瞳の奥に、木漏れ日の光が差し込むのがわかる。意識は次第に明確になり、自らの心が脈打つのを感じる。呼吸は肺を涼やかに満たし、服は暖かく身体を包む。そして手に握る感覚は命、柔らかな肉に、滑らかな肌、若き芽の臭いが男の鼻孔を擽る。決して、血に塗れる獣の臭いではなかった。
「こ、こは……。」
何故自分がここにいるのか、そして手の内に感じる命は何なのか、取り乱すよりも先に状況を確認しなければいけないという感情が男を突き動かす。目覚めを表わすようにチェーンの装飾がしゃらりと音を鳴らした。
「……参ったな。」
自分で握ったのが先か、それとも握られたのが先か、男に判断は付かないが、隣で寝息を立てている者の手が男の手を掴んで離さない。男の手が離れようとするのを感じたのか、むしろきゅっと力を込めて男の手を握る。その手は、怯える様に小刻みに揺れる。
「……はぁ。」
男は仕方なしに、立つことを諦め、依然として教壇に背を凭れたまま薄い木漏れ日のさす天井に目をやった。建物の外から聞こえる木々のさざめき、隣で寝息を立てる音以外にしない人の息遣いから推測して、かなり寂れた建物の中に居るのだと男は判断した。開いた手の方で、自分の座る辺を探る、するとこつんと、指先に革製物がふれる感触がする。男はそれを掴むと慣れた手つきで頭に被る。そして、確かめるようにして、自らの首元に指を這わせた。ざらざらと、皺の寄っている年老いた肌の感触がするかと思えば、それなりに若い肌の感触がする。何より、首一周に、斬り傷の後が一切ないことが、男を困惑させた。
ーーゲールマンめ、なにかしくじったか?だとしても何故、理性を保つことができる、俺は、既に飲まれる一歩手前まで来ていたというのに……。謎だ、全てが謎だ。横で寝ているこいつも、獣の臭いが一切しないこの世界も、俺の存在も全て。……はぁ、拉致があかない。起こすか。
「おい、おいっ。」
男の声に寝ているものがビクリと身体を揺らす。
「うぅん……ふあぁ……。」
幼い少女の声と共に、男の手を握る手とともに宙へとあげられる。両手を天へと伸ばして伸びをしているようだ。数度、目元あたりを擦り、シパシパする目で、辺を見回す、すると直ぐ横に、こちらの方を向き息をする男の姿が目に入る、次第に覚醒していく意識、男の手を掴む少女の手に、熱を帯びた汗が滲んでいくのが分かる、どうやら少女は、男の隣で警戒せずに眠ったことへの恐怖よりも先に、男の横で、しかも手を握り続けたまま眠ってしまったことへの羞恥のほうが優っているようだった。男は手を伝って、少女の鼓動と体温はぐっと上がるのを感じ、恥ずかしいなら今直ぐ手を離せばいいだろうにと思った。
「す、すすす、すいませんっ!」
数秒の硬直の後、それはもう払いのけるかのように少女は男の手を離して距離をとる。
「えと、あの、治療をしたあとに手を掴まれちゃいまして……それで無理矢理離して起こすのも身体に触るので……。」
後半に行くにつれて、花が水を得られず枯れるように、しおしおと語調は弱りしぼんでいく。
「……すまなかった、何分意識のない時にやったことだ、気にせずしてくれると有り難い。」
慌てふためく少女にくらべ、男のなんと冷静なことか、困惑が頭の中の大半を占めるくせして、思考は鈍らないようにできているのだから、すごいというべきか、鈍いというべきか。
「え、あ、はい、有難うございます。……あの、お体の調子は大丈夫でしょうか?」
少女はぺこりと反射で頭を下げた後に、見知らぬ男の身体を心配する、面白いことに、少女は男に対する恐れよりも、自らの処置が適切に済んだか、という方が重要らしかった。
「手当してくれたのなら感謝する、だがそんなことよりも聞きたい、ここは何処だ、ヤーナム市街ではないのか。」
「ヤーナム、ですか……?何処なんでしょうか……ここはイギリス郊外に打ち捨てられた廃協会ですよ?ご自分でここへ来たのではないのですか?」
なるほど困った、男は頭を抱える、ということはしないが、謎が増える事は余り歓迎したくはない。
「では医療教会に、血の医療、オドン聖堂……獣の病、これらの言葉に心当たりはあるか。」
「……すいません、ありません。」
またも増える謎に、男はため息をついた。随分と遠くの場所に、夢の使者たちが送ったのか、それを知ろうにも、ここらには夢へと誘う、使者の待つ洋灯の気配は無く、また、ゲールマンとあれだけの問答をやったのにもかかわらず、死にきれずにまた会いに行くなどしたくなかった。
ーーふむ……困ったな、しかしイギリスという国も聞いたことがない、遥遠方の地なのか?
「度々質問してすまないが、答えて欲しい。君の知っている国や、地域の名前を幾つか出して欲しい。」
「国名や地名ですか?でしたらイギリス、イタリア、フランス、ドイツ、スペイン、などでしょうか。」
「はぁ……なるほど。そうか……。」
「あの、どうかいたしました?」
「いや、なんでもない、有り難い。」
「いえ、お役に立てたのなら光栄です。」
少女は、男の目には映らないが、恐らくニッコリと笑っていることだろう、なにやら朗らかなオーラを感じる。
ーーだがしかし、ありえるのか?可能性なら幾つもある。例えば未来、過去、もしくは異世界、考えたくもないな。
男は数度ため息をつくと、立ち上がり少女を見下ろす。
「重ね重ね感謝する。俺はガスコインだ、紹介が遅れて申し訳ない。」
「えっ、いや、気にしていないですよ?私は、アーシア・アルジェントです。アーシアと読んでください。」
「そうか、ではアーシア、また縁があったら会おう。」
ガスコインはそう言って歩き出そうとする。行く宛はないが、ここにいても仕方がない、多少の食糧やら何やらも適当に工面できるだろうと、長年生きてきた経験からそう思っているのか、はたまた多かれ少なかれ、楽観的な考えきたのか、とにかく行動を起こそうとした。しかしそれを、何やら焦り気味にアーシアはそれを呼び止めた。
「あの、失礼かもしれないですけど、目が見えないのでは?」
「ああこれか?気にするな、見えはしないが、聞くことはできる。」
「聞く……?」
ガスコインは一つ、片足を振り上げ下ろす。ガスコインの蹴ったところを中心に、音の波紋が広がっては響き渡る。
「音は反射する。その反射の具合で物が何処にあるか分かる。少々身体が特殊でな。」
そういうガスコインは、目をぱちくりするアーシアに僅かな笑を送り、そのまま出口まで歩き出す。確かに、アーシアの目には一切の躊躇なく床に落ちる木片などを避けて歩くガスコインの姿が映った。アーシアが、すごい人も居るものですねぇ、と、感動やら驚きやらが混じった感情で教会を出ようとするガスコインを見つめていると、ぱっと、ガスコインが視界から消えた。同時にどさりと倒れこむ音がアーシアの耳に入る。何事かと、何度目になる驚きか、アーシアはガスコインが倒れた場所へと駆け寄った。そこにうずくまっているガスコインは、まるで獣のように声が歪に割れ、己の内から這いずり出てくる悪魔を抑えこんでいるかのようだった。ただひたすらに苦痛が体中に走る、そういう苦しみ方、尋常じゃなかった。
「だ、大丈夫ですか!?今助けます!」
アーシアは駆け寄って苦しむガスコインのそばに寄り、両手を翳す。直様光が両手から溢れ、ガスコインの体内へと染みこんでいく。ガスコインの内心は荒れていた。唐突にやってくる身体をバラバラにするような痛み、そう間を開けず同じ痛みが彼をまた襲ったのだ。
ーーぐぅっ……くそ、冗談じゃない、獣化が直ぐそこまでに来てるだとっ、絶対に襲ってなるものか、アーシアを襲うようなことは絶対にせんぞ……あぐ……。
そう思いなんとか抑えこもうと尽力すると、アーシアが駆け寄る音がする。いけない、這ってでも外に出ようとするが痛みが身体を縫い付ける。採取された虫がピンで止められたかのように、その一点から動くことが出来ないのだ。変質しようとする身体を、精神を保って、無理矢理に抑えこもうとする、だが、明らかにその症状は、ゲールマンと対峙した時と同様、末期であった。擦り切れていく意識の端に、唐突にぽっと、暖かな、いうなれば、命が芽吹く様な暖かさが生まれる。身体の中にその温もりが染みこんでいく。冷たい血が暖かくなっていくのを感じるのだ。するとどうだ、身体に走る苦痛が、緩々と、暖かさに溶けて消えていく、同時に、意識が明確に、確固たるものに戻っていった。
ーーアーシアが、治していると言うのか、獣を、獣の病を……!
身体全体に広がる暖かさは次第に痛みを上回って、癒やしを与える。そこまでになれば、ガスコインもうめき声をあげるのを止め、呼吸を一定に保ち、体勢を持ち直すまでになった。
「アーシア、君は、一体……。」
「……私も、少々特殊なんです。さ、じっとしていてください、痛みは引いたようですけど、念のため。」
獣の病を押さえ込める力を持ちアーシアに一種の戦慄に近い感情をガスコインは抱く。仮にこの娘が医療教会いたとしたら、それこそ聖女扱だ、とも考える。彼女にとっては何の事はない特殊能力なのだろうが、病を抱く者からしたら、地に額を擦りつけてでも縋りたい存在だろう。だが、有り余る癒しの力は、ガスコインの身体に、別の方向に悪い作用を齎した。音が、この廃教会を囲んでいた木々のさざめきが、埃立つ教会の臭いが、僅かながら頬を撫ぜる風が、分からなくなったのだ。
ーー……っ!まさか、そこまでだと言うのか。
「ア、アーシア、有難う、もう大丈夫だ、もういい。
」
力を忌諱して久しいが、いざ力がなくなるというのは都合が悪い、なんともままならないものだとガスコインの独り言ちる。
「本当に大丈夫ですか?もう、問題無いですか?」
「あゝ、あゝ、問題ない。」
「そうですか、よかったぁ。」
ほっとして胸を撫で下ろすアーシアに、完治する(完全に治るかは定かではないが)前に態と止めたと言ってしまえば恐らく、付き合いが浅くとも怒るだろうと、想像に難くない。
「うっ、おっとと……。」
試しに大分獣化が緩和された身体を動かしてみる。ガスコインの予想通り、身体が上手いように動かない。音やありとあらゆる感触に頼って身体を動かしたゆえに、それらが立たれた瞬間、糸を切り離された人形のように動きを失ってしまう。右と左の感覚がずれ、足や手にどうやって力を入れてきたかがちぐはくとしてしまう。いきなり立ち上がろうとし、よろけるガスコインに慌ててアーシアは支えてやり、まだ壊れていない長椅子に座らせた。
「はぁ、大丈夫だとは思ったが、うまくいかないものだ。」
「あれだけ苦しんでいたんです、当たり前ですよ。なにか持病をお持ちなのですか?」
「……いや、一寸な。しかし、まるで聖女だ、癒す力を持つとは……驚いた。」
獣の病について説く事は憚れた、何か別の話題にと、心のうちで思っていたことを言葉に出してみる。けれども聖女という言葉の答えは、酷く沈んだアーシアの声だった。
「私、聖女様じゃ、ないです……。」
はぁ、盛大に、心のなかでガスコインはため息をついた。選んだ言葉は、どうやらアーシアにとってタブーらしい。が、考えてみれば察せる範囲ではある、自分の事を少々特殊というこの少女は、何故、人を癒せる力を持っているのにこんな寂れた場所に一人でいる、そうか、忌み嫌われるのはどこでも同じか、ガスコインは胸がムカムカとする思いでその事実を捉える、力持つものは、無き者から嫌われる。
「とにかくだ、また、世話になった。感謝する、有難う。」
取り繕うように感謝を述べて、嘗て娘にしてやったようにアーシアを撫でてやる。力が衰えたゆえにその手は覚束なかったが、なんとかアーシアの頭を捉えることが出いた。
「……ふふ、どういたしまして。」
力なくであるが、笑ってくれた、ガスコインは安堵し、だが同時に心痛くも、聞かねばならない。
「アーシア、どうして君は一人でここにいる。」
え、とアーシアがガスコインを見る。時間がほんの少しだけ過ぎ、アーシアは観念したように言葉を漏らす。
「私、帰れないんです。……ガスコインさんは私の力、どう思います?怖いですか、気持ち悪いですか?」
「便利であるとも思う、だが、融通がきかないとも思う。」
「そうですか……。私は、この癒す力は主様から頂いた大切な力だと思っています。私はこの与えられた力で、救える人を救ってきました。そうすると、私は何時の間にか、聖女と呼ばれるようになったんです。私が救おうとした皆様全員、私に優しくしてくれました。私、孤児で教会にお世話になった身ですから、そういった優しさがとてもうれしくて、もっともっと主様のために祈って、頑張って、沢山の方を癒してあげようとしてきました。そんな日々を送ってきたあるとき、街の裏通りに傷だらけの男性が倒れていました。私は急いで、彼のもとにより、力を使って彼を癒やしました。傷は治って、彼は私に感謝の言葉を言ってくれて、そして何処かへ言ってしまわれました。私は、その男性が救えてよかったと思いながら教会に戻ったんです。でも、中には入れてはもらえませんでした。どうやら、私が助けた男性は、悪魔さんだったみたいです。でも、悪魔さんだって知ってたとしても、怪我してたら助けなきゃいけません、手を差し伸べなきゃいけません、そのための力ですから、だから、助けたことは後悔していないんです。ですが、私を見る、周りの人の目がガラリと変わっちゃいました。皆、私のことを魔女よ呼び始めました。膝を擦りむいた子供を直してあげようとすると、その子供の親が子供を抱えて逃げるんです。近寄るなっ、とか言いながら。終いには石を投げられたりしました。だから帰れないんです、私がいた教会には。それで一人で何処か眠れる場所を探してここに来ました。そしたらガスコインさん、貴方がいたんです。」
「……悪魔というのは、その名の通りの悪魔であっているのか?」
「あっそうですよね、いきなり悪魔って言われても信じられないですよね、でも、その名の通り悪魔であってますよ。」
「ふむ……そうか、なるほどなぁ。」
「信じ、られません、よね。」
おずおずとアーシアは上目遣いに聞く。目を覆い隠したままのガスコインには見えないが、不安だというのは分かる。
「悪魔を実際に見たことはないが、悪魔の様な奴らなら沢山知っている。君が助けた悪魔は、君にお礼を言った、だとするなら私の知っている獣共より数倍ましなのだろうな。」
「え?」
「俺は、正直言ってこの世界の事が何もわからない。それこそ信じてもらえるかわからないが、死んでいるはずなんだ。」
「死んで……いる?」
「そうだ、死んで、解放されるはずだった。が、今こうして生き、君と話している。だから、悪魔がいるといわれたなら、居るのかと頷くしかない。」
ぽかんとしているであろうアーシアに、自分の帽子を無理矢理深くかぶせると、ふらふらと、だがしっかりと自分の足でガスコインは立ち上がる。
「人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない。だが、艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず。例え、俺や、アーシア、君に試練が降りかかろうとも、それを乗り越えれば希望となる。何より、神は、乗り越えられぬ試練は与えんのだろう? 」
「ヨブ記にローマ書第五章、コリント人への手紙のお言葉まで……。ガスコイン様、貴方様は一体?」
「なあに、名ばかりの神父を名乗っていたんだ。……けれども、乗り越えられぬことはないとはいえ、試練は試練、一人ではどうしようもない時がある。だが、二人は一人に優る、俺もこの世界では新参者、どうにも心細い、どうだ、君の旅に俺を加えてはくれないか?アーシア。」
「……いいんですか、私、魔女ですよ。一緒にいたら、貴方様も嫌われるかもしれませんよ。」
「ふっ、嫌われるのはずっと前から慣れている事だ。私にも、私なりの事情があった。気にはすまいよ。」
ガスコインは徐に、自らの目を覆う布に手を書ける。
「しかし、光が見えるというのは、なかなか良いものだな、なあ、アーシア。」
「……はいっ!」
ガスコインの目には、少々の涙と、満面の笑みを浮かべている、小さな、可愛らしい少女の姿が映っていた。
いかがでしたでしょうか、ガスコイン神父の性格など、ゲーム内でも少々しか出てこないのでなんとも表現しにくいですが、楽しんでいただけたら幸いです