長野/清澄高校
校舎内に響く吹奏楽部の演奏。グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声。窓から差し込む斜陽。伸びる、人影。
一定のリズムで足音を刻みながら、原村和は人気の少ない廊下を歩いていた。九月に入ってなお下がらない熱気で、彼女の肌はうっすら汗ばんでいた。一ヶ月後にはすっかり状況は変わっているだろうが、思い入れのあるこの夏服に袖を通す時間が残り少ないと思うと、和は一抹の寂しさを覚えた。
校舎の端、最早見慣れた部室の扉の前で和は立ち止まった。鍵を差し込むと、抵抗がない。既に扉は開いていた。
ノブを回すと、慣れ親しんだ香りが鼻をつく。シーリングファンが、ぐるぐると回っていた。一年生のときには一台しかなかった麻雀卓が、今は六台。部屋の一角を占拠していたベッドは撤去され、それでも手狭な状態だ。彼女たちが残した成績を考えればもっと広い教室への移転もすぐに承認されただろうが、和にはどうしてもその決断が下せなかった。――この部屋には、あまりにも思い入れが詰まりすぎている。
さて、先客は誰だろうか、と部室を見渡す。すぐに見つかった。
「須賀くん」
「ああ、和か」
一番端の卓、その窓際の席で、長身痩躯の同級生は、一つ一つ牌を丁寧に磨いていた。和は思わず苦笑した。
「今日は部活、お休みですよ」
「そう言う和こそ、どうしてここに? 和が休みに指定したんじゃないか」
「たぶん、須賀くんと同じ理由です。……一人で独占できるかと思ったんですけどね」
悪戯っぽく微笑みながら、和は京太郎の上家に座った。嫌味にも聞こえるその一言は、しかし、付き合いの長さ分の親しみが込められていた。
「というか須賀くん、こんな日まで雑用ですか」
「先々代に仕込まれた習慣が未だに抜けないんだよ」
「手伝いましょうか?」
「ん、もうこれだけだから気にするな」
「いつもそんなだから、後輩たちが困るんですよ」
京太郎は口を尖らせながらも、手を止めない。
「文句があるなら、先々代に言ってくれ。全部原因はあの人」
「あの人にはきっと暖簾に腕押しです」
「だろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。彼女がこの場所を去って久しいが、それでも彼女の名前は度々上がる。冗談めかして言っているが、彼もまた、彼女に感謝しているのは和もよく知っていた。
ひとしきり笑い合った後、二人は小さな息を吐いた。
和の胸を締め付けるのは、寂寥感だった。
明日、二人は清澄高校麻雀部を引退する。
夏のインターハイが終わった時点で、名目上でも書類上でも部を去った身ではあるが、引き継ぎ等々のため引退式は九月のこの時期まで引き延ばされた。それも、明日に迫っていた。この後にはコクマも控えているが、区切りはついてしまう。
「二年と半年か。長かったような、短かったような」
京太郎の呟きは、牌と牌が触れ合う音と共に。
和は目を伏せ、「そうですね」と頷く。
「初めてこの部室で会った日のこと、覚えてますか」
思い返すように和が訊ねると、一瞬、京太郎の手が止まった。
「……どうだったかな」
僅かな間の後、彼はとぼけるように言った。その態度が、珍しく和の嗜虐心に火を点けた。
「優希を、まじまじと見ていましたよね」
「そうだったっけか」
「そうでしたよ」
ぎしり、と京太郎の椅子が悲鳴を上げる。
「しばらく、引っかかっていたんです。どうしてあんなに優希を気にしていたのかな、と」
「……分かったのは、最初のインターハイで、か」
「ええ。私と同じだったんだなって納得しました」
今度は、和の椅子が小さく軋んだ。
「凄く、似てましたよね」
「似てるどころじゃない。姉妹かと思ったからな」
再び二人は顔を見合わせて、笑った。誰と、なんて言うまでもない。今はもう、すっかり見た目は変わってしまった彼女のこと。
半年近くも共に過ごしていたのに、思わぬところで共通点があったとは露知らず、当時は驚いたものだ。――京太郎が彼女との思い出を意図的に封じていたのは、それからもう少し経ってからだった。
和はその全てを理解したわけではない。
だが、当時の彼がどうしても譲れなかったということだけは、分かった。
「須賀くんは」
「ん?」
「……いいえ、なんでもありません」
和が問いかけようとしたのは、今更に過ぎるもので。結局和は言葉を飲み込んだ。本当に知りたかったのなら、二年前、幼馴染が涙を流したと知ったときに訊ねるべきだった。それに、彼女たちの間には、容易に立ち入ってはならない。そんな気がした。
「この前、あいつと電話したんだけど。どうやら志望校、和と同じみたいだぞ」
「ああ、そうなんですか」
「あいつ成績良いみたいだし、きっと二人で合格するよ。――そのときはあいつのこと、よろしくな。俺が言うのも筋違いかも知れないけど」
「気が早すぎですよ」
「かも知れないな」
「でも、承りました」
などと和は答えながら、内心冷や汗をかいていた。――実は志望校の話は、和も彼女とやりとりしている。その際、彼女が京太郎には嘘を吐いておくと宣言したことも、しっかり覚えている。どうやら彼女は、半年かけてサプライズを仕掛けるつもりらしい。もっともそれは、京太郎が奈良に来やすいようにする道作りでもあるのだが。
「……頑張って下さいね、須賀くん」
「え? なにが?」
「あ、ええと、いえ、その……須賀くんは、阿知賀に行くんでしょう? 今のところ咲さんや優希も関東方面に出るのが濃厚みたいですから、どうしても一人ですし。私には神職の修行は分かりませんが、きっと大変かと思って」
ああ、と京太郎は頷いた。
「まぁ、最近ずっと親父にしこたま仕込まれてるからな。何とかなるだろ。……いや、向こうに行ってからが本番なんだけどさ」
彼にとっては、人生を懸けた道なのだと言う。軽く言っているが、現在も続けている努力は並大抵のものではないはずだ。神事には門外漢の和でも、そのくらいは窺い知れた。
それでいて、彼は部活にも欠かさず参加していた。
一年生のときからずっと雑用を請け負って、かつ必死で練習して強くなった。部内リーグで学年最下位の成績ではあるが、決してそれは彼を侮って良い理由にはならない。「一度やり始めたことを、半端なまま放棄できないからな」。そう言って、彼は強くなったのだ。
何事も論理的に考える癖のある和ではあるが――ときに論理を乗り越える意思の力を、見せつけられた想いであった。
「にしても、あれだよなー」
全ての牌磨きを終え、京太郎は天井を仰ぎ見た。
「一度くらいは、頂点ってのを獲ってみたかった」
「女子団体戦は数えないんですか?」
「……卓についてないのは、ノーカウントで」
京太郎が、目を逸らす。
「拗ねないで下さい。先々代も、先代も、影で言ってましたよ。須賀くんがいてくれて助かったって」
「……ほんとか?」
「ほんとです。ついでに、私もそう思っていますから」
「ついでかよ」
「ついでです」
ひでえ、と京太郎が更に拗ねるのを見て、和はくすくすと笑った。
意図せず、二人の間に沈黙が訪れる。
開かれた窓から、爽やかな風が流れ込んできてカーテンが揺れる。休憩時間に入ったのか、野球部のかけ声が途切れた。
いつもは賑わっているはずの部室が、嘘みたいに静かだった。
室内が夕陽の紅に染まると、まるで世界の終わりだなと、和は思った。らしくない詩的な感想に、和自身笑ってしまう。
それから二人は、麻雀部の思い出を語り合った。
インターハイのこと。
新人戦のこと。
コクマのこと。
卒業していった先輩たちのこと。
合宿のこと。
話し始めれば、きりがなかった。局の一つ一つ、対戦相手の一人一人、何一つとして忘れられない。喜ばしいことも、悔しいことも、全部が全部、かけがえのない思い出だった。
一区切りついてから、京太郎は和へと向き直った。
「須賀くん?」
「明日まで、とっておこうかと思ってたけど。人前で改めて言うのも恥ずかしいからな」
「……どうしたんですか?」
「一年間お疲れ様でした、原村部長」
その言葉に、少しだけ涙が出そうになったのは、彼女だけの秘密である。こういう不意打ちは、止めて欲しい。麻雀で勝ち得る賞賛とは違う、きっとここでしか手に入らない労りが、彼女の胸を打った。
「そちらこそお疲れ様でした、須賀副部長」
自然と、右手を差し出していた。京太郎の大きな手が、それに応える。
「そろそろ帰るか」
「そうですね」
と、二人が腰を上げたところで、
「邪魔するじぇ!」
「あ、和ちゃん、京ちゃん」
ばたん、と勢いよく扉が開かれて、優希と咲が入ってきた。二人と二人は、目を丸くして向かい合う。
「のどちゃんたち、今日は休むのはずだじぇ」
「優希たちこそ、どうして」
「お休みって言われてもなんだか落ち着かなくて」
困ったように咲が苦笑して答えた。
「さっきまで優希ちゃんの家にいたんだけど、戻って来ちゃった」
「咲さん……」
和もまた、困りながらも微笑んだ。期せずして、心が通じ合えたのが嬉しい。
咲の傍ら、優希が元気よく吠える。
「休みって言ったのに酷いじぇのどちゃん! さては二人きりで浮気かー?」
「そんなオカルトありえません」
「ないないそれはない」
「……もうちょっと慌てて貰わないと、寂しいじぇ」
しょげる優希に、京太郎が笑う。
いつもの、部室の光景だった。和が勝ち取り、守ってきた場所だった。――やはり、こうでないと。和はそう思う。
彼女は三人に向かって、提案する。
「折角ですし、一局打っていきませんか?」
「良いの? 和ちゃん」
「のどちゃんも麻雀大好きだじぇ!」
「休みだったはずなのに、結局部活か」
京太郎のぼやきに、和は「いいえ」と首を振る。
「部活ではありません」
「それじゃあ、なんだじぇ?」
和はうっすらと微笑んで、言った。
「みんなで、遊びましょう」
それは――かつて「彼女」が和に向けた放った言葉と同じ種類のものであった。あの教室で共に歩んだ記憶は、確かに刻まれたままだったのだろう。
自然と出た言葉に、和は自分でも嬉しくなった。彼女との再会を待つ京太郎が、ちょっと羨ましくもなった。
磨き上げたばかりの牌を広げる。一番古い麻雀卓へと、誰からともなく歩を進めた。からからと賽子が回る音に、耳を傾ける。触れる牌のぬくもりが、愛おしい。
――暮れ泥むこのときが、ずっと続けば良いのに。
そんな夢想じみた望みに、和はそっと身を委ねる。
暮れ泥む おわり
次回:幕外四/???/? ?????