提督と付き合ってしばらく経った。
未だに手を繋ぐくらいしか出来てないけれど、提督が私を好きで、私も提督が好きだという事に変わりはない。
けど、最近は――。
「提督さん、お忙しそうなので、お昼を持ってきましたよ」
「ああ、いつもすまないな、鹿島」
「いえ、好きでやってるんで。うふふ」
「最近入ってきた鹿島さん、いつも提督にお昼持ってきてさー。なんか提督も満更じゃなさそうなんだよねー。ねぇ、どう思う?」
「どう思うって……何がですの?」
「だからさ……その……なんというか、鹿島さんと提督がお似合いっていう艦娘もいてさ……その……」
「お似合いだと思いますわ」
「なっ!? 熊野まで……」
「料理も出来て、優しくて、皆から好かれていて、落ち着いていて、スタイルもいいし、提督も気に入っている様子ですし」
「う……」
「で? 鈴谷は何が出来るんですの?」
「す、鈴谷は……か、かわ……いい……とか……?」
「それだけ?」
「提督最初のメル友だし……」
「……」
「ど、どうしよう……熊野ぉ……」
「貴女ねぇ……。貴女は提督の恋人なんでしょう? それだけでも胸を張った方がいいですわ」
「!」
「あと、提督との距離ももうちょっと詰めないといけませんわ。 キスも出来てないなんて」
「だ、だってさ……恥ずかしいじゃん……」
「そんなの、一気に行けばよろしいのよ」
「それにさ……鈴谷は……したいというより……されたい……し……」
「はあ?」
「どうやったら提督からキスしてくれるかな……」
「はぁ……呆れましたわ……」
「そんなこと言わないでよぉ……」
「そんなんじゃ、鹿島さんに提督を取られてしまっても、おかしくないわ」
「……っ!」
熊野の目は嘘を言ってなかった。
そう受け取る私の心も、また――。
廊下を歩いていると、向かいから書類を抱えた鹿島さんが歩いてきた。
小さく会釈をして、通り過ぎる。
「鈴谷さん」
振り返ると、あの微笑みで私を見つめていた。
「鈴谷さんは提督さんとお付き合いしていると聞きました」
「う、うん……そうだけど……」
鹿島さんの微笑んだ顔。
悪意のないはずなのに、どこか、鈴谷には恐ろしく見えた。
そして、それは鹿島さんの言葉で、はっきりと心に感じた。
「私、提督さんが好きなんです」
背中で多量の小さな虫が這うような感覚。
窓からの光で体が焼けてしまうのではないかと感じるほど、私の体は冷えていた。
「ずっと見てました。提督さんと鈴谷さんの事。お二人は付き合っているのに、あまり会わないし、手を繋ぐくらいしかしませんよね?」
「だ、だったら……」
「もし、それ以上進む気がないなら、提督さんから手を引いてください」
「え……」
鹿島さんの顔から微笑みが消えた。
今にも零れそうな涙。
それを堪えようとする口と眉に力が入っている。
手に持った書類が震えている。
そうか。
鹿島さん、真剣なんだ。
本当に提督が好きで、そして、意を決して鈴谷に挑んできたんだ。
純粋だ。
悪意なんて、何一つない。
鈴谷が持った鹿島さんへの恐怖は、鈴谷自身が作り出した恐怖だったんだ。
「悪いけど……鈴谷は提督が好きだし、提督も鈴谷が好きだから……」
「な、なら……提督さんが私を好きになればいいだけ……ですよね……」
いつものお淑やかさから想像できないほど、挑戦的な言葉。
それほどに、鹿島さんの心を動かしたんだ。
提督を想う気持ちは。
「……失礼します」
涙が零れたところで、鹿島さんは行ってしまった。
きっと、耐えきれなかったのだろう。
自分のしている事に。
それでも、鹿島さんはやりきった。
鈴谷は、何もできないで、ただ、その背中を見ているだけだった。
部屋に戻って、ベッドの上で天井を眺めていた。
零れ日が反射して、埃が浮いているのが見える。
「これ以上……進めないのなら……」
いつもいつも、手を繋ぎたがるのは鈴谷だけで、提督から握ってくれたことなんてなかった。
鈴谷は求められたい。
キスは、提督からしてほしい。
でも――。
「提督は鈴谷が……好きじゃないの……?」
遠くで砲撃の音が聞こえる。
提督と付き合う前と、何も変わらない。
この部屋で聞く砲撃の音も、鈴谷自身も。
そして、提督との関係も――。
食堂に行くと、提督が一人で食事をしていた。
「提――」
「提督さん、お隣、いいですか?」
「ん、ああ。どうぞ」
「提督さんと二人でお食事できるの、嬉しいです。えへへっ」
「そうか? 悪い気はしないな」
提督が笑う。
「あら、鈴谷じゃありませんの。こんなところでぼーっと何を見て――」
気が付くと、食堂を飛び出していた。
熊野の呼ぶ声がする。
でも、提督の声は聞こえなかった。
「はぁ……はぁ……」
港は静かだった。
波の音も、風の音も聞こえない。
「――ばか」
提督へ。
鹿島さんへ。
鈴谷自身へ。
誰に向けて良いのか分からない言葉。
零したその言葉は、風の吹かないこの場所に、ずっと、浮いているように感じられた。
まるで、煙草の煙のよう。
「もっと大きな声で言ったら? すっきりするわよ」
テトラポットを跳びながら、陸奥さんがこちらへ向かってきた。
「陸奥さん……」
「誰に向けていいのか分からない言葉――この大きな海なら、きっと受け止めてくれるわ」
陸奥さんは、まるですべてを知っているかのような、そんな雰囲気を出していた。
きっと、これが大人なのだろう。
大人の女なのだろう。
「ほら、海に向かって叫んだら? 大丈夫、こんな所、私くらいしか来ないわ」
「――うん」
大きく息を吸う。
冬の乾燥した空気に、うっすらと潮の香りが残っているのを感じた。
「ばかやろー!」
海はやはり静かだった。
鈴谷の声が、遠く、どこまでもどこまでも、遠く、届くような気がするほどに。
「はぁ……」
「スッキリした?」
「うん。ありがとう、陸奥さん。でも……」
「お姉さんで良ければ、聞くよ? どうせ、提督の事なんでしょう?」
「……凄いね。やっぱり、大人の女性って感じだよ。陸奥さんは」
「大人の女性なのよ」
鈴谷が話をしている時、陸奥さんはただただ聞いてくれた。
肯定も否定もしなかった。
「鈴谷は……どうすればいいんだろうって……。あはは……面倒くさい女だよね……」
「そうね」
「……」
「でも、それでも、提督は貴女を選んだ。面倒くさい事も、何もかも、全てを愛した」
その時、海から強い風が吹いた。
陸奥さんの方を見ると、どこか、悲しい顔をしていた。
「私は、愛されなかった。選ばれなかった。この大きな海に、幾度となく叫んだわ。どうしてって」
「陸奥さん、もしかして……」
「貴女が憎かった。提督が憎かった。私が憎かった。今の貴女と同じよ」
「……」
「海は決して答えてくれない。でもね、一つだけ、一つだけ分かったことがあるの」
空はすっかり夕暮れになっていた。
水平線の向こうで、太陽が沈もうとしている。
「提督も、提督が愛する貴女も、私自身も、どれも、私の大切なモノには変わりないって」
「大切なモノ……」
「だから、私はそれを大切にしようと思った。憎むんじゃなくて、愛さなければって。そうしたら、きっと――」
陸奥さんの頬で、何かがキラリと光った。
「私は幸せになれるって。提督に愛されなくても、私は私を愛し、提督を愛し、貴女を愛す。私が大切だと思うモノの為に、私の為に」
鈴谷は何も言えなかった。
陸奥さんがそれで救われたとは、思えなかったから。
その涙は?
陸奥さんは、それでいいの?
本当に?
私だったら――。
言えなかった。
「陸奥さん……」
「なんて。今、私の事、惨めだと思ったでしょう?」
「そ、そんなことは……」
「それが、貴女の行く末なのよ? 貴女は、それでいいの?」
「……!」
「そうならない為にも……今、貴女が思ったことをしなさい。私がどうすればいいのか考えたでしょう?」
「陸奥さん……」
「今までの話は全部嘘よ。提督が好きなのもね。でも、貴女は貴女の答えを見つけた。自分を他人として見ることが出来ないと、見えないモノがあるものよ」
「……やっぱり陸奥さんは凄いよ」
「さ、答えが見つかったのなら、行きなさい。さっさとしないと、鹿島ちゃんに取られちゃうわよ」
「はい! ありがとうございました!」
陸奥さんを背に、鎮守府へ向かった。
しばらくして振り向くと、陸奥さんは海を眺めていた。
その瞳は、とても優しいものに見えた。
嘘なんかじゃない。
陸奥さんもまた、私と同じように――きっと――。
執務室に向かう廊下で、窓の外を眺める鹿島さんに会った。
「鹿島さん……」
「こんばんは」
鹿島さんが微笑む。
でも、いつもと違う。
何かを隠すような、そんな微笑みだった。
「――少し、お話しませんか?」
「……うん」
外はすっかり夜になっていて、少し欠けた月が浮かんでいた。
「鈴谷さんは、提督さんのどこが好きになったんですか?」
「どこって……うーん、全部?」
「じゃあ、好きになるきっかけとか」
「なんだろう。気が付いたら好きになってたかも」
「――そうですか」
鹿島さんが微笑む。
それが何を意味しているのか、鈴谷には分からなかった。
でも、悪意は無いように見えた。
「うふふっ。提督さんと同じ事言ってますよ」
「え?」
「提督さんも、鈴谷さんと同じ。全部が好きで、気が付いたら好きで――って」
「提督が言ったの?」
「えぇ。食堂で。提督さん、鈴谷さんとどうしたらもっと仲良くなれるかって、私に聞いてきたんです」
「……」
「話をしている時の提督さんの真剣な顔を見たら、なんだか切なくなっちゃって……鈴谷さん、本当に愛されてるんだぁって」
「鹿島さん……」
「手を引かなきゃいけないのは私の方だったみたいですね」
上がる口角とは裏腹に、眉毛だけは鹿島さんの感情が篭っているように見えた。
「お話はこれで終わりです。すみません、呼び止めてしまって。では……」
「鹿島さん」
「はい」
「鈴谷が……憎い? 提督が……憎い?」
「いいえ。だって、私の愛している提督が愛した貴女です。どちらも、愛しています」
即答だった。
強い女性だと思った。
もし、鈴谷が同じ立場だったら――。
「鈴谷も、鹿島さんを愛しているよ」
「――ありがとうございます」
最後の微笑みは、いつもの優しいものだった。
執務室は少し蒸していた。
ストーブの上のやかんが、ひっきりなしに蒸気を出しているせいだ。
「もう少しで仕事が終わる。そうしたら、食堂へ行くか」
「うん」
窓の曇りに指をなぞると、その間からクレーンの赤い光が、点滅しているのが見えた。
「ねえ、提督」
「ん?」
「鈴谷ね、色んな事があったけど、提督が鈴谷を好きでいてくれてるって、分かってるからね?」
「どうした急に?」
「だから、鈴谷が提督を好きだって思ってる事も、分かってほしいの」
「鈴谷?」
「鈴谷は……提督が好き……。提督も同じ……。だったら、提督がしたいことも、鈴谷がしたい事だし、鈴谷がしたいことは、提督もしたい事なんだよ?」
提督の手が止まる。
「鈴谷の気持ち……分かる……? 鈴谷は分かるよ……提督の気持ち……」
今まで、他人の気持ちを決めつけてはいけないと思っていた。
だから、私は私が憎かったし、進めなかった。
でも、そうじゃない。
他人の気持ちを理解できないから、自分は他人の気持ちを創らなきゃいけない。
こう考えているだろう、こうしてほしいんだろうって。
それが想うこと。
愛すること。
「鈴谷……」
「提督……」
今まで触れたどれよりも、提督の気持ちが分かる気がした。
そっか。
ここは、一番、誰かを想う『言葉』が出てくる場所だもんね。
「今日は寒いね」
「そうだな。もっとこっちに寄り添え。温かいぞ」
「うん」
あれから、提督との距離が近くなった。
二人で見る景色は、いつもと違って、何もかもがキラキラして見えた。
「なんか、やっと恋人になったって感じだね」
「そうだな」
お互いの気持ちが、本当の意味で繋がった。
単なる言葉遊びじゃない。
想うって、愛するって、こういう事なんだ。
「ねえ、提督」
「ああ、分かってるよ」
「えー? 本当? じゃあ、なんて言おうとした?」
「甘いものが食べたい、だろ?」
「違うよ!」
「じゃあ、いらないか? 間宮さんのところでお汁粉食べようかと思ったんだが」
「う……いるけど……そうじゃなくて!」
「分かってるよ。俺もずっと、この景色をお前と見ていたいと思った。これからも、お互いを好きでいよう。愛している、鈴谷」
「……ばかじゃないの」
「間違ってないだろ?」
「……早く間宮さんの所いこう?」
「おう」
海から強い風が吹いた。
海水のしぶきが日に照らされて、キラキラと光って見えた。