陳留に舞い戻った俺達は離れてからの経過を話しあった。
俺の報告は秋蘭と流琉が無事に戻ってきた事で成功したと知れていたので、端的に済ませる。
そして華琳から何故呉を攻めなければいけなかったのかを、何故負けたのかを聞く。
『天の流れのままに進み、孫策が死に、戦う事もなく逃げ帰ってきた』
事細かに説明されたが、事態の推移を簡潔に表すとこうなる。
つまりは以前呉にいた時と同じ事態が起き、俺という身代わりが居なかった孫策は討たれた訳である。
……胸に去来するものは、ある。
孫策はかつての仲間で、間違いなく大事な人だった。その彼女が死んで何も感じぬはずがない。
ましてや、俺が彼女の死に関与している可能性は大きい。
俺が二人の宿将を助けたから、彼女は死んだのかも知れないのだから。
初めは寂しさや申し訳無さよりも、怒りが勝った。
自身の身勝手さに九割、そして八つ当たりが一割。
誰でも想定できるような結果を想像できなかった事、自覚のないままに雪蓮よりも華琳を選んだ事、そしてそれを自覚した今激しい後悔に苛まれている事。
自分の甘さ、あまりの身勝手さに憤死してしまいそうになる。
そして未熟な事に、天の御遣い君はどうにも出来なかったのか? と、心の中で八つ当たりをしてしまった。
その事に対しても心が沈む。四百年生きた俺が子供相手に何を逆恨みしてるんだと大いに凹み、雪蓮を、いやもう俺に彼女を真名で呼ぶ資格はない。孫策を殺す原因を作った俺が何を言ってるんだと更に凹んだ。
そして理不尽な怒りが過ぎ去ってからは、罪悪感と無力感が襲ってきた。
天の流れを変える事が出来なかった事に強く打ち拉がれたのだ。
以前身を挺して庇い、管輅から孫策という存在の持つ流れを変えられたと聞いたが、結局孫策は死んでしまった。
無力感が心身を蝕み始めていると自覚しつつ、しかし明確な意志を持ってそれを跳ね除ける事が出来なかった。
そんな惰弱な俺の内心を知らず、華琳は強く拳を握りこみ、声を荒げて続けた。
「天が御使いを勝たせる為に何らかの方法で猶予を与えるとは思っていた。けれどそのやり方が恐ろしく気に食わない。
私の落ち度が発端ではあるけど、決して納得出来ない。
私が関羽を手に掛けようとした時は何度も防いだのに、建国の英雄を、偉大なる武人を路傍の小石如きに討ち取らせるの?」
華琳は憤怒の表情でそう言った。
彼女は自身の落ち度が発端と言うが、今回無断先行して首を切られる事になった許貢部隊は此度の戦闘には参加しない筈だった。
孫家との因縁と確執から逸る様子を見咎められて防衛に残されていた彼ら一味はしかし、他の部隊に散り散りに潜り込んだのだ。
規律の厳しさ正しさは他軍よりも頭二つ抜けている曹操軍だ、平時通りであればすぐに企みは発覚し、すぐさま防衛に戻れと命令され、従わなければ首が飛んでいただろう。
だが曹魏の勇名にあやかりたい、またなし崩しに軍に入れてもらおうとする輩が進軍路の村々から勝手に合流して来たりと想定外のハプニングが多かった。
それ自体もおかしな話で、今回の戦は温暖な揚州に冬の間に力を付けさせる訳にはいかない、さっさと決着をつけようと強襲したのが始まりである。
つまり今は冬入り前であり、多くの村は越冬の準備に大わらわな時期。何処もかしこも人手不足な筈にも関わらず、命を失う戦場に出てくる人間が山ほどいた。
幾ら魏が数において優勢で勝ち馬に乗れる可能性が高かったとしても、不自然な人の集まり方と言わざるを得ない。口減らしの為との理由が多かったそうだが、そもそも魏は農業改革も進んでいて口減らしなどしなくても大丈夫な程度には豊かだった。
何かが異常なのだが、だが個々に話を聞くと道理はそこそこ通っているのがまた奇妙だった。
何かがおかしいと思っていても、数は力であり、軍に併呑しないリスクを考えると否とは言えなかった。
義勇兵の手綱を手放す道理は傍目に全く無い。拒否するならば強権を発動しなければならず、身内の不和をも招いただろう。
故に華琳は天の意志を感じながらも彼らを吸収せざるを得なかった。こうなると華琳の目は不自然に集まった義勇兵に向く。
そうして許貢一味は自身達の意図しない所で色々な偶然を味方にし、己の首を犠牲にしつつも恨みを持つ孫家に一矢報いた訳である。
「邪魔者の手勢が一人でも捕まれば芋づる式だったでしょうに。
まるで太平要術の書が盗まれた日のように、不自然なまでの偶然の重なりで見逃してしまった。
そして今回奪われたのは紙切れじゃなく、何物にも代え難き好敵手の首。
ああもう! 本当に苛々するわ!」
自身が不甲斐ないゆえに好敵手を奪われ、まんまと天の望む流れに陥っている現状が腹立たしいようだ。
一頻り天に向かって罵声をかけ終わり、表面上は冷静な表情に戻った華琳は展望を語った。
「結局今回の戦いは凌がれ、我が軍の兵力と風評のみが落ちた。
本格的な冬の到来で我が軍の兵と兵站は減る一方、対して呉は冬にも関わらず利があり、呉と繋がっている蜀にも利が生まれる。
冬の間に私達の差は大分縮まる事になる。時が経てばこちらが有利になるから、春の迎えと同時に彼女達は攻め入ってくるでしょうね」
「春に迎え撃つとなると兵站、士気、状態の不利が目立つな」
「ええ、だからせめて呉の態勢が整わない内に攻めなくてはいけない。
ふん、先に休日を取っておいて良かったわ。今後休んでいる暇は一切ないんだから」
憎々しげに天を向いていた目は何時しか前を向いていた。
華琳は既に次を見据え、瞳と心に強き意志を灯すのだった。
そして二ヶ月間曹魏は休むこと無く動き続けた。
呉は孫策が討ち取られた混乱を曹魏への憎しみを基に素早く収め、国力を高める為に二ヶ月の時を費した。
蜀は魏にちょっかいを掛け続けて兵に経験を積ませ、隙あらば人と領地を取り込みつつと、魏にとって的確に嫌な事をしてきた。
徐々に領地は削られたが、華琳は最低限の防衛を行うだけに留めた。
将来の利を捨てる行為に蜀の軍師だけではなく味方の軍師をも混乱させたが、華琳は断行した。
天の流れを読みきり、次の決戦こそが全てを賭する場だと理解していたからだ。
だから兵を極力温存しながら強化し、将を鍛えて高め、作戦会議を幾度も交わして二ヶ月を過ごし、とうとうその時が来た。
春の気配はまだ遠く、冬の気配が色濃く残るそんな時期。
呉は兵こそまとめたが魏に意識を傾注しすぎて南の不安を除き切れなかった。
蜀は無傷で国力を高めたが、魏から奪った領地を上手く捌けずに動きが悪い。
だがもう一ヶ月もすれば優秀過ぎる両陣営は態勢を完璧に整えるだろう。
故に攻めるなら今だ、これ以上の待ちは彼女達に利する時間が多くなる。
「攻めるわよ」
華琳から短くも万感を込めた号が発された。
ついに来たかと魏の総員が動き出す。
今ここに最後の大決戦が始まる。
……
…
のだが、俺の役目はもうないので、すごい手持ち無沙汰です。
対蜀呉の諸々の準備は既に完了している。
周囲の人間はいざ赤壁! と気炎を上げ、適度なトレーニングなぞしている訳だが、ここまで来ると医者の仕事はない。
俺が医者以外に出来る事なんて料理、教育、訓練相手ぐらいのものだが、本職の料理人も一大決戦前に凄い張り切ってる訳で、趣味として時たま竈を借りている程度の身分としては今から手伝わせてとはとても言い出せない。
教育も今更誰に何を教える時間が有るというのか。
将の訓練相手を買って出ようにも実力を晒しても良い相手は俺と訓練すると本気以上を出す脳筋ばかり。事故が怖いのでやれない。
華琳から貰ってきた仕事も先程全て終えたので、彼女達が出立するまでの二日をどう過ごそうか今から頭を悩ませている。
不測の事態を懸念して医務室での待機を命じられているが、時間を無為にし続ける辛抱が出来なかった。
「桂花の所にでも行くか」
桂花の担当である兵站管理などは既に最終確認も済ませている。
だが俺と同じように、何か問題が起った場合に迅速に対応できるよう待機場所に一人で拘束されている筈だ。
荀彧の元に居ると文を書き残し、俺の待機場所になっている医務室から出る。
暇を潰すちょっとしたお土産を用意し、桂花のいるだろう場所に歩を進める。
「それで治療班の頭である白殿は私の所にやって来たと」
「そういう事」
「万が一に備えて私と貴方は持ち場で常時待機と厳命されていたでしょうに」
やれやれといった表情でこちらを見る桂花。
「それが現状良くない方向に響いててな。
訓練をやり過ぎても俺が何とかしてくれると思う馬鹿が結構な数いて困ってるんだわ。
だから書き置き残して避難して来た」
「私を盾にする気満々という事ですね。
しかし、白殿の美貌に惹かれる馬鹿がまだ居ますか。戦争が始まるというのに本当に度し難い事で。全くもって男というのは……」
「女性も結構いるがな」
「恋する乙女は応援します」
「……そうかい。とにかく医師たる俺が無茶を誘発している可能性があるから逃げてきた訳だ。
俺がいないと分かれば無茶はしなくなるだろ」
「ふむ、そういった訳があるなら已む無しです。ならここに持ってきたおつまみと遊技盤は悪事から匿う為の賄賂ではないという事ですよね?」
「ああ、俺はちゃんとした理由を持ってここにいる。これは仕事仲間に対する純然たる好意だよ」
「なら頂きましょう。暇を潰しながら摘むとしましょうか」
それから数人ばかり突き指やかすり傷を拵えてやってきた馬鹿野郎達を治したが、その後桂花にめちゃめちゃ説教されていた。
すると俺が桂花と一緒にいると広まったのか、怪我人の来訪は直ぐ様パタリと止んだ。
それからは誰もここには来ておらず、平穏な時間が流れていた。
決戦二日前、流石に皆気を引き締めているので桂花の出番となるような問題等は早々起こらないようだ。
俺と桂花は戦略将棋をプレイしながら、適当におつまみをつまみ、適当に話を弾ませていた。
「弓兵を下げます」
「うん、良い判断だ。なら騎馬を動かそう」
「こんな序盤に? また戦略を変えてきましたか」
なんてやり取りをしながら二時間、桂花が真剣な表情で口を開いた。
「一つ、聞きたい事があります」
「一つで良いのか?」
「……一つで良いです。
どうしてこれ程多彩で緻密な戦略を練られる人が軍議に参加しないのか。
脳筋連中の誰にも引けを取らない所か圧倒する武威を持っているのに戦闘に参加しないのか。
何故あれほどまでに華琳様と親しいのか。
折れた骨ですら半月で治す治療術は何処で会得したのか。
貴方について聞きたい事は山程ありますが、ここに至ればそれはもう良いのです。私は貴方を受け入れた。
だから華琳様についてのみ聞かせて欲しい」
それは、懇願するような声だった。
「あの人の苦悩を私は知りたいのです。
何時も何かに急かされるように生きておられる華琳さまですが、ここ数ヶ月は特にそれが顕著です。
そして二ヶ月前にあった敗戦後、何をどうしても理解できない方針を打ち立て、私達軍師を悩ませました。
領土とは国の身体です、蜀にほぼ無抵抗で差し出す理由は全く持ってありません。それなのに華琳様は防衛を放棄された。
確かに次に勝てば大きな流れとなるでしょう。ですが領土をやった蜀との対戦も此度の戦ほどとはなりませんが、それでもまた大きなものになる。
それは合理を尊ばれる華琳様が取られる選択として些か奇妙に過ぎる。
何故次の大戦にだけ注視しておられるのか。何故華琳様から何も話して頂けないのか。何故貴方にだけは話されるのか。
と、あの人についても色々聞きたい事はあります、しかし答えては頂けないと重々理解してもいます。
ですがただ一つだけ、答えて頂けないでしょうか? 華琳様は、何と戦っておられるのですか?」
「……さすが、あの華琳に我が子房と評されるだけはある」
「華琳様には幾度と無く聞いていますが、決して口にはなさいません。
胸襟を開き、弱音などを聞かせて頂いた事もあるというのに、その事については断固として譲って下さらないのです」
「華琳は君を、君達を信頼している」
「ええ、知っています。信頼だけではなく、深く愛しても下さっている」
「ああ、けれど立場が話を許さない」
「総大将たる立場が?」
「違う、君達の立場だ。君達は影響力があり過ぎる、もし国政に関わりのない市井の人間であったなら、話せた可能性はあるが」
「……何ですか、それ。いえ、だからこそ貴方には話せた? 決定権がないから?
何よそれ、華琳様の側に有りたいと努力したのに、だからこそ話して頂けないと言うの?!」
「そういう事だ。そして華琳が戦っているものだったな。それはな、天だよ。天の御遣いを遣わした天そのものが華琳の敵だ。
……これ以上は言えん、すまん」
これが俺の話せるギリギリだった。
桂花は他の者より周囲との軋轢があり、影響力が他の軍師よりも低い。だからこそここまで話せた。
「天? それは一体……って白殿! 鼻から血が!」
「気にするな、これ以上喋らなきゃ次第に治まる。
ともかくさっきの情報が戦場に赴けない俺の最後の手土産になる。上手く使ってくれ」
鼻血を拭い、そう言う。
上手く使えとは言ったが、この情報を有効活用する事は出来ないだろう。
周囲に知らしめようにも、天の采配がそれを許さないだろうから。
だが桂花にだけでも事実を伝える事が出来たのは大きい。
「……まだわからない事は多いですが、色々と理解しました。
先程の白殿と同じ苦痛の表情を華琳様は時折されていた、天との戦い、書の編纂を急がれていた、その他様々な点と点を繋いでいけば見えてくる事もあります。
白殿、有難う御座いました。相当なご無理だったのでしょう?」
「ただ痛いだけだ。痛みが霞むほど尊いものは山程あるし、戦場に出る皆の苦労に比べれば些細なもんだよ」
「鼻から血が出るほど、唇を噛み切るほどの苦痛が些細なものの筈ないでしょう。
華琳様も貴方も、今までどれほどの苦痛を噛みしめてここまで来たというのですか」
「俺の苦労なんて、華琳の苦労諸々に比べれば微々たるもんさ。
表に立てない俺は華琳の手足として動くことが叶わず、聞き役や癒し手として隣に居てやるのが精々だった」
「……貴方は、私達とは別の方向で華琳様を支えてくれていたのですね。
今私が抱いている歯痒さを、私達とは違って常日頃から感じてこられた」
強く拳を握りこみ、唇を噛みしめる桂花。
「正直、次の大戦で負ける理由が思いつきませんでした。
水軍で後塵を拝するとはいえその他で負けていません。そして曹魏四十万対蜀呉十二万という圧倒的兵力差がある。
負ける筈がないとの油断がありました」
「桂花の判断は百戦あって九十九戦において正しい。
相手が何をしてこようとも、全ての策を圧倒的兵数をもって傲然と押し潰す。それは正道だ、常道だ、決して油断じゃあない。
むしろ相手を無駄に恐れて寡兵相手に策を弄する方が失敗する、これも歴史が示してきた。
だが、この、戦いは、ぐぅっ」
頭を割るような痛みが来た。
再び鼻から血が滴り、目の前が明滅する。
「白殿っ」
くらりと床に倒れそうになった俺を桂花が慌てて支えてくれる。
そして仮眠用に置かれていたベッドまで連れて行ってくれた。
しばらくすると痛みが引いていき、なんとか会話できるまでに回復した。
以前はすぐさま引いていた痛みがここまで後を引くということは、もう何も喋らせてはくれないのだろうな。
とうとう何も出来なくなった、あまりの悔しさに知らず歯がぎしりと鳴った。
「……白殿、大丈夫です。貴方がわざわざ私に話された意も汲みました。
次の決戦、戦場に出られない貴方に代わり、私が、私達が責任をもって華琳様を勝たせますから」
そして目に強い意志の光を灯し、彼女は言い切った。
まるで二ヶ月前の華琳を見るかのようで、そこには確かな頼もしさがあった。
「期待しているよ、我らが子房殿」