、ただ縮こまる以外の反応を許さなかったのだ。

口を引き結んで辱めに耐える素人冒険者の姿に、男たちは自尊心を少しばかり満足させていた。

 

「オイオイ僕ちゃん、腹でも痛くなったか?今日は帰ってお休みしたらどうだあ?」

 

げらげらと、無遠慮な笑い声を何人かが上げていた。それは、仕方のない反応でもあった。彼らが格別に悪意に満ちた人間である事の証明にはならなかった。

たかが、ゴブリン相手に、なのだ。ベルの今の姿に対する、最適な論評とは。

冒険者の常識とは、そういうものだった。

それを知っていたからこそベルは、自身の弱さを激しく責め立てていた。心のなかで。

――――それは、世間知らずの少年が他者から受ける、刃のように心を抉る評論から自らを守る鎧でもあった。

 

「ひでえなあ。あんまり虐めてやるなよ。かわいそうだろ?」

 

せせら笑いながら、先頭の男は向きを変えて歩き出した。つられて、三人が後を追う。ベルに向ける嘲笑もそこそこに。

所詮は、路傍で這いつくばる、知らない誰かだった。迷宮探索の疲れを少し紛らわす為の、笑い話の種くらいとしか思わない程度の存在なのだ、彼らにとってのベルは……。

 

「向いてねえよな、あんなのは。やめちまえば楽なのによ」

 

歯噛みし、未だ顔を上げられない少年の耳に届いた、最後の言葉。

それは、彼の鼓膜にこびりついて、ずっと消えなかった。

悔しさに突き動かされる足で、重い腰を持ち上げてからも、ずっと。

 

(畜生)

 

情けない。

 

(畜生……)

 

恥ずかしい。

 

(畜生…………)

 

弱い。

 

(……畜生…………)

 

右の握り拳の中の冷たい感触も、今の彼を苛むものを紛らわせる力にはならなかった。

 

 

 

 

--

 

 

 

少年が及んだ暴挙とその結果を聞いた時、一気に血の気が引いたエイナはそのまま倒れそうになった。同僚に支えられて、すぐに持ち直したが……。

そして駆けつけた病室で、その光景を見て、怒りよりも悲しみが先立った。全身包帯に巻かれて深い眠りの中に居るベルと、その傍らに座り込み、涙を流す小さな女神の姿を目の当たりにして。

どうして、立ち向かったのか。

どうして、同じ轍を踏まねばならなかったのか。

自らの命を失いかねない危地へ踏み込み、現れた脅威に立ち向かう。ありふれた英雄譚だ。彼は、その中の一つに加えられるべき偉業を欲したのだろうか。

一つの英雄の影に、それになれなかった万余の骸があると、わからなかったはずがないと、エイナは信じたかった。

或いはわかっていても、この結末へ突き進まざるをえない何らかの事情もあったのかもしれない、しかし……。

 

(あなたを失くして悲しむひとだって、居るのよ)

 

その事は、彼を止める助けにはならなかったのだろうか。

この街で彼が得たものとは、その程度のものだったのだろうか。

……自分の存在さえ。

そんな風にすらエイナは思い至って、また、小さな、それでいて確かな悲嘆に暮れるのだった。

 

「……」

 

視線の先に、俯いたまま、重い足取りで歩くベルの姿があった。多くの冒険者達が迷宮から引き上げてくるこの時間帯、数多の人影の行き交うロビーでも目についたのは、単にそれだけ彼の存在がエイナの心を占めていたからだ。

声を掛ける事が、出来ない。

 

『放っとくしかないと、思うけどなあ~』

 

運び込まれたベルが退院するまでの三日間、気が気でない様子の同僚に対し、ミィシャはそう言い放った。

それは事情を知らない者の無責任な戯言などではない。

 

『あの子と、あの神様の問題っぽく見えるし……』

 

他者が立ち入れるような話だろうか、と、独自の見解を示した上で、言うのだ。お前は、私達は、そこまで世話をする義務があるのか、と。

退院してからも少年は冒険者として迷宮に挑む毎日だ。しかし、その顔は常に薄暗く、切羽詰まり、重苦しそうに伏せられていた。

……担当職員と碌な会話も、交わしていない。

恐ろしい怪物に蹂躙されたのは身体だけではない。心や、彼と関わる者の繋がりすらも、きっと歪に変質してしまったのだろうと、仔細まで語られずとも、職員達は察していた。

だが、よくある話だ。

踏み潰された者がそのまま消え去るのは、この街において格別に耳目を集めるような顛末などではない。

お前は萎れた草花ひとつひとつに気を揉みながら職務を果たせられるほどの器を持っているつもりなのか、などと詰問できるほどの傲慢さまでは、さすがにミィシャも持っていなかったが、究極はそれである。

エイナは、たった一人の冒険者の為に働いているのではないのだ。

助けを求められ応じるのはいいが、そうすることすら出来ない者の手を引いて立たせるのはただの甘やかしだと、エイナにだってわかる。

 

(……情を切り捨てるのが、正解なの?)

 

小さな背が、換金所に向かうのが見える。

 

(……立ち上がるのを信じるしか、無いの……?)

 

答えの見えない疑問は、エイナの思考に暗い影を落とした。

それを自覚すれば、自分よりも更に深い暗闇の中に在るだろう少年の心中を思い、また気が重くなる。

どうか彼の歩みを止めさせない希望の灯火が尽きぬよう祈るしか、今のエイナに出来ることはなかった。

 

 

--

 

 

幾つもの恐怖が、ベルの心にまとわり付いて離れない。迷宮を出てからも、ずっと……いや、それは、病室で目覚めたあの時から在り続けたものだった。

全身を巡る激痛、熱が失われていく感覚、抜けていく呼気。生命の終わりを目前に感じた死神の足音は、今の彼を真に苛むものによって既に遠い忘却の彼方にあった。道の終わりを齎すものなど、今歩き続けるこの身に繋がれているあらゆる枷に比べてどれほど慈悲深い導き手であるか知れないとベルは思っていた。

 

自分の中に潜む何か。夢の中でだけ自分を支配していたはずが、前触れ無く顕在した狂える衝動。確かに己の中にある未知の存在への恐怖。

 

誓約を、忠を、信頼を踏み躙られた事に由来するだろう悲しみに暮れる主の顔。再びあの顔を見る事への恐怖。

 

恐怖に屈し、ゴブリン如きすら相手にするのもおぼつかない醜態と、浴びせられる嘲笑。冒険者として、役立たずになってしまう恐怖。

 

(……!!)

 

出し抜けに、足を止めるベル。

メインストリートの端で俯く少年の顔が青褪めていた。人波の中、世界中の全てから切り離されるような絶望感が容易に想起されたのだ。

それは、彼が何よりも恐れる事だった。

辿り着いた一つの危惧は、妄想と呼ぶにはあまりにも現実味のある幻影としてベルの脳裏に現れる。

 

小さな女神が、悲しげな表情とともに顔を背け、そのまま遠くへ去っていく姿。

 

待つ者の居なくなった小さな部屋。

 

身も心も凍りつかせる光景を呼び起こすのは、ごく自然な仮定だった。

 

もしも、主に見捨てられてしまったら。

 

もしも、また、一人になったら。

 

不安は腐った藻のようにベルの心にへばり付いて、彼の中の挟持や自信、勇気、そして希望を、陽の届かぬ水底まで引きずり込もうと蠢く。

立ち上がり、前に進もうとするのを阻む力。それは真実、彼の中にだけ在り、彼以外の誰にも見えない、決して彼以外の何者にも克服できない怪物だった。

ベルは遂に膝を屈した。心の底から滲み出す恐怖は今、現実の世界にある彼の肉体まで魔手を伸ばしていた。

 

「――――」

 

「――――――――」

 

幾つもの会話がベルから遠く離れた所で交わされていた。それは全て、彼とは全く関係のないものだった。目を曇らせ、顔を冷や汗で濡らし街の片隅に座り込む少年を、誰も、見向きはしない。これまで同じように道を失ってきた無数の有象無象にして来たのと等しく同じように、雑踏は小さな影を覆っていった。

誰も、今の彼に傷つけられる事はない。

誰も、今の彼に翳らされる事はない。

誰も、今の彼など――――見て、いない。

その、はずだった。

 

「大丈夫、ですか?」

 

「え?……」

 

腰をかがめて、ベルと同じ目線で顔を突き合わせる。少年は、憔悴した自分の顔を映す銀の瞳の持ち主と面識がある事を思い出すことができなかった。

けれども、純粋にこちらを気遣っているのだろう、心配そうな顔つきは、劣等感と自責の念に潰れそうになっている少年にある既視感をもたらした。

 

「気分が悪いんですか?ひどい顔ですよ」

 

「……なん、でも……」

 

ベルは反射的に、顔を伏せた。目を合わせられなかった。そこに映る弱い自分を見たくなかった。

顔に重なる、誰よりも優しい、主の幻影を見たくなかった。

うつむいて絞り出された言葉が途切れて、石畳に吸い込まれる。

はたから見れば、小さくなっていじけるだけの子供の姿があった。

 

「……」

 

シルは少しの間それを見つめてから、了承なく子供の手をとった。

突然の温かい感触に驚いたベルが、顔を上げた。

 

「……!?、あ、あの?」

 

シルは、にこりと笑って、口を開いた。

 

「お腹空いてません?いいお店、あるんですよ」

 

「はっ?」

 

返答をする間も与えられず、ベルは手を引かれるまま、萎えた足を立ち上がらせてしまう。

闇色の澱のように淀んでいた心地をかき乱される事への戸惑いが、彼をまだ気後れさせていた。

 

「いや、僕はその、別に――――」

 

言いかけた瞬間ベルは、自分の意思の及ばぬ肉体反応によって胃袋が呻き声を上げるのを聞いた。

目を丸くして足を止めたシルは、それからくすくすと笑った。

ベルは、顔を真赤にして硬直する。

 

「すぐ近くですから」

 

手を振り払う気を起こせなかったのは、それだけ気が沈んでいたからなのか、それとも、自分を導く彼女の善意に縋りたかったからなのか、ベルにはわからなかった。

それでも、ある一つの真理は彼の前に屹然と現れていた。祖父の居ない、独りの日々を過ごしていた時においても気付けなかった、簡単な真理。

悲しくても、どんな時でも腹は減るのだと、歩きながらベルは思った。

 

 

--

 

 

 

「こんな、しなびた灰かぶりを連れ込むなんて、シルも物好きだニャ~」

 

「は、はは……」

 

「ちょっと!」

 

「うひャ~」

 

キャットピープルの店員は口があまり良くなかったが、いまさらベルも打ちのめされたりはしなかった。ただ、よほど酷いツラをしているのだなと改めて自覚させるだけだった。

乾いた笑いを浮かべる少年に、シルが慌てて割り込む。ねめつける眼差しを受け、慌てて店員は離れた。

 

「ごめんなさい、嫌な気分にさせたいわけじゃないんです……皆、いい子ですよ」

 

申し訳無さそうに眉を撓らせて謝りつつ、同僚のフォローもするシルの人柄の良さは、既にベルにも伝わっていた。

……いつの間にか、出された料理は半分ほどまで量を減らしている。空腹だったという理由以外には勿論、味自体もベルの口に合ったからでもあるが、それ以上に、店の雰囲気の暖かさに促されたという面も大きかった。

街灯が陽に取って代わる時間にあって、冒険者達は疲れを癒やしに飲み、食い、語らい合うべく、集い始めていた。彼らの輪からほど離れたカウンター席でただベルは胃を満たしていたが、客の一人として居場所を与えられている安心感によって、先程までの不安が少しずつ消えていくのを自覚していた。

誰か一人、たった一人であっても、その人に気遣われる事の暖かさは、たちまち恐怖と迷妄に凍える心を溶かしていったのだ。

シルは、カウンター越しに立ったまま、黙ってベルを見つめるだけだった。その様は何も聞かずにいてくれる事への感謝と同時に、少しの気恥ずかしさとある疑問を心のなかに浮かび上がらせた。食器を置いて、ベルは、おずおずと口を開く。

 

「……どうして、僕に声を掛けてくれたんですか?……面識のない、僕みたいな、……そんなに、お金持ちって見栄えでもないですし。自分で言うのも、ですけど」

 

卑下は消えずに未だ彼の心に纏わりついていた。気遣いは嬉しい。けれども、自分はそれを受けるに値する人間なのかどうか、と。

 

「うん?……んー……」

 

上目遣いで尋ねられたシルは微妙な表情になり、返答に窮した。その反応の根源について、ベルは見当もつかない。

暫く顎に指を当てて思案する様子を見せてから、シルは不敵な笑みを浮かべる。

 

「……私と初めて会った時の事を思い出してくれたら、教えてあげます……ベル・クラネルさん」

 

「へ?初めて……って」

 

名前を呼ばれて面食らうベル。

掘り起こされる記憶は、道端で座り込み石畳を見つめる自分と、頭の上から掛けられる声。つい先程の対面しか、ベルには思い出せない。

初めて。それ以前の?

疑問符で頭の中を満たし目を瞬かせる少年を見て、シルは口元を抑え、笑う。

そして、呆けてるベルの前に、コップを差し出した。

 

「どうぞ、奢りです」

 

「あ、どうも……、……」

 

中に何が入っているのか、少なくともただの水ではない事くらいはベルも察せた。それは人生で一度も口にしたことがない飲料であると気付き、一瞬だけ躊躇する。しかし、施しを突き返す勇気も、子供と侮られる事を許容する器も、ベルは持っていなかった。

小さな決意とともに杯を呷る。

 

(に、苦)

 

舌の奥を痺れさせる未知の味で顔をしかめそうになるが、見目麗しい店員に対する小さな見栄がそれを隠す。結果、喉を灼く感覚に必死に耐えて目を白黒させる、わかりやすい少年の虚勢が残った。

一口で脳を火照らせているベルの姿を見守っていたシルは、腕をカウンターについて、口を開いた。

 

「じゃあ、次は私の質問の番ですね」

 

「はっ、ハイ」

 

初めて飲む酒の味に戸惑うベルは、うっかりシルの求める対価を了承してしまう。自分の返事の意味に気付いたのは、一呼吸置いてからだった。

 

「あなたを今悩ませている事……その一番の原因について、ここで話してみる気、ありません?」

 

「!」

 

シルは、前触れ無く核心を突いた話題を持ちだした。ともすれば、ろくに親交も無い他者の心に無神経に踏み込む図々しい女の姿にも思われる切り出し方だが、それを感じさせない雰囲気を彼女は持っていた。酒場で働く店員ゆえ、斯くの如く迷える冒険者の相談相手の経験も豊富だからなのか、それとも、別の理由からなのか、ベルにはわからないが。

……ともかく、酒の力もあってか、ベルの脳は、ごく自然に彼女の質問を受け入れていた。その反応は、闇に目を覆われた少年の心の中の、何者かに助けを求める本音に拠ったものだった。……回答を引き出すために思索の海へと意識を漕ぎ出していくベル。

目を、遠くへ向ける。喧騒に満ちる酒保から遥か離れたところへ。

 

「――――」

 

同業者の嘲笑。

敵の狂態。

主の涙。

幾つもの光景。

劣等感。

恐怖。

後悔。

幾つもの感情。

 

(違う……)

 

上澄みにある記憶は一瞬で通り過ぎていった。もっと、深くを求める彼の思いによって……。

 

(……一番の原因、……)

 

苦痛に端を発する絶叫。

大きな影。

振るわれる腕。

肉を穿つ刃。

真っ赤な、自分の手のひら。

胸の中から沸き上がる激情。

全身を満たす破壊衝動。

血を、戦いを、勝利を求める自分。

自分。

自分の中に居る、別の、自分……。

夢の中に居る、別の、自分……。

 

「こ……」

 

自分の喉が震えているのをベルは自覚した。見開かれた目は焦点がぼやけている。それは、酒のせいだけではない。

ぶり返す感情が、彼の心を揺さぶっているのだ。

だが、それに屈する事は出来ないと彼は強く思った。また、あの無様を晒す事への忌避感が、ベルの告白を続けさせる力になっていた。

 

「怖い……んです。……僕自身、が」

 

決死の思いと言っても誇張のない意思で、ベルはその言葉を零した。嘘偽りのない本音だった。

すべては、そこに帰結するのだ。倒すべき敵を前にして身体を凍りつかせる恐怖の根源。主に見捨てられるかもしれないと心を凍りつかせる恐怖の根源。

――――帰るべき場所を、自分という存在を形作る何もかもをも忘れ去り、ただ戦いだけを求める別の自分へと変質してしまう事への恐怖。

そう、ベルは、知っていた。自分の中には確かに、別の自分が居るという事を。

それが単に、冒険者となってはじめて見つける事の出来た、知り得ざる己の側面だったのだとしても、今の彼にとっては、ひたすら、未知の存在への困惑と恐怖を呼び起こすもの以外のなにものでも無いのだ。

 

「それに任せて、行き着く先に何があるのか……それを考えると、ただ、怖くて……それが、情けなくて……そんな自分が、嫌で……」

 

吶々とベルは、そんな事を語った。……何もかも詳らかに話したわけではなく、固有名詞は抽象的な表現に置き換えたうえで、だった。迷宮での不幸な邂逅から、帰路に立ちはだかった強敵、守るべきものの為の無謀な決断と、その結果。

熱に浮かされたままずるずると吐出されるまことに稚拙で、要領を得ない説明に対して、シルは只、うん、うん、と、相槌を打つだけだった。

ひとたび話し出して止まらず、まるで急流のように溢れる自分の言葉にベルは驚いてもいた。思考は言葉として形を持つことで更に明瞭になり、自分の中に渦巻いていた澱のような苦悩を心から分離していくように彼には思えた。

 

「……」

 

シルは口を挟まずに聞き手に徹した。そんな彼女の態度、またはそもそも彼女の纏う雰囲気に当てられてか、ベルは、自分でも不思議に思えるほどに、己の我執を吐き出す事への抵抗を無くしていた。

少年の口上が途切れた頃には、それなりの時間が経過していた。息を整えて、乾いた口に水を流し込む。話す内に上気していた顔が冷えていく。

そこまで待って、ようやくシルは口を開く。

 

「変わっていく自分が怖い、っていうのは……男性には、珍しい悩みかもしれませんね」

 

開口一番のその言葉を、言外に自分の腑抜けぶりを指摘されているようにベルが解釈するのは自然だった。

さ、と顔が赤らんで、うつむく。

すると、シルが慌てて、少年の握り拳を両手で包んだ。

 

「あ、違いますよ……悪い意味じゃないんです。……つまり」

 

柔らかい感触に驚いて顔を上げる。ベルの目に映るのは、真っ直ぐに向けられる、優しい微笑みである。揶揄も、侮蔑も感じない。……表面上は。

 

「男性の場合、……大きく環境が変わったり、打ち込む何かに熱中しはじめてドンドン変わっていくのに、本人は全然それに気付かない、ずうっと後になってふと、他人の言葉や、大きく自分を見つめ直す出来事で気付く……っていうのが多いですけど」

 

「……女性の場合は、違うんですか?」

 

ベルは質問以上の他意など持たなかった。それは真実である。だから、シルが少しだけ言葉に詰まり、億劫そうに口を開いた理由もわからないのだ。

 

「え……と、やっぱり、その、中から変わっていく、っていうのをまず経験しますし、ね。そういうのに敏感かどうかというのに、性差による部分も大きいんじゃないか、って思って……」

 

「??中から?変わる??女性は??」

 

「ですから……」

 

真実、ベルは単なる疑問を口にしているだけなのだが……シルはどんどん、言葉を濁し、答えあぐねて、やがて頬を赤く染めていった。

まっっったく、その理由を察することが出来ずに、少し据わった眼を向けるだけのベルと、それを前にして困り果てる女性店員の間に、キャットピープルが割り込んだ。

 

「シルがセクハラされてるニャ!セクハラ!セクハラ!店員へのセクハラは直ちに出入り禁止ニャ!!」

 

「えっ!?えぇっ!?な、何で……!?」

 

「ああ!もう……あっち行ってて!」

 

シルは、両手を振り回して割り込んできた同僚を必死で追い返した。そして酒気も無く赤い顔をごまかすように、咳払いをひとつ。

 

「と、ともかく……今はひとまず座り込んで、じっくりと自分の中を見つめてみる機会と考えれば、悲観的な現状とも言えない、なんて、考えてみませんか?」

 

「……」

 

落ち着き払った穏やかな微笑みを取り戻して、諭すようにシルは言った。

ぼんやりと、アルコールの染み渡った頭でその言葉を咀嚼するベル。

 

「また歩き出すにも、何のために歩いていたのか、何を目指していたのか、きちんと定めておかなきゃ……ただ我武者羅に走り回っても、疲れちゃうだけですよ」

 

シルの言葉は、何もこの世全ての男女に適用しようという暴論を含むものではないが、ある程度の理を少年の鈍った思考に感じさせた。

男は自己の変質など省みずひたすらに戦い、歩き続ける。女は座してそれを消化し理解するのを待つ、と。……それが、深い傷であれ、大きな飛躍であれ。

 

「もしくは、その悩みにぶつかる前の貴方自身が、何を思って歩いていたのかを、思い返してみたりとか……」

 

何のために、何を思って。その問い掛けが投げ込まれたベルの心の底に波紋が現れる。

――――なぜ、この街へとやって来たのか。

――――なぜ、迷宮に挑んでいたのか……。

浮かび上がるのは、遠い祖父の言葉だ。真っ直ぐに向けられる眼差しで見つめ、決して聞き逃してくれるなと固い思いを込めたような表情で、口にした言葉。

 

『出会いを……』

 

(出会い、……)

 

それは本当に、自分を導いた言葉だったのだろうか。見知らぬ地に一人の少年を追い立て、そこで身を立てる事を選ばせた真実の理由とは、何だっただろうか。

 

(なん、だっけ……?)

 

思いの丈を吐き出した昂揚と、いよいよ全身に巡り始めたアルコールの熱のせいで、彼の頭のはたらきはどんどんと鈍っていった。

手持ち無沙汰になっていた左手を、右手に握るものに添えて、口に運ぶ。なんとなく。

 

(苦い……)

 

喉が熱い。眼輪筋が弛み、瞼と目尻が下がる。

 

「ベルさん……?」

 

何故。自分への問い掛けだけがベルの頭のなかを回り続ける。酒で鈍った今の彼の思考では、決して辿り着けない答えを求めて。

遠くを見て呆けてる顔に、シルが恐る恐る声を掛けたが、それを聞いているのかも怪しい様を改める事もせずにベルは口を開いた。

 

「わかんない、です……」

 

「え?」

 

ベルは双眸を店員に差し向けると同時に、かくんと首を傾けた。

それからカウンターに上体を預け、右肩に頭を乗せた少年は、どろどろとつぶやき始めた。

 

「ぼく……なんで、ここに、来たんでしょうね~……」

 

「あの」

 

「なんで、あんな、おっかないところに、通って……なんで、でしたっけ……」

 

「の、飲むのは早かったかな」

 

呂律の怪しくなって来た客の姿に焦りを感じたシルは、一度差し出した杯に手を伸ばしたが、それは空振る。またベルの口に杯が運ばれた。

未発達の喉仏が一瞬だけ隆起して、細い食道に酒が流し込まれる。それから、口を開いた。

 

「はやくないですよっ……ぜんぜん……んぐ、ぼくは……あんな、かっこうわるい……」

 

ベルの視界が滲む。目の前の店員の輪郭がどんどんぼやけ、様々な過去の記憶と混濁していく。

どこまでも続く迷宮の壁面。現れる敵。

バベルの荘厳な造形。冒険者達。

街並み。行き交う人と神。

小さな神殿。小さな部屋……。

乱れる網膜は、周囲を引っ切り無しに飛び交う客の声によって、幾多の像を結んだ。

遠くに聞こえる声。

声。

……笑い声。

楽しそうに会話する声。

自分を囲んで、見下ろし、笑う声が、蘇る。

ベルの口角が歪む。

 

「いぇへ」

 

くっ、くっ、くっ、と、脈絡無く、背筋を震わせて笑い始める危ない姿は、今の彼の中だけでは合理的な行動だった。

理由などどうでもいい。楽しいから、笑う。当たり前の事なのである。酔っぱらいの行動に他者が合理性を見出すことなど出来ないのだった。

 

「ふ、ふ、あっははは、ふっくくくく……ねえ?うへへへへ……ばかみたいで、はははは……」

 

「……」

 

ベルは、顔を上げてへらへらと笑う。明らかな卑下と自嘲を感じ取ったシルは、言葉を掛けるのに躊躇を感じた。落ち込んだ気分を紛れさせられれば良いと思って一杯奢った判断の誤りを悟る。

酒によって枷をこじ開けられた少年の心は、鬱積した暗い感情を茶化して発散する道を選んだのだろうが、傍目には幾分痛ましくもある姿だった。

ただそれでも、このように一人管を巻く事で重荷から解き放たれる時間を過ごせるというのなら、そっとしておこうというシルの判断も間違ってはいなかっただろう。

実際には、違った。

 

「よう、見覚えあると思ったら、やっぱりあの僕ちゃんじゃないかよ」

 

「ふあ?」

 

不躾に肩を掴んで振り返らせた男が誰であったのか、ベルは思い出せなかった。男の後ろに居る面々についても、ぼんやりした視界と思考のままでは、終ぞ面識がある事に気付けなかった。

ただ察せたのは、かれらの浮かべる、あまり善意の込められていなさそうな笑みだけだった。それが、酔い潰れ、だらしなく表情を崩している新米冒険者への嘲笑と理解するのは、今のベルの頭では困難だった。

ぐらぐら揺れ動く天地の狭間で記憶を洗う様に構う事無く、男は馴れ馴れしく語りかける。

 

「お前みたいな坊主がこんな、ちびちびと一人で酒盛りなんてして、見てるこっちが不憫でしょうがねえな」

 

「飲むならもっと派手にやろうぜ。悩みだって吹き飛ばすには、そうするのが一番だ」

 

「うあ……?」

 

男の連れも現れる。彼らは、力なく突っ伏している少年を、自分達の囲う酒の席に呼ぼうというつもりだった。それは、袖振り合っただけの縁とはいえ、一応の後輩である存在に対し芽生えた憐憫による行動なのか、傍目にはわからなかった。

シルは、止めるべきかどうか、躊躇を隠せぬまま、連れて行かれそうになるベルに手を伸ばす。

 

「あの、……」

 

「あんたも付き合ってくれるんなら、大歓迎なんだけどなあ」

 

「かははっ」

 

あまり品の無い顔と台詞を向けてくる男たちに、シルは怯んだ。客商売をしている身の上で、嫌悪をあからさまに表す事はしないが……。ただ、安易に迎合して際限なく付き合う事もしない勤務態度が、彼女の常だった。

そう平素のシルであれば、ここで流水のように客の誘いを避けているところだが、酩酊状態で彼らに連れられる少年に気を揉む姿を、男たちも察知していたのだろう。いつもなら上手い事逃げられてしまう美人店員をたらし込む出汁としてベルが捕まったという面は確かにあった。

言葉に詰まるシルに、男の一人の手が伸びた。

 

「なあ?偶には仲良くしてくれよ」

 

「あっ……」

 

男の大きな腕にシルは小さく尻込みして、それから反射的に、テーブル席に連れて行かれるベルを見た。顔を赤くし、眼と口を半開きにした、なんの役にも立ちそうにない姿の少年だけがそこに在った。

すう、と、自分の中の何かが冷えるのをシルは感じた。小さな落胆……。

一瞬の忘我に囚われた彼女が野卑な手に触れられる前に身を引いたのは、自身の意思による反応ではなく、別の店員の成さしめた事だった。

 

「楽しむなら、どうぞお客様がただけでお願い致します」

 

シルを引き寄せたエルフの店員は男に対し、慇懃無礼に言った。

 

「……チッ、勤勉なこって」

 

男は眉をひそめて手を引き、席に戻っていく。有無を言わさず同席させた後輩を囲んで騒ぐ、仲間のもとへ。

 

「……」

 

「……シル。客は彼だけではないと、貴女はわかっているはずです」

 

空色の瞳が、シルを射抜いていた。

シルは、反駁する理を持たなかった。

彼女の顔にはただ、少しだけ、少年への後ろめたさだけが浮かんでいた。

 

 

 

--

 

 

 

 

ぬるま湯に浸されている錯覚はベルの全身から離れなかった。

火照り霞がかった思考は、掛けられる言葉に対し、至極単純な返答か、適当な感情の発露――――緩んだ表情筋をまた綻ばせて、理由のわからない可笑しさに任せて笑う事――――しか、彼にさせなかった。

 

「まだ十四歳たぁ、立派なもんだな、僕ちゃん。でもよ、ゴブリン如きにあんなザマじゃあな」

 

笑う。

笑い声が自分の周りをぐるぐる回っている。

それが誰のものなのか、ベルにはわからない。

 

「一人でねェ。まあ、現実が少しは見えただろ、夢見る若者くんよ」

 

肩を叩かれる。衝撃が視界を上下に揺らした。それは何時まで経っても収まらなかった。

 

「珍しくもねえ話だよ。でもな、甘いんだなあ……どいつもこいつも。しょせん、あの程度って事なんだよ、僕ちゃんは。なあ?」

 

杯を目の前に出された。だがベルは、それを手に取ろうという気にならなかった。

頭の芯から、舌の根っこ、食道の奥にかけて篭もるように留まり膨らむ熱の正体は、未発達の肉体による飲酒への拒否反応だった。

自分の注いだ酒をボケッと見てる少年の姿に、男は苛立ちを感じた。

 

「バカ、こういう時は何も言わずに飲むんだよ。つまらねえ事も忘れたいんだろ?」

 

「うぐ」

 

もう一人の男が、ベルの頭を掴んで、無理やり飲ませようとする。杯に口を付けさせ、後頭部を引くと、少年の目が白黒に瞬いた。それから、年齢なりの細い喉が、大きく鼓動した。

全て飲み干した事で解放されたベルが、舌をだらりと垂らして、大きく息を吐いた。

 

「げはぁ」

 

「いい飲みっぷりだなあ、ハハハハッハハ!!」

 

「そうそう、これくらいはやれなきゃ、やって行けねえぜ」

 

背中を叩かれる痛みもどこか遠い世界の出来事にベルは感じた。意識から切り離された身体は今にもテーブルに崩れ落ちそうに揺れている。

それでも四方八方から聞こえる様々な声は、頭のなかでどんどん反響して大きくなり、決して消えない。

 

「俺なんかな、お前が生まれるより前からこの稼業やってんだよ。あの頃のオラリオに比べりゃ、今なんか信じられねえ生ぬるさだ。装備品だって、あの頃は全部自前だぜ」

 

「こーんな良いもん着けてる新人に、やっかんでるだけだろお前は?ぎゃはははは!」

 

「でもよー、このナリであんな、お前……ベソかいて、腰抜かしてよお!洒落になんねえぞ?俺達が来なかったら……」

 

好き勝手に言い合い、笑い合う。

 

「ええ?なあ、僕ちゃん。どうしようもねえよなお前は。あっはっはっはっはっは!」

 

時折、顔を覗きこまれて、大笑いされる。何が面白いのか、ベルにはわからない。

ただ、ベルもなんとなく、笑う。

 

「そ~ぅでふねぇ……うっ、うひひっ、えへへへへへっ……」

 

意思を持たない反応は、ベルの無様な過去を肴に盛り上がる者達を止めなかったし、寧ろその勢いを肯定するように捉えさせた。

 

「やっぱり、駄目だろうなあ……お前みたいなのじゃ。冒険者なんて、やめな!頑張っても届かないものなんて、世の中には溢れかえってるもんなんだよ、わかるか?」

 

「ふはあ……」

 

「ほら、もっと飲め」

 

男達がベルに語り聞かせる薫陶とは、前途ある若者を思いやったものなのか、それとも、彼ら自身の抱える後ろ暗い情念――――若い、無謀で、無様な、何処にでも居る、嘗ての己への苛立ち――――に基づくものなのかは、誰にもわからないものだ。

ただ、今のこの席の光景に、少年への気遣いを感じ取れる人間は、あまり多くはないかもしれない。

しかし、割って入ろうという気を呼び起こす程の、劇的な有り様などでは、決して無いのだ。

酒を流し込まれるベルの胃と食道の許容量は、いい加減に限界を迎えていた。

 

「故郷に帰って、鍬持って、真面目に働いて、嫁さん貰って、慎ましくやりゃあいいだろ?お前みたいなのがウロチョロしてるとよ、俺らまで……」

 

(……)

 

男の台詞の最後の方まで、ベルの耳には入らなかった。ただ、前半の部分だけを聞いてから、唐突にその光景が思い浮かんだのだ。

 

小さな家に住む自分。

 

小さな畑を耕す自分。

 

終日、鍬を振り続け、へとへとになって、家の扉を開ける。

 

……誰かが、それを出迎える。

 

誰かが。

 

腰の高さほどの小さな影と、その後ろの、肩の高さほどの、もう一つの影が……。

 

……そうだ。こんな生き方だって……。

 

そこで映像は途切れた。顔中にかかった冷たい感覚は、ベルの意識を、朧気な現世へ引き戻したのだった。

 

「……?」

 

唇に染み込む液体の正体が盛大に引っ掛けられた酒だと知るのにも、今のベルには猶予が必要だった。

 

「先達の話はよお!ちゃんと聞いてなきゃいけないぜ、僕ちゃん!」

 

「ヒヒヒッ。ホントお前、後輩に優しくねえな」

 

あーっはっはっはっはっはっは、と男達が、酒に濡れるベルを囲んで笑った。

 

「しかしまあ、こんな所でもボンヤリしてるようじゃ、確かにな」

 

「でも僕ちゃん、ここでやっていきたいって言うんだろ?」

 

ん?と、視線も定まらなくなってきているベルに、話が振られる。

口を開けて、前髪から酒のしずくを垂らしながら、質問の意味を理解する為に思考する事、暫し……。

 

「……はぃ……ぼくぁ……ここで……」

 

そうだ。

ベルは、この街に来た。何かを求めて。

何か。それは、何だったのだろうか。

自分は、何になりたかったのだろうか。

もう、蕩けきった今の脳味噌では、決して答えに辿り着けない疑問なのだった。

ベルの途切れた口上の続きを待つ者はおらず、男達はため息をついて首を振った。

 

「あぁ、もういい。もういいんだよ、僕ちゃん。肩肘張って頑張る必要なんかあるか?誰にも身の丈にあった生き方ってのがあるんだよ……」

 

「まあ、一人でやれなきゃ、誰かと組むって考えもあるだろうけどよ。今のお前みたいな奴じゃ、精々……」

 

男達が顔を合わせてから、顔を真赤にして酔いつぶれる少年のほうを向いて、鼻で笑った。

 

「ゴミ拾いがいい所、だよな」

 

「っぎゃーっはっはっはっはっは!結局お前もひっでえの!」

 

「ひーっひひひひひっ!そーだ、そーしろ!転向しな!サポーターなら、お前みたいなのでも、快く迎え入れてくれる連中も居るだろうさ!」

 

万雷の笑いの渦が、ベルの中に芽生えていた疑問を根こそぎにしていった。どうでもいいじゃないか、と、ベルは思った。

面倒くさいし、どうでもいい。

なんだかわからないけど、面白いみたいだ。

なら、笑って忘れてしまえばいいではないか、と、彼はただ思った。

 

「ま、まかり間違っても、ウチには要らねえけどなあ!」

 

「あーーーーっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」

 

「……はは、あはははは、んふ、ははははは、はははははは……」

 

 

--

 

 

一人のホビットが、苛立ちをむき出しにした表情のまま、酒場を後にした。

時間と手間を無駄に浪費した自分への憤りが彼女の中に渦巻いていた。

過日に目の当たりにした偉業の輝かしさの全てが夢まぼろしであったのかとの疑いさえ抱くほどの光景を、リリはこの日、余すところなく見届けていたのだった。当の少年に、一切気取られる事無く。

改めて自分に問いかける。ベル・クラネルに、何かを期待していたのだろうか。

ゴブリンに囲まれて腰を抜かしベソをかく子供に。

ロクデナシ共に絡まれ、嘲笑され、酒を浴びせられてもヘラヘラと笑っている腑抜けに。

ゴミ拾い、が、精々と、値踏みされても、その意味を理解出来ない愚か者に。

……あの、目の前に立つ全てを蹂躙し征服せんと燃え盛る、禍々しい瞳の光。数日経っても、それは瞼の裏から消えるどころか、日を負う毎に強く輝きを増しているかに思えた。

批難も、軽蔑も、打算も、優越も、逡巡も、何もない。純粋な、……狂気じみた破壊本能を湛えた眼差しというものの実在を、リリは確かにあの時理解したのだ。

その輝きに囚われて、勝手に何かを期待して、失望した……それだけだ。

 

(あんなのに付きまとって、一番の大馬鹿は私でしたね……)

 

リリは自嘲して、夜の街をひとり、歩いて行った。

失ったのはクロスボウの矢一本と、丸一日ぶんの稼ぎだけだと、自分を慰めつつ。

 

 

--

 

 

無様な後輩を散々弄り回した連中は、いい加減に飽きると、適当なところで飲むのを切り上げてから、揃って引き上げていった。

 

「ああ、いい、いい。僕ちゃんの分まで払っといてやるよ。こうやって付き合うのも、これっきりかも知れねえんだ」

 

テーブルには、宴の跡に突っ伏している少年だけが座っていた。ひっくり返ったコップを頭の上に乗せたまま、低下した脳機能が身体を起こす事を阻み、その意識は酒気の興奮と眠気との狭間で揺蕩っていた。

シルは、酒に濡れた少年の肩を揺らした。

 

「お客様……、お客様、起きてください」

 

「ん……ぅ…………ぅぁ」

 

鈍く光る赤い瞳は、一片もの正気を見出すのも苦労出来そうな濁り具合だ。初めての酒は、質はともかく、その量で彼の容態を危うくするものでなければ良いが……と、シルは思った。同時に、彼を囲んでいた面々の歓待――――と呼ぶにはあまりにも無思慮に過ぎるのではないか、と思えたのは、シルの主観に拠る判断だが――――が与えた、幼い少年の心根への影響についても、暗い予感を抱いていた。

とはいえ、それを明らかな態度にして接するのも憚られた。まだ、飲む人は多かった。呼び込んだとはいえ、初めての客に対して構い過ぎるのは、良い勤務態度とは言えない。

いち店員として、つぶれてしまった酔っ払いを起こすのに苦心する姿をシルは暫し、演じた。

彼女のそういう御為ごかしを看過するつもりの無い者が割り込んで、ベルの首を掴み上げるまで。

 

「あぐっ」

 

「リュー!?あ、ちょ、ちょっと!」

 

「お客様。いつまでも居座られては、困りますので」

 

片手で少年を持ち上げて卓から引き剥がすと、リューはそのまま店の入口まで歩く。足取りは力強く、シルと共有出来る感情の一切を持たない様子であるのは明らかだ。

ぶらぶらと揺れるベルの足は、放り出された道路に立つ事もせずそのまま崩れ、腰を地面にへたり込ませるのに任せた。

 

「う……」

 

「……貴方は」

 

涎を垂らして俯く聞き手に、自分の声が届いているかどうかの確証など、リューは持たない。

それでも、口を開かずにはいられなかったのは、珍しくも恩人が一人の男に肩入れする姿に、思うところがあったからだ。何を思ったのか、彼女自身にも掴み切れてはいなかったのだとしても。

ただ、男に対して抱いている感情は明白であり、それが言葉の端に顕れてしまうのは、どうしても避け難いことだった。

 

「なぜ……冒険者になろうと思ったのですか?」

 

「……」

 

返事は無かった。

 

「なぜ、冒険者を続けようと思っているのですか?」

 

「…………」

 

返事は無かった。

 

「……貴方は、何を目指しているのですか?……何になりたいのですか?」

 

「………………」

 

返事は、無かった。

目を伏せ、小さな溜息をつくリューの後ろには、居た堪れない様子のシルが立っている。

 

「リュー……」

 

物言わずに座り込むベルの姿は、欠片ほどもの生気も無かった。人形のようだった。シルは、かける言葉が見つからなかった。

 

「……店の前で座り込まれるのは迷惑ですので、さっさとお引取り願えますか」

 

「…………」

 

少年はひどく億劫そうに、四つん這いになってから、腰を持ち上げる。白い前髪から、酒のしずくが一滴落ちた。

それから、店の外壁に手をついて身体を預けながら、重い身体を引きずっていく。

消え入りそうな小さな背中に向けて、リューは最後の言葉を投げかける。

 

「…………この街でなければ生きていけない、などという運命を背負っているわけでは、無いでしょう……貴方は……」

 

とある事情によって酒場で働く彼女の性情とは、一見から受け取れる冷淡な印象とはむしろ正反対のものだと、同僚達の誰もが理解するところだ。ゆえに、少年へかけた言葉も、温情から生まれたものだとシルにもわかっていた。

若く、弱い、小さな新米冒険者が、これ以上傷を負い、その人間性をすり減らしていくだろう道を歩むことへの異議は、真にベルを思いやったものであるという事が。

それでも、それをどうしようもなく悲しく思うのは、単なる自分の甘さなのだろうか、とシルは思うのだ。

命を賭する意味を知っている者達なりの慈悲を、あまりにも残酷だとさえ思えてしまうのは、彼らの気持ちを理解していない部外者の戯言に過ぎないというのだろうか?

 

「戻りましょう、シル。まだ、店じまいには早い」

 

「……」

 

リューが店の中に戻るのを横目に、シルはただ、少年の背を見つめていた。

それが闇に溶けて消えていくまで。

 

 

--

 

 

天地が何者かの手でひっくり返されそうに揺らされている錯覚の中、ベルは歩いていた。自分がどこへ向かっているのかもわからないまま。

 

『ははははは、あーっはっはっはっはっはっは!』

 

だれかの笑い声は、ベルの見ている世界を一際大きく揺らした。

街灯は幾筋もの光跡をベルの赤い瞳に焼き付けて、渦巻く。

 

『向いてねえよな』

 

声が、頭のなかで反響していた。

誰のものかもわからない。

 

『なぜ……』

 

誰かが、何かを問う。

何故、……何故。

 

(……なんで、ここに?……ぼくは、……?、ど、こ、へ……?)

 

夜更けにあっても眠らぬ街を歩く人々は、目の焦点も危うい赤ら顔でびっこを引く少年のことなど、見向きもせずに通り過ぎていく。

歩く道の果てを知らず、なぜ自分が歩いているかも知らないベルは、ただ、壁伝いに、街の隙間の、光の届かない奥へと進んでいった。

 

『…………運命を…………』

 

どこかで聞いた単語が蘇る。ついさっきだったような気がする。ずっと遠い昔だったような気もする。

 

「な、ん、だっけぇ……わかん、ない、な……ぇへ、あははは……ばぁか……」

 

薄まった理性は、卑下が口から溢れるのを阻む事も出来ない。路地裏の闇は、力ない笑い声を、ただ黙して受け入れていた。

……屋根によって星明かりも差さない暗がりは、まるで、彼自身の思考と、その運命の前途を顕にしたようでもあった。

 

「ふ、ふは、ぁ、ぁは、はは、は……は、あ…………」

 

やがて、空気の抜けていく風船のように、ベルの吐息は勢いを失っていった。辛うじて身体を支えていた、その足腰の力も。

手のひらが壁面をひきずり、そのまま、汚れた地面へ向かい落ちていく。鈍った彼の頭でも、このまま自分は路上に身を横たえるのだろうという予測はついた。

けれども、酒によって霞がかり、陰影も判別出来ない視界では、突っ伏していく上体の先に斜面があるという事に気付けなかった。

 

「あっ!?ああっ……!」

 

ベルは、崩れた階段を転げ落ちていった。ごろごろと回りながら、奈落の底へと。それ止める術など無かった。突如襲い掛かった災厄に対処しようという発想すら、今の彼の頭には浮かんでこなかった。

 

「ーーーーーーーーーーーっ!」

 

朽ち果てた段差はスロープ状に近い体となっていたために、滑落によるダメージ自体は少なくて済んだが、待ち受けていた切り返し部分からの落下に対しては、そうもいかなかった。

そのまま宙に投げ出されると、下水道の床にベルの身体は叩きつけられた。

 

「ぐ…………っ!」

 

右肩で吸収しきれなかった衝撃が、ベルの視界に火花を散らした。一切の明かりも無い視界に、残光が長く残るのを、痛みに呻くベルは眺めていた。

 

「くっ、う…………う、っぐっ、うっ……」

 

ちかちかと明滅する脳は、酒気の霧で覆われていた様々な感情、記憶を無作為に、次々に、思い出していた。

何のために。

何度も尋ねられた。

わからないと言った。

嗤われ、哀れまれた。

 

違う。

……本当は、違う。

 

噛み締められた歯の隙間から漏れる呻き声が、嗚咽へと変わっていくのに、さほどの時間は掛からなかった。

同時に、過度の飲酒で既にイカレ気味だった三半規管が、不意の衝撃によって更にかき混ぜられ、痙攣する喉が悲鳴を上げた。

 

「ゔぐっ、え゙え゙ぇっ」

 

ベルは、胃から逆流するものを堪える事が出来なかった。

 

「え゙え゙っ、げほっ、お゙、え゙え゙え゙っ」

 

這いつくばり、片肘で上体を持ち上げた格好のまま、つい先程まで流し込まれていた胃の内容物をぶち撒けていくベル。

古い下水道の生臭いにおいも、今は鼻の奥から溢れる胃酸のにおいによって全く感じられなかったが、ベルの嘔吐はとどまる所を知らなかった。

口を目一杯に開くために頬が上がり、下瞼が閉じられる。眦から、止め処なく涙があふれた。

 

「お゙ッ、おぅゔっ、ゔぐっ、ゔえ゙っ、え゙え゙え゙っ……」

 

広がる吐瀉物に透明なしずくが幾つも落ちる。

嗚咽はまた、喉を震わせる。胃が揺れ動き、食道の蠕動が逆転する。

 

「お゙え゙え゙っ、げへっ、はっ……げえ゙え゙え゙え゙っ」

 

汚濁の底にあるような光景とは裏腹に、ベルの頭のなかはまるで、血管に溶けたアルコールまで絞り出していくかのように、明瞭に澄み渡っていった。

 

なぜ、この街に。

 

英雄に憧れたから?違う。

 

なぜ、冒険者に。

 

モテたかったから?違う。

 

なぜ、続ける。

 

それは……。

 

「うぐうぅっ、うああっ、あ゙あ゙あ゙っ……」

 

背中を丸めて、ベルは噎び泣く。

一筋もの光も無いオラリオの闇の底に衝かれた、一人の少年の小さな右手。そこにある青白い宝石の輝きは、持ち主に全ての答えを与えていた。

いっそ、残酷に過ぎるほど明確に。

 

なぜ、この街に。

 

一人で生きるのが、怖かったからだ。

 

なぜ、冒険者に。

 

祖父の影を感じたかったからだ。

 

あの日、自分を助けてくれた大きな影……祖父が何処にも居ないという事実が、怖かったからだ。

 

なぜ、続ける。

 

……一人になるのが、怖いからだ。

 

あの、小さな、新しい家で待つ、新しい家族。

 

彼女に失望され、見放されるのが、ベルは何より怖いのだ……。

 

「うっ、ウッ、うう、ヴっ、え゙え゙え゙っ、お゙え゙えっ……」

 

ただ恐怖に追い立てられて生きる、卑小で愚かで、弱い自分の事を、ベルはどうしようもなく嫌悪した。

嘲笑されても何も言い返せず、ただ笑って誤魔化し、自分の弱さを守ろうとする浅ましさに、激しく憤怒を滾らせた。

そんな自分を苛む全ての苦悩は、立ち上がって挑む事でしか打ち払えないと知っているからこそ、彼は底のない煩悶の中から逃れられなかった。

今の自分の姿はいったい、何なのだろうか。

 

(わかってるのに。わかってるのに、わからない……)

 

無明だけが、ベルの周囲に広がっていた。

 

「ッ、……っ、うっ、どっ、どうっ、すりゃっ、……どうすればっ、いいんだよおっ…………!」

 

血を吐くようなその言葉は、人影を映さない下水道の、果ての果てまで届き、決して答えは戻らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……で、大ぇ丈夫、か……?」

 

「え…………?」

 

 

 

 

 

青い、深く青い瞳の色は、どうしてか、はっきりとわかった。すべての光に見捨てられたような、闇の中にあっても。

 

声の主を見上げたベルは、ひどく大きさが不揃いになっている、一対の青い双眸を目にして、ずっと昔、祖父と交わした会話を思い出した。

 

 

 

 

 

『……そうだな、とてつもなく広いぞ。この世の果てまで広がっていて……それで、……心が安らぐ』

 

『心?』

 

『ああ。どんなに苦しい時も、悩んでいてもな。決して、どんな奴でも拒まない……誰も彼も、そんな懐の深さを見出すのかもしれんな……』

 

『……いつか、見てみたいなあ』

 

『おう、そうだ、それがいいなぁ。……白い砂浜、たむろすナイスバディの美女たち。そう、そこは出会いの場所でもある、わかるなベル!?』

 

『う、うん』

 

 

 

 

 

海。

 

自分を見つめる瞳の色は、未だ知識としてしか存在しないはずの、青い命の褥をベルに連想させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

クジャクの羽根を模したエンブレムは、罪人の背中で青く煌き、一瞬だけ、下水道を照らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてベルは、異形の罪人アルゴスと出会ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目覚めを待つ運命は、その時に至る歩みを一つ刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・アルゴス
事実上オリキャラ扱いで行きます。ケータイ版GOWに登場。
IIIにも出る予定だったが没になった(庭園のボスだったと思われる)。
3Dモデルまで完成していたのに、勿体無い。

・アポロン
GOWシリーズではアポロの名で登場……が、実物は結局出なかった。
オレステイアをなぞったシナリオであるアセンションでは事実上クレイトスの味方として復讐の女神達に対抗する力を貸してくれる役目(真実の眼でバリアを打ち消すギミックは、オレステスが親友ピュラデスの助けでアポロンに罪を許してもらうくだりのオマージュ)。

・男の子を奮い立たせる方法
「どれだけのワインを飲もうと、どれほどの女を抱こうと、心を苦しめる恐怖から逃れる事は出来なかった」

・クジャクの羽根のエンブレム
オリ要素。何という名の神のエンブレムなのだろうか??

・下水道
一.怪物の住処。主にゾンビ兵、ミノタウロス、サイクロプスが生息。
二.古き文献によれば、オラリオにおいてここを根城としたファミリアが確かに存在したとされる。
しかしその文献は既に失われ、記憶に残す者も僅かだという。
果たしてその神は何という名だったのだろうか?


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