一度だけ…一度だけれど、司令官の手に、振れたことがある。
お酒を渡すときに、一度だけ。
でも、私は、あの温もりを、何度も、何度も、思い出していた。
「もうこんな時間か」
「司令官、そろそろ、お休みになったほうが…よろしいのでは…?」
「いや、少し夜風に当たってから眠るとしよう。どうも、最近眠れ無くてな」
「駆逐艦たちとお昼寝…しているからですよ」
「平和な証拠だ」
「お仕事だって…サボっているわ…」
「代わりに、こうして夜にやっているだろう」
「そんなんじゃ…体を壊すわ…」
「心配してくれているのか」
「秘書艦…ですから」
「私より自分の心配をしたらどうだ。秘書艦とはいえ、私にずっと付き合っている必要もなかろう。今日くらい休め」
「お陰様で…私も、最近は眠れないのです」
「そうか。では、一緒に来るか?」
「はい」
そう言って、私達は、すっかり暗くなった鎮守府を、二人して歩いた。
季節は冬。
息が凍り、時々現れる外灯の光が、それを白く輝かせた。
「寒くないのか?そんな格好で」
「海の方が寒いわ…」
司令官は、そんな私に、自分の上着を羽織らせた。
「海ではこういう事も出来ないからな。せめて、こういう時くらい、格好付けさせてくれ」
上着には、司令官の匂いと、温もりが、残っていた。
「嬉しいけれど、これだと、司令官が冷えてしまうわ…」
「なに、私は丈夫だ。医者にだって、もう何年もかかっていない」
強がる司令官は、やはり、寒そうだった。
私は、温めてあげたかったけれど、自分の手が冷たいのと、司令官の手に触れることが、許されない事な気がして、何も出来なかった。
波の音が、寂しく、私の心を揺らした。
「もう少し歩くか?」
「いえ、戻りませんか…?帰って、一杯…どうですか?熱燗でも…作りますよ…」
「それもいいな。よし、戻ろうか」
「お待たせしました」
「すまないな」
「お注ぎいたします…」
「お、では」
司令官が御猪口を構えた時、ふと、自分の手が、熱燗で温められている事に気がついた。
そして、気がつくと、司令官の手を、両手で、握っていた。
「早霜?」
「あ…」
自分でも驚いて、すぐにその手を放した。
「ごめんなさい…」
やってしまった。
何度も、何度も、想っていた、その手に、触れてしまった。
想うだけで、よかったのに。
「早霜、手を出せ」
「え?」
「いいから」
司令官は、私の手を、無理やり引き、握った。
「小さくて、綺麗な手をしているのだな」
そう言って、何度も、何度も、私の手を揉んだ。
司令官の手は、最初は冷たかったけれど、段々と、私と同じくらい、温かくなった。
それほどに、何度も、何度も、揉んでいた。
「司令官…熱燗…ぬるくなってしまうわ…」
照れ隠しだった。
でも、そうだとバレるように、小さく、そう、呟いた。
そんなものだから、司令官も、何も言わず、ずっと、私の手を揉んでいた。
手から伝わる、司令官の心。
私のそれも、司令官に伝わっているのかしら、なんて、一人、赤面した。
「ありがとう」
そう言って、司令官は、私の手を放した。
ジンジンと、まだ、手を揉まれている感覚が、残っている。
「熱燗が冷えてしまったな」
「お作りなおし…しましょうか…?」
「いや、今日はやめておこう。十分、温まったしな」
そう言った司令官の目は、どこか官能的で、私はまた、赤面した。
「今日は良く眠れそうだ。ありがとう。早霜」
「…はい」
声が霞む。
それほどに、私の体は火照り、喉を嗄らしていた。
「司令官…」
そんな声で、去る司令官を呼びとめた。
「なんだ?」
「明日も…夜風に…当たりに行きましょう…」
「ああ、その時は、また温めてくれ」
「あれ~?早霜、手袋買ったの?」
「はい。巻雲姉さんは…袖が長くていらなそうですね」
「懐炉もあるからね~」
「懐炉?」
「ほら、こうやって揉むと…はわわわわ!破れて中身が…中身が…!」
「懐炉…それがあれば…いつでも手を…」
「早霜~…見てないで助けてよ~…」
「塵取りを持ってきますね」
「そろそろ夜風に当たりに行くか」
「はい」
「お、今日は手袋をしているのだな」
「懐炉もあります」
「懐炉か。一つ貸してはくれないか?」
「駄目です」
「え?」
「司令官の手は…私の手で…温めます…フッ…フフフフ…」
「そうか、じゃあ頼むよ」
からかったのに、司令官は、ちっとも赤面せず、逆に、その返しに、私がやられてしまった。
私は、その抵抗として、司令官の手を握った。
でも、すぐに。
「今日も良く眠れそうだな」
そう言って笑った司令官に、抵抗虚しく、赤面した。
「それじゃあ行くか」
「…はい」
今日も、冬の空気が、私達の息を凍らせた。
空は澄んでいて、オリオン座が綺麗に見えた。
外灯に照らされた影が二つ、寄り添ったまま、私達の前に現れ、伸びたかと思うと、薄くなって、やがて消えた。
それが、何度も、何度も、続き、やがて、終わった頃、ふと、後ろを見ると、遠くに、鎮守府が見えた。
「こんなところまで…」
そう零したとき、ふと、気がついた。
「普段なら、寒くて引き返してしまうが、こうも温かいから、こんなところまで来てしまったのだな」
私の気がついた事を、司令官は、こうもペラペラと喋る。
「気障な男…」
「ん?」
「いえ、何でも無いわ。もう少し…ここで…星を見ましょう…?」
「ああ」
そう言って、ちょっとだけ、強く、手を握った。