――友達なんかじゃ、ない。
その言葉は、京太郎自身に向けたものだった。彼女たちへ背中を向けた自分に、友達を名乗る資格はない。そう思って、八年を過ごしてきた。
だから彼女らへの愛慕など、忘れたはずだった。
なのに、二人を抱き締め、二人と繋がって――いかに自分の覚悟が薄っぺらかったか、京太郎は思い知らされた。
二人を彼女たちの仲間の元へ送り届け、手を離すとき。京太郎の胸に去来した感情は、寂しさなんて一言で言い表せるものでは、とてもなかった。
未だ涙が枯れない憧。
きっともう、これが最後の小蒔。
断腸の思いとは、こういうものを指すのだろうな、と京太郎は一人納得しながら、彼女たちから手を離した。
一人宿に戻った京太郎を、他に誰もいないロビーで待っていたのは、咲だった。京太郎はどきりとした。そう言えば、誰にも言わずに出てきてしまった。
「お帰り、京ちゃん」
しかし咲は、いつもの笑顔を京太郎に向ける。彼女は先んじて、言った。
「京ちゃんの仕事はみんなで手分けして終わらせておいたから。部長もそんなに怒っていなかったけど、明日謝っておいたほうがいいよ」
「……悪い。さんきゅ、咲」
「どういたしまして。夏休み明けたら、学食で何か奢ってね。後、優希ちゃんはタコス十枚って言ってたよ」
「あーはいはい、了解」
ほっと、京太郎は一安心してから、改めて咲にお礼を言った。
「ありがとな」
「ど、どうしたの?」
「咲のおかげで、一番大事なことは、たぶん守れた」
「……そっか」
咲は、安堵の息を吐く。胸元に添えられた彼女の右手が、ぎゅっと強く握られる。
本当に、咲のおかげだった。彼女も色々と抱えて東京に来たのは、京太郎だって知っている。実際のところ余裕もないだろうに、気遣ってくれた。咲だけではない、他の麻雀部のみんなもそうだ。
「もう寝ようぜ。明日は休みだけど、明後日は準決勝だ」
「そうだね」
京太郎は歩き出し――咲が着いてこないことに気付いて、立ち止まる。
「どうした?」
「結局、あの二人は……京ちゃんの、お友達?」
少しだけ悲しそうな微笑みとともに、咲は京太郎に訊ねた。
京太郎は、すぐに答えられなかった。
――友達なんかじゃ、ない。
あのときの回答を、翻す権利が自分にあるのだろうか。彼女たちの友達と、自分が名乗っても良いのだろうか。彼女たちを泣かせてしまった自分は、許されるのだろうか。
京太郎の自問に答えられるのは、彼女たちだけ。しかしこの場に二人はいない。
だから結局、これは願望だ。
「――ああ。小蒔ちゃんと、憧と、俺は……友達だ」
笑ったのは、精一杯の虚勢。すぐにでも見抜かれてしまいそうな、はりぼて。
けれども咲は、
「うん」
と、満足そうに頷いた。
それだけで、京太郎は救われる想いだった。
◇
東京/永水女子宿泊施設
インターハイ女子個人戦初日。
長野県代表として、清澄からは宮永咲と原村和が出場している。調整相手としては役者不足の京太郎ではあるが、応援という重要な役目が彼にはあった。団体戦のように控え室で、とはいかないが、会場の観客席で声援を送るつもりだ。
しかし、京太郎は他の部員と連れ添って宿を出ることはなかった。
神代小蒔も、インハイ個人戦の選手だ。彼女と顔を合わせられない京太郎は、時間をずらして会場に赴く予定だった。
最初の半荘が始まったことをテレビで確認して、京太郎は宿の門をくぐった。
そこで待ち構えていたのは――滝見春。彼女もまた、京太郎の古い友達。
「春? どうしてここに? 小蒔ちゃんとはっちゃんの応援は?」
成長した胸部をつい凝視してしまいそうになり、京太郎は顔を赤らめながら視線を逸らして訊ねた。彼女は八年前と変わらないマイペースさで、答える。
「少し付き合って、京」
けれどもその目は真摯で、京太郎に逆らう余地を与えない。
「分かった」
「ん」
歩き出す彼女の隣に並ぶ。落ち着き払った春の雰囲気は、八年前から変わっていなかった。
「黒糖、食べる?」
「一個もらうよ」
差し出された懐かしい砂糖菓子を、噛み砕く。渋い甘みが口の中に広がった。夏の熱気も合間って、水が飲みたいと思ったら、春がペットボトルを手渡してきた。
「春は相変わらずだな」
「京も相変わらずで良かった」
そんなことない、と京太郎は言おうとした。八年前と同じようにはいられなかった。しかし春は、さらりと続けて言った。
「姫様と憧が、大好きなまま」
京太郎は、先ほどとは違う理由で頬を染める。僅かに先行する春は、随分と機嫌が良さそうだった。してやられた気がして、京太郎は彼女の頭に手を乗せる。
「二人だけじゃなくて、春も、巴さんも、はっちゃんも、霞さんも、俺は大好きだよ」
「……そう」
かり、と黒糖が砕けた。間を置いてから、京太郎は訊ねる。
「なぁ、どこに行くんだ?」
「うちの宿」
「……それって」
「姫様はちゃんと個人戦に行っている」
先回りして答えられ、京太郎は何も言えなくなってしまう。
永水女子の宿に辿り着き、彼女らが泊まる客室の入口まで案内される。
春は戸に手をかけ、それから言った。
「京」
「なんだよ」
「さっきの言葉。ちゃんと、言ってあげて」
がらりと戸が引かれ、客間の奥に座る彼女の姿を認めたとき、京太郎は反射的に引き返しそうになった。が、春に背中を押されて部屋に入り込んでしまう。続けてぴしゃりと戸が閉められた。逃がすつもりはないようだった。
京太郎は観念して、彼女の傍へと歩み寄る。
「霞さん……どうして」
「ごめんなさい、京太郎くん。春ちゃんに無理を言ったのは私だから、怒らないであげて」
巫女の装いの石戸霞は、努めて穏やかに語りかけた。座布団を勧められ、京太郎は机を挟んで彼女の前に座る。
「……霞さん」
「言いたいことは分かってるわ。でもまず、私に謝らせて」
京太郎が止める間もなく、霞は額を畳につける。
「ごめんなさい」
それは違う、と京太郎は言いかけた。彼女に殴らせるよう仕向けたのは、自分だ。誰も彼もを悪し様に罵り、挑発した。例えそこに目的があっても、非情に過ぎる言動であったのは間違いない。そもそもの原因は、迂闊であった自身にある。
しかし、畳につけられた霞の指先が震えているのを見て、京太郎は彼女の謝罪を受け入れた。
「大丈夫。これっぽっちも痛くなんかなかったから。だから顔を上げて」
「……ありがとう、京太郎くん」
ゆっくりと、霞は面を見せる。
「謝らないといけないのは俺のほうだよ。酷いこと言って、ごめんなさい。それと、お礼も言わないと」
「お礼? どうして?」
「俺一人だったら、小蒔ちゃんたちにきちんと説明できなかったと思うから。昨日は、ほとんど霞さんが話してくれただろ」
ああ、と霞は頷いた。それから彼女は少しばかり、苦笑する。
「京太郎くんが秘密にしていたことを、無理矢理暴いて知ったことよ。結局私は、貴方の覚悟を踏みにじってばっかりね。小蒔ちゃんのためと言い訳して、自分のことしか考えていなかった」
「だけど、霞さんにも知る権利はちゃんとあったよ」
決して、彼女も無関係ではない。むしろ当事者の一人と言っても差し支えないだろう。こうして二人だけで対面している時点で、危険な目に遭っているのだ。彼女もまた、人ならざるものを降ろせる身。京太郎の存在が、悪影響を与える可能性は充分に考えられる。
だが、だからこそ直接顔を見せることで霞は謝意を見せた。彼女の覚悟こそ、自分のそれよりもずっと尊い――京太郎は、頭が下がる思いだった。
「自分のことしか考えていなかったのは、俺のほうだよ。逃げただけだった。……霞さんとは、小蒔ちゃんとずっと友達でいるって、約束したのにな」
「……そんな話も、したかしらね」
とぼけるように呟いて、霞は目を伏せた。
「でも、今はちゃんと、友達って言ってくれるんでしょう?」
「うん。大切な、友達だ」
「なら、良いの。それで、良いの」
噛み締めるように言った霞の表情は、京太郎の胸を締め付ける。
「傍にいてあげて、なんて言わない。だけど、小蒔ちゃんを忘れないであげて。……勝手なことばっかり言って、ごめんなさいね」
でも、と霞は首を振って、
「私は小蒔ちゃんの味方でいるって、決めたの。神代と石戸がどうこうというわけではなく……何があっても、あの子だけの味方でいると、決めたから」
「別に、気にしやしないよ。それに言われなくって、小蒔ちゃんを忘れるわけがない」
「憧ちゃんを、選んでも?」
「――」
何の捻りも加えずに、霞は真っ直ぐに訊ねてきた。あまりの直球ぶりに、京太郎も思わず言葉を失う。
「二人の気持ちに気付いてない、なんて言わせないわよ?」
このときばかりは意地悪げに、霞は可愛らしく首を傾げて釘を刺した。
「……あの」
「私に答えても仕方ないわよ?」
「……そうっすね」
「乙女の気持ちを弄んだら、承知しないから」
「……肝に銘じておきます」
くすくす、と霞は笑った。――本当に久しぶりに、彼女の楽しそうな笑顔を見た。八年ぶりの、もう一度見られるか分からない笑顔。
彼女との思い出も、京太郎は捨てようとしていた。春も、巴も、初美も。全部、捨て去ろうとしていた。
全てが全て、間違っているわけではない。少なくとも今、小蒔と霞に会ってはならないのは確かだ。
それでも自分は選ぶべきものを間違えた。そう、京太郎は今一度確認する。
「私の用件は、これで終わり」
寂しそうに、霞は言った。
「個人戦の前に時間をとらせてごめんなさいね」
「いいや。俺もちゃんと霞さんと話せて良かった。心残りが、ちゃんと消えた」
京太郎は立ち上がり、霞を見下ろして言った。春から頼まれたことだ。
「ありがと。大好きだよ、霞さん」
「――っ、もうっ」
びくりと霞の体が震えて、京太郎は笑った。霞は顔を赤らめ、むくれて京太郎を見上げる。年齢より大人びた雰囲気を漂わせる彼女が、年相応に見えた。
「先に、行きます」
「……ええ。手間をとらせたわね」
彼女と連れ添っては、ならない。
京太郎はその場を去ろうとし――
背後から抱きすくめられ、足を止めた。
「かっ、霞さんっ? ちょ、あの、これっ」
背中に当たるふくよかな感触に、京太郎は激しく狼狽える。耳元で、霞が囁いてきた。
「仕返しよ」
「だ、だからって、あの、あ、当たってるからっ」
「でも、これが最後かも知れないでしょう?」
振り上げられた京太郎の腕が、ぴたりと止まる。
「貴方は私にとっても、可愛い弟分なんだから」
「霞さん……」
「そう言っても、許してくれるかしら」
「……当たり前だよ」
ぎゅっと、強く抱きすくめられ、京太郎はされるがままになる。彼女の呼吸と鼓動の音が、聞こえた。
京太郎は、唇を噛む。
確証のないことなど、京太郎は口にするつもりはなかった。このまま、立ち去るつもりだった。けれども、気が付けば言ってしまっていた。
「霞さん」
「なにかしら」
「憧に宿題を出されてるんだ」
霞の戸惑いが、体越しに伝わってくる。
「宿題?」
「俺が、小蒔ちゃんや霞さんと一緒にいられる方法について、考えてこいって」
「……そんなものが、あるの?」
「少なくとも、憧は思いついたみたいだ」
本当は京太郎自身も――その可能性を、考えなかったわけではない。
けれどもそれは、可能性としてはか細すぎる。叶うかどうかなんて分からない。どれだけ時間がかかるかも分からない。夢物語と笑われても仕方ない話だ。少なくとも今までは、試みることさえできなかった。
そして今は。
試みることが許されるのか、京太郎には分からなかった。
「憧と、答え合わせをしてくるよ」
「……分かったわ」
そっと、霞は了承する。
「憧ちゃんに……ああ、それから、宮永さんにもよろしく伝えてくれる?」
「咲にも? どうして?」
「結局あの子は――私を助けてくれたみたいだから。感謝してもしきれないわ」
「だったら直接言ってくれれば」
「それは無理。私、嫌われちゃったみたいだもの」
霞はくすりと笑い、そしてようやく腕の拘束を解いた。団体戦の大将同士で、何かしらやり取りしたのだろうか――京太郎に詳しいことは分からない。しかし、自分のためだったということは、察せられた。
「分かった、ちゃんと伝えとく」
「ありがとう、京太郎くん」
京太郎は最後に振り返ろうとして、止める。今振り返っては、ならなかった。
彼は霞に背中を向けたまま、言った。
「また、霞さん」
「――ええ。またね、京太郎くん」
その挨拶を最後に、京太郎は部屋を出た。
戸の傍には、春が控えていた。
「何だ春、ずっとそこにいたのか」
「ん」
短く答えて、春は廊下を歩き出す。京太郎は慌てて彼女の後を追いかけた。
「霞さんは――」
「一人になりたいときもある」
「……そっか」
付き合いの長さも深さも、春のほうが断然上だ。彼女がそう言うなら、京太郎もそれに従うまでだった。
再び夏の東京を、春と共に歩く。向かうは、インハイの会場。寡黙な春に倣って、というわけではないが、気分良く話す気にもなれず、京太郎は押し黙っていた。
「憧は」
だから、話しかけてきたのは春からだった。
「憧は、強かった」
「……そっか。春は、憧と中堅戦で直接やりあったもんな」
「ん。でも、憧は悩んでた」
春は、続ける。
「きっと今でも、悩んでる」
声援が遠くから聞こえてきた。インハイ会場が、近い。京太郎は足を止め、春は首だけ振り向いた。
「京」
それ以上、春は何も言わなかった。
京太郎は頷いて、再び歩き始める。
もう一度、彼女たちと向き合うために。
――選ぶべきものを、選ぶために。
◇
京太郎の携帯電話が、震える。電話の着信だった。
「――もしもし」
『もしもし、京太郎?』
「憧」
凛とした、それでいて明るい彼女の声。未だに聞く度に、懐かしさが京太郎の中で湧き上がる。嬉しくて、けれども照れ臭くて、ついつっけんどんな口調になってしまう。
「どうしたんだよ、こんな夜遅くに」
『どうしたもこうしたもないでしょ』
もう、と憧は呆れながら、京太郎に問いかける。
『この間の約束、覚えてるんでしょうね』
「ああ、当たり前だろ。ちゃんと、覚えてるよ」
『良かった』
古い幼馴染は、声を弾ませて言った。
『デートよ、京太郎』
次回:十八/新子憧/愛を謳う