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「ねえ、春秋くん」
誰だろう。紬でも、家族と思えたあの女性でもない。微笑みながら、俺を見る、女性。
不意に過ぎる、頭痛が、彼女の名前を、教えてくれる。
「……ひいらぎ、こまち」
「はいはーい。貴方のおかーさんですよー」
微笑みから、満面の笑みへ。表情豊かな女性だな、と感じる。だがそれだけで、彼女が「母」だということはわからない。
母であるとは、わかる。でも、母ではない、と思っている。
暗い世界で、笑顔の女性―――小町は春秋に手を伸ばす。
この世界は、苦しい。寂しい。冷たい世界。
救いを求めるように、差し伸べられた手を掴もうとする。だが、その手は空を切り幻想の女性は悲しそうに目を閉じる。
どうして、と零す。
だめだよ、と返ってくる。
君はまだこっちに来てはいけないと。
彼女の隣に、中肉中背の男性が姿を現す。
女性の名を呼び、女性が答えるよりも早く、春秋はその男性の名前を思い出す。
「かとう、しげはる」
「おう。相変わらずつまんなそーな顔してるな、春秋」
二人が並んで、なんとなく、わかる。
この二人はきっと、『親になってくれようとした』人たち。
そして、多分。
この二人は、もう。
いいんだ、と男性―――重治が笑う。
いいのよ、と女性―――小町が微笑む。
これは不安定な春秋の心が生み出した欠片の幻影。
だからこれは、春秋は覚えていられない幻想。
自らを守るために、過去の、一番最初に『ヒト』になれた恩人の想い出を。
忘れてしまう。嫌だ。
覚えていたい。無理だ。
真紅の髪の少女が、春秋の前に現れた。その女性を見た瞬間、動悸は激しくなり、荒い呼吸が過呼吸を引き起こし、春秋は思わず倒れてしまう。
不意に、溢れてくる涙。そして、胸のうちに溢れる感情。
愛しいと、守ると、そして、ずっとずっと自分を支えてくれると、言葉を交わさなくても、少女の全てを理解できる。
多分、きっと、この少女は。
でも、少女は嬉しそうに閉じた唇に差し指を当て、静止を促してくる。
「まだですよ。春秋さん」
待ってくれ。もう少し。いたいんだ。この、安らかな場所に。
「ダメですよ、春秋さん」
少女は嬉しそうに、でも、寂しそうに。
「貴方は、貴方であるべきです。私に囚われては、いけません」
ようやく立ち上がった春秋の視界を、花びらが覆っていく。
待って。待ってくれと。男性と女性と、そして少女。
彼らがいれば、四ノ月春秋は欠片を捜し求める必要がないと、直感的に理解できた。
だからか、少女は春秋を拒み続ける。
後ろから、手を引かれる。
声も何も聞こえない、幻想だとわかった。でも、そこには。
紬がいた。心配そうな表情で、春秋の手をしっかりと繋ぎ止めた。
少女と春秋の間に割って入るように、瑠璃色の女性が両手を広げて春秋の進路を塞いだ。行ってはいけないと、無言で。
そして、空いていたもう片方の手に。
小さな少女が、掴まっていた。泣きながら、泣きながら。見覚えのない少女。目の前の少女にそっくりな、赤い髪が一際目立つ、小さな小さな少女。
遠くに行ってしまった人たちの、声が聞こえる。
「いい、春秋くん。貴方の信じた道を進みなさい。それがどんな選択であれ、私は貴方の道を否定しないわ」
「いいか、春秋。辛いときも苦しい時も、どんな時もとにかく笑え。そしてお前の傍にいてくれる人たちに感謝して、笑え」
「春秋さん。貴方は貴方でいてください。そして、貴方が選んだ未来に向かって、歩いてください」
その言葉が聞こえて。
俺は、紬を抱きしめて。女性に、手を伸ばして。
小さな少女を、抱きかかえて。
「行ってきます」
………
……
…
意識を失ったまま倒れている少年―――四ノ月春秋をしきりに気にして、彼の頬をその場に散らばっていた木の枝で突いている高校生くらいの少年と、弟のような子供が二人、いた。
「う……」
「お、生きてるぞ」
「こ、こは……」
目の前に、三つの顔。六つの目。自分と同じくらいの少年と、小さな子供二人組み。
そして、満開の桜の木。力の入らない身体を強引に起こして、ふらつく頭に手を当てる。
不思議な夢を見てた。それだけは、わかる。
自分の名前と、自分のことと、大切な人と、自分の旅のことは忘れていない。忘れてたまるものか。
立ち上がり、話のわかりそうな少年に、声をかける。
「ここは、どこだ」
周りを見渡して、見覚えのない風景に首を傾げながら、検討をつけて。
「ああ、此処は鈴が丘ってとこだけど―――」
『物語の世界』に来ていることを、自覚した。
「鈴が丘、か。成る程な……」
あの時、開いた門。きっとその先がこの世界。
ならば、この世界に心の欠片があるということだ。
「助かった。俺は四ノ月春秋。わけ合って旅を続けてる」
「旅か! 俺と同じくらいなのにお前すげーな! つーか羨ましいなおい!」
「……俺は花咲遊真。で隣にいるのが―――」
「あ、芥川翔太、です」
子供二人のほうが先に自己紹介を済ませてしまい、少年は笑いながら、大声で、愉快そうに、また笑って。
「俺は不知火飛鳥ってんだ。こんなところで出会ったのも何かの縁だ。よろしくな、春秋っ」
「……ああ、よろしくな。飛鳥」
不思議と、春秋は飛鳥と心底仲良くなれそうな気がした。