“イレギュラー”
種類を問わず、巣であるタルタロスの外に出て人を襲うシャドウの総称。
出現頻度は低いものの、街中に現れるという点から通常のシャドウよりも危険度は高いとされる。しかしながら広大な街中から数匹、それも数日から数週間に一度不定期に現れるイレギュラーの発見は困難で、遭遇する事はさらに少ない。それでも長く影時間に関わっている私は何度も遭遇したことがある。
しかし、今日のイレギュラーはこれまでと一風変わっていた。
「……ンナアァ゛ア゛ッ!? ガァッ、ゲッハ」
被害者の命に別状がない事を確認したところでイレギュラーが吼えた。ダメージを受けたからか、相対していた明彦へ荒々しく腕を振り回す様子は明確な怒りを伝えてくる。
「くっ!?」
イレギュラーの拳が明彦の胴体を捉え、明彦がイレギュラーから距離をとる。
「明彦!」
「ガードした! それより見てみろ!」
「なっ!? 変身、だと?」
イレギュラーは明彦を睨みつけ、体のいたる所を蠢かせたかと思えば瞬く間に風貌が変化していく。一回り大きくなった体格には筋肉のような盛り上がりが顕著に見られ、両の手足から伸びた爪はアスファルトを傷つけ、全体的な印象が“人型”から“二足歩行する獣”へ近づいていた。
イレギュラーもシャドウであり、シャドウの姿は種類によって千差万別。人型のシャドウも知識にはあるが、この個体はそのどれとも違う。つまり弱点や戦い方などの事前情報が無い未知のシャドウ……姿といい能力といい、どこまでもイレギュラーな奴だ。
「ペンテシレア!」
ペンテシレアを呼び出して携帯型の補助装置を起動。イレギュラーの分析を試みる。
「明彦、時間を稼いでくれ。何をしてくるか分からない。気を引き締めろ」
「分かってるさ」
相手の変化には明彦も警戒を見せているが、同時にそれが楽しみだとでも言いたげだ。明彦の悪癖が出てきている。向上心があるのはいいが……っ!
「来るぞ!」
「シャアッ!」
「ちっ! ……ハァッ!」
速い!
前傾姿勢から向かってくるタイミングは掴めたが、その後の急加速が尋常ではない。凌いだものの瞬時に明彦との距離が消え、影時間の路地に響く断続的に互いを殴打する音が殴り合いの激しさを物語る。
明彦は鍛えたボクシングの技術で対峙しているが、対するイレギュラーはなんとも表現しがたい。格闘技で戦っているようにも見えるが、距離の詰め方や動きがやはり獣じみている。
「シィッ!」
飛びかかるイレギュラーを明彦が左に避け、開いた側面の隙を付いて殴りかかれば、イレギュラーは反転。攻撃を避けながら大きく振られたイレギュラーの右裏拳が明彦の目前を通過し、明彦がイレギュラーの懐に潜り込もうとする。しかし、それは下から掬うように振り上げられた左手の爪が阻む。
「ちっ!」
血の玉が浮かぶ頬を拭い、明彦はガードを固める。両者共に
「明彦離れろ! もっと距離を取れ!」
「そうさせてはくれないらしいっ! こいつインファイターだ!」
「嬉しそうに言っている場合か!? お前は今、苦戦しているんだろう!」
明彦が強いのは分かっている。そして信頼もしている。通常のシャドウは一人で倒し、ボクシングにしても相手に困るほど。決して弱いわけではないが、それは本来の戦い方ができていればの話だ。
明彦は足を使い相手と距離を取って戦う“アウトボクサー”。ヒット&アウェイなど相手の間合いの外から踏み込んで攻撃し、反撃される前に引くスタイルを基本として拳を用いた戦闘の合間に召喚器を使いペルソナを呼び出す。
しかし今はイレギュラーに詰め寄られ、離れようにも離れられない。明彦のフットワークがイレギュラーの速度で潰されているため、常に至近距離での殴り合いを強いられている。あの状態ではペルソナを召喚する暇がない。
私が援護をすべきところだが、今は被害者のそばを離れられない。魔法では援護しようにもイレギュラーと明彦の距離が近すぎる。今撃てばイレギュラーだけでなく至近距離で戦い続ける明彦も巻き込んでしまう。
おまけに私のペルソナは本来戦闘向き。他に役目をはたせる者がいないためサポートに回っているが、お世辞にも分析能力が高いとは言えない私に力を割く余裕はない。戦闘への参加は分析の中断を意味する。
今の私に出来る事は考察と多少の助言がせいぜい……せめてもう一人、この場に荒垣が居てくれれば……違う。今すべきは少しでも早く分析を済ませる事。そうすれば効果的な対応を考える事も、私が参戦する事もできる。
もどかしさと無意味な考えを振り払い、イレギュラーの観察に集中して僅かながら時間の短縮を図る。
「……もう少し耐えてくれ!」
「応! こっちも、目が慣れてきたところ、だっ!」
「シィイッ!」
明彦が戦いのペースを掴み始めたようだ。攻撃直後の隙を突いて左と右、ワンツーを打つと、左がイレギュラーの仮面に当たった。しかし右は防がれ、イレギュラーはさらに距離を詰める。
これまでの行動を見る限り、イレギュラーは攻撃を受けても絶対に退こうとしないな。明彦が攻めればイレギュラーは攻め返し、明彦が下がればイレギュラーは距離を詰めて攻める。明彦に執着しているのか? それにしても、一度くらい距離をおいて魔法を撃ってきてもいいはずだ。
確認の取れているシャドウの中で最弱と言われる臆病のマーヤでも氷の攻撃魔法を使う。イレギュラーは魔法が使えないのか、それとも使わないのか? 使わないとしたら何故使わない?
思考と分析を続けていると、戦況に変化が訪れる。
「どうした! 動きが悪くなったぞ!」
「…………」
「……ふっ!」
「!」
イレギュラーの手数がだんだんと減り、明彦がイレギュラーを押し返し始めていた。さらに若干鈍くなった動きを好機と見た明彦が渾身の一撃をイレギュラーに見舞う。すると交差させた腕で一瞬だけイレギュラーの動きが止まり、生まれた隙に明彦が距離を取る。だが、やはりイレギュラーはそれを許そうとしない。
「! ガアァッ!!」
明彦に食らいつきそうな勢いで駆けたイレギュラーの攻撃が、召喚器に伸びた明彦の腕に当たり、乾いた音が響き渡る。
「ちっ!? もう少し弱らせないとダメか……」
今の動き……偶然か? たまたま攻撃がそちらを向いたか、見間違いか……私の目が正しければ、イレギュラーは初めから
気になる。これまで見たシャドウはいずれも本能のままに行動しているような個体ばかり。狙ったとしたらそれは何故か。それはペルソナを召喚させないため。意味があるとすれば他には考えられない。
……明彦の先制攻撃で一度、私がペンテシレアを召喚して一度。イレギュラーは二度、召喚器によるペルソナ召喚を目にしている。まさか、この短時間で学習したのか?
“学習”
それは既知のシャドウには無い行動。そして目の前のシャドウが相手の行動とその意味を理解する理解力、対策を考える思考力と判断力、行動に反映させる実行力を持っている可能性の示唆。その結論に至った私は、背筋に冷たいものを感じる。
「ォオオッ!」
明彦の攻撃をしのぎ続けるイレギュラーが吼え、右拳を大きく振り上げる姿はまるで追い詰められて自棄になって殴りかかろうとするように動く。隙が大きく格好の餌食だと目を輝かせた明彦が前に出ていく。
その時、私はペンテシレアを通して魔法の予兆を感知した。
がむしゃらに見える動きの裏で、イレギュラーは虎視眈々と魔法を使おうとしている!
「罠だっ!!」
私が反射的に叫んだ次の瞬間、イレギュラーから凍えるほどに冷たい風が吹きぬけた。
「ぐあっ!?」
「ペンテシレア!!」
凍えそうな冷気が漂う中で、急ぎ回復魔法を明彦に。分析も中断。
「ッ!」
何よりもまず明彦の無事を確保すべくイレギュラーに突撃すると、イレギュラーは明彦の腰のホルスターから召喚器を素早く弾き飛ばし、背筋を大きくそらす事で私のレイピアを避けた。さらには上体をひねり側転や後方への宙返りを数度交えて瞬時に距離をあける。
私は追撃に備えてレイピアを構える。
だが、次のイレギュラーの行動はまたしても私の予想から外れた。
明彦と戦っていたように襲い掛かってくると思えば、イレギュラーは急に背を向け一目散に走りだす……
「なっ!? 逃げる気か!?」
明彦が走り去るイレギュラーへ怒鳴りかけるが、イレギュラーは既に路地を曲がったところだ。
「………………どうやら、もうこの近辺には居ないようだ」
この状況では追うに追えず、ペンテシレアで索敵するが反応がない。捉えられないのは本当に走り去ったのか、それとも……何はともあれ体勢を立て直す事が先決か。
「明彦、大丈夫か?」
逃げるイレギュラーに怒鳴る余裕はあったようだが、明彦は回避が間に合わずに右足から腰までがところどころ凍りついている。使われたのは臆病のマーヤやペンテシレアも使うブフと見て間違いない。
「ああ……ただ冷たいだけだ」
「……待っていろ、救助を呼ぶ。被害者も病院に搬送しなければならないからな」
苦痛を隠す明彦の反論を封じ、通信機で寮に連絡を入れると一度のコールで繋がる。
『こちら幾月。桐条君かい?』
「お疲れ様です、理事長。早速ですが、救急車を二台、手配していただけますか?」
『二台……!? 分かった、すぐにもう一台手配する。場所は最後の連絡で言っていた路地裏でいいのかい? それと傷の具合は? 怪我人が二人で君が連絡してきたという事は、怪我人は被害者と真田君か』
「場所は件の路地裏。いまのところ、二人とも命に別状はありません。しかし被害者は多数の傷を負っています。明彦は攻撃魔法のブフを受け、足が強く痛むようです」
『了解。経緯はまた後で聞くとして、今は安全なのかい?』
「はい、交戦していたイレギュラーは逃走した模様」
『分かった。真田君には無理に足を動かさず、できるだけ患部を温めておくように伝えてくれ。せめてそれ以上冷やさないように。凍傷になっている可能性がある。救助が行くまで注意を怠らないようにしてくれ』
その言葉を最後に、通信が切断された。
「美鶴、幾月さんはなんと?」
「この場で待機だ。明彦は足をなるべく動かさず、それ以上冷やすなと。」
「そうか……」
被害者から近い路地に体を預けた明彦が言葉に悔しさと怒りを滲ませ、睨みつけた右足に上着を巻く。
「……悔しそうだな」
「当たり前だっ! 一般人をボロ雑巾のように痛めつける奴にやられたんだ、悔しいに決まってる」
そう言いながらも明彦の目はイレギュラーを探すようにあたりを見回している。
「今日の結果は、油断も一因だと思うが」
「っ!」
私の言葉に明彦は言葉につまる。自覚はあるようだ。ならこれで少しは悪癖が治るといいが……
「……そういう美鶴も、悔しいのは同じじゃないのか? 役に立てなかったとでも考えているんだろう」
「……まぁな。サポート役としての力不足を痛感した。戦闘と分析を同時にできれば理想だが、せめて初めから私も戦闘に加わっていれば結果は違ったのかもしれない」
「分析をしようとした判断が間違いだった、という訳でもないだろう。その慎重さに助けられる事もあった」
「なら、もう少し私の言葉を聞いて欲しいものだな」
「うっ! それは……」
明彦はまた言葉に詰まった。
しかし明彦が言いたい事は、私が明彦に言いたい事と同じなのだと分かる。
「明彦。今日我々はイレギュラーを取り逃した。しかしそれは今後また合間見える可能性がある、という事だと私は思う。幸いにも、何故か突然イレギュラーが逃走した事で我々は生きている」
「リベンジマッチに備えろと言うんだろう? こっちもそのつもりだ。次に会った時には、必ず倒す!!」
拳を握り締めて意気込む明彦と二人。
私達は更なる力をつけると心に決めて、今は救助を待つ。
おまけ
噂のイレギュラーこと、影虎のその後
二人の視界から逃げた後、俺はトラフーリで部屋に戻った。そして、今はベッドの上で悶えている。
脳筋でも流石は全中ボクシング王者、ギリギリの戦いだった……打ち込みの対応でスキル使う余裕が無くなるとか、あれが原作キャラの力か。でも、俺も負けてはいなかった。戦っている最中に掴みかけた事もあるし、なにより
「なんとか、最後に一泡吹かせてやれた……はず。けど痛てぇ……」
戦闘中は感じなかった痛みがぶり返した事もあるが、そっちはたいした事じゃない。ドッペルゲンガーの物理耐性のおかげで治療が必要そうな怪我は無かった。問題はペルソナを暴走させた時のように戦い、それを見られた事。
「あれは、黒歴史かも……」
日頃のタルタロスでの戦い方が自然に出たんだ。戦闘中に理性を完全に失ったわけじゃなくて、自覚はあったが怒りと高揚感で気にならなかった。それが冷静になってみると……きっと脳内麻薬とかそんな感じのが出ていたんだ。
「せめて奇声を上げていなければ、まだよかったのに……いや、まともに喋れる状態だったら人間ってバレるか……」
あの場で戦った事は後悔してないけど、もうちょっとやり方はあったと思わないでもない……まぁ、やってしまった事は仕方ないし、正当防衛だし、今日はもう寝よう……
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今日の戦果
影虎VS真田&桐条
影虎の被害:打撲と胸部の痛み。
真田の被害:右足の凍傷1度、場所により2度
表皮から真皮までの凍傷で比較的軽度なため切断は不要。
判定で勝者は影虎?
影虎は達成感と実戦経験を得て、何かを掴んだ。
影虎の中で、特別課外活動部に入るという選択肢が遠のいた。
特別課外活動部は新たな仲間を得る機会を知らずに逃してしまった。
しかし真田と桐条のやる気が上がった?
戦闘描写と他者の視点ってムズいのが分かった……