東京/東京大神宮
京太郎の風邪は、翌日には完治した。幸い、看護を務めた小蒔と憧に感染ることもなかった。
おかげで小蒔は朝から上機嫌だった。鼻歌交じりでおひつから御飯をよそい、京太郎に差し出す。
「はい、どうぞ」
「さんきゅ、小蒔ちゃん」
「いえ」
お礼を言われるだけで、小蒔は照れてしまう。お茶碗を手渡すとき、指が触れ合っただけでどきりとする。未だ理由は分からないが、小蒔はこの気持ちを気に入っていた。
「ねね、小蒔、京太郎」
京太郎を挟んで隣に座る憧が、箸を片手に話しかけてきた。憧の口元は楽しげに釣り上がっている。昨日は少し陰のあった彼女も、すっかり元気を取り戻したようで、小蒔も安心した。
「今日は午前中、二人ともやらなくちゃいけないことあるのよね」
「はい、そうですけど」
「だったら午後から東京観光しない? あたし、友達に買って帰るお土産探したいし。霞さんたちも一緒に、みんなで。どう、だめかな?」
「いえ、だめなわけがありませんっ」
小蒔は顔を輝かせて笑った。東京観光は、一昨日の晩に京太郎とも約束していた。
「京くんも、良いですよね?」
「当たり前。俺だってそのために来たようなものだし」
「では決まりですねっ」
「決まりではありません」
ぴしゃりと小蒔を叱りつけたのは、霞だった。
「小蒔ちゃん、夏休みの宿題はやったの?」
「……あの」
「昨日、須賀くんの看病で一ページも進んでいないでしょう?」
「…………その」
「一昨日は迷子で。それとも私も見ていないところでやっていたのかしら?」
「………………ごめんなさい」
しゅんとなる小蒔の隣で、京太郎が声を上げた。
「じゃあ、皆でぱぱっと終わらせちゃおうぜ」
憧もまた、京太郎に同意する。
「ちゃんと終わらせれば行っても良いんでしょ? 霞さん」
「ええ、もちろんよ」
それが正解、と言わんばかりに霞は片目を閉じて微笑む。小蒔はほっと胸を撫で下ろした。隣を見れば、京太郎と憧が親指を立てていた。やっぱり二人は頼りになる。小蒔は改めてそう思った。
年長者として京太郎と憧の勉強を見てあげようとした小蒔であったが、自分の宿題で手一杯であった。さらに言えば、憧は一人でも凄い速度で算数のテキストを終わらせてしまうくらい、学業優秀だった。京太郎は京太郎で、絵日記という勉強とは関係ない宿題をやっていた。
結局無事に用事も宿題も終わらせたのは、午後二時過ぎ。
霞の許可も出て、遠くに行きすぎないという条件の下、七人は社を出た。
電車に揺られ、辿り着いたのは東京駅。地元の駅よりもずっと広いはずなのに、人で溢れて狭く感じる。自分たちの住む街とあまりに違う光景に小蒔は感心していると、歩いてきた人とぶつかりそうになった。
こういうとき、小蒔の手を引くのはいつも霞の役目だった。
だというのに、今日に限って霞は一歩後ろについていた。他の六女仙も同様である。小蒔の手をとったのは、京太郎と憧だった。
普段と違う感覚に戸惑いながらも、小蒔は彼らに着いていく。彼らとなら、小蒔はどこにでも行ける気がした。
東京駅を背景に記念写真を撮った後、一行は皇居の周りを散策することとした。当然中には入れないが、天照大御神が祀られる宮中三殿がある。全員が神社の関係者として、近くまで赴きたいと思うのは自然の流れであった。
皇居周辺は駅よりもずっと人が少なく、空気も澄んでいる気がした。小蒔は一息つきながら、ゆっくり歩を進める。
「姫様」
道中、巴が小蒔の耳元に囁いてきた。
「どうかしましたか?」
「私たち、今から少し席を外します」
「えっ」
「須賀くんと二人きりで、しばらくどうぞ」
「えっ、えっ」
「ああ、近くにいますから安心してください」
見れば、初美が憧を誘って出店のクレープ屋に向かっている。遠くで春は何故かガッツポーズをとっており、霞までひらひら手を振っている。
「ど、どうしてそんなこと。皆で歩けば良いのでは……?」
「まぁまぁ。姫様だって、嫌ではないでしょう?」
巴の眼鏡がきらりと光る。
言われた小蒔は目を白黒させ、結局何も言い返せなかった。それでは、と初美たちの元に向かう巴の背中を追えない。
「あれ、憧たちは?」
先頭を歩いていた京太郎が事態に気付いたときには、他の五人の姿は消え失せていた。時既に遅し。
「……す、少しの間、別行動しましょうって」
小蒔が絞り出すように言った。
「なんだ、相談もなしに。憧の仕業か?」
「い、いえ」
うちの身内の仕業です、とも小蒔は言えない。
「まあ良いや。行こうぜ、小蒔ちゃん」
「……はい」
京太郎の一歩後ろ、影を踏まぬよう小蒔は着いていく。
思えば、京太郎と二人きりになるのは初めてではなかろうか。迷子になっていたときはずっと憧がいたし、神宮に到着した後も六女仙が傍にいた。看病のときだって、やはり憧とセットだった。
急に日射しが強くなった気がした。汗が滴り落ちる。日傘を用意すれば良かった、と小蒔は後悔した。ときどき振り向いて話しかけてくる京太郎の目から、逃れたい。どんどん体温が上昇しているのを自覚する。
「でも、小蒔ちゃんたちも大変だよなー。巫女としてもう勉強始めてるんだろ?」
「大変……なんでしょうか。物心ついたときからずっとそうだったので、よく分かりません。それに、不自由ばかりではありませんし、好きなこともやっていますよ。京くんは、跡を継がないんですか?」
「んー」
京太郎は顔を顰めてから、言った。
「俺、一人っ子だし、そうなるのかなって思うときもあるよ。親父は何も言ってこないから、勉強とかはまだまだだけど」
でも、と彼は続ける。
「この旅行に参加させたのも、そういうの、俺に考えさせるつもりなのかなーって思った。結局親父は酒飲んでばっかりだけど。……ま、嫌とかそんなのはないかな」
「それでは……須賀神社に残る、と」
「スポーツ選手って言うのも捨てがたい」
京太郎は屈託なく笑う。冗談半分、本気半分と言ったところだろう。それでも彼なら、叶えてしまえそうだ――小蒔はそう思った。
「小蒔ちゃんは、他になりたいもの、ないの?」
「なりたいもの、ですか」
今度は京太郎から訊ねられ、小蒔は戸惑った。
一番に思いついた単語を京太郎の前で口にするには恥ずかしく、彼女は考え直す。両手の指を胸の前で絡ませ、逡巡した末で、出てきたのは一つの答えだった。
「……そうですね。なりたいもの、ではありませんが。麻雀をもっと、やり続けたいなと思っています」
「麻雀かー。流行ってるもんな」
「はい。最近、皆でやり始めたんです。京くんもスポーツに疲れたら一度やってみてください。とっても面白いゲームですよ」
「分かった。覚えとく」
小蒔は顔をほころばせて、頷いた。
「そんで小蒔ちゃんは、どれだけ強いの?」
京太郎の何気ない問いかけに、またもや小蒔は言葉を詰まらせる。
単純な技術の話を論ずれば、霧島神境の巫女の中でも小蒔は下から数えたほうが早いだろう。だが、彼女には群を抜いた特殊な能力があった。
――憑依体質とも言える、神降ろしの力。
それを使えば、同年代筆頭の実力を誇る霞や初美でさえも上回ることができるのは近頃の実践で証明済みだ。もっとも、小蒔はそのときの記憶はないのだが。
小蒔がこの力を有するのは、現在霧島神境の秘匿の一つとされている。例え京太郎が神道に関わる人間であっても、安易に教えるわけにはいかない。
「まだまだ、修行中の身です」
「そっか。じゃ、俺のハンドボールと同じだな」
京太郎に秘密を作るのは、心苦しい。いつか彼に全てを打ち明けられれば良いな、と小蒔は思う。そのための手段は限られていて、それに彼女が気付くのはもう少ししてからだった。
しかし、実際のところ。
「お互い、頑張ろうぜ」
「はい」
小蒔の口から、彼女の秘密について京太郎に語られることは、終ぞなかった。
◇
二人は堀に住むサギやカルガモを眺めながら、ゆっくりと皇居周りを一周する。終えたときには、既に陽が傾き始めていた。
どこに隠れていたのか、そこで小蒔は霞たちと合流した。終始表情を変えない春を除いて、六女仙たちはにやにやしている。
若干不機嫌そうだったのは、憧。しかし彼女も小蒔の姿を認めると、すぐに表情を明るくし、抱きついた。それから京太郎の肩をばしばし叩いた。
「そろそろ帰りましょうか」
「えー、まだ遊びたいですよー」
「だめ」
霞が一切の文句を撥ね除けて、一同は帰路につく。
帰りの電車では、憧と初美が京太郎を独占していた。憧たちに何やら尋問されている京太郎を、小蒔は心配げに見つめる。
だが、彼女にそんな余裕はなかった。
「姫様、姫様」
「は、はい?」
巴ががっしり小蒔の肩を掴み、目前には霞と春。
「須賀くんとのデートはいかがでした?」
「でっ……」
小蒔は顔を真っ赤にして、絶句する。くすくす、と霞は妖しく笑う。
「短い時間だったけど、楽しめたかしら?」
「そ、そんなつもりは」
――どきどきしてばかりで、それどころではなかった。小蒔の感想はそれしか出てこない。だが、霞や巴がその程度で満足するわけがなかった。
「さあさあ、姫様」
「教えて頂戴、小蒔ちゃん」
「黒糖、食べる?」
「ううううう……」
あれやこれやと邪推されながらの帰り道は、小蒔をぐったりとさせるには充分だった。最後はやはり、京太郎と憧に手を引かれながらの到着だった。
お風呂を貰い、小蒔たちは晩ご飯を頂く。
普段ならもう眠る準備をするところであるが、今は京太郎と憧がいる。小蒔は暇を惜しんで彼らとお喋りしたかった。
考えないように、考えないようにとしていたが、もう一緒にいられる時間は少ない。京太郎たちと過ごす期間は、あっという間に過ぎ去ろうとしている。
明後日には鹿児島へ帰らなくてはならないのだ。飛行機の出発時刻を考えれば、当日の朝はゆっくりしていられないだろう。
迷子になったときに味わったのとは違う種類の、焦燥感。
「小蒔、麻雀しよ麻雀っ」
それも、背後から抱きついてきた憧の体温を感じれば、吹き飛んだ。
「はい、是非っ」
「負けないわよー」
憧といういつもと異なる面子と囲む卓は、新鮮で小蒔を夢中にさせた。ラスを引くのはほとんど小蒔であったが、それでも楽しかった。
ルールの分からない京太郎は参加を固辞し、あぶれた面子と将棋を指していた。途中、小蒔も一局彼と指したが、あっという間に詰まされてしまった。憧も同様で、彼女は何度も京太郎に挑戦した。その度に京太郎は返り討ちにしたが、参戦した霞の手によって彼の連勝記録は打ち止めとなった。
そこで、時刻は九時を回る。ぽーん、と掛け時計が音を鳴らした。
「そろそろ、寝ましょうか」
「え、霞さん勝ち逃げかよ」
「京太郎くんは病み上がりでしょう。あんまり遅くまで起きてちゃいけません」
霞の言葉に、京太郎は不承不承と頷いた。
小蒔もしょんぼりとするが、どう考えても霞が正しい。京太郎の体調を慮っていなかった自分に気付き、彼女は一人恥じ入った。
「それに、明日はお祭りがあるでしょう? 私たちもお手伝いしないといけないわ」
「……お祭り?」
「ええ。まさか、忘れていたわけではないわよね?」
ぶんぶん、と小蒔は首を横に振った。実際は忘れていた。背後で京太郎が、「忘れてた」と正直に呟いて、憧に頭を叩かれる。
「ちゃんと仕事さえすれば、夜にはちゃんと縁日で遊べるから。ね? 京太郎くんたちとも一緒に」
最後に添えられた言葉は、あまりに甘美な誘いだった。小蒔はすぐさま立ち上がる。
「お休みしましょうっ、いますぐにっ」
「寝るだけなのに、気合たっぷりですよー」
初美が茶化して、部屋が笑いに包まれる。
小蒔は気にせず、マイペースに布団を敷いていく。もちろん、京太郎の両隣は自分と憧のものだ。
寝支度を整えながら、小蒔は明日をまだかまだかと待ちわびる。まるで遠足の前日、昂ぶりはそれ以上。明日が終わってしまえば、なんてもう考えない。お祭りを全力で楽しめば良いのだ。そうしなければきっと、お別れなんてできっこない。
「京くん憧ちゃん、明日は頑張りましょうっ」
「もちろんっ」
「とーぜんね」
おー、と三人で拳を振り上げる。その様子を、霞たちは微笑ましく見守っていた。
眠る前、歯を磨くために小蒔は部屋を一旦出る。それに続く影が、一つ。
後を着いて来たのは、春だった。平時から物静かな彼女は、この旅行中も特に感情を表にしていない。ただ、小蒔には彼女が楽しんでいることは充分理解していたし、京太郎と憧を気に入っているのも伝わってきた。
「姫様」
歯ブラシを片手に、春はいつもの能面で語りかけてきた。
「はい? なんですか?」
「先に謝っておく。明日はちょっと、ごめんなさい」
言われた小蒔は、何のことかさっぱり分からず、上機嫌な笑顔のまま首を傾げた。
東京の夜が、更けていく。
次回:六/新子憧/祭りの夜に