東京/全国高等学校麻雀大会選手権会場
インターハイ個人戦初日、そのお昼休み。
どうも調子に乗りきれない薄墨初美は、外の空気を吸おうと選手控え室を出た。小蒔を一人残していくのはできなかったが、随行していた巴が代わりに控え室に残ってくれた。霞と春は、まだ宿だろう。――結果、彼女は一人単独行動をとっていた。
外に出ればうだるような暑さが襲いかかり、初美はすぐに屋内へと引っ込んだ。飲み物でも買って帰ろうかと自動販売機を探していたら、彼女は小さな人集りを見かけた。
何事かと初美が背筋を目一杯伸ばして、人と人の隙間から覗き見る。
げっ、と変な声が出た。
そこにいたのは、旧知の仲の京太郎。それから――ふわっとした黄金色の髪が目を引く少女だった。彼女の身を包むワンピースタイプの白い制服は、この場に人間なら誰しも知っている、白糸台のもの。一昨日も鎬を削り合った相手――その大将、大星淡だった。
彼女は、何やら京太郎に詰め寄っている様子だ。トラブルでもあったのだろうか、と初美に緊張が走る。そもそもどうしてこんな組み合わせが生まれたのか、初美には皆目検討がつかなかった。
しかし、事情はすぐに理解出来た。
「私はキョータローが好きだよ?」
要は、淡が京太郎に言い寄っているのだ。あの男まーた女の子を引っかけやがって、と思う一方、
「……あのな、淡。俺は、別に好きな人がいるんだ」
「え……」
「だから、お前とは結婚……いや、付き合えない」
京太郎は誠実に断っており、初美は一安心する。良かった。
しかし、大星淡は全く気にしなかった。なおも京太郎に迫っていく。これは不味い、大いに不味いと初美は慌てた。
京太郎にその気がなくても、他の女の子と噂が流れればあの二人が悲しむ。彼女たちが苦しむのは、初美も嫌だ。さりとて現状を京太郎一人では打破できないだろう。彼が悪いのではない。相手が悪すぎる。
考える時間はほとんどなかった。とにかく話を要約すれば、片想いの状況が良くないのだ。当然、彼女たちのいずれもこの場に連れて来ることはできない。
ならば、と。
「待つのですよー!」
初美は飛び出し、言った。
「私が京太郎の彼女なのですよー!」
言ってから、後悔した。完全に、勢い任せだった。ろくに考えずに叫んでいた。京太郎までもが、しらっとした目付きでこちらを見ていた。
「……キョータローの彼女?」
疑わしげに、淡が初美に近づいてくる。
「あんたが? ほんとに?」
「当然なのですよー!」
ここまでくれば自棄だ。するりと淡の脇を抜け、京太郎の腕に絡みつく。
「は、はっちゃんっ? なにをっ」
「事情は大体分かったのですよー」
そっと、素早く耳打ちする。
「私に話を合わせるのですよー」
京太郎の返事を待たず、初美は淡に向き直った。彼女の表情をよく読み取らなくとも、不機嫌なのはすぐに分かった。
「キョータロー! キョータローはさっき付き合ってる人いないっていったじゃん!」
「それは京太郎の思い違いですねー」
初美は人差し指を横に振る。淡はあからさまにむっとして、
「そもそもあんた、何? 永水って清澄と全然関係ない学校じゃん」
「そうですねー。でも、私と京太郎は違うのですよー」
挑発するように、初美は京太郎の腕を引き寄せた。「おいっ」という彼の抗議は無視。
「八年前、私と京太郎はこの東京で運命的な出会いを果たしたのですよー」
嘘は言っていない。
「私たちはすぐに仲良くなって、色んなところに遊びに行ったのですよー」
嘘は言っていない。
「遠い遠い京太郎の家に遊びに行くくらい仲が良かったんですよー」
嘘は言っていない。
「それから一時期疎遠になってしまったんですねー。でもこのインターハイで奇跡の再会を果たしたのですよー」
嘘は言っていない。
「京太郎の気持ちはすぐに分かったのですよー。私もずっと同じ気持ちでしたからー」
多少の嘘には、目を瞑って欲しい。初美は思った。とにかくそれっぽく、頬を朱に染める演技をしておく。
「既に私たちの気持ちは通じ合っていたんですねー。ねー、京太郎? さっきの好きな人って私のことですよねー? 今から私たちが恋人同士なんですよねー?」
「え、あ、お、おう。そうだな、はっちゃんは俺の彼女! うん、そう!」
ぎりぎりと京太郎の腕を締め上げ、初美は勝利を得る。どうだ、と勝ち誇った笑みを淡に向けると、彼女はぷるぷると肩を震わせていた。
「……認めない」
「んー?」
「あんたなんか、絶対認めない! キョータロー、なんでこんなちんちくりんが良いの! 私のほうがおっぱいもずっとおっきいのに!」
「ええー、いや、そりゃ俺も大きいほうが良い……あいたたたたギブギブギブ!」
どこにそんな力が眠っているのか、初美の腕力に京太郎は悲鳴を上げる。色々な意味で、初美はそれ以上彼に喋らせるつもりはなかった。
――薄墨初美は、恋心を知らない。
どうしてこんなに怒れるものかと首を捻りたくなるが、どもかく今はこの状況を打破しなければならない。
「分かってないですねー」
やれやれ、と初美は肩をすくませた。
「その程度の理解で京太郎に告白したんですかー?」
「何が言いたいの、このちびっこ!」
「それなのですよー!」
ぴしり、と初美は淡を指差す。
差された淡は訳が分からず、目を白黒させる。
「ちびっこだから良いのです!」
「は、はぁ?」
「大星淡、残念でしたねー。あなたはこれ以上成長することはあっても、退行することはないのですよー。だから京太郎の好みには近づけないんですねー」
おいまさか、と京太郎が突っ込むよりも早く。
どゆこと、と淡の理解が追いつくよりも早く。
初美は高らかに宣った。
「京太郎はロリコンさんなのですよー!」
当然、衆人環視の中で。
――おそらく、この世で最も残酷な処罰の一つであった。
◇
個人戦初日が終わって、夕暮れ時。
初美は一人永水の輪から抜け出すと、約束の場所に向かった。指定されたのは、会場からほど遠くない喫茶店。
入口には、顔の青白い京太郎が立っていた。
「ご、ごめんなさいのですよー」
「あ、はっちゃん……」
挨拶が謝罪となる。京太郎に覇気はない。
「京太郎が困っていたのでー、つい……」
「いや、ううん、はっちゃんは悪くない。はっちゃんは俺を助けてくれたんだもんな……」
「う、ううー。……あの子はまだ来てないのですかー?」
話題を転換するため、初美は周囲を見回す。
すると、走り込んでくる人影が一つ。髪を風になびかせ、現れたのは当然、大星淡だった。
「キョータローっ!」
「お、おいやめろばか!」
彼女は笑顔で京太郎の胸に飛び込んだ。初美が呆気にとられていると、淡は飼い主にじゃれる猫のように京太郎へ頬ずりする。
「は、離れるのですよー!」
初美は慌てて二人の間に割って入る。自分のことはさておいて、万が一にも彼女たちにこんな場面は見せられない。
「もう、邪魔しないでよ」
「か、彼女を目の前にしてよくそんなことできるものですねー」
「それ。私はまだ認めてないんだからね!」
びしり、と淡は二人を指差す。
「やっぱりどう見たって二人が付き合ってるなんて考えられない! キョータローがロリコンなんて、信じられない!」
「事実は事実なのですよー」
「だったら証明して!」
淡の声に、力が入る。
「恋人同士ってところ見せてよ! でないと絶対納得なんてしないんだから!」
こめかみを押さえながら、京太郎が初美に囁いてくる。
「はっちゃん。俺、こういう展開何度か漫画で読んだことあるぞ」
「奇遇ですねー、私もですよー……」
しかし――この話の進み方は、カップルを演じる二人が本当に両思いか、あるいは憎からず想い合っているべきではないだろうか。初美はそう考えるが、どのみち身から出た錆だ。受け入れるしかあるまい。京太郎自身も、迂闊な面があったと反省しているのか、これ以上逆らうつもりはなかったようだ。あるいは昼間に全ての体力を消耗したのかも知れない。
「で、俺たちは何をすればいいんだよ?」
「まずはこの喫茶店で、カップルジュースを飲んでみせて!」
一つのカップに、湾曲した二本のストロー。当然形作るのはハート。
なんだ、要求としては可愛らしいものではないか――初美は当初、そう思った。が、しかし、京太郎と向かい合って席に座り、いざジュースを間に置かれると体が硬直する。恋愛的な意味で好意を寄せていなくても、やはり相手は男の子。体付きもがっしりしているし、何も考えずにじゃれあっていた昔とは違うのだと意識させられる。
「じゃあ……いくぞ」
「は、はいなのですよー」
ごくりと唾を飲み込み、初美は京太郎と同じタイミングでストローに口をつける。――想像以上に恥ずかしかった。店内全員が、自分たちを注目しているのではないか。いや自分なら絶対見る。そんな被害妄想に、初美は囚われる。
ジュースの減りが、遅い。まともに喉が動かない。早く終わらせたいのに、終わる気配が全くなかった。
「――店員さん!」
突然、京太郎の隣に座っていた淡が手を上げた。すわ何事かと見ていたら、
「ストロー、もう一本!」
という謎の要求をしていた。まさか、と思っている内に、淡は受け取ったストローをカップに突き刺す。
「やっぱり私も飲む!」
「お、おう」
困惑する京太郎をよそに、淡も懸命にストローを吸い始める。初美は思った。なにこれもう意味がわからない。
店員に笑いを噛み殺されながら会計してもらったときは、初美は京太郎と一緒に泣きそうになった。一体これは何の罰ゲームだったのか。淡一人が、浮かれていた。
喫茶店を出て、初美はすぐに訊ねた。
「こ、これで納得しましたかー?」
「まったくもって! 三人で飲んだんだからするわけないじゃん!」
京太郎に肩を掴まれて、初美の衝動はなんとか抑えられる。
「次はねー、やっぱり恋人と言ったらスキンシップでしょ! こんな風に!」
天下の往来だというのに、淡が再び京太郎に抱きついて、頬ずりし始める。「だから止めろ!」と京太郎が引き剥がしにかかるも、淡が甘い声を出した途端、彼女の肌に触れた京太郎の手から力が抜ける。
――男というのは全く……!
怒りに燃える初美は、最早やけくそで、淡の反対側から京太郎に抱きついた。思い切り、頬と頬を重ね合わせる。三人揃って、既に何をやっているのか分からなくなっていた。
次から次へと降りかかる淡の要求に、初美と京太郎は応えた。――大体淡も巻き込んで、三人でカップルめいた行為をとらされる。
三十分経った頃には、罪悪感も合間って、初美は疲労困憊になっていた。それは京太郎も同じのようで、既に言葉数は少ない。
「もうそろそろ諦めたらどうですかー?」
投げ槍に初美が訊ねると、
「じゃあ次が最後ね!」
と、一人だけ元気が有り余っている淡は言った。彼女の場合、大好きな京太郎と触れ合っているだけで幸せなのだろう。
「恋人と言ったら、やっぱりキスでしょ!」
「……本気で言ってるのですかー?」
「本気も本気!」
流石にその一線だけは超えられない。何が何でも超えてはいけない。だが、淡は一歩も引く気がないようだ。
「あれ、できないの? やっぱり嘘なんじゃないの?」
にやにやと淡が笑う。
初美は助けを求めるように京太郎を見上げ、彼は頷き返した。そして京太郎は、真正面から淡と向き合う。
「淡」
「んっ? どうしたのキョータローっ」
「まず一つ言わせてくれ。――俺はロリコンじゃない」
初美は色々突っ込みたかったが、止めておいた。彼にとっては重要なことだ。
「……ってことは」
「ああ。俺とはっちゃんは恋人なんかじゃない。流れでとは言え、嘘ついて、悪かった。キスは勘弁してくれ」
謝られながらも、淡の目が煌めく。
「良いよ、許してあげる! 安心した、これでキョータローは私と結婚できるね!」
「いいや」
京太郎は、ゆっくりと首を横に振った。
「好きな人がいるってのは、本当だ」
「――」
淡が、押し黙る。京太郎の瞳は、真摯な色を帯びていた。単なる昼間の繰り返しでは、なかった。
「付き合ってはいないけど。付き合えないけれど――でも、とても大切な子なんだ。だから、お前の気持ちには応えられない」
「……キョータローは、その子に告白するの?」
問われ、京太郎は一瞬鼻白んだ。初美は彼の顔を見上げる。――答えに、悩んでいるようだった。京太郎が何も言えずにいると、
「ちゃんと告白しないと、ダメだよ?」
淡は、少し寂しそうな笑顔と共に、言った。
「付き合えないとか、関係ないよ。自分の気持ちを正直に言わなくちゃ」
「でも」
「私はね」
京太郎の反駁に、淡は声を被せて言った。
「初めてこんな気持ちを持ったけど、キョータローに好きって言うだけで幸せになるよ。言う度に体の奥があったかくなって、とっても嬉しいよ。こんな気持ちを閉じ込めておくなんて、ダメ。絶対にダメだよ」
――薄墨初美は、恋心を知らない。
霧島神境の男性は大人ばかり。学校も女子校。同年代の男子で一番近しいのが、京太郎だ。その彼も、姫の懸想相手なのだから手は出せない。出す気もないが。とにかく、結果、淡の言う気持ちなんて知らないまま育った。
なのに、彼女の言葉は、初美の心の中にすとんと落ちた。彼女がそう言うのならば、そうなのだろう。
あーあ、と淡は伸びをする。
「キョータローがはっきりしない限り、私は結婚できないんだから。早くしてね。――待ってるから。ずっと、待ってるから」
そんな言葉だけ、残して。
未練一つ見せずに、淡はその場を立ち去ろうとする。
思わず、初美はその背中に声をかけていた。
「待つのですよー!」
「ん? なに?」
「そ、その……振られて、辛くないのですか? 悲しくないのですかー?」
そんな、当たり前のことを訊ねてしまう。何を問えば良いか、初美自身、整理がついていなかった。
「うん、悲しいよ?」
淡はあっけらかんと答える。あまりの真っ直ぐさに、初美も京太郎も言葉を失った。
「でもね」
彼女は、微笑んだ。
「振られちゃった悲しみよりも、キョータローに出会えて、好きになれた嬉しさのほうがずっとおっきい。それだけ」
初美は何も言えなくなった。
代わりに京太郎が、淡に言った。形だけではない、様々な感情が込められた声だった。
「淡」
「ん?」
「ありがとう」
「うん! 言っておくけど、諦めてなんかないからね! 私からもまた会いに行くよ!」
大星淡の満面の笑みは、彼女の名前の通り星のように輝いていた。
◇
東京/永水女子宿泊施設
京太郎と別れ、宿に戻ってきた初美は、温泉で一緒になった霞に今日の出来事を報告した。大半が、愚痴混じりであった。
「お疲れ様、初美ちゃん」
「ほんとうに疲れたのですよー。もう大星淡とは関わり合いになりたくないのですよー」
「その割には嬉しそうね、初美ちゃん」
「……そんなことないのですよー」
湯船につかりながら、初美はむくれる。あんな頭のネジが緩んでいそうな少女に感心してしまった、なんて口が裂けても言えなかった。
「ところで初美ちゃん」
「どうしたのですかー?」
「京太郎くんと、頬ずりしたって……」
「ああ、こう私の左のほっぺたと――」
初美が説明し始めると、霞の顔が寄せられた。初美の左頬と、霞の右頬が触れ合う。
「…………なにしてるのですかー? 私は京太郎じゃないですよー?」
「ご、ごめんなさい」
霞は顔を赤くして、足早に湯船を出て行く。
――薄墨初美は、恋心を知らない。
されど今日、少しだけ分かった気がする。近づけた気がする。
ただし。
今思うことは、たった一つ。
「どいつもこいつもめんどくさいのですよー……」
やさぐれ気味に、初美は独り呟いた。
コメットガールとイヴィルストーン おわり
次回:幕外三/原村和/暮れ泥む