数十万の人間が歌っている。
誰も彼もが力を抜く事無く声を張り上げている。
四面楚歌、その歴史的な場面に俺はいる。
敬愛する劉邦様が王となり、分裂して争っていた国内が平定され、平和が訪れる決定的な瞬間。
ここで一つの国の命運が終わり、400年続く大国の全てがここから始まるのだ。
仲間全員の苦労が報われる喜ぶべき時がきた。
けれども俺に純粋な喜びの気持ちはなく、苦々しい表情で歴史的瞬間を迎えようとしていた。
少し昔語りをしたい。
何故こうなってしまったのか、それを今一度確認したい。
盗賊を撃退した後の生活は正しく多忙を極めると言っても過言ではない日々だった。
逃げた盗賊が劉邦様の死をボスに伝え、その情報にまんまと踊らされた盗賊団は沛県に進攻を開始した。
だが劉邦様の伝を頼って裏切り者達の目を掻い潜って戻った俺達は、沛県に残された少数の兵を纏め上げ、盗賊団を逆に討ち取る事に成功した。
その際、周勃、夏侯嬰、ハンカイと言った後々まで連れ添う将達と出会えた。
誰も彼も気も腕も良い人達で、俺はすんなり彼らの輪の中に入る事が出来た。
俺が蕭何の名を継ぐ者であると言ったのも大きかったかもしれない。
そうして俺達は兼ねてからの指針であった反秦連合へ参戦。
軍としては少数ながら、その働きは凄まじく、内外の評価は高まるばかり。劉邦様の無類の人誑し、もとい人柄に触れてどんどん人材が集まってきた。
その中にはかの有名な張良も……いなかった。
うっわやべぇマジどうしようと思いつつ、彼の椅子を空けたまま俺がどうにかその役割を演じつつ、ついに鴻門の会の場面まで来てしまっていた。
この鴻門の会の前後にて、俺を後々まで追い詰める二つの悩み事に出会う事になる。
その一、蕭何、張良、韓信がいなかった事。
もうね、まじどうしろと。
彼らと協力すれば、俺というプラスアルファもあるから項羽なんて楽勝だよね!とか鼻歌交じりでほざいていた昔の俺の頬を思いっきり叩いて、夢から醒めてさっさと働けと言いたい。
俺はいつか来るであろうと信じて作った伝説の三傑の役割に振り回されながら、どうにかこうにか三役をこなし続けた。
寝食所か生活の大部分を惜しんで働き続けても、回避したかった歴史は回避できず、それ以上の結果を出せたであろう歴史を改変する事も出来ず、ただ歴史の通りに動かすだけで精一杯だった。
三傑以外の優秀な人材である陳平や項伯が早々に来てくれなかったらと思うと恐ろしい。
その二。
項羽がマジで完全無欠の覇王だった事。
見目麗しくカリスマ性に溢れ、超人的なレベルで文武両道、高潔で公平無私、策略謀略に通じ、外交手腕に長けている。
性格についても超絶武力特化の暴君(身内にだけ優しかったらしい)のイメージからはかけ離れた特級の人格者と来ている。
とはいえその桁外れのステータス自体が俺を悩ませたのではく、いや、超スペック公式チートも十二分に俺を悩ませたが、大事なのはそこじゃない。
そんな人間を敵にしなければいけなかった事こそが最大の難事だったのだ。
鴻門の会の際、俺達は初めて顔を合わせる事になった。
門の奪取についての釈明の為ではなく、褒章の為に劉邦様が呼び出されたのだ。
項羽はそのカリスマ性と手腕によって既に反秦連合の全てを手中に収めていた。
懐王の代理人という立場まで上り詰めた彼は、秦からの誘惑を跳ね除けた劉邦様を賞賛し、直接褒章の授与をしたいと言ってきたのだ。
もうこの時点で色々おかしい。
門奪取で怒り狂うんじゃないのかよ…とか、王の代理人ってお前どんだけ上り詰めてんだよ…とか、秦宰相からの甘言はしっかり防諜していたのに筒抜けじゃねぇかよ…とか、突っ込みたい所満載である。
そういった訳もあり、こりゃ劉邦様だけに行かせられねぇ!と俺ものこのこ褒章の場に付いて行った次第である。
それがいけなかった。
恐らくだが、俺は素直に座して待っていれば歴史の通りになったのだ。
項羽は褒章を与え、劉邦様がそれを受け取れば、門を取られて手柄を横取りされたと思っている項羽側近の武官連中は劉邦様に妬み嫉みを募らせていただろう。
劉邦様に会い、その人誑しぶりをみれば軍師達は危惧を抱いただろう。
そうなれば項羽の思いとは関係無しに、俺達と項羽は対決せざるを得ない状況に陥っていた事は想像に難くない。
何も知らない俺は、向こうが向かってくるならやってやるぜ!と即座に敵対行動を受け入れ、外道と呼ばれるような手段を何の躊躇いも持たずに用いていたに違いないのだ。
だが俺はかの完全無欠の王と会話をしてしまった。
項羽の実態を探ろうと話しかけてしまったのだ。
するとどうだ、完全無欠の男は周囲が作り上げた虚像ではないのだとすぐに気付いた。
目の前にいる人物は自分と同等のスペックを持っていて、しかも思考思想は公正であり善良であり柔軟、精神は成熟していてると噂以上の超スペックに気づいてしまう。
俺の中に別の指針、いや、夢と言った方が良い何かが生まれた。
この人と劉邦様が組めば最強じゃね?中国を飛び出して治められるぜ?と。
俺はその欲を実現させようと、弁舌を回した。
劉邦様に、項羽に、項羽の側近に、外を警護している雑兵にまで聞こえるように朗々と希望を謳い上げた。
国内だけでなく、世界に視野を向ける発言もした。普通であるなら理解できないされない類の夢物語である。けれどもそれを理解する頭脳と受け入れる器量を項羽が見せ、俺の言葉には更なる熱が入った。
最後には、彼から手を握りしめられ、君は私と対等の人間であり友であると称えられるまでの関係を構築してみせた。
明日また語り合おうとその場は別れ、帰り道に劉邦様と新しい道について興奮しながら話を広げ、寝所について寝てしまえば、朝がきた。
鴻門の会が起きる朝がきた。
何が起こったのだ、何故巻き戻ったのだ?もしやあの弁論で誰かの恨みを買って寝ている間に殺されたのか?
俺はそれを確かめる為、もう一度訴えかけた。
受け入れられ、また明日だ、と別れる所まではほとんど変わりは無い。そして帰り際、劉邦様と別れて寝所に入るフリをして、そのまま劉邦様の寝所である天幕まで行き、密かな警護にあたった。
そして数時間後、何も起きなかったにも関わらず、夜から朝に一瞬で切り替わり、俺は寝床に臥していた。
仲間が死んだ訳でもないのに巻き戻しが起こるのはこれが初めての経験だった。俺はここで改めてループという物について考えさせられるのだった。
ループの原因を探る為に、手を変え品を変え行動に移してもみたが……何もかもが駄目だった。
それでもなお、あれこれと試し続ける。
十数度繰り返し、決定的な原因が分かりきっても、試し続けた。
けれど数十度目のループが起こり、これ以上何も変える事がないという所で、俺は諦めた。
歴史の流れが望まない展開は許されない。
そんな救いようのない正解を受け入れた。
この巻き戻しは俺の心を折った。再起不能になるのではないかと危惧するレベルで。
呆然とする中、考えはどんどんいらぬ方向へ進む。
俺がどんなに頑張っても正史以上にも以下にもならないのは強制力が働いている所為なのでは?
三傑がいないのではなく、俺と言う存在がここに介入したから消されたのではないか?
なんて最早どう処理すれば良いのか分からない疑問の群れが大挙するが、俺はそれを解決する事を諦めた。
俺は歴史を作る人物ではなく、調整するだけの存在なのだと割り切った。
その後の流れは正史と同じだ。
項羽の軍師と将を焚きつけ、劉邦様が命を狙われるように仕向け、宴の途中でハンカイさんを呼びに行き、全てをご破算にした。
様々な希望を捨て、絶望を受け入れて行動した数時間後、次の日は平然とやってきた。
折れた心が、その修復すら諦めた瞬間である。
それから俺は友と呼び合う仲になった人間をひたすら貶める日々が続いた。
そうでもしなければあの完全無欠の王には勝てない。
兵を虐殺した、論功行賞を行わない、優秀な将も軍師も追いやった等々等々。
劉邦様を讃え、項羽を貶す。あからさまではあるが、改めて鍛えに鍛えた諜報機関を通じて民草に情報操作を行えば、容易く偽報は広まった。
後の歴史に残るであろう彼の悪事など、全てが全て俺の創作である。
だから表向き情報機関の長として指示を出していた張良の評判は、項羽軍の中では憎しみの対象として最低最悪のものになっている。
ああ、劉邦軍の三傑は実在した事になっている。韓信、張良、蕭何という架空の人物は未だ現役で活動中だ。
もし白という人物がこなしていると知れたら、俺に功と憎しみが集まり過ぎて後々面倒になる。
架空の人物であれば、集まりすぎた功を削ぐのに躊躇いも手間も無くて非常に楽だ。
だが大々的な情報戦略を容赦なく使っても彼は手強く、大敗を喫する事もままあった。けれども首の皮一枚でなんとか凌ぎつつ、この四面楚歌の舞台まで漕ぎ着ける事ができた。
と、ここまで話せば、俺が勝利を目前にして喜びを表さないのも分かってくれるだろうか。
志を一致させて夢を語らった友を裏切り続け、三人の偉人を消して架空の存在とし、その上で舞台に立たなければいけない重責と悲哀。
例えここで勝利したとしても、一生晴れる事のない咎が俺にはついて回る。
はぁ、何故歴史的大勝利を収めた俺が、悲劇のヒロイン面をしているのだろう。
一人三役がばれない様にと、韓信の時には黒い仮面をつけているのだが、いつもは付けるのも恥ずかしかったそれが今はとても有難かった。
そうして俺は苦い表情のまま数十万の軍の先頭で大唱歌を聞いている。
あまりの音の大きさに、背が圧される。
俺はその音に負けぬよう、傍らに控えた連絡役に指示を出す。
「趨勢は決した。俺は単独で夏侯嬰の追撃部隊に合流する。以降の韓信隊の指揮権は周勃へ預け、全軍の総指揮は曹参へ預ける。曹参へは動きあり次第入城しろと伝えろ!」
「はっ」
連絡役は馬首を返して曹参隊へ駆けていった。
そして隣にいた副官である周勃へ話しかける。
「聞いたな周勃、俺は単独で夏侯隊へと向かう。俺の隊はお前に任せる」
「あー韓信様、奴らは出てきますかね?この状況だと自決してる可能性もありますぜ?」
「かの王は周囲の期待に応えてきた男だ。周囲が望むのが一騎打ちか逃走かはわからんが、このまま無様にやられて終わる筈がない。
そして出てくるならば、俺しか奴を倒せん」
「まあ、そうなりますか。
……
…
くっ。
白、やっぱその人物像は心底似合わんわ。声が高くて違和感しかねぇよ、くくっ」
「周勃さん、それ超極秘事項だからね?歌のおかげで周囲には聞こえてないでしょうけど、白と韓信が同一人物ってのがばれると本当に面倒って分かってますよね?
というかそれを言うなら周勃さんの、可能性もありますぜ?なんて不細工な敬語全然似合ってないですから、というか昔から言葉遣い進歩して無さ過ぎ。ハンカイさんを見習うべき」
「すまんすまん、お前と久しぶりの同行、勝利も目前、思わず気が緩んじまったぜ。だからそう責めてくれるな」
にやりと笑う周勃さんはなんとも男前だった。
朴訥としているが、信用の置けるナイスガイなので色々許されてしまう人だ。
「ふん、まあ今は時間もないし許すとしましょう。それじゃあ、後は頼みますよ」
「おう、任されよう」
夏侯嬰隊へと移動した俺は、隊長である夏侯嬰を呼び、追撃の指示を改めて確認していた。
「破られるなら諸侯連合を集めた左翼側となる。今の内に移動し、項羽の首に懸賞を掛けて発破をかけようぞ」
「白さん、やっぱその言葉遣いすっごい違和感あるっす!」
けらけらと笑う彼の名前は夏侯嬰。
劉邦様の初出陣以前から付き従う古参の仲間である。
その働きぶりは三国志の趙雲に似ているが、話して抱くイメージは豊臣秀吉っぽい感じ。しかし動物属性は猿じゃなく犬属性がよく似合う、そんな人物である。
「夏侯嬰も言っちゃうのか。お前ら気ぃ抜きすぎじゃない?」
「ら、って事は、先に周勃さんが怒られたんすね?」
「察しの通り。口数少ないくせに、口を開けばからかいの言葉しか言わない。ともかく、お前ら二人ともハンカイさんに締めてもらうからな」
先ほども名前が出てきたハンカイさん。彼も古参仲間の一人だ。とても真面目な人で、我が陣営の風紀委員長的な感じのお人。
「そりゃおっかないっすね。それじゃあ張良様の指示通りに動かせていただきますよっと」
「お前……それも極秘事項だから……」
「あっ、これは本気で間違えたっす。つか名前を別けてる人って普通いないから、慣れてなくて間違うんすよねぇ」
「以降慣れてくれよ。そうじゃなきゃもっと面倒な事態になるんだからさ」
「気をつけるっす。それじゃあ諸侯に手柄を譲る振りをしつつ、敵と敵の敵の人員を適当に削らせて、おいしい所だけ韓信様に渡るように算段つける準備にはいるっす」
「いやまあその通りなんだけどさ、悪意満ち溢れた言い方すんなっての」
「ははっ、すまないっす。
あの、白さん、最後に一つだけ。あの人は本当の化け物です。白さんでも負けるかも知れません、本当に、どうか、重々気をつけて」
「大丈夫大丈夫、あの人の事はお前以上に知ってるさ。
けどお前らも俺も勝利する運命にある。何も心配すんな」
「なら安心っすね。白さんの言葉に嘘はありませんし」
「お、信頼されてるねぇ」
「いつも聞かされていた白さんの数々の大言壮語も、この段階にくれば予知とか予言の類だったって疑うべくもないっす。それじゃあ白さん、ご武運を」
「おう、最後の頑張り果たして来るわ」
歌が二順三順し、兵達のボルテージも最高潮に達していた。
そんな中、左翼軍に最も近い門が開き、そこから黒い集団が凄まじい速度で躍り出てきた。
集団は左翼の諸侯混合軍へ雷の素早さをもって襲来し、彼らを散々に打ちのめした。
その勢いは名の通った将を幾人も屠ってなお止まることなく、包囲網を容易く突破するかに見えた。
とはいえ諸侯もただやられてはいない。
楚軍は精強で知られるが、あの黒き鎧、この強さ、奴らは項羽の近衛隊に違いない。奴らを倒し、項羽を引きずり出せば、地位は望むるより高くなる。
後事は全て漢軍に押し付ければ良い。
そんな考えがあったのかは分からないが、大将軍が多大な褒章を確約した項羽の首に、諸侯は多大な兵を犠牲にしつつ飛びついた。
大軍としての左翼は形をなさなくっていたが、どの道相手は孤軍であり、これを潰せば終わりと左翼に配された諸侯は息を巻いた。
こうして城の包囲網は、数千の集団を包囲する形へと変化していた。
右翼と本陣はその様子をただ傍観していたわけではない。
左翼が打ち崩され始めた直後、その他全ての門が開け放たれた。
玉砕覚悟の総攻撃か?!と身構えた全軍だったが、門から続々と出てきたのは武装を解除し、鎧も全て脱ぎ、降参と書かれた大旗を振った項羽軍だった。
これに対して本軍右翼軍は慎重な対応を取らざるを得ず、左翼への救援を送る事が出来なかったのだ。
多大な時間を要して全ての対応が終わった頃にようやく、項羽、その家族、数十の近衛兵だけがいなくなっているという事に劉邦軍は気付かされたのだった。
とはいえ、チート持ちの俺には奇策も何もかも通じない。
チートを完全に把握してからは戦場での失態によるループは久しく経験していなかったりする。
混迷極まる左翼側近く、大門の門扉に隠れた人用の出入り口から出てきた数十の影を俺は見逃さなかった。
俺は夏侯嬰隊に混沌とし始めた戦場に対処する案を持たせ、全軍への使いとして追いやった。
単騎となった俺は馬を飛ばし、彼らの後を追うのだった。