長野
宮永咲は文学少女である。
本に目覚めたのは、いつだったろうか。最初の記憶は、慕っていた姉が読み聞かせてくれた絵本だ。内容はもう思い出せないが、とてもわくわくしたことだけは覚えている。ひらがなを覚え、カタカナを覚え、漢字を覚え、図書室の本を読み耽った。姉と軋轢が生まれ、家庭内に不和が生じると、ますますのめり込んでいった。
小学校から中学校に上がると、目には見えていなかった女子間の「格差」は、しかしより顕著になった。咲のような部活もしない、派手でもない、黙々と本だけ読んでいるような少女は、自然と教室の端に落ち着く。クラスで人気の男の子と付き合っていたり、麻雀が強かったりする女の子だけが、女王として君臨できるのだ。前者はともかく、後者ならば咲にも可能な手法であった。
さりとて咲は、そんなものを目指しているわけもなかった。
ほどほどに目立たず、無視されるわけでもなく、疎まれるわけでもなく。ただ、ゆっくり本を読めれば良い。友達はほとんどいないが、構わなかった。中学生になって最初の梅雨には、咲が望む世界は構築されていた。
――その日は、しとしとと雨が降る日だった。
お気に入りの校舎裏の木陰は使えず、放課後、咲は仕方なく教室で読書に耽っていた。昨日の夜、盛り上がったタイミングで睡魔に抗えず寝落ちしてしまったのだ。授業中、ずっと続きが気になって仕方がなかった。こういう日に限って、教師から雑用を押し付けられて休み時間もろくにとれなかった。
もう私を止める者などいない。妙な高揚感でページをめくっていた。
彼が現れたのは、そんなときだった。
「よっ。何読んでんだ?」
見知らぬ顔だった。
背がすらりと高く、やや軽薄そうではあったが、そこそこに整った容姿をしていた。だからといって、咲はときめきなどしなかった。いきなり声をかけられて、強めたのは警戒心であった。
「……どちら様ですか」
「ひっでぇな。体育の授業で一緒になってるだろ。隣のクラスの須賀だよ。須賀京太郎」
知らなかった。そもそも体育の授業など、開始十分で疲弊して隣のクラスを気にかける余裕はどこにもない。
「で、何読んでるんだ?」
「……ゲーテ」
「ふぅん、ゲーテ。……面白いよな」
あ、こいつ何も知らないな、と咲は直感した。後に確認したところ、やはり彼は何も知らなかった。――「ゲーテ? 食べ物?」。殴ってやろうかと思った。
一言二言、言葉を交わすと、須賀京太郎はあっさり去って行った。一人、咲は教室に取り残される。何だったのだあれは、と咲は首を傾げた。意味がさっぱり分からなかった。
最初は、ただの気まぐれだろうと咲は考えた。
だが、それからも須賀京太郎は咲に声をかけてきた。
「よっ。今日は何読んでるんだ?」
「お前、腕ほっそいなァ。ちゃんと飯食ってるのか?」
「なァ、俺にも読める本ある?」
鬱陶しい。貴重な読書時間が奪われる。――当初、咲はそう思っていた。授業の合間の休憩時間も、お昼休みも、京太郎はさらっと現れて、好き勝手喋っては帰って行く。咲は咲であまり人と喋らないものだから、上手く会話を繋げられなかった。
しかしこうなると、咲も彼を意識してしまう。
体育の授業、サッカーで活躍する京太郎を見た。バスケで活躍する彼を見た。野球で活躍する彼を見た。――活躍するところしか、見ていない。
しかも本職はハンドボールだと言う。一年生ながらレギュラーで、県下でも注目の選手とされているらしい。
当然、スクールカーストでは最上位の部類だ。麻雀は確かに人気競技だが、運動ができる男子というのも確かにモテる。京太郎が咲の元を訪れなかった休み時間、ふと隣の教室を覗けば、男女に囲まれて馬鹿騒ぎをしている彼を確認できた。
そんな彼が、どうして自分を気にかけるのか。やはり、咲には理解出来なかった。
しかしある日、数少ない級友から、咲はこう訊ねられた。
「ねえ、宮永さん。宮永さんって、須賀くんと付き合ってるの?」
咲は、大慌てで首を横に振った。誤解だデマだゴシップだ。必死になって、説得した。三十分かけてようやく納得してくれたらしい級友は、しかしさらにこう言った。
「でも、須賀くんは宮永さんのことが好きなのかも。だって、ずっと話しかけてくるじゃない」
咲は、顔を真っ赤にした。全くもって、予想外の展開だった。そういうのは、本の中の世界でだけ起こるものと思っていた。空想力はあっても、想像力が足りていなかった。その日、咲はお風呂場でのぼせてしまった。
――まさか、須賀くんが、自分を?
言われてみれば、思い当たらないでもない。というか、十中八九そうなのではないか。しかし、こんな地味な私をどうして。
ぐるぐると、咲の思考は同じところを回り続けた。その日から、しばらく京太郎の顔をまともに見ることができなくなった。だが、京太郎は咲に構い続けた。
京太郎と咲が仲良くなることに、喜ばなかった人たちもいた。咲にとっては思い出したくもない記憶だ。ただ、京太郎が解決してくれたことだけは、しっかりと覚えている。
二年生になると、同じクラスになった。席も近くて、同じ班にばかりなった。修学旅行では、肝試しのペアにもなった。
「京ちゃん、絶対に置いてかないでね」
「分かってるよ、安心しとけ」
繋がれた手は大きく、暖かかった。言葉通りに、咲は安心できた。その頃にはもう、最初にあった距離は既に失われ、京太郎は咲にとって学内で最も気安い友人となっていた。
だからこそ、咲は分かった。分かってしまった。
京太郎が、自分に構う理由。
――彼は、自分を他の誰かに重ねて見ている。
ちょっと間が抜けていて、放っておけないところ。
変に意地を張ってしまって、素直になれないところ。
――きっと、そういうことなのだろう。
だからといって、咲は怒らなかった。むしろ、京太郎には感謝をしていた。彼が、自分を陽の当たるところに連れ出してくれた。もちろん今も、目立つのは怖いのだけれど――そうしておかなかったらきっと、麻雀部には入れなかっただろう。大会の舞台になんて、とてもではないが耐えられなかっただろう。
――恋には、辿り着かなかった。
強がりではなく、咲は心底そう思う。同時に、ちょっと残念だな、とも。
そして高校生になった今も、京太郎は咲の友人だ。同じ麻雀部で、チームメイトだ。ずっと、縁の下で支えて貰っている。自分たちが麻雀だけに集中していられるのは、間違いなく京太郎のおかげだった。それは、先輩たちや和、優希も認めるところだった。
「京ちゃん、いつもありがとうね」
「なんだよ藪から棒に」
「むっ。人が折角お礼を言ったのに、その態度はなんなの」
「はいはい、こちらこそありがとよ」
放課後、せっせと麻雀道具の整備をする京太郎と交わす会話は、心地よかった。中学時代、教室で交わしたときと、同じように。
――ここには、大切な仲間たちがいる。京太郎が、いる。
夕陽が差し込む部室で、咲は幸福な一時を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
宮永咲は文学少女である。
高校生になり、部活は始めたが、麻雀部だ。いかに人気競技、いかに練習が厳しいと言っても、文系の部活動。走ったり跳ねたり投げたりというのは、生来の運動神経のなさも合間って、からきしであった。
――だから当然、アスリートに叶うわけがない。
膝を痛め運動部を引退したとは言え、須賀京太郎は元々体育会系の男子だ。彼が本気で走って、咲が叶うわけがない。
「待、って……! 京、ちゃん……!」
息も絶え絶え。足は震える。
夏の太陽は容赦なく照りつけ、あっという間に汗が浮かんでくる。制服が肌に貼り付いて、気持ち悪い。
一度小さくなった彼の背中に追いつくのは、相当な労苦だった。
咲がようやく京太郎を掴まえたときには、彼はとっくの昔に足を止めていた。だと言うのに、まだ肩で激しく息をしている。
――急に、どうしたと言うのだろうか。
県予選を突破し、全国大会の切符を手に入れた清澄高校麻雀部は、今日からインターハイのため東京入りしていた。男子部員の京太郎は、出場権を持っていないけれども、着いてくるのは当然だった。一緒に戦う仲間なのだから。
会場の下見をしたい、と言い出したのは咲だった。明日の開会式、迷わないようにしておきたかった。なんだかとても、迷いそうだった。
優希は東京タコス巡りに出かけ、和は長旅の疲れで休みをとり、先輩たちは軽く打ち合わせ。咲に随伴するのに選ばれたのが京太郎だったのは、自然な流れであった。一人では、確実に道に迷う。
しょうがない奴だな、咲は、なんて軽口を叩きながら京太郎は着いて来てくれた。一通り会場を見て回り、あやうくボイラー室に迷い込みそうにもなったが、とにかく下見は無事に終わった。
問題は、会場を出るときに発生した。
入口でたむろしていた女子の集団――やはり、彼女らもインターハイ出場者なのだろうか?――に、咲がぶつかってしまったのだ。
自らの不注意を恥じながら、京太郎にフォローして貰う。いつものパターンだった。
だが、京太郎の様子がおかしかった。
彼は、確かに彼女たち二人の名前を呼んだ。そして、彼女たちも京太郎の名前を呼んでいた。しかも、どことなく仲の良さを窺わせる呼び方だった。
だと言うのに、だ。
たった一言。
京太郎は、たった一言、「ごめん」と言って、走り出した。――逃げ出した。ほとんど自動ドアにぶつかるようにして、飛び出したのだ。
あまりにも突然に行動に咲はびっくりして声も出なかったが、とにかく彼を追いかけた。共に、帰らなければならない。彼を一人にしてはいけない。――直感が、そう告げた。
そうして走って、走って、走り続けた。ここ一年分くらいは走った。咲はそんな気がした。
後ろを振り返っても、先ほどの少女たちが追いかけてきている様子はない。それにちょっとほっとしながら、咲は京太郎に訊ねた。
「どうしたの、京ちゃん。いきなり……なんで? あの子たち、友達じゃないの?」
そう――古い、知人なのではないか。咲の疑問は当然だった。
「違う」
京太郎は、頭を振った。
ぞくり、と咲の背中が震えた。麻雀で強敵と対峙したときとはまた違う、震えだった。
「違うって……そんなこと」
「違うんだ」
――見知らぬ、顔だった。
三年以上の付き合い。一緒に過ごした時間なら、一番だと咲は誇っている。彼のことを一番よく知っているのも、自分だと。
しかし、見知らぬ顔だった。
初めて見る、表情だった。
京太郎は、吐き捨てるように、誰かに言い聞かせるように、言った。
「あいつらは――……友達なんかじゃ、ない」
次回:八/新子憧/続 東京迷宮・前
Summer/Shrine/Sweets、これより本番です。