これで後編です。
――なるほど、衝撃的な光景というのは存在するらしい。
そんなことを思うくらいには、俺にとって「それ」は驚くべきものだった。
どうやら、隣に立つ女子生徒も同じらしい。チラッと一瞥したら、彼女も同じ行動を返してきた。
考えていることは同じらしい。
「あの」先輩が、男に顔を近付けられている。
目の前のことが信じられず、俺は少しだけ目眩を感じた。
ただ、揺れる視界の中で、分かったことは……それでも、人は現実を認識できるということだった。
目の前で、見慣れたお下げ髪が揺れる。
彼女は、とても楽しそうだった。
……正直に言うと、ショックだった。
「何が?」と聞かれたら、説明に苦慮するんだけど……「何か」が。
「……ど、どうしよう」
隣で、彼女が俺に呟く。いや、もしかしたら、俺に届けようとする意志などなかったのかもしれない。
それは、俺も同感だった。「どうしよう」というのは今、俺たちが共有する感覚としては完璧だったからだ。
「……とりあえず、離れよう」
「う、うん」
ぎこちなく、俺たちはその場を離れた。
ほんの一瞬のことが、何分間にも感じられた。それくらいには、驚いた。
先輩は、男女問わず好かれた。
元々、俺たちとの初対面の時点で人当たりの良さは十二分に感じたし、そういうものだと思う。
ただ……今、俺たちが見た光景のようなものは、見たことがなかった。
あれはつまり……「そういうこと」なのだろう。
「……どうする? 後で、先輩に聞いてみるか?」
離れた場所のベンチに腰掛けて、俺は隣の彼女に問うた。
彼女はというと視線を右往左往させた後で、俺を見て、
「……どう、しよう?」
結局、彼女なりの答えは出なかったらしい。まあ、無理もない話だ。
何はともあれ、俺たちは所在なく時間を潰すことにした。
今日、俺が居眠りをしている間に彼女が取ってくれたであろう板書のことを話したり。
昨日、何となく観た番組が意外と面白かったことだったり。
後は……そこで、ネタが尽きた。
「――先輩」
俺が「あの芸人は、いつまでもつか」なんてどうでもいい話をしていたら、彼女はふと呟いた。
視線は、どうやら一点に集中している。さっきまでのオロオロした様子の彼女は、今はいなくなっていた。
「……行こう」
「うん」
何となく、けれど力強く、俺たちは近づく。
先輩のもとへ、俺たちはゆっくりと歩を進めていった。
「――あら? 二人とも?」
キョトンとした様子の、お下げ髪の先輩は俺たちにいつも通りの口調で返した。もちろん、ニコッと微笑も忘れない。
……だからこそ、何とも言えない複雑な気持ちが俺の中で持ち上がった。おそらく、隣の彼女も。
「い、今の!」
「え?」
キッと顔を上げ、隣の彼女は先輩にそう言った。
その後、「な、何でもない、です……」と視線をついと逸らした。
無理もない、と、俺は内心で同調する。
言った後で、気づいたのだろう。……自分が出せなかった答えは結局、「訊く」という形でしか表現できないということに。
「先輩、その……お、男の人といました、よね?」
隣でモジモジしている彼女にだけ任せるのはフェアじゃないので、俺が二の句を継ぐことにした。
ハッとした様子を見せる彼女は敢えてスルーして、真正面から先輩を見つめる。
別に、先輩が誰と、その……どうこうしようが自由だ。
でも、それが何となく落ち着かないというのは、俺の自分勝手だろう。
果たして先輩は、「え?」と口元に手を当てながら、
「今のはうちの、おに……あ、兄、よ?」
言葉の途中でコホンと間を置きながら、先輩は照れた様子で言った。
それに対して、俺たちは固まることしかできない。
「忘れてた荷物、届けてくれて……み、見られてたのは、ちょっと恥ずかしいわね」
先輩は少しばかり身をよじらせながら、俺たちに言うのだった。
それを聞いた俺たちは、文字通り「ホッ」とするのだった――
――さて。
ここまで一気に思い出して、俺は目の前の「現実」と対峙しないといけない。
相手は、あの時……俺の隣でモジモジしていた「彼女」だ。俺の傍らには、二人の小さな子どもたち。
「……一条先生」
コホンと息を吐いた後で、久世橋先生は俺の目をジッと見つめる。
そこには、動揺してはいるものの……しっかりとした意志のようなものを感じた。
あの時とは変わったな、と思う。予想外の出来事に、今の俺たちは対峙できている。
「ところで、その子たちは、その……ど、どなたなんですか?」
とはいえ、さすがに動揺の色は隠せない。それは、俺も同じだった。
よりにもよって、目的の相手に会うまでに最も会いたくない相手と鉢合わせたのだ。
俺の傍らにいる二人の子どもたちも、どことなく緊張している様子だった。
「……えっと」
さて、どう言えばいいんだろう。悩みどころだ。
というより、どうして俺は……久世橋先生と鉢合わせになる、ということを想定しなかったのだろう。
いかにも、ありそうなことだったのに。
「あれ? 二人とも、何してんの?」
「い、一条先生……その子たちは?」
更に、事態は面倒なことになったらしい。
声のした方へと視線を転じれば、そこにいるのは二人の女子生徒だった。
えっと……たしか、日暮香奈さんと松原穂乃花さん。
前者は、かなりあけすけなタイプで、後者は内気そうなタイプだった。
「そういえば、あまり話したことなかったなあ」なんて脳天気なことを、何故か俺は考えていた。
「……何か」
「ヘンな感じだね、美月」
ほら。二人の登場で、余計に事態はややこしいことになりそうだ。
どうやら、目の前の久世橋先生も同じことを思ったらしい。彼女たちの方を見て、ピクリとしていた。
「あ、あなたたち……」
「あれ? その反応……もしかして」
「も、もしかしちゃう、の?」
どうやら事態は、最悪の方向に動き出したらしい。
その気配を、俺はたしかに感じた。
「二人の……?」
「で、でも! そんなこと!」
日暮さんがニヤッとしながら言ったことに、隣の松原さんが顔を赤らめながら首を振る。
傍らの二人は……何を思ったのか、一度ピクリとした後で、ニヤッと笑って、
「そうだよ。ぼくたちは」
「二人の――」
そこまで言いかけた所で、
「ち、違います!」
「ち、違うから!」
俺たち二人の声が重なった。
その息の合いっぷりに、我ながら驚く。
その反応に対し、彼女たちはというと、
「まあ、だよねー。……でも、二人とも息ぴったり」
「か、香奈ちゃん!」
いたずらっぽく言う友人を、隣の松原さんがたしなめてくれる。
とはいえ、俺たちが負った傷は相当に深い。
「と、とにかく! 行くぞ、二人とも!」
俺は強引に、二人の手を掴むと走りだした。
「わっ」という、二人の声が重なる。息の合いっぷりは、二人のほうがよっぽど上だ。当たり前か。
「ちょっ!? い、一条先生!」
後ろから久世橋先生の声がしたけど、ごめん、気にする余裕はない。
とにかく、二人の手を引きながら、俺たちは久世橋先生の傍らを通り抜けていく。
――
……結局、あの子たちは何だったんだろう。
私の疑問は解消されないままだった。
そのこともあるというのに、
「いやー……ごめんね。まさか、そこまで慌てちゃうとは思わなくて」
「香奈ちゃん、ちょっと言い過ぎだよ……」
「え? でも、穂乃花も何だかんだで興味あったんじゃない?」
「そ、それは……」
まだ、相手をしないといけない相手が二人もいるなんて……。
私はコホンと一息つくと、一気に言う。
「いいですか! そもそも、私と一条先生は『ただの』担任と副担任です! それ以上でも以下でも――」
――
……今頃、何かとまくし立てて余計に傷口を深くしているんだろうなあ。
そんなことを思いながら、俺は二人を二階へと連れて行った。
「……いるかな?」
目当ての相手は、C組にいるはず……なんだけど。
「いそうにないな……」
「そうなの?」
「見せて見せて」
おいおい、二人が前面に出るのはまずいだろうに……。
C組の英語担当は烏丸先生だから顔見知りも少ないとはいえ、俺は少し慌てた。
「……あー、そこのきみ」
「え? なんすか?」
話は早くつけた方がいい。
俺は、近くにいた男子を呼び止めると、
「猪熊陽子さんがどこにいるか知らないかな?」
「猪熊? それなら、A組か廊下辺りじゃないすかね」
アイツ、その辺でしか見ないし、と続けた男子に「ありがとう」と俺は礼を言った。
そろそろ、二人の手の温度も熱くなってきた。
どうして握ったままなのかというと、二人がどこかに行ってしまわないように、だ。
「……そろそろ離してほしいかも」
「私も」
とりあえず、小さな二人組の意見は無視したまま、俺は身を翻した。
――数分後
「こ、空太! 美月! ……どうして、ここに?」
結局、俺は何とか目的を果たした。
猪熊さんは廊下の向こう側で、いつも通り五人で談笑していた。
とりあえず、俺は一息つく。
「……随分、お疲れみたいデスね?」
そうしていると、いつの間にか近くに九条さんがやって来ていた。
彼女は微笑を浮かべたまま、
「何かあったんデス? ここに来るまでの間二」
「カ、カレン! 先生、疲れてるんだから……」
いたずらっぽく続ける友人をたしなめてくれる小路さんに感謝して、俺は窓から空を見た。
今日も透き通った青空が広がっていた。こうしていると、胸の内にあるあれこれもどこかに行ってくれそうだ。
ああ、気持ちい――
「……い、ち、じょう、先生?」
――もう少し、そうさせてほしかった。
視線を転じれば、そこには仁王立ちする久世橋先生の姿が。
……その後、俺たちの間でどんなやり取りがあり、どんなに疲れたのかはご想像にお任せしたい。
色々ありましたが、こんな風にして苦労していく先生たちでした。
少し冗長だったかもしれませんね……。