初めは、小さな衝動だった。
宴会などで彼が他の女と話しているのを見る度に、どうしようもない不安に駆られた。
――私は捨てられてしまうんじゃないかしら。
勿論、そんな不安は杞憂であると八雲紫は分かっていた。彼は彼女を愛していたし、彼女は彼を愛していた。でも、周りに他の女が寄ってくる度に、死にそうなくらい不安になる。その不安を彼に打ち明けると、なら僕達が付き合っていることを皆に話せばいいじゃないか、と言われた。
八雲紫が彼と付き合っていることは、式である八雲藍しか知らない。正式に結婚が決まってから――とか、もうちょっと時期を見計らって――とか、そんな適当な理由をでっち上げて、自分達が付き合っていることを周りに言わずにいた。
妖怪の賢者と呼ばれる者として、至極普通の人間と付き合っていることを自分をよく思わない妖怪に知られるのが嫌だったのかもしれないし、ただ単に色恋沙汰を他人に知られるのが恥ずかしかっただけかもしれない。その真意は本人にも分からなかったが、兎に角、それを周りに話すことはなかった。
彼が紫に気を使ってくれているのか、その話をして以降他の女と二人で話している事はめっきり減ったようだったが、それでも八雲紫は不安だった。彼に話しかける何人かの目には、明らかな恋慕の色が映っていたからだ。
――いっそのこと、あの女どもを――
そう思ったこともあったが、彼はそんなことをしても悲しむだけだし、そこまでするのは何となく気がひけたのでやめた。
「はぁ……」
隣で寝ている男の緩んだ表情を見て、八雲紫は小さく嘆息した。
「私をこんなに心配させておいて、暢気なものね」
彼の頭をくしゃりと撫で、そして腰に手を回し、優しく抱き寄せた。昔病弱だったという彼の体は華奢で色白く、紫が少しでも力を込めればすぐに壊れてしまいそうに思えた。
首筋を指でなぞると、くすぐったいのか、彼は寝返りを打って離れようとする。それを後ろから抱き締めて拘束すると、安心しているような落ち着いた呼吸音と、静かな心臓の鼓動が耳に心地好く聞こえた。
―幸せだ、と八雲紫は思った。紫は一日の殆どを寝て過ごしているが、彼はそんな紫の生活リズムに合わせようとしてくれている。人間であるが故、たまに寝過ごしてしまうこともあったが、その気持ちだけで紫は十分に嬉しかった。
「…………」
感情の赴くまま、至福の時に酔いしれていたが、カチカチと規則的に運動を続ける柱時計の音色に現実に戻された。現在の時刻は午前二時半。紫も朝方には眠ってしまい、入れ替わるように彼は目を覚ます。そして仕事に向かうのだろう。仕事場で彼は、人里の娘に絡まれるかもしれないし、そこらの妖怪に誘惑されているかもしれない。そう思うと、このまま時が止まってくれればいいのに、と思うほど彼をここから離したくなかった。
「……はあ」
恋の病とは何と辛いものだろうか。この不安が少しでも紛れるのなら、とそんな藁にも縋る思いで、布団から抜け出て部屋の隅に積み重なっていた妖魔本を読み始めた。
「……この本は………?」
一冊見覚えの無い、紫色の背表紙の妖魔本が交じっていた。はてこんな本持っていただろうか、と首を傾げつつ本を開いた。
「……こう見ると、誰しも苦労しているものね」
人妖の恋愛は何かと上手くいかないことが多いらしい。今手に取っている本の筆者も、人である彼氏が他の妖怪に誘惑されて靡きかけている時に、死にそうなくらい不安になったらしい。――そんなとき、とある方法でその不安は解決したのだという。
「…………!?」
書かれていたのは何ともおぞましい方法。彼氏に強力な睡眠薬を持って、刃物で無防備な彼の鳩尾に自分の名前を掘る。そしてそこを繰り返し、繰り返し撫でる。それを毎晩繰り返すうちに彼は彼女一筋になったのだという。
「……でもこれじゃ、ただの洗脳で拷問ですわ」
大切な彼の身体を傷つけたくはない。彼の苦しむ姿だって見たくないし、そんな刺青を彫るみたいな――
「――いや、そうね」
刺青ぐらい、実際どうってことないんじゃないだろうか?少しの痛みは伴うが、まあ別に恥ずかしいことではない。外の世界だと銭湯などで何かと五月蝿いらしいが、まあここは幻想郷だし、それにこれは愛する妻の名前を刻むだけの行為だ。例えるならそう……首輪のような物だろうか。
八雲紫には、彼が同じことを望めばそうするだけの覚悟はある。むしろ自らしたいくらいだ。
「うふふふふ……」
無意識のうちに能力を使っていたのか、目の前の畳に小型のナイフが刺さっていた。刃の部分を指で優しくなぞると、ほのかな痛みとともに紅が滴った。
――これなら、切れ味が良いからそんなに痛くはありませんわ。紫は、少し歪んだ笑みを浮かべた。
静かに浴衣を捲ると、肋骨の浮き出た、白く綺麗な彼の肌が顔を出した。
「…………」
鳩尾にナイフを軽く当てると、少し心臓の鼓動が早まったような錯覚を感じる。
少し力を入れると、生暖かいものが溢れ出てきた。ナイフに付いたそれを舐め取ると、妖怪としての本能か、嗜虐的な気分になってきた。
「……今日は名字だけにしておきましょう」
"八"を書き終え、雲の部分を書き始める。紫の能力で彼が目覚めることはないので、ゆっくりと丁寧に筆を走らせた。
「…………ふふふ」
綺麗に書けた文字を見て、紫は満足そうに笑みを浮かべた。血のついたナイフを舐め、未だ出血する傷口を舐めたところで、我に返った。
「あ……」
痛みすら感じず静かな寝息をたてる彼の腹に刻まれた、自分の字。深くはないが浅くもないその字は消えることなく彼の体に刻まれ続けるだろう。それを見た彼は果たしてどう思うのだろう。少なくとも、喜ぶことはないだろう。それこそ、自分は怖がられるか、愛想を尽かされるか……兎に角、嫌われてしまうんじゃないだろうか。
――私は、どうすればいいのかしら。
一時の衝動に身を任せた行動は、取り返しがつけられない結果に繋がった。医者などに見せれば直せないことはないだろうが、痕は残るだろう。お互いの心にも、深く。
「……そうね」
例え傷口を塞いでも、根本的な解決にはならない。ならば私が取るべき行動は――
――深緑の季節から時は経ち、桜咲く春。
一組のカップルが結婚式を挙げた。純白のドレスに身を包んだ花嫁と、白いタキシードの新郎の手には、光を受けて淡く輝く結婚指輪と、比較的真新しい十字傷があったという。