甘粕正彦による英雄譚   作:温野菜

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第2話

諏訪原市内の私立月乃澤学園、そこの一生徒である藤井蓮。彼はいま猛烈な睡魔と闘っていた。教卓の前で歴史の解説をしている先生が子守唄を歌っているのではと疑いたくなるほどに。少し視線を移せば幼なじみの一人である遊佐司狼は机に突っ伏している。おそらく授業に飽きたのだろう。まあ、この男に関しては別段と珍しいことではない。よく見られる光景だ。授業態度は褒められたものではないが定期テストでは常に上位にいる。教師は苦々しくは思うものの問題にはしていない。

 

もう一人の幼なじみ綾瀬香純に視線を移すといつもどおり真剣な態度で授業に取り組んでいる。相も変わらずの幼なじみたちの姿。そして何となく蓮は自分の前の席の男に目をむける。男にしては長めの長髪、着ている制服はシワ一つ見当たらず常にアイロンを掛けているのだろう。背筋はピンと伸びており、中に鉄骨でも入れているのではないか、そう思わせるほどにブレがない。学生とは、こうあるべしと体現する男。――この男の名は甘粕正彦。

藤井蓮はあまり社交的ではない。事実、友好関係は綾瀬香純、遊佐司狼の幼なじみ組、加えて先輩の氷室玲愛ぐらいなものだ。だがそんな彼でも甘粕正彦は印象深い。それは彼だけではない。クラスメイト、それに限らず他クラス、先生にいたって皆がこの男を知っているだろう。

 

蓮は過去のことを回想する。初めて彼に会ったときの印象は誰よりも模範となる学生らしいのに誰よりも学生らしくない。二律背反。違和感。言葉に出来ない矛盾。その時の蓮たち、ほかクラスメイトは皆が思い思いに喋っており、喧騒していた。そんな中で甘粕は一人、教卓の前へと移動し堂々と自己紹介を始めた。

「――諸君」

 

その言葉は喧騒染みていた部屋でスッと通った。同時に思わず口を噤む。たった一言……その一言に圧力を感じたのだ。蓮に限らない、司狼も香純も他の人間も。「俺の名は甘粕正彦。これから、この学舎でおまえたちと共に学ぶ生徒だ。ならば自己紹介から始めなければなるまい。人としての礼儀として」

 

「好きなものは愛、勇気、友情。好きな言葉は人間賛歌。趣味は……そうだな、自己鍛練といったところか」

 

場の空気いまだ静謐としている。虚を突かれたことでもあるが、そうしなければならない。そんな思いに駆られるからだ。

 

「だがこの程度の言葉では俺という人物を推し量ることはできまい。俺自身が弁が立つという訳ではないからな」

 

「だからこそ、これを期におまえたちに伝えておきたいことがある。それを以て俺、甘粕正彦を知ってもらいたいのだ」

「……そうだな、おまえたちは今の世を、いや、人間をどう思う?素晴らしいと胸を張って言えるか?俺は身近からよく聞かされる言葉がある。それが何か解るか?」

 

相手に答えを聞いているのかは分からない。だが甘粕は続ける。

 

「退屈、面倒だ。やる気がしない。往々にして、そんな言葉だ。俺はそれを聞かされる度に悲しくなる。学ぶ場所があり、餓えることもなく、金を稼げる機会がたくさんある。法や権利で数多のもので守られている俺たちは一昔前の人間にとっては楽園の住人だろう」

 

「――だが、そんな現世にすら不満を覚えるやからがいる。肥えるばかりで口から糞を垂れ流す愚図がいる。俺はおまえたちにそうなって欲しくはない。今のおまえたちはたくさんの可能性を秘めている。夢を、目標を、信念を――持ってほしい。そういったものを持つことは人として生きるには大切なことだ」

 

甘粕が紡ぐ言葉は相手に対する真摯さがあった。蓮はこの男は本当に自身たちを心配し憂いている。まさしく父性の愛。初対面の人間にすら向ける人類愛に、蓮は恐怖の感情と既知感、そして黄金の影がよぎった。蓮は頭を振る。何故そんなものが頭をよぎったのか分からない。それも一瞬のことだった。いまは影の痕すらない。

 

「俺の基本、言いたいことはこれだけだ。これ以上、長々と続けるわけにいくまい。いま先ほど、述べたことは聞き流すもよし、胸の片隅に留めるもよし。……ああ、だが一つ覚えていて欲しいことがある。それでこの場を締めるとしよう」

 

甘粕は一呼吸おく。

 

「――我も人、彼も人。ゆえ対等、基本ではあるが存外にこの心構えを忘れている人間が今の世に多い。おまえたちにはこれだけは覚えていて欲しいのだ。それではこれから一年よろしく頼む」

 

甘粕は一礼して自分の席へと戻った。蓮は変わった奴がクラスメイトになったなと思った。……だけど嫌いなやつじゃない。

 

 

 

 

 

蓮は目を開ける。どうやら昔のことを回想していたら、いつの間にか眠っていたらしい。初めて会ったときのことを夢に見て苦笑する。この男は今も変わっていない。自分の想いを言葉で伝えて身を持って体現する。以前、香純から聞いた話しによれば甘粕は中学時代に剣道部に所属しており、全国区で優勝するほどの腕前らしい。今も剣道部のエースとして活躍している。香純は女子剣道部に所属している縁から甘粕とは男友達のなかではかなり仲が良い。実際、友人として小気味が良い相手なのだろう。

それに剣道に限らず、勉学に関しても常に学年トップ。本人は恐らく努力している、なんて思ってすらいないだろう。当たり前のことを当たり前にやる。言葉にすれば簡単だが実際に出来るかは別だ。

 

だが、あの司狼ですら友人関係を築けているのが驚きだ。同時に納得もある。甘粕なら仕方ないと。

 

藤井蓮にとって目の前の男、甘粕正彦は嫌いじゃ……ない。

 




皆さん、どうでしょうか?甘粕が甘粕していましたか?蓮のちょいツンデレ気味が再現出来ていましたか?

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