南陽に袁術を送り届ける際、私は軍師達からの進言もあり、井戸で拾った劇薬を早々に使った。
袁家は今どたばたとしているだろうから内政に厚く、また袁術の教師もしていて信も厚い張昭を貸し出します、と言って恩を売りながら毒を忍ばせる。そして頃合いを図って張昭に持たせた玉璽を使い、袁術を踊らせ、その隙に独立しようという魂胆である。
私達は武漢へ戻り、兵達を労って少しばかりの休みを取らせる。
私を含めた主だった将達は会議室に集まり、任務を終えて先に帰っていた周泰の報告を聞く。
「見事な戦功を上げられたと聞き及んでおり」
「前口上はいらないわ。貴女とは久々に合うから長く話したいとは思うんだけど、今は私も皆もちょっと我慢できないみたいなの」
「はっ、それでは端的に申します。袁家は黒でありました」
それを聞いて、私は全身の毛が逆立つのを感じた。複雑な感情が溢れて胸を満たす。
周泰が身を竦ませたのを見て、私は歯を強く噛み締めて乱れる感情を抑える。
「ごめんね、周泰、続きを。皆も気を抑えて、周泰が怯えているじゃない」
「む、すまん周泰。予想出来ていた事を聞いて感情を露わにしてしまうとは、まだまだ未熟よな」
「はっ、私と致しましてもこの情報を見た時は血が沸騰すると思いました故。
では簡潔に続きを話させて頂きます。
袁家と劉表の密約が記された印入りの書簡を幾つか見つけました。内容は孫堅様が襄陽を攻めるという先触れの報とその報によって助かったので礼品を渡すというやり取りが残されておりました。
証拠として重要そうな部分の書簡は持って帰り、その他の情報は私には手に負えないと判断し、再度侵入しやすいよう細工を施し戻って参りました」
「必要以上の情報は知るだけでも身を縛りかねないし、抜き出してきた情報も袁家として今更調べる必要のない物だから事が済むまで見つかることもないだろう。周泰、改めて素晴らしい判断だったぞ」
「ええ、素晴らしい働きだわ、周泰。ともかくこれで十分なきっかけが出来た訳だし、もう仕掛けても良いって事よね?」
「そうだな、張昭殿に便りを送ろう、早々に頃合いが来たとな。悪いが周泰、早々に動いてくれ」
「はっ、皆様より早くこの地に帰還しておりました故、既に気力体力も充実しております。最善の結果をお持ち致してみせましょう」
「……周泰さー、先生からどう習ったか知らないけどさー、仕事の話しになると急に無表情で口調が堅くなるわよね。それやめない?」
「出来ませぬ!この様こそが必殺仕事人であり、忍道の体現というものですから!」
「いやその説明がいつも分かんないんだけど……まあ、いいわ。それじゃあ頼んだわね」
「はい、頑張ります!……あっ、こほん。はっ、全力を尽くす所存であります」
「もう、絶対に普通の方が可愛いのに……」
密書をしたため、周泰に持たせると、彼女は闇夜に紛れて消えてしまった。
私の感覚にも微かにしか引っかからない隠形に改めて驚きつつ、これなら大丈夫だと安堵する。
さて、張昭に指示を出したなら後はもう待つ事しか出来ない。
彼女が上手く袁術を煽てて夢を見させるまで、いつものお仕事を適当にこなすだけだ。
そう考える余裕が出来てしまった。
先ほど抑えた感情がムズムズと胸を刺激する。
ちょっと外に出て風でも浴びよう。でなければ今日は眠れそうにない。
城壁に登り、闇に沈む街と満点の星空の二つが望める場所へ。
何かを考えると頭が茹だってしまいそうなので、何も考えずぼーっと風景を眺める。
しばらく風に吹かれていると、後ろから気配がした。
振り返らずとも誰か分かる。ここは私と彼女のお気に入りの場所だ。
「こんな所でどうしたんだ?」
「んー、どうしても眠れなくてさ。って、周瑜も同じでしょ?」
「まあ、ね」
「なんか色々複雑よねー」
「そうだな」
「ちょっとさ、頭の中と心の中を整理させてもらっていい?」
「構わない、というよりも助かるわ。私は変に考えすぎてしまう性質だから、貴女が言葉にしてくれる方がきっと良い」
「ふふっ、周瑜ってそういう所あるわよね。それでそう指摘すると、軍師とは常々考えなければーとか言っちゃうの」
「ぐっ、まあ、そういう事もあるかも知れないな」
「あら、突っかかってこないの? つまーんなーい」
「いつものやり取りをして落ち着きたいんだろうが、お前が本当に不調の時はやり過ぎるからな。さっさと話を進めてくれ」
「そうね、自分勝手に腹の虫を収めようとしちゃってたかも。ごめんね、公瑾」
「愛ゆえにとは分かっているわよ、伯符。という訳で、話を進めて」
「ええ、支離滅裂になっちゃうかも知れないけど、今だけ付き合ってね」
事を簡潔にまとめると、孫家は袁家に嵌められたのだととっくの昔に分かっていたので、袁家の目が逸れる機を私達は待っていた。そして都合良く反董卓連合が起こったので機に乗じて周泰を送り込み、その証拠を探らせたのだ。
見事周泰は仕事を果たし、袁家に残った劉表とのやり取りを記した印入りの手紙を見つけ出した。証拠は処分されていないと踏んでいた、敵の弱みにも自分の弱みにもなりかねない情報を早々処分するとは思えなかったし。
そして私達の予想は当たり、襄陽の戦いは仕組まれていたという証拠が我らの手の内にある。
というのが顛末だ。
皆の心境は二極だと思う。
怒り。
予想出来ていた事とはいえ、改めてその証拠が出てきて怒りが湧かないはずがない。嵌めた袁家に対して、そして容易く嵌められた自分達の弱さに対して怒りが湧くのはどうしようもない。
しかし十年の時を経て既に覚悟も決まっていた訳で、私の心境で怒りの占める割合は一二割程だ。
希望。
これを切っ掛けに張昭が袁術を唆し、玉璽を持つに相応しい帝だと思い込ませて、次代の帝だと僭称させる手筈になっている。袁術軍には自身達が袁家の主流であると情報操作をして勘違いさせているので、恐らくこの計はすんなり通る筈である。
そうなれば私達は彼女達を討つ大義名分を得られる。
十年前に母の汚名を雪ぎ、その後十年間を庇護してくれていた袁家に恩を仇で返した不届き者である。という誹りは周泰が持って帰ってきた印入りの書簡が打ち消してくれるだろう。
つまり私達はもう誰にも何も気にすること無く行動する事が出来るのだ。
その期待はこの十年を耐えに耐えた私達にとって身が震える程の希望と言えた。
私にとっても喜びと期待は心境の半分以上を占めている。
恐らく皆はこの二つの感情で沸き立ったのだと思う。
怒りと歓喜のどちらが心のより多くを占めていたかは個人差があるだろうが。
「古参組は歓喜が強い気がするわね。仕組まれていたのは予想出来ていた事だし、十年の苦境から解放されると思えば怒りも吹き飛ぶ。陸遜や呂蒙などの合流組は若さからか怒りが前に出ている印象だったわ。
しかし我らのお姫様は怒りとも喜びとも違う感情をお持ちのようね?」
「貴方には隠せないわよね」
それは何とも言い難い感情なのだが、恐らく罪悪感という言葉が一番近い。
十年前を振り返らせて欲しい。
この国の古くからの常識で親の罪はそのまま子に引き継がれる。大罪に対しては一族郎党皆殺しという罰もまかり通る現状を考えれば、どれだけその考えが浸透しているか分かろうものだ。
とはいえ今でこそ理不尽だと思えるが、十年前の私はそれが当然の事だと受け入れていた。
だが母への強い思いと植え付けられた常識の間で酷く思い悩んでいた時期があったのだが、そんな私に気付いた先生はこんな言葉をかけてくれた。
『親が盗人で子がそれについて知らなければ、子自体は何も悪くはない。もし盗人になる教育を施されていたとしても、それは教えた人間こそ糾弾されるべきで、まだ更正の余地のある子には救いがあっても良いじゃないか』
性善説に基づく甘い考えだと多くの人間には言われそうだが、私はこの考えに救われた。
『そもそも孫堅様は孫家頭領として間違った道は進んでいないだろうに。大きく羽ばたくために賭けに出たのも、賭けには負けたが自分よりも優れた才能を持つ娘を助けて後へ繋いだのも、頭領としてはそう間違った判断ではない。だから彼女に批判できる部分があるとしたら、賭けに負けた事、つまり彼女が弱かったという事についてだけだろうさ』
続いたその言葉は私に前を向いて歩き出す為の原動力、理不尽に対する激情と強さへの深い執念をくれた。
確かに私達親子の現在の評価は反逆罪を起こした馬鹿な頭領とその娘だ。けれどもそんな評価は、母の判断が全て正しかったと示して全部ひっくり返してやる。
そんな思いを抱けたからこそ、幼かった私でも十年間苦境と重責に抗う事が出来たんだ。
しかし私は、窮地を救ってくれた言葉を裏切るように、袁術に対して親の罪を振りかざして断罪しようとしている。
幼い子供を手に掛ける、先生の教えを裏切る、幼い頃の意志に泥を塗る、そんな罪の意識が荊棘となり、身を焼く激情と体を震わす期待に冷たく鋭い棘を刺していた。
そして私はその棘を無い物として振る舞うには未熟で、感情が表に出てしまうのだ。
「私は、孫家の人間として、袁術を殺すべきなのよね」
「疑問としなかったのは、理性でちゃんと納得しているからでしょう?」
「ええ、だってどう考えても生かす理由が無いもの」
「そう、偽帝として立ったのなら、もう生き残る術はないわ。諸侯としても袁家主流としても絶対に討つべき敵に成り果てる。取り逃したとなればそれだけで咎にすらなりかねない」
「……そう、よね」
「伯符が親の罪云々で悩んでいるのも知っていたし、先生の教えを受けて救われたというのも知っている。けれどこればかりはしょうがないのよ」
「利も理もあるんだもの、本来なら上に立つ人間として悩むのも馬鹿らしいとは、ちゃんと理解してるの」
「なら何故戸惑うの? 確かに幼子を手に掛ける事に気がひけるのは分かる。けれど行軍で散々に迷惑をかけられたし、その以前も無茶な命令ばかりを押し付けてきた、それで幾人もの兵が潰されたわ。実害が出ているのよ?」
「そうよね、孫家頭領として袁術に報いを与えなきゃいけないのよね」
「……袁家の者が持つ不可思議な魅力というモノにやられた訳ではないわよね?」
「そんなに鋭い目をしなくても大丈夫よ、魅力に囚われたとかでは決して無いわ。……ただどうしても子供は救われるべき存在だって考えが抜けないの」
「甘すぎる考えね」
「そう、よね」
「……ああもう! そんなに辛気くさい顔されると調子が狂う! 分かったわよ、袁術の元へ貴方だけを向かわせるような作戦を立ててみるわ。その後は全部貴女に任せる。どういう選択をしても言い訳が立つよう考えてもあげるから」
「本当?!」
「さっきも言った通り、私だって幼い子供を手に掛けるような真似は出来ればしたくないわ。それに貴女のその考えは決して消すべきではないと思う。多分そういう甘さも、貴女の魅力だわ」
「公瑾! 愛してるっ!」
「はいはい、私も貴女が大好きよ」