たとえばこんな結末を   作:やわらかチキンカツ

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よくよく火曜日は不安になって

 いつもの場所で、いつもと変わらない行動をとっていた少女は、いつもと違う光景を目にしていた。自動販売機から硬貨の代わりにペットボトルに入った水が出てくる。口に含めば水分が身体に補給され、脳みそがなんだかすっきりした気になってきた。

 麻帆良の女子中等部に通う少女は部活帰りにいつもこの桜通りを使っていた。今日は皆々が待ち望んでいる休日。少女も同じで午前中の練習で汗を流したこの後、友達を誘って街へでも繰り出そうかと思っていた。

 夏ほど暑いということもないが、その残照が感じられるこの季節。いつもと違う光景に思わず少女は引き寄せられていた。それは少女が良い子で,その光景を放っておくままにできなかったからで――近づくべきではないのかもなと頭の片隅で考えてしまったことは,視界の中心にそれを収めた時にはもう忘れていた。

 軽い足取りで近づいてみて、まず目に入ったのはビールの空き缶だった。ワインにウィスキー、焼酎の空き瓶もそこいらに転がっている。少女はそれを飲んだことはなかったが、たくさん飲めば目の前でうなだれている男のようになることは知っていた。

 

(大きいアル)

 

 男の正面に立ち、金髪の髪の毛をふたつくくりにした褐色肌の少女――古菲が抱いた印象だった。

黒いガウンに首から十字架をかけた男は大きな縁の帽子を深く――日差しから隠れるようにかぶってベンチに座っている。肩幅は自分の倍近くありそうだ。服の上からでも太い骨は筋肉の鎧で覆われているのが予想でき,覗き込むように顔を近づけると目はどうも開いているようで、猛禽類を思わせる視線とかち合った。

 

「お嬢ちゃん、タバコ吸ってもかまわねぇか?」

 

「タバコ吸うと心肺機能が低下して強くなれないアル」

 

「固いこと言うなよ」

 

 のっそりと立ち上がる男に合わせて古菲の視線も上がっていく。想像したとおり大きな男だった。頭ふたつは違うだろうか。彼によって立っているところはすっかり影の中だ。

 吐き出す煙は白く、古菲の鼻には合わない。

 

「酔ぱらてないアルカ?」

 

「あ~こんなに飲んでたとは。うぇ、またシスターからお小言もらいそうだな」

 

「気づかず飲んでたアルか?」

 

「いや、気づいてはいたんだが……俺ってばやっぱ酒に強いんだな」

 

 うんうんうなずく男に古菲は少し違和感を覚える。だがその違和感の正体はさっぱりわからず、考えてみてもさっぱりわからないのでそのままにしておく。

 

「お兄さんは何してたアル?」

 

「人生に悩んで……ってそんなたまじゃねぇし、なんとなくそんな気分だったからかね」

 

「なんとなくアルか」

 

「なんとなくだな」

 

にへらっと鋭い表情を崩して柔和になると、

 

「まぁとにかく声かけてきてくれてありがとよ。お礼に若人よ、悩みがあれば何でも聞くぜぃ」

 

 右手で十字を描きながら男は大きく微笑んでみせた。

 

 

 

 

 

 中国武術研究会で部長を務める古菲には野望があった。

 武術の道場を開く父母のもとに生まれた古菲にとって武術を学び己を高めていくことは呼吸することと同じだった。握った拳が昨日より手になじむことが、足運びが先週よりも軽やかになることが、教わった型が先月より血肉に刷り込まれていることが、一年前より確実に強くなっていたことが彼女の幸せだった。

 同時に古は不幸でもあった。類稀なる運動能力と抜群の格闘センスと教わったことを素直に吸収できる頭の柔らかさを持ち合わせてしまったが故に――彼女は強すぎた。十を越えたころには師である父を除いて道場にもう敵う者はいなかった。

 

「だから麻帆良に来たと」

 

「そうアル。ここは世界中からいろんな人が来るて師父が言てたネ」

 

 二本目の煙草に火をつけた男は――オーガン・ロメロと名乗った――また白い煙を吐き出した。ため息が混じっているように感じられたが気のせいではない。じろじろと失礼なほどに――といってもクーにはどうでもよかったが、彼女の顔をなめるように見渡すと、首をひねりながら言葉を絞り出した。

 

「高校生ともやり合えたんじゃねぇか」

 

「まだまだだたネ、功夫が足りないアル」

 

「大学生とも手合せできたろ」

 

「私にかかればちょちょいのぱーアル」

 

「教師連中……は、まぁ無理か」

 

「強そうな相手はいたけど闘てくれなかったヨ~」

 

「俺んときもそうだったわなぁ」

 

「師父もそうだたアルか?」

 

 会話が合うのは同じ知能レベルだからか、とにかく旧知の仲のようにオーガンと古の会話は噛み割っていた。彼女が彼に警戒心を抱かなかったのはいやらしい――劣情に基づいたというのとは少し違うが――感じを受けなかったからで、難しいことは苦手で感覚で生きる彼女にとってそれだけで十分だったからだ。

 ぐいいと身を乗り出すとオーガンは昔を思い出すように遠くを見つめた後で、

 

「てかなんで俺が師父?」

 

「もちろん強そうだからアル!」

 

 付け加えて理由を並べるなら言葉通り。立ち上がると拳を握り肩幅よりもいくらか足を開く。

 

「というわけで勝負勝負アルヨ!」

 

「やだよ、俺はこれでも牧師だぜ」

 

「牧師?」

 

「神様に仕える者ってやつよ」

 

「おー、凄いアルなー」

 

 ふふんとかっこつけるように顔を作ったくわえ煙草のオーガンの手を引き立ちあがらせ、そこから数歩下がって距離をとる。息を短く吸って腹の下に力を込める。オーガンの眉間に皺が寄ったのは決して間違いではなく、中国武術研究会の練習で疲れていたはずの節々が歓喜の声を上げているように感じていた。

 

「ではでは勝負アル!」

 

「いやいや意味が――」

 

 意思をはっきり示させる前に、麻帆良一面に敷き詰められている石畳を砕かんばかりの踏込とともに古は飛び出した。

 一瞬よぎった手加減という行為を無視したのは目の前の男への信頼の証。大の男を一撃で昏倒させる古の拳打は想像通りにオーガンにクリーンヒットしなかった。例えるならば風に舞う木の葉のように、彼女よりもずっと重いはずの彼はふわりと空中で一回転して距離をあけるように着地した。

 

「軽気功アルか?」

 

 浮かんだ単語――連綿と続く歴史の中で積み上げられてきた技術を口に出すと,数メートル先のオーガンはきょろきょろ自分の身体を見まわした後に,

 

「いやー俺は気なんか使えねぇらしいし……てかなんで気を知って,る……わけでもねぇのか」

 

「んー、じゃあ消力アルな!」

 

「しゃおりー? あー……うん、なんかそれかな、それだと思うわ」

 

 オーガンの発言にやはり違和感を覚える。先ほどからどうも――かみ合っていない。知っていたわけではなさそうで,だが知らないわけでもなさそうで,頭の中にどこかの検索エンジンでも常備されているようだった。

 しかしそれはそれでこれはこれ。古はどちらかと言われれば悩む暇もなくこれの方が大切で,ただ自分の拳で倒れなかったという事実に身体は止まってはくれず,頬は自然と吊り上がり笑みを浮かべていた。きっと今日の練習はこの時のための準備運動だったように、これまでの日々がすべてこの日のためにあったとすら勘違いしそうに,それほどまでに古の心は熱く興奮していた。

 

「師父はきっと、ずっと強い人だったアルな」

 

 吐き出す息が頭を冷やし,闘うための合図を身体に送る。胸にかけた十字架以外,全身真っ黒な服に身を包んだオーガンは徐々に鋭くなってくる視線をよこしてきた。それは言葉を促されているようで,

 

「私も……そうだったアル。先生たちは手合せしてくれないし、クラスメイトも力比べしかしてくれないアル。でも違うネ,私が欲しいのはそれじゃないアルよ」

 

 風が吹く。熱さと冷たさを混ぜたちょうど良い風に背中を押されているように感じられる。その流れに意識を任せるような気分で,古はゆったりと呼吸をまとめていった。

 身体を覆う適度な重さとけだるさが心地よい。拳を突き出して,古は宣言する。

 

「我只要和強者闘――それこそ我が望み」

 

 人間は知性を持ち,理性を持ち,まるで神の代弁者のように地球という惑星を支配しているが――結局一種類の生物に過ぎない。闘って,戦って,出来上がったのが本日の世界様相で,それこそが人間の本質なのだ。故に古のようなタイプは存在する。闘うことが好きで,強くなることが好きで,視界がすべて弱者になれば強者を求めてさ迷う,獣としての人間を持つ者が。

 強くなるたびに,古はちっぽけな肉体など弾け飛びそうな情熱が生まれるのを知っていた。同時にその情熱の方向を上手に指定し,収め律していくことが武術だという事も知っていた。それでも――

 

「因果だな」

 

 ため息をついて頭をかいたオーガンの表情に,古の胸は高鳴り気分がこれ以上ないほどに高揚する。

中国武術研究会で部長を務め,部員だけならず他の格闘系クラブからも目標とされる古には強さだけではない理由があった。いつでも明るく誰にでもわけ隔てない,皆が憧れる武術家としての姿があればこそ,狂信的に彼女を好くファンクラブが出来上がっているのだ。

 

「いんがアル!」

 

 だが今はどうだろう。身を低くかがめた姿は虎の如く,血に飢えた眼差しはオーガンを貫く気持ちで注いでいた。暴れまわる心音以外,やけに周りは静かだと感じられる。

 

「じゃあま、難しいことはわかんねぇし、ガラじゃねぇ」

 

 オーガンの声だけが――別に大きくなったわけではなく集中しているのだ――耳の奥底まで一気にかけてきた。彼はまるで横断歩道を渡るように少し早足で,躊躇など微塵と見せずに正面から歩いてきた。

 向かってきたオーガンの動きに合わせて古は後方に身体を引いた。それは跳躍というには弱く,つま先で地面をけった程度で。

 数瞬前まで古のいた場所で下から上に,圧力が吹き上がった。自分が着れば引きずるしかない長いガウンに隠れたオーガンの足は想像通りに長く,眼前をつま先が通り過ぎる。

 それがきっかけだった――振り上げられた足とは逆側に,身体を正面から半身に変えながら踏み込めば目の前には的のように空いたオーガンの腹がある。

 

「憤ッ!」

 

 昏倒させるつもりで打った拳には分厚いタイヤのような弾力が――骨ばった硬さも同時に――跳ね返ってきた。

 目の前の男は倒れない――だからこそ彼女は停滞しなかった。

 打った拳を腹から少し離し,踏み込んだ石畳をもう一度蹴る。それはまるで波のように,足から腰に,腰から肩に,肩から腕へと力は伝わり昇り,ねじりこむように拳を打ち付けた。

 

 中国武術において最も認知されているのは発勁という言葉であろう。神秘的なイメージをぬぐえないのだが,それは単純に強い力を発生させることを意味しており,気や魔力とはまた別の物理法則に基づいた技術である。

 しかしその中にありながら魔法と呼ばれるものが存在する。寸勁と呼ばれるそれは本来なら拳を後ろに引き打ち出す突きの基本動作を完全に取り払い,拳を対象に接触させたままに全身の各部位で発生させた力を移動させて打ち出す,間合いという概念をひとつ打破した技術である。

 と,簡単に言えば野球のピッチャーが全身の力をボールに込めるのと同じ原理ではあるが,それを実戦でと考えるとひどく難しい。木石を相手取るのではない。動き回る相手に使用するには相当な熟達が必要で,だからこそ魔法と呼ばれているのだ。

 

 古の一撃は指程に隙間をあけた短勁というもので,間合いを無視したそれは確かにオーガンへと叩き込まれた。現にヒビの入った石畳の上にくの字になりながら彼は打ちすえられていた。

 

(やった……アルか)

 

 明確に示せば慣れによるものだった。自分の自慢の一撃が決まったがために,これまでがそうだったために,古はこれで終わりだと思ってしまったのだ。それは時間に表わせば一秒にも満たない短い間のことだったのかもしれない。されど古にとっては致命的で――

 衝撃音は口内に広がった鉄の味に紛れた。視界は親指を残りの太い指で包んでできた大きな拳で覆われて,知覚するより先に小さな古の身体は軽く浮いてから地面に放り出された。

 

「……アイヤー」

 

 間の抜けた声が尻もちをついていた自分自身を惨めにさせる。手のひらで顔のあたりを触ってみると,べっとり赤い血がこびりついてきた。

 

「もうちょっと優しくしてほしいアル」

「我慢しろや、男の子……じゃあねぇな」

 

 むくれた言葉に割れた石畳を踏みつけて返し,オーガンは何事もなかったかのように立ち上がった。

 

(私はまだまだダメダメな,まだまだちっぽけアルな)

 

 むくれたのはおごった甘さが恥ずかしかったからで,それを知られるのがもっと恥ずかしかったからだ。散々偉そうに言っておきながら油断してこのざまだ。もちろん,オーガンが強いという事が現実として横たわっている。しかしそれを理解したうえで吹っかけた現状だ。

 パンと頬を張って立ち上がれば昼間の日差しに照らされて,けだるげに肩を落としたオーガンの姿が見えた。脱力し,もう一度半身になりながら構えなおす。彼は先程と同じように真正面から,軽快な足取りで近づいてくる――それが古は嬉しかった。

 

「師父は私がおかしいと思うアルか?」

 

 拳を握りなおして口を開くとオーガンの足が止まった。

 

「強くなりたかった、強くなった、なのに媽媽と巴巴以外みんなおかしい言うネ。女の子なんだからオシャレして好きな子みつけるべきだっていうアル――私って変アルか?」

 

 突然の吐露にオーガンはわずかに強張っていた顔をくしゃりと消失させ,

 

「男の子だったら誰よりも強くなりたいっつって、誰よりもでかい荷物背負って誰よりも速く歩いていきたいって思うもんさ。ま、牧師として――じゃねぇな。俺の短い人生を振り返って言うことがあれば……俺はバカだ、そしてきっとお前もバカだ」

 

 恨みでも歓喜でもなく,恨みと歓喜をどこかに混ぜた雰囲気だった。胸を張り立つ彼の姿は,はじめに見た時よりひとまわりはさらに大きく見えた。視線は決して揺れなかった。まっすぐと古の眼を見ながらオーガンは続けた。

 

「バカなら寄りかかるな。お前が選んだお前の道なら突き進めばいいじゃねぇか」

 

 気おいも憂いもすべて消え,残ったのは信念とエンジンがかかり切った身体だけだった。

 

「てか俺、やばいんじゃねぇか? 女子中学生と喧嘩しちまってるんだよな……」

 

 ここにきていまさらなことを言い出した彼に,古はためらいなく飛び込んだ。何があろうとも受け止めてくれる――確信に変わったその思いを胸に,力を込めた拳を突き出した。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 荘厳にして厳粛。ちょっぴりかび臭くて悠久に遠大な日常より隔絶した空気感を古は知っていた。それはまだ麻帆良に来る前の頃,父母に連れられて行った故郷がある大陸の大きな寺院で感じたものと同質だった。木製の長椅子が規則的に並び,その奥は金属製のいばらの冠をかぶった男を中央に配置した大きな十字架があった。

 

「師父は強いってどーゆーことだと思うアル?」

 

 麻帆良のはずれにあるここは神の家。ほの暗くも清廉なそこで眉根を寄せながら,元気印な彼女にしては珍しく神妙な顔で口を開いた。

 

「……暇だな、お前も」

 

 手には雑巾,傍らには水の入ったバケツ。どうやら彼は掃除中で,丁寧に長椅子を拭きながら視線をこっちによこさずにオーガンは答えた。

 じぃと,その一挙手一投足を見逃さぬように古はオーガンを見ていた。過去,多くの武術は幾度も絶滅の危機に瀕している。それは学ぶことで精神を安定させ,振るえば他者を打倒せしめるがために時の様々な政権によって反乱の力をそぐために弾圧された歴史があるのだ。だからこそ,日常の動きに武術をひそませ隠れたという歴史も同時に進行してきた。

 代表的な例が中南米のカポエイラだろう。奴隷となった黒人たちが看守にばれないよう,踊りの振りをして身に着けた足技主体の格闘技と言われている。近年ではそれは通説に過ぎないというのが大方の見解だが,本当のところは誰にもわからない。

 とにかくそんなわけで,日常の動きに強さの秘密があるのではと観察していた古であるが,いまいちそんな気配がない。勉学は苦手だがこと武術においては秀才な彼女の観察センサーには引っかからなかった。

 

(んー,やっぱり師父は虎アルか?)

 

 虎が強いのはもともと虎が強いからで,そこに理由など虎だから意外に存在しない。強者として生まれ落ちた者は理不尽に強者なのだ。

 以前手合せ――オーガンはただのケンカだと言っていた――をした際,彼のスタイルは喧嘩殺法と表現するのが一番よく当てはまっていると感じていた。場数に裏打ちされた経験則と決して退かず正面から向かう根性,それを可能にする恵まれた肉体――正しく喧嘩がオーガンの基となっている。

 だがその中で時折,古も驚くほどに技術で練り上げられた一撃が飛び出してくることがある。消力という中国武術の高等技法がそれで,風に揺れる柳のように力を逃した技術に感嘆したのは記憶に新しい。

 

「師父は武道の経験者アルか?」

 

「いや,武道かじってるやつらとケンカしたこたぁあるが俺はねぇな」

 

 鍛錬を受けていたという訳でもないようで,だからこそ疑問符が古の――武術関係には容量を広くとった――脳裏を駆け巡る。虎であり人としても俊英で,積み上げてきた喧嘩相手との鉄火場で盗み取ったといえばそこに落ち着く。しかし師を持たない付け焼刃の技術ならばなぜそこまで――

 

「オーガン牧師、何をされているのですか?」

 

 煙が出そうなほどにひねっていた頭を止めたのは凛とした通る声だった。女性のものだ。

 

「あー、掃除と一緒にちょっくら迷える子羊の手助けってやつをですね」

 

 ばつの悪そうな表情に促されて声のした方を見てみると,オーガンと同じように黒い服装で身を包み十字架を首から下げたシスターがいた。鼻筋の通ったその顔立ちは,オーガンと同じく日本人のものではないだろう。

 

「貴方がですか?」

 

 疑いの表情を隠そうともしないシスターにオーガンは早口でまくしたてた。

 

「そりゃちょっと失礼な気が……とにかくシスター、懺悔室を借りますわ」

 

 雑巾をバケツに入れそそくさと逃げるように端にあった四角い小部屋に向かうと手招きをしてきた。どうやら呼んでいるようで,ため息をついたシスターの表情を確認してから古はそちらへと向かった。

 

「信頼されてないネ」

 

 小部屋には入口がふたつあり,苦笑しながら片側に入れられる。狭い底には丸椅子があり,腰を下ろすと目の前には木製の壁と小さな窓が見えた。ほどなくすると壁の向こう側から声が聞こえた。

 

「しかたねぇさ、シスターは俺なんざよりもずっと素晴らしい聖職者だし。まぁ小言が多いところがちっと珠にキズだがな」

 

 うーむと,腕を組んだのがわずかに開いた小窓から見えた。悔しそうに聞こえたのは古の気のせいか,咳払いをひとつすると落ち着いた声色で,

 

「で、なんだっけか」

 

 今度はこっちが腕を組む順番だった。

 

「えとー……そう、強いってどーゆーことアルか?」

 

 ため息が壁の向こうから聞こえたのは間違いない。呆れた様子で,それをそのまま喉に伝えて振動として吐き出してきた。

 

「俺に聞くのか? もっといるだろ適役が、お前と手合せできるクラスメイトとか、デスメガネとか」

 

 今度の溜息は不服そうな色をしていた。しかしクーは桜が散るように,それを聞くのは当然だという想いを乗せて返答した。何故ならオーガン・ロメロは古菲にとって唯一の喧嘩友達だからだ。

 

「師父が良いアル」

 

「あ、そう。てかその呼び方は固定なわけね」

 

 呼称には尊敬の意も込めていた。純粋にぶつかれる相手がいる。忙しいと言いつつ袖にされることも多いが,なんだかんだとふっかければ付き合ってくれていた。今のところは三戦三敗。満月の夜,世界樹広場で繰り広げられる古とオーガンの喧嘩には噂が噂を呼び,囲みの観戦者が出る賑わいとなっていた。

 

「この前クラスメイトが大きな大会に出たアル。それはとっても凄いことで、それくらい努力するのは凄く強いからできることだと思うアル」

 

 ぼそりと小さな音量はやはりらしくなく,古自身にも自覚症状はあった。

 知之者不如好之者、好之者不如樂之者――孔子の言葉であるが,それに則すよう古はこれまで楽しみながら武術を学んできた。強敵がおらず存分に力が振るえないというのは不満だったが武術は好きで楽しかった。

 だからこそ,というべきか。手加減せずに叩きにかかってくれるオーガンという相手を見つけたとき,古はこれまで考えたこともなかった武術を学ぶ理由について考えていた。

 慎重に,クラスメイトが目撃すれば偽物かと疑われるほど言葉を選びながら,ゆっくりと告げた。

 

「でもこの前にネギ坊主が来たアルが、本屋ちゃんが勇気出して声かけてたのを見たネ。それをみて私とても強いと思たヨ」

 

「ネギ坊主?」

 

 疑問の答えとして浮かんだのはイギリスからやってきたという赤毛のかわいらしい少年の顔だった。先ほどオーガンが言ったデスメガネ――もっぱらアウトローな生徒たちからの呼び方で正式には高畑・T・タカミチという――の代わりにクラス担任としてやってきたのが彼だ。

 

「うちのクラスの子供先生ネ」

 

「おー、子供が先生たぁすげーやつだな」

 

 年の頃十歳。親元を離れ――古も,というより中等部は基本的に学生寮で暮らすことが決まりとなっているのだがそれは抜けている――麻帆良で教師という責務につくネギが強く思えて,古はどうにも自分が弱く見えた。

 技術は向上しているのかもしれない。だが根っこのところがはじめて芽を出した疑問で揺らいでいるような,取り除く術を知らないことが歯がゆいのだ。

 強く,強くなるために,頂へと爆走することに異存はなくそれは確定的に明らかだ。だからこそ,疑問が首をもたげる。

 

「私は強くなれるアルか?」

 

 口に出してみて,古はなぜこんなことを考えたのか少しだけわかった気がした。陽気な笑顔で――大切なところはけむに巻く,古の朋友を知っているからだ。

 最近,笑みの増えた彼女の眼はいつも遠くを見つめて,その輝きは強さを増している――器用に何でもこなす彼女とは違い,不器用に武術しか出来ない古は置いて行かれているような錯覚を受けていたのだ。

 

(う~……なんかもやもやするアルな)

 

 なんとなしに肩をしぼめれば沈黙が二人の間に横たわった。むずかゆい,経験したことのない感覚だ。

 やがてふっと,口火を切ったのはいつもと変わらぬオーガンの語り口だった。

 

「俺の仕事はほんの少しだけ前に進む勇気を出してもらう手助けをすることでな。人間、生きていれば悩むことなんて腐るほど出てくる、全部抱えてるもん投げ出して逃げたくなることがあるのは当然の話だ」

 

 古は胸中でうねっている気持ちを蹴飛ばしたい気分だった。聞いてもらうことで目視できる形にしてもやもやを見せつけられているようで――それでも噛み砕くように,オーガンの言葉を飲み込もうとした。

 

「けど人間、なにかしら進まなきゃ生きていけねぇのよ。飯を食うにも、金を稼ぐにも、友達を作るにも、恋人探すにも、人生の道を選ぶにしてもな」

 

 古は鼻に付くニオイに顔を思わず上げた。下から這い上がるように小窓を越えてきたそれは辞めてくれと頼んでもいっこうに聞いてくれない,オーガンの香りだった。

 

「強いやつってのはかっこいいやつのことだ――んで、かっこいいやつってのはみんなよりほんのちょっぴり前に進むのが早いやつのことさ」

 

 大きな手のひらが髪をなでる。暖かく,子ども扱いされて,だが嫌ではなかった。

 

「お前は強いし、かっこよくなれるってことだ――だから怖がるな、負けることを。怖がるな、自分が弱いように思えたことも。そんな時はいつだって俺んとこに懺悔しに来ればいいさ」

 

 いつの間にか隣に立っていたオーガンの体温を感じながら,古ははじめて師から武術を習った時を思い出していた。父の大きな手を添えられながら古菲は――

 

「牧師さんみたいアル」

 

 にへらと笑ってみれば,うれしそうな顔で笑みを返してきた。

 

「牧師だからな、これでも」

 

「そんなオーガン牧師にお聞きしたいことがあるのですが……」

 

 ぎぎぎ。油の切れた人形のようにゆっくりと煙草をくわえたオーガンの首が後ろを向く。

 

「ここは禁煙ですっ!」

 

 叱咤一括,低頭平身に詫びる男の背中が頼もしかったのはきっと見間違いではないのだ。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

「偉そげになっちまったもんだな、俺も」

 

 黒い夜,黄色い月光が染めていた。白い息を吐きながら呟いたそれは凍えるように消えて砕ける。

 

「……そういえばオーガンさんはどうして夜間警備を受けることにしたんだ?」

 

 構わないよと遠慮する彼女を女の子だからなと言い張って,夜のアルバイト――やらしい意味ではない――からあったかい寮へと帰る道すがら,龍宮真名のそんな問答にふと苦笑したのは何故だろうか。

 

「龍宮はどうしてだ?」

 

「先立つものがあるのは嬉しいことだからね」

 

 顎ほどのあたりから現実的な意見がやってきた。真名の意見には同意できる。給金のほとんどは教会へのお布施や養護施設の寄付に充てられているのだが,結局それが無いと立ち行かないわけで,力になれている物差しを示してもらえていることがちょっぴり誇らしいのもまた事実だった。

 だが,それは本心ではない。真法の存在する世界に触れるまで,喧嘩の理由など考えたこともなかった。ただ単純に――

 

「そりゃ簡単なことさ。前途ある有望な若者の未来を潰すかもしれねぇもんが世の中にいたんだ」

 

 と,そこでオーガンは苦笑したのを理解した。

 

「気にくわねぇのはぱーぺきな事実だろ?」

 

 所詮,何が起きようともオーガン・ロメロはオーガン・ロメロに過ぎず――爆発しそうで暴れまわっていた頃から拳をふるう理由は欠片と変わっていないのだ。

 

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