静まり返る会場を動かしたのは、時間を告げるゴングの音。
「こ、ここでゴングです」
「ニュートラルコーナーへ!」
レフェリーの指示に従い、真田と影虎が自分のコーナーへ戻っていく。
会場の緊迫感が若干薄れた。
「はぁ……」
『2ラウンドを終えて、どうですか?』
影虎のセコンドとして、周は問いかける。
『問題ありません』
『2ラウンド目は押されていたようですが』
『少し驚きました。前に一度戦ってから、トレーニングをしているとは聞いていました。でも予想以上に彼が強くなっています』
ただし、体へのダメージはさほどでもない。
防御に集中する事で最低限に留めた。
『次のラウンドからの対策は?』
『考えている事があります』
『なら大丈夫。その力を発揮してください』
汗を拭い、水で口をゆすぐ。
合間に挟む休憩時間は短い。
「セコンドアウト!」
再び二人がリング中央で相対し、試合開始のゴングで動き出す。
「さあ始まりました第3ラウンおおっと!? 葉隠君の構え、いえ……立ち方が少し変わりましたね。前に出した足が、つま先立ちになってます」
「あれは“猫足立ち”ですね。空手の立ち方の1つで、次の動作に移りやすい構えと言われていますが……何が狙いでしょうね? そしてこの判断がどう出るか」
解説の声が止まった瞬間、影虎が距離を詰めた。
これまでよりも大胆に、強く地を蹴り体を前へと押し出していく。
それを真田は変わらぬアウトボクシングのスタイルで迎え撃つ。
三度始まった激しい攻防。ここで真田は違和感を覚えた。
(妙だな……何かが変だ。葉隠の動きが変わった? ……それ自体は別におかしくもなんともないが……)
第二ラウンドは自身が優位に動いていたが、真田は影虎がそのまま易々と負けてくれる相手だとは考えていなかった。負けるにしても何らかの抵抗は見せるだろう。むしろ、そうでなければ期待はずれだと。真田はある意味で影虎に信頼を寄せていた。
故に、
「両者互角! 第2ラウンドでは圧倒されていたと思われた葉隠選手、ここで息を吹き返した!」
自分の攻撃を防がれる。攻めづらくなる。反撃を受ける。真田はどれも不思議とは思わない。
(それでも何かが……間違いなく違う)
戦えば戦うほどに強まる違和感。その答えは不意に、耳へ届いた。
「強烈なボディー! だがこれはしっかりとガード!」
クローブ同士の接触で打ち鳴らされた破裂音。
それは第2ラウンドで山ほど聞いたはずの音。
しかし、第3ラウンドに入ってからは聞いた覚えのない快音。
(そういう事か! 葉隠はガードが固い。だがその手法はこちらの攻撃を受け流す“パリング”と腕やグローブで受け止める“ブロッキング”だった。だから2ラウンドは散々グローブの音がした。それが今はない、つまり接触が減っている)
さらに数度の攻撃を経て、真田は確信に至る。
(やはり……! 決定打のない状況は同じでも、防御よりも回避の割合が増えている!!)
それは自身の動きが見切られている証拠でもあった。
「おっとぉ~? 真田選手の動きが鈍った。ここまで激しく攻め込んで疲れてきたか?」
「ペース配分のミス、だとしたら苦しくなってきますね。学生らしいといえばらしいですが……ボクシングに限らず格闘技の試合というのは、自分のスタミナをどう使うかが非常に重要です。熱くなってはいけません」
(単純に警戒が強まっただけだと思うけどな……)
真田が違和感の正体に気づいた時、影虎はそれを真田のオーラから察した。
(気づかれたとしたら、慣れてしまわない内に仕掛けよう)
影虎は冷静だった。
確かに最初は驚かされた。
真田の成長は影虎の予想をはるかに超えていた。
しかし、成長しているのは影虎も同じ。
アメリカで学び、事件に巻き込まれ、シャドウに襲われ。
帰国後も絶えず大小様々なトラブルに見舞われ、学び鍛え続ける日々。
それらを経てこの場に立っている影虎は、真田の成長に驚きはした。
だが、それによる心の乱れは小さく、素直に真田の成長を認める。
真田の成長、現時点の力量、そして新しい技。
決して真田を侮る事なく、それら全てを見極める。
そのために影虎は先の二ラウンドを捨てた。
防戦の中で冷静に、真田の動きを観察するために。
「!」
時計回りにコーナーを避ける真田、その一歩先に影が割り込む。
「回り込んだ! ここで捕まってしまった真田選手! 脱出を試みるも……葉隠選手が逃がさない! コーナーギリギリ、狭い範囲での打ち合いが始まっているー!!」
(くっ! 当たらん!)
(2ラウンド最後の左ストレート。動きとオーラからしておそらくあの時が全力。あの後のボディーには驚いたけど、新しいコンビネーション、フェイントのタイミングも大体把握できた)
(っ!?)
真田の拳が空気を切り裂く。直後に炸裂した衝撃が頭を揺らす。
(ソニックパンチに対して、カウンターを狙ってきた……だと!?)
(タイミングずらされた……やっぱりカンも反応も良い。地力があるんだよな……)
「ここで葉隠選手がクリーンヒットを奪う! 真田が大きく後ずさる!」
2人の間を行き交う拳。しかし有効な攻撃に偏りが出始めた。
「……葉隠君の動きがだんだんと良くなってきましたね」
「第2ラウンドとは真逆の展開ですね!」
「真田君の動きが悪くなったわけではないのですが、むしろまだそれほど力を隠していたのかと言いたいくらいですが……葉隠君がそれを上回っている」
「避ける!
(せめてもう少し左右に……!)
フットワークを制限された状態では不利。
隙を見てコーナー付近から脱出を図る真田ではあるが、影虎はそれを許さない。
直ちに真田の逃走経路を塞ぎ、打撃を浴びせにかかる。
だが、
「なっ!?」
真田は避ける様子を見せず、ガードを固めた体で打撃を受け止める。
さらには殴られた勢いに逆らわず跳躍し、背中からロープに突撃。
大きくたわむロープは影虎の横にわずかな隙間を作り、その弾性が真田の推進力を生む。
ボクサーというよりもプロレスラーのような動きではあるが、
「強引に脱出ー!! ロープを上手く使ってコーナーから抜け出した!」
(逃げられた……)
「さぁここから反撃なるか!?」
「ストップ!!」
「っと言った所でゴングです!」
「「……」」
2秒ほど互いに顔を見合わせて、2人は自分のコーナーへ戻る。
……
…………
………………
「体調が悪いのか?」
コーナーへ戻った真田に、水を渡した桐条が問いかけた。
「別に悪くはない。葉隠も成長している。それだけだ」
「私はお前も強くなったと確信している。それでも届かないか」
「俺も自信はあったんだが……前回はフェアな試合じゃなかったしな、そもそもの実力を測り損ねていた可能性もある」
だが、そう語る真田の表情は明るい。
「楽しそうだな」
「力不足を感じて悔しい部分ももちろんあるが、俺は今チャレンジャーなんだ。ワクワクしないわけがないだろう?」
「……お前のそういうところは欠点にもなるが、こういう時には美点だな」
呆れの中に安堵の混ざる声色で桐条は言う。
「ここからの策はあるのか?」
その問いに、真田は笑う。
「全くない。体力は残っているが、技術に関しては2ラウンドまでに見せすぎた。それに動きを覚えられたらしい。俺の攻撃は避けられてばかりだ……さっきの逃げ方も葉隠がリングに不慣れだったからだろう。二度目があるとは思わない方がいい。後はもう全力でかかる。試合は最後までやってみなければ分からんからな」
「そうか……なら1つ、気になった事がある。参考になるかは分からないが」
「教えてくれ」
真田は耳を傾けた。
「攻撃が避けられると言ったが、私には葉隠が攻撃を避けているようには見えなかった」
「どういう事だ?」
「これは私の主観だが、葉隠の動きが小さくてあまり避けているように見えなかったんだ。どちらかといえば明彦が何もないところに攻撃をしているように見えたな」
「何もないところに……?」
「葉隠の動きについていけていないようにも見えた。だから体調でも悪いのかと――」
「セコンドアウト!」
「――時間だ、とにかく悔いのないように行ってこい」
「もちろんだ!」
立ち上がり、気合いを入れ直す真田。
(何もないところ、動きについていけてない。ただ単に俺が遅い……違うな、確かに葉隠は身軽で動きも速いが、それだけではない気がする)
反撃の糸口を求めてめぐる思考。
明確な答えの見つからないまま、第4ラウンドが始まった。
「ファイッ!」
「試合は二転三転、手に汗握る白熱の展開! そして始まった第4ラウンド、先制は葉隠だ! 今度は真田が防戦です! コーナーを避けてリング中央付近で戦うようだ」
「先ほどあったように、一度捕まると危ないですからね。賢明な判断でしょう」
(……!)
試合開始から十数秒のやり取りで、真田は桐条の言葉を確かめた。
(本当に動きが小さい。上半身がほぼ同じ姿勢のままだ。……だから避けられた気がしないのか? 俺はこんなにも動かされているというのに…………!!)
相手の力量を認め、自分との比較。
それは突如としてひらめきを齎した。
(葉隠は上半身の動きが小さすぎる。攻撃を避けているが、“ダッキング”や“スウェー”じゃない。上半身が動かないなら……秘密は“フットワーク”!)
「勝負をかけたか!? 再び真田が攻めに転じ」
「ガハッ!?」
「あーっと返り討ち!! 強烈な一撃!」
果敢に攻め込み、逆に強く顎を打たれた真田は足がふらつき、
「ダウン! ニュートラルコーナーへ!」
「本日の試合初めてのダウン! 葉隠選手がまず1ダウンを奪いましたが、真田選手は大丈夫でしょうか?」
「……」
リングに倒れた真田。試合復帰は可能か否か。
影虎はカウントをコーナーから油断なく眺める。
(気づかれたな。間違いなく。でも手応えはあった。このまま立たないでくれれば)
「スリ、!!」
「立ち上がった! ファイティングポーズも取れている! まだ心は折れていない!」
(……とはいかないか)
(ようやくタネがわかったんだ、まだやるに決まってる!)
視界が揺れ、足元が柔らかく感じながらも真田は立った。
己が持てる力を、最後の一滴まで相手へ叩きつけるために。
「ファイッ!」
「!!」
試合再開。
間髪いれずに影虎の猛攻が始まる。
「出たーーー!! 葉隠選手の翻子拳! 猛烈な連打を浴びせにかかる! 大ダメージを与えたチャンスを逃す気はないようだ! そして迎え撃つ真田! リング中央で激しく打ち合うがやはり苦しいか!? 懸命にワンツーを連発! 前に、前に出ようとしている!」
「足もあまり使えていませんし、視界が揺れてるんでしょう。攻撃もやや大振……おや? 葉隠君のガードが増えた……?」
「確かに……」
解説者の呟きに、試合を見ていた撮影スタッフの口から同意がこぼれた。
事実、ダウン以前よりやや荒い攻撃にも関わらず、真田の拳は影虎を捉える割合が増えている。
「なぁ、葉隠君の歩き方、何かおかしくないか?」
「そうですか?」
「足の向きっつーか、たまに変な方向に動いてる気がする。ほら今も」
「足滑らしたとかじゃ……なさそうですね……」
「あれってアレじゃないですか? この前の撮影で」
ここで真田と同じくスタッフも影虎の足元へ注目。
その結果、1つの単語が彼らの頭に浮かぶ。
「やっぱりアレだよな?」
「ほんの一瞬ですけど、“ムーンウォーク”っぽい動き方してますね」
「……いや、あれダンスだろ?」
ムーンウォーク。前へ進むような動きで後ろへ進む、言わずと知れたダンスの超有名技法。
(ダンスに疎い俺でも知ってる。前に進むと
真田は心の中で驚き、呆れ、そして“そこまでやるか”と感心し、影虎を賞賛した。
試合前に“学んだ全てを使う”との宣言を耳にしていたものの、ダンスの技術を応用してくるとは考えていなかった。
(だが、手が届かない位置に下がっていると分かれば、それ相応の対応がある!)
独特ではあるが、バックステップで攻撃を避けているのなら、その分間合いを詰めれば攻撃は当たる。真田はワンツーと足の動きを連動させ、前に進みながら放つ。
結果として影虎に届き得る拳は増えた。
しかしながら、影虎もただ打たれはしない。
(避けられないなら捌けばいい)
届きかけた拳を受け流し、生まれた隙を逆に突く。
「チィッ!」
「葉隠も反撃開始! しかもこれは!」
「相手の突きをパリングしての突きですね。例の動画の再現のようです」
(物理的な攻撃は当たらなければ意味がない。ほんの一ミリでも体と隙間があれば威力はゼロ。逆に言えば、そのわずかな隙間を稼ぐ事ができれば相手の攻撃を無力にできる。たとえダンスの技術であっても、重心移動や膝の使い方は応用できる。
体捌きで攻撃を回避、避けきれないものは受け流して反撃に繋げ、一歩攻める!!)
「さらに追撃! 猛烈な勢いだ!」
呼吸を整える事で、攻撃の速度も精度も落とす事なく持続時間を延ばす。
翻子拳を学んだ成果の1つにより、影虎の猛攻撃が始まる。
「葉隠君の連打が止まらない! これぞ翻子拳! 打撃の集中豪雨にさらされる真田、絶体絶命か!?」
「これはもう我慢比べですね……葉隠君は一発にすごく威力があるファイターじゃないみたいですから、若干パワー不足な面が見えてきました。ただその分、間合いの取り方やディフェンスの巧みさといった、テクニックに光る物を感じます。彼が学んだ翻子拳も彼に合っていたんでしょう、連打がとにかく凄まじい。これ普通の相手だったらもう押し負けてもおかしくないと思うんですけどね……
真田君は圧がすごいですよ。勝利への執念と言いますか、一度負けている相手という事もあるのかもしれませんが……見ていて全く諦めていない事がわかりますよね。それに彼も技のキレが高校生とは思えません。基本がしっかりしているのでディフェンスもしっかりしています。実際に試合で体験すると分かるんですがね、ガードをしっかり固めてる相手ってのはなかなか倒れないもんですよ。ちゃんと実力がある選手がやってると尚更」
膠着した戦況について語る実況者と解説者。
二人が先の読めない展開である事を迂遠に伝える。
影虎と真田の試合はまだ続く……そう思われた矢先。
「グフッ……」
「あっとこれは苦しいボディーが炸裂! 連打を掻い潜り狙った逆転の一撃、避けられて逆にクリーンヒット! さらに一瞬、硬直した隙に何発食らった!? まだ立っている! 立っているが一層苦しい状況になった!」
(今のは誘いか……? 避けて、流して、攻め込んでくる。その上反撃には積極にカウンターを返してくる。隙が……見つからん)
打たれたボディーは肝臓付近に鈍痛を生み、じわりじわりと体を蝕む。
酸欠のようにふらつき、働かない頭で八方塞がりの状況を再確認した真田は笑っていた。
(まったく、明日からも退屈していられないな……)
ガードの下の目の色が変わる。
(いいだろう。二度目の敗北は悔しいが、俺の技量はまだ届かないらしい。素直に負けは認めよう。だから……今日はこれで最後だ)
「!!」
乾いた音。
跳ね上げられた拳。
一瞬、遅れの生じる連打。
そして、猛進する真田。
(これが、今の俺の全力だ!)
燃え尽きる直前に最も激しく燃える蝋燭の如く。
残された力を最後の勝機に注ぎ込み、放たれた渾身の左のストレート。
それはこの日放たれたどの一撃よりも速く、そして重かった。
真田明彦というボクサーが全てを込めた執念の一撃は、恐るべき速さで影虎の目前に迫る。
その様子を、真田は時の流れが遅くなったかのように鮮明に見ていた。
そして自分の拳の隣へ一本の腕が捻り込まれる瞬間も目にした。
(空手の回し受け、か?)
この試合に臨むにあたり、対戦相手を研究するために仕入れた知識とは似て非なる動き。
感じた疑問は瞬く間に納得へと変わる。
手の甲を見せつけるほどに捻り上げられた状態で、自分の拳に添えられた拳。
その捻りが解かれる過程、回転に巻き込まれた自分の拳が目標から逸れていく。
対して、捻りの解かれた相手の拳はそのまま自分に迫る。
(受け流しとカウンターを同時に――)
強い衝撃が真田の顔面を襲った。
着弾の直前、無意識に残された右でガードをするも、ガードごと押し込まれのけ反る体。
左腕は伸びたまま、右腕は封じられ、もはや完全にガラ空きの状態。
(――今だ――)
最後まで全力で抵抗を示した真田に対し、影虎も最後まで全力で応えた。
本来であれば複数の敵に向ける攻撃を、たった1人に。
眼前の、死力を尽くして自分に食らいついた相手に収束させる電光石火の
(……お前の技……この目に焼き付けて……だから……次こそは……勝、つ……)
8打全てを余すことなく受けた男は、それまでの激戦とは対照的に。
その場に静かに崩れ落ちた。