烏丸さくら先輩の登場。
――――
それから初顔合わせの日まで、俺たちは碌に会話も交わさなかった。
いや、ある意味で当たり前だ。
お互い、「どうしよう」という困惑でいっぱいのままでは、そもそも会話が成り立つわけもない。
「――ノ、ノート、い、い、る?」
例を出すなら、隣の久世橋さんの様子だった。
いつもより明らかに声を震わせ、目もグルグルとさせて、手も大きく震わせながら俺に差し出してくれる。
「あ、ありが、とう」と、それを受け取る俺も、決して人のことを言えるような立場でないことは、よく分かっていた。
「……あ、明日、だな」
「う、うん……」
あれからノートの貸し借りの後で、俺が一言加えて、相手がそれに返事をするということも増えた。
といっても、会話と言えるようなものではないけど……前進、なのか? いや、何が進んでいるのかも――
「二人とも、明日はお願いね?」
そんなことで目を回しそうになっていると、いつの間にか俺たちの近くに先生がやってきていた。
いつの間に――と思ったけど、そういえばもう下校前のHRの時間だった。
「は、はい……わかりました」
「――う、うう」
俺は何とか返事をするものの、久世橋さんはキツそうだった。
今更ながら、何だか可哀想になってしまう……。
先生はというと「ごめんね、二人とも」と、申し訳無さそうに笑うのだった。
そんなこんなで、翌日。
「……こ、ここか」
「そ、そう、だね」
空き教室の前で言葉を交わす俺たち。
昼休みに俺たちは、ここに集まることになっていた。
時間は……うん、かなり余裕をもって来ることが出来たらしい。
ここまで来るのだけで、お互い一苦労だった。
俺は、どちらかといえば、ただ照れていただけだ。
元々、久世橋さんが気になっていたとはいえ……別に、友達が言っていたような「仲良し」は、別に……。
まあ俺はさておき、隣の彼女は本当に辛そうだった。
少し歩くだけで壁に手をつき、少し俯いてからまた歩き出すということの繰り返しで――
俺ができることと言えば「ご、ごめんね」と謝る彼女に、何とか笑い続けることくらいだった。
(それにしても……)
さっきのことを思い返し、俺は隣に視線を向ける。
黒髪のおかっぱ頭、小柄な身体、大きな目――
見ただけで真面目と直感させ、同時に、緊張しがちと思わせる第一印象。
(――文実、かぁ)
目線を逸らし、俺は前方の扉へと目を向ける。
中には誰がいるのだろう。
一応、はめ込みガラスから中は見えるようになっているものの、見るのが怖かった。
「……久世橋さん」
「わっ!?」
声をかければ、ビクッと久世橋さんは身体を震わせたようだった。
俺の視線には、限界までモジモジと身体を震わせる彼女が映る。
いつもなら目を逸らしてしまうようなシチュエーションだったけど、その時は頑張って見つめ続けた。
そして、言う。
「何かあったら、俺に言ってくれ。困ったこととか……何でも」
「――え?」
キョトンとする彼女に「いつもの恩返しだから」と一息に返して、また視線を前方へと移した。
視界の外から、遠慮がちな視線を感じた、気がする。何とも照れくさい。
でも――今は。
「そろそろ、いこっか」
「あ……う、うん」
我ながら声は震えていて、言うまでもなくそれは隣の彼女もそうだった。
息を吸って、吐いて――よし。
「……し、失礼しまーす」
俺は引き戸をノックした。
コンコンという音が一度響き、空間に紛れて消えていく。
肩を強張らせたまま、俺たちは返事を待つ――
(……どんな人だろう?)
中には誰がいるのか。
いや、複数人なのか。
……どちらにしても活発で、底抜けに明るい人であろうことは想像がついた。
おそらく、隣の久世橋さんも。
文実、っていうのは、そういう人ばかり、というイメージがあって……。
「はーい、どうぞー」
――だから中からの声を聞いた瞬間、目を丸くした。
慌てて隣を見れば、久世橋さんもキョトンとした様子だった。
何とものんびりとした、高いトーンの声だった。
どうやら、中にいるのは女子生徒らしい。
明るそうではあるけど、いわゆる押せ押せタイプ……というわけでは。
「……し、失礼しまーす」
二度目の挨拶を繰り返し、俺はゆっくりと引き戸を開ける。
「し、失礼、します」と、隣にモジモジとした調子で久世橋さんもやってきた。
その時の光景を忘れられない。
窓から差し込む太陽の光。
そんな光を背にして、今まさに椅子から立ち上がったという様子の女子生徒。
彼女は茶色の髪を三つ編みにして、キラキラとした瞳のままで、おっとりと俺たちを見つめている。
一陣の風が吹いた。
窓はちょっとだけ開けられていて、そこから外の風が忍び込んできた。
そんな風に揺らされた髪を、ゆったりとした動作で彼女は押さえる。
「今日はいい天気だけど……風、強いね」
そのまま笑顔でのんびりとした調子を崩さずに、彼女は言う。
そんな一挙一動は、絵になるように綺麗なものに俺には映った。
「……わぁ」
隣の彼女も、そうだったらしい。
感嘆の声が漏れ出たことに気づき、ハッと恥ずかしそうに口元に手を当てる。
「あらあら」とそれを見つめる彼女は、全てを包み込むような安心感を俺たちに見せていた。
「そんなに緊張しなくていいのよ。まだ三十分くらいあるし……」
そう言って身を翻すと、さっきまで着いていた机に座る。
そこで「あ」と呟くと、ちょっと恥ずかしそうに視線を上げて、
「立ち上がったの、挨拶するためだったのに……」
と、はにかみながら悪戯っぽく笑うのだった。
この時の俺たちの感覚が分かるだろうか。
緊張しまくっていた久世橋さん(と、ちょっと劣るけど俺)。
そんな俺たちの眼前に現れた、おっとりとした調子の、可愛らしい先輩。
陽の光に照らされて、そんな彼女の与えるプラスの印象は余計に大きくなっているようにすら思えた。
強ばっていた肩は、少しずつ落ち着いていく。
さっきまで「肩もみしてもらいたい」なんて思っていた感覚が、次第になくなっていった。
「……一条湊、です」
立ったまま、俺はごく自然に椅子に座った彼女に挨拶をした。
ペコリと頭を下げる。
「あら、そんな丁寧に……」と、ちょっとばかり照れくさそうなまま嬉しそうに彼女は応じる。
「……く、久世橋、あか、り、です」
まだ緊張が残っている様子で、久世橋さんも挨拶をした。
モジモジとした様子のまま、彼女も頭を下げる。
「ふふっ……最近の後輩は、礼儀正しいのね」
そう言って、茶髪の彼女は再び立ち上がった。
顔を上げた俺たちに、優しい視線を向け続けている。
陽の光を背にしながら、彼女はゆっくりと、自身も丁寧に言うのだった――
「私は、中三の……烏丸っていうの。烏丸さくら」
――――
「……なんか、カラスちゃん相手だと随分丁寧だね」
麺と具をあらかた片付け、俺のことをしげしげと見つめながら猪熊さんは言う。
「そうデスね――烏丸先生との出会い、デスカ」
猪熊さんと対照的な位置に座る九条さんも箸を置いて、俺に視線を向けた。
どうやら二人の女子は、何やら感じ取るものがあったらしい。
「まあ、第一印象って凄くてさ……俺や久世橋先生にとっては、そんな先輩――烏丸先生が特別になっちゃったんだよ」
そんな二人より全ての具材を片付けた俺は、器を手に持ちスープの味を楽しんでいた。
うん、美味い。ラーメンの全てはスープに通じているというのは、さもありなんだ。
「あのカラスちゃんがねぇ……」
「たしかに優しくて頼りになりマス――デモ、先生たちはまるで」
烏丸先生のファンみたいデスね。
そう呟く九条さんは、なるほど的を射ていると思った。
「そうかもな。結局、俺たちの直属のパートナーになってくれたわけで」
「え、パートナー?」
「ああ、それは……一年生二人組みには三年生一人がついて、三人行動って習わしだったんだ」
「――ダカラ、三人は今デモ」
そう、九条さんの言う通りだ。
一年生の段階で文実に入っていなければ、隣にクッシーがいなければ、そして最初に出会ったのが烏丸先輩じゃなければ……。
俺たちは、どうなっていたんだろう。
――――
「お疲れ様、二人ともっ――」
本格的に始まった準備活動に疲れて、俺と久世橋さんはベンチに座り込んでしまう。
お互いに息を吸っては吐いてを繰り返している所に、先輩がやって来てくれる。
「今日は特別に、おごってあげる!」
嬉しそうに言いながら、先輩はコンビニ袋の中からペットボトルを出してくれた。
一本はアクエリアス、もう一本はDAKARA。
そういえば前に「二人は、どんな栄養ドリンクが好き?」なんて聞いてくれたっけ。
前者が久世橋さん、後者が俺。
……覚えていてくれたのか、凄い。
「で、でも……先輩に悪い、です」
最近、久世橋さんの緊張も収まってきていた。
前に比べたら、裏返ることもなく言葉を紡ぐことも出来ている。
文実に入ってから、というのは……言い過ぎなのかな。
「いいのいいの。ね、せっかく出来た後輩なんだし」
そう言いながら、三本目をひょいと出す。
例の質問をした時に自分で応えた答え――コカ・コーラ。
それを見て、俺は久世橋さんとチラッと視線を交わし、つい微笑み合ってしまう。
そんな俺たちに「仲良しさんね」と言いながら、烏丸先生はペットボトルを渡してくれるのだった――
――――
「思い出いっぱいだねぇ……」
スープを飲みながら、猪熊さんはそんなことを言う。
それを受けて九条さんは「三人とも、仲良しデス」と同調しながら、残った具材を片付けるのだった。
二人ともどこかで飽きるかと思ったら、最後まで興味深そうに聴いてくれたようだった。
それはそれで嬉しいけど……同時に、照れくさいものがある。
「――ってことはさ、センセ」
「ん? どうかしたか?」
器をテーブルに置き、ちょっとした口直しに水を含んでいる様子の猪熊さんが俺に聞いてきた。
「結局――クッシーちゃんだけじゃなくて、カラスちゃんも幼なじみって感じ?」
「幼なじみ……私とアリスみたいデス」
「いや、九条さんとカータレットさんほどの長い付き合いでもないけどな……」
「え? でも、私たちと綾も幼なじみみたいなものだって思ってるけど――」
まずい。掘り下げ続けると、どんどんボロが出てくる。
久世橋先生の自滅グセに嘆いた一日だったけど、人のことは言えない。
もっとも、俺たちがどこかで似たもの同士らしいことも――
――朱里ちゃんと一条くんは、何か似てるねぇ――
「どうかしたデス、先生?」
「センセ、スープの飲み過ぎで熱くなっちゃった?」
焦ってしまう俺に、容赦なく被せられるニヤニヤ笑い。
からかう調子でもあれば、何だか微笑ましい様子でもある、二人の表情。
(……やれやれ)
久世橋先生と烏丸先生に、後で言っておいた方がいいんだろうか。
「あらあら」と、ちょっとだけ照れくさそうに笑う烏丸先生と対照的に
「……あ、あなたって人は」と、怒ろうと身体を震わせながら、結局、顔を赤くする久世橋先生。
――容易に想像がついてシミュレーションが出来てしまうのも、何だか怖くて。
(面白い、な)
きっと、それでいいのかもしれない。
「それじゃ、ごちそうさま」
「ごちそうさまデス!」
「ごちそうさまー」
俺が引き戸を開けてお礼の挨拶を言うと、二人の女子の声が後を追ってくる。
「どうも、ありがとございましたー」と、ちょっとばかり崩した調子の、元気の良い声が返ってきた。
「いやぁ、食べた食べた」
「満腹デスッ!」
「うまかったな、たしかに……」
そして俺たちは、帰路につくのだった。
俺の両隣にはご満悦そうな様子で歩く、二人の女子生徒。
何故かは分からないけど、こういう位置関係になっていた。
……まだ、聞きたいことでもあるのかもしれない。
俺がちょっと警戒していると、
「そういえば、どうしてセンセは教師になったの?」
なんてことを考えてたら、ほらやっぱり浴びせてきた。
何とも答えにくい質問を、平然とした調子で問いかけてくるは猪熊さん。
「アッ、それワタシも気になりマスッ」
それに同調するは九条さん。
さっきから、こういう掛け合いは何度もあって、おかげで俺も慣れてしまった。
といっても、質問内容に答えにくいということ自体は変わらないわけで――
「ま、まあ……何となく、だよ」
そう言って、二人から視線を逸らし、上空を見つめる。
日はすっかり沈み、街灯の灯りがチラホラと点きそうな時間帯だった。
そこで、少し考える。
そんな時間に、女子生徒たちに囲まれて歩いているスーツ姿の男を、世間様はどう見るのだろう、と――
「えー、教えてよ」
「先生、私探偵デス。それ、ダウトデスね?」
そんなことに全く気づかない様子で、二人は問いかけてくる。
俺はというと「また今度な」とごまかしながら、話題を変えることにした。
「ところで、後の三人は――」
「あっ、そうそう。それならさっきメールが来て……」
「公園の前デス」
何とか方向転換は間に合ったらしい。
猪熊さんたちがしてきた質問は、ちょっと答えにくかったりする。;
別に深い意味があるとかじゃなくて……色々な意味で。
「そっか、それじゃ――そこまで送るよ」
二人に対して、俺はそう返す。
というのも、俺の帰り道も、そこまでは同じだった。
そこで別れて、そうだな……一本、ビールを買って帰るもよし、そのまま家にまで直行するもよし。
「それじゃセンセ、そこにコンビニが……」
「ああ、そういえば――肉まん、あんまんガ……」
「――二人とも」
漠然と考える頭に忍び込む、二つの無邪気な声。
感じる期待に満ちた視線。そして、からかいの色。
……やれやれ。
そこで俺は、コホンと一息つく。
顔を上げて二人の顔を見回し、ほんの少し声を低くして言う。
「『特別』扱いは、さっきまで。いいね?」
注意するつもりだったけど、あまり効果はなかったかもしれない。
「はーい」「はいデス」と楽しそうに返す二人に、緊張感はまるでなかったから――
次回は、この日の話をちょっとだけ続けて、翌日に移る予定です。
その後は、ちょっと時間が進むかもしれません。