別れの三月はあっという間に過ぎ去った。電車に揺られながら、京太郎は物思いに耽る。
卒業式でわんわん泣く咲と優希をなだめるのは大変だった。最初は平静を装っていた和も、最後は堪えきれなかった。京太郎自身も、祝辞を伝えにわざわざ母校に戻ってきた先輩たちの姿を見て、思わず涙ぐんでしまった。
一年生からの、付き合いだった。四人で共に過ごした時間は長く、密度も濃かった。別れを惜しまない理由はない。――最後に四人で打った麻雀では、結局勝てなかったけれども。優希や和に成長を惜しみなく賞賛されたのは、面映ゆく、そして嬉しかった。
みんなの進路は、ばらばらになった。
とは言っても、咲たち三人は全員関東組。
京太郎だけが一人、西側を目指していた。
車窓から覗く雄大な山々は、長野のそれらと遜色ない。生地を離れてやってきたこの土地を、京太郎はすぐに気に入った。
目的地に到着し、京太郎は電車を降りる。
やや寂れた駅の雰囲気も、地元と似通っていた。ほっと、京太郎は一安心する。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。咲からの着信だった。
「もしもし、咲か」
『あ、京ちゃん。今、電話大丈夫?』
「ああ、電車降りたところだから」
『良かったぁ』
安堵の声はいつも通りで、この間別れたとは思えない。すぐそこにいる感覚が、まだ残っている。
「どうしたんだ、もうお前横浜だろ? 今更迷子って言われても助けられないぞー」
『ち、違うよ。京ちゃんが無事に奈良についたか気になったの。京ちゃんこそ、迷子にならなかった?』
「電車に乗るだけで迷子には普通ならないだろ」
『…………』
「……お前、もしかして」
『違うの、こっちは路線とか色々複雑なの』
「長野から東京方面は、もう大会で何回も行っただろ」
キャリーケースを引き摺りながら、京太郎は笑った。
「で、ほんとのところは用件なんだよ」
『……その、明日からいよいよ試合が始まるから。ちょっと不安で』
「そういうの、優希や和のほうが良くないか?」
『もう二人には連絡してたもん』
「お前、そういうとこ変わらなかったなー。打ってるときは、あんなに頼もしいのにさ」
からかいながら、京太郎は改札をくぐる。相談を受ける代わりに、レディースランチを頼みたいところだ。もう、叶わない望みだけれども。
「でも俺、お前の初戦の相手もよく知らないぞ」
『京ちゃんに麻雀のアドバイスは求めてないから』
「さり気なく酷いなお前」
仕返しと言わんばかりに、咲は楽しげに、厳しい言葉を京太郎に投げかける。京太郎も、笑って答えた。
「――お前なら大丈夫だよ。頑張れ、咲」
『ありがと、京ちゃん』
幼馴染の弾む声が、正解だと教えてくれる。
『京ちゃんのほうも、頑張ってね。私には神職の修行は、よく分からないけれど』
「さんきゅ。まぁ、大学行きながらだけど精々頑張るさ」
目的地に向かう次のバスが来るのは、もうしばらく時間がかかりそうだった。京太郎はベンチに座り込む。
『ね、京ちゃん』
「どうした?」
『昔、すっごく京ちゃんが落ち込んでたときなかった?』
「いつの話だよ、それ」
『さあ。でも、そのときに比べたら、今生き生きしてるなって』
図星を突かれた気がして、京太郎は押し黙った。くすり、と微かに咲が笑う。
『だから、安心したの』
「……なら、良かったよ」
『うん、良かった』
しばらく二人は思い出話に花を咲かせた。卒業式後の打ち上げでもあれやこれやと話したはずが、まだまだ物足りていなかったようだ。
やがて、目的のバスがやってくる。京太郎はベンチから立ち上がった。
「それじゃ、な。そろそろ行くよ」
『うん。体には気を付けてね』
「ああ。応援してるぜ、宮永プロ」
『も、もうっ。その呼び方は止めてよっ』
「事実だろ、どうせこれからずっと呼ばれるんだし」
『そんなこと言ってると、京ちゃんが路頭に迷ってもマネージャーとして雇ってあげないよ』
そいつは困る、と冗談めかして京太郎が言って、通話は終わった。京太郎は、一番後ろの座席を陣取る。
他にバスへ乗り込んでくる人の数は、駅の規模の割にはかなり多かった。見たところ、京太郎と同じように引っ越してきたと思しき人間が大半を占めているようであった。
出会いの四月。
期待と不安が入り混じる、この季節。
京太郎は先に進むため、もう一歩踏み出した。
スマートフォンが、再び震える。今度は電話ではない。メッセージが届いていた。中身を確認して――京太郎は、微笑んだ。添付された一枚の写真には、五人の女性が並び立っていた。みんな、満面の、本気の笑顔。書かれた一文は、京太郎の心の中に、大切に仕舞われた。
そのバス亭に降りたのは、京太郎一人だった。
町から少し離れ、目の前には田園が広がっている。それらに背を向け、事前に調べておいた地図を片手に、京太郎は歩き出した。
思えば、もしかしたらもっと早くここを訪れていたのかも知れない。そんな未来があったのかも知れない。
奈良、阿知賀。
幼馴染の、生まれ故郷。
到着したのは、山の入口。社に続く石段は、京太郎の実家のそれよりもずっと広く長く、立派であった。格差を感じた。
キャリーケースを抱えて、京太郎はゆっくり登る。
「うわ……すっげ」
目に飛び込んできたのは、桜の木々。思わず感嘆の声を漏らしていた。
桜吹雪が舞う。踏んでしまうのが勿体ないくらい、美しかった。
京太郎は足を止め、しばしその光景に見惚れる。例年より若干早い開花が、彼を迎え入れてくれた。
いつまでもそうしていたい気持ちを振り払って、京太郎は再び登り始める。それでも視線は、桜に注がれたままだった。
たっぷり時間をかけて、山の中腹に差し掛かる。
立派な鳥居が、目の前に現れた。その奥には、大きな社。
鳥居をくぐって最初に出会ったのは、壮年の男性だった。知っている、顔だった。
「お久しぶりです、新子さん」
「やぁ。元気だったかい」
「ええ。親父にしこたま鍛えられたおかげです」
「あいつは昔から体育会系だったからな」
彼は――新子憧の父親は、おかしそうに笑う。同じ宮司でも、親父とは違って穏やかな人だな、と京太郎は密かに思っていた。
相談に相談を重ね、高校卒業後は京太郎が新子神社で修行を積むことになったのは、彼に誘われたからだ。正直なところ願ったり叶ったりの話で、京太郎は最終的に誘いを受ける運びとなった。
まだ、目標には到達できていない。この三年弱、基礎固めに終始した。殻を破るには、やはり新子の力が必要だった。
「お世話になります。下宿先まで手配してくれて」
「ああ、気にしないで良いよ。男手が足りなかったんだ、私もそろそろ歳でね。君に働いて貰いたいという下心もあるんだから」
「なんでも言って下さい。お手伝いさせて頂きます」
「頼むよ」
まずは彼に礼を述べるため、いの一番でここを訪れた。次は下宿先に移動しようと、京太郎が踵を返しかけ、
「待ちなさい。折角だから、お茶でも飲んでいったらどうだい?」
「良いんですか」
「構わないさ。――そっちの道を真っ直ぐ行けば社務所があるから。案内人を用意しておいた、ついでにうちの神社をゆっくり見ておくと良い。私は用事を済ませてから、後で行くよ」
「分かりました、何から何までありがとうございます」
深々と京太郎は頭を下げ、指し示された道を進む。
桜色の花弁が、境内でも舞っていた。綺麗だな、と空を眺めながら京太郎は歩く。木々がざわめく音が、心地よい。時間帯のせいか参拝客も少なく、社は静謐な雰囲気に包まれていた。
京太郎は神社のこういう空気が、とても好きだった。実家を離れても、別の神社でもそれは変わらず、安心する。この空気を壊すような真似はまかり通らないと考え、京太郎は足音一つに気を遣う。
社務所はすぐに見つかった。
その前に、巫女服姿の女性が立っていた。――彼女が案内人だろうか。声をかけようと近づき、そして、
「って憧ぉっ?」
静穏を、自らぶち壊しにした。
よく見知った――どころではない。佇んでいたのは、大切な親友だった。昔馴染であった。身長は相変わらずだったが、以前会ったときよりもさらに大人びて、色気が増している。油断すれば、見とれてしまいそうだった。
「あ、京太郎。予定よりちょっと早かったわね」
「早かったわね、じゃねーよ! お前、東京の大学に行ったんじゃなかったのかよっ。そう聞いたから俺ここに来たんだけどっ?」
「ああ、東京のほうは蹴ったわ」
「はぁーっ?」
素っ頓狂な声が、京太郎の口から次々と飛び出す。嫌ね、と憧は眉を寄せた。
「そんなに嫌がることないじゃない」
「い、嫌がるとかそういう問題じゃねぇだろ。お前、えぇ、ふつうあの大学蹴るか……? 受かったんだろ……?」
「学歴なんて関係ない! ……なんて気取るつもりはないけどね。あたしのやりたいことを考えたら、地元に残るのが一番だったから。というわけで今日からよろしく、学友さん。ほんと、あんたと同じ学校に通う日が来るとはね。昔は想像もしなかったわよ」
あっけらかんと言い放つ憧に、京太郎は言葉を失う。堪えきれなくなったように、憧は笑い出した。
「あんたのその顔見られただけでも、サプライズにして良かったわ」
「……サプライズすぎるっての。お前、本気で何考えてるんだよ」
「考えてることなんて――やりたいことなんて、一つに決まってるでしょ。どうして分からないのよ」
憧は、はぁ、と溜息を吐く。心底呆れてる様子だった。京太郎は、戸惑うばかり。
「あんたが小蒔と会いたがってるのと同じようにね。あたしもまた三人で揃いたいって、思ってるんだから。もう二度と揃わないなんて、嫌なんだから」
「――……憧」
「だから、そのためならどんな協力だって惜しまない。……別に踏み台にしろって言ってるんじゃないわよ」
強気に、可愛らしく微笑んで、
「一緒に会いに行きましょ、小蒔に」
憧は、右腕を伸ばして京太郎を誘う。その指先を京太郎は見つめ――彼女の想いを感じ取る。
「勝手なことばっかり言いやがって」
「勝手に先に行こうとしたのは、あんたのほうでしょ」
ほら、と憧が促し。
京太郎は、苦笑して。
彼女のその手をとった。ぎゅっと握りしめ、憧が走り出す。京太郎は慌てて彼女の後を追う。キャリーケースはその場に置き去りに。
「あ、いつでも浮気してくれても良いのよ?」
「するかばかっ」
「えー、残念」
憧はくすくす笑い、京太郎は顔を赤くする。
二人は、目指す。
憧れの、桜が待つ場所に。
次回(エピローグ):Summer/Shrine/Sweets