東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場
今日何度目かも分からない溜息を吐いて、小蒔は慌てて口を閉じた。ここは霧島神境の外。神代の姫君として相応しい振る舞いをしなければならない。ましてや、今日は多くのライバルがこの場にいる。弱みを見せる余裕などない。
だが、心がついていかない。知った顔を求めて、この開会式の最中もあちこち忙しなく視線を送ってしまう。
憧の姿は見つからない。
昨日出くわした少女も、同様だ。
引いては、京太郎も。――彼の場合男子なのだから、ここにいるほうがおかしいのだけれども。それでも小蒔は、探さざるを得ない。
昨日一度彼の姿を認めたことで、小蒔の心はかき乱れた。長い、長い時間をかけて灰色になっていた想いが、色鮮やかに染め上げられた。
それが、小蒔を苦しめる結果となっていた。
「清澄と阿知賀……ここからでは見えませんね」
背後で、ぼそりと巴が呟くように言った。心の内を見透かされたみたいで、小蒔はどきりとした。
昨日のうちに、京太郎と一緒にいた女子生徒の調べはつけてある。
長野代表清澄高校一年、宮永咲。団体戦で大将を務め、個人戦でも代表選手としてエントリーされている。昨年のインハイで大活躍を見せた、龍門渕の天江衣との直接対決を制した実力者。どことなく、小蒔は彼女に近い匂いを感じた。
京太郎との関係性は、同じ麻雀部に所属していること以上の情報はなかった。京太郎の情報が少なすぎた。彼も男子子の部で長野個人予選に出場していたが、残念ながら突破できなかったようだ。
――随分と、親しい様子だった。
一言、二言会話を交わしているのを見ただけ。だけど、小蒔には充分理解できた。自分と憧の居場所は、今は、彼女のものであるのだと。
きゅっと、小蒔の胸が締め付けられる。嫌な気持だ。自分にこんな感情があるのだと、ぎょっとさせられた。
「姫様? 顔色が悪いですよ」
「いえ、大丈夫です……」
「大丈夫そうに見えないわよ、小蒔ちゃん」
「……ごめんなさい」
開会式が終わり、各校解散すると、六女仙に連れられて小蒔は医務室に向かった。阿知賀とも清澄とも、結局すれ違うことすらなかった。
医務室のベッドで横になって、小蒔は天井を見上げる。
「――どうして京くんは、私たちに謝ったんでしょうか」
呟かれた疑問に、六女仙ははっとする。
昨日から、小蒔の口から彼の名前が紡がれることはなかった。
否、この八年、長野の「須賀」の名は霧島神境では禁句となっていた。縁は切られ、須賀のことは全て忘れろという達しが下った。
当然表向きの話であり、時折六女仙同士で京太郎が話題に上がることはあった。
一方で、小蒔は父親の言いつけを諾々と守っていた。となると、六女仙も迂闊には話せなくなる。そうしているうちに、彼女たちの中でも京太郎の名は、遠い過去のものとなっていた。
しかし。
口にしなかったからと言って、全て打ち捨てたわけではない。むしろ、だからこそ想いはより強まっていく。そんなことは当たり前だと言うのに、六女仙は失念していた。
「京くんは、……どうして、なにも話してくれなかったんでしょうか」
「あの子は、責任感の強い……聡い子だったから」
小蒔の、誰に向けたわけでもない疑問に答えようとしたのは、霞だった。
「きっとあの事故を、自分のせいだと思ってるんじゃないかしら。だから、小蒔ちゃんたちと顔を合わせづらいんだと思うの」
「でもあれは、鈍くさかった私の責任です」
「京太郎くんはそうは思わない、という話よ」
この問答は、八年前にも行った。
霞がもう一度諫めようとし、小蒔が遮った。
「分かっています。……ごめんなさい、心配かけて」
小蒔はベッドから起き上がる。
「もう充分休ませて貰いました」
「まだ寝てても良いのよ」
「二回戦までに時間があると言っても、調整しないといけません。他校の動向も確認しないと」
「そのあたりの仕事は私たちがやりますから」
「いいえ、私もやります」
――麻雀に集中していれば。
そうしてさえいれば、余計なことを考えずに済む。そうだ。今はインハイの真っ只中。京太郎のことを気にしてはいられない。
かちり、と自分の中でスイッチが切り替わったのを、小蒔は感じた。
泰然と、彼女は立ち上がる。
「宿に戻りましょう」
初美と巴が、困ったように顔を見合わせる。彼女たちにとって最優先事項は神代の姫たる小蒔の心身だ。はいわかりました、と頷くわけにもいかない。
「京のことを、先に解決すべき」
全く迷いなく言い切ったのは、春だった。その提言を半ば予測していた小蒔は、淀みなく反駁する。
「なんのために東京に来たと思っているんですか? この大会のために、多くの時間を費やし私たちは修練を積んできました。県予選で相対した方々の想いも背負っています。私情に走るわけにはいきません」
「姫様」
「そもそも解決するとはどういう意味ですか。霧島神境と長野の須賀の関わりは途絶えています。彼に関わることは許されていません。それともお父様の厳命に逆らうつもりですか」
彼女らしくもない、強い口調だった。普段から飄々としている春が、鼻白む。場の緊張感が高まっていく。
「承知の通り、私も先ほどまで迷っていました。ですが今、吹っ切りました。彼も私たちと関わる気がないようです。ならば私たちが追いかける理由はないでしょう」
しん、と部屋が静まり返る。
答えたのは、霞だった。
「承知しました、姫様」
普段彼女が使わない尊称で、小蒔を呼ぶ。それが、全ての答えとなった。小蒔は鷹揚に頷き、出立の準備を始めようとして、
「お邪魔しまーす!」
しかし、ばたん、と乱暴に開かれた扉が彼女の動きを止めた。
はっと、永水女子が一斉に扉を注視した。
「あ、憧ちゃん……? どうしてここに?」
「永水の人が医務室行ってたって話を聞いたから。どうしたの小蒔、貧血? 大丈夫?」
「そ、そんなところです。もう大丈夫ですから、はい」
張り詰めていた空気が、一気に弛緩する。
――ああ、憧ちゃんだ。
かつての友人、新子憧は磨き抜かれた美しさを伴って小蒔の前に現れた。だけど、その明るさと触れ合った手のぬくもりは、八年前のあの日からちっとも変わっていない。年下なのに、自分の手を引いて歩いてくれた、親友。
「小蒔、昨日あれから京太郎にまた会えた?」
「い、いえ、会っていません。でも――」
もう良いんです、と小蒔は言おうとして、できなかった。
憧の怒りに満ちた眼が、小蒔の目を射貫く。
「あの大バカ。小蒔まで放ってなにやってんのよ」
「京くんには……京くんの考えがあるんだと思います」
「だからなに?」
ばっさりと、憧は小蒔の言葉を切って捨てた。小蒔は瞳を瞬かせる。
「あたしは納得してない。これっぽっちもあのときのこと、納得してない。だって、ほとんど覚えてないもの。納得できるわけない」
「で、でもインハイは……」
「? インハイも勝つわよ? 負けないからね、小蒔。でもそれはそれ、これはこれ。どっちもあたしが納得しなくちゃ、終われないわよ」
全く容赦のない憧の物言いに、最初に笑ったのは初美だった。続けて霞と巴。春も、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
無茶苦茶だ、と小蒔は思った。
強突く張りだ、とも小蒔は思った。
自分では決して持ち得ない鮮烈な輝き。羨むほど、眩い存在。
「でも、あたしも一人じゃちょっと不安なんだ」
片目を閉じて、憧は悪戯っぽく笑う。
「だから、一緒に行こうよ小蒔。ここであいつを逃がしたら、もう二度と会えないかも知れないんだよ」
彼女に釣られて――小蒔は微笑みを湛える。彼女の前で、自分を騙すことはできなかった。
そして、彼女は六女仙を見回した。
「――ごめんなさい、皆」
「小蒔ちゃん」
「私、嘘をつきました。……やっぱり、私は京くんを追いかけたい。ごめんなさい、我が儘ばかりを言って」
「良いのですよー! そうこなくちゃいけませんよー!」
初美ががたりと立ち上がる。
「私たちだって京太郎のことが気になるんですよー」
「そうです。会いに行きましょう、彼に」
巴も同意する。永水女子のブレインとして冷静な彼女にしては珍しく声に熱が籠もっていた。
「ん」
春は短く頷くが、握られた拳は硬い。
「分かったわ、小蒔ちゃん」
目を伏せて、霞が満足気に頷く。もう、「姫様」などとは呼んでいない。
ようし、と憧は気合を入れ直す。
「行こう、京太郎のところに!」
「はい!」
「……あ、その前に」
憧はぽん、と手を叩いた。
「教えてくれない、小蒔。あの事故のときのこと、小蒔は覚えてる?」
◇
東京/阿知賀女子宿泊ホテル・エントランス
「結局、小蒔もちゃんと覚えてないのかぁ」
「ごめんなさい、憧ちゃん」
「謝らなくても良いって。あたしなんか、崖から落ちたことぐらいしか覚えてないのよ?」
ひとまず場所を阿知賀女子の泊まるホテルに移し、小蒔と憧は八年前の出来事について話し合っていた。と言っても、話題はすぐに尽きた。
――須賀神社管轄の山で起きた遭難事故。
確かにそれはあった。
しかし小蒔には、京太郎と憧との三人で、なんとか下山しようと野道を歩いた記憶しかなかった。憧は何か覚えていないか、と小蒔のほうが期待していたくらいだ。
「でも、京太郎は私たちの知らないことを知ってるんだと思う。昨日の態度を見たら、ね」
「……正直なところ、私もそう思います。京くんが、私たちに隠し事をする理由は分かりませんが」
「あいつが逃げ出したのには、その隠し事が十中八九関わってるんでしょうね」
あんにゃろめ、と憧は悪態をつく。その様子が懐かしく、小蒔は心が温かくなった。
「結局のところ、京くんに訊かないと分からないわけですね」
「そうなるわね」
「問題は――素直に話してくれるかどうか、ですね」
「そこんとこはもう、直球勝負でいくしかないでしょ。安牌なんてないわよ」
「はい」
やはり、憧は頼もしい。彼女が友達で良かった、と小蒔が思っていると、
「……あのさ」
彼女らしくない、歯切れの悪い声が小蒔の耳に届く。
「もう一つ、確認しておきたいことがあって」
「? はい、なんでしょう?」
「えっとね、その、今、小蒔は京太郎のこと、どう思ってるのかなって」
「……え、え、えっ」
八年前ならいざ知らず。
憧のその質問の真意が、分からないほど小蒔はもう幼くなかった。顔に熱が点る。指先が震える。どう答えるべきか悩んでいると、
「清澄の宿泊施設、分かりましたよ」
巴たちが戻情報を携えて戻ってきた。永水女子の面々だけでなく、阿知賀女子も揃っている。小蒔はほっと安堵した。
問うた憧も、何故か誤魔化すように席を立つ。
「あ、ありがと巴」
「いえいえ。阿知賀の皆さんも手伝ってくれましたから」
「憧のためだからねー! なんだってするよー!」
もうシズ、静かにしなさい、と憧が阿知賀の一人に雷を落とす。憧のチームメイトたちに、小蒔は深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。縁も縁もない私のために、練習時間を削ってまで働いて貰って」
「いえいえいえ! 気にしないで下さい!」
むふー、と鼻息荒くロングヘアの少女が謙遜する。憧のチームメイトの一人として紹介された、松実玄だ。
「憧ちゃんのためでもありますので!」
「そゆこと……」
「皆で協力したほうが、あったかいから」
他の阿知賀のメンバーも、暖かい言葉をかけてくれる。
彼女らの厚意に甘えてしまった形になった。この恩は必ず返そうと誓いながら、小蒔は一枚の紙片を受け取る。
「皆で行くと、流石に迷惑よね」
「私と、憧ちゃんだけで行きます」
八人の少女たちは、しっかりと首肯を返した。
◇
憧と手を繋ぎ、小蒔は東京の街を歩く。
目的地は、清澄の宿泊施設。今日の抽選会は終わり、余程の事情がなければ戻っているだろう。どうやって宿の中にまで入り込むかは、出たとこ勝負だ。
何度か休憩を挟みながら――体力的には、問題ないけれど――それでも前へ前へと進む。迷いや悩みは払いきれなくとも、今はこの道しかないと小蒔は確信していた。
辿り着いた旅館を前にして、二人は足を止めた。
「……心の準備は良い? 小蒔」
「はい。大丈夫……だと思います」
と答えながらも、小蒔はどうしても不安を隠せない。
京太郎に会えるだけなら、まだ良い。いや、もちろん恐ろしさもあるのだけれど――もう一度会える喜びが、それを上回っている。
ただもう一つの懸念が、小蒔の胸中に渦巻いていた。
清澄大将、宮永咲。
彼女と京太郎の関係が、小蒔は気になって気になって仕方がない。今そこが最重要ではないと分かっていても――心は勝手にざわつくのだった。
「ね、小蒔」
「憧ちゃん?」
「たぶん、今考えてること、同じだと思う」
「……みたい、ですね」
ようし、と二人は気合を入れて。
一歩、足を進めようとする前に、旅館の扉が開かれた。
出てきたのは、男女一組。
――須賀京太郎と、宮永咲。
小蒔の心臓が、高鳴った。不意打ちだ。
「京くん……」
「京太郎……」
「お前ら、なんで」
びっくりしたのは、お互い様のようだった。京太郎と咲は目を丸くして、それから半歩、後退った。――二人の距離が、近い。手の甲と手の甲が、当たりそうだった。ずきりと小蒔の心が痛む。
「ご、ごめん京太郎! 突然押しかけちゃって!」
取り繕うように笑顔を作りながら、憧は喋り出した。動揺で、小蒔は何も言えない。
「でもあんたも悪いんだから! 昨日なんで逃げちゃうのよ、折角久しぶりに会えたのに! ねぇ、どうしたのよ一体! あたしたちのことも、ちゃんと覚えてたわよねっ?」
彼女の問いかけに――
京太郎から、返事はない。彼は黙って、睨め付けるようにこちらを見ていた。それから逃れるように、憧は必死に言葉を繰る。
「今更忘れたなんて言わせないわよ? 三人でまた、東京で再会できるなんて凄い運命みたいじゃないっ? あんたのところの女子部、インハイ出てるのよね? あたしも小蒔もインハイに出るの、だから――」
「知ってるよ」
底冷えした声だった。誰の声かと一瞬分からなかったくらいに、冷たい声だった。声変わりとかそういう話ではない。あの、ぬくもりのある京太郎の声ではない。
京太郎は、言った。
「だから俺から清澄の情報を聞きだそうって魂胆か? 昔のよしみだとか言って」
「えっ……そ、そんなわけないでしょう!」
憧の否定を、京太郎は全く意に介さない。
「お前にそのつもりがあろうがなかろうが迷惑なんだよ。男と女ってだけで疑う奴もいる。そうなった時点で、困るんだよこっちは」
「――っ、それは、謝るけどっ。でも、話くらい聞いてくれても良いんじゃないのっ?」
「お前の話なんて興味ないんだよ、新子」
憧の表情が、凍る。
『神代さん、あたしも神代さんのこと名前で呼んで良い?』
『えっ? も、もちろんです! じゃあ私も新子さんのこと……』
『憧って呼んで』
『はいっ』
『あんたも』
『……オーケー、憧』
『…………うんっ、よろしく京太郎!』
あの日交わした、呼び名の約束。小蒔にとっても、思い出深い記憶。――それが、あっさりと捨て去られた。ゴミのような扱いだった。
「こっちだって買い出しとか雑用があるんだよ、これ以上邪魔するな。――ほら、行くぞ咲」
「きょ、京ちゃんっ」
咲の手を引いて、京太郎は憧と小蒔の間を強引に割って歩き出す。
押し退けられても、憧は動かない。動けない。指一つ、動かない。まるで、石像になってしまったかのようだった。
小蒔は振り返った。去って行く京太郎の背中に向けて、あらん限りの声を震わせる。
「京くん!」
ぴたりと、京太郎の足が止まった。
「怒っているんですか、私たちのことっ。だったら謝ります、でも私たちはよく覚えていないんです、あの日のことをっ。だからっ」
「よく覚えていないことを謝るって?」
顔だけ振り向いて、京太郎は嘲るように笑った。胸に、刃物を突き立てられたような痛みが走る。
――なに、これ。
小蒔は呆然とする。
――知らない。
あの日、この街で、最後まで零れなかったものが溢れ出す。
――本当に、この人は、京くん?
「神代のお姫様」
どれだけ鈍感な小蒔でさえ、その呼称が皮肉だということは、すぐに分かった。
「俺は、あんたのそういうところが昔から大嫌いだったんだ。――だからもう、二度と近づいて来るなよ」
ぼろぼろと。
玉のような涙が、頬を伝う。一体どこにこんな量が溜まっていたのだろう――そんな疑問が、まるで他人事のように小蒔の頭を駆け巡る。
けれども体は動かない。
零れる涙は地面を叩くばかり。それを掬い上げる手はなかった。
――私は、どこで、何を誤ったのでしょうか。
彼女の疑問に、答える者はいない。
答えられる者は、去って行った。
心配した永水と阿知賀の面々が迎えに来るまで、二人はその場で立ち尽くしていた。
次回:十/須賀京太郎/続 東京迷宮・後