ラブライブ!~オタク女子と九人の女神の奮闘記~【完結】 作:鍵のすけ
「すーはーすーはー」
教室の扉の前で、思穂は深呼吸をしていた。この扉を開けば、片桐思穂にとっての“新世界”が幕を開ける。そして、弱かった自分との決別が始まる。
(大丈夫……大丈夫……。教室の皆が私を拒絶しても、穂乃果ちゃん達が受け入れてくれる)
昨日の夜、思穂は決断したのだ。殻に閉じこもっているだけでは駄目だった、全てに壁を作っても駄目だった、なら――次は。
扉に手を掛け、思穂は最後にもう一度深呼吸をする。緊張しているのか、妙に空気が鼻腔に引っかかる。覚悟は――決まった。
「おっはよぉー!!」
「し、思穂ちゃん……!?」
「思穂……?」
「思穂ちゃん……?」
朝の教室が静まり返った。そんなのは想定済みである。むしろ、いきなり受け入れられる方が怖い。穂乃果達ですら、固まっていた。
今まで無口かつ内気だった自分がこんなにテンション高く入ってくるなどありえない。自分自身も、クラスメイトも、どうしていいのか分からないのだろう。しかし、思穂はここで退かない。
「どうしたの皆? 今日朝ごはん食べてないの?」
特に意識させず、思穂は“自分はおかしくない、皆が変なのではないか”という空気を醸し出し、自分の席まで移動する。その所為もあるのか、未だチラチラ見られながらも、何とかいつも通りの教室の雰囲気に戻りつつある。
「おはよっ!」
「お、おはよ……」
そして思穂は隣に座っていたクラスメイトの方へ顔を向けた。そのクラスメイトはおっかなびっくりといった様子だったが、何とか挨拶を返してくれた。
手応えを感じつつ、思穂は早速本題を切り出す。
「いやー昨日は夜までアニメ三昧だったよ! 最近は魔法使い貸します! って感じのアニメがキテるね」
「え……」
クラスメイトは目を丸くした。その瞬間、思穂は失敗したかと焦りだす。そもそもアニメ好きでは無かったのか、そんなことを思っていたら、そのクラスメイトが言葉を返してくれた。
「……片桐さんも見てるの、それ?」
「え? あ、うん。全部見てるよ! 右目に妖精の眼ってカッコいいよね! 私、一時期眼帯しちゃってたよー!」
「そ……そうなの!? うんうん! 私も私も! 私的には猫好きの陰陽師とかすごく好みなんだよね!」
「普段は優しいのにいざとなればカッコいいの! ってのを地で行っているからズルいよね!」
そこからは打てば響く鐘のように。今までの鬱憤を晴らすかの如く、思穂はトークをし続けた。
「はぁ……はぁ……片桐さん結構濃いね」
「そっちも、思っていた以上でビックリしたよ!」
いつの間にかクラスメイトと思穂は笑顔でやり取りをしていた。会話も一区切りついたところで、クラスメイトは言った。
「私ね。ずっと片桐さんと話してみたかったんだ。あ、もちろんアニメ知っているか分からなかったから、ただ普通に話したかっただけなんだけどね」
「……実は私もなんだ。あ、ちなみにアニメ好きって噂は聞いていたから私はそういう話をしてみたかったんだけど」
いつも口数が少ないから誰とも話したくないのかな、とそうクラスメイトは言った。その一言で、思穂は今までの行動を振り返る。
思えば、誰とも喋らず、必要に応じて最低限の単語だけで済ませる。そんな自分へ一体誰が近づこうと思うのか。
「思穂ちゃん!」
「穂乃果ちゃん……」
改めて、思穂は幼馴染三人を“尊敬”した。振り返って、自己嫌悪したくなる自分を相手に、穂乃果達はいつも笑顔で接してきてくれた。
「一体どうしたの!? いきなり大変身しててビックリしちゃってたんだよ!」
「あれかな、心境の変化ってやつ!」
「思穂、その……どこか具合が悪い訳ではないんですよね?」
「もち! というか失礼な!」
ことりの方へ視線をやると、彼女は笑っていた。どうしてか尋ねてみると、ことりは笑顔のまま言う。
「だって思穂ちゃんとこうして話すの、何だか初めてのような気がして!」
たったこれだけで良かったのだ。気付けば、思穂は目頭が熱くなっていた。特別な事などいらない、ただ――笑顔で返せば良かったのだ。たったそれだけの事に気づくまで、自分は長い回り道をしていた。
「……今まで、ごめんね」
「えっ!? 何で思穂ちゃんが謝るの!?」
「私、何か勘違いしていたんだね。それが……恥ずかしくて」
穂乃果は首を横に振り、おもむろに右手を差し出した。
「思穂ちゃんは思穂ちゃんだよ。だからさ、今までも……そしてこれからもよろしくね、思穂ちゃん!」
伸ばされた手は“今まで”の自分の終着点に見えた。否、終わるのではない。思穂はゆっくりと、そして柔らかくその手を掴んだ。
「私、頑張って変わって見せるから、だから……よろしくね! 穂乃果ちゃん、海未ちゃん、ことりちゃん!」
終わりは次への始まりだ。今までの片桐思穂は終わったが、また新たに――始まったのだ。
◆ ◆ ◆
「――あの時、私は確かに変われた。そう、思ったんだけどなぁ」
いつの間にか思穂は眠ってしまっていた。見ていた夢は中学時代の頃の変わったはずの自分。時計を見ると、まだ三十分しか経っていない。
半日寝たかのようなえらく濃密な睡眠であった。
「さて、と。どうしようかなぁこれから」
マネージャーもどきも、文化研究部も、全て終わりにした思穂はこれからのことについて思案を始める。ゲームをやり、アニメを鑑賞し、漫画とラノベを読み漁る。答えはもう出ているはずなのに、思穂は未だにそれを選べずにいた。
何故だ、自問自答を繰り返す。誰も答えてくれる人はいない。いるのは製作者の魂がこもった無機物たちのみ。
「――思穂ちゃ~ん!!」
まだ、いた――。外から聞き慣れた穂乃果の声がした。用件は分かっている。故に、それに反応する気は無い。
既に自分は決別した身だ。今更どの面を下げて会えば良いのか。のうのうと穂乃果と顔を合わせるなどという破廉恥な真似は死んでもごめんだ。
「穂乃果ちゃん、鍵が掛かっているよ。いないんじゃ……」
「凛ちゃん、そこに掛かっているポストの下見てみて!」
「あったー! すごーい穂乃果ちゃん!」
「ていうか、不用心すぎでしょ」
花陽に、そして凛。おまけに真姫の声まで聞こえてきた。不用心などでは無い毎日、鍵の隠し場所は変えている。一発で当てた穂乃果がすごいのだ。
「思穂ちゃんの家、初めて来るなぁ。あれ、にこっちどうしたん?」
「思ったよりデカくて驚いただけよ文句ある!」
「はいはい。時間が惜しいわ。思穂ーいるなら、お邪魔させてもらうわねー!」
居なかったらどうしたのだろう。ことりと海未の声がしないが、恐らくはいるのだろう。思穂は頭を抱える。
「止めてよ……来ないでよ……」
扉が開かれ、ドタドタと階段を上がってくる音が聞こえてくる。近づいてくる。今ならまだ、二階から飛び降りれば逃げられる。だが、思穂はそうしなかった。
「思穂ちゃん! 私だよ、穂乃果だよ! お願い、ここを開けて!」
「……なーんで、来ちゃったのかな」
扉一枚隔てて、穂乃果と向き合うように立つ思穂。扉は固く閉ざしていた。精神的にでは無く、物理的に。
元々、両親が勝手に部屋に入り込まない様に自作の電子鍵を施していたのだ。パスワードは六桁。外に備え付けられたテンキーで打ち込まなければ絶対開かないようになっている。扉自体も、物理破壊対策の為、中に鉄板を仕込んだ特別製だ。
「穂乃果ちゃんや。私、もうアイドル研究部を退部した身だよ? 退部した奴に構うより、早く練習に行った方が良いよ」
「……思穂ちゃん私、思穂ちゃんの事を何も分かっていなかった」
「ううん、分かっていなかったのは私の方だよ。自分の身の程を理解していなかった私の……完璧なミス」
扉で隔たれているお蔭で誰の表情も見えない。今の自分がどんな顔をしているのか――知りたくもない。思穂は言葉を続ける。
「今回の件……。学園祭のライブや、ことりちゃんの留学騒動がここまで拗れたのも私が余計な事をしたからだよ」
「それは思穂ちゃんのせいじゃ――」
「私のせいだよ。私が穂乃果ちゃんを焚き付けるようなことを言ってしまったのがそもそもの原因。それに、ことりちゃんのエアメールの事知っていたし」
扉の向こうから息を呑む音が僅かに聞こえた。
「私が前に出ようとすると、全てが拗れてしまうんだよ。それを忘れてしまっていたのが今回の原因。だから穂乃果ちゃんに一時的とはいえ、スクールアイドルを辞めさせてしまったのは私なんだ」
「文化研究部も、そうだったのですか?」
海未の声が聞こえてきた。思穂はもう隠す必要はないと感じていた、むしろ聞いて、距離を離してもらおうとさえ考えていた。
「そうだよ。文化研究部は私の所為で潰れたんだよ。私が皆の事をちゃんと見ていなかったから去って行った」
「そんなこと――」
「あるんだよ!! 想像出来る? 皆の事を思って私が何でも手を出し過ぎた結果……皆が申し訳なさそうに去って行った瞬間を。想像出来る? “自分は信用されていないんじゃないか”そう言った時の部員の顔が……!」
片桐思穂とは何でもこなせ、そして人を思いやり過ぎるのだ。
「……当時の私は自惚れていたんだよ。面倒な所は全部私が引き受ければ皆の負担が減る、皆には限りなく簡単な作業をしてもらえば楽しくやっていける。そう思っていたんだよ」
更に思穂は続ける。皆はただ黙って思穂の話を聞いていた。
「全然気づけなかった……。皆、力を合わせて、私と一緒に、文化研究部全体で、物事に取り組みたかったんだって……。真正面から言われて初めて気づいた。酷い、傲慢だったんだよ私は。何も言えなかった、皆から口を揃えて“信用されていないんじゃないか”と言われた時に、心の底から言い返せなかったことが私は……絶望した」
部員たちの言葉はそのまま片桐思穂の真理を突いていたのだ。なまじ自分で何でも出来るが故に、一人“でも”何とか出来ると心のどこかで思っていたからこそ、思穂は言い返せなかった。
――他人を、心の底から信用できていなかったのだ。
「そんな最低な奴なんだよ私は。だから私は、皆と一緒にいる資格はない。さっさといなくなった方が良いんだよ」
「……思穂、そこを開けなさい」
扉の向こうからにこの声がした。この場では、彼女こそが一番の理解者である。
「にこちゃんか。にこちゃんが一番分かってくれるでしょ? だから、皆を説得して早く帰って」
「……希、何か適当に打ち込みなさい」
「ええの? ウチ、パスワードなんて知らないよ?」
「いーから」
カチカチと打ち込み音が聞こえてきた。思穂はそれが無駄な事だと知っていた。そもそも六桁だということを知らないし、適当に打ち込んで開けられるモノじゃない。やってもらって、諦めて帰ってもらおう。
そんな思穂の思惑は、ガチャリと言う音と共に崩れ去った。
「……は?」
ドアノブが回り、扉が開かれた。
「の……希ちゃん、無茶苦茶過ぎるよ……!」
思穂の声に絶望の色が滲み出ていた。適当に、しかも一発でパスワードを当てるとは最早、異常を越えている。
一番に部屋に入って来たのは、穂乃果ではなく、にこだった。真顔で入って来たので、まるで感情が読み取れない。
「にこちゃん……」
「……思穂、あんた」
瞬間、にこに胸倉を掴まれた。
「――ばっっっっっっかじゃないの!?」
「……へ?」
途端、にこが今まで溜めていたものを吐き出し始める。
「あんた、さっき自惚れていたって言ってたわよね? それは言い間違えているわ、今“も”よ!」
「今も……?」
「そうよ! あんた一体何様のつもりよ!? 話を聞いていて納得したわ……あんた、思い上がるのもいい加減にしなさいよ!」
「にこ、言い過ぎ――」
絵里の制止の声をにこが上から被せる。
「絵里は黙ってなさい。思穂、要は自分が何でもしようと思ったらまた同じ事になってしまうかもしれないそれが怖くてアイドル研究部を去ろうとしているってことでしょ?」
「そ、そうだよ! 私が出しゃばるからアイドル研究部にはトラブルが発生するんだよ! だから――」
「それが思い上がりって言ってんのよ! あんた如きが、アイドルの世界を知り尽くしたような事を言ってんじゃないわよ!」
思穂の胸倉から手を離し、一呼吸置くと、にこは言葉を続ける。他のメンバーはただ二人の成り行きを見守っていた。
「正直、悔しいけどあんたの事はすごいと思っているわ。確かに何でも出来るのは事実だしね。だけど――それだけよ。それだけでこのアイドルの世界はあんたの想像通りにはいかないわ」
にこの口から飛び出る言葉全てが思穂を貫いていく。“何か”にヒビが入りつつあるような、そんな感覚だ。
「良い? アイドルグループってのは個性がぶつかりあって、調和しようとしているからこそ輝くのよ。このμ'sだってそう。……例えば、真姫はいつもツンケンしてるけど歌方面の能力はトップクラスだし、花陽はオドオドしているけどアイドルの知識はこの私に付いてこれる程、凛はいつもにこを苛立たせるけどダンスの実力は折り紙つきだわ」
花陽、凛そして真姫が部屋に入ってきた。
「思穂ちゃん」
「花陽ちゃん……」
「私、まだ思穂ちゃんとアイドルの事を話せてないから……! 思穂ちゃんにはまだ、止めて欲しくない……!」
花陽の真っ直ぐな視線が突き刺さる。
「凛は思穂ちゃんと遊んだことがないから、遊びたいんだにゃー!」
「凛ちゃん……」
ニパッと凛は笑顔を浮かべる。
「思穂」
「真姫ちゃん?」
「貴方にはまだその……そうピアノ! ずっと前に聴かせたのが私の全てだと思われたら困るからその、また聴かせなきゃいけないんだから勝手にいなくなるんじゃないわよ!」
どこまでも素直じゃない真姫の言葉。
「絵里はスタイル良すぎてムカつくけど、生徒会長の経験が活きてちゃんと全体を見ているし、希はいつも私にちょっかい出してきていつかぶん殴ってやろうと思っているけど、アイドルに必要な能力がバランス良く備わっている」
次に入って来たのは、絵里と希だった。
「思穂、貴方には責任があるのよ?」
「絵里ちゃん?」
「この私をアイドル研究部に焚き付けた責任が、ね? だから私よりも先に辞めるなんて認められないわ」
そう言って絵里が片目だけでウィンクをする。
「思穂ちゃん」
「希ちゃん……」
「カードは今でもウチに言っているんよ。μ'sは思穂ちゃんがいて、更に輝くって。だから、居なくなったらあかんよ」
希がカードを見せながら、言った。そのカードの柄は逆さまの『死神』。その意味は死と再生。それが意味する所とはつまり……。
「そして私は、スーパーアイドルだから今更何もいう事はないわ。そんなスーパーアイドルに釣り合うマネージャーは思穂、あんたしかいないわ」
「にこちゃん……」
そして、にこは穂乃果達の方へ顔を向ける。
「そして! 穂乃果は馬鹿みたいに突っ走るけどその行動力は誰もが認める所だし、海未は鬼のように練習厳しいけど良い歌詞を書く。ことりはポワポワしているけど素晴らしい衣装をいつも作ってくれるわ」
最後に、穂乃果そして海未とことりが部屋に入ってきた。
「思穂」
「海未ちゃん……」
「私は思穂が羨ましいです、いいえ中学三年の時からずっと羨ましかった。思穂はあの時、確かに変われたんです。そんな思穂を、私はこれからも見続けていきたい。私も、もう少し変われるような気がするから……」
海未がそう言って思穂の右手を握る。
「思穂ちゃんは最低なんかじゃないよ?」
「ことりちゃん……」
「思穂ちゃんは昔も、今も、素敵な人だよっ。そんな素敵な自分を責めないで? 私はそんな思穂ちゃんが大好きだから」
思穂の左手を、ことりが握った。繋がれた両手。“温もり”が二人の手を通して、思穂に伝わってくる。
――揺らぐ、ヒビが入る。
「思穂ちゃん」
「穂乃果ちゃん……」
穂乃果が思穂の目の前に立つ。
「私、思穂ちゃんの事を全然知らなかったんだね……。思穂ちゃんが昔も、今も苦しんでいたことも、どっちも分からなかった」
「それが私の罰なんだよ。一人で何でもやろうとした私のね」
瞬間、穂乃果が思穂の両肩を掴んだ。
「違う! 思穂ちゃんはどこまでも優しいままの思穂ちゃんだよ!」
「違う、違う違う違う……! 私はそんな奴じゃあない!」
「私ね、思穂ちゃんにお願いがあるんだ」
「おね……がい?」
浮かべた笑顔は、片桐思穂と言う名の“殻”に亀裂を入れ始め、やがて完全にヒビが回る。
「私と――友達になってくれないかな? 今度こそ、本当の。それでさ、これから分かり合っていけば良いんだよ!」
その言葉を――思穂は、どれだけ待ち望んでいたのか。
「私、今更……もう、友達になる資格なんて……」
「友達に遅いも早いも無いよ! 私は思穂ちゃんと一緒にいたい! もっと思穂ちゃんの事を知りたい! だから思穂ちゃん、文化研究部を、μ'sを辞めないで!!」
「何で……何で、そんな事を言うの……? そんな事言われたら私……! もう決めたのに、決めたのに……!」
割れる――殻が割れる。
「思穂、あんたは何でも出来るんだろうけど、私に言わせれば何にも出来ないわ。馬鹿で、人をおちょくるのが好きで、不謹慎で、二次元オタの、何にも出来ない奴なのよ。だから、少しは私達を頼りなさい。私達は――私達だからこそμ'sなのよ」
にこの言葉が、完全に思穂を殻を破壊する。思穂の視界はとっくの昔に、涙で滲み、もう誰の顔も見えない。
「私……っ! 私……もう、嫌だった……! 私のせいで、皆を傷つけるのがもう……!!」
思穂は求めていたのかもしれない。自分はただの人間で、ちょっと要領が良いだけの、一人では何にも出来ない、ただの不器用すぎる人間だったと、そう言われるのを。
「……私、良いの? 居ても、良いの? 私、皆と居る資格が……あるの?」
ふわりと穂乃果が思穂の背中に手を回し、耳に顔を近づける。ポソリと囁かれた一言で、答えは――十二分過ぎた。
「う、わた……しぃ……! あり、がと……ありがとぉ……!! 私、嬉しい……嬉しいよぉ……!!」
そこからの思穂は今まで溜めていたものを全て洗い流すかのように、泣き続けた。声を上げ、恥も外聞もなく、ただ無心で泣き続けていた。
そうして気づけば、憑いていたモノがいつの間にか消え失せていた。涙も枯れ果て、ようやく落ち着きを見せ始めた頃、思穂は一つ大事な事を思いだした。
「でも、私……もう届を出しているはずじゃ」
「それってもしかしてこの事?」
そう言って希が取り出したのは、提出したはずの退部届と廃部届の二枚だった。すると、希がそれに指を掛ける。
「あー手が滑ってもうたー」
あからさまな棒読みで、希がその二枚を縦に破ってしまった。それを見届けた絵里が、目を瞑りながら、さも申し訳なさそうに言う。
「最近、μ'sの活動が忙しすぎて生徒会の活動が疎かになっていたわ。ごめんなさいね、思穂。まだその届出は――受理されていないわ」
へたりと、思穂は床に座り込んだ。完全に出し抜かれたと、自分はまだまだ未熟者だということを思い知らされた。
破られた二枚の届は、今までの自分との決別の瞬間にも見えた。今度こそ、本当の意味での決別を。
「あは、は……何、それ……。職務怠慢過ぎでしょ生徒会……」
笑った。心の底から、笑った。氷が溶けていくような感覚だった。身体が何だか軽い。
今の自分なら、何でも出来るような、そんな気がした。
「あーあ……ほんっと、私の周りは――お節介ばかりだ!」
心を安定させるため、一度深呼吸をした。そして、表情を引き締める。
「皆、ちょっと電話させてもらっても良い?」
そう言って、皆を一度部屋から出し、思穂はスマートフォンを取り出した。
「あ、もしもし――」
時間にしてきっかり十分。思穂は皆を再び部屋に入れ、走り書きをしたメモ用紙を見せた。『商店街のイベント』、『隣町の小学校への訪問』、『市の催しへの参加』などなど。
そこに並べられていたのは全て、μ'sの為のモノ。
「し、思穂ちゃん、これは何……?」
「ん? μ'sの知名度上昇になりそうな仕事だよ? どれやる? あとはこっちが返事するだけだよ!」
「へ、へっ!?」
穂乃果だけでは無く、皆が目を丸くしていた。そのどれもが、たった十分程度で纏められるような規模のモノでは無かったからだ。
「ど、どうしてこんなに……?」
「うん? だってそんなの決まってるよ! 私はμ'sの“マネージャー”だよ! μ'sの為に今日もえーんやこら! ――そうでしょ?」
もう迷いはない。そう、これは自分の為なのだ。自分が大好きなμ'sの、穂乃果達の笑顔が見たいからこそ、自分は能力の全てをフルに使うことにした。これから、更に。
「そう言えば、ずっと自己紹介をしていなかったんだよね。花陽ちゃんとかちゃんと自己紹介していたし」
今更過ぎる、なんて言わせない。思えば、部に入るための儀式をしていなかったことを思い出し、そして今こそそのタイミングだと、思穂は感じていた。
「――私は片桐思穂。趣味は二次元と名の付くもの全てとにこちゃんを弄ること。ついさっき、“もどき”は卒業しました。これからは――μ'sのマネージャーとして頑張ります! だから、これからもよろしくお願いしまっす!!」
――私達には思穂ちゃんが必要なんだよ。
そう、穂乃果は言ってくれたから。皆と向き合って、皆が自分の勘違いを否定してくれて、穂乃果が必要だと言ってくれたから、自分はもう自分で歩き出せる。
「よぅし皆、私を本気にさせたんだ。もう休んでいる暇なんてないんだからね!!」
思穂は完敗で始まった講堂のライブを思い出していた。夢が始まり、夢に到達し、そして夢がまた始まる。そんな歌のフレーズを思い出し、思穂はその歌を自分の胸に響かせる。
これは片桐思穂にとっての“終わり”であり、新たな“始まり”の為の長い長いプロローグであった。
(……さよなら、今までの私。今までありがとう。これからは有りのままの自分で歩いていくよ!)
そして、片桐思穂の新たなストーリーが今、幕を開けたのだ――。