Going blue road.   作:CiAn.

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重なるあの日

 一体どこから間違えていたのか。僕は本来こんなことにならないために行動していたはずだ。

 なのに、僕は今ゆっくりと地面に向かって落ちている。目の前には先ほどまで戦っていた一夏君が驚愕と焦燥を浮かべた顔で僕を見下ろしていた。当たり前だ。突然対峙していた相手が動かなくなればそんな顔もしたくなる。

「ああ……、そっか。僕は昔から弱かったんだ」

 一夏君の零落白夜は真っすぐに僕の胸を突き確実にシールドエネルギーを削っていた。ちょうど古傷がある場所を刺激されて忘れていた記憶がついに蘇り僕の過去が脳裏に次々と現れては泡のように小さくなっていく。だが今回は忘れることはなく頭の淵にこびり付き離れない。

 背中に落下の衝撃が走る。ISの保護機能で緩和されていても何割かは伝わってくるので一瞬肺が圧迫された。

 起き上がることすら億劫になるほどの痛みと倦怠感が僕を支配し見えない鎖で繋いでいた。――僕はどこでこの運命を引き当ててしまったのだろうか?一体何が間違っていて僕はこの最悪の展開に辿り着いてしまったのだろうか。

「おい朔夜!大丈夫か!」

 急降下をして僕に近付いた一夏君は突然のことに狼狽していた。伸ばされた手を取ることもできず空を見ていると不意に力が抜けてきた。

「ごめん、ちょっと浮かれちゃったみたいだ」

そんな言葉で安心できるはずもなく、一夏君は僕の肩に腕を回すとゆっくりと立ち上がらせた。ふらつく足で自分の体を支え周りを見渡す。僕の専用機の初お披露目を兼ねた今回の模擬戦闘は見学者が多い。正真正銘初めての男子同士でのISの戦闘は今日一番のビッグイベントになるはずだった。

「一夏君、ちょっと保健室に行ってくるよ。一人にしてほしいから見舞いとかはいいから」

「お、おう……」

だだっ広い廊下に一人分の靴音を鳴らしながら僕は保健室へと向かう。寂しい道のりだった。退屈な時間だった。痛みにも似た孤独だった。

 IS学園の構造上保健室とアリーナは近い。負傷者をすぐに運び込めるように設計されているからだ。室内は完全防音でイベントなどで会場が騒がしくなっても静かに眠ることができる。今の僕には有難い環境だ。

「ベッド借ります」

事務員の方にそう言ってから僕はベッドに腰掛けた。眠ることはできなかった。横になるともう二度と起き上がれないと思ってしまうほど衰弱してしまった。

 

 

 

 僕は以前クラスメイトに虐められていた。原因はたしか同じクラスで虐められていた子を助けたからだった。やっと思い出せた記憶がそうだと言っている。偶然放課後の渡り廊下で首をベルトで締められて引きずられている光景を見て思わず声をかけて助けたのだ。その時何を言ったのかは分からない。記憶を失う前の僕ですら忘れてしまったのか。それとも怯んでそれ以上は何も言えず見ているだけだったのか。ひとまず彼を助けた僕はそれからというもの二人で虐められるようになった。彼も僕という仲間ができたからか初めて見た時のようになされるままではなく抵抗をしていた。嫌だと声を出していた。やられてたまるかと手足を振り回していた。その度に僕たちへ振り下ろされる拳は強くなっていく。決まって殴られるのは服で隠れる場所。どうやら一度先生に怪しまれてそうし始めたのだというのを彼が盗み聞きした情報を僕に教えてくれた。僕たちはお互い誰かに相談しないという暗黙のルールを敷いていた。助けに来た人もまた被害者になってしまうのでは思うと耐えるという答えしか見つからなかった。

 次第に真っ直ぐに歩くのが困難になった。足が酷く痛んで立ち上がるだけでも苦労した。文字を書くのが困難になった。腕を少し上がるだけで肩や肘が悲鳴を上げていた。言葉を発するのが困難になった。呼吸をするだけで、少しお腹に力を込めただけで内側が痛んだ。いつも続けていた抵抗もだんだんと痛みを伴うだけで無意味なものになっていった。何もかも僕と彼を傷付けるために存在するのだろうかと考えもした。その中でも終わりがあると信じていたのは決して一人ではなかったからだった。二人だからきっと戻れると希望を抱いていた。

 変化は突然やってきた。

 いつも二人で連れてこられていた校舎裏には僕一人しかいなかった。彼の姿は十分、二十分と経過しても現れることはなく僕は孤独な痛みに耐えていた。

「今日から俺らの友達が一人増えるからな」

 そんな言葉で絶望するほど僕は脆くはなかった。たった一人増えようとこいつらは時間がくればやめるから結局いつも変わらない。被害者であるはずなのに斜に構えている僕は無関係のやつが見れば滑稽なものだろう。頭を下げればいいのに、早く解放されるかもしれないのにと考えるはずだ。そうしなかったのは多分まだプライドというやつが残っていたからだ。

「リアクション薄いなー。まあいっか、ほら来いよ」

 自分の目を疑った。白昼夢なのではと目に映る光景を疑った。他人の空似ではないかと人物を疑った。

 どうしてこんなことができるのかとその神経を疑った。

「なんで君が……?」

「なんかさー、お小遣いあげるから仲間にしてほしいって言われたんだよねー。俺たち今週遊びに行きたいからさぁ、特別に友達にすることにしたんだよ。なぁー●●」

 彼の名前を聞き取ることができなかった。もう彼は敵だから手を取り合う仲間ではなくなったから、僕は無意識にその名前を聞かず単なる敵だと認知した。そして今僕は以前の彼と同じ孤独になった。見渡せど味方は存在せず叫べど助けは来ない。諦めるという選択肢だけが残された。

 彼の目を見る。ああ、あれは罪悪感だ。裏切りに酷く胸を痛めている、そんな目だ。僕には何も関係ないがそういう目をしている。次第に彼の顔も朧げになる。立場が変わるだけで人を見る目がこうまで変わってしまう自分に嫌気がさした。嫌なやつだと自己嫌悪をしていると目の前の瑣末な光景などどうとでもなるような気がした。

「それでどうしたの?僕の悲しい顔が見たいからそうしたのなら期待には答えられないよ」

 だって彼はもう僕にとっては他人だから。そんなものにわざわざ気を落としてはいられない。僕は今から独りで耐えるという戦いの準備をしなければいけないのだから表情を変える時間なんてない。生意気に生きて抗って相手の顔を歪めてやるのがささやかな反逆だ。実に小さな生き方だと思う。そして、冷たい人間だと実感する。こうもあっさりと人を自分と切り離して考えられることが怖い。

「あっそ。まあいいや、どうせこれには耐えらんねえだろうし」

 取り出したのは鉄の棒だろうか。そんなに大きい物を運んでくるとは熱心なものだ。殴られると思うと少し身構える。当たり前だが痛そうだ。拳とは違って骨折くらいは覚悟しなければならない。もっともそうなれば向こうはイジメの証拠を残すことになり僕が有利になるので内心ではほくそ笑んでいた。ざまあないと。

「今更謝ってもやめる気ないからな」

 取り出したのはガスバーナーだった。ホームセンターなんかでも見かけるオーソドックスなやつだ。それを鉄に近付け着火する。次第に赤くなっていくそれを見ながら目の前のやつらは笑っていた。自然と僕のこめかみに汗が伝う。見ているだけで熱く、体が身構えてしまう。

「わざわざ熱伝導率の高い金属を用意したんだからちゃんといい表情してくれよ?」

「それ、この前授業で教わったやつじゃないか……」

 影響されやすいな、なんて言える余裕も今はない。自分の選ぶ言葉一つで命でさえも左右してしまいそうな緊張感に頭はショート寸前だった。

「お前がやれよ。俺たちの友達になるんだからよ」

「う、うん……」

 まだ後ろめたさが残る彼の手は震えながらその鉄を受け取った。僕は初めて裏切りの恐ろしさを知った。震えているのに迷いはなく、引け目を感じているのに目は僕を敵として見ていた。

 肉の焦げる臭いが鼻を突いた。言うまでもなく発生源は僕の体だった。口の端から唾液が伝う。体中の水分が出口を求め自然とそこに辿り着いたかのように今までで経験したことのない量が分泌された。熱い、熱いと次第に頭で何かを考えることさえできなくなり、僕はとうとう叫んだ。痛みからの慟哭に自制はなく喉が潰れるまで発せられることは容易に想像がつく。記憶を思い返すだけでそれが明確に分かる。ならば当然対峙していた彼らも何らかの感情を抱いたはずだ。苦しむ僕への愉悦か、想像以上の光景への戸惑いか、きっと何かだ。でなければ我先にと僕を残して去りはしないだろう。

 そこで一度意識が途絶えた。目が覚めれば真っ白な天井、今なら分かる僕が記憶をなくした時に初めて見たのと同じだ。見舞いには僕をいじめていた奴らは当然来なかった。もちろん彼も。

 退院してから学校に行く気にはならなかった。勉強も彼らへの抵抗も全部面倒だと感じて部屋から出ることさえ少なくなった。最低限食事とトイレの時だけ部屋を出てあとは眠るか胸をなぞっては痛みを思い出した。

 ある日家が騒がしくなった。玄関先で母の声が聞こえる。息子は虐めを受けて心を閉ざしていると訴えているようだ。いいや、違う。何もかも面倒になっただけなのだと言えれば全て解決しただろう。でもその時の僕は少しおかしかった。

 この傷がなくなれば虐めを受けたと誤解はされない、そう考えていた。何でも良かった。刃物で削ってしまおうと思い部屋を歩く。彫刻刀、カッター、ハサミ。ろくなものがないと嘆息をついた後、昼にリビングから持ってきたリンゴが目に入る。側には果物ナイフが置かれている。

 やった、とほくそ笑みながら僕はそれを深々と胸に突き刺した。これが今まで忘れていた記憶だった。

 そこからは今まででの僕が歩んできた第二の人生のようなもの。戦いを嫌い、平和を愛し、信じ、目指した愚か者。数々の戦闘から逃げ、つい最近やっと己の武器を手にした。カナダと正式に契約をした専用機『セブンス・メイル』は僕の希望した最高の機体で防御に特化している。それだけなら世界トップクラスにさえなれるがそれ以外は平凡なので装甲の開発に用いられていたものだった。

 凡庸な武器、凡庸な速度、最高の盾をもって僕は一夏君と戦った。善戦していたはずだ。初めてにしては大分上手く立ち回れていた。七つの盾を用いて斬撃を防ぎ、弾き、凌いでいたのだが小さなミスで一夏君に一撃貰ってしまった。

 

 記憶を取り戻してから保健室で走馬灯のように過去を振り返って早一時間。気分は最悪だ。希望が一転して黒になる感覚は頭にこびりついて離れそうにもない。

 次に訪れるのは猜疑心。もしかするとこの学園の人たちも腹の底は彼らのように濁りきっているのではという不安がそれまでの関係を否定しようとする。どれが善か何が悪なのかをまた一から知らなければ僕は以前のようにここで暮らすことができない。

 無垢な子供のように鈍感だった以前がやけに懐かしい。元の僕はこんなにも臆病で卑屈な人間だったようだから。

 相手の表側だけを見ていられることはなんと素晴らしいものだろう。相手の言葉をそのまま受け取れることはなんと難しいものだろう。過去を信じることはなんと美しいものだろう。過去を切り離すことはなんと辛いものだろう。明日を待ち焦がれることはなんと楽しいものだろう。明日を恐れることはなんと情けないものだろう。

 もうあの日の僕には戻れない。出会う人全てに善性を感じていた心はどこにもない。

「朔夜、まだいるか?」

 保健室の扉が開き一夏君が入ってきた。着替えたのか制服姿だった。心配して来てくれたのかその表情は曇りがちだった。

「うん、もう大丈夫だよ」

 咄嗟に嘘をついたがどうにも誤魔化せているか不安だ。僕はよく顔に出てしまうタイプだしこういう時の一夏君は鋭いのですぐに見抜かれてしまうかもしれない。

「そっか。無事で良かったよ、ほんと」

「え?」

 すんなりと彼は騙されてくれた。僕を見ても何も勘付いたりせずに鵜呑みにした。不思議でたまらないが自分から本当のことを言う必要はない。一夏君とはなるべく早く戻ってこいよ、とだけ言って保健室から出ていった。気になって僕は鏡を覗いた。

 僕の顔は見事なまでに薄っぺらだった。喜怒哀楽、が思い通りに出せる。俳優が聞けば羨ましくも思うはずだ。それは全て偽りの感情ではあるが。

「以前の俺は随分と演技派だったみたいだな」

 鏡に映る何食わぬ顔をした自分を見て妙に納得してしまう。そしてなんだか可笑しくなってひとしきり笑った。この笑顔さえも作り物だと思うと自分が何を考えているのか分からなくなった。何一つ僕であるものがないかのような、肉体と心と思考が乖離されたような実に不快な感覚が取り巻いていた。

 記憶をなくしていた僕はもう戻ってこない気がする。これからはこの得体の知れない生き物が俺になる。飼い主のいない獣のような人間が薄っぺらな皮を被り宍戸朔夜()から宍戸朔夜()に変わっていくのだ。

 

 

 

「山田先生、僕の専用機を預かっていてくれませんか?」

 放課後の教室、俺は久しぶりに山田先生の補習を受けていた。その休憩時間にあることを提案した。

「でもこれからは専用機の稼働時間を増やさないと宍戸君に適したものになりませんよ」

「いえ、今からというわけではありません。学園祭の日だけでいいんです。その日は忙しくなりそうですし万が一失くした時には人が多くて探すのも苦労しそうですから」

「うーん、あまり専用機を手放すのは認可しがたいですけど……、宍戸君はまだ不安もあるでしょうし。分かりました。当日は私が責任を持って預かりますね!」

「ありがとうございます」

 表情が完璧だからこそ怪しまれない。誰も疑わない。最近の俺は少しばかり気分が良かった。自分の思い通りに事が進む事がこんなにも清々しいことだと知ってしまうとあの頃の小さなことで右往左往していた時にはもう戻れない。

 ただ今回ばかりは事がことなので人は選んだ。織斑先生ならばすぐに見破ってしまいそうだし他の代表候補生の人たちも前の宍戸朔夜を知っているが故に必ずこの計画が上手くいく保証がない。

 後はイレギュラーをできる限り排除するだけだ。

「それと、できればこの話は内密に……」

 

 

 

「ちょっと会長!そろそろ勘弁してくださいよ!」

「だーめ。まだまだお姉さんの体ほぐしてもらわないとね」

 IS学園生徒会長、更識楯無。その地位は学園の生徒最強を表しその才覚は広く知られている。そのような相手に俺程度の考えが見破れない訳がない。ならば何も伝えなければいいだけの話だ。

「そういえば生徒会の出し物は決まっているのですか?」

「ええ。でも今はまだ秘密よ。今回はサプライズ性が大切だから」

「なんか嫌な予感がしますよ俺は……」

 多分織斑君の予感は当たっている。しかしその準備でこちらの監視が弱まるなら万々歳だ。当日のイレギュラーは多少なら目を瞑ればいい。その程度で崩れる計画は立てていない。

「そういう可愛い後輩ちゃん達は何をするのかしら?」

「僕たちはメイド喫茶を。幸い料理も接客もうちは事欠きませんから」

「俺と朔夜は厨房でいいって言ったのに多数決でねじ伏せられた時はどうなるかと思ったけど、そんなにキツそうじゃないしな」

 俺と一夏君はどちらもシフトは一日たったの二時間。俺が十一時から十三時まで、一夏君は十二時から十四時までとなっている。昼時に男子二人を入れることで集客率を上げ、負担を下げるために一時間ズラすという案を提示したのはシャルロットさんだ。彼女らしい折衷案は見事俺たちをオールタイム常駐という魔の手から救った。

 余談だが裏では密かに俺と一夏君のどちらの集客率が上かを賭けているという噂がある。学園祭終了の際はぜひ織斑先生に調査願いたい。賭け馬になる気など毛頭ないのだから。

「そっかー、じゃあお昼時に二人の働きっぷりを見学に来ようかしら」

「あらかじめ言っておきますけど騒ぎだけは起こさないでくださいね?」

「あら、お姉さんがそんな迷惑なことすると思う?」

 一夏君が心配になるのも無理はない。更識会長がこの部屋に通うようになってから数日、疲労感が増すような事態ばかり起こっている。俺はまだマシな方だが一夏君は運悪く篠ノ之さんに更識会長といかがわしい事をしていたと誤解され随分と成敗されてしまったようだ。

「安心してちょうだい。ちゃんと他の生徒会の子も連れてくるから。売り上げの貢献に役立ててね」

「監視してくれる人がいるなら良かったです」

「一夏君?生意気な後輩にはお仕置きが必要だとお姉さんは思うんだけど」

「ご来店、心よりお待ちしております」

「はい、よく出来ました」

 なんだかんだ仲のいい上下関係を微笑ましく思いながら見ているとほんの少し心が洗われる。こういう世界も中には存在するのだろう、と。

 でも俺が見て来たのはもっと汚れていたものだ。これは極一部でしかない。

 

 

 

「みんなー!この前の朔夜くんの全世界生放送のDVD届いたって!!」

「ほんと!?早く見ようよ!」

「恥ずかしいので気が進みませんね」

 あの時はたしか緊張で顔も強張って舌も回らないしで散々な姿を晒してしまった覚えがある。今の自分ではないとはいえ顔が同じ人間の失敗はあまり観たくはない。

 しかしこれも人付き合いの延長のようなものだ。盛り上がる中にわざわざ水を差さずともいいだろう。そんなことは皆の表情を見れば誰だって察せられる。

 記憶の通り内容は凄惨たるものだった。我が事ながらここまで酷いと前の自分に呆れてしまう。記憶がなく他人より経験が足りないとはいえこれは度がすぎるというものだ。

「いやー、やっぱり恥ずかしいですね……」

「そんなことないよ!あれだけの人の前で喋れたんだからむしろ勲章ものじゃん!」

 すかさず誰かからフォローが入るあたり、ここでの俺は人間関係で随分恵まれている。少し妬けてしまいそうだ。あの時の俺になかった信頼できる友人と世界からの注目、おまけに現代において最強の兵器であるISの専用機まで。むしろ何を持っていないのか甚だ疑問だ。

 画面の中の宍戸朔夜がたどたどしい口調でスピーチをしている。隣には現カナダ大統領がいてその足元には多くの観衆。視界に映るもの全てが人ではないかと思うほどの密度だった。

 時間にしておよそ一分ほどの演説は多くの拍手喝采で幕を閉じた。そのほとんどが男性のもので、彼らはきっとこの演説者に男性でもISに乗れる未来を託している。その期待に応えられる気はしないのだが。

「あー、もう終わっちゃった」

 クラスの誰かが名残惜しそうにそう言った。俺もわずかに寂しくなる。この映像とこの前の一夏君との模擬戦が残された数少ない彼の記録なのだと思うとこうして仮面を被り俺がその立場を得ているのが申し訳なくなる。

「身構えてましたけど意外と短いものですね」

「ですがしっかりとご自分の言葉で話せていたのは十分に伝わってきましたわ」

「なんだかそう言われると、光栄です……」

 オルコットさんと言葉を交わしても以前感じていたであろう胸の高鳴りはない。今の俺にとって彼女は一人のクラスメイトでしかなく、尊敬だとか恋慕のような感情は湧き出てこなかった。

 そもそも最初の不遜な態度を好意的に受け止めていたあれがお人好しなだけで現在の自分が普通なのだ。頭ではそう理解していても納得ができずにいるのだが。

 俺が過去との違いについてダラダラと考えているとオルコットさんがコホン、と一つ咳払いをした。

「突然ですが宍戸さん、今日の放課後は空いていまして?」

「ええ。山田先生の補習が終わった後でなら時間はありますが」

「でしたら、少し頼みたいことが……」

 いったいどうしたのかと思い尋ねようとした時、次の授業の予鈴が鳴った。疑問を残したままだが織斑先生に叩かれるのは避けたいため大人しく席に座る。すると待ち構えていたように新着メールが一件届いた。内容は『放課後にISの稼働練習に付き合っていただけませんか?』というものだった。差出人であるオルコットさんの方を見ると頼みづらい内容であったのかその表情は不安気だ。代表候補生が専用機を手にして間もない俺に頼むというだけでも訳ありそうだが何かそれ以外もありそうな気がする。

(まあ、断る理由もないか)

 以前の自分なら二つ返事で引き受けるだろうし、そうなると断った時に違和感を感じられても困る。俺はそう結論付けて『もちろん引き受けます。僕にできることなら何でも頼んでください』と返信した。織斑先生が入室したのはそれからすぐのことだった。

 

 

 

「まずはわたくしの身勝手なお願いを聞いてくださり、大変感謝しておりますわ」

「気にしないでください。前にも言いましたけどオルコットさんの力になれるのは僕にとって喜ばしいことですから」

 後に知らされた集合場所にはオルコットさん以外の人影がなかった。面倒な申請手続きをすれば三十分だけアリーナを貸し切りにできると聞いたことがあるがこうして目の当たりにするのは初めてだ。俺と一夏君の時はその場にいた人たちが観客席に行ったので実質貸し切り状態ではあったが今回はそういうわけではない。順番待ちの生徒も終了五分前ではないと中の様子が見られないようになっている。これは大会前などに最終調整をする際の配慮によって生まれたシステムだ。

「早速本題なのですけど、一夏さんの白式がセカンドシフトに伴ってエネルギー系統の攻撃を完全に防ぐ盾を搭載したのはご存知でしょう?」

「はい。零落白夜を応用した爪状への変化、弾丸としての撃ち出しも可能にした新兵装ですよね」

「その通りですわ。今日お呼びしたのはそれへの対策のためですの」

 なるほど。話が見えてきた。一夏君の盾を攻略するなら実弾兵装を積めばいいがそうなるとメインであるBTは陽動やストライクガンナーをインストールした時のように推進力に回すことが前提となる。代表候補生の多くはデータ収集と専用機のセカンドシフトを達成することを命じられているのが大半でオルコットさんもその例に漏れない。特にBTは同調型の武器であり適合率によりその在り方は高次なものになる。その主兵装とは別に実弾を扱うとなると効率も悪い。

「本国の開発機関の方たちは頭が硬く、わたくしに実弾兵装を配備することはなさそうですわ。となれば、残される道は一つ。エネルギー弾である現段階の装備を持って一夏さんの盾を攻略しなければなりませんの」

「それならタイプは違いますが防御型の僕の機体の隙を突ければ一夏君の攻略の糸口も見えてくるかもしれませんね」

 オルコットさんからすれば俺も一夏君も自分の攻撃を必ず防ぐという前提条件さえ重なれば訓練の要素を満たせる。違いがあるとすれば機動力と攻撃性。どちらも一夏君の方が上だ。

「それもありますけど、わたくしが宍戸さんに頼んだのはもっと他の理由ですのよ?」

「他の理由ですか……」

 勿体ぶられつい尋ねてしまった。それを見越していたようにオルコットさんは用意していたであろう答えを放つ。

「わたくしが本当に弱い所を見せられるのは宍戸さんだけですもの。一夏さんの前ではいつでも完璧でいたい、そう思ってしまいますわ。好きな人には格好悪い姿は見られたくありませんから」

 そうさせるのはきっと一夏君が強いからだ。彼が強くその意思を見せるなら周りも応えて今より強くあろうとする。たった一度の勝利で彼は人の心を掴んでしまう。そうして自然と周りには多くの人が集まるのだ。対する俺は――

「宍戸さんは弱さを知っています。他でもない自分の弱さを。ですから他の誰かが躓いたり、挫けたり、時に泣いてしまっても隣に来て寄り添ってくれる、それはあなたしかできないことですわ」

 そんなに大層な人間ではない。前の宍戸朔夜ならそうかもしれないが今の俺は卑屈な男だ。優しくいられたのは自分以外の敗者を求めなかったからだ。瓶底に残るワインのように注ぎ足され新たな仲間を迎えるでもなく、時が来て水で洗い流されることを待っているだけだ。

「ですから、その……。わたくしの弱い所を、お恥ずかしい姿を見せてしまいますけど力をかしてくださるかしら?」

「僕で良ければ力になります」

 頭よりも先に口が動いていた。彼女の頼みを聞き入れる時、彼女と言葉を交わす時だけは以前の宍戸朔夜でいられる気がした。

「ありがとうございます!」

 訓練方法は単純なものだった。俺との真剣勝負でどちらが先に一撃を入れるか。俺が上手くオルコットさんの攻めをくぐり抜け懐に入るか、彼女がこの盾を攻略するかで勝敗が決する。

 スタートの合図を機械音声が告げ俺たちは動き始めたオルコットさんのビットが展開され四方からエネルギー弾が射出される。七つの盾で体を囲うようにして防ぎ距離を縮めるために前進するが肝心なところでライフルの追撃で阻まれた。

 さすが代表候補生、簡単には近付かせてはくれない。こちらもまだ被弾していないがこのまま続けていればいずれは負ける。それでは訓練にならないし何より俺が悔しい。記憶が戻ってからというものずっと惨めな思いだけしてきたのだ。この辺りで景気付けにしたい。この感情は以前なら持たなかった。オルコットさんを超えるという野望など彼が抱くはずはない。

「なかなか好戦的ですわね。ですが簡単にこのわたくしは落とされなくてよ!」

 思えばクラス代表決定戦から長い月日が経った。それに応じて成長する皆を後ろから見ていたのだ。どれだけ強くなっているかなど今一度確認するまでもない。オルコットさんのビットとライフルの連携はより強化され、気を抜けば簡単に撃ち抜かれてしまうだろう。

 だからこそ超える価値がある。勝ちたいという欲がでる。歯止めは効かなそうだった。

「これは確かに堅牢な盾ですが、それだけではありませんよ」

 体の周りに浮遊する盾の一つをオルコットさんに向かわせる。浮遊できるということはつまり自立して動けることと同義なのだ。纏う必要のない盾は鎧のように全身を守ることも、投擲武器の代わりとしての攻撃も可能だ。初見の相手なら裏をかくには十分だ。

しかしオルコットさんは冷静に放たれた盾へ銃口を向け引き金に指をかける。ライフルからエネルギー弾が射出され盾の中心に当たるが落とすことはできない。

「何ですって!?」

 あれは堅牢であることが取り柄なのだ。その程度では落とせない。そのまま彼女の肩へと吸い込まれるように軌道を描いた盾は寸前で避けられてしまった。

「今のを見切るなんて、さすがですね……」

「こんなところで遅れを取っていましたら代表候補生の名折れですわ」

 避けられた盾を空中で反転させ背中を狙うがライフルで塞がれてしまう。ISの全方位の映像を見られる機能を忘れていたわけではないがこう簡単に防がれるとは思わなかった。

「ならば攻防の比率を変えましょう」

 攻めの盾を三、守りの盾を四のバランスは今の自分が扱える限界だ。これが攻撃に偏ってしまえば穴が空く。

 三方向から挟み込むようにオルコットさんを狙う。盾を操る間の俺は動けない。だが動く必要もない。何せ被弾さえしなければこの戦法は成立するからだ。攻めて攻めさせて隙ができればまた攻めて攻められれば防ぐ。自らを一つの不沈要塞として戦う。

「この城、落とせますか?」

「もちろん、落としてみせますわ!」

 昂る、なんて簡単な言葉ではあるが今の俺を表すには最も最適なものだった。放たれる狙撃を凌ぐ度に滾り肉薄するほどに心が踊るのがよく分かる。競い合うことが、戦うことがこんなに楽しく感じられる。純心であった自分では気付けない勝ちたいという欲が湧き出てくる。

「楽しそうですわね、宍戸さん」

「ええ、お蔭さまで」

 お互い相手の隙を付くために神経を研ぎ澄ませ疲労が色濃く出ているのに笑っていた。それを理解し一層白熱する。

 楽しい。自分の過去を取り戻した俺が初めて誰かと戦い貪欲に勝利を狙っている瞬間が。幾度となく降り注ぐ銃撃を防ぐ度に気分が高揚した。今、俺は代表候補生と渡り合っている。その実感だけでも専用機を手に入れたことによる今後の困難を含めても十分にお釣りがくる。

 こんなにも戦うことが楽しい。

「さすが代表候補生ですね。付け入る隙が見当たりません」

「そういう朔夜さんも全く崩れませんわね」

 しかし追い込まれているのは間違いなく俺の方だった。オルコットさんは確実に盾が後ろに後退する威力と場所を狙い撃ちしている。その技量には舌を巻く。おおよそ秀でるところのない俺には強大すぎる相手だ。

 だが、一撃当てるだけならどうにかなるかもしれない。

 盾を自分の前に全て集合させ先端を中心に向け隙間が出来ないように並べる。さながらその姿は満開の花のようだ。そのまま俺はオルコットさんに向かって突進した。最高の盾を伴った捨て身の突撃は彼女との彼我の距離を瞬く間に詰めていく。

 オルコットさんは後退しながらライフルで反撃をするがなんとか防ぐことができる。そしてここはアリーナで単純な構造ゆえに移動する方向は予想が容易だ。並のスピードでも時間をかければ追いつける。

 そして俺はとうとうオルコットさんの懐に入った。待ちに待った瞬間、これ以上ない好機、その一瞬に俺は全てをかけナイフ型の武装を展開した。呼吸することも忘れ切りかかる。切っ先が彼女に触れ俺の勝利が確定するかと思った刹那、背中に痛みが走った。

「まさか…このタイミングで!?」

 当の本人が一番驚いていてはこちらはどうリアクションを取ればいいか分からなくなる。まさかビットとの同時攻撃を土壇場で習得するとは驚きなどという安直な言葉では語りきれない。そんなことは予想していなかった俺はまたあっさり負けてしまった、それだけは明白だが。

「さすが同調型武装と言うべきですかね。このような局面でデータを上回る動きをするとは思いませんでした」

「ええ、まさかこの瞬間に同調率が更新されるとは、想定外でしたわ。しかしこのイレギュラーがなければわたくしの負けだったかもしれませんわね」

「終わりよければ全てよしとも言いますし、戦術が広がることは素直に喜んでもいいのではありませんか?」

 挟撃が可能となれば攻撃を無効化する盾にも対応できるかもしれない。

「それに僕の攻撃は通らなかったと思いますけど」

「社交辞令として受け止められたなら少々気分が悪いですわね。まさか、以前はそんなに捻くれていましたの?」

 気付かれた。そんなことに気づけないほど鈍くはない。どうやら彼女は俺が思っている以上に宍戸朔夜を知っているようだ。

「話があります」

「構いませんわ。ですが、もう少しで他の生徒が入ってきますから場所を移しませんこと?」

 言葉通り貸し切りの時間が終わったらしく人がなだれ込んでくる。こちらにどのような思惑があったとしても頷くしかないというわけだ。

「俺はあんたが好きになれそうにない」

 苛立ちで握った拳が悔しいという感情を俺が持っていたことを思い出させる。記憶をなくすまでの俺が真っ当だったんだ。あいつは、あいつこそ偽物なんだ。

 ならばなぜこんなに足取りが重い?まるで今から絞首台にでも上がるかのような恐怖。本物である俺が偽物として生きなければならない不条理が襲い掛かろうとしている。

「宍戸さん、ここでよろしくて?」

「――え?」

「酷い顔つきですわね。いったいどうしましたの?」

 どうしたと聞いたのか。自分から俺を追い込んでおいて何も知らないような素振りで話しかけてくる。

「それと、もう正体くらい現してもよろしいのではなくて」

「俺は宍戸朔夜だ!それ以外の何者でもない!」

 声を荒げてまで言うようなことじゃない。そんなことは分かっているが淡々と答えるには俺は不確定すぎた。この学園でわずかな時間しか存在しなかった俺よりもここでお人好しに誰彼構わず接していたあいつの方が認められてしまう。彼女が俺を否定すれば存在など簡単に揺らいでしまう。

「言い方が悪かったようですから謝りますわ。ですがわたくしが知っている宍戸さんとは違うのは事実でしょう」

「ああ、そうだ。あんたの知ってるあいつは記憶をなくした俺だ。だがもう思い出した。過去も、人の汚さも」

 だから疑う。目に映る全ての人間を見境なく。

 セシリア・オルコット、彼女は俺が最も嫌う人種だ。まず出会いから最悪だ。高飛車で高圧的、自分が一番と信じて疑わない傲慢さ。こんな人間を好きになったあいつのことが一番理解できないが。

「これからは俺の人生だ。好きにさせてもらう。邪魔しないでくれ」

 こうまではっきりと拒絶したのは宍戸朔夜という存在では初めてかもしれない。思えばずっと周りにいる誰かばかり気にしていた。たまには自分中心でも構わないはずだ。

 

 

 

 どうにも引っかかる、そう感じていた。わたくしと目を合わせた朝、僅かにだが敵意を向けられた気がした。それも尊敬していると言ってくれた人から。その異変に気付かずいられるほど鈍感ではない。

 なので二人だけになれる時間を作った。もとより言い出せなかった頼み事を勇気が出ない今に前倒ししただけでいずれ通る道ではあったが疑いを持って相手に接するという点だけはどうしても申し訳なさを感じずにはいられなかった。

 だってわたくしは彼が好きなのですから。

 自分の知る宍戸朔夜は努力家であった。ISのことなんて右も左も分からない状態から補修と自主学習を重ねて周りに遅れないよう必死に学んだ。

 自分の見た宍戸朔夜は勇敢であった。勝ち目などないのに目の前で傷付くわたくしを助けるため格上の相手に挑んだ。

 自分を慕う宍戸朔夜は純粋であった。嫌味なわたくしを優しいと、我が儘なわたくしを素敵だと、時にこちらが驚くようなポジティブさで有りもしない善意まで存在させてしまう。

 そんな彼がもういないかもしれない。その恐怖を拭いたいがためにわたくしは彼と戦った。

その結果わたくしの知る彼はいないと判断せざるをえなくなった。初めて拒絶されたことも合わさりショックが大きい。

 好意を寄せている人が突然他人に変わってしまうことがこんなに辛いとは思ってもみなかった。それに彼の想いもまた理解出来てしまう。消えたくないという純粋で単純な願いをわたくし一人で絶ってしまうのはあまりに酷だ。だからこそ悩んでしまう、今後の彼に自分はどうあってほしいのか。

 戻ってほしいというのは簡単なはずだった。当然だ、わたくしは彼が好きで失われた宍戸さんも直接的ではなかったが想いを伝えてくれている。なのに過去の彼をわたくしは切り捨てられない。

 出口のない自問自答は悠久まで続きそうだ。

 

 

 

 学園祭前日に俺宛に荷物が届いた。カナダの研究所に頼んでおいたISの待機状態を模したダミーを確認してから本物を山田先生に預けた。俺の目の前で山田先生はISを厳重に保管庫に仕舞った。順調に準備が整うことに俺も気分を高揚させた。

 まるで心に凶暴な獣でも放し飼いしているような危うさを伴う負の感情が、俺を覆い尽くしている。誰も止めることはできない、誰も阻むことはできない、そう思うことで自分が完全無欠であるという気分を肥大させていく。要件を終えて自室に戻る間に明日の予定を思い返す。一部不安な箇所はあるが問題はないだろう。

「おい、宍戸」

 俺を呼び止めたのはラウラ・ボーデヴィッヒ。これまた珍しいこともあったものだ。部屋が別れてからは接点も少なくなっていた(というより織斑一夏か他の代表候補生と話すことが圧倒的に多い)のでこうして二人きりで話をするのは久しぶりだ。

「僕に何か用ですか?」

「大したことではない。何を企んでいるのか聞くだけ聞こうと思っているだけだ」

 さすが現役軍人と言うべきかどこで気付いたのか気になることは多いがまだ誤魔化せる。誰も俺の真意など分かるはずがないのだから。

「おそらく明日の学園祭には外部からの諜報員や各国のスパイ、悪の組織なんて面白おかしい存在も紛れ込むことでしょう」

「当然だな。しかも今年は男性IS操縦者が二人もいるとなれば念入りな入場者検査が必要になるが、その程度をくぐり抜けられない下手な侵入者は送り込まんだろう」

 やはり彼女はそのくらいは既に検討済みだった。おそらく学園側も同じような結論に至っているはずだ。

「おそらく学園祭当日、一夏君が狙われる可能性が高いです」

「何を馬鹿なことを言うかと思えば。どちらかと言うなら戦闘経験の少ないお前の方が狙われるだろう」

 そう返してくることは想定している。もちろん返す言葉も用意してある。

「僕は事前に先生に専用機を預けていますから。機体の反応がないとなれば狙うのは後回しになるか、運が良ければ見逃してくれるでしょう」

「では捕虜となった場合はどうする。数少ない男性操縦者ならば国でさえも組織の条件を呑むこともありうる」

「自衛手段くらいは用意してますよ。当日はカナダからボディーガード一人を送ってくれるそうです」

 ここまで話すとボーデヴィッヒさんはふむ、と考えをまとめに入った。最後に俺は畳みかけるように本命の言葉を告げる。

「ですので学園祭当日は一夏君の護衛に入った方が良いかと」

俯いた状態のまま視線だけが試すようにこちらを見据える。やがて観念したのか俺の言葉を受け入れた。

「そうだな。それだけ万全ならば言うことはない。だが実戦というのは予想外のことが簡単に起こるものだ。それを忘れるな」

「ええ。心得ています」

 そう助言だけ残すとボーデヴィッヒさんは俺の前から立ち去った。その後ろ姿が見えなくなるまで俺はその場から移動せず彼女を警戒した。相手が軍人ならばおいそれと隙を見せたくはない。

 完全に見えなくなってから俺は踵を返して自室へと再び向かい始めた。これでもう邪魔なものはなくなった。後は当日に上手くやりきるだけ、それだけで俺は自由になれる、この学園から逃げられる。

 

 

 

 学園祭当日は快晴だった。それも手伝ってかかなりの来場者数で上階から見下ろすだけでもかなり圧倒される。

「生徒が招待できる外部の人間と一部IS企業関係者だけとは思えない人だかりだね」

「この学園の生徒数自体かなり多い方だしな。にしても気が滅入るけど」

 一夏君と共に若干ナーバスな気分になりながら開店の手伝いをする。材料の運搬などの力作業はできるだけ事前にやっておきたいので予め多めに教室に運んでおいた。せっかく集客ができても商品が出せなければ意味がないし、自慢ではないが俺たちの知名度を考えれば絶対に混雑すると予想できたための準備だ。さすがに女子に力仕事をさせるのは気が引けるので俺と一夏君で率先して運ぶがかなり重い。こういう時にISが使えないのは不便だ。

(ま、最後の仕事と考えればいいか。もう世話になることもないし)

 一夏君の話を聞く限りではIS学園の外で暮らすのは多くのリスクを孕むことになるが、いつ自分という存在を否定されるか分からない現状よりはよっぽどマシだ。例え命の危機が迫ろうとも。

「準備が終わったらシフトまで暇だけど朔夜はどうするんだ?」

「僕はとりあえず校内を見て回るよ。顔を出しておきたいところもあるし。一夏君は招待した友達を迎えにいくんだっけ?」

「ああ。多分校門の前で慌ててそうだからさ」

 たしか男友達を呼んだと言っていたからその友人は圧倒的な男女比に戸惑っているかもしれない。そんな状態では早く知り合いと合流したいと思うことだろう。

 雑談を混じえながらも準備はしっかり終わりクラスメイトに引き継いでから俺と一夏君はそれぞれの目的地に向かった。

 いつも学食スペースとして解放されている場所は本日限定で休憩所になっている。そこに俺が招待したボディーガードの女性が座っていた。校門前では混雑するので予め先生に許可をもらって案内してもらっておいた。

 目立たないように黒染めした髪が白い肌と対照的で静かに缶コーヒーを傾ける姿はまさしくクールビューティという感じだ。服装はストレッチデニムと薄手のVネックシャツに半袖のパーカーを羽織っている。動きやすさ重視という感じで特に着飾った感じはしないがベルトやレザーのブレスレットから女性らしさも受け取れる。

 隣を歩かれても怪しまれることのない服装をしてくれたことはありがたい。

「今日あなたの護衛を務めることになったローレンよ。よろしく」

「こちらこそ今日はよろしくお願いします。それと、遠路はるばるありがとうございます」

「そこは気にしないで。私もIS学園の文化祭には興味があったから来れて嬉しいわ」

 どうやら本心で言っているらしいその姿を見るとここで立ち話というのも味気なく思う。どうせこれ以外に予定はなかったわけだから、彼女のリクエストでも聞こうか。

「学園祭開始から一時間で僕のシフトなのでそれまで良かったらお好きな所を回りますか?」

「うーん、一応仕事だからなあ……。申し出はありがたいけど」

「ちなみに特に予定がなければ時間まで僕はここで休むつもりです」

「実は行きたいところがあったの」

 恐ろしく早い判断力だ。思わず笑ってしまう。

 しかし文化祭なのに仕事で息が詰まるだけというのはこちらとしても気が引ける。それなら護衛がてら楽しんでくれた方が生徒冥利に尽きるというものだ。

「後輩が一年二組にいるのよ。だから挨拶だけでもしておこうかなぁって」

「それはいいですね。ぜひ行きましょう」

 二組には凰鈴音という知り合いもいるし俺が足を運んでも違和感はないだろう。最後だし顔を合わせて挨拶くらいしておくのも悪くない。

 というわけでちょうど学園祭開始のアナウンスが流れたところで俺たちは二組へと向かった。まだ校舎内は人が少なく歩きやすい。これがあと十分もすれば大分変わるはずだ。

「どうも凰さん。もう入っても大丈夫ですか?」

「まさか第一号の客があんたとはねぇ……」

「生徒特権というやつですよ」

 列に並ばず店に入れるのは少し得した気分になる。これも最初の一店目だけに使えるものではあるが。

「ところでその人は?」

「カナダでお世話になった方です」

「ローレンと申します。こちらのクラスには知り合いに会いに来ました」

 その挨拶に気付いてか一人の生徒が軽く手を振った。どうやらあの人が目当ての相手らしい。

「まだお客さんも来てないし良かったら話してきたらいいんじゃない」

「お気遣いありがとうございます、凰さん」

 返事の代わりにメニュー表を渡される。写真で見てもどれも美味しそうだ。

「二組は中華料理店をやってるんですね」

「あんたそれ今言う?」

 チャイナ服を着ているので確かにひと目でわかることではあった。それにしてもやはり本家中華娘と言うべきかかなり似合っている。

「コスプレ用とは思えない質感ですけど、もしかして私物とかですか?」

「この日のために買ったのよ、自腹で」

 随分と気合が入っているらしい。しかし想い人に見てもらうならばそれもそうかという気にもなる。

 ひとまず店内が混んでしまう前に食事を済ませよう。朝は一組のメニューの味見で甘い物ばかり食べたから塩気が欲しい。

「それではエビチリを一つお願いします」

「はいはい、五分くらい待ってね」

 そう言うと返事をした凰さん以外の数人が厨房へと急ぎ足で向かった。呆れた様子でそれを見守る凰さんに一体何事かと問いかける。

「結構人気者なんだから自分の手作りを食べてほしいって子はいるわよ。自覚ないの?」

「それは嬉しい限りですね。知りませんでした」

 あまり人気者だという自信は持ちたくないが思ったよりも好かれている立場にいるらしい。少々気恥しいところだが。

「あのさぁ、聞きたいことがあるんだけど……」

「何でしょう?」

「……一夏のシフトって何時から?」

 本人に直接聞けばいいのに、という言葉を胸中に留め周りに聞こえないように小声で答える。

「一夏君は十二時から十四時までの予定です。あと、なるべく早く来ることをおすすめしますよ」

「なんでよ。忙しい昼時は避けた方がいいんじゃないの?」

「生徒会長が来る予定らしいので」

 ああ、と妙に納得した顔で凰さんが頷く。あの人のことだ、何かしでかすに違いない。賭けてもいいくらいだ。

「はい、宍戸くん!お待ちどうさま!」

 話が一段落したところで注文していたエビチリが運ばれてきた。体感では五分も経っていないくらい早かった。

「中華は早い、美味い、安いの三拍子じゃなくちゃね」

 得意気に胸を張る凰さんに相槌を打ちつつ手を合わせる。丈夫そうな陶器の皿に盛られたそれは食欲をそそる香りと姿で俺は早速一尾を口に入れる。

 美味しい。学園祭のクオリティとしての範囲を軽く超えた一品はちょうど甘味以外を求めていたこともあってか食が進む。

「すごく美味しいですね」

 俺の感想に嬉しそうな声と安堵の息が入り交じる。そういえば最初の客だったことを思い出しこの反応に納得する。

「まあ、当然ね。この日のためにかなり準備してきたんだから」

 そう言う凰さんも心なしか表情が柔らかい。どこか不安に感じていた部分もあったのだろう。

「それじゃあ私はゴマ団子で」

 ローレンさんも話ついでに注文を通し俺の隣に座る。護衛としての仕事もしっかりとこなしてくれるみたいだ。視線を集めてしまうのはネックだが仕方ないことと目を瞑る。

 食べ終わった頃にゴマ団子が届き俺はサービスで出された熱いお茶をゆっくりと飲みながら体を休める。最近準備のために忙しなく奔走していたので立ち上がるのも億劫になりそうだ。

「うん、美味しい!」

満足気なローレンさんの顔を見ながら俺はシフトまでの時間を二組ですごした。

 

 

 

「やっぱり背が足りない気がするなあ」

 メイド喫茶として出店する一組で俺と一夏君だけは執事服を着ることになっている。しかしどうにも違和感が拭えない。山田先生のような背伸び感が自分にも存在している気がする。残念ながらここには執事服かメイド服しかないので似合っていなくても大人しく着るしかないのだが。

「いい感じじゃん宍戸くん!」

「結構様になってるねー、写真撮っていい?」

「ええ、構いませんが……」

 自分が思っていたよりは好評のようでなんだかむず痒い。とりあえず裏にいたクラスメイトとの記念撮影を終えてからホールへと足を踏み入れる。その瞬間黄色い歓声が当たりから聞こえ始めた。そしてこちらに期待の眼差しを向けている。

「お帰りなさいませ、お嬢様方」

 どうやら希望には沿えることができたようで拍手によって迎えられる。掴みは上々といったところだ。

「はいはいはい!宍戸くん、注文お願いします!!」

「かしこまりました」

 営業スマイルで最初の接客に取りかかる。しかしコーヒーを一杯頼んだ後目の前の客が言葉に詰まってしまった。そして意を決したように息を吐いてからおずおずと質問を投げかけてきた。

「あの、この『宍戸くん限定!ご奉仕セット』ってどんなのですか……?」

「いわゆるはい、あーんというやつでございます」

 値段が千五百円と中々高いのでかなりぼったくりと思われるメニューだ。オマケに二時間限定と売れ残る可能性が高いので他のメニューでも使う食材で用意ができるフルーツの盛り合わせを提供することになっているので値段のほとんどがオプションという悪魔の所業だ。しかしクラスの女子の大半が無難な金額だと主張したことにより晴れて異常にコスパのいいメニューが生まれたわけだ。

「……じゃ、じゃあこの限定セット一つ追加で」

「かしこまりました。では確認致します、コーヒーがお一つと限定ご奉仕セットが一つでお間違いありませんか?」

「はい、お、お願いします……」

 妙に肩と表情が強ばったまま返事を受け厨房へとオーダーを通す。続いて卓上ベルがなったテーブルへと即座に向かう。

 二組ほどの注文を聞き終えたところで先程のセットとコーヒーが用意できたと連絡が入り、厨房のクラスメイトからトレーを受け取る。先程のテーブルへと運び大きな音をたてないようにソーサーに乗ったコーヒーを机に置く。それより少し奥に件のセットを置き注文の品を読み上げる。

「ご注文のコーヒーと限定ご奉仕セットでございます。お嬢様、生クリームとチョコはどちらがお好みですか?」

「え?あ、えーと……、チョコです……」

 返事を聞いて俺はオルコットさんが用意したらしいフォークで苺を一つ取り溶かしたチョコにくぐらせる。

 それを緊張した面持ちで俺の一挙手一投足を見ていた彼女の口元に運ぶ。

「お嬢様、口をお開き下さい」

「あ、あーん……」

 小さく開かれた口の中に一粒の苺が全部入るのか心配になる。案の定上唇にチョコが僅かに付いてしまった。

「失礼します」

 トレイに乗せてあるおしぼりで口元を拭いチョコを取った。我ながらマニュアルに書いてあった通り上手くできたと思う。

 しばしの沈黙の後、彼女は顔を真っ赤にして俺を見て目を回した。何か言いたげだが言葉にはならずか細い声が漏れるばかりだった。

「あ、あのっ、あ、ありがとうございます……いろいろ」

「しかしこれで千五百円というのは心苦しいですし、もう何度かサービスしましょうか?」

「いえいえ!これ以上は供給過多になりますから!!」

 なんだか煮え切らない答えではあるが断った相手に無理強いするのも良くないだろう。他の客の相手もしなければならないし。

「それではまた何かご用があればお申し付けください」

 一礼をしてその場から去り次のテーブルに向かおうとしたのだがクラスメイトの人に呼び止められた。

「どうかしましたか?」

「実はご奉仕セットの注文が四つ入ってるんだけどお願いできるかな?」

「随分羽振りのいいお嬢様方ですね……」

 言われた通り順番にご奉仕セットをテーブルに運び、一口食べさせては次に向かう作業が繰り返される。

 その度に客の口元にチョコや生クリームが付くので小ぶりなものを上の方に盛り付けてほしいと厨房の女子に頼んだのだがサービスの名の元に断られてしまった。

「ほら、大きい方が印象良いし。ね?」

 というゴリ押しに負けて俺は食べさせては口元を拭うルーティンワークを続けた。

 時間はあっという間に過ぎていき、気が付けば昼になり一夏君もホールに加わった。

『ダブル執事!この奇跡の瞬間に立ち会えるなんて!!』

『こんなのご奉仕セットを頼むしかないじゃない!ダブルで!!!』

「ちなみに一夏くんのは『執事にご奉仕セット』、はいあーんを一夏くんにしてあげられるメニューでーす」

 メイド服を着て接客をしていたクラスメイトの一人がそう言った途端に注文が殺到した。記念すべき第一号はというと、

「あれ、鈴じゃないか。来てくれたんだな」

「ふん。緊張してるだろうと思って幼馴染のよしみで来てあげたのよ」

「そりゃどうも。まあゆっくりしていってくれよ」

 鈴さんが座っているテーブルの椅子を引き腰掛けて一夏君は落ち着きなさそうに襟元を正していた。

 普段男らしい一夏君に棒状のお菓子を食べさせるというサービスはギャップ萌えの狙いがあるらしく、普段の勇ましさ以外の一面を見せることで集客効果があるのだと誰かが力説していた。俺の方も同様にいつもは大人しいタイプが頑張ってリードしようとしてくれるところを全面に出してほしいと指示が出た。その割には難なくこなしてしまった気はするが。

「宍戸くん、どうかしたの?」

「ああ、お待たせしてすみません。一夏君も頑張っていることですし僕達も始めましょうか」

 先ほどと同じように苺に生クリームをつけて客の口に運ぶ。なぜか口周りに付いたそれを拭い一言二言話してから次のテーブルに向かう。昼時の混雑もあり余裕はないがせっかく来てくれたらのに雑に対応するのも心が痛む。なので一人一人しっかり対応していく。

 思えば最初以外まともにウェイターの仕事をしていない。食べ物を運んだりしている女子がいるのに自分はこれでいいのかと考えずにはいられない。

 昼のピークはこんな調子で何とか乗り切り、2時間のシフトを終え俺は執事服からいつもの制服に着替えた。肩肘張らずに着られる服は落ち着くなと、当たり前のことを再認識しながらローレンさんと共に学園内を気まぐれに歩き回る。

「どこか行きたいところとか見つかった?」

「一時間後の生徒会主催のイベントまでは特には。それまでは校内を見て回るくらいですかね」

 たまに声をかけられることがあるので手を振り返したりしながら一年から三年までの教室を見て回る。中に入って楽しむのも良いが今日は別件があるので残念だが見るだけにした。

 人だかりの中をゆっくりと歩き進み校内を一周するとちょうど良い時間になっていた。そのまま生徒会が使用している第四アリーナに向かう。予想はしていたがかなり人が多い。

「うひゃー、すごい人だかりだ。これで宍戸くんとはぐれたら大目玉食らっちゃうわね」

「ボディーガードも楽ではありませんね」

 これだけいれば何か騒ぎでもあればすぐに見失ってしまいそうなものだが、言い訳にはならないのだろう。

「やっほー宍戸くん。ちょっとお姉さんに付いてきてくれる?」

「更識会長、どうかしましたか?」

 予想通り主催者である彼女は俺の所に来た。おそらく一夏君も既に呼ばれているだろう。

「実は私たちが公演する演劇に参加してほしくって。勿論お礼はするから」

 勢いよく開かれた扇子には『高待遇』の文字が書いてあり更識会長は不敵に笑っていた。何かあるのは間違いないが計画のためにはこれはまたとない好機だ。

「ええ、僕でよければお手伝いしますよ。ところで、演目は何を?」

「フフッ、感謝するわ。そして、気になる演目は『シンデレラ』よ!」

 

 

 

 執事服の次は燕尾服を着ることになるだなんて誰が予想できただろうか。思ったよりも動きやすいのが救いだが、やはりこういった礼服は似合わないと再確認しなければならないのは少々気が落ちる。

「へぇー、意外といけるわね」

 それにしても更識会長はどこで俺にピッタリの燕尾服など見つけてきたのだろうか。やはりこの人は底が知れない。

「楯無さん、そろそろ台本渡して貰えないと台詞が覚えられませんよ」

「安心して一夏君。ほとんどナレーション主体でストーリーは進むから、それに合わせて動いてくれるだけでいいわ」

 飛び入りで参加するので心配であったがそういうことなら一安心だ。自分のことを誤魔化すことなら何とかなるが、演技となると自信がなかったから。

「それじゃ、十分後に開演だから頑張ってね」

 結構すぐだな、と考えながら生徒手帳で非常口を確かめる。何かあった時のために念の為、だ。

 そう、あくまでも念の為に。これから起こることは俺が手を引いたわけではない。だがこうなる可能性が高いというだけの事。もしかすれば何も起きず平和に終わるかもしれない。

(何も無いって方が可能性としては低いけど)

 生徒手帳を閉じ舞台袖に移動する。開演を待ちわびる控えめな話し声に聞き耳をたて呼吸を整える。少し、緊張していた。

 時計の秒針がやけにゆっくりと進んでいるように感じる。人前に出て見せ物になるなんて学芸会以来でその時も端の方で小さく動く脇役程度だったから注目されること自体俺は苦手なのだ。だがこれは必要なことだから避けることができない。俺は平和に身を置かねばならないのだから。

 その為に準備も怠らなかった。できる限りの手は尽くした。後はこれからに身を委ねるだけだ。

開演のブザーが鳴り響く。幕が上がり城を模したステージが証明に照らされた。

『昔々、とある国に美しい男が2人いました』

 ナレーションに合わせて俺たちを照らしていた照明が動いたのでそれに合わせて立ち位置を移す。中央付近で一夏君と一メートルほど距離を開けた所で光が途絶えた。

 二秒ほど間を置いて一夏君だけをスポットライトがその存在を闇の中で浮き彫りにさせた。

『織斑一夏、その国の王子であり王国の騎士団の指揮を任されている身でもある彼は日々弱き人を守るため剣を振るっていました』

 一夏君はそれに合わせてゆっくりと腰に差した剣を引き抜く。レプリカではあるがよく出来たそれは光を反射して煌々と輝いていた。

 眩しいその刀身をじっと見つめる。目を逸らしたくない、そんな風に考えてしまった。

 次にスポットライトが俺を照らした。

『宍戸朔夜、彼はその国の王家に仕え本人は決して目立つことなくひっそりと忠義と共に生きていました』

 その生き方には心当たりがある。まるで、いや……、過去を忘れていたあの日の宍戸朔夜のような。

 頭が少し傷んだ。直立したままの俺にナレーションが加えられる。

『王家のため、身を粉にして従事する姿は自己犠牲にも似た危うさを感じさせられるのです』

 誰かのためにこの身が傷付くことを選ぶなど本来の俺ならするはずがないが舞台の上ではそういう人間らしい。対局を演じられるか少々不安ではあった。

『さて、この二人の男には秘密があります。なんと彼らは国から重大な機密事項を託されているのです』

 急な展開に一瞬、思考が止まる。機密事項とやらの話は聞いていないしそれらしい小道具も渡された記憶がないのだが。

『頭に乗せられた王冠と襟元で輝く王家の紋章はそれぞれに国家機密の手掛かりが隠されている。それらを狙う夜の暗部部隊――灰被り姫(シンデレラ)!今宵、彼女たちが動き出す』

「何ですかその導入は!?」

 一夏君が耐えきれなくなり声を上げる。俺も同じ気持であったので代弁してくれるのはありがたい。そんなことを考えていると人影がものすごい速さで隣を駆け抜けた。

「鈴!?なんでそんな物騒な物振り回してるんだよ!?」

「うるさいわね!いいから頭に乗っかった王冠を大人しく渡しなさいよ!」

 両手に持った刃渡りの大きい片手剣を振り回す姿はシンプルに怖い。そうなればこの場から離れるが吉、そう思いステージ袖へ避難しようとした時視界が白に覆われた。

 やけに肌触りの良いそれが体全体を包むより早く横に飛びのいた。その正体を確かめようと目を動かすがその前に俺の体が押さえつけられた。

「セシリア・オルコット……」

 腕が動かせないのでせめてもの抵抗として睨んでみたものの相手の反応はない。表情もどこか煮え切らず迷っていますとでも言っているようなもので意志薄弱と表すのがぴったりな程だ。

「何も用がないなら離れてくれ。俺は急いでいるんだ」

「用件ならありますわ」

俯いたままそう答える彼女の次の言葉を不機嫌な表情も隠さずに待つ。その口元が僅かに開いては閉ざされるのを幾度か見ているうちにやっと声が出てきた。

「……その襟に付けられた紋章があれば宍戸さんと同じ部屋で暮らすことができますの」

「だから良い育ちの淑女が男に馬乗りになってるって?冗談じゃない。もう前とは違うんだよ。触れ合うだけで喜ぶ青臭いガキでもなけりゃ同じ空間にいるだけで赤面するようなウブでもない」

 俺を押さえていた腕から力が抜けていく。それを払い除け自由になった上半身を起こし彼女の眼前で真実を口にする。

「もう全部過去の話なんだよ」

 今にも崩れそうな力の入っていない足で俺の上から立ち退いた彼女を一瞥するとその瞳が潤んでいた。その未練を見せられて俺は静かに苛立った。この学園に自分は不要だと言われているような気がして今からでも逃げ出したくなってしまう。

 そんな暗い雰囲気の中で突如響いた声は余りにも現実感がなかった。

『では、ただ今より客席の皆さんも自由に参加OK!頑張って王冠を手に入れてね!!』

 状況把握をするよりも早くステージに向かってくる無数の生徒を見れば嫌でも理解出来る。鬼の数が多い鬼ごっこが始まった。要はそういう事だ。

 それに場が混乱した方が当初の計画を遂行する上では都合が良い。無理矢理自分に言い聞かせなければこの光景に圧倒されてすぐに捕まってしまいそうだ。

 なるべく早く反応し舞台袖から外に出たはずなのだが既に待ち構えた女子が追いかけてくる。あまり鍛えられていない体ではいつか追いつかれてしまう。

「君、こっちに!」

 事態の好転は思いの外早く訪れた。手を引かれ曲がり角に差し掛かってすぐの更衣室へと連れられる。長い距離ではないが走ると疲れてしまい息が上がっていた。

「ありがとうござ――」

 そこまで言って俺は宙を舞っていた。腹部に走る痛みと背中を地面に打ち付けた痛みで咳き込んでしまう。

「礼とかはいいんだよ。とりあえずお前のISを寄こせ」

「……渡さなければ?」

 俺の答えを予想していたかのように瞬時に女の腕が首に伸びる。気道が狭められ息がしづらい。

「大体察しはつくだろ?自主的に渡して生きるか、殺されて奪われるかだ。おら、さっさと選べよ」

「初対面に対して酷い仕打ちだな……」

 更に首が絞まる。あまり軽口を叩く余裕はなさそうだ。

「悪いなぁ、最初は織斑一夏を狙ってたんだがもっと楽に奪えそうな奴がいたからつい襲っちまった」

「……分かった。渡す、渡すから離してくれ」

 ポケットからISのダミーを取り出し手渡すと首の圧迫から解放された。

 さて、このダミーだが2つの機能を備えている。一つはISの信号と同じものを発することで本物の場所を撹乱できること。そしてもう一つは

「こんな簡単に終わるとはなあ。リムーバーを使う手間が省けたぜ」

 女を睨みつける。別に悔しいわけじゃない。機が熟すその瞬間を逃さないためだ。

 ダミーが女の顔に近づけられた。その様は戦利品を眺める間抜けな盗賊のように見える。

「死ねよ」

 二つ目の機能である小型爆弾としての役割を最大限に発揮出来る頭部付近での爆破。思わず破顔してしまう。

「あは、あははははは……」

 外部の人間の侵入が可能なこの日に俺が狙われる可能性は高い。いくら政府が介入しこの学園に無理矢理入れられたとしても命の危機に瀕したとあれば安全神話など簡単に覆せる。

 ここから出れば元の宍戸朔夜として生きることができる。やっと戻ることができる。そのための計画が万事上手くいったことに笑う。安堵と感激と喜び、その辺りの感情によるものだろうか。自分でも分かる歪な笑顔だ。

「――やりやがったな」

 唯一、この計画に綻びがあったとするならこの後を考えていなかったことだ。目の前に現れたISは絶望感を得るには十分すぎた。

「は?」

 ぐちゅり、と嫌な音をたて女が操る蜘蛛のようなISの足が俺の太ももを突き刺した。

 絶叫。脳で処理できない過剰な痛みがアラートの如く声という形で口から溢れていた。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 怖い怖い怖い怖い。

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。

 万が一を考えてISは山田先生に預けてしまった。この危機から脱出する術がない。まだ自分の死を受け入れられない頭が子供のような駄々を無限に繰り返し痛みと恐怖と生への執着で綯い交ぜになっていく。

「死ねよ」

 意趣返しのつもりだろうか。顔の半分を火傷で爛れさせた女の短い死刑宣告を聞き体が強ばる。眼前に迫る蜘蛛の足が心臓を貫かんと迫るその時のまま、時間が止まった。

「早く逃げろ!」

 立ち上がれないため惨めに床を転がってその場から逃れる。苛立ちを表すように床を削った音が遅れて響いたかと思うと今度は上から轟音が響いた。

 そこに目を向けると同時に女に絡まったワイヤーブレードが解ける。レールカノンから放たれる太い光線が天井ごと女を撃ち抜いた。

 ここまで見れば分かる。俺を救ったのはラウラ・ボーデヴィッヒだった。

 彼女は腕を伸ばし女を空中に縛り付ける。そこに蒼い一撃が悪を貫かんと光の線を引いた。女のISの装甲は既に所々に亀裂が入っている。

 これが戦いか。

 目の前で起こった一瞬のやり取りに俺は戦慄した。続いてISという兵器を甘く見ていたのだと己の無知を恥じる。

 女が拘束から抜け出し更衣室の壁を破り外に出ていったそれを追いかけるボーデヴィッヒさんと入れ替わるようにセシリア・オルコットが天井の穴から舞い降りる。

「立てますか宍戸さん?」

「一人にしてくれ」

 悔しくて直視出来なかった。あれだけ冷たく接したのにまだ俺に手を差し伸べるその優しさが本物だと知ることで己の矮小さが際立ってしまう。

「どうして俺に優しくするんだ……」

 弱々しい声は既に静寂を取り戻したここでは彼女の耳に容易く届いた。彼女は答える。

「この優しさは宍戸さんから貰ったものですわ。あなたが優しくあったからわたくしもそうでありたいと思っていられましたから」

「それは俺じゃない」

「だとしても別人だなんて考えませんわ。あなたもわたくしの大事な人です、だからこんな危険なことは二度となさらないでください……」

 流したくもないのに涙が溢れる。一番見せたくない姿を一番見せたくない相手に見せてしまった。隙の多い男だ、俺は。

「山田先生から預かってきましたわ。ここで、大人しくしていてくださいな」

 彼女はそう言うと俺のISを懐から取り出した。無言でそれを受け取り、力なく勇ましい後ろ姿を見送る。

 同じ年齢とは思えない戦いに赴くその覚悟を格好良いと思った。自分も気高くあれたらと叶いもしない願いを抱いてしまうほどにその姿に心を奪われた。

 俺にも力はある。ならそれをどのように使うべきなのか?

 答えは既に出ている。後は選ぶだけだった。

 

 

 

 わたくしが向かうと既にラウラさんと生徒会長が侵入者に対峙していた。突然のことに眼下の生徒は悲鳴を上げてはいたが教師陣の対処が早く既に半分以上は屋内に避難している。

 市街地に逃げられると一般市民に犠牲者が出る可能性がある以上生徒に危険が生じることを承知で学園内を戦いの場にしなければならない。IS学園が治外法権とはいえそれは日本を含む他の国々からの信用を前借りして得た特別な立場なので、不祥事があれば容易に揺らぐ。

(何としてもここで仕留めなくては……!)

 しかしそのような事情など相手も知った上で潜入している。

 厭らしく広範囲にエネルギー弾を撒き散らしながら離脱に移行していた。

 ラウラさんがAICで生徒会長が水の盾を用いて防ぐが対応出来る範囲には限度があり未だ数十発が地上に向かっていく。

 ブルー・ティアーズを射出しエネルギー同士をぶつけて相殺させるが人間の反応速度ではかき消せた数は十にも満たなかった。どうすれば良いかと思考する時間も着弾までに取れる行動もない。

 

「発破をかけたあんたが簡単に諦めるなよ」

 

 その声はとても苛立っていた。だがこの瞬間において誰よりも心強い助っ人である。

 七つの盾が正六角形を型作り、目に見えない障壁を張った。話には聞いていたがこれが……。

「この機体と俺の力が合わさることで初めて実現する絶対防壁だ。その程度の攻撃では何一つ被害は出ない。後は頼んだぞ」

「宍戸さん……」

 言葉の通り学園と生徒に直撃するはずだったエネルギー弾は全て壁にぶつけられた水風船のように消滅した。それはわたくし達に攻めの一手を取らせることへの躊躇いを無くしてくれる。

「反撃の時間ですわ!」

 元より手負いの相手であり捕らえることは簡単だ。それを妨げていた要因が排除されたとあらば目的は既に達成されたようなものである。

 わたくしの遠距離からの射撃とラウラさんと生徒会長の近中距離に対応する柔軟な戦闘スタイルに相手はまともな応戦もできない。

 プラズマ手刀が腕の装甲を、水を纏ったランスが飛行ユニットを、わたくしの狙撃が動きの鈍くなった体にそれぞれダメージを与えていく。胸部への一撃に絶対防御が発動し相手はかなりシールドエネルギーを消費したはずだ。あと少しもすれば行動不能になるだろう。

「終わりよ!」

 生徒会長が素早い動きで相手の懐へと獲物の先端部を流水の如き滑らかさで突き出した。

 しかし勝利の一撃となるはずだったそれはイレギュラーによって阻まれる。

 ランスに直撃した光線により攻撃がそれた。点での一撃故にその妨害は致命的であった。生れた隙は相手に反撃の機会を与えてしまう。

 生徒会長の背中に襲撃者の二本の脚が襲いかかった。

「させねぇえええっ!!!」

 白く輝く刃が血に濡れる寸前の脚を切り落とした。本来は止めの一撃のために待機してもらっていたのだが襲撃者の援軍が現れた以上は総力を挙げて迎え撃たなければならないと一夏さんも判断したようだ。

「楯無さん!大丈夫ですか!?」

「ありがと。結構危なかったかも」

 一夏さんの零落白夜によって三本の脚を落とすことができたが新手のISにわたくしは既に気が気ではなかった。

 祖国で開発されているはずの機体が目の前にいれば冷静さなど維持できなくなる。このブルー・ティアーズの後発機、厳密に言えば実験機からのデータを基に作られているのだから正規版ともなるものがよりにもよって学園に襲撃を仕掛けるようなテロリストに奪われているという事実にどう向き合えというのか。

「――じゃあなクソガキ共」

 態勢を整えている間に向こうは離脱の準備を概ね終えていた。置き土産のグレネードをばら撒いて高度を上げていく。

「皆さん、下がって!!」

 起爆よりも早く宍戸さんの盾がグレネードを取り囲むように障壁を張った。球体の中で爆発しくぐもった音が脳にまで響いた。反動が届くのかその手にうっすらと血管を浮かべながら爆発を抑え込んでいる。一面に広がるはずだった黒煙が阻まれて正円のように見える。

 なんとか被害は出なかった。宍戸さんの功績によるものがかなり大きく当分彼には頭が上がらない。

 ISを解除した宍戸さんはそのまま片膝をついた。先ほどロッカールームで襲われた時の傷による流血が酷く補助機能を失ったことで立つこともできなくなったようだった。

 地上に降りて宍戸さんに肩を貸す。

「本当にお疲れさまでした」

「これで、貸し借りはなしだな……」

 そう言って彼は意識を失った。力が抜け一層重くなった体を医務室まで運び終わる頃には被害状況の確認も終わり学園祭も再開されていた。

 

 

 

 日中とは打って変わって人気がなくなった学園の敷地を見下ろす。明日の朝に撤去される予定のテントが所狭しと佇んでいる。時折風でカサリ、と音がなるのが静かな夜も相まって耳まで届いた。

「こんな時間にどのような要件ですの?」

「やっと来たか」

 月明りと眼下の街灯の僅かな光を受け淑やかに輝く金色の髪を揺らしながらセシリア・オルコットがやってきた。というか俺が呼んだのだが。

「とりあえず昼間に医務室まで運んでもらったことと専用機を届けてくれたことの礼を言おうと思ってな」

 助かった、と軽く頭を下げると向こうもどういたしましてと自然に返してみせた。

 さて、では本題に移ろうか。時間もない。

「あと、あんたにとっては朗報だ。あんまり大っぴらにはできないけどな」

「朗報?それは楽しみですわね」

 急にこんなことを言ったものだから警戒されているようだ。別に何か企んでいるわけではないのだが今回の一件もあるので疑われるのも仕方がないか。

 半ば諦めた状態で彼女に伝える。

「――そろそろこの人格が消える」

 想像に反して第一声がなかなか出てこなかった。

「それが朗報ですって……?」

「何か不満そうだな」

 やっと帰ってきた反応もやや否定的な雰囲気でむしろ呆れられている気もする。

「確かにわたくしが好きになったのは以前の宍戸さんですし、戻ってほしいという思いがあるのは事実ですわ」

「ならなぜ?」

「あなたの人格も偽りではない宍戸朔夜なのでしょう。その消失が喜ばしいことではないことなどあなたが一番ご存知でしょう?」

 分かり切っていることをわざわざ尋ねること以上に意地の悪いことはない。どうやら最後まで好きになれそうにはなかった。少し見直したところはあるが。

「そうは言ってもおそらく結果は変えられないだろうよ」

 グレネードが爆発する前に何とかしなければならないと動いた時、俺ではない誰かが先に守らなければと思い立った。

「まだ分からないでしょう……」

「分かるさ。これは気持ちが強い方が勝つんだよ」

 生きたいと願ったのも、セシリア・オルコットに会いたいと願ったのも誰かを守りたいと覚悟を決めたのもあいつだ。俺じゃなかった。

「記憶さえ戻れば俺に戻れると思ったんだがな。だがあの時死んだんだよな、この人格は」

 苦しさから逃れるために死んでいた。奇跡的に蘇っていただけでそれももう終わる。

「なあ、死ぬ間際の俺からの頼みだ。話を聞いてくれないか?」

「好きになさってください」

 引き止めるだけ無駄だと悟ったのか彼女は手すりにもたれ掛かりこちらの話を聞く姿勢を取った。ありがたいことだ、これくらい無関心を装ってもらった方が気が楽になる。

「俺さ、あんたのことちょっと見直したんだよ。代表候補生ってんだからすごいのは知ってたけど、成績とかじゃなくて生き方が尊敬に値するものだった」

 言葉にすれば自分の気持ちを俯瞰して理解することになる。

「嫌いだったはずなのにな、気付けばそこそこ好きになってたよ」

「何ですのそこそこって……」

「強がりだ」

 実をいうと割と気に入っているが、最初にあれだけ啖呵を切っていたものだから恥ずかしくなって見栄を張ったのだ。

「嫌いな部分は多いが、芯の通った奴は好感が持てる。最初に比べれば性格も丸くなってるしな」

「一言余計ですわ」

 あいつはこのムスッとした顔も可愛いとか思うのだろう。恋の盲目にも呆れたものだ。

「悪いな。素直に褒める気になれなかった」

 それは宍戸朔夜の仕事だ、俺にその役目はない。思い出だってほんの数日分しかないし気持ちもあいつの方が上だから任せてしまえばいい。きっと期待以上の美辞麗句を並べてくれるだろう。

「あー、眠くなってきた……。もうそろそろか」

 立っているのも億劫になるような脱力感と思考が阻害されるほどの眠気が同時に襲ってきた。このまま眠ればこの存在が消えてしまうのは想像に難くない。

「……もうお別れですのね」

「そうだな……」

 何も話す言葉が浮かばないことが俺たちの関係を分かりやすく示していた。近くにあったベンチに腰掛け空を見上げる。星々が輝いてはいるが眠るにはまだ早い時間に瞼を閉じと意識が段々と遠のいていくのが分かった。これ以上安らかな死は他にない。

「助けてくれて、ありがとう……」

 最後にそれだけは言いたかった。あの時望んでいた誰かが伸ばしてくれる腕。それを叶えてくれたのは他でもないセシリア・オルコットなのだから。

「――気にすることはありませんわ」

 お互いにさよならを言うことはなかった。

 

 

 

 どれくらい眠っていただろうか。夢現の中でいろいろな事を見てきた気がする。

「宍戸さん、気分はよろしくて?」

 やけに近くからオルコットさんの声が聞こえた。まどろみが残りまだ思い瞼をゆっくりと開けると眼前に彼女の見惚れるような顔がある。眉が下がり不安げな表情でこちらを見下ろしているのだが、それはともかくなぜこんなにも距離が近いのかという疑問が残る。

「オルコットさん……。こんばんは」

「ごきげんよう宍戸さん。寝苦しくはありませんこと?」

 そう言われてやけに寝心地が良いなと気付いた。少し高いが程よい跳ね返りのある枕だ。オルコットさんの前でなければもうひと眠りしたいほどに心地が良い。

「いいえ、とても気持ちがいいです」

「まあ、わたくしの脚を使っているのですから当然ですわね」

 遅れて言葉を理解し視線を移すとオルコットさんのお腹が見えた。といっても部屋着に上着を羽織った状態なので素肌を見たわけではないが現状を把握するにはこれだけでも十分だ。

「ご、ごめんなさ――」

 すぐに離れようと上半身を起こそうとしたのだが、まだ完全に覚醒していないのか頭痛に襲われ体がふらつく。

「気を遣う必要はありませんわ。横になってくださいな」

「ご迷惑をおかけします……」

 肩を押さえられオルコットさんの膝の上に戻される。意識すると体を休めるどころではなく心臓も早鐘を打ち非常に落ち着かない。

 顔が真っ赤になっているのが分かるくらいに熱く、どこを見るべきか迷う視線があちこちに移動し景色が目まぐるしく変わっていった。

「少しは落ち着きなさいな」

 呆れたオルコットさんに眼鏡を外され視界がぼやけた。

「まったく……。久しぶりの再会なのですから、もっとちゃんと……」

「オルコットさん?」

 声が震えている。いつも僕の耳に真っ直ぐに届く透き通った声は次第にか細く小さなものへと変わった。顔の上に熱を持った液体が落ちてきたことで彼女が涙を流しているのだと分かった。

 輪郭がぼやける世界で手を伸ばし、壊れないように優しく指で撫でた。変な場所を触ってしまうかもしれないと不安になったが上手く涙を拭うことができた。

「……もう、どこにも行きませんわよね?」

「もちろんです」

「運が悪ければ死んでいましてよ……。あんな無茶はもうしないでくださいな……」

「約束します」

「困ったことがあれば頼っていただきませんと……、心配でたまりませんわ……」

「ご迷惑をおかけしました」

 尊敬している人に、大好きな人にこんなことを言わせてしまったことを反省する。そしてこんなに自分を想ってくれる人がいることがこの上なく嬉しい。

 だから僕も自分の言葉で伝えよう。

「――オルコットさん、大好きです」

「急に何を言いますの……」

「すみません、でも一夏君に渡したくないなって思っちゃったので」

 この人を愛しているという事実はどんなに誤魔化そうとしても、どんなに諦めようとしても消えなかった。ならちゃんと向き合ってはっきりさせたい。

「あなたの恋を応援するという約束を破ってしまうことになりますけど」

 気持ちを落ち着けるために軽く息を吐いてぼやける視界の中で彼女の目を見て想いを伝える。

「――僕と付き合ってください」

 大事な場面で言い間違えることも声が上ずることもなかった。オルコットさんが僕を強くしてくれたから入学初日の弱かったあの頃から変わることができて、告白までできた。次は僕から彼女に与えたい、そんな有り得ない目標さえ抱いている。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そんな今だからこの返事はすごく嬉しかった。それこそ涙を流してしまうほどに。

「もう、情けないですわよ。わたくしの隣を歩く殿方になったのですから、しっかりしなさいな」

「ごめんなさいっ……。ずっと憧れていたから、嬉しくて……!」

 拭っても拭っても、涙か溢れてくる。こんなに感情の抑えがきかないなんて初めてでどうすればいいか分からなかった。

 そんな僕の顔にさらさらとした何かが落ちてきた。くすぐったくて、花のような上品な香りに包まれて不思議と涙が引っ込んだ。

「こんな大事な時に眼鏡を返さないのはズルいとは思いますけど……」

「え……?」

 開きかけた唇に柔らかな感触が触れた。ぼやけていてもこれだけ近づかれれば何があったかちゃんと見えた。

「ズルい女だと嫌いにならないでくださいますか?」

 なんだか恥ずかしさが限界まで迎えて知らないうちに平静を取り戻した頭はしっかりと僕の気持ちを紡いだ。

「まさか、もっと好きになりましたよ」

 僕の返事を聞いて満足したオルコットさんは立ち上がろうとしたが膝枕をしていることを思い出し、浮かしかけた腰をもう一度ベンチに戻した。

「返しますわ」

 眼鏡を受け取り、かけてみるとクリアな視界に顔を赤くしたオルコットさんが映った。

「……赤面しているところは見せても良いんですか?」

「意地悪な人は嫌いですわ」

 唇を尖らせながらオルコットさんはもう一度僕から眼鏡を取るのだった。




 気が付けば前回の投稿から二年以上経過していました。就職活動や社会人になったことによる忙しさの中でも続きを書きたいという思いは消えずちまちまと頑張っていましたが思ったよりも長い時間を要してしまいました。
 少ない数ではありますが自分の二次創作を楽しみにしていただいている方がいると知っているのでこの場を借りて言わせていただきたく思います。長らくお待たせいたしました。
 さて、読破していただいた方は既に感じているかもしれませんが今回はかなりの文字数になっています。これは記憶を取り戻し現実に絶望した人格を次に持ち越したくないという思いがあったからです。
 宍戸朔夜の設定を作った当初、メタい話ではありますがハマっていた漫画のキャラが記憶喪失でなんとなーくその要素を入れただけでした。本来はこの捻くれた性格のまままたセシリア様を好きになるという筋書きでしたが、この話を書いているうちに純真で善意に満ちた宍戸朔夜に好感を持っていました。
 なので失いたくないな、と感じもう一度彼に戻ってもらいました。
 これが今回の話を書いた心情といいますか動機みたいなものです。

 そして実を言いますと本編は次回で最後にしようかと思っています。原作に合わせてというわけではなく書き始めた当初より定めていた結末に今回で大きく近づいたため、おそらく次で最後になるということなのです。
 といってもセシリア様は好きですしこの話にも思い入れがあるので番外編を気が向けば書くかもしれません。その時はまた読んでいただけると幸いです。
 それではみなさんまた次回に。

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