下校時のお話、ということになります。
「――それでは、今日はここまで」
教卓に向かいながら、久世橋先生が締めの言葉を述べた。
それに応じて大宮さんが号令をかけて、一礼。
これにて、今日も一日がおしまい――
(……帰宅部の生徒たちにとっての、だけど)
思いながらチラッと目に留まったのは、ケースに入ったテニスラケットを肩に掛ける女子生徒。
長めの栗色の髪が特徴的だった。
えっと……松原穂乃花さん、だったか。
彼女は九条さんと嬉しそうに話した後で、教室から出て行くのだった――
「一条先生、カレンが気になりますか?」
……え?
俺がそんな二人の姿を何となく目で追っていると、教壇の下から声がした。
目に入ったのは、黒髪の、おかっぱ頭の――
「大宮さん……」
「カレン、可愛いですよね」
俺の言葉が届いたか否かというタイミングで、彼女は笑う。
無邪気で穏やかで……見る人を和ませるような表情で。
(――でも、何でだろう?)
何だか、ちょっとばかり嫌な予感がするのは。
少し離れた所には、久世橋先生がいた。
そっちを見遣ると、彼女も何だか慌てているように見えた……勘の働く所も同じなのは、昔から変わらない。
「一条先生――」
そこで彼女は言葉を区切る。
その瞬間、教室に一陣の風が入ってきた。
一瞬だけ流れる静寂、たなびいたように見える大宮さんの髪、そして彼女は――
「久世橋先生とカレ――」
「し、しのっ!」
呆ける俺の前に、唐突に現れたのはツインテールの女子生徒だった。
彼女――小路綾さんは大宮さんの肩を掴むと、赤らめた顔つきのまま見つめている。
「あっ、綾ちゃん……」
「そ、そういうことを先生に聞くのは……えっと、えっと」
ちょっとビックリしたような表情をする大宮さんに対して、小路さんは明らかに動揺している風だった。
きっと、大宮さんより深く色々なことを考えているから、想像が働いたんだろう。
何について「色々」というのかは、敢えて何も考えないことにしよう……。
「ああ、大宮さん? 久世橋先生と……カレー?」
とぼけた調子で、俺は切り出す。
それに対してキョトンとする女子二名の顔。
我ながら、どうしてカレーに話を持っていたんだろう……。
でも、今更退くに退けないし。
「カレーか……えっと。久世橋先生は、甘いものの方が好きで――」
「い、一条先生! 何を話してるんですかっ」
あっ、俺が頭を掻きながら必死に口実を並べてたら、当の先生が近づいてきた。
どうやら、チラチラと見ているだけでは限界に達したらしい。
「いや、久世橋先生が生徒の子たちにちゃんと話さないことを――」
「だ、だからといって、先生が代弁しなくてもいいですっ!」
顔を赤く染めながら、俺に何度目にもなる抗議をする先生。
うーん……困った、のか、ツイてるのか。
久世橋先生がこっちに来たために事態がややこしくなりそう、とも言えなくもないし。
一方で――
「先生も甘いものがお好きなんですか?」
やっぱりツイてたのかもしれない。
見れば大宮さんは、ニコニコと笑いながら久世橋先生に質問していた。
さっき、委員長として号令をかけていた時の表情とは、全く別のテイストで。
「お、大宮さん……え、ええ、まあ」
生徒に淀みなく聞かれて、声を上擦らせながら応える先生。
アドリブに弱い所があるとはいえ、立場が逆じゃないだろうか……。
「あっ、私も好きなんです! 今度みんなでクッキーを、ですね――」
ただ、大宮さんは俺が思っているより、ずっと出来た生徒だったらしい。
そんな久世橋先生を意に介さず、手を合わせながら何とも嬉しそうに話し続ける。
それに対して「??」という表情を浮かべ続けるのは、もうやめにしませんか……。
「……やれやれ」
「あ、あの――」
つい溜息をついてしまうと、近くから緊張した様子の声がした。
言うまでもなく、小路さんだった。
口元に手を軽く当てながら、照れた様子で俺に声を掛けてくる。
「ごめんなさい、しのが……し、失礼なことを」
しどろもどろになりながらも、彼女の声はどこまでも真剣だった。
頭を下げた様子でいるのは、俺と直接視線を合わせたくないからかもしれない。
ショックか、と言われれば、別にショックじゃないと答えようと思う。
というのも――苦手ながらも、こうして一生懸命になってくれる生徒が悪い子なわけがないから。
「いやいや、大丈夫。ありがとな、小路さん」
俺は小路さんの上方から、そう言った。
彼女はというとピクッと身体を震わせた後で、俺と一瞬だけ顔を合わせた。
そして、また下へと視線を転じる。
「――おかげで、俺も先生も、ちょっと助かったし」
「え……?」
キョトンとした様子の小路さんを見る前に「二人とも、何を話してるんですか?」と久世橋先生たちへと声を掛ける。
俺の後方で、何となく小路さんの視線を感じた。敢えて振り向かないでおこうと思う。
俺の声に応じて、大宮さんは俺と久世橋先生を交互に見た。
そして、一瞬だけ左にいる友人へと視線を転じる。
最後に俺を見てクスッと笑いながら――
「ね、一条先生? 綾ちゃんは、いい子でしょう?」
――ダメだ。
たしかに大宮さんは、さっきの久世橋先生への態度といい、とてもいい子だけど――
(こええよ……)
「ふふっ……」
その、何の悪気もない表情を見ながら嘆息する俺に対し、大宮さんは最後まで笑顔を崩さずに俺を見るのだった。
……今日一日で、随分勉強になった。
烏丸先生、倉井先生、そして大宮さん――
(邪気のない笑顔っていうのにも、色々あるんだなぁ)
ということが。
「――疲れました」
「先生、いつもそればっかりですね……」
学校の外に出てから俺が呟くと、隣から呆れた声がした。といっても、その声にも疲労感が滲んでいる。
久世橋先生もまた、俺と同じような気分だったらしい。
「今日は久世橋先生も、とてもお疲れのようで……」
「主に、一条先生のせいなような気がします」
校外に出ても、相変わらずやり取りはいつも通り。
何というか、コミュニケーションの場所が変わっても、社会的な立ち位置が変わっても接し方が同じ、というのは……
(――本当に、いいのかな?)
そんな瑣末にも思えることが、変に気になってしまった。
「あなたのおかげで、九条さんや大宮さん……そ、それに、他の子たちにも、ですね」
少しばかり、久世橋先生の堰が切れてしまったらしい。
何だか色々と俺に言いたそうだった。
「ああ、そういえば――今日はA組の家庭科があったんでしたっけ」
「そうです。ああ……何とか今日は、いつも通りしっかりと出来ましたけど」
額に手を当てながら、心配そうに久世橋先生は呟く。
その気持ち、分からなくもない。というより、よく分かると言わざるをえない。
「俺も明日、A組で初授業なので……緊張しますね」
「――せめて、一条先生も私の気持ちを少しは味わってほしいですね」
うっ、もはや久世橋先生は心配するより、俺への恨み節の方が先らしい。
何とも余裕のなさそうな彼女の瞳に、ほんの少しの悪戯心が見え隠れしている――ああ、真面目な我らがクッシーが。
「もう、久世橋先生? ホントは心配なんでしょう?」
と嘆いてたら、とんだアシストが現れた。
おっとりとした口調でのからかいは何者にも代えがたい。
それは、歴史――俺と久世橋先生の――が証明する所だった。
「か、烏丸、先生……」
「久世橋先生は先生として、一条先生の『先輩』なんだから。
素直にならないとダメな時もあるんじゃないかな」
慌てた様子で返す久世橋先生に、俺たちの間に挟まって歩く女性教師――烏丸先生はどこまでも自然体だった。
ちなみに、この並び順(俺、烏丸先生、久世橋先生)は、学生の頃から何ら変わっていない。
ごくごく自然に、こういう一連の集合が形作られていた。
おそらく俺も彼女も、間に先輩を挟むことで落ち着くからだろう――
二コマ目の前の時も思ったけど、この人のようなやり方で注意を受けると反発する気持ちすら失せる。
というより、もはや従いたい、という気持ちすら起こさせるのは一体どういうわけなんだろう……。
(――生徒に慕われるだろうなぁ)
俺が心底感じ入っていると、
「だ、だって……一条先生に私は、昨日も今日も」
「久世橋先生。一条先生は、まだまだ駆け出しです。
今日、私は一条先生と一緒になることがありましたけど――」
そこで言葉を区切ると、隣の俺へと視線を向けてくる。
ビクッと少し緊張してしまう俺に対して、先輩は言う。
「一条先生は一生懸命でした。色々と大変そうでしたけど……」
そこで少し、微笑んでみせる。
うっ、俺が教卓に向かって話してる時、一部で噛み噛みだったことを言われてるのか……。
その時の猪熊さんの笑い具合と、その近くのカータレットさんのハラハラ具合が忘れられない。
「私は久世橋先生と一条先生は、いいパートナーになれると思っています」
――ほら。
こうして油断している所に、この人は爆弾を投げ込んでくる。
心と頭で響く爆発音。きっと、二つ隣の久世橋先生も同じだろう。
それを示すように、引きつったような顔つきで頬を赤く染めているのだから。
……俺も同じだから、よく分かる。
「――あ。担任教師という意味で、ですよ?」
俺たちに見つめられながら、烏丸先生は笑う。
口元に手を上げて、無邪気に。
そこには何ら、誰かをからかおうとする意志も悪気も感じられず――
(……どうして笑われてるのに)
どこかで、俺は落ち着いてしまっているんだろう。
何度も、こういった疑問は持った。そして、その度に忘れていく。
気づけば、俺はそんな先輩と――ずっと、一緒にいた。
それは、彼女も同じで……。
「……ねえ、一条先生?」
ロボットのようにギクシャクとした動きで、二つ隣の久世橋先生が俺を見つめる。
俺もまた、それに応じる。
視線の下で、烏丸先生の頭が少し揺れた。笑っているのだろう、間違いなく……。
「やっぱり――主任の先生に言って、副担任を解いてもらいましょうか?」
字面だけ取ったら、完璧な決別宣言だった。
実際、聞きようによっては、そうなのだろう……ただ。
これ以上に深めようがあるか、というくらいの頬の赤み。
強張ったままでいて、けれど動揺しているのが明らかな口元。
そして……ホントは言いたくなかった、と言わんばかりに垂れた眉。
いつも厳しげに吊った調子の時を思い返してしまった。
だから、俺は――
「お断りです」
そして、間髪入れずに続ける。
「久世橋『先輩』。俺は、もっと先輩から教わりたいですし……。
今日の大宮さんや小路さんのように、もっと頼られたいです。
これからもご指導ご鞭撻、よろしくお願いします」
我ながら、白々しい言葉も混ぜながら、先生へと返した。
俺の表情もたいがい赤かっただろうけど、それでもきっちり返事が出来たと思う。
それを見て、久世橋先生はビクッとした様子のまま俺を凝視した後で、プイッとそっぽを向いてしまった。
どんな表情なのかは考えるまでもないだろう。
そして――間に挟まった烏丸先生は、そんな俺たちを交互に見て、
「……やっぱり、いいコンビですね」
「か、烏丸先生……私たちは別に、芸人じゃ――」
俺よりよっぽど参っていた様子の久世橋先生を、自分の発言にツッコませることで難なく復活させるのだった。
……この人に追いつこうとか少しでも思ってしまったのは、身の程知らずだったのかもしれない。
一旦、ここまでとします。
一条と久世橋先生だけでも色々な意味で危うい調子ですが、そこに烏丸先生が加わると一気に爆発することが増えるというお話でした。
次回の構想自体は漠然とまとまっています。