岳羽さんはいつ来たのか分からない江戸川先生と俺を見てうろたえた。
「影虎君、一度ゆっくりと腰を下ろしましょう。首元も緩めて、楽な体制で」
指示に従い腰を下ろす。その時になって自分の手足が細かく震えていることに気づく。
先生はそんな俺や岳羽さんに構わず俺の診察を行った。
「……この薬がいいでしょう」
カバンから取り出されたのはやけに鮮やかなオレンジ色の液体が半分まで詰まった試験管。最悪の場合はポズムディで解毒しようと決め、俺は薬を受け取って飲む。
途端にごく軽いめまいが襲ってくる。頭が若干ボーっとするが、代わりに先ほどまで頭の中を駆け巡っていた思考も鈍り、震えていた手足も鎮まってきた。
「ためらいなく飲んだけど君、大丈夫なの? それ……」
「……大丈夫だと思う。なんかフワフワして、気分が良くなってきた」
「やっぱ不安なんだけど……てか、どうして先生がここに居るんですか?」
「万一の場合には止めに入るため、薬も用意して君たちの様子を伺っていたのです。感情とは往々にして、意図せずに容易く理性のコントロールを外れてしまうものですからね……」
「? 何で、先生が……? どこまで知って……」
「ヒッヒッヒ……私は何でも知っています、と言いたい所ですが……ほとんど何も知りません。ここにいるのは山岸さんに頼まれたからです」
「えっ、あの子が?」
岳羽さんが驚きを示すと、先生はニヤリと笑って説明する。
「彼女は昨夜、お友達から君たちを二人にして話し合わせる計画の協力を頼まれ了承しました。しかし後になって影虎君のお母様との会話で気になる事があったらしく、彼女は過去にこの街で起こった爆発事故について調べ、岳羽さんのお父上にたどり着いた……先ほど岳羽さん自身が話していた通りの事を彼女も考えたのです。
二人きりにするのはまずいのではと考えたものの、既にお友達には協力すると答えてしまった。前言を撤回してお友達にもやめさせようと考えますが、今度はその方法に困ります。撤回させるために理由を話せば、それは岳羽さんのお父上のことを、理由がどうであれ吹聴せざるをえない。
もっと親しく信頼できる間柄であれば結果はまた違ったのかもしれませんが……彼女と他とは面識が少なく、困り果てた彼女は私に連絡をしてきました。そして彼女がお友達に協力して君たちを送り出した後、私が君たちを見守るということに決まったのです。
私は普段あんまり生徒から頼られることが無いのでねぇ……結構頑張りましたよ?」
「じゃあ、最初からついてきたんですか……?」
ここに来た時点では確かに居なかったはず。周辺把握で確認もした。尾行は無かったし、誰にもここに来るとは教えていないのに。
「その通りですねぇ、ヒッヒッヒ」
どうして? と聞く前に怪しく笑った先生は俺のウエストポーチに手を伸ばし、中から小さく四角いブラスチックを摘み出す。俺はあんな物入れた覚えがない。
「GPS発信機、山岸さんの私物だそうです。おかげで君たちを見失わずに追えました。他にもオーディオ機器の部品で改造したおもちゃの集音機も貸してくれましてねぇ、百五十メートルくらい離れた位置からでしょうか? それだけ離れていても君たちの話はクリアに聞こえましたよ。
機械いじりが趣味だと話していましたが、成果物をこうして見ると凄いですねぇ彼女」
「…………」
きっと俺の表情は唖然としているだろう。
確かに山岸さんはゲームじゃ市販品よりクリアな音質の音楽が聞けるイヤホンを作っていたし、機械に強いのは知っている。けどそんな物まで作れたなんて知らなかった……百五十メートルなら周辺把握も範囲外だ。
「……天田も協力していますか?」
ウエストポーチは部室に置いてあった。GPSを入れるだけなら山岸さん一人でできるが、俺は天田に渡されなければポケットに財布だけ突っ込んで買い物に出ただろう。あの時山岸さんが何か吹き込んだようにも見えなかった。
「ええ。君から何か聞いていないかと思い、昨夜私が電話しました。君は事故の件について何も話していなかったようですが……その際に自分にも手伝わせて欲しいと言われまして。今は山岸さんと一緒に、お友達が君たちを追ったり探したりしないように引き止めているはずです。あまり他人に聞かれたい話では無いでしょう?」
「……それにしたって、発信機とか……」
先生たちの行動と配慮に納得できる部分もあるが、岳羽さんには不満もあるようだ。
先生は首筋を掻いて話を続ける。
「他の手段を用意する時間が少なかったですし、多少のぶつかり合いが良い結果をもたらす事もありますからねぇ……それに複雑な問題に無知な他人が下手に間に入ると逆にややこしくしかねません。
なにより……私が多少の問題行動を気にするとお考えで?」
「開き直った!? というか先生、人からそう見られてる自覚はあったんですね……」
「何を言いますか岳羽さん。魔術の道を歩む者にとって自己を見つめることは重要でしょう?」
「いや、そんなこと言われても……はぁ、もういいです……」
あ、つっこみを放棄した。
けど江戸川先生って意外と常識は知っているんだよな。
知っているだけだけど。
「岳羽さんに納得していただいたところで、影虎君」
「?」
納得したというより諦めたんだと思うが……何だろう? 先生の表情は変わらないが、微妙に普段より真剣な気がする。
「つい先日菊池先生にお会いして話をしたのですが……おや、覚えていませんか? 天田君の担任の先生ですよ。彼女が君にお礼をと言っていました。聞けば天田君が以前より明るくなってきているそうで、君が天田君を部に参加させてくれたおかげだと言っていました」
それはよかった。しかしなぜ今その話?
「天田君本人も私が見る限りパルクール同好会で楽しそうにやっています。山岸さんも日々の活動日誌やデータ収集など目立たない仕事を楽しんでいる節があります。君があの日決断し、色々と彼のことを考えて動いたことが牛歩の如くゆっくりとでも、確実に実を結んでいるのでしょう。
……しかし人のために何かをしたいと考えるのは君だけではありません」
……
「君も今日のことに不満があるかもしれませんが、あまりあの二人を怒らないであげてくれませんか? 少なくとも彼らなりに君の事を考えていた事だけは理解してあげて下さい」
…………まただ。
昨日は父さん、今朝はクラスメイト、そして今は山岸さんに天田、それと江戸川先生。
今回岳羽さんと二人きりにしたのは順平たちの心遣い。
岳羽さんには体調を崩して気遣われた。
母さんやジョナサンは直接何も言ってこなかったけど、なぜかここ数日人に心配されることが続いている……
「……怒る気はないです、ただ驚いただけで」
「ヒヒヒ、それは良かった。では歩けそうなら部室へ戻りましょう、休むにしても暖かい部屋かベッドの方が良いでしょう」
江戸川先生の提案で部室へ戻ることになった。
心配されている……心配してくれている人がいる……それは幸せなことだろう。
ただ……俺はその思いに何かを返せているだろうか?
鈍った思考に負の感情は無く、曖昧な疑問だけが残った……
~部室~
「ただいま」
「おっ! 帰ってきたぞ!」
「お疲れっ!」
「遅かったね~!」
扉を開けると宮本が真っ先に声を上げて室内の目が集まり、西脇さんと島田さんが迎え入れる。
「はい皆さん、飲み物をどうぞ。それから椅子を一つ空けてください」
「江戸川!?」
その間にも俺に続いて江戸川先生と岳羽さんが入ってきた。
「友近っ、先生だよ! すみません友近が」
「私は別に気にしませんが、気をつけたほうがいいですねぇ。特に江古田先生の前では。ヒヒッ」
「き、気をつけます……」
「あーっと、椅子はこれでいいっすか?」
順平が持ってきたのは勉強会で使っていたパイプ椅子。
「結構です、影虎君を座らせて休ませてあげてください。私は奥に居ます。影虎君、体調が悪化するようなら呼んでください」
先生はそう言い残して持っていた飲み物の袋を机に置き、奥へと姿を消す。
「先輩、何かあったんですか?」
「……」
間髪いれずに飛んできた天田の質問と不安そうな山岸さんの視線に、どう答えるか悩んでいると岳羽さんが口を開いた。
「ちょっと、ね」
「え、まさかゆかりっちが殴り合いとか……」
「するわけないでしょ!? 私のことどう見てんの!? って……私が原因なのは間違いない、かも?」
「気にすることないって」
口を挟んだ順平の物言いに怒る岳羽さんだったが、その怒りは途中で失速していく。
「ホントに何があったの? 真面目な話」
「えーっと、私が知らずにトラウマ抉っちゃったみたいでさ……」
「マジ?」
「大丈夫なの? 葉隠君」
「ちょっと気分が悪くなっただけだよ」
高城さんにそう答えると、若干ホッとしたような雰囲気になる。
「それよりありがとう、岳羽さんと話す機会を作ってくれて」
「おっ! てことは」
「何も無いから。普通に話してちょっと誤解を解いた感じ?」
「おかげでこれまでよりは普通に話せるよ」
「っしゃ! 作戦成功だな。とりあえず無事に終わってよかった、マジで」
「遅かったから何かあったかと思ったよ」
「まぁ実際少しはあったけど、ちゃんとお菓子も……? ひょっとして何か食べてた?」
今になって気づいたが、机の上には片付けられた勉強道具の他に使用済みの皿とスプーンがある。
「さっきまでプリン食べてました」
「そうだ、葉隠君と岳羽さんの分もちゃんとあるよ! 今持ってくるから食べて!」
そう言って山岸さんが奥へと駆け出す。
嬉しそうで止める間もなく行ってしまったが……
「? 誰か買ってきたの?」
プリンなんて部室には無かったはず。答えた天田に聞いてみると、やっぱり首を横に振っての否定が返ってきた。だったらどうして? と首をひねる俺に、ニヤついた順平が話す。
「それがさぁ、山岸さんが作ってくれたんだよ。もうマジ美味いやつ」
「!?」
驚きで言葉が出なかった。山岸さんが作った? しかも食って美味い?
薬のせいか、簡単な言葉のはずなのに理解が追いつかない。
「今日ここで勉強会するって聞いてから、材料用意したんだってさ。そんな気を使わなくていいのに、マメな子だよねー」
「見た目はちょっと地味だけど、味は超美味しかったよ~、お店で売っててもおかしくないくらい!」
「見た目は普通じゃない? あれくらいが手作りっぽくて良いとおもうけど」
「綺羅々はあれよ、生クリームとかサクランボが乗ってるパフェみたいなやつがいいんでしょ?」
「そうそう! それ最高! 味は最高なんだから後は見た目だよ~!」
なん……だと……
山岸さんの作ったプリンが女子に絶賛されている!?
男子もあれは美味かったと同意している。
失礼だけど信じられない……
「おまたせー」
あっという間に山岸さんが戻ってきた。両手にはカラメルソースとカスタードのシンプルなプリンが乗っている皿を持って。その皿を俺と岳羽さんが座る席の前に置いた山岸さんは、笑顔でどうぞと進めてくる。
「ホントに美味しそうじゃない。せっかくだし、いただくね」
俺はまずプリンを観察して目に見える異常が無いことを確認してしまったが、何も知らない岳羽さんはためらいなくスプーンを手に取り、一匙分を口に入れた。
「んー! 美味しい!! なにこれ凄く美味しい!」
満面の笑顔を浮かべる岳羽さんを見て、山岸さんの表情も明るくなる。
しかし続いてまだ食べていない俺を見ると、その笑顔を曇らせてしまう。
「葉隠君……今回は大丈夫だと思うから!」
両手を握って拳を作り、強い期待の視線を向けてくる山岸。
……食べないという選択肢はなさそうだ……
まぁ皆絶賛してるし、先に食べた順平たちに何もないようだし大丈夫だろう。
意を決してプリンを一匙口へと運ぶ。
「!!」
バニラエッセンス?
口に入れた瞬間、柔らかさの中に程よい弾力を感じさせるカスタードプリンが口の中でとろけ、甘い香りと味がたちどころに口中に広がる! さらに上からかけられたカラメルソースの甘苦い風味が混ざり、プリンの甘さに焦がされた砂糖の香ばしさを足している!!
「美味い!!」
「本当!? よかったー……」
お世辞は一切無い、本当に奇跡的な美味しさだ。
プリンを口へ運ぶ手が止まらない!
「おーおー、影虎も山岸さん特製プリンの
「んー、これは、なかなか……島田さんが店で売っててもおかしくないっていってたけど、納得だ」
さっきまでの警戒が嘘のように出てくる感想。
言いながら手のひら返しが酷いなと感じ、若干の罪悪感とともに心の中で山岸さんに謝罪する。
そんな中、宮本にこう聞かれた。
「なぁ影虎、さっきの何だ?」
「さっき?」
「ほら、山岸さんが言ってた今回は大丈夫ってやつ」
「あっ、それはね。前に一度葉隠君に料理の味見をしてもらって、失敗しちゃってたの」
「へー、葉隠君は何度も女の子の手料理を食べてるわけだ」
「そう聞くとなんかうらやましーなー……チクショー!!」
からかうような西脇さんの一言に、冗談なのか分からない順平の言葉。
……だが順平、前回のアレはうらやましがれるような物じゃない。
ポズムディが無ければどうなっていたことか……
「俺もさー、料理上手な彼女とか欲しいぜー」
「順平さんはそういうガツガツしたところがダメなんじゃないですか? クラスの女子がそんなこと言ってましたよ?」
「クラスの女子って……おいおい、小四だろ? もうそんな話してんのかよ」
「女子パネェな……」
「あんなに美味しいプリンを作れるのに、失敗するの?」
「そんな! 失敗することの方が多いくらいだよ」
男子はモテない男のボヤキに天田が突っ込み、女子は山岸さんを中心に料理の話を始めた。山岸さんは特に接点のなさそうな岩崎さんとも打ち解けている様子で楽しそうだ。
和気藹々とした雰囲気に幸せを感じていると、プリンはほとんど食べ終えた。
もう最後の一匙。その一匙を口に運んだところで、
不意に言葉の爆弾が落とされる。
「嘘でしょ。料理でも何でも、上手な人ってそう言うじゃん」
「嘘じゃないよ! 今回はほとんど材料を混ぜるだけだったし、ちゃんと習ったから……」
「習ったって誰に~? どこかの料理教室? こんなの作れるなら私も習いた~い」
「それなら一緒に習う? 話せばいいって言ってくれるんじゃないかな。
瞬間、部室内の空気が凍った。誰も彼もが発言した山岸さんに注目している。
そして変化した雰囲気を感じた山岸さんがうろたえ始めた。
「えっ? 私、何か変な事言った?」
「変な事、っていうか……山岸さんにプリンの作り方を教えたのって江戸川先生なの?」
「う、うん。葉隠君が失敗したシチューを食べて失神しちゃった後に、才能があるって励ましてくれて、それで教わることになったの。
今回のプリンが初めて教わった物なんだけど、材料を混ぜるだけでこんなに美味しいプリンが三分でできちゃうって凄いよね」
妙な空気を振り払おうとしたのか明るくそう告げられるが、不安しか感じない。
だいたい三分でできるプリンって何? 普通もっと時間かかるよな?
不安を覚えつつ口に含んだスプーンをそっと皿に戻そうとした、その時。
手から感覚が鈍り、スプーンが滑り落ちる。
「ひっ!?」
床とスプーンがぶつかり合い、室内に響く金属の耳ざわりな音。
注目が集まる中で反射的に拾い上げようと手を伸ばし、スプーンの上を通り越す。
突如膝カックンを食らったように足から力が抜け、俺は床に倒れこんだ。
「「「「「葉隠君!?」」」」」
「「「影虎!?」」」
「先輩!?」
皆が同時に俺を呼ぶ。それに対して大丈夫だと返したが、ここで体に違和感を覚える。
「先輩? どうしたんですか?」
「いや……なんか……立てない……」
意識はあるが、四肢の感覚が無くて力も入らない。そう答えると数秒おいて室内は平和な空間から一転、大騒ぎになってしまった。
……周りが慌てているのを見て逆に冷静になる事って本当にあるんだなぁ……
影虎は江戸川から事情を聞いた!
山岸と天田の思いやりを知った!
影虎の中で何かが変わるか……?
影虎は部室で江戸川直伝、山岸作のプリンを食べた!
理由は勘のいい人なら気づきそうだ!