翌日の部活動、夏凜さんは部室に来なかった。友奈さんと東郷先輩が言うには、今日は体調不良で欠席らしい。夏凜さんが欠席と言うのが相当珍しいのか、先生も驚いていたという。
「夏凜ちゃんも風邪ひくんだねー。ちょっと意外だなぁ」
「バカは風邪ひかないって言うのにナンデダロー、みたいな?」
「風先輩ったら違いますよ」
「だが、どちらにしても珍しい」
大佐はウームと言いながら首を傾げた。
「あれですよ、昨日大佐が見たくもない物見せびらかすから……」
「別に見せびらかしたわけじゃない」
「心配だねー」
部室にいるメンバー的には夏凜さんが転入してくる前の状態に戻っただけなんだけど、一度六人で慣れてしまうと五人だけというのは何となく寂しく感じられる。いつもふよふよ飛び回っている友奈さんの精霊である牛鬼もどことなく寂し気。仕方なしに大佐の上腕二頭筋を齧っている。
「お見舞いに行った方がいいんじゃない?」
私はお姉ちゃんにそう提案してみた。でもお姉ちゃんはちょっと困ったような顔をして、
「行きたいのは山々の谷々なんだけどさ、もうじき商店街のショーじゃない? それに向けて急がなきゃならないのよ」
「ああ、そっか……」
夏凜さんの離脱でただでさえ遅れているショーの準備をこれ以上遅らせるのは得策とは言えない。でも、心配なのはみんな同じようで、最終的には比較的暇な私と大佐がお見舞いに赴くこととなった。
「じゃぁ、大事にしなさいって言っといてね」
「うん。分かった。大佐、行きましょう」
「I'll be back」
私と大佐は部室を出ると駐輪場へと向かう。そこには大佐の立派なバイクが停めてある。この人は毎朝その立派なバイクで登校するのだ。大佐は大人びているから、中学生でありながらバイク通学が許されている。何の問題もない。
「夏凜さんのお家、分かりますよね?」
「ノープロブレムだ。信用しろ」
無論私はバイクなんて運転できないから大佐の後ろにメットを被って乗って振り落とされないように背中にしがみ付く。ここでしがみ付く相手が素敵な先輩なら素敵な物語の一つや二つPONと始まるんだろうけど、生憎相手はマッスルターミネーターだ。ときめきというものが一切感じられない。
「発進するぞ」
私達を乗せたバイクは高く澄んだ冬空の下、轟きを上げて走りだした。
※
夏凜さんは大赦からあてがわれたマンションの一室で一人暮らしをしている。まだ引っ越して間もないことと、夏凜さんの禁欲主義的な生活が相まって部屋の中は広々としており、私達は度々飲食類を持っては夏凜さんの部屋を襲撃した。
でも、今回は夏凜は体調不良で学校を休んだわけで、私と大佐はそのお見舞いに来ている。いつもなら完全装備(タクティカルスーツにサブマシンガン)で突入するところだけど、今日ばかりは普通にドアチャイムを鳴らした。
ピンポーン。
「……返事ないですね」
「寝てるのか?」
大佐はドンドンドンとドアを拳で叩く。
「おい夏凜。夏凜!」
やはり返事はない。いつもならこのあたりで「うるさい!」と言いながら飛びだしてくるんだけど……。
「何かあったんでしょうか」
「よし、ドアを破るぞ」
「待ってくださいなんでドアを破るのにグレネードランチャーが——」
「ぶっ飛べ!」
問答無用、大佐はランチャーで部屋の扉を吹き飛ばした。元々それほど頑丈でもない扉だから、一瞬でばらばらとなり、余波は壁の一部も破壊した。これは怒られる。
「やることが派手だねぇ」
「修理代は大赦が出すだろ」
そう言うと大佐は土足のまま室内に上がりこんだ。
「邪魔するよ」
「大佐誰かに野蛮だって言われたことないですか?」
「そんなことは無い」
私はきちんと靴を脱いでお邪魔する。
中は電気が点いていなくて薄暗く、それはリビングへ通じる扉の向こうも同様であるようだった。カーテンも閉められているらしく、明かりの気配が微塵もない。
「夏凜さん、大丈夫ですか?」
言いながら私は扉を押し開けてリビングへ足を踏み入れた。
瞬間、足の裏に『ずもっ』という初体験な感覚が襲った。それは床から剥離してそのまま私の足を滑らせた。
「えぇええ!? あああ!?」
あわててバランスを取ろうとすると余計に足を取られて倒れ込みそうになる。
「カ、カビぃ!?」
私の足の自由を奪っていたのはこんもり繁殖したカビだった。周りを見渡すと、室内は壁、天井などと至る所に分厚くカビが繁殖していて、室内は本格的に樹海のようだった。大佐が勢いよくカーテンを開けると、カビの胞子が光の中を乱舞していて、それはもう気色悪かった。
「なんと……ひどい有様なんだ……」
「何だってこんなことになってるんですかぁ……」
私は大佐に助けてもらい、そのままおんぶしてもらった。こういう時大佐はホント便り……頼りになる。
それにしても、この部屋の惨状を見ると心配になるのが夏凜さんの安否である。リビングにいない事から恐らく隣の寝室にいるのだろうけど、生きているか甚だ疑問だ。
「大佐、寝室、行きましょう」
「OK」
大佐は寝室の引き戸に手をかけた。いつもなら蹴飛ばすか吹き飛ばすかの二択な大佐だけど、さすがに部屋の惨状を見て思いとどまったか、普通に開けた。
「……!」
寝室の惨状はリビングと変わらず……いや、それ以上かもしれない。壁一面がカビとコケとキノコに覆われて、胞子で視界が雲っている。床とベッドの区別ももはや無くなっていて、部屋の奥に何となく盛り上がったところが見えるだけ。たぶん、あそこがベッドなんだろう。
そんなベッドと思われる盛り上がりの上に、もっこり山のようなものが起立していた。
「あれ、もしかして夏凜さんじゃ……」
大佐は私の言葉を受けるとカビとコケの中を雪を漕ぐように進んでいき、もっこりに接近した。
「どうやら掛布団のようだ。その上に、カビとコケがむしている」
「じゃぁ、この中に夏凜さんが?」
「多分な。おい夏凜!」
もっこりに呼びかける。すると、その中から微かに声が聞こえてきた。
「…………」
「ん? 今何て」
「……I am a Mountain……」
「何言ってるんですか! 大佐、掛布団、捲っちゃってください」
「了解した」
返事と同時に掛布団を払いのける。同時にカビが勢いよく舞い上がり、土煙よろしく部屋の中を覆った。そして、その中から体育座りをした夏凜さんが姿を現した。
「大変だ! まだ生きているぞ!」
「当たり前でしょ。夏凜さん、大丈夫ですか?」
「あ……大佐に樹……」
そんな夏凜さんの目には活力の類が一切なくて、深く暗く沈んでいた。
私たちは夏凜さんを腐海から引きずり出すとそのまま「かめや」へと直行した。夏凜さんが昨日から何も食べていないと分かったからである。
店内はピーク前だからか、店内にほかのお客さんの姿はなく、片隅に置かれたテレビが商店街の新商品紹介の声だけが大きく響いている。
「で、夏凜さん、いったい何があったんですか?」
「何があったか……? ……そんなの私が知りたいくらいよ……」
曰く、夏凜さんは別に常日頃超不潔な生活を営んでいるわけではなく、昨日帰宅したらすでにあの状態になっていたのだという。そんな中、あまりのことに茫然といて、今に至る。
「はい、素うどんお待ちど~。お嬢さんとお兄さんのは、もうちょっと待っててね~」
注文した素うどんが夏凜さんの前に置かれた。かぐわしい出汁の香りが鼻をくすぐる。
「うどんでも食べてリラックスしてください。温まりますよ」
「……樹、あんた達前に、同じバーテックスと戦ったことがある気がするって、言ってたわよね」
「えっ、はい。そうですね」
昨日は半ば怒りながら私たちの意見を一蹴していた夏凜さんだけど、実感としては私たちと同じだったようだ。でも、夏凜さんが感じたのはそれだけではないという。
「私は今も信じてないわよ、そんなこと。でも、百歩譲って以前戦ったことがあるとして、それはいつのことなのかしら……」
「さあ、さすがにそこまでは……」
「わからないな」
答えを受けて、うつむき加減に夏凜さんはうどんをちゅるちゅる啜る。厨房からは私と大佐のうどんを調理する音が聞こえてきた。
「私、気付いたのよ。そういえば、ここしばらくの記憶がすごく曖昧なことに」
「曖昧?」
「そう。昨日何をしたか、昨日何を食べたか。何時に家を出て、何時に学校について、何時に帰宅したか。そんなのが全部曖昧で、うまく思い出す事が出来ないのよ……」
「学校に通っているとなると自然と生活が習慣づくからな。毎日似たような生活を送っていれば、そうなるのもやむを得ないな」
「そうだとしても、あまりにも不自然だわ……」
夏凜さんの話はスカートの上からお尻を触るかのように核心の見えないものだった。すると、膝に落としていた視線をゆっくり私の方へ向けて、一つ問いかけてきた。
「樹、アンタ、家で最近何をしたか、思い出せる?」
「家で、ですか? それは……」
その瞬間、私の頭はフリーズしてしまった。
そうだ、最近家に帰って、お姉ちゃんとご飯を食べただろうか? お風呂に入って、テレビを見て、ベッドに入って明日に備えていただろうか? 何の疑問もなく毎日を過ごしてきたけど、改めて意識してみると私の記憶から『帰宅』というものがすっぽり抜け落ちてしまっている。
「で、でも、この間……大佐が熱を出したとき、みんなで私の家に運び込んだじゃないですか?」
「そう、『みんな』でね……でも、その後のことは? それに、『この間』と言ったけど、この筋肉が高熱を出してダウンしたのは何時? 昨日? おととい? 一週間前か……いや、一か月前……?」
「そういえば、覚えていないな」
大佐が腕を組んで考え込む。私も背中をいやな汗が濡らすのを感じていた。
「そもそも、今日は何月何日なのかしら? 樹、さっきアンタ『うどんでも食べてリラックスしてください。温まりますよ』って、言ってたわよね? きっとそれは、気温が低いから私に気を利かせて言ってくれたのよね。でも、なんだか……外から聞こえない……?」
私と大佐は外に耳を澄ました。すると、特徴的な鳴き声が、私たちの鼓膜をやさしく、しかしどこか恐ろしげに叩いた。
カナカナカナ……カナカナカナ……。
「ヒグラシって、冬には鳴かないはずよね……それに、私汗が出てきたんだけど、これって、冷や汗なのかしら……」
沈黙が流れる。テレビの音に混じって、ヒグラシの鳴き声が店の中に響いた。そんな中、店のおばさんが私と大佐のうどんを運んできてくれた。
「はい月見うどんとプロテインうどんお待ちど~」
私たちの前にそれぞれうどんが並べられる。美味しそう。プロテインうどんは相変わらず微塵も美味しそうに見えないけど。
おばさんが、口を開く。
「今日は暑いね~」
「……? そうですね」
答えながら月見うどんを啜る。相変わらずかめやのうどんは美味しい。一口食べてから、お姉ちゃんたちと合流してからにすべきだったとかすかに後悔した。
「美味しい?」
「はい、美味しいです」
「そう……」
「……?」
今日のおばさんはえらく話しかけてくる。お客さんが他にいなくて暇なのだろうか……。
と、その時、スマホに着信があった。
「お姉ちゃんからだ」
「なに、風から?」
「うん……もしもし?」
『あ、もしもし樹? 夏凜はどうだったの?』
「うん、生きてたよ」
そう答えて電話口を夏凜さんに向ける。夏凜さんはそこに向かって、「心配かけさせたわね」と吹き込んだ。
『ならいいのよ。それより、今から海岸に来てくれるかしら』
「なに? こんな時間に海水浴でもするの?」
『違うわよ』
お姉ちゃんは苦笑しながら答えた。
『枯れかけた壁の調査に行くのよ』
※
バイクに三人相乗りというのはお巡りさんに見つかりでもしたら一発御用なことだったけど、幸い遭遇することはなく、目的地である学校そばの砂浜に到着できた。堤防のそばで待っていたお姉ちゃんと友奈さん、東郷先輩の三人が心配げに夏凜さんに尋ねる。
「大丈夫なの?」
「もう平気よ。それより、壁を見に行くんですって?」
「ええ。大赦からは音沙汰ないし、もう自分で見に行ったほうが早いと思ったのよ」
「なるほどね。で、どうやって行くか考えてるの?」
「ジョンのハリアーに乗せて行ってもらうわ。ジョン、いいわよね?」
OK! と答える大佐の傍らにはいつの間にかハリアーⅡが駐機してあった。ほんと準備がいい。ていうか、あれに六人乗るとか普通無理じゃないのかな。
「樹ちゃん! なせば大抵なんとかなる、だよっ!」
「便利ですね、ソレ」
と、そんな時、東郷先輩が向こうから近づいてくる人影を認めた。
「だれか来ますよ」
そりゃ、海辺にハリアーが停まっていたら何事かと思って見に来る人もいるだろう。近所の人だろうか。
でも、近づいてきた人は予想外の人だった。
「……あの人って、『かめや』のおばさんじゃないですか?」
「は? なんで?」
『かめや』のおばさんはさっき私たちにうどんを配膳してくれたあのおばさんだ。白いエプロンをなびかせながらこっちに向かってくる。
「東郷さん、おばさんどうしたんだろう」
「私たちに何か見せたいんでしょ」
「ストリップかな?」
「ぬへへ」
おばさんは私たちの前で立ち止まった。そして、口を開き、
「あなたたちは今、幸せ?」
「えっ」
突然何を言い出すんだ。
「えっと……」
「あなたたちは今、幸せ?」
もう一度繰り返す。すると、友奈さんが一歩前に出て、
「幸せだよ! 東郷さんや、風先輩、樹ちゃん、夏凜ちゃん、筋肉。みんなと一緒にたくさん笑って……とにかく、幸せだよ!」
おばさんは友奈さんの言葉にウンウンと頷いた。そして、
「あなたたちは今、幸せ?」
「だから、そうだよ!」
「あなたたちは今、幸せ?」
「……? 幸せだよ!?」
「あなたたちは今、幸せ?」
「幸せだって言ってるだろうが!」
あまりのしつこさにさすがに怒る友奈さん。そんな友奈さんを、東郷先輩が何かに気づいて抑えた。
「待って友奈ちゃん、様子がおかしいわ……」
「えっ?」
私たちは一斉におばさんへ注目した。すると、おばさんは突然うめき声をあげながら顔中をグニグニと触りまわし始めた。
「あなあなあなたははははいいいままままいあわしあわええええ」
そのあまりにも異様な光景に私たちは思わず言葉を失う。優しげなおばさんの挙動は狂人のそれであった。そして、そのまま耳のあたりをまるでスイッチを入れるようにかちりと回した。それと同時、おばさんの髪の毛が落ちる。
「きゃっ!?」
「か、かつら……?」
次の瞬間、私たちは自分の目を疑った。
突如ピタリと電源が切れたように止まったかと思うと、おばさんの頭がみるみるスライスされて、それがシャコシャコ開き始めたのだ。そして、割れた頭の中からかわいらしい女の子の顔が現れた。
「衝撃の乃木園子!」
女の子は取り外したおばさんの両手で頭を抱えながら、ニコリとほほ笑んだ。
事態は、確実にろくでもない方向へ向けて確実に加速していた。
シリアスだな